今日の安保問題と六0年の教訓

621反安保・社会主義長野講演集会より

 

長谷川

 

(労働運動研究所代表)

 

はじめに

最近在日韓国人の青年から光州コムミユーンの話を聞きました。光州コムミューンのたたかいによって、韓国の解放運動が新しい段階に入ったということ、そして韓国の今後の解放運動は今までとは質のちがったたたかいになるという報告を聞きました。

これは恐らく韓国だけの話ではなく、八○年代の階級闘争は世界的に新しい段階に入るということを意味していると思います。

これに対する敵側の最大の支え、いってみれば韓国のいまの全斗換体制の背後にある日米軍事同盟、帝国主義の侵略的な政治的、軍事的同盟、極東においては日米軍事条約体制、この安保の体制を八○年代にどこまで崩せるか、あるいは世界的な軍事同盟の体制をどこまで崩せるかということと、それから一国一国における革命をどれだけ達成するかということが、これからの勝負になるだろうと思います。

そういう意味で社公の政権構想に関する覚書の中で、安保、自衛隊の問題を棚あげにする約束をしたわけですが、今後、安保や自衛隊や軍備の問題が政治の一番大事な焦点になってくるだろうと思います。

これからの闘いの中で、これらに対する闘いをもう一度再構築しなければならないわけです。そういう意味で今日は主として安保の問題をお話しし、それから現代的な課題、これと今日の条件のもとでいかに闘っていくか、についてお話しすることになると思います。

 

安保・侵略者の政治的軍事的同盟

 

最初の安保条約は一九五一年に批准され、五二年に発効したものです。これは講和条約と同時に行なわれましたが、そのねらいはアメリカの朝鮮侵略のために、日本を基地化することにありました。そしてこれは産別会議の分裂、総評の成立、共産党と革命的労働者にたいするレッド・パージ、さらに社会党の左右への分裂という基礎の上で行なわれたものです。

すなわちこの安保条約は、朝鮮の労働者、人民への侵略攻撃と、日本の労働者、人民に対する弾圧と分裂の攻撃の上に成立したのです。

当時この安保条約は、日本をアメリカの従属国、あるいは植民地的な存在におとすためにつくったといわれていた。しかしこれはアメリカが日本を支配するためにつくったものではなく、日本とアメリカが手を組んで他国を侵略するための条約、侵略者の政治的軍事的同盟ということが、安保条約の最初からの性格であ、ったわけです。他国を侵略するには、国.内では労働者、人民は弾圧されるというごとを最も象徴的に示したのが安保条約であったのです。

 

歴史的な六〇年安保闘争

 

その後朝鮮戦争でアメリカが敗れ、雪どけ時代になり、その中で日本資本主義が高度成長に入っていく時期、一九六〇年に、日米の同盟関係の中で日本の発言権をもう少し高める、あるいは日本の役割をもう少し大きくするという意味をこめて安保条約の改定が行なわれました。

これにたいする闘いがいわゆる六C・年安保閥争です。これはいわゆる五五年体制ができ、戦後の議会主義的な政治の体制がはじまり、そのもとで独占資本が高度成長に入っていく時期に、社会党・総評ブロックと共産党といういわゆる戦後の革新勢力が、独占資本の侵略政治、ないしは軍事同盟に対して最初に対決した歴史的な闘争だったと思います。

今では考えられないような壮大なデモ、銀座通りを埋めつくしたあの壮大なデモの光景は私の目に焼きついています。安保闘争の大衆的盛りあがりの出発点となったのが、一九五九年十1月、第八次の統一行動に際しての国会突入でした。数万のデモ隊が機動隊の壁を突破して国会構内に突入したのです。私も共産党本部の一員としてこれに参加しました。この闘いは全国に非常に大きな影響を与えましたが、しかし共産党の宮本指導部は、これを行き過ぎだとして闘争に水をかけたのです。

年があけて一九六〇年に入ると、韓国で李承晩政権にたいする大規模な学生デモが起こり、ついに四月、李承晩政権を倒しました。これは日本の労働者を大きく励まし安保闘争に少なからぬ影響を与えました。デモへの動員も大きくちがってきました。

しかし自民党はしゃにむに安保を成立させようとして、ついに五月十九日、衆議院において強行採決し、自然成立にもちこもうとした。実はその時、時計の針は夜中の十二時をまわっており、実際には期限切れになっていたのですが、時計の針を戻して、まだ翌日になっていないとしたのです。このことがふたたび大衆を憤激させ、壮大なデモを生み出した。

毎日、二十万から三十万の全国からの国会デモが展開されるようになったのです。

こうした中でアメリカのアイゼンハワー大統領が岸首相を激励するために訪日することになり、その先ぶれとして、秘書官のハガチーがやってきたのです。そこでこれを羽田で"歓迎"(阻止)しようということで、羽田に大動員をかけたのです。そうしたらハガチーの乗った車がデモ隊の中に突っこんできて、身動きできなくなってしまい、とうとう米海兵隊のヘリコプターで脱出するという事態にまでなったわけです。この時私は学生部隊の指揮者として逮捕され、裁判にかけられました。

その後六月十五日に、もう一度学生部隊が国会に突入し、あの樺美智子さんが死ぬという闘いがやられたのです。

結局安保条約は衆議院で強硬採決されていましたから、1カ月後に自然成立させられたわけです。しかし岸内閣は総辞職においこまれました。これは戦後大衆闘争によって内閣を打倒した最初の経験でした。おおよそ以上のような歴史的な壮大なたたかいがたたかわれたわけです。

 

ゼネストがなかった問題

 

しかし私にとっては、六〇年安保闘争は必ずしも愉快な闘争ではありませんでした。多少なりとも満足できたのは第八次統一行動の際の国会突入闘争とハガチーを取り囲んでもみあけた時の二回だけでした。あとはいつもやれ整然たるデモをやれとか、それは冒険主義だとか言われ、こんな不愉快な闘争はなかったのです。

そして一番大事なことは、デモの闘争はあったけれども、ストライキの闘争、ゼネストがなかったという問題です。あれだけの壮大な大衆動員がきいた状況で、――丁度当時日本に来ていたイタリア共産党の『ウニタ』の記者は、「イタリアでこれだけ大衆動員があれば必ず鉄砲ものだ。なぜ日本では鉄砲の音がしないのか"と言っていましたが――ほとんど"整然デモ"に終始してしまったわけです。デモはやったけれども、ゼネストはやらなかったという点に最大の問題があったのです。

 

六〇年安保デモの問題点

 

ではこのデモはどうであったかといえば、一つは"整然デモ"、請願デモの問題です。以前の国会デモはみな赤旗をかかげ、ゼッケンをつけたデモであった。

ところが八次の国会突入以後、赤旗やゼッケンをつけたまま国会正門の方にデモしてはならないとされたのです。これを突破するために考え出されたのが請願デモです。デモではなく国会に請願に行くのだというもので、これは合法主義です。弾圧を回避しようというもので、学生たちはこれを"御焼香デモ"といって承知しなかった。机ならべた前に請願書を出して頭下げて帰ってくる、こんな"御焼香デモ"を学生は承知しない。

そこで学生たちは、われわれは国会に突入するんだということになった。これはまさにラジカリズムです。

こうして一方は請願デモという合法主義的、議会主義的デモと、他方は国会突入という小ブル・ラジカリズムに安保のデモは分裂していったのです。ここにこんにちの新左翼の出てくる出発点があったわけです。

それでは総評のデモはどうだったかといえば、これは割当動員です。今日何名動員するということで、一号動員、二号動員と割り当てをおろして集めて、参加者には手当をはらうというものです。だから整然たるデモになるのです。

これはハガチー事件の時の日本鋼管川崎の話ですが、今日は何割動員だが誰が行くかとなると、最初に手をあげるのが共産党員、それから社会党の左派、これだけで満杯になって出掛けていく。職場では何の討議もされていない。そしてハガチー事件で弾圧を受け、刑務所に入れられる。救援の問題が出る。職場で何の討議もやっていなかったから、"あの連中はデモが好きだから勝手に行ったんじゃないか"となる。右派の幹部は、わざわざニュース映画を新聞社から借りてきて職場で映して見せ、"彼らはこんな乱暴なことをしているのだから、検挙されるのは当然だ"と宣伝した。カンパもなかなか集まらないのは当然です。

もしあの時、明日こういうデモがあり、その意義はこういう点にあり、うちの職場から代表として誰と誰を出すかという討議が職場でやられていたら、労働者は仁義を守りますから、俺たちの代表が弾圧でやられたのだから、カンパをやろうというように救援の動きが出てくるものです。

ところが総評の上からの割当動員でしたから完全に職場で孤立してしまった。

二十万、三十万というかつてなく壮大なデモであり、それは大きな影響を与えたとはいえ、ほんとうに職場で組織的に討議が行なわれ、大衆が自発的に参加してきたかといえば、この点はきわめてあやしいし、ここに六〇年安保闘争の重大な弱さがあったと思います。

 

核心問題・労働者階級の指導性

 

六〇年安保闘争の指導潮流は三つありました。

その一つは平和三原則を旗印にした社会党・総評。それから民族主義と議会主義の共産党。そしてこれらに反発する学生たちの小ブルジョア・ラジカリズム。ですからここにはほんとうの意味での労働者階級の思想、指導、政治的影響力を代表した、すなわち政治ストライキで闘うという勢力は、指導勢力としてまだ体をなしていなかったということです。

指導勢力はすべてブルジョア民主主義、平和主義、民族主義、議会主義であり、従ってみんな議会から離れられなかったのです。ストライキの方にはむかわなかった。最後にストライキが打たれたが、これは夏期手当のストライキに安保反対のスローガンをのせたものであって、本当の意味での政治ストではなかった。

職場に政治的ストライキ委員会をつくり、これを全国的に結合し、安保廃棄の政治ゼネストを打つことが最も大事な点であった。もしこうした政治ゼネストが打たれれば、学生たちの小ブル・ラジカリズムは飛んでしまう。金属も、化学も、鉄鋼も、場合によっては電力も、すべての産業をとめる政治ゼネスト、これが闘われればまさに権力をかけた闘いになるわけで、そうすれば民族主義も、議会主義も、小ブルジョア・ラジカリズムもみんなふっ飛んでし衷う。これが本当の意味で言う労働者階級の指導性だと思います。

こういう労働者階級の指導性という思想は、個々の人の中にはあったかもしれないが、一つの政治的潮流としては形成されていなかった。

その結果、その後は左翼の戦線は無数に分裂してこんにちに至ったのです。労働者階級の本来の指導性というものは、みずからの階級を統一するだけではなくて、すべての人民階層を自分の周囲に結集して統一戦線をつくるところにあるわけですが、この統一戦線の指導というものは、労働者階級自身がみずからの実力をもって闘い、しかも政治的方向を明確にする中ではじめてなしとげられるのですが、六〇年安保闘争ではこれがつくりあげられなかったのです。ここに最大の弱点があったわけです。

 

資本主義世界の危機と全帝国主義の軍事同盟

 

それではその後どうなったかといいますと、日本の資本主義はその後高度成長に入っていったわけですが、資本主義の世界体制は段々危機を深めてきました。

少なくともアメリカのベトナム侵略戦争が敗北し、インドシナ革命が勝利して以降、アメリカを中心とする帝国主義の世界的な軍事同盟体制は、SEATO、CENTOの崩壊に見るように、明らかに崩れはじめてきました。

帝国主義の世界的な植民地体制も段々崩れてきました。かつては帝国主義というものは無条件に植民地を収奪できた。

日本がかつて満州の炭鉱や鉱山を勝手にとってしまったように、またアメリカのメジャーがただ同然で中東の石油を収奪してきたように。ところがイラン革命に見るようにアラブの民族革命が次々と起こるようになると、もはやそういうことはできなくなってきた。帝国主義も、コマーシャル・ベースで石油を買ってこなければならなくなったのです。石油以外の天然資源についても同じです。もはや帝国主義は、民族主権を無視して勝手に資源を収奪することは許されなくなってきたのです。これは民族革命がなしとげた大きな成果だったと思います。もちろん帝国主義は世界的な販売網を握っていますから、これに依存しなければならないという面は残っていますが、とにかく帝国主義が好き勝手に振舞えるということはなくなったのです。それだけ帝国主義は弱くなってきたのです。

帝国主義は恐慌になったとき、かつてのように他国を侵略したり、戦争によって領土の取り合いをやって恐慌をきりぬけていくということができなくなってきた。無制限に超過利潤を搾りとれる植民地をふやすために戦争をやるという手段がとれなくなってきた。もしこれをやれば、第一次、第二次大戦後のように社会主義革命が起こるということを彼らも知っている。だから彼らはお互いに共存して、民族解放運動なり社会主義運動なり社会主義国家なりに対抗せざるをえなくなった。そこで第二次大戦後、帝国主義の軍事同盟がはじめて出てきた。第二次大戦前も、帝国主義の軍事同盟はあったけれども、すべての帝国主義が一本にまとまるような軍事同盟はなかった。つまり第二次大戦前は、帝国主義同士が相互に戦争するための軍事同盟はあったが、帝国主義がまとまって社会主義や民族解放闘争に対抗するという軍事同盟はなかった。もはや帝国主義はお互い同士けんかをしている余裕はなくなったということです。

そのことは社会主義というものが、一つの世界体制として成立したことが大きな要因になっています。

 

国際的階級闘争の観点から国際情勢をとらえよう!

 

このことと関連して大事なことは、いまの国際情勢を国と国との関係だけで見ていくと間違うということです。一番の矛盾の基本は、労働者階級と資本家階級とのたたかいだということです。

社会主義といえども、第二次大戦が示したように、ドイツのファシズムにたいしてソ連が勝ったという基礎には世界中の労働者階級の反ファッショ闘争があったということです。社会主義は、世界の労働者階級の闘いを支える重要な力になっている。と同時に、社会主義は世界の労働者階級の闘いに支えられている。つまり世界の労働者階級が、いくつかの国で権力をとったのであって、階級闘争の成果なのです。したがってこんにちでも社会主義が強くなっていく基礎には、国際的な労働者階級の強さというものがなければなちない。社会主義は国際労働者階級の共通の財産であり、武器なのです。

だから階級闘争として世界が動いていることを見ないで、国と国との関係で世界を見ていくならば、われわれ自身が民族主義・国家主義になってしまう。残念ながらこの傾向は日本だけでなく、国際共産主義運動の中にも見えます。この点は思想的にはっきりさせねばなりません。

最近における、つまりベトナム戦争が終わって以降の世界では、帝国主義は無条件で植民地を収奪することはできなくなってきたわけで、民族解放運動が発展してくると、帝国主義はその国の政府あるいは民族ブルジョアジーと提携しなければならなくなる。そして一緒に開発を行ない、そこの資源を相当の対価を払って買ってこなければならない。こうした条件を獲得した民族ブルジョアジーが自国の資本主義化、近代化を積極的にやりはじめると、そこに新しく民族ブルジョアジーとプロレタリアート、また民族ブルジョアジーと農民との間に矛盾が非常に大きくなってくる。これが最近の情勢だと思います。

イラン革命をとっても、確かに古い勢力がアメリカやパーレビに反発したという要素はあるが、やはり一番大きな要素は石油プロレタリアート、そしてパーレビの近代化の中で農民からプロレタリアートに転落した部分、こうしたイランのプロレタリアートが最も重要な要素だと思います。

これは韓国についても同じだと思います。韓国でも朴政権のもとで経済の高度成長が行なわれ、一時的に労働者が不足するようになり、韓国の賃金を引き上げた。そこでいまや韓国の製品は香港や上港の製品よりも高くなり、韓国の製品は売れなくなった。そこに世界的な不況がきて、外資導入によって自転車操業的にやってきた韓国経済にガタがきた。失業者が非常にふえてきた。最近の韓国の争議をみると大部分が賃金不払いに対する闘いになっている。光州のたたかいの背景にはこれがある。

このようにあまりに近代化を急ぎすぎ、その結果経済にガタがきて、民族ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの`たたかいが起こってきた。民族解放運動の中で、民族ブルジョアジーが主導権を握っていたのではどうにもならなくなり、どうしてもプロレタリアートが主導権を握らなければならないという条件が生まれてきている。

 

世界的な資本と労働の対立がさらに全面化する時代

 

世界的にみて資本と労働の対立が、もう一つ全面的に出てくる時代になってきたと思います。客観的には世界革命が近づいたということだと思います。主体的条件をどう組織的に準備するかという問題はありますが、客観的には世界的にブルジョアジーとプロレタリアートのどちらが経済の主導権を握るのかという問題が、ますます全面に出てくる時代がきたと思います。

そのことは日本についても同じだと思います。まさにその危機を日本のブルジョアジーもよく知っている。そこから最近の新しい問題、労働戦線の右寄り再編成、中道勢力の育成さらに有事体制の確立等が出てきている。そしてこれとどう闘うのかという新しい問題が提起されている。その際にかつての安保闘争がはらんでいた欠陥、それがこんにちではより拡大された形で、政治戦線と労働戦線の中にあらわれているのですが、これをどう克服していくのかという問題と真剣に取り組まなければならない時が来ていると私は考えています。

(以下次号へ)

人民の力265号

今日の安保問題と六〇年の教訓(下)

 

長谷川 浩

(労働運動研究所代表)

 

こんにちの資本攻勢の特徴

 

これまで六〇年安保闘争がはらんでいた問題点は何であり、それがこんにちの運動の中にどうあらわれているのかについて話してきました。次にこれをどう克服していったらよいのかを考えてみたいと思います。

こんにち経済情勢は恐慌から不況局面に移っていま.す。そして、その特徴は、失業者が今までになく非常にふえているにもかかわらず、日本の資本家は大変もうけていることにあります。日本の資本家が今の危機の中で非常にもうけている基礎は、日本ほど合理化がすすんでいる国は他にないということです。高度成長期の合理化は、生産設備をふやし、生産を拡大するというものでしたが、しかし最近の合理化では、設備をふやさずに、生産をふやしているのが特徴です。安くできるだけ人手をかけないで、省エネ、省力で、つまりできるだけ労働者を減らして、できるだけ働かせて多く搾り取る、これが日本の資本家の利潤の根源なのです。

そうやるためには労働運動、労働者の反抗をできるだけ押さえなければならない。そのためにあらゆる方法がとられています。職場における締あつけ、労働者の懐柔、金を貸してマイ・ホームをつくらせる、マイ・カーを買わせる、労働者を借金奴隷にするのです。

あれだけひどい合理化を受けた造船労働者が、へたに抵抗すると退職金もふいになり、せっかく買った家やマイ・カーを返えさなきゃならなくなるのではないかという不安から肩たたきに応じなければならないという状態が生まれてくる。

つまり労働者は借金をかかえて自分の権利を担保に入れた形になっている。このように資本の政策はち密に展開されており、同時に労働運動に大きな攻勢がかけられている。

 

大衆的な集団交渉が基本

 

そもそも民同の賃金闘争なり合理化反対闘争のやり方は、ストライキは構えるけれども、交渉から妥結まですべて幹部が権限をにぎってやる、しかも密室で。

少なくとも五〇年までの産別時代のたたかいは、交渉といえば集団交渉であった。かつての三井三池の交渉、これは五三年の一一三日の闘争ですが「山の上の御殿」という資本家側の集会所の前に組合の宣伝カーをおいてマイクで交渉する。

「山の上の御殿」に資本家側の代表を全部集めておいて、これを労働者が包囲して資本家が勝手に逃げ出せないようにしてマイクで交渉する。見張りを立てておいて警官隊が来た場合には五分間で構内のすべての労働者が結集できるような態勢を整えておいて交渉をする。実際に警官隊が来たとき、すべての労働者がバンドを締あなおして戦闘態勢をとったら警官隊の方が逃げてしまった。これがその頃の集団交渉のやり方だったのです。少なくとも当時は大衆的な集団交渉でたたかったのです。

敗戦直後には、"すり鉢交渉"というのもありました。資本家を真中においておいてそのまわりを労働者がぐるっと取り囲むわけです。それで指導者が机を一つぽんとたたくと、かこんでいた労働者がみんな一歩前にぐっと出るわけです。またぽんとたたくとぐっと前に出る。重

役の額から汗がぱらぱらと落ちて、わかりましたということになる。これが"すり鉢交渉"と呼ばれたものです。

そこまで乱暴にやらない場合でも、交渉の経過を二十分か三十分おきに幹部が労働者に報告に出でくる、決して密室の交渉ではなかったのです。

二・一闘争の時にも中闘の会議は公開でした。労働者がまわりを囲んだ中で会議がやられた。だから誰がストライキに「反対したかがみんなにわかるわけです。

すべて大衆監視の中で闘いが行われたのです。

今のようにどこに中闘がいるのかさっぱりわからない、富塚さんがどこに根回しに行っているのかわからないといったようなものではなかった。

いまのようにストライキを構えてはいても、そのような大衆に隠れて当局と交渉しているようなやり方では、ストを構えても何の役にもたたない。そのような中から、ストも構えな

JC路線が出てきたのです。

 

賃金はどこで決まるのか

 

今年の賃金はどのように決まったのでしょうか。私鉄が一二、三〇〇円とりましたが、あれは回答日は四月九日でしたが三月中には決まっていたそうです。

私鉄の経営者団体の中で、東急の五島昇が中心になって、今年は公労協と手を切らせる、つまり私鉄は交通ゼネストに参加させないために賃金にはイロをつけてやることが大体決められていた。しかし私鉄だけでは賃金は決められないのです。

春闘の賃金を決める大元はどこにあるかといえば、八社懇(新日鉄、日本鋼管、東芝、日立、トヨタ、日産、三菱重工、石川島播磨)です。この八社による重役会、労務担当重役会、社長会があるのです。これに対応して、組合側にも委員長会、書記長会、組合幹部の共同会議というのがあるのです。そして実際に話し合いがされるのは、この八社の書記長と労務担当重役の間でやられるのです。一緒に飯などを食べながら話し合って賃金を決めるのです。これは団体交渉では全くないのです。

ここで決められたことをそれぞれの社長と委員長に報告して了承を求めるわけですが、実際に決定権を握っているのはJCの機関ではなく八社懇の労務担当重役と社長なのです。私鉄の五島昇といえども、この八社懇の了解をえなければ私鉄の賃金も決められない。日本の賃金は実際にはこうして決められているのです。

ここには団体交渉権もなければ、ストライキ権もない、団結権も何もない。こういうのが労働組合といえるかといえばかなり疑問です。

 

今年の春闘の舞台裏

 

富塚さんは今年の春闘の特徴は「七単産共闘」(鉄鋼、自動車、電機、電力、全金、私鉄、全日通)だといっています。

しかしこの七単産共闘ができた背景には八社の経営者の方から"労働戦線の再編成にあたってはとりこぼしのないように"との注意が来ていたのです。同盟内に全、金同盟など総評の全金を加えることに難色を示す動きがあったのにたいし、資本家の方から、"全金を加えたって大きくつつみ込んでしまえばどうにもならないではないか。なるべくとりこぼしのないように、全部まとめてしまえ"という示唆が与えられたのです。

そこで仲の悪いものも含めてまとめるためにブリッジ共闘が考え出された。富塚さんはこれで八%近くはいける、これに公労協も乗ろうという算段を立てたわけです。だから私鉄の回答が出た時には公労協の幹部は大喜びしたのです。

ところが"私鉄は特殊事情、公労協には適用しない"となった。これを押したのは労働省です。労働省が公益委員を突っついておしきってしまった。公益委員の中でも、わりあい労働組合側に同情的な金子さんはけとばされて実権を失い、かわって船橋尚道が実権を握ってこれをおしつけてきた。

こうして今年の公労協の低い賃金が決められたわけで、富塚さんの読みははずれたわけです。このようにして日本の労働者の賃金がおさえこまれているのです。

 

正面に出てきた日本独占資本

 

もラ一つ重要なことは、今年経団連の体制が変わったことです。土光にかわって新日鉄出身の稲山という大ボスが出てきました。新しい稲山体制には、新日鉄、日立、東電の現役経営者が副会長にすえられた。八社懇や七単産共闘に非常に近い形がつくられたわけです。ここにはいまの日本独占資本を現実的に代表しているものば何かが示唆されていると思います。つまり、こういう体制をつくったということは、労働再編成をやっている本家本元の八社の代表が経団連に移り、独占資本の意志を貫撤するために経団連の体制をがっちり固めたということだと思います。独占資本が正面に出て、政治をきりまわし(経済を管理する体制をもう一歩固めようということです。

これは安保体制の基礎固めを意味します。今後経済の困難は強まらざるをえない。つまりいまの景気を維持しようとすれば公債を発行して民間企業の仕事を確保しなければならない。それをやればインフレになる。公債の値段が下がっていって、日銀が引き受けざるをえなくなり、結局日銀がペーパー・マネーを発行せざるをえなくなる。景気を維持し、しかも大きなインフレを回避していくということは容易なことではない。こういう危機をどう乗り切っていくかについて、独占としても相当腹を決めてかからなければならない。とくに今後は軍備増強もやっていくとなれば、容易ならざる事態であると独占としても危機をはっきり自覚しているのです。そのための体制をとってきたわけです。

 

形骸化されてきた基本的権利

 

先程も話しましたように、ストライキを構えて取引交渉をするやり方から、ストを構えないで幹部が勝手に取引交渉を.やってそれがうまくいかなくなった時にスト権を集約して交渉に入るという事後処理方式に変わったのは、七〇年代初めの鉄鋼が最初です。いわゆる鉄鋼の一発回答方式です。

ここからそれまでの民同的な労資協調主義からさらに進んだJC型の労資協調主義へと変わっていった。その頃にすでに労戦再編成の問題が起こっているのです。

その頃もう一つ出て来たのがスト権問題でした。これははじまりは反マル生闘争でした。民間ではマル生、つまり生産性向上運動は早くから、高度成長がはじまる頃から始まっていた。七〇年代のはじめに、残っていた公労協にこのマル生を持ち込もうという動きが出てきた。これにたいして反マル生闘争が闘われたわけですが、最初はたしかに国鉄でも全逓でも職場で闘われました。職場労働者自身が職制の差別待遇や不当労働行為等にたいし職場でじかに闘ったのです。

ところがこれを単なる反マル生だけでなく、職場に団交権、スト権を確立するという目標が提起された。これは立派なことでした。職場の団交権、スト権を権利として確認しようとしたことは非常に重要な方向だったと思います。

これを公労協全体の統一した闘いにするという段階になって富塚さんが出てきたわけです。そして彼はこれを根回しで幹部の取引交渉で固めていった。この点については彼は卓越した手腕を持っている。国鉄当局、労働省、運輸省、三木内閣というように次々とおとして、これで大体政府側は通ったということで格好づけに三日間のストライキをやって確認しようとした。

ところがストが始まると、自民党内のタカ派や反三木勢力が動き出して"スト権は認められない"ということになっていった。

労働者の方はどうだったかといえば、幹部取引でうまくいくというのならいいじゃないかということで、最初はネトライキが多かった。途中から三木の話がおかしくなってきて、そこでこれはただ事じゃないそということで青年部を中心にして職場に集まり始めた。籠城戦術に転換しはじめた。そしたら途端にスト打ち切りということになり、スト権闘争はポシャになってしまった。

その後に出てきたのが労使正常化路線です。そしてその中で本当の意味での労働者のスト権、団交権が段々ごまかされていった。

このような経過の中に、すでに労働戦線再編成の問題は実際には動いていたのです。労働者の基本的な権利を形骸化し名前だけのものにしてしまうという内容として。

もう一つは参加路線としてすすめられました。国鉄では民主的規制論です。組合の代表を経営参加させるというものですが、これはスト権も団交権も全部なくした上での参加です。つまり手足をしばった人形を経営参加させるようなもので形だけ労働組合の発言権が増大したようにしておいて労働組合を右にもっていこうということです。

 

中道育成と反動体制の強化

 

さらにこれらを基礎にして、自民党にかわる資本の代表勢力、つまり中道勢力をつくりあげるという問題がでてきた。

この問題は新しい有事体制とかリムパックとかいう問題と結びついています。それはこの勢力の主導権をとっている民社党が今度の選挙で栗栖元統幕議長を東京地方区に立候補させたことに象徴されるように、軍備拡張や日米軍事同盟の強化を積極的に推進する姿勢をとっていることからも明らかです。いまでは民社は安保に関連する事柄では自民党が言えないことを代弁していますが民社が率先してアドバルーンをあげて、自民党に圧力を加え言わざるをえなくさせたり、言いやすい条件をつくったりしている。こういう中道勢力を育てようとしているのです。

その背景には自民党の長期低落があります。それは都市への人口の集中とか、農業の行き詰まりによる農民層の自民支持率の低下とかによって起こってきたもので、資本家側も、いつまでも自民党単独政権は続かないと見通しているのです。

従ってこれにかわるものを準備しなければならないというわけです。

しかし社公民の中道路線といっても、社公民政権は立てられっこありません。三十とか四十の議席をもつ共産党を排除するのですから、社公民だけで過半数の議席を占めることはありえないでしょう。

そうなれば保革連合しかない。社会党はそこからはね出されるかもしれないが、いつれにしても保革連合しかない。

敵側は反動体制、侵略体制を本格的に強めようとしています。これはソ連の台頭を恐れているというよりも、やはり国際的な労働者階級の台頭を恐れているということです。韓国の問題でも、帝国主義者がもっとも恐れているのは韓国プロレタリアートの前進なのです。国際的な階級対立の激化にどう対処していくのかということが今日の安保の根本問題なのです。そういう意味で有事体制とかリムパックとか防衛二法の改悪とかというように向こう側は対処しようとしている。

そしてそれを政治的に支える体制として新しい中道勢ガを育てあげる。その基礎として労働戦線の再編成を行う。こうして体制固めを行おうとしているわけです。たしかに向こう側の陣営内にもかなりの内部矛盾はあります。たとえば同盟内では、JCが主導権を握ることにたいする反発があります。JCが賃金を決めてしまっては同盟のメンツが立たないというわけです。同盟の会長宇佐美、書記長田中と自動車の塩路の間ばギスギスしているそうです。これは右より再編をやった時に、誰を委員長、書記長にするかという問題とからんでいます。ですから今年の秋に右より再編成をやって新しいナショナルセンターをつくるといってもそうスムーズに行くとは思われない。

 

本当に労働者的な闘い方とは

 

今後まだいろいろの紆余曲折があると思いますが、どのような形におさまろうとも、右より再編成によってつくられようとしているのは、一言でいえば労働基本権のない労働組合をつくるということです。団体交渉権も、団結権も、すべて名目的なものになった労働組合をつくるということです。これは民同思想の一つの「発展」なのです。

これとどう闘うのかというのがこれからの我々の運動なのです。そしてこれを基礎にして日米軍事同盟とどう闘っていくのかということです。

こんにちの帝国主義者の軍事同盟は、帝国主義の世界的な支配体系を、世界的な利益をどう守るかという課題と一国における独占の政治権力をどう守るかという課題とが結合したものとしてあるのです。だからこの軍事同盟を打ち破る問題と一国における革命の問題は益々接近してきているのです。必ずしも同時に起こるとは言いませんが、きわめて密接な関連を持った問題なのです。

従って日本で革命が勝利するとすればそれは世界的な帝国主義の連合を崩す非常に大きな契機となるという国際的な意味をもった革命になるのです。このような世界的な帝国主義の軍事同盟を崩す課題と一国の革命をどうすすめるかという結合した課題に対比して、こんにちの日本の労働者階級の革命的主体性はきわめて弱いことは事実です。

しかし私は日本の労働者階級の中にも労働者根性はなくなっていないと思います。それはあのSSKのたたかいの中にもあらわれましたし、全逓の反マル生闘争の中にもあらわれました。もっとはっきりした形で国鉄の闘いの中にもあらわれています。たとえば動労北海道のDL反対闘争。この闘争を指導したのは、一九四八年の職場放棄闘争に参加した労働者です。その闘い方は、減速闘争という形で、今までのダイヤ、DLのダイヤではなくSLのダイヤで動かす。つまり当、局のダイヤではなく、労働者が認めたダイヤで列車を動かす。→種の生産管理です。労働者がみずからの手で生産を握っていくという闘い方なのです。これは五〇年までの産別時代の闘い方の基本的な内容なんです。そういうものを基礎にして闘っていくという中に、本当の意味の労働者的な闘い方があるのです。もし労働者が職場に団体交渉権をもち、ストライキ権をもち、これを確立したら、いやでも資本の経営権なり、人事権なりをおさえる、人事配置や新しい機械の導入や生産のやり方にしても組合の承認を得る必要があるという形で経営権を制限していく、このことはやがては労働者が生産の一切を握っていくことにつながる、労働者が生産の一切を握るということは社会主義です。そのためには権力を奪取するという保障がいります。しかし権力を奪取したと同時に労働者が何をやるのか、日本の生産を労働者が自分で握るということです。

その第一歩は労働者が基本的な権利を確保するという闘いを職場で始めるということです。日本の労働者の闘いの中にもこの要素はあらわれています。たとえば全逓労働者の物ダメ闘争です。これは自分の意志でゆっくりまわれる範囲で配達するということです。自分の意志で仕事をするということです。国鉄の順法闘争も同じです。もし東京の山手線で三割減速をきちんと全員がやったら電車の本数は減っても混乱は起こらないはずです。

労働者が山手線を握ったのです。コンベヤーの速さを三割おとすためにサボタージュするということは、労働者が生産を支配するということです。もしこの権利が職場に確立したらそれは社会主義にむかって一歩をふみ出したということなのです。もちろん資本家側からの弾圧がくる。しかしこれと闘っていくということが、本当の意味で権力とたたかう一番大事な内容なのです。

 

処分と闘えない労働者には革命はできない

 

全逓の反マル生闘争の時、一時闘争を中断させたことがありましたが、あの時私はすぐ反弾圧の闘争をしないと危いそと思いました。そしていろいろなところで全逓の労働者と話し合いをしました。

闘争の期間中当局は処分通告をたくさん出していたわけですから、闘争を中断した時に反処分の闘争をやらなければならなかったわけです。今後処分を出すな!

今までの処分を撤回しろ!こういう反処分の闘争が必要だったのです。

これをやったのは浦和の郵便局だけでした。あとはどうなることかと見守っているうちに「朝日」が東京に処分が集中すると報道した。「朝日」がスクープしたその日に私は東京のある郵便局の青年部に呼ばれて集会に出て反処分の闘争をやらないと危いぞという話をしたわけですが、その時すでに夕刊に処分のことが出ていたのです。重苦しい会議でした。労働者、たちは"俺は思いきってやったからやられるよな""でもそうなっても全逓の専従にはならないよ。あんなダラ幹に使われたくないもんな"と言った。腹の中には煮えくりかえるものがあるのです。あれほど闘ったのに処分となると中闘は一言も言わないじゃないか。俺はもういやになった。私の話が終わってから十五分位誰も一言もしゃべらなかった。それからぽつぽつとしゃべり始めて、遅くなっても闘わなければならない。あした青年部を集めて集会を開こう。そして分会に申し入れて闘争の準備をしょうじゃないかということになった。

残念ながらその後の反処分闘争は全部中闘にすいあげられ、取引きの方向にもっていかれ、事実上反処分闘争は放棄されています。段落しとか実損回復という処分が段落しや実損回復と合理化とのバ―夕―となったら、これは反処分の闘争ではないのです。

反処分闘争というのは、権力の発動を許すなということです。その闘いができない限り我々は権力と闘えません。どんなにストライキで賃上げをやろうとも、どんなに合理化の首切りを減らそうとも、処分に対して断固として闘えない労働者だったら権力との闘いはできない。もちろん軍事同盟との闘いはできない、つまり革命はできないということです。革命はむこうの権力を粉砕して、こちらが権力を握ることです。この思想を労働者の中に本当につくりあげない限り、これからの闘いはできない。その第一歩が断固としてストライキの権利を確保する、大衆的な団体交渉の権利を確保する、ということから出発しなければならないのです。

 

プロレタリアートの主導性を!

 

いまの時代は、資本家側がほんのわずかな賃上げや職場の要求でもそう簡単には受け入れない。それは世界的に資本主義が行き詰まってきて、帝国主義間の競争も一層激しくなってきたからです。しかしかつてのように帝国主義間の戦争で問題を解決することはできない。なんとか話し合って協調しながら、労働者階級の革命や反帝民族解放闘争やソビエトに対抗していこうと必死なのですから、労働者の要求をそう簡単には受け入れなくなってきている。国内の資本と労働の対立はますます厳しくならざるをえない情勢なのです。

こうした情勢の中で資本とたたかって勝ち抜こうとすれば、職場の大衆を固めることが一番大事になります。

そして六〇年安保闘争に出てきたような問題、小ブルジョア的な傾向、議会主義であり民族主義でありラジカリズムである、そういう弱さを基本的に克服して、同じストライキといっても本当に職場の労働者が自主的にたたかうストライキを、自主的に行なうデモというものに変えない限り、上からの命令で型にはまった形でやっている限り資本は驚かない。圧力にならないのです。やはり労働者が自発的に爆発してくる時こそ恐ろしい。

そういう意味で我々は光州に学ばなければならない。光州の学生と労働者の要求は一致しています。維新体制に関係した人間はやめうということです。ここには統一した指導部があるのです。多分全国的にもそうでしょう。

もう一つは、これまで民主化運動はカトリックの人々が主導権を握っていましたが、最近の闘いの中でこれが変わってきたということです。カトリックの人々は朴を射殺した金載圭の助命をおしだしました。光州の人々は維新残党の一掃を主張しました。こうして韓国民主化運動の主導権が、より労働者的な部分へ、より革命的な部分へ移ってきたのです。つまり段々プロレタリアートの主導性が明確になってきたのです。ここに韓国の闘いの新しい特徴があるのです。

我々の闘争も、もう一度総評華やかなりし頃を再現するということではないのです。もう一度六〇年安保のような闘いをということではない。六〇年安保には本当のプロレタリアートの主導性は発現されていない。本当に労働者が主導権をとった闘争だったならば、あのようには

ならなかった。

 

最大限の闘う行動の統一を!

 

我々が考えなければならないことは、まず第一に労働者の一番身近な一番切実な経済的要求でもってできるだけ広汎な労働者を闘争に引き入れるということです。自民党、社会党、民社党、公明党、どの党の影響下にある労働者でもよい。

たとえば賃金なら賃金を引き上げたいという労働者を最大限に結集し、労働組合の最大限の闘う行動の統一をまず作るということです。これは決して革命ではなく、改良の要求です。しかし今や改良の要求といっても資本にとっては由々しい問題です。それを許すならば資本の競争力がなくなるという問題がかかってくる。

帝国主義間の競争でも落後するという問題がかかってくる。どうしても資本との全面的な対決になってぐる。

 

職場の権利の闘いを!

 

そして次に大事なことは、我々の権利の問題を提起し、確立するということです。スト権、団交権といっても、それ自体として決してとれるものではない。スト権や団体交渉権の問題に広汎な労働者を動員しようとすれば、どうしたって具体的な問題と結合しないとやれない。具体的な要求と結合して、職場の団体交渉権や職場のストライキ権を確立する闘いを追求する。中闘の交渉にも、職場の代表を参加させ大衆的な団体交渉を行なう権利を確保するというようにもっていく。

 

政治闘争は政党の責任

 

その上に立って純粋に政治的な問題、軍事同盟や有事立法の問題に対してストライキでもってこれを阻止するという体制がつくりあげられなければならない。

これは単に労働組合にまかせるという問題ではない。これは政党が責任をもたなければならない問題です。政治的ストライキのためのスト権投票を組織する。そしてストライキ委員会をつくる。これを全国的に結集する。こういう闘いを基礎にして初めて労働者階級の指導性というものが確立するだろうし、その労働者の力が出てぐれば、学生、インテリゲンチャ、農民という多かれ少なかれ小ブルジョア的要素をもった部分も闘争に立ちあがってくる。労働者がその力を出さない、限り、彼らは彼らなりに闘うだろうから、いろいろな問題が出てこざるをえない。労働戦線の統一や人民諸階級の統一のために労働者が主導権をとらなければならないのだが、それは理論の上で、スローガンの上で主導権をとるということだけじゃ駄目なんで、組織的な行動の上で主導権をとらなければならない。

 

労働者の前衛党建設にむけ、共同した闘いの前進を!

 

しかしもう一つそのことを本当に保障するためには、労働者の革命党の組織がなければならない。本当の意味での共産主義的な党組織がなければならないのです。組合の中で活動するだけでなく、独自の党活動をする必要がある。直接大衆と結びつかなければならない。

労働組合というものは、いろんな思想のちがった労働者の集まりです。それを全体的に経済要求、あるいは身近な要求で統一する組織です。これはすべての労働者の大衆的組織です。

革命的な指導組織というものは、目的意識をもった組織、共産主義的思想で武装した先進的労働者、前衛の組織です。

ここでは場合によっては具体的な問題で見解が相違することがあっても、基本的な考え方、思想の上では一致していなければならない。しかもそれははっきりした政治目標をもち、はっきりした闘争の方向性をもった組織でなければならない。

この組織は直接大衆と結びつかねばならない。大事なことは、この組織が組合の指導部を握って組合を動かそうなどというミミッチイことを考えないことです。

あくまでも労働組合は大衆自身のものにしていく。にもかかわらず労働組合を戦闘化させるよう努力しなければならない。そのためには大衆自身を戦闘化する以外にない。前衛の組織が直接大衆と結びつき、大衆の革命性を引き出し、大衆とともに行動することを通じて、どんなダラ幹がいても労働組合がたたかわざるをえない態勢にしあげていく。これが我々の任務なのです。

現在同じ志をもった活動家が一つの組織にまとまっていない。六〇年安保以来の経過の中で、非常に分離してみんな苦労してきた。いまいくつもの組織に共産主義を追求している真面目な活動家がたくさんいます。これがお互いに手を結んで、将来における本当の前衛党をつくることを目標にして、これから協力していかざるをえないと思います。

我々が分裂している限り、大衆は我々を信用しません。いまの大衆は組織不信をもっていてシラケているといわれます。

これは社会党や共産党や総評のダラ幹どもにたいして不信をもっているだけではない。我々にたいしてだって"頼りになるのか"という点で疑問をもっている。

本当に最後まで闘ってくれるのか。本当に生命を投げ出して闘ってくれるのか、について疑問をもっている。だから大衆はそう簡単に腹を割らない。その壁を打ち破るだけの大衆からの信頼を我々は取り戻さなければならない。そのためには我々が団結していなければならない。君ら仲間同士でけんかしてるじゃないか、だから信用できない、と言われる。何が統一だ、偉そうなこと言うな、と言われます。我々はこれを克服しなければならない。

今後それぞれの組織が全力をあげて闘い、その闘いの中で行動を統一させていき、相互信頼を獲得していく。共同した闘いをすすめていく中で、労働者階級の革命性を本当に代表した、そして全人民を指導できる、そういう前衛政党をつくるために、お互いに努力していきたいと思います。

 

大衆自身のたたかいを!

―労働運動の根本的転換のために―

長谷川 

(労働運動研究所代表)

 

最近におけるサンスイ電気労組や運輸労連清掃労組その他にたいする資本・権力の攻撃を見ていると、八O年代の資本攻勢が大衆の利益を守ってたたかおうとする「あたりまえの労働組合運動」すら、その存続を許さないという、きわめて厳しい質をもって展開していることがますます鮮明になってきた。労働者の基本的諸権利も許さず、容赦なくはく奪していく攻撃が至る所で強められてきた。国鉄労働者にかけられている一一〇二億円損害賠償問題も、その哺環であり、当面の焦点である。いまこれらの諸攻撃と真に大衆的な力をもって対決する労働運動の再構築が強く求められている。

0年代における労働運動の借級的な再構築をめざす上で」何が基本問題なのかが鋭く問われている。この点を掘り下げて考えることが、すべての活動家に求められている。この問題を考える上で、戦後労働運動の教訓に学ぶことは不可欠の作業であると考える。このような観点から今回は、戦後労働運動の激動をその最先端でたたかってこられた長谷川浩氏に問題提起をしていただいた。読者諸兄の検討をお願いしたい。

 

八一年をむかえて

 

去年、一九七九年は、外ではイランとアフガンがあり、今年は光州とポーランドがあった。これは国際的にプロレタリアートが動き出したということである。

起動力としてプロレタリアートが動きだしたということは、基本的に国際的に情勢を変えていく胎動が起こってきたということだ。

ところが日本では、七九年には反マル生闘争があったが、今年は大きな動きはダブル選挙しかなかった。ダブル選挙で特徴的だと思われるのは、それまでは政党不信、あるいは労働組合信、いわゆるシラケがあって、棄権率が過半数近くまで上昇していたのが、今回はそれが一

挙に自民党に流れた。このことが今年の闘争の中では考えてみなければならない大きな問題だと思う。

今年は運動の中では、大衆闘争というのは、ほとんど行われず、戦線の再編成とか離合集散とかいう中での討論というものが基本的な動きだったと思う。これは右も左も同じである。

ダブル選挙までは、労働戦線の右寄り再編成や社公民・中道連合結成への期待が強くあった。もちろんマスコミが煽っていたということはあったが、それらを担っていた人々が自らの運動に過信をもっていた。実際にはシラケがふえていたのだが、過信をもってそこに希望をつないでいくという形だったと思う。

ところが大平が死に、その後で選挙だけは統一してやるという自民党・大平の線でいかれて一挙に絶対多数をとると同時に、自民党がそれまでの内部対立を一応解消して態勢を立て直した。そして途端に、安保、軍拡、増税、有事立法など、反動化がすすみはじめた、というのが今の形だと思う。

経済的基盤の分析はここでは省くが、独占の側は経済の競争力を強化するという点では十分な手を打ってきている。他の国が不況で経済が停迷している中で日本だけは輸出をのばして基礎を固めてきている。そういう条件とその競争力をどこまでも維持していくということで、合理化、省力化、コンピュータi化が徹底的にすすめられた。切り捨てるものは切り捨てる。それに抵抗するものは全部たたきつぶしていく。改良的な、初歩的な要求でさえ許さない。そういう意味での労働組合運動も許さないという態勢がつくられてきた。

 こういう現実から見れば、中道などというものは大変甘いものであるし、それどころか今の独占の搾取・抑圧体制の上にのって、それに形だけ格好をつけていく、つまりいわゆるタカ派でおさえるか、

ハト派でおさえるかという意味での、ハト派でおさえるという内容でしかなかった。従ってそこからいわゆるシラケが出てきたのは当然であった。七かし中道路線を担った人々にとっては、それが権力や政権に近づくうまい道であるかのように錯覚し、それがどんでん返しをくったというのが経過だったと思う。

右寄り再編成のなかでの主要な対立点は、政治的には、安保を認めるということ、あるいは今すぐ安保廃棄はいわないということ、それから自衛隊も認める、その増強も認める、自衛隊の解散とか廃止という問題はひっこめることであったし、もう一つは原子力、もっといえば合理化を認めるということであった。

労働組合運動の点でいえば、基本的には賃金自粛論だと思う。もっとも広範な労働者が期待している賃上げというもっとも改良的な要求を抑えるということ。

たとえ幹部請負いのスケジュール闘争であっても、ないしは幹部取引のストライキであっても抑える。

今までの民同のストライキのやり方というのは、全部幹部に要求と闘争方針と交渉権と妥結権を集中してしまって取引をする。取引が成立しなければ労働力を売りませんよという意味でのストライキを打つというのが基本的な考え方だった。

これに対して、それをもつぶして初めからストライキはやらない。つまり事後処理方式、同時決着で、鉄鋼の一発回答が出ればそのままのむ。どうしてものめない時にだけ事後にスト権投票をする。ここに考え方の対立点があった。

しかも現実的には、このJC路線の考え方が勝った。総評の中にも浸透した。とくに八○春闘では、七単産共闘という形で鉄鋼一発回答が七単産におしつけられた。私鉄はプラス・アルファをもらったけれども、それは例外で公労協には適用しないということにされた。民間準拠ということで鉄鋼一発回答で賃金が事実上決まってしまった。ストライキはしない、あるいは自粛するというJCラインの設定、すなわち鉄鋼資本を代表とする独占資本の賃金統制体制が七単産共闘という形で固まったのが、八○春闘の状況だった。

おそらく八一春闘もその通りにいくだろう。総評大会の方針も、七単産共闘を強化するという形になっている。八一春闘において、この賃金統制体制を打ち破ることは、かなりむずかしいとみなければならない。

しかし革命的な立場に立つ労働運動ではない、全く改良的な立場の労働運動をもおさえなければならないという客観的な情勢が生まれてきていることは、独占にとっての危機だと思う。

このような独占の政策に乗って、政治的には、安保。自衛隊承認の中道路線が推進されてきた。

 

この一年の論議を通じて

 

このような情勢にたいして出てきた考え方が、第一は、非常に政治主義的に、社会党は革新でなくなった、つまり、社会党は安保・自衛隊を肯定するという点からもはや革新の性格はなくなったという批判に立った共産党の統一懇運動である。

そこには労働組合運動にたいする全協的な考え方がある。左翼的な組合をつくる、つまり左翼が、あるいは共産党が政治的にも、組織的にも、指導部をにぎった労働組合をつくるということである。

さらにそこに今の共産党の議会主義、選挙主義が結びついていて、自分の選挙地盤をつくるということ、候補者をたてる基盤をつくる、つまり選挙ど被選挙の両方の基盤をつくるという考え方と結びついている。

そのことは、議会主義を批判する左翼的な部分にあっても、そういうそのような自己の支配下にある組合をつくりたいという考え方が根強く続いていると思う。

これが少数派組合論となったり、赤色組合主義的傾向となってあらわれてくる。その傾向は、共産党の場合のように、そのまま全協の考え方をひきついでいるわけではないけれども、それらが過去において、実践的にも理論的にも正式に総括され克服されてきていないから、どうしても再生産される。

そうした中で総評系の労働組合幹部の中にも、必ずしも現在のJC路線に賛成しない、あるいは反対する要素が当然生まれてくる。社会党・民同派系の中に、分解が進行し、対立が激化していく要素がある。今のところ反対派の方が勢力が小さいから目立ってはいないが、それでも岩井さんその他の人々のような勢力が存在するし、それなりの運動を追求していくと思う。その人たちが過去の組合主義的な意味での戦闘性にとどまるのか、とどまらないのか、とどまった上での反対なのか、それ以上のものになっていくーのかが、これからの一つの問題だと思う。

それから議会主義そのものにまでいってしまった共産党系の活動家たちは、革新や左派を標榜してもきわめて主観的で独善的であって大衆とは結合できないと思う。もちろん共産党系の中にも、全部が議会主義になつたり全協的になったり赤色労働組合主義に没入してしまっている人ばかりではない。しかしそういう人たちはきわめて少数であり、しがもその人たちは公式の発言をしていない。

運動の中では、たとえば沖電気争議団の統一のような活動はしているけれども、公式の主張はしていない。討論の場に乗ってきていない。わずかに統一懇にたいして新しいナショナルセンターはつくらないといって、赤色労働組合主義的なものに反対の立場を明確にしたのは、中西五洲君ぐらいだ。もちろん中西君一人ではなく、そういう潮流というものが共産党系の中にもあることはたしかだと思う。

問題はむしろ若い人たちの中の、いわゆる新左翼といわれる部隊の中での赤色労働組合主義的傾向の再生産という問題である。これは何といっても若い人たちrの間での問題だから、一番真剣に考えてもらわなければ困ると思っている。

雑誌『季刊労働運動』23号にのった編集委員会名の提言「『われわれの組合』をめざせ」を読んでみると、今の状態を克服していくための問題として、七〇年安保闘争にもどってこれを発展させていかねばならないと提言している。これはきわめて特徴的だと思う。具体的に引用すると次のようになっている。

(「危機の時代」にふさわしい政治的、組織的展望の問題を考える上で)「われわれが立ち帰らねばならないのは、七〇年安保闘争の教訓である。七〇年安保闘争の中でわれわれは、反戦青年委員会、全国全共闘、べ平連等の独自の政治闘争をみずからの闘いにしてきた。そして社会党・民同の反安保実行委員会、日共系の諸要求貫徹実行委員会に対し、公然と大衆的な独自の政治行動、大衆運動を対置して闘ったのである。そして、これを支えるものとして、不充分ながらも新左翼諸党派間の統一戦線が形成され、社民・民同内の戦闘的労働者との共同闘争の場が作り出されていった。今、求められていることは、この七〇年安保闘争の今日的発展の陣型なのではなかろうか」

この提起は六〇年安保闘争の中から生まれたラジカリズムの流れをひいていると思う。

六〇年安保闘争の時、議会主義的な請願デモと左翼的な国会突入デモとに分裂した。前者は小ブルジョア民主主義の議会主義であり、後者は小ブルジョア民主主義のラジカリズムであった。七〇年安保の闘争も、デモ闘争であった。労働運動には入り込めなかった。当時の新左翼の運動は、労働運動に行ききれなかった。

そのことの反省があって、その後新左翼の中に、どうしても労働運動の中に入らなければ駄目だという気運が出てきた。

しかし七〇年代の新左翼の運動は、三里塚闘争、狭山闘争、そして反原発などの地域住民闘争が中心で、ほんとうの意味でのプロレタリアートの運動に行ききれてなかった。

それではプロレタリアートの運動自体はどうであったかといえば、もっとも重要なのはスト権ストの闘争だったと思う。

これは、職場の反合理化、反マル生の闘いの中から発展した労働基本権確立の闘いであった。

今日でている二〇二億円損害賠償問題は、スト権ストに対する損賠であり、これに対決する闘いはスド権闘争そのものであり、あるいはその延長である。

造船合理化をはじめ、多くの大合理化があったが、ほとんどが十分には闘えなかった中で、ともかく一つの系統的な闘争として残ったのが反マル生闘争であった。それはスト権ストの敗北の中から、もう一度権利の問題に立ちもどって、職場からいろいろな形で再起がはかられながら挫折してきたというのが現状だったと思う。

そういう意味で、この闘いに道を開いたのは動労の職場の労働者であった。そしてやがて、全逓、国鉄その他の産業の無党派の活動家の間から、この問題への本格的な追求が始まった。若干の党派もその問題に注目し、取り組んでいった。

 

これにほんとうに突っ込みきれるかどうかが、本当に共産主義的で、革命的な党派として、労働者階級と結びついていけるかどうかという問題だと思う。

従って、七〇年安保にもどるのではなくて、六〇年安保、七〇年安保にでてきたものを克服して、もう一ぺん労働者の基本的なものにもどっていく、労働者自身の中から生まれてきた反マル生闘争やスト権スト、反合理化とその中での権利の確立、それを基礎にした賃金闘争、全国的な統一的な賃金闘争をいかに回復していくかという方向にいかざるをえないと思う。

 

運動の基本問題に立ちかえろう

 

戦後の労働運動の中で、労働組合次元の運動といえば、賃金と合理化しかないわけで、その合理化の中で権利の問題が激しく闘われている。賃金闘争といえども、権利の闘争と無関係ではない。

そうした労働者階級の闘いの中で基本的な思想が崩されてしまっている。

一つは民同の幹部請負いの闘争からとJCの同時決着・事後処理方式という形で崩されているし、他方では新左翼のラジカリズムから、これは学生運動から出ているのだが、このラジカリズムの中で崩されている。こういうものの中で労働者階級の基本的な問題がきわめてあいまいにされ、不明確なままできてしまっている。

まず団体交渉権がきわめて不明確になっているという問題がある。つまり団体交渉とは、幹部が経営者と密室で交渉することと理解され、取引にすぎないものを団体交渉として認めてしまっている。かえろう

スト権、交渉権を幹部に集中するということが一般化されてしまったから、これが当り前のこととして公然とまかり通り、したがって幹部と経営者との交渉は全部非公開で、密室の話し合いになっている。

それがさらにひどくなって根回しになってしまう。

スト権、団体交渉権を集約するということがよく言われるが、本来、スト権、団体交渉権は労働者全部が持っている。現場の労働者自身も持っている。たとえば一つの職場闘争をやる場合、まず現場の職制と交渉することになる。しかし職制は私には権限はないといって逃げるから、問題が上部機関に移されていき、中央の交渉までいってしまう。集約しなくてもこういう慣習として団体交渉権が集約されてしまう。こうして幹部による密室の交渉にひきこまれてしまう。

その職場の問題で職場闘争がやられてかりにこれが中央交渉となったとしても現場の労働者に団体交渉権があると思う。

中央交渉の場に、その職場の労働者が参加しなければならないし、参加しない交渉は団体交渉とはいえない。本格的な大衆交渉にならなくとも、交渉は必ず公開でやられなければならないし、各組織が責任傍聴者を派遣するなり、大会を開いておいて中間、中間で交渉内容を報告するというようなことはやらなければならない。そうでなければ大衆に責任を負った、大衆の意志で交渉するという形にはならない。幹部まかせになってしまう。

こうなったら交渉権というものはまげられてしまう。

ストライキというものも、労働者全部がスト権をもっているのであって、分会でも、支部でも、地本でもスト権をもっているのであって、そこの問題で独自のストライキを打って、それを全体が援護していくという連帯性を確立しない限り、本当の意味でのスト権はとれない。

だからスト権ストでネトライキになってしまうということは、この姿勢が崩れてしまっているという問題がある。

戦後そこを打ち樹てようとしたわけで、ほとんどが大衆交渉になった。たとえば東芝の闘争の際にも、堀川町の広場に三千なり五千なりの労働者は集まっていた。

そして始終報告がきていた。警察がくるとか米兵がくるとかなれば、その労働者たちが防衛する。そういう形態での闘争とそこにある思想がむこう側にはこわいのであって困それをむこう側はなるべく幹部だけとの話し合いにもっていこうとする。

この点では敵側は非常に意識的である。スト権闘争をみても、最初は職場からの反マル生闘争や、動労の機関助士廃止反対闘争の段階では、闘争も現場でやられており、交渉も現場の労働者がやっていた。ところがこれを全国的な統一闘争にした時には、スト権の闘争にした時には、まず交渉権が幹部に吸いあげられた。合意七項目が結ばれた時も、何らの大衆交渉はなかった。そこには団体交渉はない。

労働基本権であるスト権を要求していく闘いの中で、団体交渉権をすでに放棄してしまっている。正式の団体交渉をやれと要求して闘っていく闘いがなかった。

これではスト権がとれるわけがない。本当の意味でスト権を回復するという姿勢が確立していないのである。

八日間のスト権ストの時も、富塚事務局長が各方面に根回わしをして、条件付スト権付与の了解をとりつけた上で、格好をつけるために三日間のストを打ってケリをつけようと思ったら、専門懇の提言が出てタカ派の圧力に三木首相が屈服してひっくりかえされてしまった。しかもあのストライキでは、職場を占拠したケースは非常に少なくて、おおむねネトライキであった。青年労働者が職場に集まってきはじめた頃、ストライキは中止されてしまった。

表紙へ