Terry Riley
Cadenza on the Night Plain
Kronos Quartet
(Gramavision,1984)



モデュールと、演奏者に与えられたその自由な配置・選択というラ
イリーの音楽のスタイルに関わる発想が、「第一旋律」などと言っ
た従来の役割分担から弦楽四重奏という古典的形態を解放している。
しかし反対に、ライリーの音楽の非西洋的本質以上に前面に出てい
る伝統的「弦楽四重奏曲」としての素晴しい効果は、クラシカルで
さえある。この奇妙な二面性と、流麗と緊密の共存が魅力である。

即興的選択と配置がもたらすものは、「あらかじめ書かれた作品だ
が、さまざまな解釈を許された」音楽であり、「演奏の度に再構成
されうる」* ことだけにはとどまらない。たとえその一つのヴァー
ジョンが録音されたディスクを通して、同じ演奏を繰り返し聴くと
いう体験であっても、そこにはスリリングな創意の瞬間を見て取れ
ることは言うまでもないのだから。

*
Mark Swedによるライナーノーツより引用者訳。

トラック1、曲中何度となく現われる冒頭のテーマ。全体を統一す
るという論理的機能などとは別のところで生理的快楽を覚えるのは、
繰り返しのよろこびというミニマル・ミュージック一般の特質だが、
即興ゆえの予測できない自在さ**がそこへ加わる時、それはどんな
結果となるのか、興味が尽きない。

**
前掲のライナーノーツによると、実際にはすべて偶然に依存した演奏ではなく、
「書きかけ・未編集の段階のリハーサルで得られたクロノスの演奏結果と提案
が最終的な作品の形に影響を与えた」という(同訳)。即興の残像を伴う、記
譜された音楽だと考えればいいだろうか。




同じ演奏者による「ライヒの『ディファレント・トレインズ』とこ
んなにも大きな違い」なのは当然のことなのであって、無意味な比
較である。それはクロノス・カルテットの演奏の可能性のレンジの
広さを今さらながら納得することにはなっても。むしろここで聴く
べきは二人の作曲手法の違いである。あらかじめ完全に書かれたラ
イヒの、そのサンプリングされた言葉の抑揚や音高をトレースする
際立った忠実度を聴くよろこびと、ライリーの瞬間の驚き。クロノ
スの演奏と同じだけのインパクトを持つ、傑出した二人の作曲家の
アウトプットの差異を浮かび上がらせる。全く違う響きの、しかし
同じ編成による二つの音楽であることを思い起こさせるのである。

1999.12.28 1999 shige@S.A.S.




・h o m e・ ・minimal・ ・Terry Riley・