野村光司著作リスト


No. 1
標題:大蔵省における労組つぶしの思い出/副標題:日本をおおう腐敗の根源/No:
著者:野村光司/誌名:労働運動研究
巻号:341/刊年:1998.3/頁:2〜5/標題関連:


No. 2
標題:全税関最高裁勝訴と「野村文書」/副標題:No:
著者:野村光司/誌名:労働運動研究
巻号:385/刊年:2002.3/頁:41〜46/標題関連:


「労働運動研究」電子版

ヒトラー総統と小泉首相

野村 光司(行政評論家)

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歴史的背景

 いや、今回の総選挙に到る小泉首相(以下、敬称を省略)の権力闘争には、まことに目を見張るものがあった。これまで選挙に行かなかった若者が今回は投票所に行く。「ここの候補者でも自民党でもない。小泉さんに投票する」と言った種類の話を聞かされる。まさに首相公選、否 小泉大統領、小泉総統選挙ではあった。政治家は、小泉一人で良い、小泉に声を掛けられれば有権者との接触経験ゼロでも続々小泉チルドレン、小泉翼賛議員になって行く。若者だけではない、我が年配の友も、小泉が参議院の法案否決で衆議院を解散した劇的な政治判断で「その勇気に彼をすっかり見直した」と言う。世間では小泉を桶狭間の今川義元軍に斬り込んだ信長になぞらえている。確かにこれまで日本の歴史で政治権力を一手に握るのはいずれも集団主義を反映して藤原・源平一門、武家階級、薩長郷党団、内務官僚、軍部、大蔵・通産経済官僚、或いは自民党(特に田中派)と常に集団だったのに信長は個人で日本の近世を開いたし、小泉も一人で日本の政治風景を一変させた。

 しかし信長では時代がいかにも古い。小泉と比べられる政治家を20世紀に選ぶとすれば、やはり第1次大戦後ドイツのヒトラー総統が適当だ。ヒトラーになぞらえるのは小泉に非礼だろうか。彼に殺戮されたヨーロッパ諸国民や、民族皆殺しの悲運に落されたユダヤ人にとっては、これ以上ない大悪魔だろうが、ベルサイユ条約体制で呻吟していたドイツの国民は彼を圧倒的に支持し、先進的なワイマール体制下の選挙で政権を獲得した。一旦政権につくや、その権力を120%駆使して独裁権力となったが、それでもドイツ国民は、現実にヨーロッパに君臨し世界に冠たるドイツ民族への夢と現実とを与えられたのである。もちろん僅々10年で世界の総反撃により彼の第三帝国は崩壊し、彼の肉体も敵の砲撃下の自決で滅びるが、とにかく彼一人の采配で世界の歴史をひっくり返したその意志の強さと政治力で世界歴史を作った大人物であることに変わりは無い。小泉も、日本の失われた10年とかで、経済的にも政治的にも沈滞しリストラの恐怖に戦き、対外的にはこれまでの自らの生涯で常に軽蔑してきた中国・韓国の日本を凌駕する目覚しい発展、北朝鮮の外交的したたかさを見て、日本を根本的に改造する強力な指導者を待望していたところに小泉が出現したのである。民衆の人気を直接の基盤にして、諸々の既存の政治勢力を次々に破壊する英雄として俄かに躍り出て、政権を獲得するや独裁権力者に変貌して行く過程が、ヒトラーのそれに例えられるのである。

 それでは小泉日本は、ヒトラーのドイツや、軍部強権下の日本のように近隣に侵略し、数千万人を殺戮する時代を招くだろうか。歴史は繰り返すとも、1回限りの現象とも、政治の世界は一寸先は闇とも言われる。軍部日本時代の周辺アジア諸国は、政治・経済すべてにおいて弱体で後進的であった。国連安保理常任理事国であり有人衛星を飛ばす中国はもちろん、韓国も世界に一目置かれる大国になっている。北朝鮮も核兵器を保有するらしいし中国、韓国、欧州を友にして日本だけの経済制裁に屈服させられる国際状況でもない。却って日本だけがアジアで置き去りにされているとの声もある。また当時の日独と違い、今の日本には、余り尊重されないが平和憲法があり、日独強権国家の再現抑制のため創設したような国連とその憲章とがある。これからのことは分からないが、小泉は個人的に極めて有能、有力で、割合に清潔な政治家であることも否めないが、批判勢力が存在しなくなった「絶対権力」は、「絶対に腐敗する」も真理である。少なくとも現在の小泉は、ナチス・ドイツのヒトラーと酷似する点が多く危険な存在に転化する恐れもあることを指摘しておかねばならない。 我々にどうこうする力は全くないのだが。

 

生い立ち

 ヒトラーは権門の生まれではない。父は他家に奉公をしたメードが生んだ私生児であり、オーストリア税関にノン・キャリで奉職し真面目に勤めて、一家を維持する年金を得ている。小泉は父こそ防衛庁長官(国務大臣)をしているが、祖父は刺青をして逓信大臣になった人、出自から「変人」たり得る素質はある。ヒトラーは始めから権力志向で計算して政治家の生活を始めたのではない。画家になりたく2度も美術学校を受験し学科で失敗している。オーストリア軍に一介の兵士として従軍しても階級は伍長止まり。若いときから女性にも淡白でその方面のスキャンダルもなく生涯独身であった(エヴァ・ブラウンがいたが常時居たわけでもなく子どももなく、どの程度の肉体関係だったかは分からない)。酒もやらずコーヒー店でケーキをたしなみ音楽を聴き、劇場には熱心に通っていた。小泉も結婚はしたけれども間もなく解消してその後独身を続け今も女性関係を聞かない。しきりに女性を刺客に、要職にと登用しているが、これも異性として愛するより政治的な考えだろう。父を継いで政治家になっても、政界で権力への常道であった総裁派閥に属して閥務に励んだり、政治家たちと群れをなすという風もなく、独りクラシックを聴き、劇場にも良く出掛ける芸術趣味である。ヒトラー同様、家庭も持たない。夫婦仲良く連れ立ち、或いは孫にメロメロと、肉親との愛情・煩いも無い。イエスもカントも独身であり、それぞれ愛の宗教と哲理とに徹底したが、ヒトラーも小泉も非情な政治に徹底できる。ヒトラーは自分の生活以外に財産を残す必要も無く、自殺の前の遺書にも所有物を誰それにと書くが小物だけでめぼしい財産はない。小泉も他の政治家のように利権とは縁が少なく贈り物も返送する清廉な政治家に属すると言えよう。これも「他の政治家より良さそう」の世論に寄与している。

 

ポピュリズム

 芸術家として感性が大衆の情緒に直接訴える才能をもたらす。ヒトラーはナチスの宣伝掛りとして演説によって大衆を酔わせる能力に優れ,本人もそれによって大衆の支持を確信できて強権政治の自信の基となった。ナチス当初の執行部が他の右翼勢力との合同を画したときヒトラーは党の純粋を求めて反対し脱退を宣言した。彼の大衆動員力が頼みの党は彼の党独裁要求を容れて復帰を求めざるを得なかった。後にはマスコミ動員の軍師ゲッペルス宣伝相を得て国民をナチス礼賛一色に塗り替えた。

 信長にはデマゴーグ的要素はない。田中角栄は金を集め、配り、金を政治力に転化する金権政治の天才であったが、ヒトラーと小泉はマスコミを動員して大衆を洗脳する天才的能力を備えている。小泉陣営も今回の選挙でマスコミ、特にテレビを意識して、その軍師たちが巧みに小泉劇場を作りだし、都市の若者をその気にして小泉圧勝の場を作った。アメリカのタイム誌は毎年年末に「Man of the Year」を選ぶが、ブッシュを再選させたときの投書欄に、「“Fool of the Year”を設けて、“アメリカ選挙民”を選べ」というのがあった。日本では9.11選挙の有権者がそう言われるときが来るかも知れない。

 ヒトラーは大衆を政治動員するには、国民受けをするシングルイッシューを分かり易く説けと「我が闘争」で書いている。オーストリア時代の右翼政治家シェーネラーの成功と没落を批評して「彼は多くの問題を提起し過ぎた。それでは多くの敵を作ってしまう。国民受けをする一点に絞らねばならない」と書き、また大衆取り込みの極意として「宣伝はすべて大衆的であるべきで、宣伝の知的水準は、宣伝が目指すべき者の中で最低級の者が分かる程度にすべきである。、宣伝は短く、これを絶えず繰り返す」と言う。彼はドイツの大衆が持つ漠然とした反ユダヤ感情を捉えて、ユダヤ人をすべて公職追放しさえすればすべてが良くなると力説し、反ユダヤ人感情を掻き立てた。選挙民一般は、それはユダヤ人のことで自分のことではないと思って彼の敵に回らず、彼を独裁者に押し上げた。小泉劇場でも郵政民営化を総選挙のシングル・イッシューに「郵政民営化だ。改革の芽をつぶすな」を繰り返し、繰り返し叫んだ。郵政擁護の関係者は猛烈に反対したが一般選挙民、特に都会の若者たちは郵政民営化で自分に特別な損はない、大組織破壊の格好の良い闘士を愉快犯的心情で支持できた。民主党はマニフェストであれもこれもと難しい政策を述べて大敗した。

 

靖国信仰と刺客政治

 小泉は郵政でも何でも、ぶれることがない。小泉を盟友とするブッシュもブッシュ家の宿敵フセインのイラクを叩き、そのイラクが混乱の極にある今もぶれることがない。このぶれなさでケリー候補を破って大統領選を勝ちぬいた。ヒトラーのユダヤ人殲滅論も終生ぶれない。第三帝国が崩れ落ちる中の自決の遺言にも「飽くまでユダヤ人を絶滅せよ」である。小泉も郵政民営化など誰も言わないときから今日までぶれずに、怨敵旧田中派の牙城・郵政(道路公団もか)を落し、それまで郵政民営化など一言も言わなかった小泉チルドレンたちが一斉に、郵政民営化こそ改革の根源と叫んでいる。

 ぶれなさというのは、往々に宗教的信仰が背景にある。ブッシュにはキリスト教右派の信仰が背景にある。ヒトラーはカトリックとは友好的、プロテスタントには冷たかったと理解するが、その宗教心は良く知らない。神に祈る姿は知らない。ドイツ民族が神であったろうか。小泉に仏教的寛容もキリスト教的愛も見出しがたい。しかし総理総裁になったら首相として靖国神社に参拝する公約とその信念は12億の中国人が怒っても、或いは日本のアジアにおける外交的所産がことごとく無になる危険があっても止める気配はない。靖国の神を本気で信仰することは先ずなかろう。靖国の成立事情と同じく政治的動機以外にないだろう。「平和を祈念して靖国参拝」の説明も理解できない。平和は国の最高法典・平和憲法の遵守にこそあって靖国参拝ではないだろう。靖国は維新政権の敵を倒す戦争に殉じた兵士を祭るために始まる政治的施設であり政権を批判する側を祭ることは無い。政権の命によってその敵対者を倒すことが最高の道徳、それによって死ねば神とする。A級戦犯は政権そのものにあって、その批判者、アジアの諸政府を倒す尽力をしそれ故に処刑された者こそ靖国に祭られ、最高の尊崇の対象となるに不思議はない。政権を取った小泉を批判する者、敵対する者には刺客を送ってこれを殺害せねばならない。その命に従って対立候補として選挙戦に赴く者、そして倒れた場合には最高の名誉を用意して比例の最高位を与えるのも小泉靖国信仰と平仄を一にする。小泉批判者への非情さは、仏教的慈悲が風土の日本の政治では際立っているが、ヒトラーもその批判者に盛んに暗殺し、死ぬ直前の最後を迎えた総統官邸から側近が離脱したときも親衛隊員を送って殺害させた。そこまではと諌める者もあったが、「それが私の意志だ」と答える。ヒトラー・小泉自身の意志が、憲法も法律にも優る最高意思だとの信念は、宗教的信仰と思われるほど強固である。憲法がどうあろうとアジア十数億の気持がどうだろうと靖国参拝は私の意志だ。それがすべてに優先する、と。

 

議会制民主主義の否定

 ヒトラーは政権を獲得するや、直ちに全権委任法を制定して国会も議員も無用の存在にした。小泉も組閣その他の人事に党内の意見も聞かず、重要ポストに議員を優先するところは無い。国会議員で構成される派閥の集団合議制であった自民党の派閥体制も消滅し、小泉個人がすべての人事を決定する。彼のめがねに叶えば選挙民との対話が全く無かった民間人も最重要の要職につける。人事が人々の意表をつくものであればあるだけ、彼の独裁的人事権の威力を党員は確認させられる。

 小泉独裁人事権力の最高、劇的表現が、参議院における郵政民営化法案否決による衆議院解散であった。参議院での一法案の否決で「本当に国民は私の郵政民営化に反対しているのか聞いて見たい」と称して、国権最高の機関を成し、国民の代表として一億選挙民によって選ばれて来た数百人の衆議院議員の首が、上御一人の意志であっさり切られ、炎天下に放り出され、数百億の税金を費やす政敵抹殺の選挙に打って出た。こんな憲法上の暴挙も公明党委員長は「解散すべきではないと申し上げたが解散は首相の専権ですから」と言い、民主党は「政権交代の絶好のチャンス」と、他党内の争いの側杖で他党総裁一人の恣意で首を切られながらバンザイを叫んで修羅の選挙に赴かされた。今後、小泉の権力意志が赴くところ、一億国民を玉砕させる賭けもされるのだろうか。

 こんな事態を招いたことも小泉一人に責任も力もあるわけではない。国権の最高機関、唯一の立法機関であるはずの国会の指名で任用された行政府の首相が、行政府提出の法案を国会が自主的に否決したことを理由に解散するなど69条で衆議院で内閣不信任された以外の理由ではあり得ないものを、かって馴れ合い解散、抜き打ち解散、バカヤロー解散と解散を連発したワンマン吉田の解散、特に始めて69条ではなく始めて天皇の7条だけを根拠にした抜き打ち解散の違憲性を苫米地議員が裁判で争ったとき、東京地裁も東京高裁も議員を支持したのに、例によって権力追随の最高裁は統治行為論とかで、「明文の規定は無くとも」権力の統治行為はどんな違憲・違法も裁判所は咎めないことにした。ワイマール憲法下、ナチスを育てた理由の一つに議会解散の頻発が上げられているが、日本の最高裁も、国権の最高機関、首相の任命権者である議員全員の首を、自由気ままに飛ばす巨大な権限を行政権力者に与えてしまった。それでも歴代首相は、衆議院における不信任状況や議員自体の解散要求を斟酌して解散をしたものだが、小泉は参議院での一法案の否決で、既に法案を可決した衆議院を解散するという、法の基本である「条理」にも反して解散するという更に違憲性高き解散を敢えてした。

 また憲法は、個々の国会議員が全国民を代表しその自由な審議権を不可侵として51条は「議員は、議員で行った演説、討論または表決について院外で責任を問われない」と規定するが、政界で最早この条文に言及するものも無い。あの最高裁では訴訟しても直ちに却下されると観念されている。この規定は諸外国にも日本の帝国憲法にも同じ規定があり日本の治安警察法でも考慮されていたのに、集団主義の日本の政界では左右を問わず今や誰もその存在を口にせず、党議違反の処分が罷り通っている。憲法上当然の議員の国会活動が、小泉天皇の執念に反対すれば万死に値する大逆事件となり、「自由民主」党が「不自由独裁党」であるごとくその処分に狂奔している。かって斉藤隆夫議員が議会で軍部を批判した演説をして議会を除名されたが「一億一心、小泉大政翼賛」の足音が聞こえる。小泉本人は来年、任期満了で降りるとは言うものの、小泉で引き上げられた党員・議員たちはその権力基盤の喪失を恐れて一斉に任期延長を希うことだろう。それでもかっての軍部は天皇制とともに永遠と思わたが今度の専制権力は小泉個人で、その肉体は疲れもすれば病気も怪我もし、やがては死にもする。政治では一寸先は闇だ。

 

(後記)

 私はもともと憲法とともに「自由経済・人権保護(夜警)・福祉国家」論者であり、郵政に限らず国家が財貨・サービスを直接生産する官業には批判的だし、職務の贈り物を返送し閥に群れない小泉の生活態度にも共感するのだが、明らかに日本の歴史に残る偉大な独裁的政治家となり、ナチス・ドイツや軍国日本が着々と既成事実を形成したような小泉の力に、私自身興奮しかつは日本の将来、否、アジアの平和が心配でこのところすっかり不眠症に陥っている。(20051011日)



祭政一致の恐怖(要約)

―政教分離の憲法を守れ―

 

野村光司

 

 

人間のいけにえ

 神と来世に関しては色々の宗教が色々と教えるが本当の所は誰も分からない。人に生きる力も与えるが他人には狂気にしか見えない宗教もあり得る。生きた人間を殺し、怪しげな神に捧げ或いは権力者の来世に仕えさせる。アンデスの少女ミイラ、慶州仏国寺の「エミレの鐘」、黄河の神の嫁、殷墟や秦始皇帝陵の殉葬者、いずれも一つの宗教観の犠牲者である。宗教戦争の大規模な殺し合いも現在続いている。

国教への道

 明治政府は「神ながらの古道」、「王政復古」、「祭政一致」のスローガンのもと、意識的に国家神道を編み出し、皇祖天照の伊勢神宮を頂点に全国の神社を統治体制に組み込み、他の宗教を抑圧した。天皇神の国教を子供には学校で、大人には刑法の不敬罪で叩きこんだ。帝国憲法には「天皇は神聖にして侵すべから」ざる神とし他の宗教は「安寧秩序を妨げざる限り」の自由とされた。天皇の神聖を超える神を尊崇する宗教は弾圧された。

 大陸大侵略とともに国家神道の聖典「国体の本義」を出す。天皇は人の姿を借りた現人神で、「我等はその生命と活動の源を天皇に仰ぎ奉る。天皇に奉仕し天皇に絶対随順することに国民すべての道徳の根源がある。天皇の御為に身命を捧げることが真生命を発揚する所以である」と教える。しかも天皇の政治は文武の官僚が行う。官僚・軍部は天皇の名において無数の将兵、住民を彼らの戦争に駆り立て自決させ財産を奪う専制は国家神道に基にできた。国民全部には「一億玉砕」を求め天皇と高官は松代の地下大本営で生き延びることとなった。古代のいけにえが国民全部に及ぼされることになった。一億ポツダム宣言は国民・兵士の安全は約束されたが、恐怖の「国体の護持」を確保する為に原爆と何十万の新たないけにえが供された。祭政一致の恐怖の極みである。

人間天皇と政教分離

 日本国憲法は、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさせない決意をし、主権は国民の方に存することを宣言した。戦争の惨禍は天皇を神としその名で政治権力が行使されて起きた。国民を死刑にも処し得る政治権力と理性を超えて人間を支配する宗教とは、決して、決して、結び付けてはならない。天皇は「人間宣言」をし、憲法は、天皇が象徴に過ぎず、国事行為以外に国政に関する権能を有しないものとした。国家機関ではあっても「君が代」、すなわちこの世を支配する神としては決してならない。

 一方、国民には信教の自由を何人にも保障し、何人も宗教上の行為への参加を強制されない。だが宗教団体の国との癒着は厳禁である。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならならず、国の方もその機関が宗教行事に参加し、宗教教育をするなど一切の宗教的活動もしてはならない。 祭政一致は人民には恐るべき悲劇だが権力にはその誘惑は余りにも大きく絶えずその動きがある。

個人の信仰自由は守れ

 個人の信教の自由は、思想の自由、集会・結社・言論の自由、学問の自由と並んで個人内心の自由で絶対的に保障されるべき、人権中の人権である。信仰を持つのも持たないのも自由である。外部に罪を犯し政治権力の行使をしない限り、信者同士で教団をなすことも完全に自由だ。教団内での修行も本人が承諾している限り、ある程度の苦痛を課するのも自由である。ただ内心の信仰外の「生命、身体に危害を及ぼす有形力の行使」は保障されない(最高裁判例)。

 オウム犯罪に関与した教祖や幹部の刑事責任は徹底的に追求され他人に与えた損害の民事責任も果たさねばならないが、犯罪に無関係の信者個人の修行生活は妨げてはならない。転入を拒否することは憲法上できない。個人の幸福追求権、信教の自由、居住・移転の自由、集会の自由の基本的人権がある。宗教・民族が異なる人に強い違和感を持つ人は多い。我らは関東大震災で朝鮮人というだけで片端から虐殺をした罪がある。憲法は人種、信条、性別、社会的身分による差別を許さない。自治体も信者を理由に差別してはならない。他人の信仰、宗教行事を妨げることは刑法上の罪ですらある。(国旗国歌で国籍を奪いたい知事も出る)。また国家機関が靖国神社の祭神に干渉することも許されない。

宗教団体への特権禁止

 憲法の「国の機関はいかなる宗教活動もない」原則は、愛媛玉串料訴訟で最高裁が明確に支持したが、なお宮中神道行事への公務員参列、閣僚靖国・伊勢参拝の問題が残る。

 「教団は国から特権を受けない」が教団に公道上での通行人質問権が認められてはならない。教団への免税も、非営利事業としてならともかく宗教団体と明記した免税は問題がある。フランス革命は教会と貴族への免税が一つの原因であった。一般観光客から拝観料を徴収する事業は営利事業として法人税、固定資産税等を課し得よう。国は宗教を当然に公益事業と認める態度を清算すべきである。

宗教団体の政治活動

 教団はいかなる政治的権力も行使してはならない。「政治的権力」とは、行政権、司法権ではない。教団が信者、及び教団組織を利用して行う政治活動で生み出される政治力で、量的な問題である。教団の政治活動は憲法の明文では禁止されないが、政治活動の結果、教団が政界においえて影響力を与えるようになれば違憲状態に達する。企業の適法な事業活動の結果、独占状態になれば違法状態になると同じである。オウムも創価学会も政治活動があったが一方は政治権力まで到らず他方は明らかに違憲な政治権力に達している。

 創価学会は、戦前、国家神道に抵抗して会長が獄死した経験を持つ。それが今回、君が代法、盗聴法の成立に力を貸したのは信者の意思よりは教団指導者の政治的判断であろう。それで全体が動く。祭政一致の恐怖時代を再現してはならない。

 公務員の政治活動と同じく教団の政治活動も立法によって全面的に禁止することは、憲法制定の精神に適い、これを禁ずる規定は全くない。宗教の自由は絶対に保障する。しかし政治活動と営利活動には全く特権を与えないのが憲法が宗教について期待するところである。

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