ブハーリンの名誉回復

ブハーリンの名誉回復

ソ連共産党第20回大会以降の問題状況

植村 邦

労働運動研究

19887月 No.225

 

本年一九八八年、ロシア革命の主要な指導者の一人であったニコライ・イワノビッチ・ブハーリン(一八八八〜一九三八)が、スターリンの法廷において「反革命組織」「右翼的トロツキスト的ブロック」の代表者として判決を受け(三月十三日)(銃殺刑、三月十四〜十五日)されて半世紀たっている。

ブハーリンは一九一七年にロシア共産党(ボリシェビキ、二五年にソ連共産党と改称)の中央委員、一九年に政治局員候補、二四年に政治局員となり、機関紙誌『プラウダ』、『ボリシェビキ』の編集長、コミンテルン執行委員会議長等を務めたが、三七年、終局的に党から追放された。ブハーリンはまたソ連科学アカデミーの当初の会員であったが、三七年、会員及び幹部会員の地位から追放された。

半世紀後、スターリン時代の「弾圧・粛清」による犠牲者の名誉回復問題を検討したソ連共産党政治特別委員会は本年二月五日、三八年三月の法廷で判決を受けた二十一人(このうちブハーリン、元首相ルイコフ等十八人が死刑)について、二十人の名誉回復を決定した。外務省スポークスマンのゲラシモフ情報局長によると「今回の措置は法的な面での」名誉回復であり、党・政治面での名(1)誉回復は検討中」である。

二月十二日のソ連共産党機関紙『プラウダ』はブハーリンの論文「イリイッチ〔レーニン〕の思い出」(二五年一月二十一日執筆)(2)掲載した。また、五月十日ソ連科学アカデミー幹部会は、ブハーリンの科学アカデミー会員の称号を復活す(3)ると決定した。

第二十回党大会とフルシチョフの逡巡

ソ連共産党第二十回大会(一九五六)以前にはブハーリンといえばつまり「人民の敵」「裏切りもの」等々ということであった。第三インタナショナルの潮流に連なる共産主義運動、さらにはひろく左翼運動のなかで「ブハーリン主義」という非難は(「トロツキー主義」とともに)決定的な意味をもっていた。一九四八年、ユーゴスラビアの「チトー主義」がコミンフォルムによって非難されたのは、「ブハーリン主義」「トロツキー主義」の汚名においてであった。日本共産党にかかわる「五十年問題」においては、相手方を非難するのにこの「チトー集団」等の汚名があびせられている。

ソ連共産党第二十回大会は、ソ連社会主義建設と国際共産主義運動における歴史の真実を回復し、運動に新しい展望を切り開く契機であった。ここに、NS・フルシチョフ第一書記(当時)の功績を認めなければならない。この時期にフルシチョフの「秘密報告」をはじめ、スタ

ーリンの理論的政治的活動を主要な対象とする多くの証言・研究が現われた。ソ連在住の批判的共産主義者ロイ・メドベデフの『共産主義とは(4)何か』はわれわれによく知られている。メドベデブの研究と判断によれば、ブハーリン、ルイコフ等の処刑は「共産党、ソビエト人民、国際共産主義に対するスターリンの恐るべき犯罪のひとつに過ぎな」い。(5

すでに、第二十回大会直後の中央委員会で三六〜七年のスターリン法廷の宣言についてその妥当性が論議され、五七年には三七年に判決のあった「軍事グループ」(トハチェフスキ、ヤキール等軍首脳)ら名誉回複が決定している。ロイ・メドベデフの兄弟ジョーレス(イギリスに移(6))等の証言によると、フルシチョフは五八年にブハーリン、ルイコフ等の名誉回復を決定しようとした。

テロリストとかスパイとかの判断に基づく判決が形式的に妥当でない、こと(「法的な面での名誉回復」)は明らかであった。

フルシチョフの見解にはミハイル・スースロフ政治局員(当時の名称は幹部会員)が反対した。スースロフはヨーロッパ諸国共産党指導部に情報を与えたが、名誉回復の指向に賛成したのはイタリア共産党だけであった。特に、フランス共産党M・トレーズ書記長はモスクワに出向いてフルシチョフに、ブハーリン、ルイコフ等の名誉回復を止めるよう説得した。「第二十回大会とハンガリー事件ののち、われわれは党員のほぼ半数を失った。公開の法廷で判決を受けたこれらの人びとの名誉を回復するならば、われわれは残りの半数を失うおそれがある」と。フルシチョフは後年、この名誉回復を実行できなかったことを非常に後悔したといわれる。

ブハーリンに対する「テロリスト」「スパイ」等という宣告が不当であったことは、六二年十二月のソ連史学者会議で党中央委員P・ポスプーロフによって言明されている。

第二十二回大会(六一・一〇)後の時期に、党の長老活動家が党中央委幹部会にブハーリンの名誉回復を求める手紙を提出したとき、このボスぺーロフの言明が引用されている(7)

「現実の社会主義」テーゼのもとで

フルシチョフ指導部の晩年には第二十回大会の革新的な指針からの退行が明らかであった。国際的な水準でも、ソ連共産党や第二十〜二十二大会の指針を積極的な展望として支持したイタリア共産党等に対し、「現代修正主義」反対の名のもとに抗争する勢力が現われた。これらの勢力(当時の中国共産党、アルバニア労働党、日本共産党等)によると「現代修正主義」の代表はフルシチョフ、トリアッチ、チトー等であるが、特に、エンベル・ホッジャ(アルバニア党第一書記)によれば、チトー修正主義集団とは「スターリンとモロトフが署名した有名なソ連共産党()中央委員会の手紙では無論のこと、一九四八年にコミンフォルムで採択され、のちに全世界のすべての共産党・労働者党に支持された…・決議のなかでも、公然と非難(8)」されている集団である。つまり「ブハーリン主義」「トロツキー主義」の集団である。

ソ連内外の諸条件のもとでフルシチョフが引退を余儀なくされ、代ってレオニード・ブレジネフの指導部が成立する(六四・一〇)とともに、退行過程は一層明らかになった。こうして、ソ連では長い間ニコライ・ブハーリンの名は禁句になっていた。

この間、欧米諸国ではソ連史や特にブハーリンに焦点をあてた真しな研究がいくつも発表されている。第三インタナショナルの潮流に連なる共産主義・労働者運動にとっては、第二十回大会の革新的な展望にたつならば、ソ連社会主義建設における国際的国内的な政治、経済、文化等諸側面にわたる矛盾の現実と、この現実での党、労働組合、諸制度の活動、その内的抗争等を具体的に分析することが必要であった。「スターリン批判」をば「マルクス・レー二ン主義の一般法則」に基づくイデオロギー的批判にとどめることは、許されなかったはずである。ブハーリンにかかわる問題も第一にこの視点「歴史の真実の回復」から、研究されるべきであった。

ソ連国内ではR・メドベデフ等の少数の批判的共産主義者が困難な制約のもとで、このような研究を続けた。ブレジネフ指導部のもとで「現実の社会主義」なるテーゼが支配的になると、歴史的過程としてのソ連社会主義の研究はいよいよ困難になった。「現実の社会主義」はソ連社会主義の今日を「マルクス・レーニン主義の一般法則」の具象化と把握する。

メドベデフは意欲的な研究『十月革命は不可避であったか(9)』の序文においてマルクスの次の評言(『ブリュメール十八日』より)を引用している。「十八世紀の革命のようなブルジョワ革命は、一つの成功からつぎの成功へとすばやく突進し、その劇的効果がたがいにせりあい、人も物も火の玉につかまったかと思われ、有頂天が日常の精神である。しかしこんな革命は命がみじかく、やがて……ながい二日酔が社会をとらえる。ところがこれに反して十九世紀の革命のような。フロレタリア革命は、たえず自分自身を批判し、自分がすすむあいだにたえず中断する。一見完成したとみえるものへ、もう一度あらたにはじめるためにたちかえる。自分のはじめたこころみの、途中はんぱさや、よわさや、くだらなさを無慈悲に徹底的にあざわらう。(10)」続いてメドベデフは自己の研究の意図を以下のように述べている。

「・・・:マルクス主義革命は自己の行程を時折中断し、弱さ、誤り、犯すことのありうる犯罪さえも厳しく評価することを恐れず、経てきた道のりを冷酷に批判的な眼で眺めることによってのみ、自己の実践的・理論的目標を成功裡に実現することができる。私が十月革命史と内戦とに関する一連の研究をおこなおうと決心したのは、まさしくマルクスの評言に鼓吹されてである。本書はこの研究の最初の成果である。」

西欧諸国共産党では、イタリア共産党の場合を除いて、このような研究を進めた人達はむしろ少数派であった。後年、ユーロコミュニズムが短い期間の展開ののちに退場しなければならなかったのは、ソ連のブレジネフ(書記長)、スースロフ(イデオロギー担当政治局員・書記)、ポノマリョフ(国際共産主義運動担当政治局員候補・書記)等の圧力(11)だけによるものではなかった。ユーロコミュニズム諸党は(イタリア共産党を例外として)ソ連社会主義建設を歴史的過程として「冷酷に批判的な眼で」研究することに弱点があった。この弱点はまた、「マルクス・レーニン主義の一般法則」の信奉、したがってまた、スターリン主義のイデオロギー的批判とメダルの両面をなしていた。

この点において日本のわれわれはどのように自己評価すべきなのであろうか。

歴史研究と政治的関心

イタリア共産党の出版社リュニティは第二十回大会から間もない時期に、第三インタナショナル時代における社会主義運動史に関するドキュメントを編集した「社会主義の思想と活動」その他のシリーズを企画した。そのうち一巻として一九六三年、ジュリアーノ・プロカッチの編集になる『"永続革命"と一国社会主義一九二四〜一九二六(12)』が刊行された。これはN・ブハーリン、I・スターリン、L・トロツキー、G・ジノビェフの論文からなっている。

レーニン死去後、この書物の表題のテーマをめぐるロシア共産党指導部内の対立と一九二六年という年については、イタリア共産党創始者の一人であるA・グラムシが同党政治局を代表してソ連共産党中央委員会に宛てた手紙(二六・一〇(13))が想起される。しかし、六三年当時はこの手紙は広くは知られていなかった。

G・プロカッチが自らに課しているのは歴史的な課題である。「……一九五六年の事実と暴露とによって切り開かれた"再発見"の局面は、社会主義の近年の歴史とその展望とに関心をもつ人びとの意識のうちでは、すでにのり越えられ、今は一層熟慮された研究の局面に移っている……。」今日問題なのは、党史の公認教程にみられる欠落を発見し、沈黙を強調し、歴史的真理の虚構を明るみに出して、公認の歴史に反歴史を対置することではない。問題は、革命以後のソ連の歴史や第三インタナショナルの歴史のような諸問題の時期と関連とにおいて歴史的判断の土台づけを可能にする分析と体系化の仕事を始めることである。

リュニティ社はさらに六九年に、リサ・フォア編集による「N・ブハーリン、E・プレオブラジェンスキー"社会主義的蓄積"」論集を出版している。これは、プレオブラジェソスキーの有名な論文「社会主義的蓄積の法則」(一九二四)をめぐる彼とブハーリンとの論争、関連するスターリン、ジノビエフ、カーメネフの論説(一九二四〜二五)からなっている。

うえにあげた二つの論集とも「ソビエトの特殊性」という歴史的関心に焦点があてられている。後年、グラムシ研究所主催による研究集会「ソ連史の諸契機と諸問題」(一九七八・一)においてアドリァーノ・ゲヅラ(14)は、この「二つの貴重な論集」について、イタリアの民主主義的指向の歴史学者(多くの共産党員学者を含む)のソビエト研究における「象徴的性格」を示すものと述べている。

A・ゲッラは歴史研究における歴史的関心とより今日的な、政治的関心との、必ずしも単純ではない関係について以下のように述べている。

ソビエトの歴史とその現実の諸側面に関してイタリア人による研究が盛んになったのは、「イタリアの文化、さらに一般的にはイタリアの社会の極めて明確な要求」の表現である。歴史的探求というとき、この問題をいつまでも「ソ連との断絶」とか十月革命との断絶とかいう伝統的な形で提起する人びとがまだいる。だが提起されている真の要求はもっと複雑であり、むしろ十月革命への連続性をもたらそうとする道の探求の問題にかかわっている。「ソビエトの経験に関する新しい考察と新しい分析の必要性が確認されてきているのは、今日のイタリアにおいて社会主義への異なる道だけではなく、異なる社会主義という問題」が緊切に提起されているからである。ひとつの社会主義モデルということに「ノー」というだけではなく、ソ連の経験では発現されなかった、あるいは失われたもろもろの社会主義的価値を復興することが問題なのである。

この理由によってイタリアにおけるソ連研究はまず「ソビエトの特殊性」とソ連史の主要な「節点」、す,なわち、十月革命の諸動機、「一国社会主義」の選択、スターリン主義の諸問題等から開始された。このような研究の発展のなかで、ゲヅラはさきに述べたように、プロカッチとフォアによる「二つの論集の象徴的な性格」を認めているのである。

「ブハーリン問題」今日性の意義

グラムシ研究所が研究集会「ソ連史の諸契機と諸問題」を開催した一九七八年は、ブハーリンが処刑されて四十年にあたっていた。「ブハーリン事件」はヨーロッパの民主主義的運動のなかでクローズアップされることになった。

ブハーリンの妻アンナ・ミハイロブナ・ラリナも十八年の迫害を受け、第二十回大会後に名誉回復をえた。息子ユーリは母方に育てられユーリ.ラリンと呼ばれたが、長い間、両親のことは知らされなかった。二人は六一年はじめから党内及び国家首脳部に、父の名誉回復を訴えたが、遂に受け入れられなかった。彼等は国際的な連帯の要請を決意した。イギリスのバートランド・ラッセル財団はYラリンの手紙を公表したが、イギリスの労働党、共産党その他左翼運動、フランスの社会党その他の左翼運動から支持が寄せられた。フランス共産党の反応は鈍かった。

ラリンはイタリア共産党書記長エンリコ・ベルリンゲルにも支持を求める書簡(七八・三・十二)を送った。このなかでラリンは、ソ連党指導部に対する訴えの却下が「中央委員会統制委員会の一職員(14)」によって電話で最終的に通告された(七七年)ことを述べている。その理由は、裁判の文書の調査が完全には終っていないので判決文は撤回できないこと、したがって、名誉回復の問題はまだ解決できないことであった。「スターリンの犯罪の重荷をいまなお肩に背負い、これを歴史のごみ箱に投げ入れることのできなかった人が、理想のために闘うことができるとは、信じられません」(ラリン)

ベルリンゲルに書簡を送った理由についてラリンは次のように述べている。「……あなたが西欧の最も重要な共産党の指導者であり、かの重荷を遠く投げすてているばかりではなく、ニコライ・イワノビッチ・ブハーリンが国際的な共産党員、国際共産主義運動の活動的な一員であったからでもあります」。多くの国の共産党員が彼を知っており、いま彼を想い起こしている。「そのような人びとの幾人かは存命しており、イタリア共産党の隊列のなかで闘っています。私は特に同志ウンベルト・テッラチーニのことを考えています」。父の名誉回復を求めるカンパニヤには「あなたが最も適切と思われるしかたで……参加することをお願いします」とラリンは書いている。最後に、母AM・ラリナが記憶していたブハーリンの「次代の党指導者」への手紙を、「中央委員会(15)」に伝えたことを求べ、この手紙の最後の言葉をあげてラリン自身の手紙を結んでいる。「同志諸君、諸君が共産主義への勝利の行進でかかげる旗には、私の一滴の血があることを知っていただきたい。(16)

イタリア共産党の機関紙『ウニタ』(七八・六二六)と『リナシタ』(七八・六・三〇)はそれぞれパオロ・スプリアーノとジュアーノ・プロカッチによって、ラリンの訴えに好意的な論説を掲げた。

プロカッチは『リナシタ』の論説においてブハーリンの政治的思想の「今日性」の問題に立ち入っている。モーシェ・レビンの著作(17)によく現おれているひとつの潮流はこのような「今日性」を強調し、ソ連における経済改革の議論(六五年の「コスイギン改革」の試みが想起される)での改良的傾向の先駆者としてのブハーリンをみている。プロカッチの評価によれば、ソ連の歴史と現実に関するこの型のアプローチは、シャルル・ベトレームの著作によく現われている「労働者主義的」トロツキー的指向(18)のアプローチよりも一層説得的である。しかし、レビンの型のアプローチにも「保留と批判」がありうるとして、プロカッチ自身の歴史に対する姿勢の異なることを指摘している。「われわれは、常に未解決のままである複雑な問題に着手している」のである。ユーリ・ラリンの訴えがあらためて確認する機会を提供した、ひとつの原理的な立場がある。問題はむしろここにある。すなわち、ブハーリンのようにソビエト運動と国際的運動との隊列のなかで闘ったすべての人びとは、完全な権利をもってその歴史に属するということである。

「……歴史的真実を回復すること、それは誹謗されて死んだ同志に正当な評価を与えるだけではなく、われわれの運動にとって必要なことでもある。われわれの過去、そのすべて、成功、誤り、犯罪、悲劇を知ることはわれわれの社会主義的意識を強くしないではいない、と私は確信する。」

この時期、ユーロコミュニズムを「左から」批判する勢力には、イタリア共産党等がブハーリンの著作を再発見して、自己の「民主主義的転換」や「漸進的な革命」のテーゼを合理化しようとしていると非難するものもいた(19)。これに対して、プロカッチはすでに彼の回答を与えている。

グラムシ研究所は国際的な研究集会「ソ連及び国際共産主義運動の歴史におけるブハーリン(20)(八○・六)を主催している。ここでA・ゲッラは次のように述べている。NEP〔新経済政策〕やブハーリンの思想には「歴史的な限界」があるのであって、「ソ連社会主義及びその到達した実情の批判的分析と、社会主義における自由のテーマに関する全く新しい考察」とを通じて、社会主義を達成しようとする人びとにとっての参照点とはならない。

「理論家ブハーリンと活動家ブハーリンにとって一番欠けている」ものは「政治的民主主義のテーマ」である(P・スプリアーノの結語)。これは「現実の社会主義」を批判した勢力がまだ解決していないテーマである。

(1)朝日新聞八八・二・六

(2)朝日新聞八八・二・十三

(3)朝日新聞八八・五・十一

(4)R・メドベデフ(石堂清倫訳)『共産主義とは何か』(上・下二巻)三一書房、一九七三〜七四

(5)R・メドベデフ『ブハーリソの最晩年』(七九、ローマ)

(6)Y・ブラソク、D・カイゼルグルーベル『ブハーリン事件』(七九、パリ)論集より。

(7)?上巻三〇〇〜三〇一ページ。(8)『スターリン主義とアルバニア問題』(六二、合同出版社)二四三ページ。

(9)R・メドベデフ七六、ローマ。

(10)大月選集版第五巻二八七ページによる。若干の省略「……」は筆者による。

(11)スペイン共産党、フランス共産党等の元最高指導者による評言。例えば、植村『労働運動研究』八五・三(スペイン)、八八・一(フランス)等。

(12)この論集とこれに関係する論争(イタリァ共産党内の)及びグラムシの手紙について、かつて紹介したことがある(『マルクス主義』→九六五・三)。ここで、二六年一〇月の手紙とこれに対するトリアッチの批判的見解について述べたが、その後、このトリアッチの見解に対するグラムシの反論のあることが明らかにされている。次項参照。

(13)石堂清倫編『グラムシ問題別選集』第三巻にグラムシの手紙(政治局の書簡とトリアッチ宛の)がみられる。

(14×15)(6)の論集にある仏訳による。

(16)(4)上巻二九八〜三〇〇ページ。

(17)M・レビン『一九二八年から三〇年にいたる農民とソビエト権力』(一九七二、ミラノ)等。

(18)次項の論調にみられる。

(19)(6)所載のLCR(トロツキー主義組織)機関紙『ルージュ』(七八・一一・二七)

(20)「革命と改良のはざまにおけるブハーリン」(八二、ローマ