グラムシ思想から何を学ぶか

植  村   邦

           労働運動研究 198511月号掲載

 

 過日、東京都内の「グラムシ研究会」で報告する機会があった。テキストはイタリア共産党中央委員会教育部編『グラムシ入門』(松田博、ロベルト・マッヂ訳、合同出版―以下『入門』と略称)であった。私の報告は、革命家としてのグラムシの思想の譜要素をかなり包括的に描写できただけであった。以下は私見に従って重要な部分を整理しなおしたものである。

 

イタリア党におけるグラムシ アントニオ・グラムシ(一八九一― 一九三七)はパルミロ・トリアッチ(一八九三― 一九六四)等とともにイタリア共産党の創立者のひとりである。今日の党規約(第一六回大会、八三・三)の前文には、同党が十月革命によって全世界にひきおこされた巨大な理念的緊張のなか一九二一年、リボルノ大会で創立されたこと、その歴史の行程において重大な困難に直面した際にも、「アントニオ・グラムシ及びパルミロ・トリアツチによって提案された戦略・闘争の指針に従って活動し」、国民的な指導機能を確立してきたことが述べられている。ついで、自己の政治的立場と文化的伝統との関係について次の規定がみられる。

 「イタリア共産党は政治的綱領に基づいて加入する政党として自己の力の非教義的・合理的性格を再確認するとともに、マルクス及びエンゲルスの思想に母体と着想を有し、かつ、レーニンの革新的な理念ならびに活動から歴史的意義のある推力を受けとっている。理念的・文化的伝統のうちに自己を識別する。イタリア共産党は、アントニオ・ラブリオーラの著書ならびにアントニオ・グラムシ、パルミロ・トリアッチの理論的・政治的活動によって描かれた航跡のなかで、現代思想のすべての潮流との対話のまえに絶えず開かれた独創的な精練をもって、うえの遺産に寄与している。これらの教訓はイタリア共産党員にとって、情勢分析と政治的精練のための指針源であり、合理的に活用するとともに現実と経験との対比のうちで批判的に点検され革新されるべき探究手段である」。

 ここではPCl(イタリア共産党の今日の略称、創立当時−コミンテルンの時代−は少し異なった呼称であったが、ここでは区別を省略する)が「マルクス・レーニン主義」の用語による規定をおこなっていないこと(この点についてはさらには言及しない)、マルクス、エンゲルス、レーニン、グラムシ、トリアッチのほかにラブリオーラ(アントニオ、一八四三−一九〇四)の名のあげられていることが注目される。

 この規定からも知られることであるが、PCIの今日の政治的提案とその基礎にある理論的立場はグラムシの直接的な継承ではない。グラムシ(ひとりグラムシにとどまらない) の思想と活動から学ぶ教訓は「現実と経験との対比のうちで批判的に点検され革新されるべき探求手段」であり、PCIの理論的立場と政治的提案はこれらの「探求手段」を「合理的に活用」しつつ、現代思想のすべての潮流との対話のなかで創造されねばならないのである。

例えば、七〇年代中ばPCIが顕著に進出した時期(『入門』が書かれた時期)、政治の優位、ヘゲモニー、プルナリズ複数主義(多元主義)、国家、特に社会主義革命に関連した国家の問題等に関するPCIの提言はグラムシの見解そのものではない。グラムシは今日いわれる社会主義への国民的な道、複数主義を議論すべき客観的な条件をみなかった。

 しかし反面、政治、ヘゲモニー、国家の問題等に関してグラムシが個々の分析や提案を超えて思想的な寄与を、PCIの遺産にこの独創的な寄与をなしていることを見ないならば、今日のPClを理解することができないであろう。

 イタリア共産党員にとって「グラムシを読み理解するうえでの観点は、われわれの政治的、文化的伝統のなかにグラムシの何が生きており、何が有効であるか…‥イタリア共産党の今日の路線の基礎にどのような根源があるか…イタリア共産党のその後の路線の発展の道をグラムシがどのような意味で切り開いたかをかれの思想の豊かさのすべてにおいて理解すること」(『入門』八ページ)である。うとした」問題は、イタリアの労働者階級は何故敗北したのか、従属的な階級がいかにして支配的な階級に、すなわち国家に転化しうるのかということである。

 グラムシが「獄中ノート」で多面的な角度から展開することになるテーマは「投獄以前のグラムシの政治的、理論的活動の初期の段階の著作にどのようにあらわれているのであろうか?」(『入門』三三ページ)。

 この時期においても「別のタイプの断片性が存在している。…というのはかれがそこで理論家としての課題をみずからに課したものではないからである。かれは実践家、指導者、革命的戦士であり……きわめて総体的かつ多彩な政治思想を日々語っている」 (同上)。

 とはいえ、この時期のグラムシの著作、活動は「客観的に」照合することができるので、研究がより容易ではある。

 グラムシの諸テーマが「いかにしてこの時期に生じてくるか、またそれがグラムシの思想のなかにおいてどのような位置づけをもっているか、さらに獄中でのグラムシの思想の深化を通じて一定の概念がどのように変化してゆくか‥‥‥このような関係、つまり投獄以前のグラムシの政治活動と、それ以降のグラムシの思想的深化との結節点を明確にしないかぎり、『獄中ノート』を深く理解することは不可能である」(『入門』三四ページ)。

 

『オルデイネ・ヌオーポ』

 

 外国人であるわれわれにとっては、投獄以前のグラムシの活動・思想を研究することもそんなに容易ではない。このような研究のためには専門家のモノグラフ(専門書)や解説書とともに、一定のアンソロジー(原著作の選集)が必要である。

 このアンソロジーの分野で私は、石堂清倫氏編纂になる『グラムシ問題別選集をあげておきたい。

 『問題別』はグラムシの活動の重要な節目に対応している。「@工場評議会運動」は表題そのものである。グラムシの思想におけるこの運動の意義について、EJ.ホブスボームは次のように述べている。(七七年フィレンツェ研究集会)。

 「社会的変革のキーは人民の能動的・意識的な参加である。グラムシはトリノ労働者運動のような真に大衆的なプロレタリア運動における自己の経験を通じて、このことを理解したものと私は信じる。この点に立ちかえるのも、当時かような経験を体得した革命的マルクス主義者はまれにしかいなかったことを知るからである。一九一七年以前にこのような体験をもった人びとは大てい改良主義者であって…新しい意識の形成、人間の可能性の変革を鼓舞する〔トリノ労働者運動の〕諸要素に、十分な注意をはらわなかった。これらの運動のなかでは、男性も女性も自ら教育し、自ら革新し、こうして社会主義における人間性革新の過程を切り開くのを見ることができた。

このゆえに、社会主義への道、社会主義そのものに関するグラムシの探究は、主として、政治的運動、党の性質、構造、発展についての繰返し練りあげられたせん細な分析を通じて進められることになる」。

 ホブスボームも指摘しているように、グラムシの探求は「獄中ノート」における「現代の君主」に発展してゆく。「総体的、全般的ヘゲモニーの構築の手段としての政党の基本的性格は、知的、道徳的改革にある。…グラムシは『現代の君主』すなわち労働者階級の政党の考察の中心的テーマとしてつぎの二つをとりあげている。つまり国民的―人民的な集団的意志の形成と知的、道徳的改革の組織化がそれである。この二つのテーマは緊密に結合され、一体化されており、現代社会の変革……の基確とみなされている」(『入門』一六六ページ)。

 「工場評議会運動」においてわれわれはこのテーマに関する重要な契機を見ることができる。

 極めて示唆に富むひとつの論説「二つの革命」(二〇・七・三)をあげる。

 「…(1)ブルジョア国家の政府を打倒することを提唱し、それを達成したからといって、革命は必ずしもプロレタリア革命、共産主義革命であるわけではない、(2)中央政府がブルジョアジーの政治的権力を実行する用具である代議諸制度や行政機構を絶滅することを提唱し、それを達成したからといって、革命は必ずしもプロレタリア革命、共産主義革命であるわけではない、(3)たとえ人民の反乱の波が共産主義者と自称する(しかも真面目に)人びとの手に権力をあたえたとしても、革命は必ずしもプロレタリア革命、共産主義革命であるわけではない。…革命は、資本家階級の支配する社会の内部でつくりあげられたプロレタリア的、共産主義的生産力を解放するかぎりにおいて、プロレタリア的、共産主義的なのである。革命は、生産と分配の諸関係に新しい秩序を建設するために必要な忍耐強い系統的な活動を開始することのできる、プロレタリア的・共産主義的諸勢力の拡張と体系化を助長・促進する度合に応じて、プロレタリア的、共産主義的なのである。この新しい秩序においてこそ階級に分裂した社会の存在が不可能とされ、それゆえ、この秩序の系統的な発展は国家権力の消滅の過程に、階級としての自己を解消して人類となるプロレタリア階級の政治的防衛組織の系統的な解消に、一致する傾向をもつのである」(@一三八〜九ページ)。

 

自然発生性と意識的指導

 

 「Bロシヤ革命とコミンテルン」の前半では二一年までのグラムシのロシヤ革命が述べられている。有名な「『資本論』に反する革命」(一九一八・一、B一六ページ)もここに含まれるが、この論文の読み方のひとつの見地は、当時の第二インタナショナルのマルクス主義における主潮としての機械的・宿命論的理論に対するグラムシの反批判である。「事実はイデオロギーをのりこえた。ロシヤの歴史は史的唯物論の諸規範に従って発展すべきだったであろうという批判的図式を事実が爆破した」。

 このところはグラムシに対して「主意主義」の批判が向けられるところでもある。私見によれば、「主意主義」とこれの対極としての「自然発生主義」とは、グラムシにおける政治思想の、さらにはその枠組にあたる史的唯物論の探求を理解するキーワードである。

 グラムシは「獄中ノート」で次のように述べている。「トリーノの運動は、『自然発生論的』であるとして非難されると同時は、『主意主義的』すなわちベルグソン主義的であるとして非難されもした(!)。この矛盾した非難は、分析してみれば、この運動に刻印された指導の豊饒性と正当性を証明している。この指導は『抽象的』ではなく、科学的あるいは理論的な定式を機械的に反復することではなかった。それは…特定の歴史的諸関係のなかで、特定の感情、ものの見方、断片的な世界観等々をもって形成されてきた現実の人間に〔適用された〕。これらのものは、物質的生産の所与の環境と、その環境のなかにおける千差万別の社会的諸分子の『偶然的な』集合との、『自然発生的な』組み合わせから生じたものである。この『自然発生性』の要素はゆるがせにはされなかったし、まして見くびられはしなかった。それらの要素は、歴史的に有効な生き生きとしたやり方で、現代の理論と等質化させるために、教育され、方向を与えられ、それを汚損する可能性のあるいっさいの不純物から純化されたのである。…『自然発生性』と『意識的指導』すなわち、『規律』とのこの統一はまさしく、大衆に訴えかける集団の、たんなる冒険ではなく大衆的な政治であるかぎりでの、従属的階級の現実的政治行動である」(A一八九ページ)。

 スコラ的・アカデミックな歴史・政治論に従えば、一〇〇%意識的な、むしろ、前もって詳細な見取図で定められている、また(同じことであるが)抽象的な理論に相応する運動のみが、真のものであり価値あるものである。実際にはこのようなことはおこりえない。かような観念は受動性の表現以外のものではない。 

 

 第二インタナショナルのマルクス主義に対するグラムシの批判は、彼をアントニオ・ラブリオーラに注目させる。

 

A・ラブリオーラ

 

 アントニオ・ラブリオーラは第二インタナショナルの「理論的マルクス主義」のなかにあって、特異な存在であった。ラブリオーラによれば、社会主義の理論的意識とは、その発生の特徴的な様式を理解することにある。

 「批判的共産主義は、プロレタリアートの運動が社会的諸条件の結果であることを越えて、これら諸条件の変化しうることを理解し、いかなる手段で、いかなる方向に変化しうるかを考えつくほどの力を身につける時にしか、発生しな」。

 史的唯物論が批判的理論であるというのは、事物に対する主観的な批判ではなく、社会の現実のうちに存在する「自己批判の再発見」である。事物のうちにある矛盾の摘出である。今日の矛盾を解消するものはプロレタリアートである。

 共産党宣言が発表されて「この五〇年、新しい時代の全般的な予見は社会主義者にとって、その時その時に何をなすのが適切であるのか、何をなすべきであるのかを判断するせん細な技術になっている。この新しい時代そのものも不断の形成のうちにあるからである‥‥‥」。

 宣言は「科学と実践の最初の指針」以外のものではありえなかった。時代と経験のみがかような指針を展開することができる。理想化され、義務的な戦術としなければならないような図式は存在しない。

 「現代国家」の復雑化、武力やその他防護手段の整備とともに「蜂起の戦術」が不適切であることが知られるに至った。プロレタリア大衆が政治的に発展しているところでは「自らを民主主義的に教育し」、民主主義的に組織化しており、ひとつの階級支配を別の同種の支配ととりかえることになるであろうような少数者「首領」のスローガンには、もはや追随しない。プロレタリアート独裁は誰かに指導された蜂起から生れるのではなく、プロレタリアート自身の成果でなければいけないこと、プロレタリア大衆はこのことを理解しつつある。プロレタリアートの政治的組織化も不断の形成のうちにある。

 グラムシは「獄中ノート」において、「従属的な階級が真に自治的となり、ヘゲモニーの機能を担い、新しい型の国家を提起する時」この時代の要請に応じるアントニオ・ラブリオーラの 「哲学問題の定式」の重要な意義を強調している。

 

 レ一ニン主義=ヘゲモニーの教訓

 

 『問題別選集B』の後半は、ボルデイガ指導部との闘いを決意し、その準備を開始したグラムシが、トリアッチ、テッラチーニ等にあてた手紙と、有名な、ソ連共産党中央委員会への手紙(イタリア共産党政治局、一九二六年十月と考えられている)ならびに、これに対するトリアッチの批判に答えるグラムシの手紙(二六・一〇・二六)とが収められている。

 あとの二つの手紙に関しては、グラムシが「レーニン主義、すなわち、歴史的に特定の地位を占めるプロレタリアートのヘゲモニーの教義」と述べていることが注目される(『入門』八○ページ)。

 ソ連共産党の内部対立からはじまって「危機に瀕しているのは、労働者と農民の同盟の基本的関係、すなわち労働者国家と革命の柱石である」。プロレタリアートのヘゲモニーの問題は党の統一のあり方にも結びついている。「労働者国家を統治する党における確固とした統一と規待だけが‥‥‥プロレタリアートのヘゲモニーを確保することができる。

だが、この場合における統一と規律は機械的また強制的であってはならない。それは誠実で確信によるものである・‥‥・」(B二八四〜五ページ)。

グラムシはトリアツチへの反論において、さらにこの点を敷衍している。 グラムシの見解は彼自身の党内闘争のあり方とも関連して研究されるべきであろう。これらの経験は「獄中ノート」における「現代の君主」の考案の諸要素となる。特に「全体主義的一党制をとる諸国」の党の考察もみられる(『入門』−七〇ページ)。

 

「現 代 の 君 主」

 

 二三〜二四年の手紙とこの時期以降(二三〜二六)のグラムシの著作(これが「Cファシズムと共産党」の内容となっている)は、今日のイタリア共産党を理解するためにも、「獄中ノート」を研究するためにも最も重要な前提である。

 「二六年までのグラムシの闘いと考察はファシズム分析、イタリア国家の分析、ファシズムによって労働運動がこうむった敗北の分析に緊密に結びついている。この労働運動の敗北については、十分な考察が必要である。それはもちろん『獄中ノート』におけるグラムシの考察の出発点であったばかりでなく‥…」 (『入門』四四ページ)、トリアッチそのほかの指導者にとっても深刻な考案の対象となった。

 グラムシはトリアツチへの手紙(二三・五・一八、B∵九八ページ)のなかで次のように述べている。「三年の経験は、社会民主主義的伝統がどれほど根をおろしているか、また、単なるイデオロギー論争だけで過去の残滓を破壊することがいかに困難であるかをわれわれに教えたが、それはイタリアだけのことではない。

この伝統を日ごとに解体させ、それを体験している組繊体を解体させる広範でこまかい政治行動が必要である」(B一九九ページ)。

 リボルノの創立大会からほどなくグラムシは「諸政党と大衆」(二一・九)のなかで、共産党の活動が期待されたようには発展しなかった理由を、大衆と諸政党との環実の関係のうちに分析している。さきの手紙はムッソリーニのローマ入り(二二・一〇)以降のものである。

 手紙は続いている。「君〔トリアッチ〕の論評は社会党を解体させる代りに、社会党の全運動をわれわれとの越えがたいアンチテーゼとして定立することによってこれを強める‥‥‥。われわれは前衛プロレタリアートの圧倒的大部分がわれわれに引きつけられ、われわれに同化されるものと確信する。それでは何をなす必要があるか?」 (同二〇一ページ)と問うて、次の点をあげている。

一、首領と大衆とを一緒にしたアンチテーゼに固執せず、両者を区別すること。

二、首領と大衆の間の対立のすべての要素を発見し、これを深め、拡大し、政治的に一般化すること。

三、一般的な歴史的現象の検討でなしに、現実的な政治的討論をおこなうこと。

四、実践的提案を行い、行動と組織の実践的方向を大衆に示すこと。

 このような課題を遂行しうる党とはどのようなものか。グラムシは「党、その機能」、「指導中心と党員大衆との関係、党と勤労人民の諸階級との関係」についての見解で、ボルデイガのそれとは妥協しえない地点に達していることを同僚に告げている。

 グラムシはさらに、この党とその課題を提起する「現代」の規定に考察を進める。トリアッチ、テッラチーニそのほかの同僚への手紙(二四・二・九、B二三五ページ、『入門』三四ページ)で次の考察がおこなわれている。中央ヨーロッパと西ヨーロッパでは資本主義の発展によってプロレタリアの広範な諸層が形成されただけではなく、労働組合官僚と社会民主党議員団という付属物をそなえた労働貴族が生み出されている。ここでは、これらすべての政治的上部構造によって歴史的メカニズムの規定は一層複難となり、大衆の行動をよりゆるやかに、より慎重にする。

したがって、一九一七年三月と一一月の間にポリシエビキに必要とされたのよりはるかに複雑で、息のながい戦略戦術を革命党に要求する。

 ファシストによるマテオッティ議員の暗殺(二四・六)を機にイタリア共産党はいよいよ、プロレタリアートの前衛的政治組織としての機能を迫られることになった。ファシズムと資本主義とを一体視し、プロレタリアートの純粋性・それ自体としての党を維持するために同盟の政策に反対するボルデイガのグループに対して、グラムシ、トリアッチ等のグループはブルジョアジーの権力体制の具体的・分析的な判断のうえで、労働者階級の同盟譜勢力、中間局面(ファシスト体制からプロレタリアート独裁にいたる)の可能性を追求しようとした。

 リオン大会(二六・一)でグラムシ等の提案が多数を得、テーゼ(C二二六ページ)はその成果であった。確かに、ここで述べられている「労働者と農民の政府」は当時の政治的決定としてプロレタリアート独裁のシノニム(同義語)であった。リオン・テーゼをトリアッチの「新しい型の民主主義」(三六)、「進歩的民主主義」(四四〜五)の理論と直結させるのは無意味なことである。

 しかし、グラムシの政治的提案も二六年一月で終ったわけではない。

「イタリア状勢の検討」(二六・八、C一六八ページ)、「われわれと共和連合」(二六二〇、C一八七ページ)には、さきに述べた指向での興味ある考察がなされている。

 いずれにしても、二六年の「南部問題に関する若干の主題」(C一九三ページ)を含めて、この時期には、「獄中ノート」の基本的なテーマとなるヘゲモニー、国家、党、さらにこれらの媒介的な要素である知識人等の問題が明確に現われている。

    ×   ×   ×

 ここからは「獄中ノート」におけるグラムシの思想の「発展のリズム」を探りながら各論に進む段階である。

       (八五・九・二九)

(1)植村「労研」七八・九、七九・七等。

(2)@工場評議会運動、Aヘゲモニーと党、

 Bロシヤ革命とコミンテルン、Cファ

 シズムと共産主義(現代の理論社)ー

 本文では@等として引用する。なお、

 Aは「獄中ノート」の部分であるが、

 石堂氏はこの部分についてほかにも編

 著をされている。

(3)「グラムシにおける政治と歴史」 (七

 七、ローマ)

(4)以下、A・ラブリオーラ「共産党宣言

 を記念して」 ハ一八九五)より。

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