大原社会問題研究所雑誌No.572/2006.7に掲載されたものです。伊藤晃氏と編集部早川氏の掲載の了解を取ってあります。

刊行委員会編監

『山本正美治安維持法裁判―続/山本正美

陳述集―裁判関係・論文集』

評者伊藤晃

  本書の著者山本正美は,1920年代半ばにソ連(クートヴェ)に留学,プロフィンテルンやコミンテルンで活動し,いわゆる32年テーゼ作成に実質的に関与した唯一の日本人になった。32年に帰国,このテーゼに基づいて壊滅状態の日本共産党を再建する責任者となり,33年春に検挙された。公判に付された山本は法廷で長大な陳述を行った(36-37)。本書はその陳述の筆記を原本として,山本に親近した人びとが刊行したものである。

  本書刊行以前1998年に『山本正美裁判関係記録・論文集』(新泉社)が刊行され,これには彼の予審尋問調書と獄中手記が含まれている。これらと本書所収の陳述とは重なるところも多く,あわせて扱われるべきものであるが,そのなかで陳述の特徴は,共産党再建運動にまつわることがほとんど述べられず,もっぱら32年テーゼの理論上,政治上の立場を説いていることである(獄中手記もそうだが)。このテーゼを正しく理解させ,対立する諸見解を批判して党再建の基準を与えるために,彼は肉声を公判廷から運動に届かせようとしたのであろう。

  これは当時の運動には生かされなかったが,第一級の歴史資料になった。山本は前述の経歴からだけでなく,その理論能力からも,32年テ一ゼを語るのに最適の人である。彼の能力はソ連滞在中,アキなるペンネームの諸論説にも示されたが,コミンテルン内で相当高い評価を受け,日本問題については欠かせない要員になっていたようである。日本国内で活動した共産党員やマルクス主義学者と比べてみてもその水準は高く,本書は当時の日本共産主義運動の理論の程度(正・負の両面で)をはかる手がかりになるものである。本書刊行の意義は大きい。

 陳述は32年テーゼ作成の経緯については述べていない。しかしそこで山本は,コミンテルンがこのテーゼに何を期待したかを示唆しようとした。彼は戦後,自伝『激動の時代に生きて』(1985年マルジュ社刊。以下『自伝』と略称)など機会あるごとに,当時スターリンをはじめソ連上層部をつき動かしたのは,「満州事変」で顕在化した日本の極度の侵略性に対して日本の運動を立ち向かわせねばならないのに,この点での日本国内での認識が弱いと焦慮したことであった,と述べている。陳述はまさにこの問題,日本の侵略性が近代日本の経済,社会,政治のどこに決定的に起因するか,当面の国際情勢がいかにそれを強めているか,従ってこれへの対決がいかに日本革命の中心問題であるかに集中,というより終始している。

 このテーゼが,スターリンの意を汲んだ絶対主義天皇制なる観念を基底にもつ歪みによって,日本の運動にマイナスの効果を与えたことは,すでに論議を要しないであろう。コミンテルンでもこのテーゼは数年で棚上げになったらしい。しかし陳述の当時はもちろん,その後も山本は,日本の侵略性と正面から戦うという実践的熱気が32年テーゼに込められていたと考え,それを運動に伝えたかったのである。ここから陳述は,テーゼの解説であるとはいえ,公式的なそれを越えたいくつかの注目すべき論点を持つことになった。

 

 山本はテーゼに沿って,日本資本主義が発展しながらも古い「半封建的」要素への依存を断ち切れない構造的関係を強調するが,そのとらえ方は著しく動的である。発展のなかで新しい要素と古い要素とが常に相互依存と矛盾の枠組みを作りかえていくという。いわゆる講座派と労農派との論争を揚棄しうるものが感じられる。日本資本主義の構造的弱さがむしろ強い帝国主義的侵略性を生み出すという,経済の政治に対する逆説的規定性は,山本がことに強調するところである。

 経済的にニ流の日本帝国主義が,東アジアにおける帝国主義的支配体系を変動させる能動的要因たりえたのは,日本がこの地域で軍事力を自由に働かせる便宜を独占したためであったが,それが一方で米・英帝国主義との対立を深め,またこの時代の新しい政治要素,民族解放運動(中国革命)の主敵として日本を押し出さざるをえない。しかも近年の軍事・運輸・通信技術の発展は日本の軍事的優位を失わせ,侵略行動を発展の本質的要素としてきた日本の危機を深める。この山本の見方からは,資本主義の危機の分析が本質的次元から現実的具体的次元に進むとき,社会構成における経済の契機に止まらず政治・軍事の契機へ上向しなければならぬ,という方法論上の立場がうかがわれる。

 また,一国の範囲から世界政治のなかでの対抗関係に視野を拡げて日本を見るとどう見えるか,という見地は,実際に長期間外から日本を見てきたものの強みであって,日本マルクス主義の歴史,現状の分析能力を格段に高める可能性を秘めていた。『自伝』によると,山本は帰国後野呂栄太郎と討論をくり返したが,そのとき野呂に対して要求したのは,日本資本主義の構造的矛盾を帝国主義的侵略性の規定要因という観点からもっと深く考えよ,ということであったようだ。

 

 天皇制についても,固定的に絶対主義と見るだけでなく,独占ブルジョアジーの成長が天皇制と寄生地主制との三者の関係の変動を牽引し,天皇制の主要な基礎となる方向へ進むと見る。天皇制官僚勢力のなかで「政党官僚」の重みの増大という注目すべき指摘があり,危機のなかでブルジョアジーが天皇制を放棄する選択肢にさえ言及している。ただし当面の国際的国内的危機は天皇制への依存関係,天皇制の相対的独自性を強化させざるをえない,と見るのである。

  こうした論点は,言い方を変えれば,32年テーゼが日本の現実のなかでどう修正されなければならなかったか(山本に言わせればどう発展させられねばならなかったか)を示していることになる。山本はそれを,日本の侵略行動の進展に対して刻々に立ち向かう,という立場から考えていたのであった。

さて,重要な働き手であった山本を,コミンテルンは日本に送り返したのであるが,それは,絶望状態に陥り31年政治テーゼ草案で方向を見失った(とコミンテルンは見る)日本の運動を立て直す,最後の切り札としてであっただろう。

しかしその任務は果たされなかった。運動再建と一斉検挙の追いかけっこ状況の只中に単身飛びこんだ山本は,わずか数か月の活動で検挙された。しかも大量転向の時代が迫っている。そこでは32年テーゼの実践的検証の機会は失われるであろう。

  大量転向の一因にはたしかに,32年テーゼのもたらすマイナス効果が感じ取られたことがある。山本の公判陳述はそのなかでテーゼの思想を擁護しているが,しかし彼も苦悩しつつあったのである。山本が「進歩的国民主義」の立場への転換を表明したのは1939年のことである。

『自伝』によると,彼は反戦反ファシズムの広汎な統一の重要性を軽視していたと気づいた。

 

 

民衆の潜在的な革命へのエネルギーを育てるために,勤労大衆との結びつきをどのような形であれ保ち,小さな不満や反抗をとらえて支配体制を下から崩す活動,そういう能力の共産主義者における欠如を痛感して,戦時体制の矛盾を大衆とともに変革の方向に利用する道を選んだのであった。

 こうしたある種の転向として自己批判を表現したのは,当時の破壊された運動のなかでそれしか選択肢がなかったからであって,山本個人にとっても運動全体にとっても不幸であった。

この時期,運動がもっていた諸欠陥について,悪罵を放ちたくなければ黙っているほかなかった。そこでは32年テーゼへの批判も公然と議論する機会は失われたのである。

 しかし山本は,公判陳述において,自ら意図せずにだが,テーゼ批判の論点となるべきことをいくつか示唆している。陳述は当時の日本社会主義思想の到達点を示しているが,それは裏側から見れば,ついにどこまでしか到達できなかったか,という限界点をも示しているわけである。そのいくつかを指摘してみたい。

天皇制をロシア・ツァーリズムとの類推から絶対主義権力と見るのは,コミンテルンの一貫した傾向だが,32年テーゼはそのもっとも固定的な形を示している。これはすでに諸家が指摘している。山本がこの点,絶対主義天皇制という見方に同調しながらも著しく柔軟だったことは前述のとおりである。しかしそこにも大きな弱点はあった。ツァーリズムと近代天皇制との大きな違いは,前近代的で民衆にとって外的な権力と,ともかく近代国家の支配体制として民衆の内面を規制してきたものとの,ヘゲモニーカの差であろう。この点での天皇制の強さについて山本陳述はほとんど言及していない。天皇制イデオロギーの分析,戦争と植民地支配に民衆が自己の運命を托する,その意識構造の分析が欠如している。32年テーゼは,天皇制廃止の思想を民衆意識の深層に届かせる点で無力であったが,山本陳述はここでテーゼを批判する力をもたなかった。

 第二に,28年コミンテルン綱領が極度に固定的に定式化した「資本主義の一般的危機」という観念を,山本陳述も共有していた。危機からの出口は戦争と革命にしかないというカタストロフ思考は,彼の日本分析におけるダイナミックな発想の効果を消してしまうのである。だから,進行中の総力戦体制への推移が,古いものと新しいものとの歴史的前方に向かっての二重化という,グラムシならば受動的革命ということばで説明したであろう実態をとらえきれなかった。この受動的革命の効果は戦後日本をも規定するのであるから,結局山本の理論は戦後にまで至る十分な射程距離をもたなかったことになる。

 第三に,一般的危機論は,コミンテルンの周知のセクト主義とも深く関係していたが,山本もこれを打破する上で力が足りなかった。陳述は人民戦線に言及してはいる。しかしこの時期に必要だったのは,従来の階級闘争の隊列と民主主義・平和の隊列との問にズレが生じるなかで,社会主義革命の新しい戦略を模索することであった。しかし山本陳述には,革命の歴史過程における民主主義的ステージのもつ可能性を汲みつくすこと,階級闘争の一部に止まらない独自な領域としての平和闘争の意義を解明することよりは,革命のソヴェト方式とプロレタリア独裁への固執が目立つ。階級対階級の思想,社会ファシズム論をともかくも批判した35年コミンテルン7回大会を,山本は詳しくは知らなかったであろう。ただ彼は,古い思想を口にしながらも,前述のように深い疑問を内心感じてはいたのである。

  こうして山本陳述は,日本支配体制の構成に関する理論において高度なものを持ちながら,変革の理論において貧困である,というアンバランスを示すことになった。このことは日本の運動思想の伝統であるが,同時にスターリン支配下のコミンテルン思想の弱さをも示すものであろう。

 従来日本共産主義運動史研究には,日本一国の視野に止まるか,コミンテルンへの受動的関係の分析を好む(正・負いずれの面を重く見るかは別として)傾向が強かった。本書(山本陳述)はそこに一石を投ずる効果があったと言ってよいであろう。山本は,日本の運動をして国際的運動のいかなる能動的構成部分たらしめるか,という考えをもって30年代共産党運動にかかわった人だからである。同時にそういう考えがどこまで到達したか,どこまでしか到達できなかったかをも,山本陳述はよく示している,というのが私の得た印象である。

(刊行委員会編監『山本正美治安維持法裁判陳述集ー続/裁判関係記録・論文集』新泉社,

20057,524,定価20,000+)

(いとう・あきら千葉工業大学教育センター教授)

 

大原社会問題研究所雑誌No.572/2006.7

表紙へ


山本正美裁判関係記録・論文集   ―真説「32年」テーゼ前後
現代史の空白を埋める
    
                                   石堂 清倫   

 山本正美は戦前の日本左翼がコミンテルンに送りこんだ活動家のうち最俊英の頭脳であった。「アキ」の執名によるいくつかの評論は、彗星のように現れた画期的な指針として一世の耳目を集めたものであるが、それが無名の青年であることが知れて世間は二度おどろいたのである。

 日本帝国主義はすでに中国侵略を開始しており、その鉾先はつぎの機会に社会主義ソ連に向けられるのであろう。これにたいして日本共産党は戦争の中止と侵略体制の表現である天皇制の廃絶を当面の重要任務としていた。その行動としてコミンテルンは「三十二年テーゼ」を策定したが、その任に当たったコミンテルンの智嚢の一人としてアキを数えることができるのである。アキの言説は今日このテーゼを理解するうえで重要なてがかりを蔵している。
 山本が党運動再建の使命をもって帰国したとき、彼を待っていたのは全国的転向の波であった。国民は天皇制イデオロギーのへゲモニーにたいする対抗ヘゲモニーをもたないまま受動的革命にとらえられていた。山本は運動の拠点としての党の組織的回復をはかる前に検挙された。こうしてテーゼのマイナス面を克服する事業について抱いていたはずの抱負が何一つとして実現されることなく、転向の波のうちに姿を没した。
 コミンテルンの「絶対主義」規定には、三十一年ごろスターリンが密かに持ち出した反トロッキーの道具の一面があり、理論史上の一つの弱点であって今日まで徹底究明を欠いている。それだけにスターリンの思いつきを合理化したクシーネンとともに、ある意味でクシーネンを補強したアキの業績は、マルクス主義の再生のためにも重要な史料になっていると思われる。いいかえれば、アキは日本の共産主義運動におけるコミンテルンのプレゼンスとともにレテイセンスをもあらわすものである。
 この、選集はまた敗戦日本段階の山本の主要な言説をあつめている、敗戦後の日本は、アメリカ帝国主義のへゲモニー体制に組みこまれるとともに、みずからは東アジア諸国群のうちでのヘゲモニーを行使する新しい事態を経験している。古い帝国主義理論にしたがって、日本が軍事占領下の植民地に化したとする論者の多いなかで、二重ヘゲモニーの視角にもとに、そこで可能になる新しい革新の道を説いたのである。ところが日本の左翼は、彼の先駆的主張をとりいれみずからを強化する代わりに、戦前の運動への責任を名として、山本を政策決定の機構から疎外してしまった。したがって彼の言説は主として時論の形でしか可能にならなかった。そのことは日本の左翼だけでなく国民にとっても大きな損害であったと痛歎される。したがって読者はこれらの時論のなかから、戦前の新事態にたいする彼の根本的見地をたしかめ、今後の世界史的転回に彼がどのような展望をもっていたかを明らかにできると思われる。

 遺憾なことに彼の著作は今日すでに多くは入手困難になっている。苦心の結果ここに集められた史料群は二十世紀の三分のニにわたる期間の彼の理論的業績をほぼ網羅し、現代史研究の空白部分を十分に明らかにしているとおもわれる。
                                                                  国際共産主義運動研究者



 『山本正美裁判関係記録・論文集──真説「三十二年テーゼ」前後』刊行に寄せて

                    加藤 哲郎(一橋大学教員・政治学)

 山本正美の名を、今日知る人は少ないだろう。日本の社会運動史に詳しい人でも、今時なぜと思うかもしれない。戦前の短い期間ではあるが日本共産党の最高指導者となり、敗戦直後にも一時期湯本正夫の名で論客であった。しかし徳田球一のような華々しい活動家ではなかったし、宮本顕治のように文芸理論にまで手を広げるイデオローグでもなかった。一九六一年に日本共産党を除名された山本正美は、主要には「アキ」の名による「三二年テーゼ」作成期の日本人解説者として、歴史に記憶されてきた。

 そこには、二〇世紀の日本社会運動史研究における、ある種のバイアスの作用があった。すなわち、あらゆる社会運動は階級闘争ないし階級闘争に従属するもので、階級闘争は労働者階級の前衛党=共産党に指導されるものであり、共産党の歴史において決定的なのは「正しい」戦略・戦術と「民主集中制」の組織である、と。その戦前史においては、徳田球一・市川正一・宮本顕治ら「非転向」幹部が予審や公判で主張した「天皇制との闘争」が評価の基軸であり、たとえかつて最高指導者であっても後に「転向」したり「除名」された佐野学・田中清玄・風間丈吉・山本正美・志賀義雄らの言説は信用できない、と。

 しかし、第一次世界大戦・ロシア革命から東欧革命・ソ連崩壊にいたる一回転した「短い二〇世紀」の後に虚心に歴史をふりかえると、いわゆる社会主義・共産主義の運動に孕まれた無数の神話・伝説と史実との距離に驚かされる。筆者がここ五年ほど読んできた旧ソ連公文書館日本関係文書には、神話のヴェールをはぎとる多数のドキュメントが含まれており、それゆえにまた、新たな史資料の裏付けが必要な検討課題が山積している。

 本書『山本正美裁判記録・論文集』は、そのような文脈で光彩を放つものである。かつて風間丈吉の「転向」前の獄中手記(『「非常時」共産党』三一書房、一九七六年)が公刊され、今日ではその基本的信憑性が確認され日本共産党史解明の重要資料とされているが、風間同様クートベ出身でソ連からの帰国直後に日本の党指導を任された山本正美の供述記録も、当時の最高指導者自身による貴重なリアル・タイムの証言になっている。

 本書には、山本正美の予審調書と獄中手記が収録され「三二年テーゼ」の成立事情が詳述されている。無論そこには党指導者として権力に秘匿したり故意に事実を曲げたりしている部分もあるが、「三二テーゼ」がオットー・クーシネン以下コミンテルン東洋部主導で作られ、片山潜・野坂参三以下当時の在モスクワ日本共産党指導部は作成に関与できず、わずかに山本正美のみが基礎資料作成・分析である種の役割を果たしえたことが、明確になる。その獄中手記は佐野・鍋山らの「転向」批判で、「転向」や「変節」とよばれた現象にもさまざまなあり様があったことをうかがわせる。山本自身は「テーゼ」を確信し、本書収録の戦後の論文でもその解説者としてふるまうが、その解説の変遷そのものが、一つの歴史的ドキュメントになっている。刊行委員に名を連ねた筆者=加藤と岩村登志夫氏のほかに、小山信二氏も「解説」を寄せており、三人三様の「三二年テーゼ」評価が今日の研究状況を浮き彫りにしている。山本獄中手記は、日本共産党創立をなぜか「一九二三年」としている。筆者自身は、その後の旧ソ連日本関係文書の発掘によって、日本共産党の二二年七月創立説・初代委員長堺利彦伝説を覆し、「天皇制との一貫した闘争」の脱神話化をはかる手がかりをえた(『大原社会問題研究所雑誌』一一月号以下の連載参照)。

 本書は一冊四万円と高価で、個人での購入は困難かもしれない。しかし図書館等に入れて熟読する価値は充分にある。それでも収録しきれなかった山本「公判ノート」については、刊行委員の三輪隆氏が『埼玉大学教育学部紀要』で逐次紹介する予定という。本書と共に参照すれば、「偽装転向」研究にも一石を投ずるであろう。(新泉社、四万円)

  (『図書新聞』に


「激動」出版一年をすぎて

  山本正美

労働運動研究

 

拙著『激動の時代に生きて』が出版されてから一年になる。この間多くの方々のあたたかいご支援によって、幸い出版元のマルジュ社にも経済的負担をおかけしないんですんでいるようだ。少々おのろけをいわしてもらえば、この面での功労者のひとりにわが周志であり、昔風にいえほ ″伴りょ″ で、今様にいえば ″連れ合い″ である、また時には手ごわいけんか相手でもあるわが山本菊代がいる。私たちのねぐらのある松戸市でかなりの部数が読まれ、加えて生き生きとした出版記念パーティまで開いていだけたのには、老若男女をとわずわれらが同志菊代に対するこの地の万々のご声援がかなりあずかっている。また長野の方々からご声援やかずかずのご著作のご恵送をいただいたのは、非合法活動時代からのわが同志菊代の同志信濃太郎氏のご厚意による。さて ″女房自慢″はこれくらいにして、私の所属する統一労働者党や労働運動研究所にも相当部数広めていただいた。出販社の人の話しによると、大学その他の学術機関にも出たという。

    ☆

 次に、まず大変嬉しいたよりから。拙著の七ページから八ページにかけて、若かりし日の私の未熟さから、私たちとともにクートベ(モスクワにあった東洋勤労者共産大学の略称)で学ぶことなっていたひとりの若い女性を途中の上海で見失ったてんまつを書いておいた。ところがこの女性が今も元気で九州の地で部落解放のために活動されていることが、女性活動家の足跡を克明に追跡していられるライター鈴木裕子さんが送ってくださった記事の切り抜きでわかった。

 それによると、この女性の本名は菊竹トリさんで、出身は女性労働者(女工) であり、当時福岡県にあった婦人水平社の若い創立者の一人であった。鈴木さんによると、「福岡の婦人水平社の運動を規定づけているのは、それが労働運動と結びついていたことで」ある。当時上海に向かって一路航海を続けていた若き日の菊竹さんにはじめて会ったときのきりりっとひきしまった顔は、私の本に書いたような 「驚きに満ちた顔」 でほなく、日ごろの厳しい活動から身についた緊張であったのかも知れない。

 この鈴木裕子さんの書かれた記事の一つから私は思わぬ拾いものをした。というのは、この年五月福岡で開かれた第五回全国水平社大会には私も、同じ全国水平社無産者同盟の同友松田喜一などとともに、参加しており、しかもその直後に日本を脱出し、赤いソ連に向かったのだから。それだけではない。松田と一緒に乗った福岡行きの汽車のなかで、私は偶然乗り合わせていた当時の水平運動の大ボスどもから吊しあげられ、あやふくデッキから突き落とされそうになったところを松田に助けられた記憶があるのだ。

    ☆

 あの本が出てから色々な方から質問や補足や指摘をいただいた。その中の二、三について述べることにしたい。

 まず、先日国際共産主義運動史の研究者兼翻訳者兼編著者として著名なA氏と日本の共産主義運動研究の専門家として知られるB教授(両氏の置かれた立場から残念ながらここでは匿名にせざるをえない) と拙著でふれた問題、その中でも特に「三二テーゼ」作成の過程についていろいろ質問をうけた。B教授からは後日お手紙で補足的な質問をいただいたが、次にそれに対する私からの回答の一部を掲げて拙著への補完としたい。

 「先日はわざわざお出でいただき、また貴重なデータを頂きまことにありがとうございました。それにつきましても、貴下のご質問に対し十分納得頂けるお答えができず、すみませんでした。

 次に、ご帰学後頂きましたお手紙にありました諸事項につき、遅まきながら、回答申し上げます。

 一、(私の)第十二回予審調書記載の□□(二字判読困難な箇所〕 について、私もこの点見過ごしてきましたので、今としては的確にお答えすることほできませんが、前後の文脈から判断すると「且ファシズム其のものの実体をも不明確にし・‥…」ではないかと思います。

 二、源五郎丸の予審調書について これは彼の完全な思い違いか‥‥‥(注、同調書にある彼と野坂と山本の三人で三二テーゼの翻訳が当時コミソテルソで進められたという供述について)。また、このような企画が当時コミンテルソにあったとすれば、当時の事情ではその旨私にも知らしてくれたことと思います。私にはそのような記憶はまったくありません。真実は、三二テーゼが西欧ビユーロー名で発表されたとおなじく、当時の極めてデリケートであったソ連の対日外交的、軍事的事情およびコミンテルンの対日共関係などを考慮して、直接コミソテルソが日本語訳はしなかったのだと思います。ただし、三二テーゼの作成作業がロツヤ語原文を土台として進められ、独訳、英訳とも完成したロシヤ語原文によって、日本サイドとは無関係に、行われたものであろうことは、例えば「寄生地主的土地所有制」 についての訳語のばらつき一つとってみても分かると思います。

 三、間庭末吉のこと 最近調べたところでは、「間庭」(四・一六)も「白土」(三・一五)も、私がモスクワにいる間に検挙されています。ウラジオで私達の世話をしてくれたのは「白土」だと思います。でほ、予審調書でほなぜ「間庭」 になっているのかということになりますが、それは私が「間庭」が描まっていたのは知っていて「白土」が捕まっているのは知らなかったので、後者を庇うために、小細工したのでしょう。これは私の予審調書をご利用されるとき、事実関係でほしばしばこの手を使っていますので、機密に属する事実関係では「調書」 の方ではなく、「著書」の方によって頂きたいのです。

・‥‥‥ご健勝でますますご健闘のほどご期待致します。末筆ながら私の「獄中日記」 についてのご配慮感謝いたします。

 八六年六月一二日

           山本正美

 B教授様

 追伸 この手続コピーをA氏にもお送り致しました。ご了承下さい。」

    ☆

 拙著についての数名の方から書評や私信の形で同意や指摘をいただいた。その中で本誌昨年一○月号に載った北誠二氏のこの本の紹介には、よくそこまでご理解いただけたと感謝しています。

 その他の方からの指摘の中で私の心に残っているのは、わが畏友野田弥三郎氏からの昨年八月二三日付けの私信に率直に述べられた指摘であり、他の一つは、これは野田氏とほ全く異なった見地からの指摘だが、「運動史研究」一七号に掲載された石堂清倫氏の書評である。(なお外に本誌五月号に載せられた横井亀夫氏の指摘があるが、その点についての私の見解は本誌七月号に述べたのでここでは割愛する。)

 野田氏、石堂氏がともに特に関心を示されたのはあの本の中の 「妻あての手紙」 であった。野田氏は、私のあの 「手紙」 にある戦術的転換について、思想的見地から反対していられるし、石堂氏は真っ向こうから「転向」だと決め付けられる。

 これらの指摘は私にとってすこしも意外ではなかった。というのは、あの本の中でも述べたように、あの道を選ぶについてもっとも悩んだのほ私自身であり、その結果もっとも苦しんだのは同志であり、妻である菊代をはじめ私にもっとも近しい人びとであったのだから。それだけではない、もっと残念なことには、わたしのあの選択―旧日帝の破局を促進するための一切の反戦勢力の結集とそれに備えてのわずかな合法的可能性をも利用しての革命的エネルギーの温存をねらった選択―は、あの本の中でも述べているように当時の主体的条件、この道を選択するに当たってもっとも重要であった要因、つまりわが国の当時の共産主義運動の主体的条件の、もっと端的にいって当時の日本共産党の指導能力にたいする評価が根本的に誤っていたことである(獄中にいたということは言い訳にはならない)。

 後でわかったことだが、すでに日本共産党は、宮本や袴田などの、敵の挑発政策に乗せられた指導部の誤った方針によって、旧日本帝国主義の崩壊を数年後にひかえた肝心な時期に、壊滅状態に追い込まれていたのである。

 ただここで、誤解を避けるために、一言述べておかねばならぬことがある。それは前述した石堂氏の書評の説には私は賛成できないということだ。それは、あの書評に限らず石堂氏の最近展開されている所説にわたるかなり全面的なものだ。たとえばロシヤの一〇月社会主義革命に対する、コミソテルソの活動に対する、また現存社会主義に対する、「スターリン主義」 のまくら言葉のもとでの、全面的否定などそうだ。

ただこの私の記事は、そのような論争の場には適しないので、その展開は他日に期したい。

    ☆

 私がレーニンから学んだことの一つに客観状勢の大きな変化に応じて、またはそれに備えて党は大胆な戦術転換をしなければならないということ、しかもその際動揺や混乱を起こさないために、思想的、組織的統一を絶対確保しておかねばならないということがある。

 同じくレーニンから学んだことの一つに革命における勝利のための次の五つの条件がある。

一、客観条件が成熟していること、                            二、人民の側に決起する覚悟ができていること、

三、経済的、社会的、政治的危機が深刻なことから、敵の間に分裂が起こり、力の統一がむずかしいこと、

四、人民の間に根を張り、信頼を得ている党が存在すること、

 五、思想的に堅固で、経験の豊富で有能な指導部および指導者が存在すること。

 以上述べたことは何も階級闘争の最高の形態としての革命に限つたことではない。多少のニュアンスの違いこそあれ、総ての大衆的な闘争に当てはまるといえよう。

 私には、敗戦前後とは異なる条件のもとではあるが、これらの条件を十分に考慮して闘いを進めねばならぬ時代に直面しているように思われる。特に七月の同日選挙における自民党と新国家主義者中曽根の圧倒的勝利を前にしてそうである。この選挙における人民側の敗北を前にして、私たちは自らの思想的・組織的統一を確保するとともに、戦争特に核戦争に反対して平和を守り、国家主義やファシズムヘの傾斜に反対し労働条件の改善、国民生活や社会保障の向上、民主主義の擁護のために闘う総ての勢力との連帯の強化と統一闘争を大胆に押し進めねばならない。

 次に、今度の同日選挙における自民党の勝利においてかなり重要な役割を演じたいわゆる中流意識の性格について一言したい。この意識の持ち主たちが新保守主義の大衆的基盤を形成していることはいうまでもないが、同時にこの層が必ずしも固定的な保守主義者ではないのだ。これら新保守主義の大衆的基盤を成しているいわゆる「中流意識者」たちは、現在の平和が維持され、国民生活の水準が保たれ、円高デフレに対する有効な措置が講じられ、いわゆる経済大国の地位がゆるぎないものとして、自民党や中曽根を支持したのである。だが、これら総て幻想に過ぎないことがわかると、たとえばブルジョア的にせよ民主主義が維持されている限り、これら「中流主義者」の多数は新保守主義に、かつてこの前の選挙で中曽根を過半数割れに追い込んだように、背を向けるのである。それには、もちろん、民主主義者側の正しい政策による大衆の信頼確保が前提になるのだが。


ソ連邦の崩壊と社会主義の展望

 山本正美

  労働運動研究 19922月 No.268

 

 資本主義世界の不安定化

 

 ソビエト社会主義共和国連邦は一九九一年末にその七四年にわたる歴史を閉じた。しかし、それで社会主義思想がこの地球上から消滅したわけではない。というのは、社会主義は資本主義に対する歴史的なアンチテーゼだからである。つまり資本主義が存在する限り消滅することはありえないのだ。

 米ソ間のデタントはこの両大国が抱えている深刻な内部矛盾に因るところが多い。旧ソ連については後で詳説するが、米国についていえば、いまや世界一の債務国にまで成り下がり、膨大な財政赤字(主として軍拡による)貿易赤字(対日が大きい)を抱え、しかも湾岸戦争直後には世界は米国一極集中になるかとさえ騒がれたのに、今では当のイラクさえ始末できず、また中東問題 (実際は石油の独占的支配の問題) ももたつき、景気は下降するばかりである。資本主義世界では経済的に強いと見られている西独も東独の資本主義的経済再編成でよろめき、自称経済大国のわが日本も重工業を中心に景気が下降している。

 プッシュ米大統領一行の来日で、日本経済はさらに悪化することだろう。農業などはいつ崩壊状態に陥るかも知れない。それどころではない。バブル崩壊後のわが国の政情もまさにテンヤワンヤの状態である。

 国際情勢も米ソデタント以前よりも悪化している。民族間の流血的抗争はさらに激しくなっており、各地域における内乱も簡単におさまりそうにない。というふうに、資本主義世界の不安定化はますます進行している。

 

 ソ連邦崩壊の原因

 

 ここで本題に入ることにする。レーニンが指摘したように、「現存」社会主義世界は、当時の資本主義の最新投階としての帝国主義の所産であった。今ではほぼ崩壊状態になった社会主義世界は、最も後進的で、多くの深刻な矛盾を内包した資本主義国であったツアー・ロシア、第二次世界大戦で敗北し政治的・経済的に破壊され、蹂躙された東欧諸国、資本主義大国に容赦なく略奪された植民地・半植民地諸国から成立していた。従って、社会主義建設段階で解決すべき深刻な各種の矛盾をいっぱい抱えていた。社会主義の発展を恐れた資本主義大国はこれらの「現存」社会主義諸国に経済的、政治的、軍事的圧力をさんざん加えた。社会主義的諸政策を実施し、諸施設を完備せねばならなかった社会主義諸国はこれら内外の圧力によって、新しい社会の建設が妨害され、最新設備や技術の導入を含む生産、流通、資金の蓄積などを含む国民経済や国民生活の正常な運営を阻害された。

 次に、主体的事情といったのは社会主義の建設方針におけるスターリンおよびその後継者たちの政治的誤謬である。彼らは上述の内部矛盾や資本主義の圧力を克服する方法として民主主義的方法ではなく、官僚主義的、統制主義的手法を用いた。これで、レーニンが唱えた「民主集中制」は形骸化し、実際は幹部が党や国を上から支配するようになり、一般党員や国民は現実的にはこれら幹部の単なる手足になったのである。

現在、例えば、旧ソ連に起きている反共産党運動などは、実際は反スターリン主義運動であって、政治的には資本主義への回帰(市場制、私有制、自由価格制、株式制などの導入など)を狙っているエリツィンのような徒に利用されているとしか思えない。最近ではエリツィン流(民主主義と称しながらまるで明治憲法の勅令のような大統領令を乱発し、密室政治が、主体となっている)専制統治に対する民主主義者や一般市民からの反発が増大している。

 現在スターリン主義に反対して立ち上がっている人々の大多数はロシア革命を経験したこともなければ、資本主義下の生活を体験したこともない人々である。つまり彼らの大多数はスターリン主義には反対でも、正しい社会主義思想や政策には必ずしも理性的に反対しているのではなく、また意識的に資本主義への回帰に賛同しているのでもない。

 崩壊直前のソ連の経済状況は極めて悪く、スターリン主義時代よりも遥かに劣っているくらいだ。旧ソ連の経済研究所「マクロエコノ」の発表によると、昨一九九一年一一月の推計では昨年度のGNPは一二%減で、サービス産業などを除いた生産国民所得は一四%減である。前年同期比では、原油と石炭の生産はそれぞれ一〇%減、製品の方はさらに悪く鋼管は一一%減 (うち一一月分は二三%減)、トラクターは一四%減 (一一月分は三〇%減)、食料品生産では肉が一一%、牛乳が一〇%とそれぞれ前年同期より減少している。

貿易の状態は最も悪く、輸出量が三〇・七%減、輸入量となるとさらに悪く四一・七%の減少である。例えば、綿織物と皮靴が七〇%ひまわり油も六七%、医薬品が五一%とそれぞれ前年同期より減少している(「日経」一九九一年一二月一四日付け朝刊より抜粋)。

 これらの数字は現在のソ連の国民経済ならびに国民生活の厳しさをまざまざ示している。生産の減退は単にいわゆるペレストロイカによる過渡的な混乱によるものとのみ見るべきではなく、むしろ現在の窮状に対する勤労者大衆の不安や不満や抵抗も反映している面が多分にあろう。ことに期末に近付くにつれさらに顕著になってきていることはこうした不満や抵抗が激しくなっていることを思わせる。

 輸入量の、とくに消費財や医薬品の輸入量の減少は、一方国民生活の悪化と、他方外貨事情の劣化を共に物語っているといえよう。

 上述のような状態下の旧ソ連で社会的・政治的情勢が変動無しに今後も続くかどうか? この世界の関心を引ている問題に私は他の革新的な人々と共に注目している。このような窮状から脱しようとして当時の大統額ゴルバチョフらは、ブッシュ米大統領の腰巾着になって欧米日の大国に物乞いしたものの、 これらの国も、本文の最初の章に述べたような有様であり、例えば、東独、ハンガリー、ポーランドなどのような 「小国」さえまともに救済できない状態なのに、旧ソ連のような地球の六分の一の地域、百数十の民族、二億数千万の人口を抱えた「大国」を、資本主義の道に引きずり込むためとはいえ、救済するだけの経済力も政治的エネルギーももっているはずがない。さんざん注文を付けられた上に、僅かな涙金を口約束されただけで、ゴルバチョフらはすごすご引き下がるほかなかった。ゴルバチョフ白身は昨年末退任させられた。

 最後になったが、旧ソ連の政情の今後の行方にとって無視できない要因として軍の動向がある。例の核管理の問題だけでなく、軍の政治的動向の問題があるのだ。現在軍の主導的地位にあるのはシヤポシニコフ元帥を初めとして空軍系統である。しかし不可避的な軍縮の最大の犠牲者となるのは地上軍である。もしこの失職軍人群が前述の大衆の不満と結び付けばどういうことになるか?

その一例が最近グルジアで起きた、軍人と一般大衆の決起によって追放された同国の分離独立派の大統領一味の遁走がよい見本だ。いずれにせよ旧ソ連の状況が現状のままに推移するとは思えない。

 今後どの方向に進むか、歴史的に先進的な方向か、それとも後退的な(専制主義的な)方向かを決めるときの主役はいずれにしても旧ソ連の国民であり、革新勢力のエネルギーと能力である。では私たち外国の革新勢力のこの問題に対する態度はといえば、いたずらに悲観したり、楽観することではなく、国際主義の見地から、旧ソ連の国民の生活の窮状を、隣国の国民として、できる限り救助すること、そして同国の革新勢力の、歴史的進歩に向かっての闘いを支持することであろう。

 余談になるが、これらのことはわが日本についても当てはまる。たとえば日本の革新の、主役はあくまでも日本の進歩的国民であり、革新勢力である。ここで私が強調したいことは、隣の大国であり、かつて革新運動の指導面で重要な役割を演じ、わが国の革新勢力に対しても多大な影響を及ぼし、現在なおその動向が世界の関心を集めている旧ソ連でも (反面教師として学ぶのは必要だが)、この国の動向如何で他国の革新運動家が進退を決めることは頂けないことと思う。

 ソ連の崩壊現象が顕著になってから、わが国でも革新勢力の間に少なくとも三つの歪んだ潮流が認められたように思う。その第一は悲観主義的潮流で、あれだけマルクス・レーニン思想を信じ、社会主義の実現に期待を寄せていたにも拘らず、本家本元のソ連ですらあのていたらくではと、がっかりして呆然自失した人達である。資本主義世界の現状、旧ソ連内の実情が判明するにつれて、今ではこの潮流の虜になっている人々の数は減少してきているように思われる。

 第二の潮流はいわば修正主義的潮流で、「共産主義だ、社会主義だ、マルクス・レーニン思想だなどと騒がないで、平和と民主主義でそっと行こう」と考えている人々で、どちらかといえば革新運動の中では退嬰的な傾向の人達だ。これらの人のなかにはいわゆる昨年の「八月政変」についてその政治的内容を正確に理解できず、万歳、万歳と騒いだ人々もいる。でもこの潮流の人々は元来真面目な人が多いので、事態が明瞭になれば革新的な態度に復帰すると信じてよい。

 第三の潮流は教条主義的とでもいうべき潮流で、ペレストロイカの歪みに対する批判は正しいがこの歪みの元来の源泉であるスターリン主義に対する厳正な批判に欠け、現実の歴史の変動やそこから生じた革新勢力の新しい課題に対する認識が不十分だと思われる。この点に気付けば、この潮流の人々は極めて真摯な人達なので、立派な革新的潮流として新しい進歩的な社会の建設に十分寄与できよう。

 

 社会主義の展望(日本を中心に)

 

 ここで私は本文で提起した二つの問題について自説を述べたい。第一の問題は「社会主義は資本主義に対するアンチテーゼである」という私のいつもの主張の内容であり、第二のそれは現在進行中の「第三次産業革命」と社会主義の展望との関係ついてである。

 まず第一の問題について述べると、従来わが国では「資本主義対社会主義」という言葉がよく使われていた。間違いではないが現代の複雑な条件下での社会主義用語としては単純すぎ、誤解や混乱を生じやすいと思う。私の使う「アンチテーゼ」という言葉の中ではこの用語は社会制度や思想原理の根本的差異を表わす第一の要因として取り入れられる。マルクスは資本主義は一定の歴史的段階における所産であり、誕生、生長、衰滅の過程をたどると教えてくれた。レーニンは、当時の資本主義の最新の段階としての帝国主義の特質について詳細かつ現実的に語ってくれた。現在この帝国主義は本文の最初に述べたような状態にある。

また既成の社会主義世界の状態も大きく混乱し変動した。これを「アンチテーゼ」という用語の中でより動的に表現しようとした第二の要因である。つまりこのような変動は革新勢力としての私たちに対しそれに適切に対応する方針、政策、組織形態などを求めている。第三の要因は、既存の社会主義国、とくにソ連で起きた事態からの教訓(とくに反面教師的な教訓)を今後の革新運動および将来の社会主義社会のイメージに生かすことである。つまり創造的社会主義の創設である。その可能性の芽生えについては後で述べることにして、搾取や略奪の廃絶、徹底した

ヒューマニズムの実現、性的・社会層的・民族的差別の撤廃、徹底した平和と民主主義、社会福祉の実現などはその一端であろう。

 次に「第三次産業革命」とその顕著な社会的影響の若干について、わが国を例として述べてみたい。周知のように、第一次産業革命は蒸気機関の開発で始まり、第二次産業革命はフォードのコンペアの開発から始まっている。ポストフォーディズム、つまり第三次産業革命は現在進行中で、電子工学や原子力の開発、そのエネルギー部門や情報産業部門、悪いことだが兵器産業部門などへの導入から始まっている。これが経済のみならず、社会全般(もちろん労働者階級や革新運動も含めて)どのような影響を及ぼしているかを若干の例を挙げて説明したい。それも、この短文中では、経済的方面よりも社会的、政治的変化に、主眼をおいて話を進めたい。

 生産面や物流面や情報面では、電子工学を始めとする最新技術の導入によって、著しい多様化や拡大が見られたが、しかし大資本の支配や搾取下では、それで労働が軽減された訳ではなく、逆に強い緊張や長時間労働が強いられ、過労死などという技術革新下では予想もできないような事態や、環境の著しい破壊や大量殺人用兵器などの生産や販売が行なわれるようになった。同時に、社会面や政治面でもかなり顕著な変化が見受けられた。たとえば、労働の多様化により、正規の従業員のほかにもパートタイマーが増え、女性労働者の数的比重が高まり、さらに労働者の就業職場の変動が頻繁になり、若者の間にはフリーターといわれる最初からそれを目的とする層まで現われた。それだけではない。かつては、大学を出て数年経てば中間管理職になれたはずのインテリ層が今日では技術労働者または知能労働者として、ときにはしばしば現場で一般労働者と肩を並べて働くようになった。かつては、先生とかお役人とか呼ばれていた人達も今日では自他共に教育労働者とか公務員とか称され一般労働者とほぼ同じ意識を持ち、 一般からもほぼ同じ取り扱いを受けるようになっている。ただ違う点は、技術革新の結果、労働者階級の中でこれら技術労働者や知能労働者の比重が、熱練工を含めた筋肉労働者よりも、高まってきているという点である。一例をあげると、ロボットを搭載した工作機械を操作している労働者などは機械の管理はもちろん、さらに工作用のプログラムの作成、使用材料の品質管理にまで当たらねばならないといった状態である。

 それから、もう一つ。それは専業主婦層のことである。昔は竃の番人か子供の養育者くらいに思い思われていたころのような専業主婦は今ではほとんどいない。今の主婦は、理論的にではないにしても、現実的には家族の労働力の生産者であり、また子供の養・教育は将来のより高度の文化を身に付けた次の世代の労働力を育成しているのだという自覚が深まっている。専業主婦層の間に最近諸種の社会、文化、福祉問題などの集いや、サークルや活動に積極的に参加する人が増えている。

 次にいわゆる市民層の事だが、数年前までは市民層といえば小ブル層と考えられがちだったが、今は違う。

今の市民層は第三次産業革命の影響で大多数が勤労者層になっている。それには、後述する労働運動、政治運動の変動にも関係があるが、私たちは平和や民主主義や政治問題の市民集会に参加し発言したりして新鮮で活気に満ちた光景をみせている。それには、大衆的基盤としての上述のような変化があるからだ。だが、それだけではない。というのは、革新運動からの見方だが、現代の社会的変化の影響のマイナス面が労働運動や政治活動などに現れている。かつてともかくも革新運動の大衆的基盤と見られていた、基幹産業部門の労働組合が分裂したり、そのボスが資本家と癒着して自己の所属している企業や産業の利益団体化したり、支持している進歩政党を保守化することに血道をあげたりするようになっている。ボスのこのような行き方に対しては下部組合員からの抵抗が次第に強まっており不況が深刻化すればさらに強まろう。

 革新組織の中にも、最近顕著な変化が起きている。ここ数年前まではグループ別に分裂し、お互いの揚げ足とりに夢中だったのが、最近では協力のみならず、組織統一まで求める声が高まっている。私たちは三年間、反天皇制で上告まで「法廷闘争」した。原告の思想や経歴は必ずらしも同じではなかったが、法廷闘争、革新運動から脱落した人はなかった。

今年の私の年賀状の末端に「・・思想的潮流や所属団体や、職域に関係なく大資本による人民の搾取や圧迫、人類および宇宙や地球の破壊に真剣に反対する人々と手をつないで新しい社会の創造に前進いたしましょう。」と書かせた理由の一つである。

 


『コミンテルンと日本』および『天皇制の歴史』について

山本正美

 

労働運動研究 19877月 No.213

 

 

()

  この一文は最近相次いで刊行された次の二つの本の紹介を兼ね、この機会に、これらの本の中で扱われている時代とテーマにいささか関係のある筆者の考えを述べたものである。

 

村田陽一編訳

『資料集コミンテルンと日本

A一九二九〜一九三二』

発行所 大月書店

定価 九五〇〇円

歴史科学協議会編

編集・解説犬丸義一

『歴史科学大系第一七、一八巻

天皇制の歴史()()

発行所 校倉書房

定価各巻 三五〇〇円

 

 

()

  村田氏編訳の『コ、ミンテルンと日本』は全体で三巻、総ぺージ数が「七二八ページに及ぶ大冊ものである。うち既発行分は一九一九〜一九二八年の資料を扱った@と上掲のAである。一九三三〜一九四三年の資料を扱うのは続いて発行される予定のBである。書題は『コミンテルンと日本』となっているが、内容は「コミンテルン」のほかに「プロフィンテルン」と「共産主義青年インタナショナル」関係の資料も多数含まれていて、これら三機関の日本の共産主義運動に関する重要な決定、決議、論文などがほとんどもれなく網羅されている。

  編訳者は@に載せた「まえがき」の初頭で次のように指摘している。

  「戦前の日本の共産主義運動は、コミンテルンに代表される国際的労働運動の働きかけを機縁として成立し、その援助のもとに運動の戦術方針をつくりあげ、国際的な運動の一翼として反戦、反ファシズム、民主主義、社会主義の目標にむかってたたかった。……他面、一時期に、コミンテルンの方針に現れた歪みは、日本の運動にもその跡を遺した。ここから結論されることは、戦前期の日本の労働運動の研究はコミンテルソを中心とする国際的運動との不可分の関連において為されるべきだということである。」

  この編訳者の、戦前の日本の共産主義運動におけるコミンテルンの指導的な、しばしば決定的な役割に関する指摘は、この指導の適否とは関係なく、正しい。したがって、この一文において筆者が後で述べるように、また犬丸氏編集・解説の『天皇制の歴史』()()が取り上げているように、戦後のかなり長い時期においても、特に独占資本の支配、天皇制の変質、農地改革の意義などを巡っての論争において、日本の共産主義運動におけるコミンテルンのこのような役割の影響が尾をひいたことを考えれば、戦前戦後をとわず日本の共産主義運動の歴史を研究する場合には、コミンテルンその他の国際労働機関の日本問題に関する主要な決議や指導的論文を無視することはできない。

  その意味において、筆者はこの村田氏の編訳書を、座右の書として、強く推薦したい。なお同氏には、同じく大月書店から刊行された『コミンテルン資料集』(全六巻)、『コミンテルンの歴史』(上下巻)があり、全く信頼のおける、エネルギヅシュなコミンテルン問題の研究者であり専門家、であることを付け加えておきたい。

 

(三)

  次に、犬丸氏の編集・解説になる書は、歴史科学協議会が校倉書房を通じて刊行している『歴史科学大系』三十四巻の中の二巻である。天皇制の問題は敗戦前と後とを問わず日本の共産主義運動を挙げて論争に巻き込んだ戦略問題の中心問題であり、今日のような保守反動勢力の台頭期においてはなおさらその本質の徹底的解明が求められている問題である。本書は天皇制に関する戦前戦後の主要な論文を多数収録しており、戦後の日本史を研究するものにとって欠かすことのできない資料集である。編者の解説も要を得ている。

 

()

  次に、上記の資料集の中で取り上げられているテーマの中でも最も主要なものと思われる戦前の日本帝国主義の特質と天皇制の役割および戦後におけるその変質について、筆者の見解を簡単に述べることにしたいい。

  レーニンは、一九一六年執筆の論文「帝国主義と社会主義の分裂」の中で、当時の日本とロシアの帝国主義の特質について次のように述べている。

  「日本とロシアでは、軍事力の独占や、広大な領土の独占、あるいは異民族、中国その他を略奪する特別の便宜の独占が、現代の最新の金融資本の独占を一部はおぎない、一部は代位している。」(大月書店版、レーニン全集第二三巻 二三ページ)

  レーニンはこの規定で戦前における日本資本主義の発展の特殊性、その支配体制の特質を極めて簡潔かつ明瞭に特徴づけている。第二次世界大戦前に日本資本主義が深刻な経済恐慌に突入し、中国や東南アジア諸国における日本帝国主義と米英帝国主義の対立が、直接戦争に突入するに至るまで激しくなり、またこれら諸国での反日帝民族解放闘争が、中国や朝鮮では、続いて社会主義革命に至るほど高まるにつれて、このレーニンの規定の正しさが証明された。

  日本では、明治維新後に資本主義が急速に発展したが、その段階を画したのはいずれも朝鮮、中国などの軍事的占領、軍事力を背景としたこれら諸国の国民の経済的・経済外的収奪であった。またこのことが、国内における労働者階級の植民地的搾取・農民の半農奴的収奪・人民の警察官僚的支配の維持となり、大資本、寄生地主、軍閥・官僚の共通の経済的・政治的利益を基盤とする支配体制、絶対主義的天皇制を確立・維持させたのである。また一方では日本における資本主義関係を比較的急速に発展させながら、他方では国内の経済や政治や社会における前資本主義的遺制を広範に残存させたのである。戦前の日本の資本主義経済は、強行的に育成された軍事関係産業部門を除き、主として繊維産業や建設業など軽工業や中小企業に依拠する、当時の欧米先進資本主義諸国に比べて本質的な脆弱さを内包した経済だったのであり、また政治的・社会的にも極めて深刻な矛盾を抱えていた。

  このような当時の日本資本主義の特殊な性質とそれに伴う深刻な矛盾とは、同じく当時の日本および世界の革命運動(コミンテルン)"日本における革命の性質と課題〃の規定を巡って長期にわたる(戦後にまで尾を引く)混迷をもたらしたのである。この小文ではこの問題に詳しく触れることができないので、戦前の国内では「講座派対労農派」の長年にわたる激しい論争、国内および国際的には「政治テーゼ草案派対三ニテーゼ派」の対立、戦後には米帝占領下における「人民革命」を主唱する「民族派」と反独占資本・社会主義革命を主張する「国際派」の対立から始まる、これもかなり長期にわたる日本の共産主義運動内における抗争を指摘するだけに留める。

  ここでもう一度強調しておきたいことは、このような、世界の共産主義運動でもまれないわゆる"戦略問題"をめぐる激しい抗争は、日本の共産主義運動の思想的、理論的レベルが低かったから起きただけではなく、その時代の日本資本主義の発展の歴史的特殊性、それに基づくこの国の経済的、政治的、社会的特質とその複雑さによるところが多い。しかし今日ではこの国、つまりわが日本が、だれが見ても独占資本が支配する現代的金融資本主義国であり、世界でも有数な現代的帝国主義国であること、しかもこの発展が始まったのは終戦後からであることに疑念を抱くマルクス主義者はそう多くはないだろう。

 

()

  ()の初頭に述べた戦前の日本帝国主義の性質に関するレーニンの規定が正しいとすれば(筆者はその正しさが歴史によって完全に立証されたものとして疑わないのだが)、この日本帝国主義の崩壊過程の開始期は、なにも敗戦当日ではなく、航空機や航空母艦などの長期にわたって機動戦を展開できる戦争手段の開発(最後には軍事的には太平洋戦争に止めを刺した原爆の開発とその使用)ならびに上述の民族解放運動の広範な台頭によって、日本帝国主義がその「軍事力の独占」や「中国その他を略奪するための特別な便宜の独占」を急速に喪失していった戦争末期の一定時期に設定するべきであろう。

  なぜ筆者がいまごろ改めてこんなことを言い出すかというと、筆者が終戦の年、一九四五年一二月二日・五日付けの『東京新聞』に「かくて、日本においては経済(特に土地制度)の分野において、政治の分野において未だ幾多の封建的残さいが致命傷を受けることなく残置されているにも拘わらず……古い露骨に軍事的半封建的な、専制的な支配者とその権力は一応打破された。……したがって、これら諸勢力を基盤とした天皇制も……ブルジョア的変質を遂げつつある。」と書き、敗戦によって日本資本主義の支配体制の性質に基本的な変化が起きていること、それに応じて党の戦略方針、政治方針を転換させる必要があることを暗に指摘したとき、当時三二年テーゼの戦略規定がそのまま生きていると信じ込んでいた日共指導部や旧講座派の人びとから総反撃を受けたのはいうまでもないが、筆者の立場を基本的には支持してくれていた人びとの中にも「時期尚早であった」として批判された人たちが何名かいる。これらの人びとは、ある人は何よりも党の「鉄の規律」を優先するぺきだとする立場から、ある人はそのうち党の方針も変わるだろうという淡い期待から、また歴史的過程が多かれ少なかれ明瞭な形態をとって現出したときを質的区切り(一定の新しい歴史的段階への転換)として重視される歴史学者の立場から批判されたのだが、政治の動向やそれを動かしている基本条件の変化ならびにそれに基づく階級勢力の相互関係の根本的変化に関心を持ち、党が基本方針にそれを取り入れることを強く望む一共産主義者としての筆者の立場からすれば、またそれに加えて三二年テーゼの作成に関与するチャンスを持ち、その内容の審議にもある程度通じていた、またこの問題が日本の革命にとって最も重要な問題だと信じていた筆者からすれば、またこの歴史の転換がなお表面的、現象的には「完結して」いなくても、労働者階級の前衛党の正しい政治方針とそれに基づく精力的な大衆闘争の展開によって、この歴史的転換を革命の側に(独占資本の側にではなく)有利に転回させることができるし、またそうしなければならないと堅く信じていた筆者からすれば、転換期の到来を告げるのがむしろ遅すぎたといまでも考えているというのが、偽らざるところである。(特に、革命の戦略的段階の転換の到来についての当時の日共指導部の愚鈍とさえいえる無理解が招いた日本共産主義運動内の長期にわたる混乱や犠牲をおもえばなおさらである)

  なお当時の筆者の立場については前述の東京新聞掲載の論文のほかに、部分的ではあるが、日本帝国主義の特質と戦争の問題については村田氏の本のAを、天皇制の問題については犬丸氏の本()の該当部分-を参照して頂きたい。

 

表紙へ