平和運動の再生のために

 松江 澄

労働運動研究

 私は昨年一○月号の『労働運動研究』に、一九五〇年代の反基地反戦諸闘争が、やがて発展する 「ビキニ」反原爆運動の巨大なうねりの大波に呑み込まれて次第に影をひそめ、その後七〇年前後に激しく闘われたベトナム反戦、米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争なども七〇年闘争の終焉とともに後退したと書いた(「自主と連合への再出発を」)。

 この一時期を除けは、結局五〇年代中期から今日までの約三〇年間、一貫して運動を続けてきたのは原水爆禁止運動であった。それは八○年代に入ってヨーロッパ反核運動の余波をうけ、かつてない大集会を組織したが、今ではうたかたのように消えて久しい。原水爆禁止運動と云い反核運動と云うも、結局は「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ」 の原水爆被害を源泉とする民族的反原水爆運動ではなかったか。それは確かに日本平和運動の最も重要な、しかしどこまでもその一翼でありながら、いつも日本平和運動そのものであるように国の内外でも語られ、広く知られてきた。

 しかし、こうした運動以外の反基地反戦反軍等の平和運動はその後なぜ発展Lなかったのか。今では反トマホーク闘争をはじめ全国各地の基地にたいしてそれぞれ各地の組織によって運動が続けられているが、その先進的な運動が必ずしも大衆化きれていないのも事実である。その一方で、一年に一度ひらかれる原水禁運動の集会には毎年万を超える人々が結集するが、行動への発展契機はごく一部に限られ、集会から集会へのサイクルを続けてきた。われわれはこうした日本平和運動のあり方について改めて整理し直しながら、これからの運動の課題を探る必要がある。

一、平和運動の性格は時代とともに

 私は十年ほど前の『労研』に、平和運動の歴史的発展について書いたことがある(一九七六年七月号「平和のための闘いと革命闘争」)。そこで私は、一九三〇年代の反戦反フアシズム統一戦線運動を過渡期として、それ以前の平和運動と戦後の平和運動の相異についてあとづけた。それは、十九世紀以来の運動が平和運動=革命運動であったのに比べて、第二次大戦後はじめて革命運動から独立した平和運動が成立したことを確認しつつ、なお労働者階級の立場からすれば二つの運動はけっして別の闘いではないと強調した。

 「戦争の内乱への転化」というテーゼが、「阻止はできないが戦争のもたらす支配層と人民の対立と矛盾を利用してプロレタリアートの権力奪取を促進する」のに比べて、深刻な帝国主義危機のもとにある今日では、何よりも第一義的に人類の生存をまもるための戦争阻止の闘いは同時に、「戦争をおこすことができないことによっていっそう深化する矛盾のもとで労働者階級の権力獲得を準備する条件をつくり出す」 からだ、と。

 しかし、歴史的には戦後はじめて生れた大衆的で民主的な――革命的でほなく――平和運動もその時期によってその性格を次第に変えてきた。すなわち六〇年代のベトナム反戦運動は、どこまでも反戦平和運動でありながら「民族自決」を結節点として世界的な民族解放運動と密接に結び合って発展した。だが多くの資本主義国で反核平和の運動が新たな性格を持ち始めてきたのは八○年代ヨーロッパの運動からであった。

この運動は、中距離核ミサイルの設置に反対するという具体的で広い性格でありながら、今日の体制がつくり出す失業やインフレなどもろもろの抑圧にたいする憎しみと怒りの感情をこめた表現の集中点としての反核統一行動でもあった。それはまた「核・貧困・抑圧からの解放をめざして」 (アジア文学者ヒロ シマ会議)闘われることによって、帝国主義国内の運動と帝国主義に支配されている国との人民的な連帯め萌しを内包していた。

 こうして八○年代初期の運動に垣間見た新しい運動の性格はその後消えることなく、むしろその刻印を深めつつ新しい時代の運動の発展を促している。しかしその性格を最も強く反映させているのは解放をめざして闘うアジア民衆の闘いである。一昨年広島で会った三〇代のフィリピン反核運動の一青年は私達に、一年だけでも「八・六」 の式典や集会を止めて見たらどうかと提案した。彼にとっては、この前の戦争でさんざん自らの郷土を軍靴で踏みにじった日本人が格別な反省もないままに、「八・六」ともなると年中行事のようにくり返すセレモニーやセレモニー風の反核集会に云いようのない苛立たしさを感じたに違いない。その彼は昨年の「二月革命」では地方の島で奮闘して傷ついたと聞いた。そこでは民主主義革命と反核平和運動

とはけっして別のものではない。

 いま反戦反核平和運動は再び社会の根本的な変革にかかわるような性格を持ちはじめた。しかしそれはけっして以前のように勝利をあきらめた少数流の意識的な追求の結果としてではなく、勝利をめざしていっそう拡がる大衆の無意識の気分や感情のほとばしる結果として。それほ危機にある帝国主義の抑圧がもたらした結果に外ならない。

 現代の大戦争は核戦争であり、宣戦布告なき戦争である。日常から戦争への移行が誰も知らないうちにごく少数の支配者と専門家集団によって決定されるとするならば、現代の平和運動はかつてのように明示された合図を待つわけにはゆかない。日常的に戦争を生み出すシステムとしての戦争装置とそれを操る支配集団に抗して闘われなくてはならぬ。このシステムはまた人びとを絞り取り押えつける装置でもある。だからこそこうしたシステムと闘う多様で重層的な、いわば構造的な平和運動が必要なのだ。「戦争は政治におけるとは異る手段をもってする政治の継続にほかならない」というクラウゼビッツのテーゼの正しさを確認しつつなお、「政治の継続」であることによって同時に「政治の終焉」にほかならないとつけ加えなくてはなるまい。そうしてそれが人類と地球の終焉であるとすれば、生き残るためのすべての闘い、地球と自然を残すためのすべての運動と手を結び肩を組まなくてはならぬ。いや、それどころか、その一つ一つの運動のなかにこそ現代平和運動の源泉がある。

 

二、日米軍事同盟は時とともに

 

 宣戦布告なき戦争との闘いが戦争の装置と構造との闘いであるとすれば、日本の運動にとって何より重要なのは日本の軍事構造=政治構造でなければならない。とくに現代の世界戦争が対峠する陣営の共同戦略から生れるとすれば、日本の軍事構造は帝国主義世界戦略とりわけその強力な一環としての日米軍事同盟の構造と切り離すことはできない。

 しかしこの同盟も時間とともに変化する。それは日米両帝国主義それぞれの発展と衰退の諸段階と照応しつつ段階的に変化する。一九五〇年代、講和とともに締結された日米安保条約は占領の延長として片務的一方的な性格を持ち、日本はもっばらアメリカの核の傘だけでなく殆んど軍事すべての傘の下にあった。そうして六〇年安保条約の最も重要な改定ほ、いままでの片務的なものから双務的なものへの改変であった。それほ日本の帝国主義復活にともなう一定限度の軍事的自立を予定した双務的攻守同盟の開始を意味していた。その意味でこの時期盛んに闘われた基地反対、再軍備反対の運動はつくり出されようとする日本の軍事構造にたいして正面から迫る重要な闘いであった。しかしこの時期の安保構造は両帝国主義の階級同盟ではあったが、なお軍事力における双方のひらきが大きいだけに軍事的には従属的な性格が強く、具体的にも米極東軍事戦略を一部補完するものであった。そのうえNATOのような多国間同盟と異って二国間同盟であることから、二国の力関係がそのまま軍事同盟のヘゲモニーを決定した。

 しかし、一九七八年に合意された「日米防衛協力のための指針」は日米軍事同盟における重大な画期となった。それはただ六〇年安保以来のワク組みをいっそう具体化するというだけでなく、すでに先行しつつあった日本軍事力の計画的増強を前提に、安保条約における(共同防衛)を(侵略を未然に防止するための態勢)づくりにまで高め、第一線から後方まで空海陸のすべてに亘って日米共同作戦の能力を強化するために日本の負うべき任務を具体的に規定している。それはまさに改定なき「改定」安保条約に外ならない。こうした「ガイドライン安保」 のもとでこそ、四六時中ソ連原潜を空中と海中から探索追尾しつつその行動データーを集約分析して米国防省に送る上瀬谷通信施設(横浜市)、そうした情報も含めて決定した米国防省の指令を極東水域の全米原潜に伝達する依佐美通信所(刈谷市)、必要な指令を全世界の空と海に展開する米飛行機と米艦船に送る深谷通信所(横浜市)等の存在がある。

 そうして、このような米軍の重要な通信情報基地がこの日本の土の上で毎日毎時機能しているだけではない。日本の「中期防衛力整備計画」(八六―九一年度)においては一〇〇横のP3C(対潜哨戒機)、一八七機のF15戦闘機が含まれている。米軍が全世界の海洋をカバーしているP3Cは合計三二二機、NATOでもイギリス、オランダ等が合計五〇機位(『世界』六月号)であるのに比べて異常に多い。それはソ連を海中から弓のように囲む日本列島の戦略的位置、その囲まれた内海ともいえる日本海のソ連原潜を絶えず追尾し、いざというときには三海峡封鎖に任ずるP3Cに外ならぬ。それは第二戦線としての極東戦略の位置が上昇するにともない重要な戦略部隊となる。正に日本列島はアメリカの「不沈空母」 であり、アメリカにとって対ソ戦略の第一線基地である。

 また日本政府は、次期支援戦闘機(FSX) の選定について国内自主開発を検討している。これについて最近の報道によれば、アメリカ側は、「日本の防衛庁の要求する高度な性能を充たす優れた機種を自主開発するならば、『専守防衛』の枠を超える」と指摘、けん制しているという。日本に第一線基地を押しつけておきながら自国の戦闘機を買わせるために日本の「国是」 でけん制するアメリカも厚かましい限りだが、見逃がすことができないのはそのアメリカからけん制される程にも日本が軍備を増強し軍事技術を開発し、米ソを除けば軍事予算では世界第一グループに入っていることである。とくに先端技術ではすでにSDIにも参加をきめ、半導体はアメリカ軍事技術の中枢部にまで入り込むほどであることは.重大である。

一%ワクを外すことで軍備増強の制約をとり払った政府が、長期不況にジリジリしている独占資本と語らって不況「脱出」を口実に兵器自主生産に全面的に足を踏み入れる日はけっして遠くない。いま日米軍事同盟は文字通り双務的な同盟として対ソ核戦略にもとづく共同作戦を公然と押し進めている。しかしそれはまた、強化されつつある日本帝国主義の不可欠のイデオロギーとしての新国家主義と日米同盟のための国際国家イデオロギーとの統合と対立の矛盾をもたらすだろう。

 いま不均等発展の法則は貿易戦争、通貨戦争などで日米軍事同盟の外壁を洗いつつ世界人民の反帝反戦運動の前に矛盾を深めている。いま日本の反戦平和運動がアジア諸国の人民から支援を受けながら日本の軍事構造=政治構造を追及して日米安保を衡くことができるか。それはアジア・太平洋から全世界に至る戦争構造から平和構造への転換にとって決定的に重要な位置を占めている。

 

三、平和運動の課題と運動の諸形態

 

いま反核運動と平和運動は同義語 のように使われることがあるが論理的には異なっている。反原発運動は反核運動の重要な一翼であるが平和運動とは範疇が違う。また一般的な基地反対運動や軍備反対運動は平和運動ではあるが直ちに反核運動とは云えない。しかし現実には核と戦争が現代では切り離すことができないように反核運動と平和運動は切り離すことはできない。をればかりではない。われわれがすでに見たように戦争は政治の所産であり政治の継続であり、その政治は経済の集中点でもある。従って戦争は経済・政治とけっして別のものではない。また核は現代科学技術の所産でありその悪しき先端であり現代技術の体系と切り離すことはできない。現代の政治・経済が現代技術と別のものでないことは云うまでもない。そうして見れば核は現代技術の最高の体系に囲まれ、経済と政治の深い濠で守られた悪魔の城の天守閣に君臨する魔王のようなものだ。これを倒すためには核戦争の構造や装置と闘う多様で構造的な平和運動の展開が必要である。

 とくに重要なことは、核兵器という一瞬にして敵を壊滅させる手段との一撃をねらう長中距離の運搬手段の登場にとって決定的なのは情報である。仮想敵がどこでどうしているかを常に捕捉し、一瞬の差で敵を攻撃するうえで決定的な役割を果すのが情報通信である。現代社会が高度情報化社会と云われるが、その集中点としての現代大戦争は超高度情報化戦争ともいえる。そこで米ソ核戦争にとって日本列島の地位が戦略的に急騰する。沖絶・岩国等の直接核攻撃基地とともに上瀬谷等の通信情報基地が。それは核戦争の耳であり鼻であり口なのだ。

 最近アメリカで新たに登場した反核運動の一つにGWEN(地上波緊急通信網)反対運動がある。それは環境上の問題だけではない。核戦争後の国家司令本部と一線基地をつないで「第四次大戦」に備えるというこの施設が敵の核の標的になるということにある。デモ行進あるいは「平和の番」という常時監視のティーチ・インをはじめ自治体も動かしながらの多様な住民運動のネットワークで廃止に追い込んだ。それは欧州の中距離核ミサイル設置に反対する運動と同じように、「核の標的」という端的で直接的要求と感情から出発した素朴で執拗な運動の勝利である。全島基地ぐるみの沖縄を別にしても、北海道から鹿児島まで合計八五カ所の米軍基地が核戦争の標的になっている「不沈空母」 の上で枕を高くして安眠できるだろうか。そのうえ一年に延べ数百回にも及ぶ米核艦船の寄港はその「空母」日本に着艦する移動核ミサイルではないか。

ヒロシマ・ナガサキを忘れるな、というならば足下の「核の標的」をどうするのか。沖縄では六月二一日、カデナ基地を人間の鎖で包囲した。

われわれも一日各地域全基地の包囲作戦はできないものだろうか。

 そのためにも必要なことは日本の運動形態を再検討することである。日本の運動の主要な分野を占めている原水禁運動が三〇年以上も続いたのは、ヒロシマ・ナガサキで大組織による大動員の集会を毎年続けてきたからである。だがこの大集会に毎年結集する人びとが集会以外の運動形態でどれだけ直接、間接に闘う対象に向けて行動を起したか。平和運動も反核運動もすぐれて行動であるとすれば、その循環形態は(行動―集会―行動) でなければなるまい。

ところが日本的な循環形態は(集会―行動―集会) であり、それはしばしば(集会―集会―集会) の非円環的進行となる。反核が叫ばれ「統一」が称えられ、拍手と喝采とはコダマするが行動は何もない。しかし行動こそ平和運動のすべてなのだ。

 いま労働戦線の再編成が進むなかで、原水禁国民会議の解散と平和センターの設置による社会党系平和護憲運動の集約化が予定されている。原水協ではますます共産党=統一労組懇・平和委員会への系列化が進むだろう。しかし何れにしても大組織・大運動の時代は終った。これからは小組織・小運動の大連帯をめざす苦闘の時代になるだろう。いま行動している諸組織、諸グループこそ運動の源泉であり、反核反戦平和運動とはこうした諸運動の重層的な組み合せが生み出す多様な統一である。

四、いま広島では 

 いままで提起してきたことは今日まで広島で模索してきたことと別のものではない。そのなかの重要な一つに八・五反戦反核集会がある。そ運動目的をもった、けっして大きくはない小運動グループの統一行動体としての実行委員会が準備してきたものである。今年は関東関西の天皇訪沖に反対する運動から交流の申し入れを受け、改めて「ヒロシマ」と天皇、「ヒロシマ」と「オキナワ」を問い直すことから準備を開始した。

 私達は二年前の被爆四〇年、禁・協の大運動とは別に小運動ながらそれぞれ追求を続けて釆た二、三の流れを継承しつついっそう多くの運動とも統一し、「八・六ヒロシマの原点をとりもどそう」と新たなヒロシマの運動を開始した。それは原爆被害者の「まどえ、もどせ」という恨念を受けつぎ、原爆を落し原爆を導き込んだものへの烈しい怒りの声を軸に据え直すことによって反戦反核運動を再構築しょうとするものであった。そのため私達は他の多くの運動体とともに「十二・八」 「二・一」「四・二九」 (昨年は六月チェルノブイリ集会)と年間かけて討論集会を系統的に追求しながら「八・五」を準備してきた。だが私達は、私達が目前の「平和」に馴れ親しみ足下に迫る新たな国家主義と軍備増強への有効な反撃を組織できぬまま、いままた八・一五以前の歴史と同じ道を歩んではいないかという深い恐れと自省から、その構造を問い直すため「ヒロシマ」の過去と現在を改めて検討することから始めた。

 ふり返れば、広島は日清、日露の二度に亘って大本営が設置され、十五年間の長い中国への侵略戦争と太平洋戦争における南方侵略のための出兵拠点(宇品港)であったが、それは果して広島市民に記憶されているだろうか。私達は他の運動体とともに市に迫り、原爆資料と合わせて広島の歴史資料を展示せよと要求した。だが忘れてならないことがある。戦後広島を三たび訪ずれた現天皇は七五年十月三十一日、訪米後の記者会見で、原爆について「戦時中のことですから広島市民には気の毒ではあるがやむを得ないと思っている」と云ってのけ、被爆者の怒りを買いながらもヒロシマの「戦後」に封印をした。その天皇がちゅうちょしながら、四二年後に初めて訪れることで日本の戦後総決算をしようとする、今度の天皇訪沖のもつ意味の重さと、「ヒロシマ」と「オキナワ」の距離の遠さが私達に伝わってくる。その「オキナワ」 と 「ヒロシマ」が一つに心を通わせるときはじめて「国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」という援護法を拒否した原爆被爆者対策基本問題懇談会答申を打ちくだくことができる。そうしてそのときこそ沖縄の友人が目ざとく見つけた平和公園にひるがえる「日の丸」の旗を降ろし、公園の外に押しのけられている韓国人原爆犠牲者慰霊碑を公園の中に迎え入れることができるのではないか。

 しかしその 「ヒロシマ」 の隣りの旧軍港呉には昨年八月佐世保、横須賀とともに核艦隊の駆逐艦メリルが入港した。この呉周辺には広、秋月という巨大な米軍弾薬庫があり、広島の西四〇キロbには核弾頭を秘匿しながら朝鮮半島への軍事拠点として西日本一の規模と内容を備えた岩国基地がある。いま広島はまさしく再び「ヒロシマ」への道を歩んでいるのではないか。

 いや広島が「ヒロシマ」への道を歩んでいるだけではない。いま日本と世界のすべての町が「ヒロシマ」の危機に直面しているのだ。スリーマイルの危機もチェルノブイリの危機もその危機と隣接している。核戦争がいっきょに人類と自然を殺戮し破壊しつくすとすれば、原子力発電の不可避の事故から流れ出る放射能は人間と自然をゆっくりと長い時間をかけて殺戮し破壊する。核と放射能が悪魔の城の天守閣にあるとすれば、われわれはその城を攻め落し天守閣を焼き払うまで枕を高くしてねるわけにはゆかぬ。しかし私達がその悪魔を完全に退治したときには核から人間が解放されるだけでなく、その城を守りその天守閣に仕えていたすべてのものから人間が解放される。核の廃絶は同時に核を手段に人間を否定しょうとする支配の様式が否定される端緒でもある。核の廃絶は人間解放の第一歩である。

 今年の八・五集会は改めて広島と、そうしてこの運動に参加するすべての人々とともにわれわれの立っている位置を確かめつつ、非核社会をめざして核と戦争の社会総体にたいして多面的総合的な運動を展開することをめざして、行動のための熱心な討論を期待している。

       (広島原水禁常任理事)
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