特集1 アジアにおける反戦反核運動

原爆・敗戦五〇周年を前に

    ――日本の平和運動を問い直す――

              広島県原水禁常任理事 松江 澄

                労働運動研究 一九九四年八月 No.298掲載

 

 一、 日清戦争一〇〇周年

 

 今年は日清戦争一〇〇周年であり、来年は原爆と敗戦の五〇周年である。

 日清戦争の始まった一八九四年といえば、私が生まれるわずか二五年前である。それは日本軍国主義が東アジアに対して最初に開始した戦争であった。薩長を軸にした明治新政府が成立してからすでに二〇年も経っていた。しかしこの二〇年はけっして容易な年月ではなかった。

 どんな新しい国家体制もそれが旧権力を倒してすぐでき上がるわけではない。古い権力と新しい権力の交代は二、三年毎に替る今の政府とはわけがちがう。それは封建的な国家体制から近代的な国家体制へと一国の枢軸が一八〇度変わるからである。それは薩長政府が明治になったから変わるわけでもないし、明治天皇が即位したから変わるわけではない。一つの国家体制が次の国家体制に変わるためには、多くの年月と犠牲が必要なのだ。新政府はまず古い地方割拠の諸藩の権力を廃止するとともに、多くの抵抗と反乱を制圧しなければならなかった。それは日本で始めての近代的統一国家であった。

 それはまず新しい君主ともなすべき若い酒好きな青年を教え鍛え訓練するとともに、日本で始めての近代国家を形成するために何が必要なのかを先進諸国から学ばなければならなかった。総理大臣以下閣僚の大半と一〇〇名に及ぶ若く俊秀な官僚たちを率いて、一年一〇ヵ月にわたって米欧など一二カ国をたずねて学ぶことは、けっして容易なことではない。それは旧体制を倒しこわす以上に重大な努力とエネルギーを必要としたに違いない。そうして帰国すればすぐ西郷の反乱をせん滅しなければならなかった。

 こうした長い緊迫した年月の準備の後に、ようやくつくられたのが国の基軸ともいうべき憲法(二八八九、明治二二年)であり、それにもとづいて支配する天皇の教理としての教育勅語(一八九〇年)であり、新国家にとってなによりも重要な軍隊が、国民皆兵をめざす徴兵制の抜本的改革によって編成されるのもこの頃であった。

 日清戦争(一八九四、明治二七年)は、天皇制明治帝国がその国づくりを完成して最初に開始した対外戦争であった。そしてそれはその侵略的性格によって、東アジア人民の覚醒を促し、東アジア近代史の転換の契機ともなったのである。それは以後ひきつづく東アジア侵略戦争の最初の布石としての朝鮮半島支配のための第一歩であった。

 それはまたやがて開始する日本帝国主義の日露戦争とともに、半世紀にわたって東アジア支配をめざす「通路」としての朝鮮半島を「日韓併合」という偽名のもとに植民地として支配しつつひきつづき「満州」進出の足場とするものであった。それは五五年後、私が学生兵として牡丹江の東北対ソ戦繰に送られてゆく経路でもあった。

 日清、日露(一九〇四年)にひきつづき第一次大戦下の山東省出兵(一九一四年)からロシア革命干渉軍としてのシベリア出兵(一九一八年)、さらに昭和に入って張作霖爆殺(一九二八年)へと進み、以来「満州事変」(一九三一年)から中国への全面侵略戦争(一九三七年)を経て「太平洋戦争」(一九四一年)へと五年戦争の道をまっしぐらに進みながら、一九四五年の敗戦に至るのである。

 それは日清戦争以来ほぼ一〇年ごとにエスカレートしつつ中国を基軸として東アジアヘの全面侵略戦争として展開され、最後には利権の対立から対米戦争に突入してついに一九四五年八月の原爆と敗戦を迎えたのであった。

 この間、広島は日清戦争で大本営が置かれて天皇の住まう臨時首都として戦争指導の中心地になるとともに、宇品港は中国への最大の出兵基地となり、以来兵器、被服、糧誅三支廠の設置によって全国から集合する軍隊の兵站基地として栄え、日清戦争以来五〇年にわたって日本帝国主義のアジア侵略戦争に重大な役割を果したのであった。私は小学校以来一五年戦争の渦中で育ったが、物心ついて以来、広島ではただの一日もカーキ色の軍服を見ない日はなかった。広島は軍人の町だった。

 

 二、戦後における軍隊の復活

 

 自衛隊がすでに立派な軍隊であり、しかもその兵力がアメリカ、ロシアについで世界第三の軍事力となっていることはすでに広く知られている。しかし、かつての軍国主義日本の平和への転生のあかしとして称揚された憲法第九条と現実を照合すれば、それがすでにどんなにへだたっているかは一目瞭然として明かである。

 事実として日本が「陸海空の戦力」を持ち、しばしば「国際紛争解決の手段として」自衛隊が派遣されて「武力による威嚇又は武力の行使」が行われている。次第に拡大する憲法と現実とのギャップは誰しも否定できぬ。

 そこで私はこの軍隊がどういう状況のもとで産み出され、どういう情勢のもとで肥大していったのかを歴史のなかで確認したいと思う。敗戦後、米軍管理のもとで旧日本軍隊が解体され、以後数年にわたって日本には軍隊はもとより一片の軍事力も存在しなかった。しかし四九年秋の中国革命の成功につづく翌五〇年六月の朝鮮戦争の勃発のなかでマッカーサーは七月八日、吉田首相あての書簡を発し、やがて引揚げる米軍の穴埋めとして、国家警察予備隊七万五〇〇〇人、海上保安隊八〇〇〇人の創設を命じた。

 政府は一九五〇年八月一日付けポツダム政令として警察予備隊令を公布、即日施行して隊員募集が行われ、第一陣七〇〇〇人は八月二三日に入隊した。

 私たちがこの予備隊と初めて出会ったのは五一年八月六日の中国地方平和集会だった。私たちは前年の五〇年「八・六」では戦後初めて米軍管理下、非合法で朝朝戦争と原爆使用に反対する瞬間集会を駅前で行い、翌五一年には講和条約後初めて認められた屋内集会を公安委員会がようやく許可した駅近くの荒神小学校の講堂で開く準備をしていた。

 そのとき突然、会場の回りを異様な服装をした者たちを満載したトラックが走り回っているのを見た。トラックのなかで「折敷け」の姿勢で待機している黒い服を着て銃をもった部隊は緊迫した寡囲気をだだよわせながら、荒神小学校の囲りを何度となく威嚇して走り回った。集会の責任者であった私は中国地方から参加した一〇〇〇名近い活動家たちに報告しつつ、各門に防衛隊をはりつけ、正面には机でバリケードをきずいた。それは発足したばかりの警察予備隊であった。

 

この予備隊がつくられた背景は、米軍の撤収というだけでなく、前年始まった朝鮮戦争で一時期南端まで追つめられた危機感から急がされ、米軍キャンプで急遽、米軍の指導と管理のもとで教育・訓練されたのだった。こうした予備隊の発足とともに海上警備隊も創設され、旧軍人(旧陸軍士官学校・海軍兵学絞出身者)の幹部への採用が急いで行われることになった。

 こうした状況は朝鮮戦争への危機感だけでなく、やがて結ばれる日米安保条約のもと、生まれるときから米軍によって育てられたこの軍隊は、一九五四年、防衛二法の国会通過によって陸・海・空三軍の自衛隊として米軍の最も信頼するパートナーとして誕生したのであった。

 この間の時期は内灘闘争、砂川闘争などの米軍基地反対闘争、つづいて「ビキニ」以来の原水爆禁止運動が広く発展した時期でもあった。この時期は反米基地闘争をはじめ米軍管理下の支配と抵抗、さまざまな権利の抑圧と解放をめぐって、政府と運動が激しく対立・抗争したときだった。だが米軍の指導によってつくられた三軍の結成にたいしてどれだけ闘ったであろうか。

 

 再軍備反対というスローガンはどんな集会でも掲げられたが、五四年早くも自衛隊と改称されたこの軍隊は、ひきつづいて始まる六〇年安保闘争の大きな広がりのなかで、年々に予算を倍化しつつ急速に整備されていった。この軍隊にたいして現実的で有効な反撃が闘われたであろうか。今にして思えば、残念ながら充分闘われなかったと思う。五〇年代の反戦反核闘争には三軍の復活・再建の企てを卵のうちにつぶす戦略がなかった。

 とくに重要なことは、復活された軍隊が生まれ落ちるときから米軍の手で育てられてきたということである。それはけっして独立した日本の軍隊ではなく、日米安保条約のなかでの軍隊であるということだ。日米軍事同盟は経済同盟、政治同盟以上に緊密な関係にある。それは今後われわれが反戦反派兵闘争を闘ううえで確認しておく必要がある。日米関係は想像以上に深い結びつきを持っている。

 しかしそれは日共がいうように、「国家的従属」ではなく日本の支配層の思想に深く染みついている歴史的な「アメリカ・コンプレックス」である。それは一五年戦争の最後の時期にあたる太平洋戦争(日米戦争)を前にしてすでに始まっていた。

 

三、「日本改造計画」の源流

 

 いま悪名高い小沢一郎は容易に見すごせぬ重要な思想潮流の中心的な人物である。たしかに若くして海部内閣の副官房長官となり、つづいて自民党幹事長となって後継首相を一人づつ呼びつけて口答試問をしたことは人々の記憶に新しいところである。その後、自民党を割って新生党の首領となり、以来カゲとなりヒナタとなって政府交代劇のマネージャーとなっている。

 タカ派の声は高く、ことあるごとに噂され、多くの場合にそれは悪役である。だが重要なことはこの若手のリーダーの個人的性格ではなく、その思想的性格なのである。

 彼はしばらく前に、その著書『日本改造計画』のなかで、その後とり沙汰された「普通の国」という意表をついた用語で実は日本を普通でない国に仕立て上げようとしている。彼はその著書のなかで、「国際社会で当然のこととされていることを当然のこととして自らの責任で行うことである。」という。つまり「安全保障」のための「国際貢献」を果せというわけである。このことは、日本が戦後得てきた平和・自由・繁栄のコストを払えということである。

 そこには過去の侵略戦争の反省はひとかけらもなく、ただあるのは商売のように″もうけ″の代金を払えという。そのうえ念が入っているのは、今後とも日米安保の三階建てを建てて、一階はペルリ以来の日米和親条約の延長線上に、二階は太平洋戦争の愚は二度と犯さぬ不戦の誓い、三階は北大西洋条約のような西太平洋条約をつくつて日米防衛の約束をするという。

 そのためには憲法九条に第三項を新たに挿入して、「平和創出のための自衛隊を保有し、国連の指揮下で活動するための『国際連合待機軍』を保有し活動をさせる」べきだという。ここまでくると彼の本音はかなりハッキリしてくる。だがこうした思想の流れは小沢に始まるわけではない。歴代首相もときにはこれに近いことをいってはきたが、ペルリまで持ち出したのは始めてであり、こうした彼の先輩としては、仇のようにいがみ合ったが、近頃は大分よしみを通じているといあわれる中曽根元首相である。

 中曽根は首相になるとすぐ二つの目標を発表した。その第一は、日米関係を中心として自由主義世界の一員としての義務を果すこと、第二は「たくましい文化と福祉の国」をつくるための行政改革と教育改革だと宣言した。彼は訪韓につづいて訪米して「日米は運命共同体」だと大兄得を切った。

 中曽根が主張した「戦後政治の総決算」はおおむねそろばんが外れたが、軍事費一%突破、「日の丸・君が代」と靖国神社参拝など派手な土産を残した。その中曽根が近ごろ佐藤誠三郎、村上泰亮、西部邁らと組んで『共同研究「冷戦以後」』という著作を出版した。

 彼はそのマニフエスト (宣言) とでもいうべき序文でいう。「一国平和主義は日本のとるべき道ではない。憲法は必要に応じて改正もし国連を中心とする安全保障にも当然の協力を行うべき」だと。さらに彼は日米安保条約を軸にして東アジアに政治的屋根を構築すること」を強調し、北米・日本・オセアニア等の強調と共同を進めるための「太平洋経済文化ハウス」の建設を呼びかける。しかも三階建てで。

 中曽根と小沢が似ているのは三階建てだけではない。二人とも札付きのナショナリストであるとともに極めて熱心な日米協調論者であることだ。そうしてもう一つ似ているのは二人とも過去の戦争を反省しているが、それは太平洋戦争と呼ばれる日米戦争なのである。けっして一五年にわたる中国侵略戦争ではないし、アジア各国への侵略戦争でもない。まして日清戦争以来の五〇年戦争でもない。私にはこの共通性が最も気にかかるのだ。戦前の「革新」的知識人集団のなかにこれと共通な性格があるからである。

 その中心的な一人である政治学者の矢部貞治には私も大学時代政治学を教わったことがある。といっても学友といっしょにたった一回だけ講義をきいてその「大東亜共栄圏」論に失望してボイコットし、熱心にきいたのが南原繁の政治学史だった。ところが矢部は公刊された「日記」のなかで、その「国家と宗教」について書いている。「南原先生個人の精神的問題としては刻苦の労作でも、日本の政治に現実に政治学として指導精神を与え得なかったことは当然だ。その意味で政治学の無力という非難の一端を南原さんなども負わねばならぬ」と。

 その矢部は「政治学の責任」を負って、一九三五年の「近衛新体制運動」に参加し近衛首相に接近してそのイデオローグとして活躍し、大政翼賛会に参加して「政治学者としての指導精神」を果たしている。彼は戦後も「大東亜共栄圏」構想は半分は正しかった、と確言する。

 その矢部の大学以来の愛弟子として可愛がられ戦後も師事したのが私より一つ年上の中曽根だった。旧制高校が違えば交わりもない当時の法学部を卒業した彼は海軍主計中尉への道を志願して大尉にまでなったようである。

 戦後、中曽根が代議士に立候補すると矢部は応捷にかけつけ、中曽根は矢部著作集の編纂委員長になり、矢部が総長をした拓殖大学の総長に就任した。師弟の交わりきわめて緊密なものがあった。

 

 四、アジアの人々とともに

 

 この三人はたしかに共通の資質をもっている。だがそれはこの三人だけではない。戦前戦中の知識人層のなかに矢部らと余り変わらぬ人々も少なくなかった。中国は犯してもアメリカとは闘うべきではない、と心中で思っていた人は多いいことを私も知っている。そこにはアメリカと闘ったら負けるという「良識」をもっていた人も少なくないが、その心底には、日本より発達している「白人」の国と自らもその一員であるにもかかわらず後進的アジア人の国とをはっきり差別している人が多かった。もっとも重要な問題はそこにある。

 そのころ、この戦争は今までの英、仏、蘭、など「白人」の支配から、アジアを解放する闘いだと、もっともらしくいいふらす学者や文化人もいた。そういう見方は当時の一部の知識人層にとってわずかな「良心」の支えになっていたのではないか。

そうしてこうした人々にいずれも″日米闘うべからず″という気分があったことも事実である。そこには問題にならぬはどの国力の差による無残な敗北を避ける気持とともに、先進文明国アメリカヘのコンプレックスがあったに違いない。そのアメリカに大敗したうえに、戦後五年近いアメリカ軍の占領は、支配層に近いほどGHQへの屈従とかけひきが日常化してアメリカヘの深い追随を生んだ。

 こうした思想はその後も日米安保を担保に、ひきつづき尾を引いている。そこには依然として「遅れたアジア」への蔑視がある。福沢諭吉の「脱亜入欧」論はけっして死語ではない。いやそれどころか、矢部=中曽根=小沢というラインで厳然として生きている。

 それは明治以来の知識人層の心底に残されているしこりのような思想であり、「エリート」日本の最もなじみ易い思想的潮流ではないか。そこには武力による侵略の前に「心」としての思想的侵略がある。最近の「核問題」にからんで広島でもしばしば起こされている朝鮮人生徒にたいする悪質な襲撃はそのもっとも醜悪な表現である。

 日本の平和運動―反戦反核運動が心すべきことはただ国連の「国際貢献」に反対か賛成かということだけではなく、過去の歴史をどう考えどうとらえるか、ということなのである。それは派兵是か否かというだけでなく、今後の日本の進路にたいする現代日本人の思想的基盤をどこへおくのか、ということである。

 現在政局の混乱のなかで、すみの方から目玉をむいて先の先をにらんでいる中曽根や小沢とその亜流がいることを忘れてはならぬ。

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