ひろしま市民新聞
100号記念にあたって
(1979年5月10日発行)

労働者党広島県委員長  松江 澄

七〇年一月第一号を発行した「労働者新聞」を継承した「ひろしま市民新聞」がこの五月号で一〇〇号を迎えた。一口に一〇〇号といいながらその間九年半、その一号に広島の労働者、市民とともにわが党が歩んできた闘いと探求、苦しみと喜びの一こま一こまがある。
 ふりかえれば六一年、誤った政治方針と官僚主義の日本共産党と決別して社会主義革新運動を結成して以来、ただ一途に共産主義運動の革新と統一・社会主義への新しい道を探し求め、六七−六八年総結集をめざして共産主義労働者党を創りながらもまもなく頭した「左翼」急進主義潮流と闘って再び分離し労働者党全国連絡会議をつくったのが六九年だった。次第に堕落を深める日本共産党と一層拍車をかける「左翼」急進主義とをきびしく批判しながら、独自の道を模索するわれわれの決意と苦悩が第一号主張「奇妙な対立と七〇年代闘争の新しい旗印」の行間にまざまざとある。
 その時から今日まで、それは広島県委員会にとって出発以来いわば第二の時期に当たる。この時期は、忍びよる世界恐慌を前に急激な高成長を遂げた日本資本主義が帝国主義世界体制の再編のなかでその強力な一環を形成し、ひきつづく七四−五年恐慌を通じて一層独占・集中をすすめるとともに「中道」主義で補完しつつ反動的な政治体制へと急いだ時期であった。またこの時期は、資本の大巾上昇をかちとった春闘が恐慌ー不況のなかでの資本の攻撃によってたちまち連敗し、ひきつづく経済危機のもと強力な合理化攻撃をタテにした労働組合の体制内抱え込み戦略に屈し、労働組合運動がかつてない重大な危機に直面した時期でもあった。この時期わが党は大衆運動に根ざした闘いのなかで県市議選に勝利し、労働運動研究会と広島市民会議を運動の二つの柱として追求した。
しかしその後運動の停滞のなかで七五年統一地方選挙では県議選に敗北したが、自らの力でかちとった党組織単一化と新しい政治方針に励まされて活動を再開し、今春の選挙では全党全後援会員の必死の努力で再び県市議選に勝利することができ新たな出発点に立つことになった。この間「市民新聞」は困難をおかして発行をつづけ、近くは新しく若い力を含めて闘いの先頭に立った。
 いま広島県委員会にとって第三の時期が始まろうとしているがそれは日本の階級闘争と革命闘争にとって真に重大な時期でもある。日本帝国主義はその戦後発展の総決算として「有事立法」、「元号法制化」、一連の「治安立法」などを威丈高に掲げその意図をかくそうとはしない。「中道」主義もまたその衣をぬぎすて体制の側に立つことを公然と宣言してはばからず、勢いを得た右翼もまた活発に跳梁し始めている。戦後帝国主義の管理「民主主義」は経済的政治的危機のもとでいまようやく公然たる反動化へふみ出そうとしている。しかしそれを迎え撃つべき労働組合運動と民主主義運動は上から押さえ込まれ社共また闘いを放棄し、「革新」勢力もまた戦後の総決算を強いられている。
 こうした情勢のもとでいま求められているのは、既存の運動と組織のワクを超えた闘いとその連帯である。職場に「城」を創る労働者が各戦線で連帯しつつ地域に「トリデ」をきずく市民、住民の運動と提携し、誠実な知識人、科学者とも手をたずさえて反独占反権力の民主主義戦線を再構築して闘う時期である。いま必要なのは誰にでも通用することばの「民主主義」ではなく、また無視することで闘いを放棄する観念的な「革命論」でもない。いま問われるべきは支配階級の「民主主義」か、労働者・人民の武器となる生きた民主主義かなのだ。それは「戦後民主主義」を総決算する闘いであるとともに、労働者・人民の徹底した民主主義=社会主義への断呼たる闘いでもある。
 わが党が今日まで運動に寄与し得たことはほんの僅かであるかも知れない。しかしそれをけっして手離すことなく握りしめ、まだ解決されていない多くの分野にむかって広島の労働者、市民諸君とともに正面からとりくむことにこそわが党の任務がある。そのために市民新聞がその武器として一層その内容を充実しますます多くの読者と結びつき、生きた機関紙として発展することを心から期待する。
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