八一ヵ国声明はいまでも有効か

―全般的危機論と平和共存論―

松江 澄

労働運動研究 19845月 No.175

 

八一力国声明について

一九六〇年十一月、十月社会主義革命四三周年の祝賀に参加した全世界の各国共産党・労働者党代表者の会議がモスクワでひらかれた。この会議は、当時の国際的発展および共産主義運動の当面する諸問題を討議し、全員一致で声明と世界各国人民へのよびかけを採択した。

この声明は、一九五七年に発表された社会主義諸国の共産党・労働者党代表者会議のモスクワ宣言とともに、特別に重要な意味をもつものとされた。それはかつてなく多くの国国の代表が参加したというだけでなく、その内容が、一九五六年にひらかれたソ連共産党第二〇回大会におけるフルシチョフ報告の画期的な提起――新しい情勢のもとでの戦争の可避性と革命の平和的移行――を含むものであったからである。またこの声明は、社会主義の勝利をめざす時代的な発展についても、かつてなく明確なものであるという意味でも重視された。こうして、この声明は以後長く各国共産党と世界の共産主義者に大きな影響をあたえつづけてきた。日本においても、一部の共産主義諸党派や共産主義者にとってはいまなお拘束的な影響力をもちつづけている。かつては「宣言・声明」を支持するか否かが「正統派」共産義者としての踏絵にさえされるほど重要な基準とされ、「総路線」と略称されていた。現に私も、部分的には保留しながら十五年ほど前まではほとんどそう思っていた。

しかし、その後の世界における歴史的発展は、この声明でのべられているような楽観的なものではなかったし、この声明を無条件に支持する人々もいくつかの点で限定をつけなければならなくなった。たとえば中ソ対立がそれである。この声明では、「社会主義陣営は分裂するかも知れないという帝国主義者、変節者、修正主義者どもの期待は砂上の楼閣であって、結局裏切られる運命にある。」と強調している。しかし、まさにこの声明直後から中ソの対立がはじまったのだ。以後もはや論争とはいえないほどの非難の応酬となり、国境では軍隊が対峙するまでになったが、いまようやく国家的和解――党的和解ではなく――が始まろうとしている。そのうえ中ソばかりでなく、イタリア共産党とソ連共産党の間で激しい批判と非難が交わされ、また最近ではスペイン共産党とソ連共産党との対立が深まるなど、全体として国際共産主義運動が強固な統一を堅持しているとはいい難い。それこそがいまの運動にとって最大の問題なのだ。統一について従来の方法とは異なる新たな方法と形態を模索しながら、「万国の労働者団結せよ」と呼びかけたマルクスに還って、ともに闘う運動の再統一を追求することは何より重要な課題である。

また、この文書を事実に照らして再検討するときなお多くの問題があるが、とくに重要なのは資本主義の現状と展望についての分析である。この声明では「資本主義世界体制は衰退と腐朽の深刻な過程にある」といい、多くの指標をあげて資本主義の全般的危機の発展が新しい段階にはいった、と強調している。これについてソ連科学アカデミー世界経済・国際関係研究所は、五〇年代半ばからはじまるとされたこの時期を、資本主義の「戦後最大の危機的震撼の局面」だとのべている。(「資本主義の全般的危機の深化」一九七六年)そればかりではない。この声明によれば、「多くの資本主義国では生活水準は依然として戦前より低い。…・・資本主義諸国では、若干のもっとも進んだ資本主義国をふくめて、大衆の窮乏がとくにはなはだしい、経済的におくれた地城がいまだに存在しており、これがひろがっていく場合さえある。」とのべている。しかし、まさにこの時期から数年のうちに日本では六〇年代高成長がはじまり、世界的にも技術革新の疾風のような発展がつづくのである。もちろん、それは結局のところ資本主義の危機をいっそう深めるのではあるが、少なくともかなり長期にわたって経済の高揚をもたらしたことは誰しも否定できまい。またその結果、資本主義国において労働者を組織して闘ううえでいま問題になっているのは「大衆の窮乏」のゆえではなく、生活水準の「向上」から生れる「中産階級」意識なのだ。

どうして、このようなことがおこり得るのか。正確で科学的なはずの共産主義運動の分析が、あまりにも事実と適合していないことを見のがすわけにはゆかない。もちろん私は、この文書のすべてがまちがっているとか、すべてが古くさくなってしまったとかと、いうつもりは毛頭ない。それどころか、このなかには今日何よりも重要な核戦争阻止をめざす平和擁護闘争の問題や、新たな探求の出発点となった革命の平和的移行の問題がある。私がとくに指摘したいのは、この文書の基調と方法のなかにある観念的な誇張から生まれる独善的な楽観主義と社会主義万能論なのだ。私がとくにいおうとしているのは、社会主義それ自体についての「楽観」主義的展望――この声明では.「ソ連は共産主義社会の全面的な建設を成功のうちに遂行しつつある」とのべているが、この点についてはすでに『労研』一月号で批判した――だけではない。それよりも、社会主義勢力・反帝勢力と帝国主義勢力との力関係についての見方である。声明は、帝国主義にたいする社会主義の優位を誇りつつ、われわれの時代のおもな特徴は、社会主義世界体制が人類社会発展の決定的な要因に転化しつつあると強調し、「こんにちの時代における人類社会の歴史的発展のおもな内容、おもな特徴を決定しているものは、社会主義世界体制、帝国主義に反対してたたかっている勢力で、社会の社会主義的変革のために闘っている勢力である」とのべている。ここにはジグザクの曲折を経ながらも、貫ぬかれる歴史的発展の法則的展望と歴史的現実との混同がある。この文章の根拠となっている「よその旗をかかげて」(一九一五年)のなかでレーニンが強調しているのは、他の時代と区別する一つの時代の特徴について、どの階級の運動がありうべき進歩の原動力であるかというマルクスの方法なのだ。ここではまさに「ありうべき進歩の原動力」と、すでに事実として存在する勢力との希望的とりかえがある。

こうした問題をさらにくわしく検討するためには、この声明で主要な方法論となっている「資本主義の全般的危機」論と、「平和共存」論とをあらためて再追求する必要がある。

 

全般的危機とは何か

 

資本主義の全般的危機とは、独占資本主義の危機というだけでなく資本主義的生産様式そのものの危機であり、一国のみの危機でなく世界的な規模での資本主義の危機である。といわれている。なかでももっとも重要なものとして指摘されているのは、それが資本主義の危機というだけでなく、資本主義の死滅=社会主義への移行という世界革命過程としてとらえられている点である。資本主義の全般的危機は資本主義体制全体の危機であり、経済と政治とイデオロギーとすべての側面をとらえ、死滅しつつある資本主義と成長しつつある社会主義との闘争を特徴とし、その主要な指標としては、「世界が資本主義体制と社会主義体制に分裂し、つぎつぎと新しい国が資本主義体制から離脱して社会主義の道に移行し、社会主義との経済競争で帝国主義の陣地が弱まるところにある」と説かれている。(ソ連「経済学教科書」一九六二年)ソ連ではこの学説の基礎はレー二ンにあることが強調され、「帝国主義論」そのものが全般的危機論でもあるとされている。レーニンは、最大の歴史的危機、世界的危機あるいは世界資本主義全体の危機などといっているが、いまいわれているような内容をもつ全般的危機を一定の概念として直接つかったことはない。もちろんレーニンは、帝国主義を死滅しつつある資本主業=社会主義の前夜と規定することによって、死滅=移行を展望している。しかし、レーニンが世界革命の発展についてもっとも重大な関心をもっていたのは、ロシア革命につづくヨーロッパ革命とくにドイツ革命であった。彼はロシア共産党は第七回大会(一九一八年)における綱領改正についての報告のなかで、世界が社会主義にうつりはじめる第一歩をふみ出したばかりで、社会主義にたどりつくまでにまだどれほどの過渡段階があるかを知らないし、知ることができないとのべて、次のように指摘している。「これは(過渡段階)ヨーロッパの社会主義革命がいつ本格的にはじまるか、またこの革命がその敵を片づけ、社会主義的発展の坦々たる道に出るのか、どれほどたやすく急速であるか、あるいは遅々としているかによって.きまることである」と。レーニンにとって世界資本主義の死滅=世界社会主義への移行は、ただ一般的に社会主義へ移行する国が多くなるだけではなく、まさに帝国主義の心臓部であったヨーロッパ資本主義の崩壊をこそ、危機の深化と死滅=移行の最大の過渡としていたことがうかがわれる。

しかもレーニンは、そうした新たな画期に至るまでの資本主義が、次第に「腐朽と衰退」の道をたどるとはけっして考えていなかった。それは「帝国主義論」のなかでのべられている有名なテーゼによって明らかである。「この腐朽の傾向が資本主義の急速な発展を排除すると考えたら、それは誤りである。いや個々の産業部門、ブルジョアジーの個々の層、個々の国は、帝国主義の時代に程度の差はあれ、この二つの傾向のうちあるときは一方を、あるときは他方をあらわすのである。そして全体として資本主義は以前よりもはるかに急速に発展する」と。そうして歴史は、六〇年代以降の世界資本主義の腐朽と急速な発展によってそれをみごとに証明した。

しかしスターリンはそうではない。彼は第十五回大会報告(一九二七年)で「十月革命が勝利して世界資本主義体制からソ同盟が離脱した結果としてあらわれた資本主義の全般的な根本的危機」とはじめて規定したが、それは第十四回大会(一九二五年)ですでに準備されていた。

「わが国でプロレタリア革命が勝利して以来、膨大な販売市場をもち膨大な原料資源をもつ膨大な国が資本主義の世界的体系から脱落したこと、そしてこれはもちろんヨーロッパの経済状態に影響せざるを得なかったということである。世界の六分の一を失うことは、資本主義ヨーロッパにとっては自分の生産を縮小しこれを根本からゆるがすことを意味する」と。ここですでに端緒があらわれているように、スターリンは全般的危機の深さの標識を市場問題に集約しているが、それがもっとはっきり表明されたのは戦後発表された「ソ同盟における社会主義の経済的諸問題」(一九五三年)であった。スターリンはこのなかで、対立しあう二つの陣営が存在することの経済的帰結は全体を包括する単一の世界市場が崩壊して、たがいに対立する併行的な二つの世界市場が存在することであると主張している。その結果、主要な資本主義国が世界資源にたいして力を加える範囲が減少し、市場条件の悪化と諸企業の操短が増大するが、「世界市場の崩壊にともなう世界資本主義体制の全般的危機の深化ということは、じつにここにあるのである」と断言している。これはやがて全般的危機の第二段階として定式化される。そのうえ彼は、こうした全般的危機の深化のもとで、自らが戦前にのべた「資本主義の相対的安定」と、すでにあげたレーニンの「資本主義の腐朽と発展」に関するテーゼは、第二次大戦にともなって発生した新しい諸条件のために効力を失った、と規定している。

結局、レーニンとスターリンの違いはどこにあるのか。それはレーニンが帝国主義の心臓部であるヨーロッパ資本主義の崩壊=社会主義への移行を、死滅に至る資本主義の危機の深化の質を決定する最大の指標としているのにたいして、スターリンは二つの体制の成立と単一世界.市場の崩壊にともなう併行的な二つの市揚の量的な対抗関係を、その重要な指標としている。またスターリンは、資本主義の腐朽と発展をレーニンのように弁証法的な矛盾としてではなく、形式論理的な対立におきかえている。それはまた、市場問題をその地域的な平面ではかることによって、最近の資本主義市揚に見られるような重層的なからみ合いを見おとすことになる。

八一力国声明の立場が、レーニンではなくスターリンの立揚に立っていることは明らかである。それは全般的危機の段階論でいっそう鮮明となる。

 

全般的危機論と段階諭

 

すでにふれたように、段階論がでてくるのは第二次大戦後、スターリンの定式化からであった。第一段階は十月社会主義革命によって、ロシアが資本主義世界体制から革命的に離脱したことからはじまった。それは単一の世界体制が崩壊し、以後世界社会主義革命の発展と資本主義の死滅に至る過渡期.の最初の第一歩がはじまったことを意味していた。第二段階は、社会主義が戦中戦後の闘いを通じて拡大発展し、社会主義世界体制が形成されることによってはじまったと定式化されたが、その内容はさきのスターリン論文で明らかである。そうしていよいよ第三段階が登揚することになる。

すでに指摘したように、この声明は資本主義の全般的危機が新しい段階に入ったと断定しているが、その指標としてのべられているのは、「人類の三分の一を包含するヨーロッパとアジアの多くの国々での社会主義の勝利、社会主義のためにたたかっている全世界の勢力のたくましい成長、社会主義との経済競争における帝国主義の地位の不断の弱化、民族解放闘争の新しい大きな高まりと速度を早めつつある植民地体制の崩壊、資本主義世界経済体制全体の不安定性の増大、国家独占資本主義の発展および軍国主義の成長の結果としての資本主義の矛盾の激化、独占体と民族全体の利益とのあいだの矛盾の深刻化、ブルジョア民主主義の圧縮、専制的およびファッショ的な統治方法への傾向、ブルジョア的な政治とイデオロギーの深刻な危機」である。

私があえてこの長い文章を引用したのは、ここでのべられていることは、一部を除いては現在もなおつづいている歴史的一般的な傾向としてはそのとおりだからである。問題なのは、これが五〇年代半ばからはじまった新しい段階を画する指標とされていることなのだ。世界経済・国際関係研究所の前記論文や「経済学教科書」によれば、これこそ第三段階であるらしい。彼らによれば、この時期の特徴は、資本主義世界体制全体の経済的政治的不安定性の深まりと支配の政治装置の内的解体の進行であり、「社会主義世界体制の偉力が嵐のように増大し、全面的に強化し、世界的発展の決定的要因に転化した」ことだと主張している。

しかし、果して声明でのべられていることが、この時期の画期的な指標になり得るであろうか。またこの段階は、いまでもつづいているというのであろうか。もしそうであれば、七〇年代後半から八○年代にかけてはじまったとされている資本主義の新たな危機は、第四段階なのか。それともそれは、別に新しいものではないというのであろうか。こういうやり方で分析すると、今後とも社会主義世界革命の全面的な勝利までは、おそらく数え切れないくらいの段階が生まれることになる。危機は階段をのぼって上昇する。全般的危機論は、スターリンによって段階論と切り離しがたく初めから結びつけられている。問題なのは、一つの時代ではなく、そのなかの十数年あるいは数十年ごとに段階という画期をつくり、発展の算術級数的な上昇を確認することによって、しばしば歴史的な現実を数条的な段階に閉じこめる観念的な傾向を生むことである。いったい、いまの国際情勢のなかで、「社会主義世界体制が人類社会発展の決定的要因に転化しつつある」と.断定できるのか。それとも、この声明が発表された六〇年代にはそうであったというのか。もしそうであるならば」当時より二〇年も経った今口では後退していることになる。なかなか決定的要因にならないからこそ、核戦争の危機という現在のきびしい情勢を懸念し、「社会主義世界体制の偉力が嵐のように増大」するのでなく、長期にわたって経済停滞がつづき、ポーランド問題などによってその「偉力」がそがれることを憂慮しつつ闘っているのではないのか。社会主義の「優位」については、今は亡い長谷川さんがすでに『労研』三月号でくわしく展開している。いっそう問題なのは、その「優位」が「決定的要因」にまで高められていることなのだ。

こうしたとらえ方の根底にあるのは、社会主義への絶対信仰とでもいうような非科学的で先験的な見方であり、また帝国主義と社会主義の力関係についての安易で力学的な見方である。社会主義は常に発展し、社会主義が発展すればそれだけ帝国主義の力は弱まる、という見方は、資本主義の腐朽や市場問題でスターリンが分析したような量的で直線的なとらえ方である。しかしわれわれの前には、まだまだしぶとい経済力とたくましいイデオロギーでまき返しをねらう帝国主義の現実の力があり、ありうべき進歩の原動力を内蔵しながら、必すしもそのカを全面的に発揮できない国際労働者階級とその所産としての社会主義世界体制がある。いま核ミサイルの問題をはじめとして、ヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカなど世界の全域で反帝革命勢力・社会主義勢力と帝国主義勢力とは対立と抗争のさなかにあり、あるときは情勢が社会主義に有利に、またあるときは帝国主義に有利に動きながら、そのジグザグの曲折のなかで帝国主義の矛盾は深まっている。私たちは.全世界の解放勢力が充分隊伍をととのえ、注意深く、しかし断固として闘えば、きっと敵を圧倒して世界的発展を決定できるときがくるという科学的な確信に支えられて闘っている。そのために必要なのは、そのときどきの情勢の際だった特徴を明確につかみ出すことであって、常に増幅されて教条となる段階論ではない。

歴史は短期間にではなく、長期にわたる変化と発展のなかから新しい画期を押し出してくる。もしかりにも新たな段階というなら、それはまさしく帝国主義の心臓部である先進資本主義諸国のどこからか、帝国主義戦線の一角を突破するときであろう。そうしてそれは、われわれ日本をはじめ発達した資本主義諸国の労働者階級に課せられた、世界革命をめざすもっとも重要な任務である。

 

全般的危機論と平和共存論

 

全般的危機論には、すでにのべたことと関連してもう一つ重要な問題がある。それは、資本主義の危機の深化と社会主義の影響との関係である。全般的危機論者の多くは、常に社会主義世界体制と資本主義世界体制との対立と矛眉こそ情勢にとって第一義的で決定的なものであり、それが資本主義の危機を深める重要な原因であると主張する。周知のように、帝国主義には三つの固有の基本矛盾がある。それは本国における階級対立と矛盾であり、帝国主義的支配と植民地・従属国の民族との対立と矛盾であり、さらには不均等発展から生まれる帝国主義相互の矛盾と対立である。帝国主義の危機とは単に経済的な危機だけでなく、こうした帝国主義に内在する固有の矛盾が深まることでもある。問題は、このような内在的条件と体制間矛盾といわれる外在的条件とが、どう作用しあうのかということである。世界経済・国際関係研究所の前記論文によれば、全般的危機の発生および深化の過程を、資本主義に内在する諸矛盾の尖鋭化に由来するものとして確認しつつ、資本主義をとりまく外在的条件が変化ときりはなせないことを強調し、二つの条件の相互作用を重視している。しかし重要なことは、その相互作用がどのようなものであるのか、いずれが本質的で第一義的なものなのかということである。事物の発展=変化が自然界と人間社会であるとを問わす、内と外の原因の相互作用から生まれるという自明の前提のもとに、なお変化にとって本質的なものはその内部的原因であり、外部的原因は内部的原因をとおしてのみ変化に作用するというのが、唯物弁証法ではないのか。もしそうであれば、決定的なのは資本主義に内在する諸矛盾の深化であり、体制間矛盾の影響と作用というならば、それが基本矛盾にどのように作用し、どのように深化させるの.かということこそ追求されなくてはなるまい。しかしほとんどの場合、それが明らかにされることなく外在的条件――社会主義世界体制の優位と決定力――が第一義的に説かれている。しかし、外部の原因を第一義的なものと主張する人々のとらえ方は、平和共存論の場合にも変りはない。いや、そもそも平和共存論と全般的危機論は同じ腹から産まれた双生児なのだ。

ソ連では全般的危機論がそうであったように、平和共存論もまた「レーニンの原則」であるとたたえらられている。しかし実際には、全般的危機論がそうではなかったように、平和共存論もまた「レーニンの原則」であるとたたえられている。しかし実際には、全般的危機論がそうではなかったように、平和共存論も「レーニンの原則」ではない。もしレーニンの原則というなら、それはあらゆる場合に平和を追求することである。人間の命をまもるためにも、若い社会主義の命をまもるためにも。レーニンに率いられたソビエト政府が、権力獲得後最初に出したのは「平和にかんする布告」であったことは、広く知られている。マルクスによって組織された第一インターナシヨナル以来今日に至るまで、国際労働者階級とその所産である社会主義は一貫して平和のために闘ってきた。何故ならば、人間の解放にとって何より重要なことは、人間の生命と人間存在そのものを抹殺する戦争に反対することであり、マルクスが指摘するように、労働が支配する新しい社会の国際的なおきては平和であるからだ。しかし、戦争に反対し平和を擁護することと、平和共存とは同義語ではない。平和共存とは文字どおり社会主義と資本主義という二つの異なった体制が、戦争ではなく平和的に共存するという状況を意味するものであるが、いまではそれが政治的思想的な一つの体系として定式化されている。

レーニンは革命後まもない一九一八年「戦争と平和に関する報告演説」のなかで、平和が戦争のための息ぬきであり、この息ぬきがどんなものになるか分らないが、「一時間でも息ぬきをとらえよ、これは遠くはなれた後方との連絡をたもち、そこで新しい軍隊をつくり出すためである」と強調した。当時一般的には、社会主義共和国が資本主義的包囲のなかで存立することは、あり得ぬこととさえ考えられていた。しかしそれが、ブレスト・リトウスク条約で実現.されたのだ。レーニンは、「われわれは息つぎを獲得しただけでなく、資本主義諸国の網の目のなかでわれわれの某.本的な国際的存立をかちとった新しい一時期を獲得している」ことを確認した。(「わが国の内外情勢と党の任務」一九二〇年)それは資本主義的包囲のなかで、最初の社会主義権力がかちとった最大の平和であった。それが一時的なものであれ、レーニンはその平和を最大限に活用した。平和によるソビエト・ロシアの国際的存立は、さらに諸国との平和的通商へ移行することに向けられた。しかしレーニンにとって、資本主義のもとで戦争は絶対に不可避なものであり、帝国主義戦争を内乱に転化して革命をめざすことこそ戦争の根を断つことでもあった。

スターリンが平和共存という概念をはじめてつかったのは、第十四回大会「(一九二五年)の政治報告で、あった。この時期、資本主義は第一次大戦後の相対的安定のなかにあった。彼は、一時的な力の均衡が端緒となった平和共存の意義を、二点にわたって強調している。その一つは、アメリカがヨーロッパの戦争をのぞんでいないということであった。その理由として、アメリカはヨーロッパが今後ともアメリカから金を借りたいのなら、「へんな気をおこさすにじっとおとなしく働き、金をかせいで借金の利子を払え」と望んでいるからだとスターリンは指摘する。また彼はもう一つの理由として、さきにのべたように(一二ページ)ソ連という膨大な市場が資本主義の世界的体系から脱落したことが、ヨーロッパの経済状態に大きな影響をあたえていることを強調して、次のようにのべている。「わが国からの、わが国の市場と原料資源からのヨーロッパ資本のこの疎隔をおわらせるために、ある期間われわれとの『平和共存』に同意し、わが国の市場と原料資源にわりこむことが必要になった。それ以外にヨーロッパのなんらの経済的安定を達成することはできない」と。しかし、まもなくその相対的安定は過去のものとなり、ソ同盟への帝国主義的急襲と干渉準備の時期に変ったとき平和共存は破れた。結局、スターリンにとって平和共存は、資本主義の止むを得ぬ経済的必要――とくに市場の要求――から生まれるものであり、その限りで社会主義はそれを存分に利用することであった。それはまた、全世界プロレタリアートのとりでであり、一国社会主義建設を急ぐ社会主義ソ連を帝国主義の攻撃からまもることでもあった。ソ連の平和をまもって帝国主義と闘うことは、国際共産主義運動の第一義的な課題となったのである。その後スターリンは、戦後書かれた「ソ同盟における社会主義の経済的諸問題」で説いたように、戦前と異なる戦後平和運動の幅広い民主主義的な性格を認めつつ、なお、戦争の不可避性をとりのぞくためには、帝国主義そのものを絶滅する以外にない、と断言せざるを得なかった。

そうして平和共存論は、まさにその帝国主義が存在しながらも、戦争の不可避性をとりのぞくことができるという情勢と条件の新しい発展のなかから定式化されたのである。

 

世界革命と平和共存

 

ソ連の著名な理論家グラシンは、「平和共存を戦術として理解することはレーニン主義と何の関係もない」と主張し、平和共存論をレーニンに由来する深遠な理論としてとらえている。まったくそのとおりに違いない。両体制の平和共存という状況概念のなかに、世界革命への道程を含むイデオロギー的な諸課題を投入し、一つの理論的攻治体系として定式化したのが平和共存論である。

声明はのべている。「諸国家の平和共存は、修正主義者がいっているように階級闘争を放棄することを意味しない。社会制度の異なる諸国家間の平和共存は、社会主義と資本主義の階級闘争の「形態である」と。ここでは、平和共存は単に世界の平和をまもるうえで重要な役割をになっているばかりでなく、社会主義と資本主義との階級闘争の一形態――両体制の階級闘争とは他にどんな形態があるというのだろうか――だと断定している。これはたしかに、本来階級闘争の第一線に立つべき人々が、平和共存を支持する運動を第一義的にすすめるうえで、ある種の免罪符となっているようだ。しかし、国際的な階級闘争というなら、それは帝国主義ブルジョアジーと国際労働者階級との闘いであり、国際労働者階級の所産である社会主義諸国の労働者階級と勤労人民は、何よりもこの闘いの先頭に立って闘うべきである。ところが両体制の平和共存は、社会主義国と資本主義国とが――つまり国と国とが――戦争をしないで平和に共存するということなのだ。ここではいつの間にか、階級たい階級の問題が国家たい国家の問題にすりかえられている。ところが階級と国家とは全く異なった質なのだ。そのうえでなお平和共存が国際階級闘争――世界革命の極めて重要な主柱だというのなら、それはかつて強調された「追いつき追いこせ」路線と無関係ではないし、また全般的危機論ときりはなすことはできない。ソ連を中心とした社会主義国と、アメリカを中心とした資本主義国とが平和に共存するなかで、資本主義との経済競争に勝利するために、経済の全面にわたって資本主義に追いつき追いこせという主張はたしかに一つの定式である。しかし重要なことは、それが国際的な階級闘争と世界革命の中心ではないということである。

世界革命をになうべきもの、とりわけ帝国主義の心臓部である先進資本主義国の権力を打倒し、社会主義的変.革を闘いとる任務を遂行するものは、その国々の労働者階級と人民であり、抑圧された民族を完全に解放して新たな社会進歩を闘いとるものは、その国の労働者・人民である。そこで社会主義国の労働者・人民は、帝国主義が勝手きままに振るまわぬよう、また帝国主義を牽制し、社会主義との平和共存を強制することによって、世界革命の発展に寄与することができる。それはまた戦争という脱出口をせきとめることによって、資本主義体制内部の階級矛盾と、新植民地主義支配下の民族矛盾を深化させることで、間接的に世界革命への重要な貢献を果すことができる。それは、帝国主義による反革命の輸出を牽制するうえで「革命の輸出」を抑制する限度内での重要な任務である。世界革命の主力は帝国主義国の労働者階級であり、民族解放闘争はその最も強力な同盟軍である。そうして、すでに解放された社会主義国はその基地であり、とりでである。

また平和共存は、世界平和擁護闘争の発展のうえでも重要な位置を占めている。世界平和擁護闘争において、決定的な役割を果すのはもちろん国際労働者階級と平和を愛する世界の人民である。彼らは帝国主義ブルジョアジーの手から戦争の武器――そのもっとも重要なものとしての核兵器――を奪うことをめざして闘っている。こうした反核反戦運動の発展に呼応して社会主義国とりわけソ連は、力の対峙による平和共存にとどまることなく、政策と行動のあらゆるイニシアチブを通じて、まず核兵器の使用と核ミサイルの配備を止めさせ、さらに進んで全面的な軍縮に向って全力をあげなければならぬ。それは、すでに権力を奪取した労働者階級が、その有利な条件を生かして世界平和のために寄与できる唯一の貢献である。したがって世界の平和を維持し、国際関係の平和的発展をすすめるうえでも、両体制の平和共存は重要な役割を果すことになる。結論として両体制の平和共存は、世界革命にとっても世界平和擁護闘争にとっても、国際労働者階級と世界人民の闘いの重要な一翼である。世界革命や世界平和擁護闘争が平和共存に従属して位置づけられるべきではなく、まったく反対に、両体制の平和共存こそが世界革命と世界平和擁護闘争に献身する社会主義国の一つの重要な任務であるということができる。もしそうではなくて、両体制の平和共存が世界情勢と世界平和の中心であるとするならば、それは米ソの対立と和解に国際関係のすべての中心を見るブルジョア,ジャーナリズムと異なるところはない。

いま説かれているような平和共存についての体系的定式化は、両体制の経済競争についての体系的定式化としての全般的危機論とけっして別なものではない。両体制の平和共存=両体制の経済競争=追いつき追いこせ=社会主義の勝利という図式は、ソ連を中心とする社会主義世界体制の命題とはなり得ても、世界革命の中心的命題ではない。平和共存論と全般的危機論とは、相互補完してソ連第一主義を「理論」化している同腹の双生児である。世界革命の中心部隊は国際労働者階級であり、世界平和擁護闘争のにない手は平和を愛する世界各国の人民である。外部的条件か内部的条件かという命題は、ここでも重要な意味をもっている。国際情勢の発展とりわけ帝国主義を制約する社会主義の力があれば、それはわれわれの闘いにとってきわめて有利な条件となる。しかし、なおわれわれにとってもっとも重要であり、日本の変革を決定するのは、いうまでもなく日本における階級闘争と革命闘争の発展である。もしそうではなくて、社会主義世界体制による世界的発展の決定力こそが現代の変革=日本の変革にとっての最大の条件であるとするならば、それはすでにマルクス主義ではない。何故ならばマルクス主義は、闘争の発展を決定ずるのは、その内部的矛盾の尖鋭化以外の何物でもないという立揚に立っているし、日本の社会主義革命は、ソ連を中心とした社会主義世界体制の力と影響によってではなく、日本における階級闘争によってのみ決定されるという立場に立っているからである。  

 

 

読者便りから

松江氏の平和論に賛成

『労研』五月号、松江澄「八一力国声明はいまでも有効か」を大層興味深く読みました。常常、一九六〇年に書かれた八一ヶ国声明が単に時代遅れの認識になったという歴史主義的懐疑論でだけではなく、その戦略図式に横たわる原理論に大きな不十分点を感じて来た者として、そこでの全般的危機論と平和共存論が、レーニンのではなく、スターリンの平板で誤った図式にもとついているとの指摘を読み、その通りだと思いました。そして、この上に立って、勿論、清算主義的にではなく、「新しい情勢のもとでの戦争の可避性と革命の平和的移行」という、ソ党二〇回大会以降の基本テーゼをも、歴史過程と論理内実にもとづけて、肉づけて、あるいは徹底的に批判的再検討をほどこして欲しいと考えます。

ところで、平和についての原則的立言について、大変デリケートな点ではありますが、いま少し説明がいるのではと思います。松江さんは、

A)「人間の解放にとって何より重要なことは、人間の生命と人間存在そのものを抹殺する戦争に反対することであ」る。

B)「資本主義のもとで戦争は絶対に不可避なものであり、帝国主義戦争を内乱に転化して革命をめざすことこそ戦争の根を断つことであ」る、と、レーニンの平和戦略との関連でのべています。しかし、(A)(B)はそれほど簡単に結合しないことは、八一声明の基本路線となった(なりつつあった)「新しい情勢のもとでの戦争の可避性と革命の平和的移行」というテーゼに端的にあらわれています。「人間の生命と人間存在そのものを抹殺する戦争」に反対するというテーゼは、それだけのこととしてなら、マルクスやレーニンの平和にかんするテーゼにはならないと考えるのです。現実的・政治的にも、原理的.・理論的にもです。この点、他目詳しく説明いただければ幸いです。

それに、蛇足ですが、体制間矛盾を第一義とする見方に反対された箇所で(この主張には私もまったく賛成です)、通例のように、矛盾の内在的条件と外在的条件という条件区分によって、前者が本質的であると説明され、もって、体制間矛盾は第二義的であるとされています。

私は、論理をいじくる者として、このような説明方法には十分な説得性が欠けているように思います。内と外とはやはり相対的対置にあるのであって、いずれが第一義であるかは、論理学(Logics)によっては決しないと考えるからです。いうまでもありませんが、松江さんの説明が誤っているというのではないのです。説明の論理学に不足があるのではと考えるからです.ご一考下されば幸いです。

生意気なことを言いましたが、常日頃の読者の言としておきき下されば幸いです。

(八四・五・五、鷲田生)

 


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