序文−後に来る人びとのために(石堂清倫)
【中巻 戦中篇】
〔第1章 反戦・反ファッショ運動〕
1.宮西直輝と宝木武則兄弟の検挙
2.地下文献印刷と社大党・全国総同盟への加盟−青年部を結成して
3.革命の青春
〔第2章 日中戦争のなかで〕
1.スパイ・プロバカートルとは知らずに
2.『土曜日』配布者となって
3.聖戦支持の社大党大会と新党運動
〔第3章 帝国主義軍隊の中で〕
1.最初の徴発−陸軍水上輸卒隊
2.御用船の中で
3.呉淋の一夜
4.椰子高い街で
5.初恋の記
6.苦力達を使って
7.脱柵=無断外出
8.叛乱
〔第4章 嵐をついて〕
1.堺グループと呼ばれつつ
2.共産主義者団の活動参加
〔第5章 スパイ・挑発者にあやつられて〕
1.『民衆の声』その他へ寄稿など
2.方戦文書流し込み
3.一斉検挙
4.
原全五夫妻と共に泉尾署で
5.敗北
6.取調べ始まって−大谷スパイほぼ確認
7.転向宣言
8.別れの宴−警察署の中で
9.獄に相見る父と母と
〔第6章 「私の大学」−未決刑務所で〕
1.「われもろもろの貧苦を救わずんば…」
2.衝撃・独ソ不可侵条約の波紋
3.予審裁判のなかで
〔第7章 続「私の大学」−丘の上の獄で〕
1.宮木喜久雄との出合い−大谷スパイの確認の衝撃
2.仏教の弁証法−観念論と唯物論の混合物について
3.出獄てん末記−予防拘禁を免れて
〔第8章 再びふるさとの部落で〕
1.「綴り方教室」と「青年村芝居」
〔第9章 労務担当幹部として〕
1.尼崎・中央鉄工所で
2.同人誌『くろがね』発行
3.東塚本・三星鉄工で
〔第10章 再び帝國主義軍隊の中で〕
1.高槻工兵隊入隊・陸軍水上特攻艇隊整備兵として
2.再び寿山の下で
3.八・一五の敗戦を迎えて−故国へ
付録 スパイ大谷久治の自供書−プロバカートル自供書党に対して反逆行為の自供書
あとがき



原全五著作リスト

No. 1
標題:総評四十年をふりかえって(座談会)/副標題:金属労働運動の経験から/No:
著者:山田丑一 山本徳二 小西節治 小森春雄 巣張秀夫 原全五 妹尾源市 司会:樽美敏彦/誌名:労働運動研究
巻号:242/刊年:1989.12/頁:26〜31/標題関連:


No. 2
標題:労働組合の再編成にわれわれは如何に対処すべきか/副標題:No:
著者:原全五/誌名:労働運動研究
巻号:12/刊年:1970.10/頁:1〜8/標題関連:


No. 3
標題:労働組合運動再生の基礎条件/副標題:No:
著者:原全五/誌名:労働運動研究
巻号:50/刊年:1973.12/頁:1〜6/標題関連:


No. 4
標題:山六は逝った/副標題:No:
著者:原全五/誌名:関西党報
巻号:34/刊年:1979.3/頁:7/標題関連:



「転向」再論 中野重治の場合

 

石堂清倫

 (注)、これは明治学院大学言語文化研究所発行『言語文化、第十六号』(1999.6)の「特集、中野重治没後20年」に掲載された上記題名論文の全文です。その特集号には、中野重治に関する他の評論13編も載っています。

 『種子島から来た男--一旋盤職工の手記--』(1992年ウニタ書舗)の後書によると、「1912年種子島に生まれ、18歳から大阪で旋盤工に。1932年大阪砲兵工廠に入り、全協金属に加盟、同時期共産党入党。1933年検挙--起訴猶予、1934年多数派に参加。1935年検挙、1937年起訴猶予。1937年春日庄次郎らと共産主義者団結成、1938年検挙、1945年出獄。1946年共産党南大阪地区委員長、同府委員、1948年産別金属書記、1950年党分裂で国際派に所属、1958年共産党第7回大会で中央委員候補、1961年綱領論争で少数派となり離党。その後社会主義革新運動、労働者党、新・民主主義連合に所属」とある。
日本に劉少奇が生まれることはありえないか。絶対にないとはいえない。かなりの共産党員が計画的に「転向」して、そのうえ闘争をつづけることが不可能ではなかったのである。その一例として、「本音の会」が出版した「種子島から来た男」の著者原全吾は、逮捕されても何かと手管を弄し「転向」を装って釈放をかちとり、帰ってすぐ活動をつづけている。それも二回もそのようにすることができた。個人の責任でなしに集団の知恵としてそれが実行できなかったのは、コミンテルンや共産党を「無謬」としたため、戦術の根本的改定ができなかったからにすぎない。「日本の革命運動の伝統の革命的批判」はそれを可能にすることができたであろう。

【追悼】 労働運動に生涯を貫いた人
          ---原全五さんを偲んで---

                     巣張 秀夫


                  
 「原さん」「全さん」と誰からも親しまれていた戦前からの闘士、原全五さんが2003年7月17日の朝、肺炎のため亡くなられた。享年91才でした。
 原さんは、1912年(明治45年)鹿児島県種ケ島で生まれ、17才の時に大阪にきて、鶴橋付近の鉄工所で見習工となり、1932年3月大阪砲兵工廠に旋盤工として入社された。
 原さんに影響を与えたのは郷土の先輩である山田六左ヱ門(通称・山六)さん、大阪で原さんは、当時すでに全協・金属労組で非合法活動をしていた山六さんからいろいろ話を聞かされ、入社翌月の四月に大胆にも仲間二人と三人で、全協・日本金属労働組合大阪支部砲兵工廠分会を結成、五月には共産党に入党されている。
 以来、1933年、35年、38年と三回も検挙、投獄され、38年の検挙で懲役七年の刑を宣告され、敗戦の年1945年9月に刑期満了で堺の大阪刑務所を出獄されたのである。
 原さんは、この当時のことについて「バリさん、わしは偽装転向でもよい、なんとかして刑務所を出て、戦線に復帰して労働者階級の闘いを前進させることが、一番大事なことだと考えてやってきたんや」と言われていたが、私はこの考えに賛成でした。
 原さんが92年4月に発行された「種ヶ島から来た男=一旋盤工の手記」91頁に「検挙されるということは、捕虜にされることで、その捕虜の任務は、あらゆる手練手管を弄して、一刻も早く敵の手中からのがれて戦線に復帰することであり、囚われの身で大言することではないと思う。しかし、そうはいっても多分それは転向者の弁解にもなるが、にもかかわらず、今もこの考えは変わらない」と書かれている。
 
 原さんの戦後の運動は、西成区今池町にあった日本共産党大阪府委員会に行き、再入党をしてはじまった。
 南大阪地区委員会の常任、翌年には地区委員長として、木津川筋の大和製鋼、浅野セメント、国光製鎖、日本鋳鋼をはじめ多くの工場に細胞が確立されていったが、この中でも原さんが百三十名の大和製鋼で七十名の共産党細胞を組織されたことは有名であった。
 1949年4月、西川彦義氏の紹介で産別会議・全日本金属労働組合中央支部の書記局員となり、8月には大金属関西地方協議会担当オルグとなって、再び大阪を中心に活動されることになった。
 関西地協には、小西節治、小森春雄のすぐれたオルグがいて、原さんを加えてこの三人は、川崎造船泉州工場の閉鎖反対、舞鶴造船の首切り反対、木南車輌の閉鎖反対や大谷重工業の年末闘争にからむ、会社側のロックアウト攻撃との闘いをはじめ、数多くの闘争を指導し関西地方の労働運動に大きな影響を与えた。
 原さんの著作、1981年二月発行の「大阪の工場街から=私の労働運動史」152頁に「私と小西・小森の三人組の活動は、私にとって生涯を通じてもっとも充実した活動の時期であった。」と書かれていますが、この当時のことをよく話されていた。
 1950年、占領軍による共産党弾圧、レッド・パージ攻撃などで産別会議が崩壊したため、原さんは再び党中心の活動をされることになった。
 50年の共産党の分裂では国際派で活躍、55年共産党が第六回全国協議会(六全協)で自己批判したので、党に復帰した原さんは北大阪地区委員会の責任者となり、そして58年7月の共産党第七回大会では中央委員候補となられたが、61年の綱領論争では、綱領草案に反対する春日庄次郎氏ら七人の中央委員、同候補とともに「離党宣言」を出して党を離れられることになる。
 以降、原さんの活動は「前衛党を再建」するために奮闘されることになる。
 社会主義革新会議ー統一社会主義同盟ーそして、志賀義雄、春日庄次郎、内藤知周らと共産主義労働者党の結成に努力するが、これも失敗に怒りーその後、内藤、内野、長谷川浩、松江澄らと労働者党を結成するとともに大阪労働運動研究所を創立するなど、一貫して労働者解放、労働者の幸福をめざして闘いつづけられたのである。
 
 私と原さんの出会いは、大金属関西地協に来られた時ですから、五〇年以上のお付き合いになりました。原さんで思い出すのは、(1)若い人に希望を持たれていたこと。いろんなグループの会合に参加してきては、あそこには素晴らしい青年があるぞッと言っては喜ばれていた。(2)労働運動の現状についての理解が早かったこと。労働戦線統一についてなど、左派の皆さんの批判が強かったが、原さんはこれらの人々の説得に当たって下さった。(3)ソ連の崩壊についても、早くから教えてくれたのも原さんでした。
 原さんと一緒に活動された今は亡き小森春雄さんは、原さんについて「柔軟な思考、豊かな戦術、批判力にすぐれ、物事を計画し人を動かすことにかけては実にすぐれた人であった。」と言われていたが、原さんは面倒見のよい心の温かな人でもありました。( 巣張 秀夫)


 





書籍名  激動の中で(覚書ふうに)−1被差別部落民の戦前・戦中・戦後−中巻 戦中篇(本音文庫第12巻)
著者名  福本 正夫
著者紹介 
発行社  本音を語る会
総頁数  190
定価・頒価  1500 
発行日  平成01年08月  日 1989