二・一スト前夜

伊藤

労働運動研究 19837月 No.165

 

 本誌編集部は、伊藤律氏から「二・一ストの前夜について」の彼の

回想を受け取った。今まで知られなかった事実についても触れられ

ており、貴重な記録として、誌上に発表させていただく。(編集部)

 

 長谷川浩氏の『二・一スト前後と

日本共産党』を読み、当時の労働者

の革命的高揚に胸が熱くなり、一月

三十一日のこと、長谷川氏がいなか

った場所の情況を少し報告し、補足

したいと思います。

 

 

 三十一日午前、長谷川が運輸省の

アジトに入った頃、僕は徳田、野坂

のお伴をして勧業銀行調査部の会議

室に秘かに入りこんだ。社会党左派

・中間派とのトップ会談で、ゼネス

ト後の連合政府についての打合せの

ためだった。「ゼネストの成りゆき

如何を問わず、吉田内閣の退陣はも

はや必至」ということで、社会党の

人たちとも見解が一致していたから

だ。

 その前、僕はさる権威筋からGH

Q 内部の様子について情報をえてい

た。「GHQ はゼネスト禁止とも黙

認ともまだ決っていない。問題が重

大なのでホワイトハウスと国務省ト

ップで研究中、マック元帥は決定で

きない。GHQ 内では禁止したら日

本人民を敵にまわすとの意見は強

い」とのことだった。

 社共会談では、加藤静枝がGHQ

で打診して帰り、「禁止命令はまだ

決っていないらしいが、禁止の意見

が強まっている」と報告、吉田内閣

退陣必至とみてきた加藤勘十たち中

間派に動揺が起った。

 徳田が発言して、「労働者があく

までやるというなら、誰が命令しよ

うとやるべきだ。向う様は禁止の自

信がないのに、こっちがおじけつい

たら、相手に自信を持たせる。ここ

まできて動揺は禁物だ」。黒田(寿

)がこれを支持した。鈴木(茂三

)が禁止命令の有無は別として、

社共中心の連合政府の準備が必要だ

と言った。これについで野坂が発言

して「ともかく社共連合を固め、吉

田退陣で総選挙により、しっかりし

た民主政府を作る準備が肝要、それ

ならGRQ も混乱を気にすまい」。

 結局、明日また会談することとな

った。その後、冗談話に、社党の誰

かが「この荒波をのり切るには気の

強い徳田君が首相だネ」と言った。

徳田はいささかムッとした調子で、

「共産党は閣僚の椅子など一つもお

らん」といい、野坂にも念を押すポ

ーズをとった。「オレに何かやれと

いうなら警視総監だけでいい、あの

悪人どもを監獄にたたき込んでやる

よ」と言った。

 

 

 その帰りどこかに立寄り、僕が共

産党本部に帰ったのは午後二蒔半

頃、ラジオがマックの禁止令を伝え

た。僕はすぐ長谷川から組合の情況

と反応をきくと、禁止命令の原文全

文の入手の手配をした。当時、国際

と全国ニュースの唯一の通信社――

共同は、GHQ の指令で『アカハ

タ』にはニュース提供を拒んでい

た。それで別の伝手で原文全文を手

に入れた。

 この時、徳田は疲れて本部二階奥

の畳の部屋でねていた。僕が入って

おこすと、蒲団の上に坐って「禁止

命令?フン、突入したら組合割れ

るかな?」と半ば独り言のように僕

の意見を求めた。長谷川の話では、

先頭部隊ことに青年行動隊はますま

す意気軒昂だが、下からスト体制を

固めてない部分は崩れ気味だという

話。僕は「無理押ししたら割れる可

能性があると思う」と答えた。徳田

はしばし考えた上で、「じゃあ、きれ

いに中止の腹で労働者と相談するこ

とにして、すぐ政治局会議を開こ

う。浩は現場を守っているように」

と指示。

 会議の席上、命令全文で「コンバ

インド・ぜネスト禁止」だから全

闘、共闘を解けばよいとの解釈を誰

かが出し、一応それを結論に、とに

かく急いで共闘会議と各中闘と相談

する必要があるので、徳田はすぐ車

にのった。僕は長谷川の所にゆくつ

もりで一緒に出掛けた。車中で、徳

田は「お前、オレとともに共闘にゆ

け。その後、中労委があるから後の

ことは浩と打合せてくれ。コムバイ

ンド・ストだからダメと言っても、

敵が腹をきめた以上、単産ぜネスト

でも禁止してくるだろう。共闘解

体、単独ストでゆくなど屁理屈だ」

と言った。

 

 

 共闘会議に行くとマスコミ記者が

「徳球だ」と騒いだが、彼は一言も

しゃべらず室に入った。伊井(弥四

)が「禁止命令なんてデマかおど

かしでしょう」と徳倒を見るなり噛

みついた。徳田は「イヤ、本当だ」。

伊井「エッ、本当?」徳田「割れな

が、割れたら元も子もなくなる。退

くとなったら混乱して敵に挑発され

ないよう立派に中止すべきだ。大

体、今になつて中止命令を出すの

は、一種の挑発陰謀だ」と静かに説

明した。徳田のこの時の態度は極め

て慎重で、命令的な調子は全くな

く、情勢を説いて共闘の判断にゆだ

ねるという態度。あの戦闘性あふれ

る徳球が、この決定的瞬間にかくも

無条件に労働者大衆と労組の意志を

尊重する態度をとっていたのは、誠

に感銘深かった。

 日教組の代表の小林が、とりあえ

ず共闘解散を発表しようと提案し

た。そして徳田は中労委へまわっ

た。そのとき、伊井は眼に涙を一杯

にため、しきりにメガネを拭って

いた。僕はこの時に、伊井はすでに

スト中止やむなしの感を抱いたと思

う。その後、伊井の男泣きしている

写真が翌日の各紙にのった。

 伊井が放送会館のどこかうす暗い

廊下のような所で徳田に会って、

「中止」を言われたという彼の回想

録の話は、僕には首肯しがたい。僕

の知るかぎり、共闘会議であの示唆

的な話をして以後、徳田は伊井に会

るなどやっていない。恐らく激動の

歴史的瞬間、焦点に立った伊井が興

奮のあまり何か思い違いをしたので

はないか。

 後に内部から洩れ聞いたところに

よると、伊井、鈴木、土橋がジープ

で連行され、スト中止放送を命じら

れた際、鈴木、土橋の二人はすぐ原

稿を書き、即座に検閲をパスした

が、伊井は泣きじゃくりなかなか書

けない。立ち会ったのがニューディ

ール派かCI 0系の誰かだったので

同情し、無検閲のまま放送させた。

そのためGHQ の規矩を出た文句が

少なくなかった。伊井放送の結語

「全国の労働者・農民、団結せよ

!」は本来不許可になるはずの一句

だったそうだ。

 

 

 中労委で松岡駒吉が、胸に銀鎖を

つけ悟り顔で徳田にイヤミを並べる

のを見て、僕は身の程を忘れ、ブン

殴りたくなった。西尾(末広)が続

いて徳田を吊し上げた。徳田は疲れ

切って黙って聞いていた。末広(

太郎)が、中労委外での活動につい

て、ここで議論するのは場違いだ、

中労委が紛糾して困ると徳田を擁護

した。

 会議室を飛び出すと、そこに長谷

川が待っていた。そして「組織が割

れますよ」「なに割れる。割れるス

トは止めたがよい」というあの会

談。そこで「退却」が最終的に決定

し確認された。そして長谷川は急い

で去った。徳田は僕に、「事態の収

拾が大変だ。オレのことはもういい

から、お前国鉄中闘に行け。一番強

気の全逓は浩が治めるだろうが、連

絡し合ってうまくやれよ」。

 国鉄中闘会場に行ったら、会議室

に入りきれない。青年行動隊が赤旗

をかざし机や椅子を天井まで積上

げ、インターを合唱している。信越

から出ていた中闘・酒井治吉が僕の

連絡係りをやってくれた。

 田町電車区出身中闘の鈴木勝男が

「党の指示でもオレにはとてもスト

中止とは言えない。田町の青年行動

隊はオレが中止に賛成したら生かし

ておかぬと怒っている。どうしよ

?」ときいた。僕は即座に「労働

者大衆と勝ちゃんがどうしてもやる

と言うなら、その通りの態度を表明

したらよい。責任問題が起ったら僕

が責任をとる」と答えた。

 一人一人の中闘が中止の態度を表

明した最後に、鈴木勝男が、今なお

僕の胸に刻まれている発言をした。

 「われわれ日本人民は欺されて侵

略戦争のためにさえ幾百万人の命を

失った。いま民族の独立と労働者の

革命事業のため流す血の一滴がない

というのか。断固ゼネストを敢行す

べし!

 赤旗が振られ、ワァーッと青年行

動隊の歓声、続いてインターの合唱

が起った。委員長の鈴木清一もしば

し結論を出せなかった。

 

 

 会場を出ると、中郵がまだもめて

いるとレポがきた。その足で中郵に

行ったが、通路は大衆が一ぽいで入

れない。そのうち誰かが「共産党の

本部がきた」「伊藤律がきた」と叫

んだ。皆が道を開いてくれ、僕は議

長席近くに進んだが、ここの細胞員

をよく知らず、討論の様子も不明、

黙って成りゆきをみていた。もう夜

中の十二時が迫る。ためらいは許さ

れない。「ひとまずこのゼネストは

中止、改めて要求が通るまで闘う」

で多数が賛成、僕は党としては中止

する以上、労働者らしくキッパリき

れいに退却することを切望するとだ

け言って帰ろうとした。

 すると全逓本部前で青年行動隊が

納得せず、長谷川が説得に苦労して

いるから行ってくれとのレポがとど

いた。

 行ってみると、全逓本部前の暗い

広場のミカン箱の上で、長谷川がオ

ーバーをひるがえして、あの演説を

やっていた。

 「諸君は日本の軍隊が進むを知っ

て退くを知らない勇敢な軍隊だった

ことを知っているだろう。だが、そ

の軍隊がぶざまな敗北をしたのも見

たであろう。前進よりも退却の方が

むずかしい。整然と退却のできる軍

隊こそ真に強い軍隊だ。いまは隊伍

を乱さず退くときだ」。

 僕は大衆のうしろで聞いていた

が、もう一つ、労働者大衆と僕の胸

に響く発言をした。

 「おれたち労働者階級はかならず

勝利する。だが、その武器は何か?

団結、団結あるのみ。一時の感情に

かられ、この団結という無敵の武器

をこわすことは、戦闘的労働者のや

るべきことではない。ちゃんと退却

すべきときに退却するのは盲進する

より遙かに本当の勇気が要る」。

 皆が黙ってしまった。でも、僕の

いた一番後列のなにはまだ「理屈

はどうでも、ここでストをやめられ

るか」とボヤく連中もいた。僕も団

結の説得に努めた。

 

 

 全逓本部前で、最後に僕は長谷川

に会い、徳田の要求で国鉄・全逓の

情勢が決ったら、すぐアジトへ帰

り、徳田に報告しろと言われてたか

ら、本部には帰らないと断って別れ

た。

 徳田の所へ帰ったのは、もう午前

二時を過ぎていた。が、彼は床に入

っていても眠ってはいなかった。僕

は一通り報告し、「もうこんな止め

役は二度としたくない。あの闘った

労働者の気持を思うとやりきれな

い」と言った。徳田は目をつぶって

しばらく考えていた。そしてやっと

言った。「こうなったからには挑発

にのらず、キチンと退却できたのだ

から、それまでだ。疲れたろう。ね

ろ」と言った。徳球からねぎらいの

言葉を聞いたのは後にも先にもこれ

一度だった。

 

 

 反省してみれば、労働者大衆は議

会制民主主義をのりこえて、社会主

義へ前進しようとしていたのだ。そ

れを正確につかめず、二・一ゼネス

トの経験を全面的に総括もせず、長

谷川と僕との間ですら、バラバラの

ままで綜合的に検討もされなかっ

た。歴史的闘争と口ではいいなが

ら、本当の歴史的意義を探求せずじ

まいだった。ーこれが後々まで尾

を引き、今日になった。口惜しきか

ぎり。

表紙

●未決の現代史 伊藤律

 

戦時下における党再建運動

*同志・長谷川浩を偲んで*

伊藤

労働運動研究 19912月 No.256

 

〔まえがき〕

 以下に掲載するのは伊藤律氏が、尊敬していた長谷川浩氏の戦時下の活動について語った記録である。長谷川浩氏が代表となって創刊された本誌上で、伊藤律特集を編集するに当って、記念にもっともふさわしいものと考え、石川島労働運動研究会のご好意によって転載する。講

演は一九八七年十月十一日、徳田墓参会当日、多摩霊園大野屋本店において行なわれた。         (編集部)

 

 一九二八年三月十五日、日本共産党に対する一斉検挙の大弾圧が加えられ、三・一五、四・一六事件の統一公判が開かれ頃、私はまだ十八歳で旧制二尚の学生でした。

 「公判の傍聴に行きたい」というと「非合法活動の仕事の性質上危険だ」と級友にいわれ、仲間の一人が傍聴に行きました。仲間は帰って来ていったものです。

 「おい、徳球というのはすごい奴だぞ……。肩をいからせ噛みつくように裁判長を叱りつけるんだから!どっちがどっちを裁いているのか判らないようだ。」

 これが徳球に対する私の第一印象です。

 その頃、一高の先輩の中で、何人も共産党の幹部になっていたことが判っていたけれども、獄中にあって非転向で闘い続けていたのはただ二人だけでした。今ここにおられる志賀義雄さん、それから四・一六事件後間もなく逮捕された長谷川浩さんです。二人は尊敬の的でした。

 同時に先輩の中には検事だの裁判官になった者も何人かいます。敵、味方に別れたのです。

 一九三三年、私は市ヶ谷に盗れた政治犯の中に混じって中野の豊多摩刑務所の第八舎に移されました。この第八舎という建物は終戦直前まで徳田、志賀、そこにおられる椎野悦朗さん達が予防拘禁で投獄されていた十字形の二階建で、独房ばかりの獄棟でした。

 その南側の独房に入った私は偶然の機会に浩さんがそこにいて、刑が決まってから寒い北海道の釧路の監獄に送られたことを知りました。そして、その前年のメーデーか、ロシア革命記念日かに、浩さん達が同志と示し合って、朝起床の鐘が鳴るのを合図に一斉に「日本共産党万

歳! ソビ工トを守れ!」のスローガンを叫んで騒ぎを起こしたという話を、以前から近くの独房にいた同志から聞きました。

 それから二年余り、一九三六年の初めに浩さんは満期で釧路の監獄を出ると、亡くなるまで住んでいた三鷹の家に帰ってきました。私はすぐ浩さんを訪ねて浩さんに逢いました。まだイガ栗頭で頬や手に黒紫の霜焼けの跡が残っていたのを今でも覚えています。それ迄のこと、私の転向の経緯やそれについての反省を述べて浩さんから批判を受けました。そしてかかわりのある職場や革命グループについて報告し、これからの活動について相談しました。

 徳球さんが弁護士を始めた時、属していた山崎今朝弥弁護士の法律事務所が、その頃まだ虎の門近くの二階家にあり、つてを得てそこへ出入りしました。当時、山崎弁護士は袴田里見の弁護を無料で引き受けており、その調書の写し、これに関連して宮本顕治の調書もこっそり見せてくれました。宮本が現在、戦前最後の中央委員会と誇るものが、実は工場・農村に殆ど地盤のない、いってみれば街頭分子の連絡会にすぎなかうた実態がよく判ったのです。

   そうしたことを含め、党のこれまでの闘争経験の中から我々なりの教訓を汲みとって出直すことに努力しました。

   間もなく浩さんが岡部隆司と連絡をつけて、その頃"木材通信社"に勤めていた岡部自身の語ったところによれば彼は「かつて産業労働調査所で、まあ小使走りみたいな仕事をしていて、三・一五の煽りで検挙された時、まだ子供で何も判らないと言い張って出てきた」とのことでした。

   後で判ったことですが、岡部はコミンテルンから日本の党再建のために帰国し逮捕され、京都で獄死した小林陽之助と連絡があったのです。

  そんなことから弾圧当局が我々のグループに党再建委員会というレッテルを張りつけた訳です。

   こうして岡部、長谷川を中心に我々のグル!プの活動が始まりましたが、この頃弾圧と取り締まりが厳しくなるにつれ、革命的考えを持つ人達は、ともすれば密室に籠もって国際情勢、国内情勢、テーゼ、戦略などの討議に明け暮れする傾向ガ強くなりました。

 我々はこうした傾向を自戒して大衆の中に入ることに全力を集中する方針を決めたのです。基幹産業に大衆闘争を発展させ、そこに細胞の根をおろすこと、これを基本的方針としたのです。だから職場とつながりがないインテリや学生は当面吸収しないことにしました。

 その頃我々のグループは、テーゼだの、綱領だの、規約などについては一切討論しませんでした。勿論内外拾勢については討論はしたけれど、当面の闘争の必要に応じて、とりわけ職場闘争の発展、前進方向を見定め職場の労働者に宣伝する必要に応じて意見の統一を図ったにすぎません。

 前年、中国共産党が発表した抗日民族統一戦線の呼びかけが、中国人民の広大な支持と熱烈な歓迎を受けたことは我々の励ましの一つでした。

 またコミンテルン最後の第七回大会における反ファッショ統一戦線の方針に基づく岡野、田中、すなわち野坂参三、山本懸蔵の連名になる「日本の共産主義者への手紙」も受けとっていました。その頃はまだ野坂理論なるものの誤りと危害について、はっきりとした認識はありませんでした。野坂が延安へ行って天皇と天皇制を切り離したり、日本の侵略戦争の責任を軍閥、財閥のみに負わせて天皇を免罪にすることを言い出したのは、それから後一九四二年以降のことです。

 我々は岡部の主張に基づいて、この「日本の共産主義者への手紙」を統一戦線戦術についての示唆であると理解しました。なぜなら我々は三二年テーゼの方針を守っており、革命の戦略目標を天皇制打倒におきましたが、この手紙はそれに論及していない。何より肝心な党の建設と強化について触れていない。

 統一戦線について云うなら目の前に一つの事件が起こっている。戦後日本社会党に合流した社会民主主義諸党派を中心として形成された統一戦線が天皇制政府の一撃のもとに潰されてしまった。いわゆる人民戦線事件です。いかなる統一戦線も労働者階級とその党を主柱とせずしては成功し得ないという厳粛な教訓を目の前に見せつけられたのです。だからこそ統一戦線戦術を運用する主体、労働者階級を結集し、党を再建することが当面の緊急な任務だと我々は考えたのです。

 その当時、党の再建を目指すグループが幾つか生まれていました。関西における春日庄次郎を中心とする共産主義者団、常磐炭鉱の労働者・山代吉宗を中心とするいわゆる京浜グループ、神山茂夫を中心とするいわゆる旧刷同グループ、進歩的知識分子や若手官僚の集まりだったいわゆる企画院グループなどです。この"いわゆる"というのは各グループがそう自称したのではなく弾圧当局が勝手に名付けて貼りつけたレッテルだからです。我々の場合、テーゼだの綱領・規約だのさえ討論しないのだからグループの名前など話にも出なかった。

 日本共産党は獄中に存在している。残酷な迫害にもかかわらず徳田球一、志賀義雄、市川正一、国領伍一郎等の指導者は、日本共産党の旗を守って英雄不屈に闘い続けている。その直接の指導なしに、また基盤となる細胞の全国代表者会議を開くことなしに、勝手に共産党を名乗るべきではない、と我々は考えたのです。他のグループの人達もおそらく同様な考えだったと思います。

 おそらく我々のグループを最後に他のグループも相前後してそれぞれ弾圧されてしまいました。その意味で私の、いや未熟な私の挫折に終わったこの報告は、とりわけ若い労働者の皆さんの反面の教訓として受け止めて頂ければ幸いです。

 それらのグループが弾圧された後に、細川嘉六を中心とした良心的なインテリや知識分子の、グループとさえ云えないゆるやかな付き合いが、残酷な特高の拷問によって"日本共産党再建準備委員会〃と称する事件にデヅチあげられています。

 それらのグループのメンバーでもないのに誰彼と個人的付き合いのあった者まで組織メンバーであるかのようにデッカイ組織図を画き出したことは、共産主義の脅威を宣伝すると共に革命陣営内に相互の疑心暗鬼を掻き立てるための陰謀でした。

 さて、当時は活動歴のある者が職場の労働者と付き合うことさえ特高に見張られていました。そして我々は誰も職場、工場に身を置いていない。労働者の側から云えば我々と付き合うことさえ半ば非公然であることを余儀なくされました。そうした困難を押して職場に根を下ろすと一口に云っても容易なことではなかったのです。

 当時、最大の軍需工場であった三菱重工を攻め落とすためにとった方法がそのよい例です。山形地方で動きがとれなくなった革命的青年の池田勇作が労働者になろうとして上京して来ました。そこで進歩的サラリーマンや学生から定期的にカンパを集めて、彼の生活と旋盤工になる勉強を援助しました。

 池田勇作は旋盤学校を出ると運動経歴を消すために、まず蒲田のダイガストと云う鉄工場に入り、そこで労働者仲間と付き合いをつくり、それを通じて近くの下丸子の三菱重工に入ることができました。

 その間、池田勇作は、当時急速に増えつつあった若い旋盤工を主な対象とする『機械工の友』という雑誌の発行に協力し、座談会などを中心に交際を広めました。その『機械工の友』の発行に関係していた一人が、現在宮本体制のもとで副委員長をしている戎谷春松なんです。

 池田勇作は職場で、個人別の衣服箱や下駄箱を作ろうというような初歩的な要求を取り上げて職場闘争を続けているうちに、長伊作という青年を同志に参加させました。最初の根が下り始めたのです。

 その段階で私は別の事件で逮捕されてしまい、あとは浩さんが直接指導し、文書を入れたりしました。

 当時国鉄には労働組合がなく、現業委員会という官製組織があって、そこへ職場要求を持ち込んだり、地域的なサボなどが起こると、現業委員会がこれを潰してしまう。軍需輸送のために国鉄関係は警戒が厳しく容易に手が着けられなかったのですが、省線と云った国電は比較的に社会人の通勤が多いので、それを狙って渋谷の小荷物係にいた野本伸という指導者が職場闘争を展開して、我々の組織に参加しました。

 池田勇作は敗戦直前、喀血して獄中で犠牲となりましたが、野本は敗戦で獄を出ると共産党本部へ来て、徳田のもとで国鉄オルグとして国労の建設に着手した同志です。

 その頃、比較的活発な活動グループが幾つかあり、纒まった細胞の根がおり始めていたのは残っていた労組の中で比較的戦闘的だった東京交通労働組合の職場です。

 当時、東京市の主な交通機関は国電の他は市電の路面電車とバス、それに併行する青バスでした。地下鉄の労働者はしばらく前に激烈なスト闘争をやっていますけれど、その頃はまだ関通区間が短かったのです。……で、電車部門で比較的活動が活発で、グループが纒まって動いていたのは電車では早稲田、広尾、巣鴨の車庫、バスでは渋谷、浜松町でした。同時にそれを通じて青バスにも連絡がついていました。

 御存知のように路面電車には出入口が二つあります。それを一つの出入口を車掌、一つの出入口を切符も金も持たない運転手が管理するわけです。しかも天皇制ファシズムが強化されるにつれて業務規程が厳しくなった。例えば業務中に自分の金を持っていてはならない、もしポケットに金が入っていれば、それは公金、乗車賃を誤魔化したんだと受け取られる。

 ダイヤが非常に厳しくなり、業務規程が厳しくなり、それでラッシュアワーに、なにしろ電車の場合乗車賃が七銭で大抵のお客が十銭玉を出す。三銭払って、渡したり貰ったりする。中には五十銭玉、一円札を出す人も少なくない。ひどく厳しい勤務です。

 ところが当時、市の電車、バスを管理していたのは電気局ですが、そこには密行制度と云うのがあった。公然と密行と称する私服がこっそり乗り込んできてそれを見張る。少しでも違反があれば乗務から降ろして処罰する。これは表面上、電気局に属しているが実際は警視庁の特高の一部です。彼等は組合活動家、戦闘的分子を狙い打ちにして処分したものです。

 当時、市バスの車掌も青バスの車掌もみんな独身の若い女性でした。その活動家を狙って、疑いがあると云って車から引きずり降ろして、裸にして検査するという暴行まで起こったんです。だから青年・婦人労働者の不満は一番激しかった。その職場闘争がつねづね一番行われていた渋谷支部から本部の青年部長も婦人部長も選出されていました。

 部長と云っても今の組合と異なって専従ではない。同じように乗務するんですから、組合幹部としての活動時間に制限はあっても大衆との間に隔たりはなく、大衆そのものであり、職場闘争の先頭に立っていたので信頼があり、かつ活動の影響は大きかったものです。敵もさるもの、その青年部長を真先に召集して戦線へ送ってしまいました。

 侵略戦争が拡大し、壁にぶつかるにつれ、のさばり出た軍部を先頭とする当時の天皇制政府は、労働者階級をひと纒めにして丸め込む陰謀を開始しました。それがいわゆる産業報国会です。すべての職場、経営に報国会なるものを作り、労働組合は全部それへ解消です。労働者の要求はすべてそこへ持ち出して、労資協調の話し合いで解決するというのが建前です。

 ところが実際に産業報国会を牛耳っていたのは警察権力です。私が入れられていた目黒署の留置場で、或る日、特高達が折詰など持って、いい機嫌で外から帰って来たのを偶然見ました。後で聞いて判ったのですが、その日は管轄内最大の工場、恵比須ピール本工場の産業報国会の発会式だったのです。主賓は何と所轄署の特高主任で、大きなピール樽を幾つも抜いて労働者に大盤振舞いをしたのはいいけれど、労働者の一切の要求は特高に握られるわけです。

 その頃、近くにあった七浦というラジオの組立工場の若い青年工が、確か四人留置場に入れられて来た。窃盗容疑です。ところが豚箱で聞いてみると、みんなが云うには「子供だと思ってひでえ使い方をしやがるから、シャクに触っておしゃかを作っても盗んだことはない。産業報国会というのが出来て何でも言えと云うから、どんどん云ったら、それが警察に筒抜けになって引っ張られた。」

 近頃、全民労協を産業報国会の現代版という声も挙がっています。確かに似た点はあります。けれども反動権力は今のところ裏で操っても正面には出て来ていません。各団体、単産、労組は大会を開いて決意を決める自由はあります。勿論、日教組に見られるように頑固な右派幹部が大会を阻止しているところもあります。

 それにしても考え方はどうであれ、闘う一切の労組勢力が結集して国労を守り、総評解体に反対し、全民労協の指導部を孤立させ、安保を容認する労資協調路線を弾劾することは十分に可能だと思います。仮に自治労に見られるように、全民労協への解体を一応は隠した組合にあっても、内部の左派勢力は組合の統一を守って、全民労協の中に残って同じ方向で闘うことも出来るはずです。

 ところが当時の産業報国会とぎたら問答無用です。労組を産業報国会に解消するのは天皇の命令だというわけです。当然その頃、組合活動家、革命的なグループは勿論のこと、多少とも進歩的な評論家や学生たちの間でこの産業報国会にどう対応するかが一番の問題になりました。

 大勢止むなし、無駄に抵抗して怪我をするより積極的に中へ入って行って、中で活動すべきだと云う意見が大勢を占めました。圧倒的でした。我々はこれに反対し、あくまで労働組合を守り、内部から変革していくために闘うべきであると云う方針を採ったのです。そのためには組合の幹部の、指導部が、どんな社会民主主義の手に握られていようとも彼等と可能な限り協力して、組合を守り発展ざせるために必要であると考えたのです。

 その頃になると、プロフィンテルンの指導する労働組合ー全国協議会、いわゆる全協も、一番大きな農民組織であった全国農民組合の中に形成されていた共産党の指導する全国会議派も消滅していました。けれども我々は戦闘分子だけを切り取って来て、もう一度小さく固めなおす方針は採らなかったのです。こうした情勢の中にあっては、労働組合を守り、社会民主派に協力すべきだと考えたのです。

 全国農民組合は、当時前まえどおり形式上本部は大阪にあったけれど、実際の全国機能の指導の仕事は関東出張所と呼ばれる東京の事務所にありました。そこに"大西俊夫"ど云う古い活動家がいて、ドテラを着て椅子の上にあぐらをかいて各地方からやって来る農民活動家と話しをしていた状態でした。そして『土地と自由』と云う機関紙を出していました。『土地と自由』これは天皇制反対の具体的な要求です。ここでは若い革命的活動家が活動していました。我々は出来る限りの方法でこれに協力したのです。

 その大西俊夫は、全国会議派などからは本部派の大ボスなどと云われていたけれど、その実、革命分子と判っている若い活動家を職員に入れていました。その一人が山口武秀です。ご承知のように山口さんは、戦後、敗戦直後の農民闘争の高まりの中で最も戦闘的とされた茨城の「常東農民組合」の組織者であり、そして代議士にもなり、そして日本共産党に入党され、今はこの徳田記念の会の理事です。

 その頃、日本の全人口の中で労働者より農民の方が多かった。現在は約七割が労働者ですが、その頃は逆に農漁民が七割でした。革命における農民闘争は今よりもはるかに重要な意義を持っていたのです。だからその農民闘争における業績と手腕、人望を買って、戦争が終わると社会党は彼を引き入れるために副委員長の椅子まで出して、入党を執拗に迫ったのです。しかし大西俊夫はそれを拒否して日本共産党に入党したのです。

 戦争直後、徳田の強力な指導の下で政治、政党支持の自由だけを条件として初めて全国農民統一戦線として日本農民組合が結成された時、運動方針を述べたのはこの大西俊夫です。その冒頭の一句は、あとしばらくの間農民闘争の主要なスローガンになりました。

 「農民解放の道は労農同盟あるのみ」で、戦後最初の総選挙で、ろくに選挙運動もやらずに大西は参議院全国区に当選しました。惜しいことに四八年に胃癌で亡くなりました。

その時、社会党・共産党・日本農民組合三者合同の、当時としてはごく盛大な合同葬儀が日比谷公会堂で開かれたものです。そして社会党を代表して党首・片山哲が弔辞を述べています。

 戦後社会党は、特に初めほど戦犯松岡駒吉、西尾末広、田原春次らが牛耳っていたためわが党との共闘を一貫して拒否して来た。にもかかわらず党は大衆運動の中で社会党員との共闘に努力して下からの統一戦線に努めた。そうした統一戦線への配慮から大西の党籍は伏せてありました。その後、彼が亡くなり党内の状況の変化のために、それがそのまま今日に到っています。

 この席を借りて、大西俊夫は徳田の下で日本共産党員として闘い、倒れて行ったと云うこの事実を明らかにしておぎます。宮本指導部にも大西の党籍を知る者がいる筈だけれど、あれだけ大きな仕事をしたのにこの土臭い革命戦士が、彼等にはてんで理解も評価もできないのです。

 最も肝心な労働運動について云いますと、そうした天皇制権力、警察権力が前面に出てきて直接干渉の圧力をかけたために、労働組合が日に日に産業報国会に解消して行く中で、比較的頑張ったのはやはり交総、つまり交通労働組合総連合……、といっても主体は東京交通労働組合と大阪交通労働組合、ところが当時大阪に跋扈していた西尾末広一派が介入してきたために、大交はやはり産報に喰われてしまった。

 最後に残ったのが東交です。東交は前に、再度全市ゼネスト闘争を敢行した経験を持っており、その参加者が全部幹部になっていました。そして本部の席は島上善五郎(その頃は本部顧問でした)。 この島上さんはご存知のように戦後社会党の統制委員長をされていますが、この徳田記念の会の理事です。

 島上さんと云い、山口さんと云徳田と一緒に木崎争議に参加された稲村隆一さんと云い、それらの方々が、その志賀さんと並んで徳田記念の会の理事になっておられるというこの事実は、一時の考え方はどうであれ、階級的な大衆闘争の流れは必然的に徳田に合流するものだと云うことを物語っています。

 当時、東交の幹部はだいたい社民的な考え方でした。けれども何と云っても根は労働者です。最近の労働組合に見られるように、どこにも大きな事務局があり、進歩的考えを持つ高級インテリが、大学を出ると就職半分に事務局に入りポストを重ねて組合官僚となった幹部とはわけが違う。だから程度の差こそあれ、みんな産報には反対であり、組合を守ろうとしたわけです。

 けれども当局よりも、むしろ警視庁・警察権力が逮捕、検挙の脅しをもって東交の産報への解消を迫ってきました。そしてじりじり退却せざるを得なくなった。そこで青年部・婦人部は「組合の存否にかかわる問題である以上、大会を開いて大衆の意思で決定すべきだ」と主張したのです。

すると警視庁側、当局側は間髪を

入れず東交の解消を申し入れてきました。最後通牒です。そこで最後案として、大会に代わる拡大執行委員会を開いて決定することになりました。まあ共産党で云えば拡大中央委員会です。

 その席上、婦人部の代表が逮捕覚悟で、 「労働組合がなくなれば、我々は完全な奴隷になってしまう。あくまで労働組合を守るべきである」という提案をしたけれど、少数で敗れました。やがて弾圧です。なぜなら、この大会自身、警察の立ち合いというよりも包囲の中で開かれたものだからです。

 言わば戦時中における日本労働組合の最後の決戦を、身をもって指導したのは長谷川浩です。

 今思うと冷汗ものですが、行動の上では、社会民主主義者であろうと、とにかく労働組合を守ろうとする人々とは極力協力するために努力しながら、時には裏では、陰口ではこれまでのようにダラ幹などと呼んだものです。残り少なくなった労働組合、農民組合つまり組織大衆の主流を横目に見て、気の合った者だけが小人数で小さく固まると云う、こうした独善主義的な、今のことばで云うと",セクト主義"、この伝統的な弱点は容易に抜けないものでした。

 その頃、徳田の思想に対する、思想や行動に対する理解は浅いものでした。それにもかかわらず浩さんが大企業に大衆闘争を発展させ、細胞の根をおろし、それを基礎に党を建設するという道を追求したのは結局、徳田の道でした。だから戦後浩さんが、徳田の指導を腹の底から喜んで受け入れ、貧るように学んだのは理の当然でした。

 それを示す笑い話を一つだけさせて頂きます。

 敗戦直後、嵐のような革命運動の発展の中で産別会議が結成されることになり、議長、事務局長に予定されていた新聞単一の聴濤克己と小林勝之が産別本部機構について相談するために本部へ来て浩さんと話し合っていた時のことです。

 その頃アメリカで比較的進歩的な労組とされたC10の活動家が何人もGHQへ来ていて、英語の達者な聴濤が彼らから話を聞き、それに倣って「産別会議にも政治部を置こう」という話になったのです。

 同じ部屋にいた徳田が飛んで来て、突然「そんなものをつくっては駄目だ」と云い出したのです。 「それは今アメリカでは共産党が解体状態にある。だから労組が政治問題を処理するために政治部を置くのは判らなくはない。だけど日本ではそんなものは有害だ。それにCIOだって幹部はみんなダラ幹だ。労働組合は判っているとおり考え方や信仰のまちまちな労働者が資本に向かって全部が団結する大衆組織なんだ。それに強いて政治的立場を固定しようとしたら、どうしたって社会民主主義的になる。そうでなくても労組幹部というものはしばらくポストに、椅子に座っていると組合第一主義になり、独自性を主張し社民的になりがちなものだ。我々はそれを防がねばならない。だから事務局はなるべく小さくして真面目に事務だけやっていればよろしい。大きな事務局を作って、事務局が組合を支配したら官僚になるに決まっている。そうした条件をこちらから作るようなことをしたら駄目だ。」と云うのです。

 近くにいた私も「何をボヤボヤしているんだ!」と叱られたものです。みんながシュンとなった。すると大男の浩さんがピシャリと首筋を叩いて、天を仰いで「また一本やられたなあ」と云って子供のように嬉しそうに大笑いしたのです。みんなが吹き出し、徳田も笑ってしまった。浩はそれで終わりです。浩さんの著作のあとがきに「この本を読んで欲しい人がもう一人いる。亡き徳田書記長だ。もう一度こっぴどく叱られたい。」と。

 徳田というのはガミガミ言うだけで理論もなく、怒鳴りつけて意見を押し付けるなどと宮本達は云うが、それは労働者の階級的感情と云うものを全く判らない者の言い草です。

 革命の陣頭に立った徳田の激励叱咤には、労働者と人民に対する限りない慈しみと励ましの迫力がすごく隘れていました。丁度、雷雨が上がった後の澄み切った青空のように、底ぬけに明るく爽快でした。

 浩さんはそれが楽しくてならなかったのです。宮本路線に別れを告げて、党を出てからも、浩さんはこの道を歩むために、大衆のためにあらゆる努力をしました。それは困難な道でした。その苦難の中に倒れて逝きました。

 浩さん! この多摩の墓地で、徳田書記長の傍らで、永遠に安らかにお休み下さい。

 当時、メモを残すことは出来なかったし、官庁報告は当てにはならないので、私のこの話には事実と出入りがある点があるかも知れません。直接関係された方の訂正を頂ければ嬉しく存じます。

 有り難うございました。
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浩さんの思い出

真の共産主義者

伊藤 律

労働運動研究 19845月 No.176

 

 釧路の獄を出て

 長谷川浩さんが六年もの非転向獄中闘争を終り、三鷹村の家に帰ったのは、一九三六年であった。その直後、彼が急逝まで仕事をしていたあの書斎で初対面した。頬や手にも、厳寒の釧路の獄での凍傷の痕が紫色に残っていた。相手を英気で圧倒せず、理論と気概で燃え立たせるその態度に、深く感銘した。半日話し合った結果、職場細胞から共産党再建の方針が定まった。

初対面でも、つながりは約五年前に遡る。当時彼の弟と私は、旧制一高の共産主義青年同盟再建を始めた。すでに転向の濁流が広がる中で、一高先輩に非転向党幹部が二人いた。志賀義雄と長谷川浩。われわれ後輩の尊敬の的であった。その頃大和村辺にあった家をも訪れ、浩さんの獄中動静を逐一聞いた。

 地下潜入後、一九三三年逮捕され、豊多摩監獄の未決監「八舎」へ送られた。その頃浩さんもここにいた。弟が、彼の宅下げした本を私に差入れてくれる。時には剥ぎ残ったレッテルに、長谷川浩の名が読みとれる。胸をおどらせた。この縁故があったから、初対面でも旧知のように話が進んだ。

 共産党再建のために

 まもなく昔産労の「少年」、岡部隆司と連絡がつく。岡部は優れた理論家で、コミンテルンとも関連があったのだ。未熟な後輩の私を加え、三人で情勢と任務を反復討論した。コミンテルン第七回大会の反ファッショ統一戦線方針、岡野・田中「日本の共産主義者への手紙」をさらに一歩深め、方針を立てた。党は在来帝国議会を、絶対主義天皇制の飾物と否定してきた。が当面の情勢に鑑み、そこにわずかでも残る自由民権運動の遺産を擁護、斉藤議員の軍部批判に代表される自由主義ブルジョアを含む広範な人民統一戦線を提起した。

 三七年夏、近衛内閣は中国侵略の宣戦を布告。一二月「人民戦線」弾圧で社民勢力をも壊滅。天皇制ファシズムの嵐が吹きすさぶ。戦争を批判しただけで「国賊」と罵られ、投獄される。進歩分子.殊に非転向者への圧力は日に強まる。だが浩さんは「オレは天衣無縫で往く」と、昂然嵐に立ち向った。

 過去党壊滅の教訓を汲み、大経営に組織の根を下ろす活動に努力を集中した。浩さんは三菱重工、国鉄、東交なぞの職場闘争と組織を直接指導。全員協力、農民、市民、学生、文化の諸運動とも連係。さらに秘密印刷機関を創設、文書を発行。その筆者は浩さん。

 嵐をさけ、密室の革命論議に耽ける傾向を厳に自戒した。困難と障害を克服、大経営細胞建設のため、誰よりも浩さんは奮闘した。当時地下グループが他にもあった。関西の春日庄次郎中心の共産主義者同盟は「武漢三鎮を守れ」と主張。われわれは大衆の意識程度に応じ、戦争の苦難に喘ぐ大衆を行動に立たせるため「即時停戦、平和を」掲げた。その他、神山茂夫中心の旧刷同組、山代ら京浜グループもあった。だが皆、街頭組織の域を未だ出ない故、連係を差控えているうち、悉く摘発された。

 天皇制権力は労組、農組その他大衆組織をも次々に圧殺。特高指揮下の産業報国会への組替えが強行されてゆく。旧党員学者すら、産報への「潜り込み」戦術を提唱する。われわれはこれを批判、あくまで労働者の団結権を守る闘争を堅持した。殆んどの労組が解散を余儀なくされ、東京交通労組が、最後の砦として残った。当局に迫られた労組幹部は一九四〇年春、中央執行委員会を開き、労組の産報への改組「見切り発車」を企てた。婦人部と青年部の大衆は、大会を頑強に要求して闘う。あげく拡大中執委会議となった。労組解体止むなしの大多数意見に対し、婦人部長は検挙覚悟で、立って断固労組を守れと主張した。侵略戦争とファシズムの嵐に抗した労働者階級の最後の組織的戦闘であった。身をもってこの闘争を指導したのが、浩さん。

 間もなく岡部、長谷川その他も逮捕。他の諸グループも弾圧。かくて敗戦まで、党は遂に立ち上りえなかった。浩さんはそれからまた約六年、獄中に陣吟した。

 戦後労働者進撃の先頭に

 一九四五年一○月、浩さんは出獄するや工場へ走った。労働者の闘争に身を投じ、その創意と経験を虚心に学び、その総括から前進の道の探求に努力した。徳田・志賀「人民に訴う」に、始まり、第四回大会の「人民管理、労働者の手による産業復興」の方針は、社会主義への道を提示した怒濤の如き労働者闘争の創意の総括であった。全国を席捲した生産管理闘争の燥火となったのは読売争議である。これは同社の鈴木東民ら進歩分子が昼休みごとに、佐和慶太郎主宰の人民社の焼ビルでの集合、協議に始まる。高野実もここの常連だった。党は労組、農民組織、大衆団体の再建につき統一戦線を志向した。そのためこの縁で、高野・長谷川会談が内密に行われた。二人の意見はほぼ一致した。が、同席した袴田里見が戦前の赤色労組方針を譲らないため、会談は実を結ばなかった。戦後労働戦線も出発点から、産別、総同盟にわかれてしまった。

 だが職場労働者の切実な要求は同一であることを、浩さんは誰よりも強調した。職場闘争の発展につれ、共同闘争を通じ工場代表者会議が拡がり、関東労協に結集された。ポツダム宣言に抵抗する幣原官僚内閣は、食糧、職、家、生活品の極度欠乏に苦しむ入民大衆の憎悪の的となる。自由、社会、共同、共産で、内閣打倒四党委員会が結成され、政府を総辞職に追い込んだ。その力量は大衆の激烈な闘争と広大な統一行動である。それは関東労協を中心に関東農民協、市民の食糧よこせ団体を結集した関東食糧民主協議会を主軸として展開された。この基礎の上に、戦後初の統一メーデーが、続いて食糧メーデーが盛り上る。吉田茂が一旦組閣を諦めたほど、労働者を先頭とする人民大衆の革命の波は全国に高まった。

 第一次吉田内閣の成立は、連合軍による上からの民主改革の終焉を意味した。アメリカは天皇の戦犯を免除、労働者の生産管理を禁止、独占資本支持にまわり、鉾先を人民大衆に転じた。爆発した日本人民の民主革命と、上からの民主化を狙う連合国軍との〃束の間の蜜月〃は終った。それは民主化の主導権を誰が握るかの激烈な闘いの時期であった。その勝敗は日本敗戦の時すでに決着していたのだ。土地改革を含むこの時点でわが国階級関係は完全かつ根本的に変化した。革命の性格は社会主義へと進展した。 〃密月〃の破綻は米日反動派協力関係の出発点、やがて帝国主義軍事同盟に発展する。

 米占領軍は労働者が社会主義へ半歩でも踏み出すのを決して許さない。すでに四月六目首相官邸包囲の大デモは占領軍との最初の衝突となる。徳田書記長と長谷川はその先頭に立った。GHQはこれを「暴民デモ」と禁止。だが労働者階級は米日反動派の合作攻撃を果敢に迎撃した。国鉄、海員の闘争から産別の十月攻勢を経て、全官公庁中心の共闘六百万人の二・一ゼネストへと突進する。全官公労を軸に産別、総同盟を含む殆んど全国の労組参加の「全闘」が結成される。さらにこれに日農その他社会党左、中間派と党を加え、倒閣実行委員会が発足する。全国に赤旗が翻り、騒然とした革命気運が国中にみなぎった。占領軍はついに、総司令官命令をもって禁止。労働者階級が議会民主を乗り越え、社会主義へ踏み出そうとしたこの歴史的闘争は、悲痛にも挫折した。アメリカ帝国主義は日本人民にキバを剥き出したのだ。

 占領下の反撃と最後の決戦 党の戦略不明確とゼネスト挫折にもかかわらず、労働者階級は不屈であった。党は挫折の教訓を汲み、経営細胞強化に依拠、職場闘争に基づく地域人民闘争戦術をたてた。その提起者はやはり徳田と長谷川。武装した権力、占領軍と政府に対決しうる革命への道である。この党生活刷新は大衆の信頼を高め、四九年一月の総選挙で、党は三六の衆議院議席をかち取った。大衆はこの方針の下、反撃に立ち上った。全逓労働者は職階制賃金に反対、占領軍の干渉に抗し、全国を東西に二分、交互のストを打ち、最低要求を獲得。官公労組のスト権を剥奪する政令二〇一号に反対、国鉄二機関区で一斉職揚放棄、民族独立行動隊が全国を駆ける。

東宝砧閉鎖に反対、全従業員が撮影所を占拠、遂に戦車の出動となる。四九年に入ると、都公安条例反対の大衆デモが機動隊と激闘、東交の橋本金二が虐殺される。これに抗議する政治ストが決行される。十万人猷首に反対した国鉄労働者はスト、人民電車運行で闘う。東芝では企業整備と対決、生産管理或は地域ぐるみの産業防衛闘争を組織した。日鋼広島の闘争を支援した殆んど全県労働者は、占領軍の干渉に抗議、ストとデモを敢行。その他各地で激烈な反撃が展開された。

 しかし下山、三鷹、松川の謀略弾圧のもとで、国鉄・全逓十数万人の大量馘首に続き、一連の大企業整備が強行されてしまう。労働者大衆の壮烈な反撃は敗北に終った。敗北したとはいえ、これまた歴史に残るこの反撃闘争の前線指導者は二ニスト同様、浩さんだった。

 この反撃と翌五〇年の階級決戦は、重大な意味をもつ。米日反動派は戦後労働者が闘い取った諸権利と成果を悉く剥奪し、独占資本の復興と帝国主義復活を急いだ。そして米帝国主義が中国人民革命を圧殺、ソ連への突撃路を拓くため、朝鮮戦争の前進基地日本の地馴らしであった。レッドパージ先進分子の追放、労組の骨抜きと右傾化が襲いかかる。労働者はこれに抗し、生活と権利を守る決戦に立ち上った。まず八幡製鉄労働者が二〇目間のストを敢行。炭労、全鉱のスト、電産の反復電源スト、さらに全造船も参加。官公労を除く殆んど全産業の労働者が立ち上った。特筆さるべきは日立総連の三カ月に亘るスト、管理闘争、全自動車の六月三日全国統一ゼネスト提起だろう。それは全国労働者と基層党員の頑強、果敢そして決死の決闘であった。だが、この階級決戦も敗北に帰した。

遺憾にも、当時徳田は病身、長谷川は大阪駐在、労働者のこの決戦の指導に当れなかった。

 常に労働運動の最前線に

 長谷川は戦後五〇年まで、党政治局で一貫労働戦線を担任した。徳田主宰の組織活動指導部の実質的責任者は、彼であった。長谷川は殆んど党本部に座っていなかった。幹部室にも長谷川専用の机はなかった。激烈な労働争議の現揚には、殆んどと言ってよいほど、必ず頑丈な軍靴姿の彼がいた。浩さんは日々労働者と共に、文字通り寝食を忘れて闘った。歴史的な二・一ゼネスト前夜における彼の活動は正に獅子奮迅。その戦闘の雄姿は、今なお瞼にありありと浮ぶ。

 この五年間は、日本革命未曽有の高揚期であった。浩さんにとっても生涯中、最も思いざま活躍、他の時期何十年に匹敵する豊富な貢献と経験を積み、自らも急成長した時期であった。

 ニ筋の路線の闘争の中で

 労働者が生産管理と二・一ストで社会主義へ前進を求めたにも拘らず、残念にも党は革命の性格変化を的確に掴めなかった。四六年二月、五回党大会での野坂提案による大会宣言は、平和的な民主革命と規定した。この誤りは単に野坂一個のものではなかった。当時はまだ連合軍と日本人民は、民主化をめざす同床異夢の〃蜜月〃にあった。上からの改革に幻惑された小ブル思想が党内にも氾濫したのだ。が徳田はこの大会での一般報告中、組織的実力で敵を追い詰めねば平和革命は不可能と指摘。八月の中総報告では、議会主義的平和革命論は社会民主主義への屈服と強調。四七年六回党大会で、野坂政治テーゼ上程は阻止された。

 明らかに相対立する二筋の路線が党内に存在した。そして野坂理論は実質上克服された。勿論、党内矛盾と路線闘争は不可避であり、それを通じてこそ党は強化、発展する。しかし、これまた残念にも、それが確認されず、理論的に提起されず、思想根源に亘る全党討論による明白な決着が着けられなかった。その結果は五〇年問題から今日にまで尾をひいている。このため殆んどの覚員が両路線混合の誤りに陥った。のち、野坂理論を継承発展させた路線が展開される。その中で、浩さんは誤りが最も少なく、野坂帰国前の四回党大会の路線を守った稀有の幹部の一人なのだ。それは彼が常に労働者の中で闘った実践家の故である。戦後、党の再建と破竹の進展は、労農大衆の革命闘争と結合して実現した。大衆運動から遊離したお説教や文案とは無縁に再建され、発展して来た。

 浩さんは終始党が労働戦線を指導する最前線の部署を守りつづけた。

 五〇年問題と長谷川浩

 五〇年の混乱は党の宿病と矛盾の爆発だった。意見分岐が組織分裂に発展したのはなぜか? これはおざなりの責任論や規約手続論では解決できない根本問題である。

 一九四九年国鉄、全逓に始まり、全産業に亘る苛酷な合理化と大量馘首。

続く五〇年の企業大整備と「赤追放」。それへの反撃と決戦の敗北により、労働者階級は深い打撃を蒙った。党は基幹大経営における基盤を失い、大衆から浮上った。大衆闘争を共にする実践中、意見分岐を克服する基盤が極度に弱まった。しかも全労働者と基層党員が陣営の命運を賭けて決戦している時、党中央はこれを見殺すかに、論争に明け暮れしていた。党中央、国会議員、アカハタ、経営細胞への大弾圧に対してすら、大衆的抗議闘争を展開し得なかった。

 分裂を防げなかった根底がこの点にあったことを、浩さんは身を切られる思いで痛感した。

 五〇年分裂問題は、二派対立の図式で割切れるほど単純ではない。申央幹部の誰一人その責任を免れえない。だが徳田「串刺論」対宮本「全一支配」論争の決着は、歴史が既に着けた。ただ組織上の措置については、多数派の責任が当然より大きい。が政治、書記局中、最もその誤りの小さかったのは浩さんだろう。本部にいなかったせいもあろうが、主に共産主義者らしい品質による。

 浩さんは、(一)物事を極力全面的見るに努め、(二)卑劣な個人攻撃を恥とした。五〇年問題以来、多くの幹部が互に個人攻撃を事とし、大衆も組織も忘れ去った。浩さんは身命を献げた党に挟別するに際しても、誰をも罵らなかった。党綱領の根底にある「異質の思想」を鋭く批判して去った。日何より重要なのは、労働者階級に無限の信頼を寄せ、革命的熱情を傾けて献身し、その陣頭に闘いつづけた。五〇年潜行後、政治局員でありながら島流し同然、九州で苦難にみちた地下活動の五年を送る。この時期においても彼はまたそうであり、惜しみなく大衆と党に献身した。

 当時党と革命に重大な損害をもたらした極左偏向は、その実かつて国際批判を浴びた民族主義的日和見路線の根底にあった小ブル思想の裏返しであった。しかも基幹産業労働者の基盤を失った党中央の「左」への動揺であった。

浩さんは終始この極左偏向と闘った。

 浩さん 永遠に労働者階級の胸の中に生き、闘ってくれ。

 

長谷川浩略年譜

一九O(明治四〇)年 八月六日 東京市小石川区大塚仲町二九番地に生れる。父篤、母ため、九人兄妹の長男。

一九西(大正三)年 四月 入新井村立入新井尋常小学校入学。当時、東京府荏原郡入新井村不入斗に在住

一九二〇(大正九)年四月東京府立第五中学校入学。当時、小石川区林町に在住。

一九二五(大正一四)年 四月 第=局等学校入学。当時、府下北豊島郡巣鴨町上駒込に在住。

一九二六(大正一五年 秋 一高社会科学研究会に入会。

一九二八(昭和三)年四月東京帝国大学法学部に入学。同月、無産者新聞社社員、秋から荏原支局員となる。

一九二九(昭和四)年 四月 無産者新聞荏原支局責任者。十月 第二無産者新聞の関係で検挙、拘留ニカ月余、起訴猶予。

一九三〇(昭和五)年三月第二無新本社勤務に移る。八月 第二無新責任者となる。日本共産党に入党。

一九三一(昭和六)年 三月三十一日 検挙、警察から豊多摩拘置所へ。

一九三三(昭和八)年 十二月 裁判確定、治安維持法違反で懲役四年、釧路刑務所に服役。

一九三六(昭和二)年六月釧路刑務所を出所。

一九三七(昭和三)年九月岡部隆司、 伊藤律らとともに目本共産党再建準備委員会を組織、反ファッショ人民戦線の路線で反軍闘争、反産報闘争をすすめる。十一月 仙波信三郎の金剛機械に入社。(砲弾製作)

一九三八(昭和三)年 十二月八日 長沢八重子と結婚。

一九四〇(昭和一五)年 六月二十入日 検挙、日本共産党再建準備委員会壊滅。七月十二日 長男洗生れる。

一九四二(昭和一七)年 保釈出所。

一九四三(昭和一八)年 九月 治安維持法違反で懲役六年が確定、下獄。横浜刑務所で服役。

一九四五(昭和二〇)年 十月六目 横浜刑務所から解放される。ただちに日本共産党に復帰、戦後の再建運動に参加、東京都で労働運動に入る

一九四六(昭和二一)年 一月 関東労協(工代会議)を組織。二月 日本共産党第五回大会で中央委員に選出。八月 産別会議組織。共産党政治局員となる。

一九四七(昭和ニニ)年 一月 二・一スト指導。

一九四八(昭和)年 三月 全逓三月闘争指導。

一九四九(昭和二四)年 三月 政治局員として関西常駐となる。

一九五〇(昭和二五)年一月京都市長選挙、京都府知事選挙を指導。六月団体等規制令による公職追放。地下に潜行し、中国地方に派遣される。八月 帰京。

一九五一(昭和二六)年 二月 共産党第四回全国協議会に出席、九州派遣常.駐となる。十月 共産党第五回全国協議会に出席。

一九五五(昭和三〇)年 四月 福岡で潜行中を検挙されたが、直後に団体等規制令廃棄で釈放。七月 共産党第六回全国協議会、中央委員を辞任する。

一九六〇(昭和三五)年  六月 党青年学生部長として安保闘争を闘う。ハガチー来目抗議の羽田空港デモを指揮。暴力行為、不法監禁、威力業務妨害などの罪名で懲役一年、執行猶予三年。

一九六一(昭和三六)年 八月 共産党の綱領草案に反対し、新しい大衆的前衛党の結成をめざして離党、社会主義革新運動に参加、全国委員となる。

一九六七(昭和四二)年 二月 共産主義者の結集と統一をめざす共産主義労働者党に参加。

一九六九(昭和四四)年 五月 共労党第三回大会で極左方針に反対し、労働者党全国連絡会議結成、全国委員。九月 労働運動研究所の創立に参加、代表理事となる。以後、死の直前まで『労働運動研究』に多数の論文、記事を発表して、戦闘的労働運動の再生に尽くす。

一九八一(昭和五六)年九月統一労働者党結成、全国委員。

一九八四(昭和五九)年二月二十五目心筋梗塞のため三鷹中央病院で死去、七十六歳。


二・三の思い出

浩さんの思い出

 

遊上孝一

 

 

 社会主義革新運動は一九六一(昭和三六)年に創立された。

 少数派運動の常として、その財政は火の車であった。そのころ、長谷川浩は古い友人から月二万円のカンパをうけて、必ず入れてくれた。それは恒常的に期待できるものとして、尊い財源であった。また、三一書房から出した「戦後日本労働運動史」の原稿料も全部出してくれた。また活動費の遅配に苦しんでいた内藤知周に年末に封筒をそっと手渡しているのをなん度かみた。彼の人柄がしのばれる思い出である。

 

 一九七四年の内藤知周の死から十年が経過した。内藤の追悼を機に、労働者党全国協議会は社会主義革新運動結成いらいの総括の必要のあることを確認した。そのためのたたき台ともいうべき素案づくりを、長谷川浩、内野壮児、わたくしの三人が担当することになった。

 われわれ三人はそれについて話しあった。意見は交換したが、各人の責任で執筆することになった。わたくしは社会主義革新運動結成時の反省を、内野が統一社会主義同盟との分裂から六三年の第三回全国総会までを、それ以後を長谷川浩が分担した。

 内野とわたくしは執筆して、それぞれ『労働運動研究』誌に発表したが、長谷川はかたくなに執筆しなかった。彼は元来、原稿執筆を気軽にひきうける性格の人であった。その彼が、三人の問の意見交換でも発言が少なく、最後まで執筆しようとはしなかった。

 社会主義革新運動の分裂。 一九六六年「共産主義者の結集と統一をめざす全国会議」が開催されたが、翌年の共産主義労働者党結成大会では「日本のこえ」派の不参加という結果となり、六九年には共労党自体が分裂した。

 このように、こと志とちがって、わたくしたちにとっては、もっとも暗い時期であった。

 長谷川にとって、この時期はやるせない、心身をすりへらすような時期だったのではなかったかとわたくしには思える。

 三人の会話のなかで、長谷川は「社革以来、われわれは平和運動を除けば、なんら大衆闘争にとりくんで来なかったのではないか?」と発言した。彼らしい意見であった。 「そういう観

点から書けよ」とうながした記憶がいま鮮やかによみがえってくる。

 労働運動研究所の創立は一九六九年秋であった。内藤知周も元気の時であった。

 研究所の趣意書の原案は長谷川が書いた。そのなかに日本共産党は第八回大会で変質したと断言した個所があった。

 彼はそう確信して離党したのは事実である。しかし、この断言は必ずしも参加全員の意見とみるのには無理があった。まして、それを趣意書に盛ることは、八回大会以前に党を離れた人(除名などの処分によるものも含む)、あるいはそれ以降に離れた人にも門戸を公平に開くという意味では適当でないという発言が出た。そして、その点は彼自身の手で修正された。

 しかし、長谷川自身は十五年近くを経ても、この主張を死にいたるまで確信していたと思う。

 「目本共産党の変質」の時期の確定はこれからも続く歴更のなかで検討すべきであり、 「変質」の内容についても必ずしも一致があるわけではない。

そのためには労働運動研究所内部だけでなく、ちがった価値観をもつ多様なグループや人びとの協力をえてのみ、なしうるのだとわたくしは考えていた。私的対話のなかで、彼の意見を貴重な一つとして尊重する態度をとりながら、討論を重ねたことがたびたびあった。

 しかし、彼は自説を断固としてゆずらなかった。

 われわれの仲間のうちで、長谷川ほど多様な意見をもつグループ、とくに青年たちと交流のあった人は少ないと思う。彼の自説へのかたくななまでの自信はちがった意見の人たちとの交流を妨げなかった。

 ここに、長谷川浩のすぐれたオルグ的性格があるようにわたくしには思える。

 何年か前に長谷川とわたくしの日本共産党本部勤務以来の親しい友人、永山正昭の奥さんが亡くなられた。その後の年賀状に、永山は「浩さんもあなたも元気で働けるのは夫人が健在だからのように思う」という意味のことを書いてきた。

 長谷川のお宅を訪ねたとき、この年賀状のことをわたくしが話したら、八重子夫人は、言下に、 「その通りですよ」とわが意を得たりとばかり断言された。

 わたくしは夫人のこの断言にたいし、彼がどう反応するか興味をもって見守ったが、彼は苦笑するばかりで一言もいわなかった。

 彼の長い活動を支えて下さったのは八重子夫人である。わたくしのこの意見に地下の長谷川は心からうなずいてくれるにちがいない。

 

 

 

 


貴 重 な 忠 告

村岡 到

 

 はじめて長谷川浩さんにお会いしたのは、一九七九年末であった。当時、私は第四インターの「世界革命」編集部にいて、私が発案した新企画「交流―異った視点から」という隔週のシリーズの第一回目に登場していただこうと考えて、おねがいのため、三鷹駅前の喫茶店でお会いした。 「『三里塚史観』からの脱却を」と題するその論文は、 「世界革命」の八○年の新年号に発表された。

 長谷川さんはこんな風に忠告している。

 「もし、 『革命は三里塚から始まる』といって、そこからのみ革命が発展すると考えるなら、それは少し行き過ぎだろう。……全体の観点に立って三里塚闘争の意義をも明らかにしないと『三里塚史観』ともいうような誤りに陥りはしないか」

 七八年の三・二六管制塔占拠闘争の歴史的勝利の主導者として、第四インターは三里塚闘争をたたかっていたが、五・二〇開港のあとの新しい局面での闘争方針が不確定なまま、ここにいわれるような傾向をかかえながら模索がつづいていた。この長谷川さんの見出しについても、いささか挑発的でもあり、編集部のなかでも議論があったが、私は、長谷川さんがつけた題だということで押しとおした。

 その後、私が第四インターをやめてから、『現代と展望』という小雑誌を発行し、その四号(八二年一月)に、広谷俊二さんとの対談「戦後階級闘争と日本共産党」をのせるため、お二人に話していただいたことがある。

 実はその前にもう一度、第四インターの幹部合宿で七九年の夏に、講師として遠くからお話をきいたことがあった。二・一ストの教訓を語ってくれた。一点の火の会合でも何回かお会いした。

 いずれの場合も、労働者の生産現場でのたたかいにこそ基軸をすえる必要があることを、じっくりと静かにさとすように話す語り口が印象的であった。

 階級闘争の鉄火場をくぐりぬけた体験にふまえて、若い活動家の不可避的な行き過ぎに忠言を与えてくれる数少ない貴重なオールドボルシェヴィキがまた一人なくなられたことは、きわめて残念なことである。

       (政治グループ稲妻)


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二・一スト前後 伊藤律