特集 自治体闘争の問題点 その1

 

地方自治か住民自治か――広島における住民闘争の経験――

      松江 澄     労働運動研究  1970年6月   No.  

 

『地方自治』とは何か

 

 「地方自治」という言葉は、戦後流行した言葉のひとつである。総理大臣から労働組合まで、自民党から共産党まで、誰一人反対するものはいない。それどころか、左右問わず、政治と行政に関する集会で、「地方自治の確立」あるいは「地方自治を守れ」というスローガンが掲げられないことは珍しい。

 やがてひらかれる今年の全国自治研集会の中心スローガンは「地方自治を住民の手に」であり、日本共産党の選挙スローガン(一九六七年)にも、「住民の力で真の地方自治をかちとろう」と掲げられている。

しかし、「住民の手」に握ろうと握るまいと、また、にせものか「ほんもの」かは別として、一体「地方自治」もしくは「地方自治体」というものは存在し得るのか。いや「地方自治」とはそもそも何か。「地方自治」とはどんな実体を持つ概念なのか。

 羽仁五郎氏を引き合いの出すまでもなく(「都市の論理」)、「地方自治」あるいは「地方自治体」という言葉はそれ自身矛盾する概念である。「地方」とは権力サイドから見た「中央」との対立概念であり、「自治」とはそれ自体、権力と対立する概念である。こうして対立する二つの概念が一度結婚するとどこへでものぼって誰でも道をあけて敬礼する。誰もが反対せず、誰でもが賛成するのは良いことだが、そのかわり楽にもならぬ。ちょうど「国民主権」という言葉がそうであるように。

 日本共産党は、「ふみにじられる地方自治」(民主的な地方自治の実現をめざす日本共産党の政策と闘争―一九六七年「議会と自治体」臨時増刊)の中で次のように解説している。

 「都道府県、市町村などの地方自治体は、二つの性格を持っています。一つは国家の下請機関であるという性格です。もう一つは、地方議会の制約を受け、住宅、教育、衛生、社会保障など住民の日常生活とふかい関係のあるさまざまな問題を対処する地域住民の自治組織と言う性格です」と。しかし、「議会の制約を受け、住宅、教育、衛生、社旗保障など住民の日常生活とふかい関係のあるさまざまな問題を処理する」ことが、「住民の自治組織の性格」なら、「地方自治体」という言葉を「国」に置きかえ、「地方議会」という言葉を「国会」におきかえたらどうなるか。ここには「憲法」に忠実な民主主義はるがマルクス主義はない。

 もっとも、日本共産党によれば、戦後一九四七年まで存在していた「地方自治体」も、アメリカ帝国主義の改悪によって根本からふみにじられ、「主権者としての住民の利益に奉仕し、その安全、健康、権利、福祉をまもるものから、もっぱらアメリカと日本の大資本に奉仕するものにつくりかえられた」(同前)ということである。憲法も地方自治制度も占領軍の指導の下でつくられた。とすれば、占領軍は「救世主」から「悪魔」に急変したわけだ。

 それは別としても、日本で「自治体」という名に値する「都市」が果たして何時、どこにあったろうか。もしあったとすれば、中世末期ギルドを中心に形成された新興都市「堺」位のものではあるまいか。

 明治以後あらたにつくられた府県制度はもとより、歴史的には共同体的な性格を持っていた町村も、封建的な支配を継承した「革新」明治政府によっていち早く支配体制にくみこまれたが、戦後の新憲法下でも基本的には変わりない。支配側にとっても、「近代国家」として「国民主権」に対応する「地方自治必要であったし、また「国民」と「住民」が国と地域の真の主人公になるための闘いにとっても、一定の限度内で武器になり得たということである。

 「地方自治体」とは支配のための擬制にほかならぬ。しかし、同じ「地方自治体」でも、府県と市町村とでは相違がある。それは、歴史と地縁を別とすれば、主として「住民」と「権力」への距離による相違である。住民に近いほど住民の抵抗は強く、住民に遠く、従って権力に近いほどその直接支配の圧力は強い。「地方自治」が強いか弱いかではなく、「地方自治体」への住民の抵抗と闘争が強いか弱いかが問題なのだ。

 われわれにとって必要なのは、かつて存在していた「地方自治」を「住民の手に」とりもどすことでもなく、また「住民の力」で「真の地方自治」を実現することでもなく、もちろん「三割」ほどはあるという「地方自治」を「十割」にすることでもない。われわれにとって必要なことは、「地方自治」のゴマ化しをバクロして「地方自治体」と闘い、「住民自治」を闘いとることでなければならぬ。

 日本共産党の文書の中にも、「住民自治」ということばはしばしば出てくるが、言葉だけでなかみはない。結局のところ、「共産党を先頭としてほんとうに自民党と対決する真の民主勢力が首長と地方議会の多数をしめるならば、個々の地方自治体で、住民の利益のためにたたかう民主連合都道府県政、市町村政を実現することは十分可能です」(同前「議会と自治体」ということにつきる。選挙で共産党の議席が膨張すれば「地方自治」も膨張し、「真の民主勢力」の幅が広くなるほど「地方自治」もひろがるわけである。

 しかし、今の体制の下で、果たして「真の民主勢力」の連合によれば、「地方自治」が実現できるかどうかは別として、少なくともここで「実現される」予定のものが、闘う「住民自治」でないことだけは確かである。何故ならば、「住民自治」は、要求実現の闘いを通じて確保される権力への「対抗陣地」であって、決して「民主的」な行政区画でもないからであり、また「住民自治」は、投票や議会の中のオシャベリでは決して闘いとれないからである。

 今、われわれが探求しなければならないし、また探求しつつあるのは、闘う「自治体」であり、その拠点をつくることである。

 広島のささやかな経験はそれを教えている。もちろん、基町や庚午の闘いはそのほんわずかな端緒にすぎない。

 

基町住宅建設の闘い

 「私達が現地に住みついてから、早いものは二〇年、遅いものでも十数年を経過しています。

 当地は爆心地近く、もと軍用地であった関係で、あの悲惨な原爆の直後から、家族を奪われ生活と住居を失った人々が自力で掘立小屋を建てて住みつき、爾来つぎつぎと、苦しい生活のため住むに家の無い者が此処をすみかとして今日に至っており、その数、千戸近くを数えています。

 このうち、直接被爆世帯は全世帯の三分の一をしめ、その他のものも多かれ少なかれ原爆で家を焼かれ、あるいは戦争で生活を奪われたものであり、広島市内のこの種地域の最大規模で、いわゆる『原爆スラム』と呼ばれています。

 地域の大部分の人々は、中小企業の低賃金労働者、失対労働者および零細な小商業者であり、生活保護世帯も少なくありません。

 現地の住宅は殆んど、便所、炊事場はもとより、窓のない家さえある状態で、度重なる火災の恐ろしさを身にしみて感じています。

 また『負法建築』を理由に上下水道は敷設されず、汚水、汚物は河川に自然流下氏、最近、県衛生研究所に監査を依頼した手押しポンプの水はすべて飲料不適との判定にかかわらず、毎日の生活のため飲まないわけにはゆかない状態で、万一の悪質伝染病流行を思えばはだ寒いものがあります。また子供の教育、健康はいうに及ばず、就職、結婚に至るまで大きな影響を受けています。

 ここではまだ『戦後』は終わっていないのです。現に終戦後二〇年経った今日、いまだに防空壕の中で光のない生活を送っている人々もいるのです。こうした地区が、高度成長といわれる今日、日本の、しかも『平和都市』広島の中心部にあるのです」。

 これは昭和四十一年二月、はじめて代表団が上京して国と交渉したときの建設同盟の要求書の一部である。

 ここは、延長ほぼ二キロ、四・九三ヘクタールの河川敷に延々とつらなる不良住宅群八〇〇戸、一〇六五世帯が住み、一ヘクタール当り一六二・三戸五一六人という他に例を見ない密度となっている。(四三年十一月県調査)

 この内、九二%はバラックに住んでおり、残りの八%も老朽住宅で、畳数は約六〇%の世帯が一人三畳以下の状態で、被爆世帯の中では一畳未満が四・一%もある。職業は七%たらずの零細商業以外はすべて労働者であり、熟練工一〇%、常傭労働者・職人、商店員が三〇%、日雇、臨時工が二三%で、全体の七割以上が月収四万円以下である。(以上、四二年七月阪大大藪助教授調査)

 この地区の闘争が始まったのは昭和三十八年春からであった。

 当時、数年がかりの福島地区都市改造闘争を現地の人々と闘い終えたわれわれは、始めても河岸のバラックの中で川本氏(現在、同盟会長)数十数人の活動家と話し合った。今まで何べんも口約しては逃げていったいわゆる議員族をよく知っている人々は、不信と期待とのまざったまなざしでわれわれを見ていた。われわれは福島闘争の経験を話し、現状維持的な立退反対ではなしに、積極的な住宅建設闘争を、しかも、誰かに頼むのではなく、皆で一緒に闘おうと提案した。数度にわたる夜の会合で討論の結果、ともかくやって見ようと決まったのは何度目かの夜も大分ふけてからだったが、多くはまだ半ば疑心暗鬼だった。

 運動はまだ組織と調査からはじまった。この年の六月、早くも二〇〇戸で基町住宅建設促進同盟(現在四〇〇戸)が結成され、直ちに調査活動が開始された。十名内外の活動家が労働の合間を見ては現地を調査し、夜は各戸を訪問して使用畳数、収入、家族構成等を調べて廻った。運動の第一歩は闘争の主体を作る組織の建設であり、第二は、まず自らの状態を自ら調査を通じて知ることであった。それは運動の目標と方法をつくり上げる上で何よりも大切なことであった。こうして調査にもとづく数度の研究と討論の中から、住宅地区改良法を適用させ、川を埋め立てて近代的なアパート住宅の建設を国と県に要求することを決定し、十一月始めて県副知事その他の関係者と交渉を開始した。

 実態調査もせず、今までその日ぐらしにここをさけて通ってきた県にとって、何一つ積極的な対策があるはずがなかった。いきおい立つた力の前に、結局彼等は、今後どんなことも同盟への事前連絡なしには行わないことを前提に、われわれのプランを検討することを約束せざるをえなかった。その後数度の交渉を経て、三十九年六月、県土木部長との交渉の中で、

(1) 現地、あるいは現地に接続する地域に改良住宅を建設する。

(2) この調査、計画に当たっては必ず同盟に連絡して事前協議する。

(3) 埋め立てを含む住宅建設については四〇年と予算を目標に努力する。

   の三点を原則的に確認させるところまで発展した。

 しかし、その後県は容易に具体プランを明らかにせず、秋に入ると、流量調査の結果現地の埋め立ては困難だが、接続する上流に二万坪の埋め立てが可能であり目下検討中だが、埋立地の利用、特に改良住宅の建設については県・市の意見が一致しないことを理由にこの計画の困難さをくりかえし強調し始めた。

 そこで同盟は大衆動員の準備をするとともに、もし四〇年度に予算化されぬときは、一切の行政計画を拒否して闘うと県に最後通告した。こうして漸く四〇年三月県会に二万六〇〇〇坪、五億一〇〇〇万円の予算が提案、可決されたが、この間、自民党政調会長をとりかこんで回答を迫るという一幕もあった。

 埋め立て予算は決定されたが、事態はそう簡単ではなかった。埋立法での必要な同意者である市議会が六月市会でついに同意を保留したからである。これには県・市間の対立問題もからんでいたが、戦前は別荘もあった川岸の一等地に改良住宅はもっての外だという「高級」なノスタルジアとともに、埋立地を横取りしようとするボスのかけひきもあった。

 同盟は直ちに市に押しかけて抗議するとともに、その後半年以上もの放置にたまりかね、カンパをつのって四十一年二月上京して直接政府にも要求した。三月漸く市議会も同意し、五月から埋立て工事が開始されたが、まだ必ずしもここに約束通りの住宅を建設するかどうかははっきりしていなかった。

 同盟は九月、再度代表団を上京させるとともに、その帰広を待って、同盟集会所に国、県、市の責任者を呼出し、公開集団交渉を行なった。余り広くもない集会所にすしづめにつめかけた人々の追求の中で、彼等もしぶしぶながら、改良住宅の建設を一日も早く実施すべきだと認めなければならなかった。

 この間、共産党は「生活を守る会」を組織し、同盟をひぼうするビラをまき、住宅建設闘争は行政当局に協力するものだと必死に宣伝を行なった。しかし、その甲斐もなく建設闘争が成功しそうだと見ると、四二年四月の選挙では、「皆さん基町に住宅を建設させましょう」と得意の早がわりを演じて物笑いのたねになった。

 七月、四度目の火災がおきて河岸の南部八二戸一七一世帯が焼失したが、焼けあとへの立入禁止のため数百名の武装警官が動員されて住民と対立し、連日の烈しい集団交渉で救援対策と仮設住宅建設が決定された。こうしたきびしい情勢の中でひらかれた八月の水害・災害臨時県会で、知事は漸くわれわれの要求を原則的に認め、市側との正式交渉に入った。また一方、水道敷設を要求する集団交渉の結果水道局もついに土手下までの敷設を認めた。

 運動をはじめて以来五年目の四三年三月、当初予算でやっと調査費がついた。

 その後十一月の実態調査を経て四四年三月、基本計画を決定したが、それはついに河岸から基町全域一〇万坪に及ぶ大建設計画となった。

 事業費総額は一五六億五千万円で、改良住宅二六〇九戸、公営住宅一〇四九戸合計三六五八戸(十二―十五階建アパート)の外、小学校、幼稚園、保育所、病院、集会所等の附帯施設も建設することになり、今、埋立地の上に河岸用の高層住宅建築が開始され、四十六年度完了の第一棟から入居がはじまることになった。

 平和の象徴「原爆ドーム」の足下に戦後二十五年間、原爆と戦争の遺産として放置されつづけた「原爆スラム」は、今ようやく労働者の近代的な住宅群に生まれ変わろうとしている。

 しかし、これですべてが終わったわけではない。七年間の運動と闘争を通じてつちかった確信と力を土台に、同盟はひきつづいて家賃、集団作業場等の要求を検討。研究し、次の闘いにそなえている。

 

  庚午地区の闘い

 

 庚午地区市の中心から約四キロばかり、戦前は農地が多かったが、戦後いち早く住宅地区として発展し、現在では四五〇〇世帯一万五〇〇0人をかかえる広島市の大きなベッド・タウンになっている。

 ここでは戦後早くも農地改革をめぐる農民組合が組織され、実力闘争まで行なわれたが、全体としは次々に住みつく勤労者の住宅の中で、町内会は上からの役員組織にとどまり、住民の要求をとり上げることもなかった。

 この地区で引き続く数度の大闘争の発端となったのは昭和三十五年から始まった国道闘争であった。

 戦後中、広島市をつらぬき下関までつづく国道二号線を軍用道路として拡幅するいために行なわれた区画整理事業は、この地区二十四万坪の範囲に及び、軍の圧力で住民から土地をとり上げて道路はつくったが、その後始末もせずそのまま終戦をむかえた。昭和三十五年やっと腰を上げた市は、いきなり数百人の地区の人々に清算金通知書を送付した。

 寝耳に水で、土地を取られた上に金まで取るとは何事か怒る人々は山口同志を中心に区画整理民主化同盟を組織し、通知書を一括返上して闘いははじまった。当初わずか二,三〇名だった民主化同盟は闘いの中で数百名に発展した。市を相手に数度に及ぶ集団交渉の結果、ついに市は一旦発表した清算計画をとり消し白紙に還元した。しかし、国には何一ついえぬ市の弱腰に愛想をつかした民主化同盟は、つづいて土地をただでとり上げた国に対する闘いをはじめた。

 「この道路はわれわれのものだ」という大きな横断幕が二号線の上にはり出され、道行く人々や自動車をおどろかせた。国道事務所はかけつけ警察もあわてたが、強い地元住民の団結と決意の前についに指一本出せなかった。民主化同盟は代表団を上京させて国に抗議し、国道の買上げを要求した。

 こうして三年間闘い抜いた結果、昭和三十八年ついに音をあげた国と県、市は一億円をはき出して清算のやり直しをすることになった。

 この闘いがすんで翌年、庚午地区は水害を受けたが、つづく四〇年もさらに上まわる大きな水害となり、水は道路にあふれ家屋や作物は甚大な被害を受けた。この地区は戦前にも大洪水で水びたしとなり、押入れまで浸水して死者も出たことがあるが、戦後はほとんど毎年雨期に入ると水害に見舞われぬ年はなかった。それは川下の泥水につかって小ポンプではとうてい排水できぬ上に、山ぞいで盛んに行なわれているずさんな団地造成工事によって泥水が流れ、被害を倍化させていたからである。

 水害から町を守ろうという闘いは四〇年六月、水害の最中からはじまった。山口同志を中心に組織された水害対策委員会はまず降雨量と排水能力の関係、流水の経路等の調査を行なったが、その結果、毎年の水害はむしろ当然だと分り、直ちに対市集団交渉がはじまった。水害対策委員会の要求書を前に、市は排水路の再整備と能力の高いポンプの必要を認めたが、長期計画のためとてもここ数年の間に合うものではなかった。対策委員会は代表団を上京させて国に要求し、数度の交渉の結果、二億円のポンプ三基の予算化をかちとった。

 しかし、市はなかなか腰を上げず、まず排水路の整備のためだといって昔からあった川土手下の潮廻しを埋め立てて三〇〇〇坪乃用地をつくり勝手に使おうとした。憤慨した対策委員会はある朝早くこの埋立地にウネをつくって大根の種子をまいた。この実力行使にあわてた市は、大根の若葉が出はじめた頃についに侵奪罪で活動家を告発した。しかし市長との集団交渉の結果、大根を抜いて復元するかわり告発をとり下げるとともに、直ちにポンプ工事を始めることを約束した。

 この工事は、川口の漁民の補償要求で以後一年間難航したが、対策委員会と地元のつき上げで四十二年最初の一基が完成し、つづく年次計画で残りの二基も完成し、現在ではどんな大水にもやっと枕を高く眠ることができるようになった。こうして庚午地区は戦前来の水害を下からの住民の闘いで防ぐことができたが、この闘争の中で山口同志は住民の投票で一八〇〇世帯の庚午中町町内会長に選出された。

 水害闘争が一段落する頃には、すぐに次の闘争が待ちかまえていた。

 この地区で小学校を建設することは十数年来の要求であった。事実上十年前にも要求を出したことはあったが、土地がないからという理由でそのまま放置されていた。しかしその後の人口密度の急激な上昇は、隣接町にある草津、古田の二校をすし詰学級にしてしまった。古田小学校では昼休みのせまいグランドは芋の子を洗うようになり、運動会には父兄があまり来ないようにと学校から通知を出す始末だった。その上、国鉄と宮島電車線の二つの線路を毎日子供に横断させることは、日々母親の痛切な懸念だった。事実この運動がはじまってまもなく一人の子供が電車にはねられて亡くなった。四十三年の春、集団市長交渉からはじまった建設闘争は二年つづいた。学校建設の必要は認めながら土地がないから困難だという市に対し、建設委員会は、かつて区画整理でとり上げた土地でつくった公園に居すわっている市の園芸指導所を移転させて学校をつくれと要求した。

 ただ他地区との均衡だけを考えて優柔不断な市教育委員、ただ公園の代替地の困難さを訴える建設部局等の官僚セクトを打ち破り、県教委を通じて文部省への新設要求書を提出させたのは、四十四年二月ひらかれた要求大会に結集した住民の力だけだった。朝早くから夕方まで立ちつくして二つの線路を通過する一日二五四本の国鉄と一日三六四本の電車を調査した婦人活動家の報告は、庚午中学校の講堂につめかけた大会の人々に改めて大きな衝撃をあたえた。

 こん度も上京代表団が組織され、直接文部省への要求と交渉を行なった。密接に関係する国、県、市の教育関係当局へのねばり強い、しかし断固たる闘いはついに勝利した。四十四年度の予算でまず一年生の校舎建築がはじまったが、この建設計画の中には、他府県まで調査団を派遣して研究した建設委員会の要求の多くが予算のワクを超えて貫徹されていた。残りの校舎は四十五年中に完成し、根分け分校から始まって独立に数年を要する現在の学校新設制度のワクを突破して、名実共に一年から四年までの独立小学校がこの一年間で完成することになった。

 今年四月の開校式に、今までの慣習に従ってぎょうぎょうしく関係地域の議員や多くの来賓を招こうとした市教委は純粋な教育行事として直接関係者だけで行なうか、さもなくば同日どう場所で集会をひらいて開校式を粉砕するという建設委員会の剣幕に屈し、その要求通りの開所式を行なった。結局、はじめからおわりまで住民の運動が完全に指導権を握り、市教委は今後とも予想される教育闘争に戦々恐々としなければならなくなった。

 今、庚午地区ではひきつづきバス・電車運賃の闘争が進んでいる。電鉄は不合理な庚午からの値上げをコッソリ取消し、三千名の署名を基礎にした住民の運動は一応の成果をおさめた。しかし闘いはすでに庚午を中心に全市に広がり、二〇町に及んで広島地区公共料金対策協議会が結成された。今、協議会は、運輸省―陸運局と業者のなれ合いと住民の不在の値上げのしくみをばくろするとともに、県、市また陸運局、業者に要求して、法と制度にはない公聴会を事実上ひらかせようと運動をすすめている。

 こうした数度にわたる庚午の諸闘争は、すべて都市周辺における都市化矛盾の集中から地域住民生活と環境を守る闘いであった。

 

「住民自治」の闘い

 「住民自治」が「自ら治める」闘いである以上、それはまず「他からの支配」を拒否することからはじまる。

 基町での七年間にわたる運動と闘争の最大の基礎となり支柱となったのは、要求を入れなければ一〇〇〇戸の集団が団結して、立ち退きその他どんな行政計画の実施も拒否すると言う実力があったからである。それは形こそ違え庚午でも変りはない。国道闘争から学校闘争に至るまで、初めは部分から、つづいて次第に広がった住民の権力への実力による非協力が、どんな結集をもたらすかをいちばん良く知っていたのは市と市教委であった。

地域の自治的な要求はこの拒否権を基礎にしてのみ闘われ、また逆に、拒否権は地域の自治的な要求とその闘いの必要から生まれる。しかし、この拒否権は単なる要求達成のための拒否戦術ではない。それは戦術として生まれ戦術を越えている。その底に横たわっているのは基町にあるような支配にたいする無言の反抗であり、庚午に見られるような行政に対する長年の不信であり、それは闘争の発展によってますます強まる。

「地方自治」を守る闘いは発展すればするほど「地方自治体」に対する「信頼」を増すが、「住民自治」の闘いは闘争が進めば進むほど、ますます「地方自治体」に対する反抗と行政への不信を深め、住民の力に対する確信と信頼を強める。

基町で七年前、交渉でかつとった「事前協議権」は七年後の今日では実力で裏付けられている。 ついうっかり立てた住民建設に関する立て札は住民の抗議を受け、同盟の要求によって「上からの布告」は撤去された。現在では何一つ手をつけるにも同盟の「許可」なしにはできなくなった。庚午でも一〇年にわたる連続闘争の結果、市教委は新しい学校建設に伴う諸計画の何一つも町内会、建設委員会と協議なしには実施できない。

こうした力は、要求を基礎に運動と闘争を通じて形成された主体的な組織によってのみ作り上げられた。基町の場合には、いわゆる町内会とは別に組織された個人加入の建設同盟がそうであり、庚午の場合には、区画整理民主化同盟、水害対策委員会、学校建設準備委員会がそれである。そうしてこの活動家集団からはじまった運動がほとんどの全住民をとらえた時、下からの「住民自治」の組織に転化してその武器となった。

「住民自治」の闘いは闘いの連続性と闘いの拡がりによってのみ発展することができる。

現在の体制の下で制度の一般的基準を変えることは、全体の構造を変革することなしには不可能である。しかし個々の具体的な問題では力と闘争によって一点突破は可能である。はじめはほとんどの人にとって不可能と思われていた基町の改良住宅群の建設は、制度的には保障されていながら事実上は閉ざされていた扉を新しく開いた。また区画整理事業における国通買上げや、学校設置基準を突破した庚午小学校の新設などはそれを教えている。

しかし、支配のための機構は、ひとたびひらかれた突破口をいち早く閉ざそうとするが、これはあたかもきず口をすばやくゆ着させる自己保存のための本能的な作用と全く変わらない。彼等はただ頑強にていこうするだけでなく、時には要求を上回る政策の実現をとうして「住民自治」の萌芽を抜きとろうとする。基町河岸の闘いが全基町一〇万坪の大建設計画に発展したのは、闘争の波及という積極的な一面があるとともに、波及を防いでいち早く要求の買取に転じた一例である。また庚午では町内会を唯一の対象にすることで、下からの自治組織を包み込み、町内会を再び上からの「地方自治」の組織に逆転させようと常にねらっている。

こうした「住民自治」の、体制による押しつぶしや買取りを防ぎ、一層この運動を発展させる道は、一度つけたきず口を更に深く更に広げてゆ着のスキを与えず、下からの自治組織を強化すること以外にはない。一つの要求を七年間闘いつづけてきた基町、一〇年間に大きな諸闘争をあいついで闘いつづけた庚午、こうした連続闘争の中ではじめて「住民自治」と住民の「事前協議権」は次第に定着する。しかしこれがただ基町と庚午だけであれば周囲から逆に包囲されて孤立し、やがて「民生的」な体制に吸収される。

そこで、まず突破口の拠点をつくるとともに、点から線に、線から面へと闘いを拡げることが必要となる。庚午を中心に全市的な発展を追求している公共料金闘争はその端緒である。

しかしわれわれの闘いはまだごく一部であり、まだほんの端緒にすぎない。しかし、まず「住民自治」の拠点を闘うことから全ては出発する。

このような闘いは労働運動の新しい追求と決して無縁ではない。職場・生産点での直接大衆闘争による生産管理への肉薄は、どんな新しい機械・技術の導入も職場の労働者の同意がなければ実施させないという実力による拒否権=職場の事前協議権なしには発展しない。上からの「事前協議制」は、ちょうど「地方自治」の発展が一定の限度内で住民の利益を守りながら支配の安定装置になっているのと同じように、職場の労働者の闘いを鎮める役割をする。

擬制的な「参加」から自立した闘争によって自ら「参加」し、拠点の闘いを更に深く一層拡げることこそ、全体の構造を改革するためにまず必要な「陣地」の構築である。

われわれにとって重要なのは古ぼけたできあいの「陣地」を上から占領することではなく、やがて展開される攻撃のための、われわれ自身でつくったわれわれの「陣地」なのである。「地方自治」を守ることではなく、「住民自治」を闘いとることなのである。

(一九七〇・五・一〇)

編集部―本文中に紹介されている公共料金対策協議会が県当局に要求していた公聴会は、去る六月二〇日市商工会議所で開かれた。


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