表紙の絵は、生涯、「南部古代型染」という伝統的な染色工芸の道を歩まれた、故小野三郎氏の「本願の笛」である。

「私には絵の素質がきわめて薄いが、見る(鑑賞)ことは人一倍好きである。見たり聞いたりすることは、商売柄まことに必要であるし、どんなに下手でも、直し直し間に合わして描いてはいるが、花鳥はどうしても得意技ではなく、あまり進んで描いてはいない。子供の絵となると、瞬間に一筆で描いてしまう。もちろんまずい絵ではあるに違いないが、可愛らしい絵にちかく描かれているから、自分でも秘かに笑いがでてくる。君の絵のモデルはと聞かれるが、十何人も群がる孫達のことですもの、どの顔がモデルでしょうと答えるが、しまいに仏様の顔になっている。お経の話のなかにでてこられる、弥勒菩薩にせよ、善財童子にせよ、仏様につくられるお顔が、なんと柔和のことよと、思わず自分の顔も微笑みがもれるようになる。私が童子、童女のお顔を描くときは、自分もそうした表情になっているだろうと、思うのである。」(『南部古代型染一代』牧野出版より)

「本願の笛」の音は、十方に響流し、人間の自由と平等を願いとする仏の心を奏でている。そしてその願いに生きよと呼びかけている。

 

vol.3

 

人権センター叢書

 

「核」と人類は共存できない

 

一一被爆者の思い

 

米澤鐵志氏

 

大谷大学人権センタ

 

    は じ め に

 二〇〇五年度第二回の"人権問題を共に考えよう"全学学習会は、戦後六〇年という節目の年であることから、テーマを「戦争と人権」として開催した。今回は、人権教育推進委員会委員第二部会と第三部会の委員による企画の話し合いの中からこのテーマを選んだわけである。

 しかし「戦争と人権」という如きテーマは余りに多くの側面をもつ広いテーマであるから、「原爆」、ひいては「核」という問題にしぼって、さらに、被爆国であるという視点から、直接に原爆の被害を受けた方のお話を聞こうということになった。なにしろ、広島、長崎の原爆投下から余りに長い時が流れ、被爆された人々の中で戦後を生き抜いてこられた人も、その時新生児だった方がすでに六〇歳なのだから、とにかく元気でおられるうちに、直接お話をきくのがいいということに決した。

 講演とともに、人権週間期間に響流館一階で、『原爆展パネル 原爆と峠三吉の詩』の写真を六〇枚ほど展示することにした。これは数年前に大学として購入していたものであったが、初めて展示する機会を得られることになった。

 講演会講師の米澤鐡志さんは、京都府下(宇治市)在住の被爆者であり、自らの被爆体験を

 

 

 

通して、「核兵器」、さらには「核」そのものの廃絶を訴えておられる方である。小学生時代に、なんと爆心地からわずか七〇〇メートルのところで被爆されたという。それにもかかわらず今日まで生きてこられたことは、まさに"奇跡的"という言葉で表現すべきようなことであろう。

 お話は、生々とした爆心地の悲惨を彷彿させてくれるものであり、身をもってその中をかいくぐってきた人でなければ表現できない臨場感にあふれたものであった。参加者はお世辞にも多いとはいえない人数(一二〇人余)であったが、みな集中して聞き入っている様子が見て取れた。

 当初の計画では、このご講演の記録を昨年度中に発刊したいと考えていたが、諸般の事情によって発刊が余りに遅れた。その責任は私に帰するものであるが、ご講師の米澤さんはじめ、記録の発刊を待っていてくださった方々に、心よりお詫びする次第であります。

 北朝鮮の核実験という事態に直面している今、米澤さんの、文字通り「命がけ」のメッセージを深く心に蓄えたい。

 

大谷大学人権センター長  泉

 

恵 機

 

「核」と人類は共存できない

 

一被爆者の思い

 

 

 それで本日の第二回目、ちょうど戦後六十年ということでありまして、「戦争と人権」というかたちでもう一度この戦争といいますか、特に今回パネル展もしておりますが、原爆ということに焦点を当てたこういう学習会を企画させていただきました。第一回目が部落差別というふうに言いましたが、「差別」とか「憎悪」、そういうものを最も激しいかたちで引き起こす、それが戦争でもあるというふうに思います。そういう戦争が引き起こした結果としての原爆であろうかと思いますが、そういうものの無残さというものを我々は、もう六十年経っているわけですけれども、やはり忘れてはならないであろうと思います。今ギャラリーの方でパネル展がありますけれども、私も今日見ました。その中に峠三吉さんの詩と一緒に写真が展示されておりますけれども、もう一人、磯永秀雄さんの詩も最後の方にありました。ちょっとそこで印象に残った言葉があります。『一〇年目の秋に』という詩の一部です。

  あなたが誰より日本を愛する方であるなら、あなたはきっとこういわれるはずだ。

  「私の願う恒久の平和は、戦争を放棄する固い約束の上に立っています。」と。

また、

  私は聴きたい。生きた声を。人間の声を。「私の願う恒久の平和は、戦争を放棄する固い

 

  約束の上に立っています。」と。

と、こういう言葉で詩を載せておられます。我々のこの日本社会の今日までの歩みということを考えてみますと、本当に戦後確かにこの「固い約束」の上に立って始まったことではないかと思うわけです。その恒久に平和を願い、戦争を放棄する「固い約束」の上に立って始めた、ささやかな歴史かもしれませんが、そういう歴史であったはずなのだけれども、それを戦争の悲惨さというものを忘れたかたちで、またいつの間にかその「固い約束」を忘れて、なし崩しのようなかたちで社会が動いていってしまっているのではないかと、そういうことを悲しく思うわけです。そういう意味で私たちは本当に人間が引き起こしている悲惨、そういうものの事実というものを忘れないで向き合うことで、初めて「戦争を放棄する」ということの約束に立ち返られるのではないかなあと思いますし、それがまた私たちの課題でもあります。この「部落差別」という差別の問題でもみんなその一つの事実というものをはっきりと知ると、そこからしか本当に問題が解けていく道というものはないだろうというふうにも思います。

 それで今日は、直接被爆者であられます米澤鐵志さんをお迎えしました。被爆体験というものを、どういったらよろしいでしょうか、今生きておられる方は少なくなってしまった中で、

 

 

一〇

 

また語ってくださる方は本当に少なくなってしまっているわけです。そういう意味でこの機会にぜひ米澤さんにその被爆体験を通して、戦争の問題、核の問題について語っていただきたいなあと思っております。それで今日は「「核」と人類は共存できないー一被爆者の思いー」という題でお話していただくわけですけれども、その講師の米澤さんのプロフィールですけれども、現在、京都府原爆被災者の会の宇治支部の役員、或いは平和の会の宇治の世話人をしておられる方でありまして、一九三四年八月に広島にお生まれになり、小学校五年生のときに被爆されたと。そして生と死の境をさまよわれたのですが、奇跡的に命を取りとめられて、そしてそれから原水爆禁止平和音楽祭に参加されたり、また小学校、大学、病院、各種集会等で被爆体験を語り、非核・反戦を訴えつづけておられるというふうにお聞きしております。私はそれ以上の紹介は控えさせていただきまして、米澤さんご自身の方でまた語ってくださるかと思います。

 どうぞ皆様最後までご静聴いただきますようお願い申しあげまして、挨拶とさせていただきます。

 

(司会者)

 先ほどもちょっと米澤さんとお話したのですけれども、今パネル展を開催していますけれども、米澤さんのお話では峠三吉さんというのは、米澤さんのお父さんが診察をされていたこともあり、小さいときから知っておられるということもお聞きしましたので、何か偶然というか、そういう感銘が深かったわけですけれども、それでは今から「「核」と人類は共存できないー一被爆者の思いー」と題しまして、米澤鐵志さんにご講演をお願いいたします。それでは、よろしくお願いいたします。

 

(講師"米澤鐵志さん)

 こんにちは、ご紹介いただきました米澤でございます。私は先ほどご紹介いただきましたように、一九三四年八月七日に生まれまして、今年で七十一歳になります。小学校五年生のときに広島の八丁堀で爆心七五〇メートルのところで被爆しました。それについてお話しするわけですが、そのころの日本の状況から少しお話したいと思います。

 日本の地図というのは、今は北海道から沖縄までがおそらく赤く塗られていると思うのです

 

が、私が小学校に入る、いや物心がついたころには、赤いのは日本だけではなかったのです。

台湾がそうです。今の韓国・北朝鮮もそうです。それから中国の東北に満州国という国があって、そこも真っ赤に塗られておりました。そういうかたちで「日本一高い山は富士山」というふうに言いながら、一方では「日本一高い山は新高山」と、台湾にある四〇〇〇メートル級の山だと思うのですけれども、そんなことが言われていた時代でした。私が生まれる前、一九三一年に柳条湖で列車爆破事件がありました。これが有名な「柳条湖事件」です。中国では九月十八日というと、その日を日本の「侵略の日」として心に留めて、いろいろな行事をされるというふうに聞いております。翌年には「満州事変」というのがあって、日本は傀儡の満州国というのをこしらえるわけです。それからは次々に「上海事変」、「重慶爆撃」、「南京攻略」というかたちで中国全土に進出していきました。満州国を建国すれば、中国の人たちは自分の国を土足で踏まれたわけですから当然抵抗の運動が起こる。今度はそれを抑えるために日本は軍隊を次々に侵攻させていかなければならないということで、あの広い中国全土に戦線が拡大されていきました。ですから日本では、若者たちはほとんどが徴兵され、中国の戦場に行きました。

当時は日本は農業国だったのですが、働き手が次々戦争へ行くものですからだんだんいろいろ

 

なものが不自由になってきます。結局、いろいろ政府が統制をしていかなければならないということになっていきます。皆さんのところに私の講演のレジュメみたいなものをお配りしていますが、一九四〇年、その年皇紀、紀元二六〇〇年といいまして、天皇の代の皇紀では二六〇〇年、昭和十五年ですけれども、このときにはもう日本中が提灯行列をして、「満州で勝った」、「南京で勝った」というような祝いをしたわけです。ところが実際には国内では食べるものが非常になくなってきてみんなが貧しい思いをしました。お年を召した方はおわかりになると思いますが、若い人たちは想像できないと思うのですが、本当に食べ物がなくてバナナ一本食べられたらどんなに幸せだったか分からない、それから卵がどれだけ貴重なものだったかということを若い皆さんの中にはご存じない方が多いと思います。例えば飴玉一つとっても、今のようなおいしい飴玉というのはありません。グリコのキャラメルなんていうのは本当においしい飴でしたが、しかしなかなか庶民には手に入らなかったのです。それでイモで作った飴玉みたいなものが私たちの口に入るような程度でありました。

 そういう中で戦線は拡大されていって、国民は非常時といいまして、非常事態の中でたいへん窮屈な生活をしていたわけです。ところが、中国で戦線は非常に拡大したにもかかわらず、

 

一三

 

一四

 

一九四一年の十二月八日には真珠湾を奇襲攻撃して、とうとう太平洋戦争に突入していきました。そうすると中国戦線だけでも充分もてあましていたのに、国内はますますたいへんになったと思います。一方、戦線の方ですけれども、真珠湾攻撃でアメリカの艦隊に一定の影響力を与えたために、最初は「勝った、勝った」で国中が沸き立ったのですが、しかし翌年の夏のミッドウェーの海戦では日本海軍は大きな打撃を受けるわけなのです。日米戦争が始まって半年そこそこでもうそういう逆転に近い打撃を受けたわけです。

 そうなると日本では、ますます戦争に勝つために何としてでも「一億一心総火の玉」で戦争やらんとあかんという教育が進められました。紀元二六〇〇年ごろから「配給制」というのが始まったと思いますが、そういうもので米・味噌・砂糖とかの日用品などが全部「配給制」になっていくというようなかたちになりました。それで特に太平洋戦争に突入してからは、金属というものが全部回収されまして、鍋・釜にいたるまで供出させられたわけです。それで土釜というのがありまして、それまでご飯を炊いていたのはお釜で炊いていたのですけれども、金属を出してしまったために土で作ったお釜、そういうようなものが作られたり、それから小学校一年のときに、今の軟式庭球のボールみたいなまりがクラスで一つか二つくじで配給になっ

 

たり、それから記憶にあるのは下駄靴というのがありました。ゴムがないものですからズックの裏に木が打ってあるもので、それを下駄靴といって履いていました。そのころできた標語が「欲しがりません勝つまでは」と、勝ちさえすればいろいろなものが食べられるし、大東亜共栄圏、「アジア解放」といったわけですけれども、アジア全体を解放すれば食べるものはいくらでもできるのだと、だから「欲しがりません勝つまでは」ということを本当に子どもにまで徹底して教えられるような状況でした。

 それで戦争が非常に激しくなってきて日本全国がだんだん空襲を受けていくわけですが、一九四三(昭和十八年)年には私の父も三十六歳で召集されました。私の家は広島で五代続いた医者の家で、父も医者で、当時県の衛生部に勤めていたのですけれども、もうその頃の三十六歳というと今の五十歳以上の感じです。そういうのも軍医として召集されて、翌年にはフィリピンに派遣されました。そんな具合で国内は非常にたいへんな状況になっていきます。ですから食べるものがますます窮乏していきました。なかなか配給といってもほとんど下まで回らないわけで、私の記憶にあるのは雑炊、とにかく薄いお米がほんの少しの中に野菜やいろいろなもの、大根の葉っぱとか、それこそ竹の子だったら竹みたいなやつまで入れてあるのを雑炊と

 

一五

 

一六

 

して街角で配ると、みんな鍋を持ってその雑炊を買いに行く状況でした。本当に食べるものがなくて、子どもたちはみんなあばら骨が浮き出て、ほとんどの子どもが今のアフリカの子どもたちと同じような感じでした。空襲が日常化してきて、広島には呉というところがありまして、      こうしょうそこには海軍工廠があったり、その向かいの江田島には海軍の基地があったりしました。ですから戦争がだんだん緊迫してくると、呉には毎日空襲がくるわけです。広島市内から見ていたら、呉の空がもう真っ黒になるくらいBー二九が飛んできて、そして爆弾をボンボン落とすわけです。それに対して日本は高射砲をポーンポーンと撃つのですけれども、悲しいかなBー二九はだいたい七〇〇〇メートル〜八○○○メートルぐらいのところを飛んできて爆弾を落とすわけで、高射砲は五〇〇〇メートルかそこらぐらいまでしか飛ばないわけです。ですから撃っても空弾ばかりで、上で黒い煙をしてパッパッと散るだけで、飛行機は落ちてこなくて、高射砲の破片が逆に落ちてくるような感じだったです。ですから当時の日本は、もうたいへんな状況に至っていたように思います。その頃から毎日のように警戒警報・空襲警報というのが出まして、サイレンがなって「呉鎮守府長官発表」というような『大本営発表』があるのですけれども、「今敵は、どこどこ海峡を上って北進中」というようなかたちで、それで警戒警報が出

 

て、それから実際空襲がある場所では空襲警報が出るということになるわけです。そうすると小学校では、警戒警報が出るとすぐ下校なのです。一番記憶に残っていますのは、朝弁当を持って、始めは「日の丸弁当」、皆さん「日の丸弁当」というのを知っていると思いますが、今」

飯の中に、ご飯といっても白いご飯でなく、麦ご飯の中に真ん中に梅干一つ入っているのが「日の丸弁当」ですが、「日の丸弁当」というのは本当に太平洋戦争が始まる前ぐらいまでです。

それから後はほとんどご飯らしいご飯は食べられなくて、最後には先ほどいった弁当の代わりに雑炊を持って学校に行くと、それが警戒警報が出てきたらその弁当を持ったままで帰ってきた記憶があります。戦時下の状況というのは、そんな感じでした。

 一九四四年の暮れから、大阪・東京をはじめ大都会の空襲が始まりましたので、一九四五年、ついに国から子どもたちに対して学童疎開、「疎開令」が出たわけです。それで四五年の四月には子どもたちは、田舎に親戚がある人は「田舎に行け」と、それから出征家族なんかで母子家庭みたいな人は田舎に親戚があれば「疎開せよ」というのが出ました。それでも行くところがない生徒については、三年生から六年生まで「集団疎開」というかたちで学校単位で疎開させられたわけです。それはだいたい各学年七ー八名ぐらいですか。ですから四学年で三十名ぐ

 

一七

 

一八

 

らいの規模でその子どもたちが、田舎に集団疎開させられたわけです。私も山県郡の安養寺というお寺に疎開させられました。そこは広島からずいぶん離れたところで可部の奥から汽車で降りて長い時間かかって行く田舎でした。そこに疎開したけれども、一年生は親から離れるのは無理だということで親の元に残りました。小学三年生・四年生というのは本当に子どもですから親と一緒にいないと夜になったらみんなメソメソするし、それにつられて全体が暗い暗い雰囲気になってくる、おなかは空いてひもじいということでどうしても暗い感じになってくるところに、当時の教育というのは完全な「暴力教育」ですから、一つでも従わない人には遠慮なしに竹刀なり、或いは木刀で殴るというような感じでした。ですから本当にみんなたいへんな思いをしました。こんなことがありました。我々が疎開していたお寺の裏に池がありまして、そこに鯉が養殖されていたのです。そうしたらたまたま我々が疎開して何日か経ってのこと。

鯉の餌がさなぎです。チヌを釣ったりするのに使う鯉の餌ですが、足を取ったゴキブリみたいなさなぎがあるのですけれども、そのさなぎを一つ取って誰か食べてみたのです。そうしたらおいしかったのです。それで「さなぎがうまいそ」というような話が出まして、それで五〜六人、もっといたかなあ、さなぎを食べました。そのくらい飢えていたのです。ところが三日か

 

四日経ったらそれが分かり、家から持ってきて直接撒くようにして、さなぎを置いてくれないのです。本当にさなぎを食べたとは、皆さんには絶対信じられないのではないかと思います。

そんな状況でした。

 いよいよ「原爆」の話に入りますが、六月に母が広島の芸備線の広島から数えて一〇番目の駅で志和口というところがあるのですが、その志和口の駅から十キロほど奥へ入った部落に母の親戚がありまして、そこのご主人が出征して奥さんが別の場所へ行ったから空き家ができた、そこへ移らないかという話が親戚からありました。私には兄弟が五人いまして、二人疎開していたのですが、残りの一年生・幼稚園、それから一歳の子どもの三人が母と一緒にいました。

その一番下の子は父が出征した後に生まれたのです。その子どもたちを連れてその栃谷というところに疎開しました。私も地獄の集団疎開から抜け出して、妹と二人で母のいる栃谷に帰ったわけです。それが六月だったのです。ところがしばらくしますと、母が女手一つで疎開しましたのでだんだん物が足りなくなってくるわけです。広島にはまだ家があって、すぐ近くにおじいさん・おばあさん、父の実家もありました。ですからとにかく広島へいっぺん荷物を取りに帰ろうということになりました。当時なかなか汽車の切符が手に入らないのですが、手に入

 

一九

 

二〇

 

ったのが八月六日の一番列車だったのです。一九四五年八月六日というのは月曜日なので、市内で働いている人も結構日曜日に田舎に帰ったりしていて、その月曜日の朝というのは超満員の列車だったのです。その列車に乗るため、朝四時ごろ母と二人起きまして、おにぎりを作ったりして、十キロの山道を真っ暗な中から志和口の駅に向かって下りました。そして一番列車に乗ることができました。当時の汽車は今のような電車と違いまして、石炭で炊いて、機関車が引っ張る汽車ですから、トンネルに入れば、それこそ鼻の穴に煤が入るというような汽車だったのです。その汽車に乗り広島に向かい、広島駅に着いたのが七時半ぐらいだったと思います。駅前に広島電鉄の駅があるのですが、通勤の人たちはサッと要領良く、そこにザーッと並んで電車に乗るのですが、私たちは列車を降りてからトイレに行ったりしてぐずぐずしていたら、電車に乗る場所に行ったらもうすごい人が並んでいてなかなか乗れないのです。やっと八時ごろに乗れたのではないかと思います。その乗った電車が超満員のギューギュー電車でした。

一両の定員はおそらく八十人か百人足らずのものだと思うのですが、後でいろいろ考えてみたら二百人ぐらい乗っていたのではないかと思います。私と母はちょうど真ん中辺のしかも周りを完全に人垣に囲まれた場所に立っていたわけです。今の通勤電車のように片足上げたら、も

 

う足が下ろせないぐらいの超満員の電車でした。

 皆さんのところにお配りしているレジュメに地図がありますが、これは爆心から五〇〇メートルずつの円が書いてあります。広島駅というのは広島市内の北東の方にあります。私の家は舟入というところで市内の西部です。ここに向かって電車に乗るつもりで並んだわけです。やっと電車に乗って、超満員電車の中で揺られていたのですが、しばらく経ってちょっと電車が大きく揺れまして、パッと見えたのが、当時広島では相当大きな建物の中国新聞社の社屋です。

「あっ、これで流川の近くまで来たな」と思ったのです。それこそその何秒か後ですか、ピカッと光ってそれからもうすごい音がしたのです。

 原爆が落ちたのです。皆さんのところにこの原爆の資料みたいなものがあるのですが、本当に百雷といいますけれども、人類が聞いたことのないような音でした。広島では原爆のことを「ピカドン」と言いました。ピカッと光ってドンときたから「ピカドン」と言うわけです。爆心近くの人の中には「ピカ」としか言わない人がいます。それは「ドン」が聞こえなかったのです。「ドン」が聞こえなかったから、「ピカ」としか言わない人がいらっしゃる、そのぐらい本当に音が聞こえなかったという人がいるぐらいの聞いたことのないようなすさまじい音でし

 

二 一

 

二二

 

た。それで四〇〇〇度の熱線が飛んできたわけですから、電車のガラスはいっぺんにぶち破れます。窓側にいた人たちはもうガラスの弾丸みたいなものを浴びて、そして血だらけです。みんなもう「助けてくれ」と泣き喚くような、阿鼻叫喚という状態でした。

 母と私はなぎ倒されたのですけれども、二人は見た目には傷も何もなかったので、とにかくお互い手を取り合って外へ出ようと、人が倒れている中を踏み越えるようにして、外に出ました。外に出たら、外は真っ暗なのです。一寸先も見えないほどの暗闇です。なぜかと言いますと、皆さんのところに配ってあるデータにもありますように、爆風です。爆風が中心では四四〇メートル、私の被爆した地点でも二二〇メートルの爆風があるわけですから、これは例えば六〇メートルの台風といえば超大型の台風で瓦が飛ぶくらいで、それが四四〇、また二二〇という爆風がきたわけです。当時はほとんどが木造建ての建物ですから巻き上げられまして、そして道路はほとんどが舗装されていなかったので土埃があっという間に巻き上がりました。それで真っ暗になったわけです。母と私は、そのころ小学生でもちゃんと訓練されておりまして、爆弾が落ちたら必ず目と耳をふさいで口にはタオルをくわえて、そして伏せておけというように教えられていました。母と二人で電車を下りて道端で座って目と耳をおさえて、タオルを口

 

にくわえていたのです。これは爆弾の直撃を受けると、鼓膜が破れたり、目が飛び出たりするからということでそういう教育をされていたわけなのですが、しばらくじっとしていたのです。

それが三分後だったか、五分だったかわからないのですが、しばらくすると土埃がおさまって、やっと周りが見えるようになってきました。同時に、後ろの電車がぱちぱちと火を出して燃え出したので、とにかく逃げようと、だけども先ほども言いましたように目的地は爆心地を通って西方向だったのですが、そっちに逃げるのは何とはなしに危ないのではないかという感じがしまして、白島というところに母の母がいますので、おばあさんのところへ行こうというように方針転換をしまして、市内北部の白島に向かって動き始めたのです。

 そして最初に気がついたのが前を歩いている女の人のすさまじい姿でした。ちょうど三角定規のような大きさのガラスが背中にパッと刺さっているのです。肺に届いていると思えるくらい深く刺さっているのです。そして血がスーと糸を引いて下に下りているのです。ところが本人は一生懸命だから何も気がつかないのです。もう一つ見たのが、同じように北へ向かって逃げている人の中に、最初に背中に黒い斑点がポッと見えたのです。あれ何かなあと思ったら、その黒い斑点が少しずつ広がっていくわけです。そうしたらシャツが燃えているのです。それ

 

二三

 

二四

 

で髪の毛に火が付いてパチパチとなったときに初めて本人が気がつくというような状況でした。

ですから人間が本当にパニックになったら、極限状態では「痛い」というようなことはおそらくわからないようになるのではないかというように思いました。そういう光景、それからちょうど当時NHKのあったところの前の水槽にお母さんが子どもを抱いたまま黒焦げなのです。

お母さんが子どもを抱いたまま水槽の中に伏せている姿をみましたけれども、この人の髪がすごかったです。バーッと全部上に舞い上がっていました。そんな記憶があります。

 そうこうするうちにあちこちから火の手が上がってきました。当時は皆さん、日本はほとんど木造です。そこへもってきてそのころは電気とかガスで炊事なんかしていません。全部薪でご飯を炊いたり、それから炭火でお汁をこしらえたり、練炭を使ったりしていましたから、ちょうど八時十五分という時刻は食事が終わったぐらいのところです。ですから残り火があるところに木造の建物が落ちてきたわけですから、これはもうひとたまりもないわけで、あちこちからぼっつりぽっつりと火の手が上がってきます。ですから逃げる途中であちこちから火の手が上がってきまして、「助けてくれ」という声が聞こえてきました。ところが昔の建物は今の建物と違いまして柱が太いです。ですから倒れた家の下敷きになった人というのは、ほとんど

 

救い出されていないのです。肉親が閉じ込められてつぶされた建物の下にいるのに見捨てて逃げる以外になかったのです。そういう意味では本当に火の粉に追われて止むを得なくなって、みんな兄弟や親、或いは子どもを捨てて、外にいた人は逃げざるを得なかったという状況でした。

 そういう中を歩いていましたら、広島城の近くの西練兵場なのですけれども、おそらくそこで兵隊たちが朝の訓練なんかしていたのではないかと思うのですが、その兵隊たちの一団が出てくるのに出会ったのです。百人ぐらいいたかなあ、もっと多かったか、とにかく分かりませんけれども、その兵隊たちの帽子が全部吹っ飛んで、シャツはボロボロ、ゲートルもちぎれてしまっていて、とにかく本当に兵隊の集団というよりもボロの集団という感じのが出てきました。軍靴の音を、編上靴の音をタッタッタッと響かせて出てくるのに出会ったのです。母は「この兵隊の後についていけば安全なところに逃げられるかもわからん」ということで、もうおばあさんの方へ行くとか全く考えられなくなってきて、兵隊の後について、北へ向かってずうっと歩き始めたわけなのです。先ほどちょっと申しあげた光景は、この北へ向かう光景だったのです。しばらく行きますと兵隊たちが広い広い河川敷に降りたのです。ちょうど太田川の

 

二五

 

二六

 

ほとりに河川敷があって、そのこちら側は何千坪とあるような田んぼや畑だったのですけれども、そこに兵隊たちが降りていったので、私も母と一緒にその河川敷に降りたのです。そこにもう数千人と思われるくらいたくさんの人たちが避難してきていました。外はとにかくカンカン照りでむちゃくちゃ暑いわけです。たまたまその砂のところに大きな船があげてあったのです。母と私は十五メートルぐらいのその船の舳先の下に頭を突っ込むのですけれども、胸から下は日に当たりながら頭だけ船の下に突っ込んで、しばらく人が泣き叫んでいる中で呆然としていたわけです。そうすると母も私も急に吐き気がしてきまして、今度は二人とも嘔吐を始めたのです。砂を掘って、砂の中にゲーゲー吐いたのです。これがおそらく最初の急性放射線障害だったというふうに思います。とにかく吐いて吐いて、もう本当に黄色い液が出るくらいまで吐きまして、もうくたくたになったのですけれども、とにかく十五分か二十分ぐらい吐き続けていたように思います。それでやっと少し落ち着いたときに周りを見たら、あちらでもこちらでも同じような光景がありました。

 その中で一番私が記憶に残っているのは、中学生・女学生の群れでした。彼・彼女たちはいったい何をしていたかといいますと、当時中学生は疎開しておりません。勤労動員をさせられ

 

ていたわけです。当時広島では「建物疎開」をやっておりました。Bー二九が落とす焼夷弾が落ちてきて家が焼けると、次々に隣近所に移っていくわけです。そういう意味で家を壊して道路を広げれば、類焼を免れるということで、政府の命令で「建物疎開」というものをやって、あちらでもこちらでも瓦を下ろして綱をつけて建物を倒すという仕事をしておりました。それに多くの中学生や女学生が動員されていたのです。彼や彼女らはおそらく帽子は被っていたでしょうけれども、シャツにショートパンツみたいなものを穿いて、その作業を八時ころから始めていたはずなのです。そこへ原爆が直接落ちて、三〇〇〇度〜四〇〇〇度の熱線を浴びたのですからもうひとたまりもないわけで、とにかく衣類は全部完全に焼けてしまって、身に付けるものはたとえば背中が残っていれば背中が、前が残ってもちょっとしか残っていないような感じでほとんど素っ裸の状況で泣いていました。一番ひどいのはシャツのところで火傷をしますと、しばらくすると水ぶくれができてきてちぎれるのです。それで皮がずうーと落ちてくるわけです。そうするとちょうど上腕から皮がちぎれて落ちてきて、爪のところで止まるのです。

そうするとその皮膚が爪のところに下がってくるわけです。そうすると手を下におろしてしまえば、身体にあたったり、或いは場合によっては砂に当たるというようなことで気持ち悪いし、

 

二七

 

二八

 

おそらく痛いのでしょう。ですからみんな手を前に出して歩くわけです。本当に幽霊のような感じでした。そういう中学生・女学生の姿は何ともいえない状況だったのです。今私が中学生といいましたけれども、彼らは今の小学生にしたら三年生ぐらいの体格です。おそらくそのぐらいだと思います。もし皆さんが広島の資料館へ見に行かれたら、そこに中学生の焼けた学生服がありますから見てもらったらわかりますけれども、今の小学三年生ぐらいの感じです。ですから本当の子供です。それがそういう恐ろしい被害にあって、もう泣き喚くしかなかった。

 そのうちどうしても苦しくなってきますから、すぐ前は川ですから、水を求めて川に入るわけです。そうするとおそらく後で考えたらショック死だと思うのですが、水の中に入っていくともうそのまま水に口をつけると同時ぐらいに次々に流れていきます。まるで乾いた手拭いを水につけたらクシャクシャとなりますが、それと同じような状況で人間が、最初は子供が多かったように思うのですが、次々に流されていくのを見ました。それで「敵が川に毒を流した」

と、「水を飲んだらあかん」というような話が出ました。私たちも水を飲みたかったけれども、水は飲みませんでした。そんなことがありまして、そうこうするうちに全市が燃え上がってきたのでとても、その河原では熱くて我慢ができなくなったのです。皆さんにお配りした地図の

 

ちょうどニキロ地点に、私は赤い印をつけたのですけれども、ここまでが完全に全焼しているわけです。ここは先ほどいいましたように、ものすごい広い畑が後ろにあって河川敷だったのですが、それでももう熱くて熱くてたまらなくなって、とにかく川の向こうに逃げようということになり、母と私は腰まで水に浸かってみんなが探した一番浅いところで対岸に渡ったわけです。対岸には饒津神社というのがありまして、そこには大きな大きな、もう百年〜二百年の樹齢という楠がありまして、とにかく川を渡るのもほうほうの体で渡ったので、その楠のところで一休みしようということになりまして、母と私は楠の下で横たわっていたのです。

 そうするとしばらくして急にポツリポツリと雨が降ってきたのです。「雨が降ってきたなあ」

といっていたら、ひょっと見たら落ちてきたその雨がコールタールのような黒い雨なのです。

それで朝出るときに空襲があることを考えてちゃんと持ってきた防空頭巾、座布団を二つに折ったようなやつを頭に被って、ヘルメットと違います、それから取り出したシャツを着て、その黒い雨を避けたのですが、ちょうどあの位置では黒い雨は五分ほどポツリポツリ降った程度ですんだのです。ところが広島の西南の方では、ずいぶん黒い雨が降ったそうです。この黒い雨にあたった人たちは、たくさんの人たちが被爆死しています。ですからちょうどその楠があ

 

二九

 

.II」■■

 

三〇

 

ったことと、それから黒い雨がわずかしか降らなかったということは、私たちにとっては幸運だったのです。

 そこでしばらく母と二人で呆然としていたら、通りかかった兵隊が、七〜八人だったと思うのですが、「ここにいたら危ない、近くに火薬庫があって、それが爆発をしたらもうひとたまりもないから、とにかくここを逃げろ」と言われたのです。ところがもう母も私もヘトヘトでパニックの続きですから、「もういいです、私たちはここにいます」と言ったのすが、その兵隊たちが無理やり引っ張るようにして母と私を連れて一緒に歩き出したのです。しばらく歩いていましたら田舎の農道のそばに当時では珍しいポンプで水を汲む井戸がありまして、汲み井戸と違いまして手押しのポンプを押すのですが、そこにたくさんの人が並んで水を飲んでいました。それで私たちもその列に並んで冷たい井戸の水を飲んだわけですけれども、ところが私は一口飲んですぐにまたガーッと嘔吐して戻してしまいました。それでもう一回飲み直したのですがやっぱりダメなので、私は結局口を濯ぐだけで終わったのです。そのときに、なぜか母は戻さなかったのです。そんなことでそれから同じように北へ向かって歩いていたのですが、しばらく行きますと正面からトラックがきまして、そこから下士官のような兵隊が降りてきて、

 

「このグループの中に重傷なやつはおらんか」と、「重傷なやつは乗せてやる」というように言われたわけです。そうしたら我々の兵隊の中のリーダー格の人が「この親子は見た目はどうもないけれども、疲れ切って歩けないのだから何とか乗せてやってほしい」と頼んでくれたら、「まあ、いいだろう」ということになりまして、その七〜八人の兵隊に母も私も担ぎ上げられて五トンぐらいのトラック、もっと小さかったかもわかりませんけれども、そのトラックの中に放り込まれたわけです。

 それで歩くのをやめたのですが、乗った途端にトラックの中のすさまじさにもうびっくりしました。まさに重傷者といわれるだけあって、複雑骨折をして骨が飛び出た人、それから白い脂身のような肉が出てもちろん血も出ている人、鼓膜が破れて血が垂れている人とか、それはすさまじい光景でした。母も私も抱き合っていたのですが、その中で一番印象に残っているのは、対角線の隅にいたおばあさんだったと思うのですが、もしかしたら若い人だったかもわかりませんが、その人が手を頬に当てているのです。それでいったい何をしているのかなあと思って見たら、目玉が出てしまってぽっかり目に穴が開いている。それで人間の目玉というのは、飛び出してしまったら大きさがびっくりするくらい大きいです。ポカーンと穴が開いていまし

 

三一

 

三二

 

て、頬のところで落ちた目玉を受けているのです。だから完全には落ちていないで受け止めているのです。それを見て母も私もまた嘔吐しました。

 とにかく抱き合ったままで、そのトラックは広島の矢賀という駅に着いたのです。矢賀駅に着いたのが何時ごろかなあ、もう一時か二時ぐらいだったかと思います。とにかく矢賀駅に避難していればしばらくすれば救援列車がくるというような話だったのです。そこで見た光景も今までお話したような光景がざらにありました。皮膚のめくれた人でズボンのベルトかなんかで腰で止まっている人がいるのです。ですから腰にまるでなんか今女の子が上着を脱いで腰にしていますが、ああいう具合に皮膚が垂れているような人もいました。ちょうど列車の行き止まりというのですか、もうここから先に行かないようにコンクリートのところがありますが、そこにたくさんの重傷者が、亡くなった人とかうごめいている光景を見ました。後で考えると、おそらくそこがちょっと涼しいからそこに行ったのではないかというように思うのですが、結局そこにいる人たちも本当にもう虫の息でいました。そんなことを見ながら私たちはそのすぐそばで二人とも抱き合って寝転んでいました。やっと三時過ぎに救援列車が動くということになりまして、母と私はその汽車に乗りました。朝六時過ぎの一番列車で出て、志和口の駅に着

 

いたのが夕方五時過ぎだったと思います。志和口の駅に着いたら、母方の親戚のおじさんが村長と一緒に迎えにきていまして、それで我々が降りてくるのを見て、「おお、お前ら無事だったか。良かった、良かった」ということになったのですが、とてももう二人とも歩くのも歩けないような状況だったので、村長が「親戚の家に泊めてやろう」と、志和口駅のすぐ近くの親戚の家に母と私は一晩厄介になったのです。そして八月七日の、八月七日は私の誕生日だったのですけれども、その日の昼過ぎにやっと志和口の駅の近くを出まして、弟妹たちが待っている栃谷というところに十キロの山道を登って帰ったわけです。

 これが被爆のときの体験ということなのですけれども、それで終わればいいのですが、その後がたいへんだったのです。ご存知のように八月十五日、日本は戦争に敗れて、敗戦ということになりました。天皇の重大放送があるということで、私たちの部落は十七軒しかなかったわけですけれども、十七軒の人が全部私の家に集まったのです。といいますのは、当時はテレビなんてもちろんないのです。なかなか立派なラジオがなくて、山の奥で非常に聞こえにくいので、私の所のラジオが一番良く聞こえたので、その私の家に部落の十七軒の人が全部集まって天皇の『玉音放送』というのを聴いたのです。それでガーガーピーピーという中で、ほとんど

 

三三

 

三四

 

意味は分からないような感じだったわけですけれども、村の人たちは放送が終わって帰っていきました。村の人たちが帰ると、母が私に向かって「戦争が終わったよ。お父ちゃん帰ってくるよ」といって、涙を流したのです。おそらく父が出征して、母もガス会社の重役の娘でしたから、医者のところに嫁にきてそこそこの生活をしていたのですが、父が出征の後は子どもを五人抱えてたいへん苦労したということがあったので、戦争が終わったということになれば、「お父ちゃん帰ってくる」ということで本当にうれしかったのではないかと思います。そのときの母の涙は忘れることができなません。

 そんなことがあったのですが、それが八月十五日です。その次の日か、その二日後に、朝目が覚めて枕を見たら、枕が真っ黒なのです。「あれっ、何がついているんやろう」と思ったのです。そうしたら頭をこう触ったら髪の毛がパラパラと落ちるのです。つまり、枕に抜けた髪の毛がピシッとついていたわけです。当時子どもは全員坊主ですから、せいぜい一センチかそこらの抜けた髪の毛がピシッと白い枕カバーについていたのです。それで「あーお母ちゃん、えらいこっちゃ髪の毛が抜けて」といったら母も一緒で、くしを入れたらゴソッと抜けるわけです。それがありまして、その次の日から二人とも今度は高熱が出ました。四十度以上の高熱

 

がずうっと続くわけです。それで一時は治まるのです。そうだけど朝熱が治まっても、すぐぶり返すというかたちで毎日毎日四十度以上の熱が続くわけで、本当に頭の中が完全におかしくなるというような状況でした。被爆から約四週間後ですか、九月一日に母は体中に斑点が出ました。あざみたいなものがずうっと全身に出てきまして、その日のうちに亡くなったわけです。

 それで母が死んだということで、広島で開業していたおじいさん、米澤貞二という人で、大江健三郎の『ヒロシマ日記』にも出てくるのですけれども、被爆後広島で救援活動をしていたのですが、その人が、嫁が死んだということで葬式にきました。それで私を診て、「あっ、鐵志はこりゃ駄目じゃ」ということで、一目診ただけで引導を渡しまして、ある程度ビタミン剤ぐらいは持ってきたのですけれども、その注射もせずにもう葬式がすむと帰っていったのです。

そんなことがあって周りもおそらくもう時間の問題だと思っていたのです。ところが朝急にまた吐き気がして、そうしたら大量の回虫を吐いたのです。これはもう洗面器に三分の一ぐらいかなあ、相当な何十匹という回虫が出てきました。回虫というのは、皆さん戦後生まれの人はご存じない人がいると思いますが、ちょうどミミズのような真っ白い虫が寄生しているのです。

そのころの日本人は、ほぼ九九パーセントがその回虫という寄生虫を持っていたのです。戦後

 

三五

 

 

三六

 

マクニンというような薬を飲んで、それで回虫を駆除して、今では回虫なんて見ることはできませんけれども、そのころ日本人は全員持っていましたので、その回虫を大量に嘔吐したのです。それで周りでは「もう寄生虫が出るくらいだから、これで終わりだろう」というふうに思っていたら、なんとその次の朝熱が引いてぶり返さなくなったのです。そうすると水が少し飲めるようになるし、それから重湯とかも飲めるし、そのころではめったにもらえない卵とか重湯とかいいのを食べさせてもらいまして、そうしたら完全に熱が引いてしまって、そこから回復に向かったのです。結局、十月の中旬か下旬ごろには学校に行けるぐらいまでになりました。

ただ髪の毛が完全に抜けていますから、学校へ行くと「きんかんきんかん、つるきんかん」と言ってみんながはやし立てて、後ろからそろばんでなでたり、頭をスッとさすりにきたり、「ハエが止まるとツルッと滑る」と言ってからかう奴がいまして、それで腹が立ってケンカをした記憶があります。そんなことがありましたが、髪の毛はちょうど翌年のお盆に初めて散髪をしまして、それから二年後にはほとんど抜けたという感じがわからないようになりました。

それで奇跡的に回復したのです。

 ここでもう一つ皆さんにお話したいのですが、実は妹は先ほどもいいましたように父が出征

 

した後に生まれまして、一歳とちょっとだと思うのですが、食べるものが少ないので母がほとんど出ないような乳を飲ませてたのです。それが母が帰ってきて、八月七日から一週間かそこらぐらいの間、乳を飲んだのです。そうしたら十月に入ったらだんだん髪の毛が抜けてきて、衰弱してきまして、十月十九日、ですから仏教でいう母の死後四十九日の日に朝起きてきたらもう冷たくなっていました。ですから放射能というのがいかに恐ろしいかということを皆さんに知ってもらいたいと思って、妹の死についてお話したわけです。

 今日田辺の農民組合の人が「原爆稲」というのを植えておりまして、これは長崎大学が浦上天主堂の裏にあった田んぼから取ってきた種を植えたら次の年にその稲がなったわけで、それを毎年残して「原爆稲」として植えているのですが、その「原爆稲」は半分しか実がつかないのです。染色体の異常でしょうか、後はカスカスなのです。「原爆稲」を今年も植えてきましたし、刈り取りもしたのですけれども、実が半分です。そういうのを皆さん知られたら放射能の影響はいかに恐ろしいものかということをおわかりになると思います。

 それで、私が奇跡的に生き残った原因について私の考えていることをお話したいと思います。

第一に私の乗っていた電車が皆さんの手許の資料にもありますように、黒焦げになっています

 

三七

 

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が、鋼鉄製の電車で、当時では非常に珍しい電車です。木造でなかったわけです。それが一つの大きい原因ですし、それと福屋百貨店という八階建てですけれども、当時広島で一番大きな建物の下に来た電車に高度五八○メートルで原爆が炸裂したからです。それからもう一つは、これは京大の先生に聞いたのですけれども、人間の体というのは一番放射線を吸収するそうです。そういう意味で私の周りにはたくさんの大人がいたわけですが、その人たちが放射線を吸収して、そしてそれによって結局「あなたは助かったんだ」と、だから「周りの人に救われたんだ」という話もされましたけども、それも大きな事実ではないかというように思っています。

それと後、途中で水を飲まなかった、母は飲みましたけれども、私は戻してしまったということがあります。それから「黒い雨」にかからなかった、これもいろいろな原因の中の一つだと思います。それともう一つ大きな要因は、その日のうちに広島を外れて、一年以上広島には戻らなかったということは、これは大きな原因としてあるのです。それから最近、回虫の話をすると、「回虫が毒を持って出てくれたのだ」という説がありますが、これは確かなところはわかりませんけれども、だいたいそのぐらいの六つか七つのいろいろな偶然が重なって私は生き残れたのではないかというように思います。

 

 それでここで皆さんに、被爆朝鮮人のお話をちょっとしたいと思います。当時広島の市民は四十万とも三十五万とも言われていますけれども、広島にある政府が造った平和記念館というところを見ますと、当時広島で被爆した人は三十五万人で、その内で十四万人が死んだというように書いています。ところが当時広島には五万人の朝鮮人がいたのです。これは三菱重工、日本製鋼、或いは三菱造船、そういうところで働いていたのです。全部が全部もちろん連れて来られたわけではなく、後を追いかけてきた人なんかがいるのですけれども、ほとんどが強制的に日本に連れて来られた人が五万人いたのです。ですから七人に一人。もし四十万市民としたら、八人に一人ですけれども、そのくらいの朝鮮人がいたのですが、その五万人の内で二十年ぐらい前に私の知ったのは、そのとき三万人の朝鮮人が亡くなっています。ということは五万人の内の三万ですから、六割の人は亡くなったわけです。ところがそれに比較して日本人はどうかと言いますと、三割から四割足らずなのです。それは三十五万人から五万人引く、或いは四十万人から五万人引いて、それから朝鮮人被爆者の死を除けば、日本人で死んだのは十万ぐらいでしょう。そういうことを見ますと、だいたい倍ほどの差が朝鮮人被爆者と日本人被爆者の間にはある。これはなぜかと言いますと、朝鮮人はもちろん行くところがどこにもないわ

 

三九

 

四〇

 

けです。私のすぐ近所に朝鮮部落がありましたけれども、本当のバラックです。トタン屋根のバラックで住んでいたわけですから、原爆でつぶされたら行くところがないので、結局「残留放射能」、最初は七十五年草木も生えないと言われた広島の「残留放射能」が渦巻く中に居座って、居座らざるを得なくて、そして太田川の水を飲みながらいたわけです。だからここに日本人の倍以上の朝鮮人が死んだということの大きな理由があると私は思っています。その上にさらに重大なことに気がついたのですけれども、これは十年ぐらい前だったと思いますが、実は私が中学校へ入ったとき、小学校のときの友達で新井君とか金本君とか清本君とかだくさん朝鮮人の友達がいて、新井君が非常に優秀で仲良かったのでよく知っているのですが、中学校へ入ったときに、本来ならその連中が同じ中学にいるはずなのにいないのです。おそらく彼らは解放されて朝鮮に帰ったのだろうというふうに私は理解していたのです。ところが朝鮮人被爆の問題を知って、この十年ぐらい前にたまたま集団疎開、ちょっと言い忘れましたが、私の同級生で被爆したというのは、私の学校で同学年三百人ぐらいいましたけれども、その中で私一人か、もしくはもう一人いたかぐらいなのです。と言いますのは、先ほど言いましたように全部が疎開していたわけですから、たまたま私のように広島に出てきたのと、或いは集団疎開

 

からたまたま日曜日に帰ってきて戻るのが嫌で月曜日まで残ったといった、ごくまれな人間が被爆したのです・ですから同学年で入市被爆者はたくさんいるのですが、直接被爆したという

 

のはごくまれなのです。

 そんなことで先ほどの朝鮮人の話に戻りますが、朝鮮人も学童疎開をしていたのではないかと始め思っていたのですが、しかしそのことにちょつと疑問を持ちましたので、いろいろな友達がたくさんの場所に分散して行っているので「お前ら、朝鮮人を疎開のとき見たか」と訊いたら、「そういやー、見んかったのーと言って、広島の友達の誰もが言うわけです。それでどうもおかしいと思いまして、朝鮮人被爆者の人に「あんたらは集団疎開に行かへんかったんか」と訊いたら、そうしたらなんと当時朝鮮人は日本人ですが、ただ「半島人」と言われて、

 

そしてとにかく「畏くも皇国臣民にしてもらったんだ」百本人にしていただいたんだ」と、

 

だから「疎開なんてとんでもない」「銃後の守りをちゃんと子どもといえどもしろ」と、それと生活習慣が違うから「集団生活に向かない」というようなことも言われたそつですけれども、結局朝鮮人の小学生は集団疎開さえさせてもらえなかったのです。それを知ったときに私は非常にどう言いますか、何ともいえない気持ちになりました。朝鮮へ帰ったと思った新井君とか、

 

四一

 

四二

 

金本君なんかも、おそらくその三万人のうちに入っているのではないかと思いまして、そのときにやっぱり日本の「戦争責任」というのをよっぽど重大に考えないといけないと思いました。

 「戦争責任」の問題ですけれども、ちょっとそちらの方に話を移させていただきますが、被爆外国人の差別については「ジンソンド訴訟」というのがありまして、「被爆手帳をよこせ」

ということで韓国から日本に密入国してきて、七年か八年かの裁判で結局手帳を獲得したのですが、日本にいなかったら治療もできないし、手当てももらえないというようなことがありまして、これがやっとこく最近ここ一〜二年の間に手帳ももらえるし、それから手当も検討するというようなところまできているようですけれども、六十年の間、朝鮮人だけではない、被爆外国人については本当に日本は棄民政策のようなかたちで差別してきたということをやっぱり私たちは銘記する必要があるのではないかと思います。

 「戦争責任」については、「自虐史観」とか、或いは「土下座外交」というようなことを言いまして、「もう日本は、充分謝った」、「なんで何回も何回も謝らないかんのや」というふうに言っている人がたくさんいるわけです。確かに小泉首相も謝っています。少なくとも最初に謝ったのは、確か昭和天皇が一九八四年に全斗換大統領のところで「今世紀の一時期において

 

不幸な過去が存在したのは誠に遺憾」と、日本人の好きな「遺憾」という言葉がよく出てきますが、「今世紀の一時期において」と言っておるわけです。それからこれよりずっと進んだのは有名な村山談話ですけれども、村山談話でも「遠くない過去の一時期、国策を誤り、植民地支配と侵略によって、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。この歴史的事実を謙虚に受け止め、痛切な反省の意を表明する。」と、こういう具合に村山談話は一

 

歩進んだかたちになっているのですけれども、しかし天皇の逼憾」、それから村山談話でも、

 

やっぱり「過去の一時期」と簡単に言い切っているところに私は問題があると思うのです。それで皆さん先ほど私は地図が赤だったという台湾を言いましたけれども、台湾に日本政府が最初に侵攻したのは一八七四年に台南を占領しているわけです。ですから半世紀以上、七十年近くやっぱり台湾を軸にして、アジアの民衆に対しては半世紀以上に亘って侵略行為を続けて、決して「過去の一時期」というものではないと私は思います。第二次大戦後、ドイツやイタリアは、ヒットラーは死にましたけれども、しかし多くのナチスの戦犯というのはドイツ人自身の手によって裁かれています。今でも裁かれています。イタリアでは、ムッソリーニは民衆の手によって処刑されたように聞いております。それでファシズムに対する反省とやつものは、

 

四三

 

四四

 

日独伊の国の中ではやはり日本が一番遅れていると思います。戦後日本は東京裁判ですべてを終わらせてしまって、「一億総臓悔」と言いまして、国民全部が悪かったということにして、天皇やその他A級戦犯の責任を徹底的に追及するのを日本人としてやっていなかったのではないかと私は思います。ですから岸伸介は確かA級戦犯だったと思うのですが、すぐに復活して内閣総理大臣になるというようなかたち、そして歴代内閣が、いや自民党の中枢は一貫して戦争の美化をしています。今の「自虐論」とか「土下座外交」をいう人たちは、「中国の民衆・アジアの民衆が二千万人殺されたというが、数字が大きすぎる」とか、或いは「南京大虐殺三十万人って、そんなことはあり得ない」とか言います。「南京大虐殺があった」というのはこれは『広辞苑』にもはっきり出ていますし、三十万だったかどうかというようなことを「いや、それが二十万だった」とか、「五万だった」という論議をすること自体が私はやっぱり反省がない証拠だというふうに思います。終いには「三十万がなかったから南京大虐殺はなかった」

というようなことを言う人まで出てくるし、戦後「やっぱり満州に鉄道を作ったのは日本だ」、「だから日本は貢献した」というようなこと、或いは「アジアを解放したんだ」と、それで「創氏改名」なんかについても、これは一九四〇年にさせているわけですけど、「あれは彼らが

 

望んだから改名をさせてやったんだ」というようなことを言って、近隣の国々との関係を非常に悪くしていったと思います.そういう意味ではきっちりした反省なくして、それから保障なくして、この戦争のアジアに対する責任というのは私は終わりがないのではないかというように考えております。

もう一つだけお話したいことがあります。これは放射能の後遺症と関係があるのですが、

 

覆爆電車の会」というのがあったのです。これはどういうことかといいますと、「被爆教師の

 

会」というのがあって、そこの全国の会長をしている石田明さんという人が「放射線白内障」

で原爆症の認定を受けようと申請したら、却下されたのです。「放射線白内障」というのは、明らかに普通の「老人性白内障」とは出てくる場所が違うのです。それは眼科でもはっきりしているのですけれども、にもかかわらず「放射線白内障」についての原爆症認定はしなかったのです。それで結局訴訟をして、一九八二年石田訴訟が勝ちました。それが日本で最初の原爆訴訟の勝利なのです。初めての勝利訴訟なので、マスコミに囲まれて「あなたは今度の訴訟の

 

勝利について、どう思われますか」と聞かれた時に、彼は爆心から七五〇イトルの福屋百

 

貨店の前の電車の中で被爆した。それで一緒にいた兄は死んだ。周りの人もおそらく全部死ん

 

四五

 

四六

 

だだろう。生き残っているのは自分だけじゃないか。亡くなった周りの人が私を支援してくれた勝利だと思う。」ということをマスコミの前で発表したわけです。それを私の親父が(まだ九十九歳で広島に生きているのですけれども)知りまして、「あれっ、石田先生と鐵志とは一緒じゃないか」ということになって、それで石田先生のところに連絡したら、石田さんから私のところに連絡がありました。「あんたもあの電車やったんか」。そのとき八人の人と石田先生が連絡がついて、同じ電車に乗っていたということがわかったわけです。それで皆さん先ほど言った六つの奇跡をその八人の人たちは持っていたわけです。

 ですからそういうことで一九八五年の被爆四十周年の前に石田先生が生き残った八人の人に連絡を取ったら、四人がもう亡くなっていたのです。「これはたいへんなことだ。とにかく生き残っただけでも、被爆のそのときの模様というのを後世に残す必要がある」ということで、一九八五年の四月に広島で「四十年ぶりの同窓会」を開きました。マスコミは非常におもしろいものですから大々的に取り上げまして、「爆心七五〇メートルの被爆四十周年奇跡の同窓会」

という見出しでやられました。私も呼ばれまして京都から広島へ行ったわけですが、そのときには新たな人も出てきて、七人の人と再会したわけです。これは新聞に大きく出まして、それ

 

からドキュメントで、例えば私なんかはずうっと日常の生活とか追って、子どもを連れて広島の被爆の場所に行くのがテレビの十五分〜二十分ぐらいの番組になりました。そんなかたちで

 

大々的になったわけです。

これを見た広島電鉄が、結局「被爆電車の会」というのを提唱するわけです。当日市内に八十台か走っていたが、その日に何人が電車に乗って被爆した、何人の人が今でも生きているかということを、今度は広島電鉄が広島市の広報なんかも含めて宣伝して、八月六日に「被爆電車の会」の正式な同窓会みたいなものをやろうということになり、広島商工会議所で開きました。そのときに六十人あまりの人が集まってきて、どこに乗っていたかというのをそれぞれ話をするわけですけれども、そのときに明らかになったことは、爆心地に近い場所での電車の中で生き残った人は一人もいないのです。またこの辺で被爆した人の生き残りもやっぱり一人もいないのです。広島駅では数人いましたけれども、とにかくほぼ同距離の辺で被爆した電車も生き残りがいなかったのです。そういう意味では、先ほどの福屋百貨店の影響というのは非常に大きかったと思うのですが、そんなことがありまして被爆四十周年で「被爆電車の会」をやって、それから五十年でもやりました。そのときにはもう半分以上減っていました。それで一

 

四七

 

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九九九年の八月六日に、私は広島へ行きまして、そのときに石田先生と会ったので、「五十五周年の「被爆電車の会」をやろう」と言いましたら、石田先生が「いや、もうなあ、福屋の前の被爆者で生き残ったのあんたと私だけだ」と、「わしももう喉頭癌、それから胃癌、それから舌癌、もう次々に癌が発生して、もう余命幾何もないし、もう無理や」というような話をされたわけです。そのときに石田先生に聞いたら、結局その後名乗り出た人も含めて、とにかく戦後三十年以上生き残った人が十四人いたのです。しかし石田先生の話を聞くと、全員が癌です。もう間違いなしに全員が癌で亡くなっています。ですから原爆と放射能と癌の関係というのは、もう決定的なものがあるのではないかというふうに私は思っております。その石田先生も二〇〇三年十月に亡くなりましたので、十四人の中で生き残っているのは、私一人ということになっています。

 だいたいこれで私の話が終わりに近づいたのですけれども、私たちはやっぱり今原爆の問題を再度考えていかなければならない時期にきているというように思います。皆さんご存知のように、アフガニスタン或いはイラク、湾岸戦争でも、劣化ウラン弾・放射線弾というのが使われていますし、ですからそういう意味では「日本が唯一の被爆国」と言ってはいられないよう

 

な状況になっています。そして「核拡散防止条約」の批准の問題も暗礁に乗り上げています。それからブッシュ政権ができてからは「核軍縮の問題」というのももう駄目になってきましたし・「臨界核実験」も続けている、しかも今度は「地下を使った実戦型原爆を作る」というこ

とをブッシュは言っています。そういう・」ことを考えれば、本当に今非常に危険な状態になっているのではないかと思います。広島の原爆十五キロトンというように申しあげたと思うのですが、今の水爆というのはメガトン爆弾といいましてその百倍ですから、広島の原爆の比ではな

 

いと思います。そういうことから考えて、私たちはやはりもっと今のたいへんな状況というのを見ていく必要があるのではないか、アメリカと共同してイラクに派兵するというような状態

 

を本当に見過ごしていいのか憲法九条を変えていっていいのかということを本当に真剣に取

 

り組んでいかなければいけないのではないかと思います。戦争は、差別と抑圧・貧困の大きな原因であります。私たちは、この教訓を絶対生かしていく必要があると思います。幸いにして平和憲法があることによって、「戦後六十周年」という言葉がありますが、私はやっぱり「戦後百周年」という言葉が実るようなかたちを何とか皆さんとともに努力していくことによって続けていきたいと思います。

 

四九

 

五〇

 

ちょっとこの辺で区切らせていただきます。どうもありがとうございました。

 

(司会者)

 どうもありがとうございました。たいへんな体験をされたお話をお聞きしまして、おそらく今日出席されておられる方々もいろいろなことをお聞きしたいこともあるのではないのかと思いますので、これから時間が約三十分ぐらいですけれども、質疑応答に入りたいと思います。

そこで質問ある方、申しわけないです。挙手をしていただきたいと思います。そうすると担当者の方がマイクを持って皆さんの方にまいります。そこで所属をまずおっしゃっていただきたいということ、教職員の方でしたら教職員、学生の方は学生と、それからまた学外からお越しの方は一般というかたちでいっていただいて、その後名前を申しわけございませんけれども言っていただいて、そのあと質問というかたちをとりたいと思います。それでは、ご質問のある方は挙手をお願いいたします。

 

(質問者1)

 この大学でフランス語とフランス文化を担当しております番場と申します。生き残られたが故の体験、どうもありがとうございました。ただ最後におっしゃったのですけれども、このタイトルにもあるように「核と人類は共存できない」という非常にストレートなお題を出してくださったのですけれども、何年か前に今お話にもあがった「臨界核実験」をフランスがやったとき、私もフランス語教師として非常に怒って、他の教師たちとも「何とかできないか」ということをみんなで話し合って、そして学会でフランス人の教師の方が逃げ出すような状況だったのですけれども、それから何年か経ってこのような状態になって、「核抑止力」という言葉が、本当に虚しいというか、「こんなに悲惨なことなんだ」ということを訴えていくことで、何か他に有効な方法とかないのかなと思ってしまうのですけれども、例えばここにいる私も含めて日本人が、どのようなかたちで今これほどまでに力を持ってしまったアメリカに対して、日本人として何かできることあるのでしょうかということをちょっと非常にお答えにくいと思うのですけれども、もし何かお考えがありましたら伺いたいなあと思うのですけれども。

 

五一

 

五二

 

(講師:米澤鐡志さん)

 私たちにできることは、非常に逆に難しくなっている状況です。ただ私は思いますのは、「核抑止力」というのはやはり「アメリカの原爆投下を正しかった」とする論理と同じだと思うのです。そういう意味でアメリカでは、「あの原爆によってたくさんの米兵が死ななくてすんだし、また日本人は死ななくてすんだ」と、「最小の犠牲ですんだ」ということを言いますけれども、実際には原爆がなくても日本が負けていたことは明らかですし、そういう意味で「原爆の正当化」というのは許されないし、「核抑止力」という考え方はやっぱり「原爆の正当化」につながっているというように思いますので、それについては私はやっぱり否定していきたいと思うのですが、ただ今の状況をどうしたら止めていけるかということについては私が一番期待しているのは婦人です。かつて日本は「明治憲法」の下では女性は選挙権もなかったし、子どもが兵隊に行くのも止められなかったということがありますけれども、やっぱり今女性が非常に優れた人権意識を持っておられると思いますので、半分の力を持っている女性に一番いろいろなことを考えてほしいというふうに期待しています。私自身はこういう話をどこへ行ってもするということです。十人でも、五人でも人に話をしています。今年は六十周年だったの

 

であちこちで話をさせていただき、今日で十五回目になります。こういう機会を与えていただいたら、私も七十一なので少し認知症が進んでいまして、物を読んだりすることがぜんぜん駄目になってきてはいるのですが、被爆の体験とそれについてだけは頑張って八十まででも九十まででもやろうと思っています。

 

(質間者1)

どうもありがとうございました。

 

(司会者)

その他にご質問ある方、

 

挙手をお願いします。

 

(講師:"米澤鐡志さん)

 それと時間の関係でちょっと言い落としましたけれども、「核と人類は共存できない」というのは原子力発電所を含めて私は考えておりますので、その点はちょっと言い落としておりま

 

五三

 

五四

 

したので、原発の話をすると長くなるので、そのことも一応。

 

(司会者)

 せっかくの機会ですので、できるだけ質問があればおっしゃっていただきたいのですけれども、何かございませんでしょうか。

 

(質間者H)

 どうもありがとうございました。お尋ねしたいことはいろいろあるのですけれども、いろいろなかたちの被爆者といいますか、おられると思います。そして現在、どれくらい生き残っておられるのか、そういうことも客観的なある程度の数でいいと思いますので、少し我々分からないところがありますので教えていただきたいと思うのが一点です。それからもう一つは、私の知り合いにもおなかにいたときにお母さんが被爆したという人が大学時代にいたのですけれども、非常に自分の結婚についてちょっと恐れを持っていて、そういう立場だと結婚を拒否されるのではないかという思いを持っていたのですけれども、そういうことはやはり今もお聞き

 

になっておられるのでしょうか。「被爆者の現在」みたいなところで、問題とかなり関わってくるのではないかと思いがあるのですけれども、かせいただきたいと思います。

 

人権というか、差別のちょっとその辺をお聞

 

(講師:米澤鐵志さん)

 被爆者の数については、はっきりした数を現在私は把握しておりません。今「被爆手帳」を持っている人はまだたくさんいるわけですけれども、だいたい半数以上は入市被爆者で、直接被爆をしていない後で救援とか何とかで入った人たちがいますので、例えば広島に被爆者団体協議会というのは三つあるのですけれども、そのうちの一番大きな組織が「広島県被団協」ですけれども、そこがだいたい一万四千人ほど手帳を持っていると聞いています。しかし正確な入市被爆かどうかということにはわかっておりませんので、またどこかで聞いて調べておきます。

 それと結婚とかそういう話ですけれども、私はそういうことをぜんぜん意に介していなかったのですが、結構被爆者の中にはそういう方がたくさんありまして、「私、被爆しました」と

 

五五

 

五六

 

言って手帳なんかを取り出したのは、結婚三十年後ぐらいが一番多かったのです。というのは、子どもも結婚して、それで生活も安定したということで初めて「被爆者だ」というのを明かすというふうなかたち、それは「結婚差別」なんかがあったからと思うのですけれども、打明けるのはだいたい三十周年を過ぎたころからです。私はもう一九五五年ぐらいからそういう話をしておりますので、五十年ぐらいしゃべっておりますが、普通の人はだいたいそうだと思います。だからそういう差別があったと思います。

 

(質間者U)

 ありがとうございました。ちょっと申し遅れましたけど、おります泉と申します。どうもありがとうございました。

 

本学で人権関係の授業を担当して

 

(司会者)それでは、

 

その他ご質問のある方。

 

(質間者V)

 米澤さんとは、十年ほどずうっと反戦デモで出会ってから声かけてよく知っているのですけれども、「参加者が十人切ったらやめよう、やめよう」と言いながら、最低十人で十年間いろいろ多いときも、先日亡くなった飯沼さんとも一緒にデモをやりました。それで何か組織とかスローガンというのをパッと新聞ではないけれども人が寄るようなことばかりでバーンと出るのだけれども、なんでそれが五年、十年経ったら消えていくようなことばかりで、後、人は汚職やなんだとか、今の某建築士みたいに「先生、先生」と言われて自分が上に上がるたびに何か逆に人の足をすくうようなことばかりして金儲けやって、普通の人はいわゆる金をしぼられるばかりなのだけれども、そこらどうやって我々怒ったらいいのか、私なんかいつも逮捕寸前まで人とケンカするのだけれども、そこら辺個人的にはどう思っておられるのでしょうか。

 

(講師"米澤鐵志さん)

 私もイラク戦争が始まって、有志の人たちがいろいろデモをされたりするのには参加していますし、できるだけそういうものに参加することによって少しでも多くの人たちと連帯してい

 

五七

 

五八

 

きたいと思っているわけですが、ただだんだん私も年を取って億劫になったので、例えば月曜日に京大で南京大虐殺の証言があるというので行く気があったのですけれども、昼過ぎになってからもう寒くなって出られなくなってということがありますが、やっぱりそれぞれが何とか頑張っていかないとしょうがないので、それこそ賽の河原の石積みでもできることをそれぞれがやる以外にないのではないかというように思います。どうもちゃんとしたお答えができないので、申し訳ありません。

 

(司会者)

他にご質問ございませんでしょうか。

 

(質問者W)

 この大学で哲学科の一回生の斉藤と申します。非常に失礼な言い方かもわからないのですけれども、米澤さんは「怒り」を感じてらっしゃいますか。もし感じているとしたら、何に対して一番「怒り」を感じているか教えていただきたいです。

 

(講師:米澤鐵志さん)

 難しい質問ですね。もう「怒り」はいつでも感じていまして、テレビを見てたらいつでもテレビに向かって「やめろ、やめろ」とか、「バカヤロー」とか、言わざるを得ないような今の風潮です。ですから『TVタックル』なんかは、始めはちょっと見ていて怒っていましたけれども、今はもう見る気もなくなりました。結局どういいますか、この前の選挙のような状況になったら、もう「怒り」を忘れるぐらいの感じでいます。ちょっと抽象的な言葉ですけれども、そんなところです。

 

(司会者)

 よろしいでしょうか。それでは、それ以外にどなたかご質問ありましたら。それではお願いします。

 

(質間者V)

私も米澤さんの家の近くに住んでいるもので、伊勢田からきたサトウと言いますけれども、

 

五九

 

六〇

 

米澤さんは小学校とか中学校とか、いろいろなところで子どもさん相手にこのお話をなさっていますが、子どもさんはどういう反応を示していますでしょうか。小学生とか中学生とか米澤さんの話を聞いて、今の子どもたちはどういうふうな感想を米澤さんに聞かせてくれてますか。

 

(講師:米澤鐡志さん)

 私は、小学生には例えばある小学校では五年か六年続けていますし、広島では神奈川県クラブ生協の「広島平和ツアー」というのが八月にありまして、それの三十人ぐらいの子どもには毎回被爆の話をしています。だいたい筋としては今と同じような話で、優しくしゃべるだけなのですけれども、しかしやっぱり小学生が一番反応がいいです。きちっと後で感想文をくれたのを読んでみますと、涙が出るくらい非常に大事なところをポイントをつかんで書いてくれます。それでびっくりしたのが、去年か一昨年だったか、ある小学校の子どもが先ほどの朝鮮人問題を言ったら、「日本は拉致よりもっと悪いことをしたんだなあ」というのを書いていました。それを見てやっぱりちゃんと聞いてくれているんだなあと思いましたし、それから戦争についてのきちっとした批判、「二度と核兵器を持たないための行動」というようなことをやっ

 

ばり自分たちが考えていかないかんという感想文をだいたい子どもの三割ぐらいが書いてくれます。それが私がしゃべるいちばんの元気付けになっています。余談ですけれども、最初宇治市内のある学校でしゃべったときに校長に聞かれまして、「だいたい五十分しゃべる」と言いましたら、校長が「いやあ、そりゃ五十分はとんでもない。無理です。三十分以上はもちませんよ」と、「特にこの六年生のクラスは、問題がありますから」と言われたのですけれども、いろいろ話をしておりましたら、最初は何かありましたけれども全く問題もなくて、結局五十分間最後まで聞いてくれて、しかも質問もくれたということもありますので、私は戦争や原爆について全く知らない子どもたちにもこのことを聴いてもらって反応があることが一番嬉しいです。

 

(質問者V)

どうもありがとうございました。

 

六一

 

六二

 

(司会者)

 ありがとうございます。その他にどなたかご質問はございますでしょうか。よろしいでしょうか。そうしたらこれで今日の全学学習会を閉じさせていただきます。それでは、最後にまた米澤さんに盛大な拍手をお願いいたします。どうもありがとうございました。

 それから先ほども最初にパネル展のお話がありましたけれども、今週の金曜日までパネル展示しておりますので、まだご覧になっていない方、ぜひともご覧になってください。それから受付でアンケート用紙を配布しております。ぜひともそのアンケート用紙にご記入いただいて、最後お帰りのときに受付のところで箱を用意しておりますので、そこにお出しください。今後の全学学習会どういうふうなかたちでやっていくか、そういうことの参考にしたと思います。

 それではどうも今日は、ありがとうございました。これで閉じさせていただきます。

 

講師略歴

 

米澤 鐵志(よねざわ てつし)

 一九三四年八月生。一九四五年八月ヒロシマにて原子爆弾被爆。母と妹が死亡。一九五五年原爆の子友 の会会員として第一回原水禁世界大会に構成詩「原爆はいらない」で参加。同じく広島合唱団で第一回 原水爆禁止平和音楽祭に「父をかえせ母をかえせ」合唱で参加。以後五〇年間何らかの形で「86大 会」に参加。一九七五年頃から小学校・大学・病院・各種集会などで被爆体験講話を年六、七回行って いる。一九八五年宇治平和の会設立に参加。現在京都府原爆被災者の会宇治支部役員・平和の会(宇治) 世話人。

 

人権センター叢書 vol.3

 

「核」と人類は共存できない ー一被爆者の思いー    米澤鐵志氏

 

編集・発行

 

大谷大学人権センター

603-8143 京都市北区小山上総町

 

発行日 200731

 

人権センター叢書 voL3

 

「核」と人類は共存できない

 

  ー一被爆者の思いー    米澤鐵志氏

 

 

大谷大学人権センター

 


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