「いかなる」社会主義か――唯一前衛党と社会主義的民主主義――

 

松 江   澄

 

     労働運動研究  19849月 NO.179

 

 編集部は一月いらい,意図的に現代社会主義論を取りあげてきた。今号もその意味で編集した。

五月号の松江論文にはとくに内外から批判の声があるが,大いに議論してもらいたい。資本主義国の革命の「平和的移行」の問題は共産主義運動ではまだ未解決の問題なのだから,徹底的かつ大胆な議論が必要だと思う。(編集部とは、労研編集部のことをいう)

 

「いかなる」杜会主義か

 

 私が五月号に書いた全般的危機論と平和共存論の批判を読んだ友人の一人が、君は八、九年前の文書で「全般的危機」という概念をつかっているではないか、と指摘した。改めて調べてみると、それぞれ一カ所ずつではあるがたしかにこのことばをつかっていた。それは討論の結果にもとづく組織的な文書ではあるが執筆者はまぎれもなく私であった。

 私にとって全般的危機論や平和共存論の批判は、近ごろ急に思いついたものではなかった。かなり前から――たしか一〇年近くも前から少しずつ疑問がふくらんできていた。以来間歇的にではあるが、その時々に追求してきたものであった。そこでもし「自己批判を」といわれると、かえってこの問題が何かひどく安手なもののようになってしまう気がする。それどころか、この問題は私にとって重大な問題であった。一九六一年私が日共指導部と対決して離党し、多くの人々とともに新しい運動をはじめたとき「八一カ国声明」はその旗印の一つだった。またその後の六七年、「大結集」ということで再出発したときも、内藤知周議長や書記長のいいだ・もも君たちとともに掲げた綱領のなかにはこの「声明」があった。その頃の私にとって、この文書のことばは生き生きと躍っているようだった。世界がこの文書で表現されているというよりか、この文書が世界を動かしているように思えた。しかしその後の情勢と照合して検討するとき、何かがまちがっていると気がつきはじめ、事実や運動から学びながらこの文書の方法論を追求してきたが、それはこの「声明」をつらぬくある種の観念的な教条との格闘であったともいえる。

 若年のころ、これこそと思っていた万能の定式を、さまざまな経験を経ながら年を重ねるごとに考え直し、事実をまずありのままに見て、その意味と法則を探りとろうとするのは、もはや若いとはいえない年頃になったからであろうか。事実よりイデオロギーで自分をひきまわしていた頃とくらべて、逆に事実と運動からイデオロギーを再点検しょうとするのは「石橋をたたいて渡る」臆病神にとりつかれたからであろうか。自分でいうのもおかしいが、どうもそうではないように思う。むしろ反対に、若い頃の勢いにまかせた教条的なものまねをふりかえって反省しながら、いまようやく自分の足で立ち自分の頭でものを考える情熱がふつふつと湧いてくるような気がする。それは自己批判ということばで一般化するにはあまりにも長くまた複雑な曲折に満ちており、このことばのもつひびきほどあっさりしたものでもない。それは、いわば、日が暮れようとしてなお遠い道をめざす必死の模索とでもいおうか。すでに亡い長谷川さんが、生命を終るその日そのときまで続けられたひたむきな追求が、いまようやく分るような気がする。

 それにしても、組織の場合には、こうした一人の人間のようなわげにはゆかぬものである。それははるかに重苦しくいっそう閉鎖的でさえある。こういうとき、他の何よりも私の念頭を離れないのは、いわゆる「スターリン批判」の問題である。ひとたびは「雪どけ」ということで私たちに期待を持たせた時期もあったが、いまはどこへどうなったのか行方も分らない。私がソ連や東欧を訪れたときの印象では、どこでも誰でも触れたくないらしい、ということであった。いや、日本で活動している私たちのなかでも、何をいまさら、という声もないではない。しかし私にとってこの問題は、スターリン以上に「スターリン主義」的な一部左翼の人々の「反スタ」ぶりにまかせておくわけにはゆかないし、またわれわれのめざす社会主義とのかかわりからいっても、すでに終った問題だと黙殺するわけにはゆかない。

 日共は、「自由と民主主義宣言」という誰でもが書ける作文でお茶をにごし、彼らのめざす社会主義を虹色に画いて見せるが、当の日共は宮本独裁のもとで「自由と民主主義」どころではない。人々のなかには「スターリン時代」から今日まで、社会主義に希望を託しながらも、割り切れぬ思いでじっとたたずんでいる人も多い。戦後はじめのうちは、「社会主義」というだけですべてが通じた時代もあった。それはみずみずしい希望にあふれた理想社会であった。このことばがどれほど多くの若い労働者、学生たちをとらえたことか。しかしいまはそうはゆかぬ。ひとたび「スタータン時代」を知った人々は、社会主義一般ではなく「いかなる」社会主義なのか、と問う。それは現代帝国主義による人間の否定と抹殺、差別と?倒が人々を撃てば撃つほど、人間の解放と人間の価値の回復をめざす新たな革新の道が求められ、その故にこそ新しい社会への模索は、きびしいまなこでその恥部をけっして見逃がすことはない。それが「スターリン主義」と総称される現代社会主義のはらむ諸問題ではないか。それをさけて日本における社会主義像の再建はない。

 もちろん、われわれにとって何より重要なことは眼前の闘いであり、またこの闘いから出発していかに変革の道を得るかという課題である。しかしそのためにも、社会主義という必然の未来が、どのようなものであるべきかを探ることが必重なのではないか。「スターリン主義」が、けっして社会主義の宿命ではないことがわれわれの手で証明されなくてはならぬ。そこから社会主義をめざす追求はいっそうひらける。かつて「社会主義を」ということばが若い人々をとらえたように、「いかなる」社会主義が人々の闘いを勇気づけるのか。それは日本において選択が可能なのか。もしそうであればその道はどこにあるのか、が得られなければならない。そのためにも、現代社会主義の諸矛盾を率直に究明する必要がある。1

 この問題については、すでに学者の人々がいくつかの貴重な労作を発表している。しかしそれは当然ではあるが「スターリン主義」の理論的究明に限られている。だが必要なのは政治的究明なのだ。「スターリン主義」の亡霊は未だに現代社会主義のなかをさまよっている。ポーランド問題はそのあらわれの一端ではないか。重要なことは、その追求が政治的にはあいまいになった「スターリン主義」の脈絡のなかから、今日の問題を探り直すことである。私が一月号に書いた一般的理念的な道は、具体的事実で点検されなくてはならぬ。時代おくれといわれようと、″おくて″といわれようと、あえて提起する所以である。

 

経済改革と管理

 

過日『エコノミスト』誌に掲載されたソ連科学アカデミー・シベリア総支部の経済・工業生産組織研究所社会問題部による「ソ連経済社会の活性化」についての問題提起は、関心をもつ人々に多くの問題をなげかけた。この文書の最大の良識は、事実を率直に認めることからはじめていることである。それは、困難ななかにも常に前進するという一般的発展論や、資本主義と比べれば優れているという比較発展論がしばしば黙殺する負の面を率直に明らさまにしている。一九六六年以来の約二〇年間、国民所得の成長率(計画年次)が七・五%から二・五%へと逐年低下してきたというばかりでなく、作業の質の低さと生産規律の低下、労働にたいする無関心と社会的惰性、また消費指向の強まりとモラルの低下などをありのままに指摘している。そうしてそれが、この二〇年間近く「きのこ」のように増加した中間管理機能の異常肥大に集中的にあらわれているような、集権的で指令的なやり方に原因があることを強調している。結局、この文書によれば根本的な原因は、「生産関係のシステムとその反映である国家の経済管理のメカニズムが、生産カの発展水準より立ちおくれていること」だと断定し、今日の国家管理の基本は五〇年前に形成されて以来、根本的変化を反映する質的再編成は一度も行なわれていないと大胆に主張する。

 しかし重要なことは、こうした古い基準をささえてきた観念として挙げているいくつかの指摘である。例えば、社会主義の生産関係は生産力の発展を追い越すから両者の矛盾は排除され、社会主義のもとでは個人と集団、異なった階級や社会集団の間に深刻な矛盾はない、といういわゆる無葛藤理論である。

 しかしそれ以上に注目する必要があるのは、労働者が「労働資源」として受動的な管理対象にされ、管理への参加、創造的イニシアチブ、自分自身の思想のために闘うことが期待されていないという点である。当時労働者の多数は農村から出てきたばかりの人々で、権利意識も乏しく管理への参加を求めることもなかった。かれらは管理に好都合な対象でしかなかった、とこの文書は述べている。こうしたことから、この文書が強調している改革の最大の課題は、管理システムの再編であり、ひいては生産掬係システムの改善である。その理由としてあげているのは、ソ連社会の生産力がこの二〇年間に成長したことと合せて、労働者の要求が経済的に高くなったというだけでなく、高度な社会的精神的欲求を含んでいるということである。「勤労者の人間的発展水準が本質的に高度化したことは、勤労者が以前とくらべてかなり襟雑な管理対象になったことを示している。」 (傍点筆者) と。なんと、ここでもまだ労働者は管理対象なのだ。この文書はたしかにソ連では珍しく率直に負の面、否定的な側面を大胆に暴露しつつ、その改革を提起していることでは随分と進歩的なもののように思われる。その大胆な改革案にしてなお労働者は管理対象であり、経済改革が成功するか否かは、結局のところ労働者をいかにうまく管理するか香かにかかっている、というわけだ。ここでは、労働者の管理すなわち労働者の国家の管理であり、それはまた国家による労働者管理であるという逆転の論理が前提となっている。

 たしかに三〇年代前後のすばらしい発展ぶりと比べて、今日の停滞をすべて怠りやあやまちのせいだというのは正確ではない。極めて貧しかったロシア経済を引きついだうえ、戦争で破漬されたソビエト経済のおくれははなはだしいものがあった。こうした条件のもとでは、強引であらっぽい集権的な方法でも――あるいはそうだからこそ――ほとんど無際限に発展する余地があった。そうして、敵意にみちた資本主義世界のただなかで孤立して社会主義建設にとりかかった最初の国として、過度の集権化も一時的にはほとんど不可避であったともいえよう。しかし、生産力の発展した現在ではそうはゆかぬ。もちろん一般的にいえば、生産力の発展が進めば進むほど、その成長率は逓減する傾向にあることは事実である。それにしても革命以来六五年、この二〇年間近い統計数字はこうした傾向をはるかに超えて停滞が深いことを示している。最近、労働規件の強化や調整政策の成功によって、工業総生産、労働生産性とも年次計画目標を上回り、ソ連経済の回復基調がつづき「長いトンネルを抜け出した」と報ぜられているが、計画目標はきわめて低く抑制されている。

 六〇年代にはじめられた分権化の追求も、六七年、民主化と管理の改革を求めた「プラハの春」の衝撃によって反動的に後もどりして、七〇年代以降はいっそう事実上の集権化をつよめてきた。しかし最近になって、ふたたび中央集権型経済システムの改革が試みられ、ある程度成功したとつたえられている。もちろん一口に集権化、分権化といっても、われわれが想像するほど単純なものではなく、いわゆる市揚メカニズムの運用もけっして容易なものでないことはユーゴスラビアの苦闘が示している。しかし、いまわれわれにとって、こうした技術的な経済改革論以上に重要なことは、管理の基本的な内実であり、とりわけ社会主義経済における労働者の位置なのだ。

 ソ連において、いままで分権化と民主化の努力がつづけられ、ある程度の改革が実現されてきたことは事実である。「しかしそれが、『おえら方』のところですでに決ったことについて、かたちをととのえるためにとられた手段なのか、それとも討論のなかで出された意見が計画や実施に影響を与えて実際に決定する力をもつのか。それは天地の違いがある。」 というモーリス・ドツプの指摘は重要である。

 結局、問題なのは生産が上るか上らないかという以上に、管理の主人公は誰なのか、ということなのだ。レーニンは革命一周年記念に当って、資本のサボタージュと生産の破壊のなかで、ソビエト政府の第一の基本方策であった労働者統制から、さらに一歩労働者管理へとすすんだ一年間を総括して、「労働者がみずからこの管理にとりかかったということ・・・・・・われわれが全国的な規模での工業にたいする労働者管理に近づいたということを、われわれはもっとも重要な、貴重なことであると考える。」と強調している。いまその貴重で重要な労働者管理はどこへいったのか。労働者が管理するのか、労働者が管理されるのか。これはソ連だけの問題ではなく、ソ連が指導的な影響力をもっている東欧も同様である。比較的にうまくいっているといわれているハンガリーも、また独自な自主管理社会主義の道を追求するユーゴスラビアの場合でも、基本的には変りがないのではないか。一九六七年チェコスロバキアの人々が求めたのは、人民が主人公となる「人間の顔をした社会主義」であり、一九八○年ポーランドの労働者が提起した改革の最大の課題はまさしくこの管理の問題であった。

 ここで経済は政治にその席をゆずる。なぜならば、それはすでに経済改革の領域ではなく政治改革の問題であるからだ。

 

政治改革と民主主義

 

 最近、「ソ連の政治改革」という本を読んだ。これはダブリン大学教獲で中堅のイギリス政治学者であるロナルド・T・ヒル氏が、一九七五年から数年間モスクワ大学法学部に留学して、ソ連政治学者と交流しつつ収集したソ連文献を素材として分析したものである。けっして政治的ではなくむしろ政治学的でありすぎるが、ソ連における政治改革についての提案と状況など、具体的な原資料をもとにしていることで私の関心をひいた。

 正直なところ、ソ連では政治改革についての積極的な提起はあまりないだろうと思っていた私は、多くの公然とした改革案が、とくに地方の研究者たちから出されていることを知っておどろいた。しかしそれ以上におどろいたのは、多くの政治学者たちでさえ、ソ連こそ世界で最も民主的な国であると考え、ブルジョア民主主義の実態についてはよく知っていないということである。いやそれどころか、ブルジョア民主主義は野蕃で荻滑な支配形態で、ソ連市民とは縁もゆかりもないと思っている人々が多いということである。これは重要な問題である。なぜならば、そこではブルジョア民主主義といわゆるプロレタリア民主主義との間には完全な断絶があり、一かけらの関連もないという認識が前提となって

いるからである。果してブルジョア民主主義といわゆるプロレタリア民主主義とは、無縁の存在であろう

か。

 ソ連では、各種の選挙において候補者は事前に審議して定足数にしぼられる。一つのポストには一人の候補者ということが原則である。その理由とされているのは、対立する階級がない以上、二人以上の候補者を許すことは票を人為的に分散させ、「民主主義ごっこ」をすることになる。根本的な利害が同一であり、単一の共産党によって指導されている社会においては、競い合う候補者の必要はない、というわけである。そのうえ複数候補制は異なった候補者を応援する労働者集団のあいだに、良くても政治的競争、悪くすれば敵対的関係を生み出し、その結果民衆の一枚岩的統一が破癒されてしまう懸念がある、とソ連の政治学者は指滴する。

 そこで選挙に関する改革案は候補者数=定点数というワクのなかで追求される。その一つが投票所の構造と配置に関する改革案である。この本の資料によれば、ソ連の各種選挙では、賛成票は記入しない投票用紙をそのまま投票箱に入れるだけでよいが、異存がある人は特設投票所に行かなければならない。しかし特設投票所に入って候補者の名前を消すには(秘密にされているが)多少の肉体的努力と、もっと重要なことには精神的努力が必要とされる、とヒルはいう。そうして「投票技術」の一部変更についての改革案は、投票所にある備品の配置がえという提案である。提案者である政治学者のシャバーノフ氏の改革案は、すべての投票者が投票用紙を「熟視する」ために特設役栗所に入らざるを得ないよう投票所を配置することである。シヤバーノフ氏によれば、そうした一見小さな変更は「大衆の積極性を増大させ・・・・・人民の間に自分たちが国の主人公であり、自分たちの声に耳を傾けさせ、自分たちの意見を考慮に入れさせるべきだ、との意識を身につけさせる」だろうという。

 私があえて選挙のやり方についての例をあげたのは、シヤバーノフ氏ではないが、こうした小さな事実のなかに重要な問題がひそんでいると思うからである。ブルジョア民主主義の選挙では、誰でも知っているように対立と競争こそ最大の特長とされ、それには批判と選択が照応する。私は一月号で、民主主義を人類にもたらしたのはブルジョアジーである、と書いた。それはちょうどブルジョアジーが平等をもたらしたのと同じことである。いや、そもそも平等と民主主義は別のものではない。平等の保証人が民主主義なのだ。

 そうしてエンゲルスによれば、ブルジョア的平等とプロレタリア的平等とは、けっして無縁のものではない。「ブルジョアジーが封建的な市民階級の殻をぬぎすてるその瞬間、中世的身分であつたものが近代的階級に移ってゆくその瞬間から、ブルジョアジーはつねに、また不可避的に、自分の影法師であるプロレタリアートをともなっている。それと同じょうに、ブルジョア的平等の諸要求は、プロレタリア的平等の諸要求をともなっている。・・・プロレタリアは、ブルジョアジIのことばを楯にとっていう。平等はたんに外見的で、たんに国家の分野で実施されるだけであってはならない。それはまた現実にも社会的、経済的な分野でも実施されなければならない」(エンゲルス「反デユーリング論」〕と。それと同じように、プロレタリア民主主義の要求はブルジョア民主主義的な諸要求とともに、それとならんで現われる。彼らはブルジョアジーのことばを楯にとっていう。形式だけではない、国家の法律だけではない、すべての分野のすべての活動について実際の民主主義を、と。それはすでにプロレタリア民主主義の要求である。

 マルクス主義はけっしてすぎた時代のすばらしい探求と無縁はない。それどころか、マルクス主義は人類が創造的に追求した歴史的遺産の最良の部分の徹底化であり、その革命的な継承である。それは科学であり運動であり、したがって真理にたいする不断の追求である。マルクス主義は新たな創造へ向う努力を放棄するとき、その生命力を停止する。ブルジョア独裁の形態としてのブルジョア民主主義は、プロレタリア革命によって反対物としてのプロレタリア独裁=プロレタリア民主主義に転化する。しかしそれはブルジョア民主主義と無縁にではなく、その民主主義といううつわのなかにプロレタリア的な内実を盛りこむことによって、その反対物に転化させる。レーニンがいったように、社会主義は少数者の民主主義から多数者の民主主義への転化であるとともに、形式的な民主主義から実質的な民主主義への革命的転化である。それは結局、民主主義の徹底に外ならない。

 選挙における対立・競争――批判・選択もその一形態である。それはブルジョア民主主義においてのみ通用する固有の形態であり、いわゆるプロレタリア民主主義とは無縁の存在であろうか。そうではない。それはブルジョア民主主義のように、敵対的な階級の協調的で融和的なゴマ化しの形式的な手段としてではなく、個人と集団また社会的諸集団相互の非敵対的な矛盾の反映として.の対立と競争であり、その解決の手段としての批判と選択である。それはけっして「民主主義ごっこ」ではなく、民主主義のプロレタリア的な再生である。そこには批判し選択する労働者・人民のイニシアチブがある。経済改革と同じように、政治改革においても無葛藤理論こそ前進と発展の敵である。矛盾と葛藤のない社会――一人の自由が万人の自由と対立しない社会――はそれこそわれわれの求める共産主義社会であり、それはまだ速い彼方にあって人類の開拓を待っている。いま重要なことは、矛盾の存在を認めつつ大胆な改革を追求することである。そのために必要なことは、政治の技術的改革にとどまることなく、その根底にあるものを探り直すことではないか。

 

スターリン主義の基礎

私は最近、一九八○年以来のポーランド問題の資料、またさかのぼって一九六七−六八年のチェコスロバキア問題の資料を改めて読み直した。そのなかに私が初めて読んだ「ピレル報告書」があった。それは一九六八年四月、チェコスロバキア共産党中央委員会総会の決議により、一九五〇年代政治裁判(スランスキー元同党書記長ら一一名処刑)について犯された違法と、前書記長ノボトニー支配による真相の隠蔽を徹底的に調査するため、ピレル幹部会員を委員長としてつくられた特別委員会の報告である。――この報告書はワルシャワ条約軍の進入以来発表が押えられたものである。また同じ趣旨で、過去の諸事件の徹底的究明を約束した八一年七月のポーランド統一労働者党臨時党大会決意(同党綱領)は未だに実践されたとは開いていない。

 私はこの「ピレル報告審」をくわしく引用するに忍びない。そこには、多くの誠実な共産主義者たちが自らが最も信頼する党と国家によって無実の罪に問われて極限状況におかれたとき、どのようにふるまったかがありのままに報告されている。一例だけを挙げよう。死刑を宣告された一人であるフレイカは、処刑を前にゴツトワルト大統領(党第一書記)にあてた手紙で訴える。「人間はその生命の最後の時に当ってうそをいうものではありません。その意味で、私がここに書きのこすことを貴下が信じて下さることをお願いします」という書き出しで彼は打ち明けている。彼は、自分が検察官の希望通りスパイであることを認めたが、それはそうすることが「自分の義務であり、また政治的に必要」だと考えたからであると書いている。つまり彼は、党と革命に忠実であるがためにこそ、自らが自らのなかに罪をさがし求めたのであった。それにたいして当時の党指導部の一人は「われわれ――党指導部の小グループ――の行動は、それが法に千度も抵触し、それのみが犯罪的ですらあるとしても、正しい、と心に銘じていた」と告白している。

 いったいどうしてこのようなことがおこり得るのか。またこれはただチェコスロバキアだけの問題であろうか。そうではない.それはコミンフォルムのユーゴスラビア追放に関する決議を合図に、一斉にはじめられた東欧諸国の五〇年代政治裁判のなかの一つであり、それはまた戦前のスターリン裁判(大量処刑)ともけっして別なものではない。その共通な動機と理由は、有名なスターリンのテーゼ=社会主義が発展すればするほど階級闘争は激化する=から生れる「ブルジョア民族主義とコスモポリタニズム」あるいは「帝国主義のスパイ」の党内への潜入を殲滅するためであった。そこでは党と国家機関との完全な癒着によって、立法も行政も司法もすべて特定の個人権力によって左右されていた。「ピレル報告書」 はその最終報告で、「新たな政治裁判がおこらぬ保障体制を創出すること」を強調して、まずこの政治裁判の事実と経過を詳細、率直、ありのままに社会に知らせるとともに、−個人権力にまで行きついた官僚主義的歪曲化を防ぐための「三権分立」あるいは党・国家機関の民主主義的な選挙などをあげている。たしかに立法機関と執行機関、執行機関と司法機関が独立して相互に牽制し合うことは、なにもブルジョア民主主義の専売特許ではない。それはたしかにブルジョアジーが支配の「民主主義」的な隠れみのとして活用する政治形態ではあるが、必要とあれば人民が個人権カや党権力を抑制するための民主主義的な政治形態ともなる。

 マルクスが「ついに発見されたプロレタリア独裁の形態」と呼んだパリ・コミューンは、立法機関であるとともに執行機関でもあるようなものであったが、それは何よりもまず人民から依託された代表機関であり自由な選挙で保障されていた。しかしそのパリ・コミューンも、やがて執行機関=革命政府の構想をめぐって各派の対立が深まる。結局、コミューンはその決議によって、権力の具体的な担当者としてコミューン議員から成る一〇の専門委員会を創出し、やがてその委員会ごとの代表委員たちの会議に勒行権を暫定的に委任することになる。しかしそれはけっして形式的な分離ではなく、その権限である人民からの受託を基礎に生き生きと血の通った市民大衆との結合があった。このコミューンの形態を、ロシア的に継承したはずのソ連のソビエトあるいは東欧の同種機関が、果たしてこの革命的伝統をいまにいたるまで継承しつづけているであろうか。もしそれが、立法機関であるとともに執行機関でもあるようなものではなく、すでに決められた党と政府の方針に形式的な承認を与える附属物にすぎないとすれば、社会主義的な三権分立も当然に検討されるべきである。

 私は数年前に、中国法制化委員として新刑法の準備に活礎している人と知り合って、意見の交換をしたことがある。彼が歎いていたことは、中国における近代的な罪刑法定主義の欠落であった。「反革命」を罰する場合、何が反革命に当るのかについて法に具体的な明記がない以上、決定するのはいつもその時々の党指導部の判断だけであった、と彼はいう。いわれてみると、たしかに罪刑法定主義は、どの社会においても刑罰の必要不可欠な基礎であるともいえる。それはブルジョア刑法へのきびしい批判のなかからつくられる社会主義刑法にとっても重要な基礎である。しかしいっそう重要なことは、それで万事解決するのか、ということである。近代的な罪刑法定主義、社会主義的な三権分立、また社会主義国の憲法ではどこでも保障されている人民主権と自由権――それだけで万事解決なのか。それだけで政治裁判のようなあやまちは二度と起きない保障になるのか。問題なのはその憲法や基本法をまもりまもらせるのは誰なのか、ということである。

 現代社会主義において、それはすべて唯一前衛党の指導と責任にかかっている。ソ連においてもチェコスロバキアでも、またポーランドでも、問題がおきれば最終的には党の批判と自己批判で終る。大衆との結合が強調され官僚主義は何度もいましめられるが、大衆の批判が受け入れられるか否かはすべてその党の認識と判断にかかっている。重要なことは、経済改革、政治改革をはじめとした国家諸制度の改革は、すべて党の改革に集約され、その党の改革はすべてその党に委ねられているということなのだ。そこでは一切の批判と改革が党の自浄作用にかかっており、大衆は願望し期待し待つことでしかないということになる。

 ふたたびあやまちを犯さぬ保障も、また党の改革の保障も、党の内にではなく党の外にこそ求められるべきである。一枚岩の党=唯一前衛党=国家という定式こそ、どんな誤ちもどんな批判も呑みこんでしまう不変のタブーである。そうしてこれこそ「スターリン主義」の基礎であり、したがってまた環代社会主義における諸矛盾の根滞ではないのか。

 

唯一前衛党は必然か

 

 私は労研一月号で、マルクスの理論的仮設を前提に現代社会主義の諸問題、とくに民主主義の弱さとおくれはその民族と社会の後進性に原因があると書いた。しかし、歴史的に見れば、それはたしかに重要な条件ではあるが、けっしてそのすべてではない。チェコスロバキアといえば、ソ連や他の東欧諸国と比べて戦前から工業が発達し、一定の市民社会も形成されていたはずである。そのチェコスロバキアでも、スランスキー裁判のような事件がおきたとすれば、われわれはその原因ないし基盤をその社会の歴史的な発展段階に

求めるだけでは正確ではない。その意味では、いっそう発達した先進資本主義国であるということだけでは、日本の社会主義的展望のなかにこのようないまわしい事件がけっしておきないという保障にはならない。そこでわれわれは、誤ちの根源として現代社会主義の基底部によこたわる共通な原因をつきとめなくてはならなかった。それが唯一前衛党論を媒介とした党と国家の癒着ではないか。しかし、それはけっして不可避的なものではなかった。

 プロレタリア独裁論は、マルクス主義の創始者たちによっては、ただの一度も唯一前衝党論と不可分に結びつけられたことはない。マルクスが積極的に評価したパリ・コミューンでも、ブランキ派をはじめ数多い諸党派で構成され、第一インターの会員はこのなかでも少数派であった。またロシア革命の発展過程をみればボルシェビキだけでなく、ときにメンシエビキ、ときにエス・エル左派とのブロックによって、この革命が闘いとられ推進されたことは明らかである。たしかにレーニンは反対派とフラクションの禁止をきびしく主張したことがある。しかし、それは、どこまでも内戦後の特殊な条件のもとでの措置であり、条件が変れば改めて再検討される余地が充分残されていた。

 ところがスターリンは、労働者権力の安定に.よっていよいよ本格的な社会主義建設にとりかかろうとしたまさにそのとき、この禁止を不変の規律として定め、改めて唯一前衛党論を定式化した。彼はそれを他の諸問題とともに「レーニン主義の基礎」という命題で講演したが、これはやがて全世界の共産党において古典的な教科書となり、唯一前衛党論は社会主義革命における「常識的」な教条となった。東欧の人民民主主義革命−社会主義革命の過程も別ではない。そこでは民族解放と人民民主主義権力の確立のために闘った諸党派は、社会主義権力が安定すると、やがてそれぞれの共産主義党に吸収ないし合併されて唯一前衛党が創られた。現在東欧諸国には、こうした唯一の前衝党以外に農民的な諸党派が存在する国もあるが、それは結局のところ唯一前衛党の同伴者的附属物でしかないことは誰でも知っている。

 問題は二つある。その一つは革命的な過渡期における複数党には、一定の歴史的経済的な根拠があるということである。それは一つの階級の複数の党ではなく、複数の階級のそれぞれの党である。そこには労働者階級の党とともに、義民その他小ブルジョア的な諸党がある。もう一つの問題は、複数の階級があるからではなく、一つの階級にとっての複数党の問題である。そうしてそれは、権力を奪取する激動的な過程の時期だけでなく、労働者権力が安定をかちとった社会主義建設の時期を含めてのことである。革命の激動期には、どの党派あるいはどの党派ブロックが労働者階級の革命的な前衛の役割をになうかということは、歴史のダイナミズムがきめる。しかし権力が安定した時期にこそ、スターリンとは全く反対に、競い合う革命的諸党派の存在と批判の自由の思い切った拡大がいっそう意識的に追求される必要がある。

 それは自然発生的な経済的根拠からではなく、労働者が主人公となった社会主義社会の民主主義をまもるための目的意識的な追求から生れる。

 ところがスターリンによって定式化された唯一前衝党論は、党と国家機関とを無条件的に結びつけて社会主義的絶対主義をつくり出した。それは大衆の批判をすべて党に吸収す

ることによって批判を無力化し、大衆的な課題を党内問題に矮小化することによってプロレタリア独裁を党独裁に転化し、やがてチェコスロバキアで見たように官僚主義的歪曲化によって個人権力にまで高めることになる。唯一前衛党論は、革命過程のどの時期においてもさけられぬ選択ではない。唯一か否かは、最終的には革命過程の発展に照応しつつ労働者大衆の意志と判断が決定する。唯一前衛党は党そのものの死滅へ向う最後の過程としてあらわれるだろう。それはすでに共産主義の第二段階=共産主義社会への入口である。いままで歴史的にあらわれた唯一前衛党ないし単一の指導党は、その革命の歴史的な過程の特殊な反映か、あるいは強行的に形成された歴史的な錯誤の結果である。

 大衆の批判はその結果を受動的に期待すべきものとしてではなく、はっきりとその結果が肉限で見とどけられなくてはならない。そうしてこそはじめて労働者大衆が主人公となる。その意味で社会主義社会といえども――いやそうだからこそいっそう――人民大衆の枇判と選択は必要である。社会主義における民主主義とは、まだブルジョア的権利の痕跡である。大衆の批判は大衆自身の直接的な選択によって、その環が閉じられなくてはならぬ。それはまた新たな対立と競争のはじまりでもある。その意味で、民主主義とは対立と競争を批判と選択で克服する過程であり、やがて対立と批判、競争と選択が自然に必要でなくなったときに民主主義もねむりこむ。批判と選択の権利がないところに民主主義はない。レーニンがいったように、「それぞれの国民は、民主主義のあれこれの形態に、またプロレタリア独裁のあれこれの変程に・・・・・独特のものをもたらすであろう。」しかしかんじんなことは、どんな形態であれ、どんな変種であれ、プロレタリア独裁と民主主義は社会主義から共産主義への発展にとって、欠くことのできない過渡である、ということなのだ。

 唯一前衛党論は支配的なエリートにとっても、個人権力にとっても、魅力ある麻薬である。それは批判を麻痺させ改革の鉾先をにぶらせる。しかし、唯一前衛党論はこうした人人にとってだけでなく、いつのまにか、革命を志し共産主義をめざす誠実な共産主義者の心の底深く根を下ろした不動の教条となっていた。だからこそ唯一前衛党の決定の前には、非をもあえて是としたのである。私たちが「前衝党の再建」というとき、こうした唯一前衛党の幻影はなかったか。もしそうであれば、それこそが他の革命的諸党派との間に目に見えぬへだたりをつくり、その接近と結び合いを妨げていたのではないか。「前衛」であるかないかは先験的にではなく、その革命的な実践を通じてこそ明らかとなるだろう。それが「再建」であるか否かは、かつて存在したものによってではなく、これから創建される労働者階級の党によって点検されるだろう。唯一前衛党論は必然ではない。それは克服されるべき教条である。それは社会主義的民主主義の体現者ではなく、その対立者である。批判と選択によって保障される民主主義を、しつかりと握りしめた労働者・人民が主人公となる社会主義こそわれわれのめざす新しい社会である。

 

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