解説 内藤知周著作集

 

   日本共産党のなかで

                           松 江   澄

                    1977年11月30刊行

 

 内藤さんの中国地方時代、とくに私が解説を担当することになった五〇年―六一年の約一〇年間は、彼の革命的な情熱と理論と献身が最も集中的に燃焼した時期といってもいいすぎではあるまい。そうしてそれはまた日本共産主義運動のかつてない対立と分裂の時期でもあり、全国の革命的エネルギーが日本の変革とその党を求めてきびしく競い合った激動の時代でもあった。

(1) 「日本共産党臨時時中央指導部にたいする意見書」

 この文書の位置を明らかにするためには、当時の情勢と情況にふれておく必要がある。

 五〇年一月六日、当時のヨーロッパ共産党・労働者党情報局(「コミンフォルム」)の機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』にオブザーバーの署名で「日本の情勢について」という論文が発表された。これは野坂の「占領下平和革命論」批判であった。野坂理論は「帝国主義占領者美化の理論」であり、「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない反愛国的反人民的理論である」と口を極めてきびしく批判し、アメリカ帝国主義占領者とたたかうことこそ日本人民の第一義的な任務であると激しく強調していた。占領軍を「解放軍」と規定した当初の方向があいまいなまま残っていた当時の日本共産党にとって、それは正に「晴天のへきれき」であった。政治局では激しい討論の結果、徳田書記長を中心とした多数派によって、「『日本の情勢について』に関する所感」を発表した。それは、「誤ちはすでに克服されており」野坂批判は日本の人民大衆にとって受け入れがたいものである、というものであった。一月一八日に開かれた第一八回拡大中央委員会はこれをめぐって激論したが、それはこの会議で発表された「五〇年テーゼ草案」とも深く結びついたものであった(「五〇年テーゼ草案」は徳田書記長の執筆によるもので、日本の支配体制は警察的天皇制、封建的地主制、独占資本主義の三者を国際独占資本=アメリカ帝国主義が統御していると規定して『トロイカ論』と呼ばれ、革命的な任務は国内支配体制を倒すことによってアメリカ帝国主義との闘争にいたるというもめで『串刺論』と呼ばれた)。この会議の二日目にあきらかにされた北京『人民日報』「日本人民解放の道」は、「コミンフォルム」の批判を受入れることを懇切に説いたものであったが、会議はひきつづく激しい対立の中で閉じられ、四月二八日から開かれた第一九回中央委員会総会でようやく野坂の「自己批判」が発表され形のうえでは満場一致でこの批判を受け入れることが決定されたが、すでに始まった対立は解けようもなかった。

 五月三〇日には皇居前広場ではじめて米兵がデモ隊に襲われるという、いわゆる「人民広場事件」がおき、六月六日にはついにマッカーサーの指令によって党中央委員は追放された。この間、徳田書記長は時間的余裕があったにもかかわらず、中央委員会を開くことなく主流派のみで一方的に地下に潜行し、合法的な機関として椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部を任命した。六月二五日にはアメリカ帝国主義による朝鮮侵略戦争がひきおこされ、『アカハタ』は一ケ月発刊停止となり、以後後継紙も次々と停刊させられた。党にたいする弾圧と破壊は、直接的には朝鮮戦争を開始する準備であるとともに、四九年中華人民共和国の成立によって鋭く変化しつつあったアジア情勢に対応し、アメリカ帝国主義による戦後世界経営の一環としての日本の反動勢力を激励するためのものであった。七月七日北京『人民日報』は再び「日本人民闘争の現状」を発表して、ソ・中の経験を引きながら「日本人民団結せよ、アメリカ帝国主義とその走狗にたいして奪闘せよ!」とことをわけて説いたが、すでに始まった党の分裂はもはや動かし難いものであだんことしった。「五〇年テーゼ草案」は双方からその踏絵となった。こうしてかつてない党の分裂は朝鮮戦争の開始とともに、激動する内外情勢のもとで一年以上にわたって続けられた。

 標題の「決議」の直前、当時の中国地方委員会機関紙『革命戦士』一七号には、その後も中国地方党の党内闘争の指針となった「右翼日和見主義分派を粉砕せよ!―― 党のボルシェビキ的統一のために全党に訴える――」が発表されたが、これも中国地方委員会の討議に基づいて当時事務局長であった内藤さんが執筆したものであった。このなかで、中国地方党が組織をあげて公然と分派闘争に立ち上る根拠とされていたのは、「臨中」の中央オルグが中国地方委員会と連絡をとることなくひそかに岡山、広島に潜行して中国地方内主流派「分派」を組織しょうとしたことであった。その中央オルグとは、今ともにたたかっている長谷川浩同志であり、当時政治局員として主流派の中心メンバーであった。この文書では、主流派の日常闘争主義、中立主義、合法主義をきびしく批判し、「五〇年テーゼ草案」がその精神的支柱となっていると糾弾している。

七月一八日の第一三回拡大地方委員会には、中国地方の全地区委員長と主要グループが出席し、この文書(「右翼日和見主義分派を粉砕せよ!」)を満場一致で挟択し、臨時中央指導部にたいして標題の「意見書」を決議した。それは、一つの地方組織全体が公然と臨時中央指導部、統制委員会に反旗をひるがえし、そのうえ中国地方内だけでなく全党員に反中央闘争への決起をアピールしたことで画期的なものとなった。以来、この「五〇年分裂」の闘いで中国地方党は統一委員会派(いわゆる「国際派」)最大の拠点となった。

 

 (2)「中国地方における党活動の総括と当面の任務」

 その後一年間党内闘争は激しく続けられ、五一年春以来半年にわたるカンパニアを経て準備した同年の「八・六」を成功的にたたかい終わり、党内闘争の勝利を確信していた私たちは、八月一四日夜のモスクワ放送が主流派「四全協」の「分流主義者にたいする闘争に関する決議」を「コミンフォルム」が支持したことを伝えるのをきいた。私達は呆然とした。後にわかったのはひそかにモスクワに渡った徳田書記長と袴田中央委員がスターリンの前で対決し、スターリンの「判決」は徳田にあげられ袴田が承服したということであった。少数派中央委員は次々と「自己批判書」を発表し一ケ年余にわたる党内闘争はついに敗北に終わった。広島では内藤さんと私(当時内藤さんは広島県委員長、私は広島地区委員長をそれぞれ兼任していた)が代表して「自己批判書」――納得はできないが対抗してたたかったことは誤りである――を提出し、統一促進委員として党の統一回復に努力した。五一年暮任務をすませた二人は「社経通信」―― 主として内藤さんが執筆し私が予約をとりつけた――を発行して内藤さんの生計の足し前にした。五二年夏、私は「表」の県委員長(事実上の指導部は「裏」のビューローであった)にされ、内藤さんは中央に派遣されることになり、暗い展望を語り合って別れた。その後「五全協」 で決定されていた「五一年綱領」(「新綱領」)――民族民主革命――と軍事方針に基づく極左冒険主義は次第に激しくなり、五四年私は機関から追放された。この内一度上京した際、非合法の内藤さんのすまいを 「非合法」にたずねたが、彼は志田の政治秘書をしていたようだった。以来五五年まで会う機会はなかった。

 五五年「八・六」の直前、当時一党員として第一回世界大会の準備に没頭していた私の自宅に内藤さんが飛込んできた。彼が最初にいったのは、「松江君!俺達は間違っていなかったのだ」という叫びにも似たことばだった。彼は最後には関東地方ビューロ−に属していたようだった。私ははじめて彼から「六全協」の全貌をきいた。「八・六」後、広島と中国地方党の再建ははじまった。地区、県の党会議では今までの対立と批判が一挙に吹き出し陰惨なものとさえなった。

一一月の中国地方党会議はそれらを総括し、統一し、大衆から孤立した党を再建しなければならなかった。宮本と志田が来広してそれぞれ「自己批判」を展開した(今にして思えば「六仝協」は中国共産党の指導により宮本と志田の野合によって準備されたものであった)。

 この「報告」は四七年一月以来の中国地方委員会の歴史から説きおこし、とりわけ激烈な「五〇年分裂」闘争とその後の極左冒険主義による活動をくわしく正確に総括することで新しい再出発の土台ともなるべきものであった。内藤さんは討議に基づき精魂を込めてこれを書いた。これは五〇年七月、分派闘争の出発となった(1)と呼応して中国地方党の激動に溢れた一時代の総括であり、痛苦に満ちた自己批判の書でもある。

 

 (3)「折中主義を克服するために」

 翌五六年には志田が失脚し、のち除名となった。この年、全国各地方の青年運動担当者の会議が開かれ、私は中国地方委員会の代表として出席したが、中国地方委員会の主張する「共産青年同盟」論と中央の「民主青年同盟」論とが真向から対立し、早くも革命の性格と新しい綱領をめざして意見の対立ははじまっていた。それは第七回党大会の準備が進み、五七年発表された宮本の党章草案をめぐって次第に高揚したが、新しい指導権をめぐる勢力の均衡の中で束の間ではあるが戦前・戦後を通じて日本共産党の最も民主主義的な党運営の時期が訪れた。

 この時期、内藤さんは、政治委員室のメンバーとして大会準備のため上京することになった原田議長にかわって中国地方委員会の書記(議長)となった。内藤さんと私はあいも変らぬ貧乏暮しの彼の狭い部屋で殆ど毎日のように会って討論しつつ党大会にそなえた。すでに『前衛』では党章草案にたいする賛否こもごもの意見が発表されていたが、当時発表されたソ党第二〇回大会の決定とも相まって綱領論争は活発となり、党内討論誌として『団結と前進』を発行することが決定された。内藤さんの生涯で最も充実した理論活動の最初の時期がはじまった。

 この「論文」は、「最大限確実な道」を用意する宮本の不確定戦略と非マルクス主義的な「ブロック権力論」を正面から鋭くかつきびしく批判するものとなっている。当時『団結と前進』に発表された多くの論文のなかでこれほど宮本理論を完膚なきまでに批判したものはなかった。それは宮本の最も痛い弱点を真向から衝くものであった。宮本が反対意見の代表と見なして直ちに『団結と前進』に反論を発表したのも当然であった(この宮本論文は、「アメリカ帝国主義の侵略にたいする過小評価はどこへみちびくか――綱領討議の若干の問題点について――」と題するもので、彼の著書『日本革命の展望』に再録されているところを見ても如何に彼が内藤論文批判に執念を燃やしたかがわかる)。

この文章には批判となればとことんまで容赦しない内藤さんの真面目が躍動している。

 

(4) 「今日の時代と日本の権力問題」

                                                     こうして開かれた第七回党大会では党章草案は激しい討論を経て三分の一の賛成が得られず保留となり今後の実践の中で試されることになった。この大会で内藤さんは全国の与望を担って最も年若、中央委員として選出され、ひきつづき中国地方を担当することになった。しかしこの大会で「五○年問題」を思うままに解決した宮本は次第に指導権を固め、次の大会にそなえて一歩党章討議に組織的なワクをかけ始めた。

五八年―六〇年にかけて警職法闘争から安保闘争、三池闘争へと闘いは高揚したが、このたたかいをめぐっても意見の相異は如実に表われた。

「ゼネスト」「羽田闘争」等で常に闘争を回避し、労働者階級の指導的なたたかいを「民族的」な統一戦線に解消する宮本指導部と私達はことごとに対立したが、それはもはや「五〇年分裂」のときのようにはゆかなかった。

 宮本は次第に地方、県、地区機関を自らの手中におさめ、私達は次第に孤立した。しかし内藤さんと私は盟約して、決してこの対立を下部組織におろさずもっぱら中央指導部とだけたたかうことを申し合せたが、それは今となって見ればスターリン的「一枚岩」組織論にとりつかれた日和見主義的な党内闘争でしかなかった。中央の綱領委員会では執拗に討論がくり返され、時に帰広する内藤さんからその情況を聞いて私は憤激したが彼は口外することを固く戒め私もまた固くまもった。この綱領委員会の討議で内藤さんはその中心的な位置を占めていたが、中央委員会での多数と少数との差はあきらかであり、少数派は意見の公表さえ阻まれた。こうしたなかで中央書記局が勝手に都合よく編集したほんの一部の議事録が一度だけ発表され、二、三の意見だけが『前衛』に発表されたが標題の「論文」はその一つである。この「論文」は紙数を制限されながらも、第七回大会後のたたかいをふまえ六〇年の「八一ケ国声明」から学び、今までの彼の理論を整理総括した集大成であった。これは彼の党内における最後の論文となったが、今読んで見ても極めてすぐれたものである。彼の理論論文のなかでも最も高いものといってもよいのではないか。しかし、この論文が執筆されている頃、内藤さんも私も広島ではすでに少数派であり「異端者」であった。七月、春日離党を契機に内藤さんは他の少数派中央委員とともに党から離党、除名され私もまた彼にしたがった。八月全国の同志が集まって討議したが分散してたたかった党内闘争のなかで存在する意見の相異は容易には統一できなかった。

九月、内藤さんは上京し、他の旧中央委員とともに新しい組織をつくるために没頭した。一〇月、「社会主義革新運動」準備会が結成され、彼は春日議長のもとで事務局長となり、新しい前衛党建設をめざしてその中心的な任務を担うこととなった。彼の生涯での最も苦しいたたかいの時期が始まった。

 

内藤さんを思う

            松 江   澄

 

一九四八牢八月、国鉄松山機関区のストライキ闘争にたいして、広鳥鉄道局は宇品港からスト破り要員を船で松山に送ろうとした。当時大竹に住んで中国地方委員会の仕事をしていた内藤さんは、党の方針に基づいて広島の国鉄細胞等の活動家を率いて宇品港で乗船阻止のピケを張ってたたかい、逮捕された。私は当時、広島地区労執行委員長として労組の活動家とともに公判闘争支援のため法廷にのりこみ、内藤さんと被告席の柵越しに固い握手をかわしたが、それが彼と会った最初だった。彼は例の長くて多い髪をかき上げながら、長時間に亘って内外情勢を説き、鋭く検事と裁判官に迫った。

 この法廷闘争には一つの逸話があった。それは、平等と民主主義を説きおこした彼が、裁判官と被告の椅子の不平等を例にひいて追及したところ、藤堂裁判長は自らの椅子を被告の椅子ととり替えた。裁判長も裁判長だが、内藤さんの舌鋒はとりわけ鋭いものがあった。この法廷闘争は獄中での黙否権行使の徹底さとともに、その後の広島における権力闘争の土台をうちたてた。私が翌年、日鋼闘争の法廷で五時問の冒頭陳述をはじめ、思う存分たたかい得たのも、このたたかいの教訓と伝統があったからだった。彼は私がはじめて会った最も戦闘的な革命家だった。以来昨日まで、彼は私の「兄」であり、師であった。

 長いつき合いのなかで思い出すことは数限りない。なかでも忘れることができないものの一つは、「五〇年分裂」でわれわれが勝利の確信をもった五一年八・六大会の直後、統一についての再度の「コミンフォルム批判」をきき「新綱領」を見せられた時のことだった。

 薄暗くなった県委員会の小屋で、文書を前にして二人は呆然としながらも「新綱領」の農民問題だけはすくなくとも納得できぬと話し合った。二人が同じような「自己批判書」を書いて復帰し、組織統一の捉進をはじめたが、内藤さんの生活は苦しくなる一方だった。復帰工作を完了して後、二人で職安へ行ったら「冗談でしょう」といわれたが、事実、冗談どころではなかった。私は二、三日で止めたが、彼は一ケ月余りも失対で働いた。やがて二人ではじめた

「社経通信」――主として彼が書き、板倉君が印刷した――を労組に予約購読をとりつけること等で辛うじて彼の生活は支えられたが、それも半年間だった。党の指令で上京する彼と庚午の土手で、当面の暗い展望を話し合い、再会を約して別れたのは五二年七月だ。

 その後の再会は、八・六も間近い日、当時機関から罷免され一党員として第一回世界大会(五五年)の準備に没頭していた私の家に彼がとびこんで来た時だった。私の顔をみるなり、「松江君、掩たちは間違っていなかったんだ」と叫んだ彼の顔を今でも忘れることができない。それから「六全協」の血なまぐさい総括を経て七回大会前後の党内闘争を迎えたが、お互いに広島では「下」におろさず二人だけで中央とたたかおうと約束し合った。六一年七月頃、遊上、内野氏等が釆広し、私宅の隣りの本川旅館で、春日離党の問題を検討したが、私は離党しないでせめて闘って切られてくれと要請し、内藤さんも同意した。社草ができ、分裂し共労党が生れ、また分岐した。彼は心労の極ついに倒れ、京都で病を養いようやくにして健康をとり戻した。

  党内闘争と社革以来の彼のたたかいは同じ苦しみでも異なっていた。党内闘争での彼を支えていたもの、たたかいの情熱を燃焼させたものは、どんな形にせよ、いわば「党」にたいする異常なほどの彼の律義さと忠誠さであり、その「党」による「革命」へのひたむきな追求であったと思う。その彼が社革、共労党以来、そのことそのものを改めて「疑」い、もう一度探求し直す過程でのなやみが彼を病気にさせたのではなかろうか。病癒えた彼は、上京する度の私に、現代帝国主義と現代革命の再追求を語りながらその無力さをかこっていた。健康を完全に回復した彼が再出発する日の近いことを期待していたのは私ばかりではあるまい。今、彼は、すべてから解放されて自由に飛翔し、思うままに探求しているに違いない。しかし私は、生きている彼から是非ともそれが聞きたかったのだ。

       (労働者党全国協議会議長)
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