祭政一致の恐怖(要約)

―政教分離の憲法を守れ―

 

野村光司

 

 

人間のいけにえ

 神と来世に関しては色々の宗教が色々と教えるが本当の所は誰も分からない。人に生きる力も与えるが他人には狂気にしか見えない宗教もあり得る。生きた人間を殺し、怪しげな神に捧げ或いは権力者の来世に仕えさせる。アンデスの少女ミイラ、慶州仏国寺の「エミレの鐘」、黄河の神の嫁、殷墟や秦始皇帝陵の殉葬者、いずれも一つの宗教観の犠牲者である。宗教戦争の大規模な殺し合いも現在続いている。

国教への道

 明治政府は「神ながらの古道」、「王政復古」、「祭政一致」のスローガンのもと、意識的に国家神道を編み出し、皇祖天照の伊勢神宮を頂点に全国の神社を統治体制に組み込み、他の宗教を抑圧した。天皇神の国教を子供には学校で、大人には刑法の不敬罪で叩きこんだ。帝国憲法には「天皇は神聖にして侵すべから」ざる神とし他の宗教は「安寧秩序を妨げざる限り」の自由とされた。天皇の神聖を超える神を尊崇する宗教は弾圧された。

 大陸大侵略とともに国家神道の聖典「国体の本義」を出す。天皇は人の姿を借りた現人神で、「我等はその生命と活動の源を天皇に仰ぎ奉る。天皇に奉仕し天皇に絶対随順することに国民すべての道徳の根源がある。天皇の御為に身命を捧げることが真生命を発揚する所以である」と教える。しかも天皇の政治は文武の官僚が行う。官僚・軍部は天皇の名において無数の将兵、住民を彼らの戦争に駆り立て自決させ財産を奪う専制は国家神道に基にできた。国民全部には「一億玉砕」を求め天皇と高官は松代の地下大本営で生き延びることとなった。古代のいけにえが国民全部に及ぼされることになった。一億ポツダム宣言は国民・兵士の安全は約束されたが、恐怖の「国体の護持」を確保する為に原爆と何十万の新たないけにえが供された。祭政一致の恐怖の極みである。

人間天皇と政教分離

 日本国憲法は、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさせない決意をし、主権は国民の方に存することを宣言した。戦争の惨禍は天皇を神としその名で政治権力が行使されて起きた。国民を死刑にも処し得る政治権力と理性を超えて人間を支配する宗教とは、決して、決して、結び付けてはならない。天皇は「人間宣言」をし、憲法は、天皇が象徴に過ぎず、国事行為以外に国政に関する権能を有しないものとした。国家機関ではあっても「君が代」、すなわちこの世を支配する神としては決してならない。

 一方、国民には信教の自由を何人にも保障し、何人も宗教上の行為への参加を強制されない。だが宗教団体の国との癒着は厳禁である。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならならず、国の方もその機関が宗教行事に参加し、宗教教育をするなど一切の宗教的活動もしてはならない。 祭政一致は人民には恐るべき悲劇だが権力にはその誘惑は余りにも大きく絶えずその動きがある。

個人の信仰自由は守れ

 個人の信教の自由は、思想の自由、集会・結社・言論の自由、学問の自由と並んで個人内心の自由で絶対的に保障されるべき、人権中の人権である。信仰を持つのも持たないのも自由である。外部に罪を犯し政治権力の行使をしない限り、信者同士で教団をなすことも完全に自由だ。教団内での修行も本人が承諾している限り、ある程度の苦痛を課するのも自由である。ただ内心の信仰外の「生命、身体に危害を及ぼす有形力の行使」は保障されない(最高裁判例)。

 オウム犯罪に関与した教祖や幹部の刑事責任は徹底的に追求され他人に与えた損害の民事責任も果たさねばならないが、犯罪に無関係の信者個人の修行生活は妨げてはならない。転入を拒否することは憲法上できない。個人の幸福追求権、信教の自由、居住・移転の自由、集会の自由の基本的人権がある。宗教・民族が異なる人に強い違和感を持つ人は多い。我らは関東大震災で朝鮮人というだけで片端から虐殺をした罪がある。憲法は人種、信条、性別、社会的身分による差別を許さない。自治体も信者を理由に差別してはならない。他人の信仰、宗教行事を妨げることは刑法上の罪ですらある。(国旗国歌で国籍を奪いたい知事も出る)。また国家機関が靖国神社の祭神に干渉することも許されない。

宗教団体への特権禁止

 憲法の「国の機関はいかなる宗教活動もない」原則は、愛媛玉串料訴訟で最高裁が明確に支持したが、なお宮中神道行事への公務員参列、閣僚靖国・伊勢参拝の問題が残る。

 「教団は国から特権を受けない」が教団に公道上での通行人質問権が認められてはならない。教団への免税も、非営利事業としてならともかく宗教団体と明記した免税は問題がある。フランス革命は教会と貴族への免税が一つの原因であった。一般観光客から拝観料を徴収する事業は営利事業として法人税、固定資産税等を課し得よう。国は宗教を当然に公益事業と認める態度を清算すべきである。

宗教団体の政治活動

 教団はいかなる政治的権力も行使してはならない。「政治的権力」とは、行政権、司法権ではない。教団が信者、及び教団組織を利用して行う政治活動で生み出される政治力で、量的な問題である。教団の政治活動は憲法の明文では禁止されないが、政治活動の結果、教団が政界においえて影響力を与えるようになれば違憲状態に達する。企業の適法な事業活動の結果、独占状態になれば違法状態になると同じである。オウムも創価学会も政治活動があったが一方は政治権力まで到らず他方は明らかに違憲な政治権力に達している。

 創価学会は、戦前、国家神道に抵抗して会長が獄死した経験を持つ。それが今回、君が代法、盗聴法の成立に力を貸したのは信者の意思よりは教団指導者の政治的判断であろう。それで全体が動く。祭政一致の恐怖時代を再現してはならない。

 公務員の政治活動と同じく教団の政治活動も立法によって全面的に禁止することは、憲法制定の精神に適い、これを禁ずる規定は全くない。宗教の自由は絶対に保障する。しかし政治活動と営利活動には全く特権を与えないのが憲法が宗教について期待するところである。

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