野村 光司(行政評論家)
いや、今回の総選挙に到る小泉首相(以下、敬称を省略)の権力闘争には、まことに目を見張るものがあった。これまで選挙に行かなかった若者が今回は投票所に行く。「ここの候補者でも自民党でもない。小泉さんに投票する」と言った種類の話を聞かされる。まさに首相公選、否 小泉大統領、小泉総統選挙ではあった。政治家は、小泉一人で良い、小泉に声を掛けられれば有権者との接触経験ゼロでも続々小泉チルドレン、小泉翼賛議員になって行く。若者だけではない、我が年配の友も、小泉が参議院の法案否決で衆議院を解散した劇的な政治判断で「その勇気に彼をすっかり見直した」と言う。世間では小泉を桶狭間の今川義元軍に斬り込んだ信長になぞらえている。確かにこれまで日本の歴史で政治権力を一手に握るのはいずれも集団主義を反映して藤原・源平一門、武家階級、薩長郷党団、内務官僚、軍部、大蔵・通産経済官僚、或いは自民党(特に田中派)と常に集団だったのに信長は個人で日本の近世を開いたし、小泉も一人で日本の政治風景を一変させた。
しかし信長では時代がいかにも古い。小泉と比べられる政治家を20世紀に選ぶとすれば、やはり第1次大戦後ドイツのヒトラー総統が適当だ。ヒトラーになぞらえるのは小泉に非礼だろうか。彼に殺戮されたヨーロッパ諸国民や、民族皆殺しの悲運に落されたユダヤ人にとっては、これ以上ない大悪魔だろうが、ベルサイユ条約体制で呻吟していたドイツの国民は彼を圧倒的に支持し、先進的なワイマール体制下の選挙で政権を獲得した。一旦政権につくや、その権力を120%駆使して独裁権力となったが、それでもドイツ国民は、現実にヨーロッパに君臨し世界に冠たるドイツ民族への夢と現実とを与えられたのである。もちろん僅々10年で世界の総反撃により彼の第三帝国は崩壊し、彼の肉体も敵の砲撃下の自決で滅びるが、とにかく彼一人の采配で世界の歴史をひっくり返したその意志の強さと政治力で世界歴史を作った大人物であることに変わりは無い。小泉も、日本の失われた10年とかで、経済的にも政治的にも沈滞しリストラの恐怖に戦き、対外的にはこれまでの自らの生涯で常に軽蔑してきた中国・韓国の日本を凌駕する目覚しい発展、北朝鮮の外交的したたかさを見て、日本を根本的に改造する強力な指導者を待望していたところに小泉が出現したのである。民衆の人気を直接の基盤にして、諸々の既存の政治勢力を次々に破壊する英雄として俄かに躍り出て、政権を獲得するや独裁権力者に変貌して行く過程が、ヒトラーのそれに例えられるのである。
それでは小泉日本は、ヒトラーのドイツや、軍部強権下の日本のように近隣に侵略し、数千万人を殺戮する時代を招くだろうか。歴史は繰り返すとも、1回限りの現象とも、政治の世界は一寸先は闇とも言われる。軍部日本時代の周辺アジア諸国は、政治・経済すべてにおいて弱体で後進的であった。国連安保理常任理事国であり有人衛星を飛ばす中国はもちろん、韓国も世界に一目置かれる大国になっている。北朝鮮も核兵器を保有するらしいし中国、韓国、欧州を友にして日本だけの経済制裁に屈服させられる国際状況でもない。却って日本だけがアジアで置き去りにされているとの声もある。また当時の日独と違い、今の日本には、余り尊重されないが平和憲法があり、日独強権国家の再現抑制のため創設したような国連とその憲章とがある。これからのことは分からないが、小泉は個人的に極めて有能、有力で、割合に清潔な政治家であることも否めないが、批判勢力が存在しなくなった「絶対権力」は、「絶対に腐敗する」も真理である。少なくとも現在の小泉は、ナチス・ドイツのヒトラーと酷似する点が多く危険な存在に転化する恐れもあることを指摘しておかねばならない。 我々にどうこうする力は全くないのだが。
ヒトラーは権門の生まれではない。父は他家に奉公をしたメードが生んだ私生児であり、オーストリア税関にノン・キャリで奉職し真面目に勤めて、一家を維持する年金を得ている。小泉は父こそ防衛庁長官(国務大臣)をしているが、祖父は刺青をして逓信大臣になった人、出自から「変人」たり得る素質はある。ヒトラーは始めから権力志向で計算して政治家の生活を始めたのではない。画家になりたく2度も美術学校を受験し学科で失敗している。オーストリア軍に一介の兵士として従軍しても階級は伍長止まり。若いときから女性にも淡白でその方面のスキャンダルもなく生涯独身であった(エヴァ・ブラウンがいたが常時居たわけでもなく子どももなく、どの程度の肉体関係だったかは分からない)。酒もやらずコーヒー店でケーキをたしなみ音楽を聴き、劇場には熱心に通っていた。小泉も結婚はしたけれども間もなく解消してその後独身を続け今も女性関係を聞かない。しきりに女性を刺客に、要職にと登用しているが、これも異性として愛するより政治的な考えだろう。父を継いで政治家になっても、政界で権力への常道であった総裁派閥に属して閥務に励んだり、政治家たちと群れをなすという風もなく、独りクラシックを聴き、劇場にも良く出掛ける芸術趣味である。ヒトラー同様、家庭も持たない。夫婦仲良く連れ立ち、或いは孫にメロメロと、肉親との愛情・煩いも無い。イエスもカントも独身であり、それぞれ愛の宗教と哲理とに徹底したが、ヒトラーも小泉も非情な政治に徹底できる。ヒトラーは自分の生活以外に財産を残す必要も無く、自殺の前の遺書にも所有物を誰それにと書くが小物だけでめぼしい財産はない。小泉も他の政治家のように利権とは縁が少なく贈り物も返送する清廉な政治家に属すると言えよう。これも「他の政治家より良さそう」の世論に寄与している。
芸術家として感性が大衆の情緒に直接訴える才能をもたらす。ヒトラーはナチスの宣伝掛りとして演説によって大衆を酔わせる能力に優れ,本人もそれによって大衆の支持を確信できて強権政治の自信の基となった。ナチス当初の執行部が他の右翼勢力との合同を画したときヒトラーは党の純粋を求めて反対し脱退を宣言した。彼の大衆動員力が頼みの党は彼の党独裁要求を容れて復帰を求めざるを得なかった。後にはマスコミ動員の軍師ゲッペルス宣伝相を得て国民をナチス礼賛一色に塗り替えた。
信長にはデマゴーグ的要素はない。田中角栄は金を集め、配り、金を政治力に転化する金権政治の天才であったが、ヒトラーと小泉はマスコミを動員して大衆を洗脳する天才的能力を備えている。小泉陣営も今回の選挙でマスコミ、特にテレビを意識して、その軍師たちが巧みに小泉劇場を作りだし、都市の若者をその気にして小泉圧勝の場を作った。アメリカのタイム誌は毎年年末に「Man of the Year」を選ぶが、ブッシュを再選させたときの投書欄に、「“Fool of the Year”を設けて、“アメリカ選挙民”を選べ」というのがあった。日本では9.11選挙の有権者がそう言われるときが来るかも知れない。
ヒトラーは大衆を政治動員するには、国民受けをするシングルイッシューを分かり易く説けと「我が闘争」で書いている。オーストリア時代の右翼政治家シェーネラーの成功と没落を批評して「彼は多くの問題を提起し過ぎた。それでは多くの敵を作ってしまう。国民受けをする一点に絞らねばならない」と書き、また大衆取り込みの極意として「宣伝はすべて大衆的であるべきで、宣伝の知的水準は、宣伝が目指すべき者の中で最低級の者が分かる程度にすべきである。、宣伝は短く、これを絶えず繰り返す」と言う。彼はドイツの大衆が持つ漠然とした反ユダヤ感情を捉えて、ユダヤ人をすべて公職追放しさえすればすべてが良くなると力説し、反ユダヤ人感情を掻き立てた。選挙民一般は、それはユダヤ人のことで自分のことではないと思って彼の敵に回らず、彼を独裁者に押し上げた。小泉劇場でも郵政民営化を総選挙のシングル・イッシューに「郵政民営化だ。改革の芽をつぶすな」を繰り返し、繰り返し叫んだ。郵政擁護の関係者は猛烈に反対したが一般選挙民、特に都会の若者たちは郵政民営化で自分に特別な損はない、大組織破壊の格好の良い闘士を愉快犯的心情で支持できた。民主党はマニフェストであれもこれもと難しい政策を述べて大敗した。
小泉は郵政でも何でも、ぶれることがない。小泉を盟友とするブッシュもブッシュ家の宿敵フセインのイラクを叩き、そのイラクが混乱の極にある今もぶれることがない。このぶれなさでケリー候補を破って大統領選を勝ちぬいた。ヒトラーのユダヤ人殲滅論も終生ぶれない。第三帝国が崩れ落ちる中の自決の遺言にも「飽くまでユダヤ人を絶滅せよ」である。小泉も郵政民営化など誰も言わないときから今日までぶれずに、怨敵旧田中派の牙城・郵政(道路公団もか)を落し、それまで郵政民営化など一言も言わなかった小泉チルドレンたちが一斉に、郵政民営化こそ改革の根源と叫んでいる。
ぶれなさというのは、往々に宗教的信仰が背景にある。ブッシュにはキリスト教右派の信仰が背景にある。ヒトラーはカトリックとは友好的、プロテスタントには冷たかったと理解するが、その宗教心は良く知らない。神に祈る姿は知らない。ドイツ民族が神であったろうか。小泉に仏教的寛容もキリスト教的愛も見出しがたい。しかし総理総裁になったら首相として靖国神社に参拝する公約とその信念は12億の中国人が怒っても、或いは日本のアジアにおける外交的所産がことごとく無になる危険があっても止める気配はない。靖国の神を本気で信仰することは先ずなかろう。靖国の成立事情と同じく政治的動機以外にないだろう。「平和を祈念して靖国参拝」の説明も理解できない。平和は国の最高法典・平和憲法の遵守にこそあって靖国参拝ではないだろう。靖国は維新政権の敵を倒す戦争に殉じた兵士を祭るために始まる政治的施設であり政権を批判する側を祭ることは無い。政権の命によってその敵対者を倒すことが最高の道徳、それによって死ねば神とする。A級戦犯は政権そのものにあって、その批判者、アジアの諸政府を倒す尽力をしそれ故に処刑された者こそ靖国に祭られ、最高の尊崇の対象となるに不思議はない。政権を取った小泉を批判する者、敵対する者には刺客を送ってこれを殺害せねばならない。その命に従って対立候補として選挙戦に赴く者、そして倒れた場合には最高の名誉を用意して比例の最高位を与えるのも小泉靖国信仰と平仄を一にする。小泉批判者への非情さは、仏教的慈悲が風土の日本の政治では際立っているが、ヒトラーもその批判者に盛んに暗殺し、死ぬ直前の最後を迎えた総統官邸から側近が離脱したときも親衛隊員を送って殺害させた。そこまではと諌める者もあったが、「それが私の意志だ」と答える。ヒトラー・小泉自身の意志が、憲法も法律にも優る最高意思だとの信念は、宗教的信仰と思われるほど強固である。憲法がどうあろうとアジア十数億の気持がどうだろうと靖国参拝は私の意志だ。それがすべてに優先する、と。
ヒトラーは政権を獲得するや、直ちに全権委任法を制定して国会も議員も無用の存在にした。小泉も組閣その他の人事に党内の意見も聞かず、重要ポストに議員を優先するところは無い。国会議員で構成される派閥の集団合議制であった自民党の派閥体制も消滅し、小泉個人がすべての人事を決定する。彼のめがねに叶えば選挙民との対話が全く無かった民間人も最重要の要職につける。人事が人々の意表をつくものであればあるだけ、彼の独裁的人事権の威力を党員は確認させられる。
小泉独裁人事権力の最高、劇的表現が、参議院における郵政民営化法案否決による衆議院解散であった。参議院での一法案の否決で「本当に国民は私の郵政民営化に反対しているのか聞いて見たい」と称して、国権最高の機関を成し、国民の代表として一億選挙民によって選ばれて来た数百人の衆議院議員の首が、上御一人の意志であっさり切られ、炎天下に放り出され、数百億の税金を費やす政敵抹殺の選挙に打って出た。こんな憲法上の暴挙も公明党委員長は「解散すべきではないと申し上げたが解散は首相の専権ですから」と言い、民主党は「政権交代の絶好のチャンス」と、他党内の争いの側杖で他党総裁一人の恣意で首を切られながらバンザイを叫んで修羅の選挙に赴かされた。今後、小泉の権力意志が赴くところ、一億国民を玉砕させる賭けもされるのだろうか。
こんな事態を招いたことも小泉一人に責任も力もあるわけではない。国権の最高機関、唯一の立法機関であるはずの国会の指名で任用された行政府の首相が、行政府提出の法案を国会が自主的に否決したことを理由に解散するなど69条で衆議院で内閣不信任された以外の理由ではあり得ないものを、かって馴れ合い解散、抜き打ち解散、バカヤロー解散と解散を連発したワンマン吉田の解散、特に始めて69条ではなく始めて天皇の7条だけを根拠にした抜き打ち解散の違憲性を苫米地議員が裁判で争ったとき、東京地裁も東京高裁も議員を支持したのに、例によって権力追随の最高裁は統治行為論とかで、「明文の規定は無くとも」権力の統治行為はどんな違憲・違法も裁判所は咎めないことにした。ワイマール憲法下、ナチスを育てた理由の一つに議会解散の頻発が上げられているが、日本の最高裁も、国権の最高機関、首相の任命権者である議員全員の首を、自由気ままに飛ばす巨大な権限を行政権力者に与えてしまった。それでも歴代首相は、衆議院における不信任状況や議員自体の解散要求を斟酌して解散をしたものだが、小泉は参議院での一法案の否決で、既に法案を可決した衆議院を解散するという、法の基本である「条理」にも反して解散するという更に違憲性高き解散を敢えてした。
また憲法は、個々の国会議員が全国民を代表しその自由な審議権を不可侵として51条は「議員は、議員で行った演説、討論または表決について院外で責任を問われない」と規定するが、政界で最早この条文に言及するものも無い。あの最高裁では訴訟しても直ちに却下されると観念されている。この規定は諸外国にも日本の帝国憲法にも同じ規定があり日本の治安警察法でも考慮されていたのに、集団主義の日本の政界では左右を問わず今や誰もその存在を口にせず、党議違反の処分が罷り通っている。憲法上当然の議員の国会活動が、小泉天皇の執念に反対すれば万死に値する大逆事件となり、「自由民主」党が「不自由独裁党」であるごとくその処分に狂奔している。かって斉藤隆夫議員が議会で軍部を批判した演説をして議会を除名されたが「一億一心、小泉大政翼賛」の足音が聞こえる。小泉本人は来年、任期満了で降りるとは言うものの、小泉で引き上げられた党員・議員たちはその権力基盤の喪失を恐れて一斉に任期延長を希うことだろう。それでもかっての軍部は天皇制とともに永遠と思わたが今度の専制権力は小泉個人で、その肉体は疲れもすれば病気も怪我もし、やがては死にもする。政治では一寸先は闇だ。
(後記)
私はもともと憲法とともに「自由経済・人権保護(夜警)・福祉国家」論者であり、郵政に限らず国家が財貨・サービスを直接生産する官業には批判的だし、職務の贈り物を返送し閥に群れない小泉の生活態度にも共感するのだが、明らかに日本の歴史に残る偉大な独裁的政治家となり、ナチス・ドイツや軍国日本が着々と既成事実を形成したような小泉の力に、私自身興奮しかつは日本の将来、否、アジアの平和が心配でこのところすっかり不眠症に陥っている。(2005年10月11日)
原子力発電所の「安全性」崩れる!
震災想定の甘さ露呈
7月16日の中越沖地震により、火災や放射能を含んだ水の海への排出、ヨウ素など放射性物質の放出など重大な事態が明らかになった柏崎刈羽原発。事業者や原子力を推進する国の省庁に都合の良い「想定」の基に建てられた原発の信頼性は、現実の地震の前に崩れ去りました。トラブルの報告は、日ごと増えその被害の大きさと深刻さ明らかになってきました。
そして東京電力のずさんな対応、報告の遅れは、事故・トラブル隠し、データ改ざんをしてきた隠蔽体質そのものです。もはや原子力を扱う資格などありません。活断層の調査のいい加減さも露呈しています。そしてそれを許してきた国の責任も重大です。大事故が起こる前に、新たなヒバクシャを生み出さないために、電力会社への責任追及、国の原子力政策の転換を今後も強く求めていきましょう。
県原水禁と県平和運動センターは、経済産業大臣と原子力安全・保安院長あてに「原発の耐震指針の抜本的な見直しと全原発の総点検を求める」、東京電力あてに「震災による被害の解明と迅速で正確な情報開示、全原発の総点検を求める」要請文を送付し、7月23日、中国電力山下隆社長宛に、島根原子力発電所の停止・廃炉、3号機建設停止、プルサーマル計画の中止、上関原発建設中止を求め、以下の申し入れ書を送付しました。
中越沖地震による原発事故を教訓に、
原子力発電所の耐震設計の見直し、活断層の評価、 耐震性を徹底調査し迅速で正確な情報開示を求める 7月16日午前10時13分ごろM6.8の中越沖地震が起き、震源に近い柏崎を中心に広い範囲で大きな被害が起きた。この地震により稼働中の柏崎刈羽原発
2号炉、3号炉、4号炉、7号炉の4基が緊急停止した。幸いにも大事故に至らなかったことは、まさに不幸中の幸いであった。国が主張する原子力発電所と原子力施設の「安全性」は根底から崩された。柏崎市が出した緊急使用停止命令は当然である。トラブルが明らかになるにつれ地元住民や国民の原子力発電所に対する不安や不信感は増大している。 |
仏大統領選でサルコジ政権誕生
フランスの社会と政治はどうなるのか
福田玲三(フランス問題研究者)
'
さる5月6日に行われたフランス大統領選挙第2回投票の結果は、右翼のニコラ・サルコジ候補が1898万3408票(53・06%)を獲得し、1679万0611票(46・91%)の左翼セゴレーヌ・ロワイヤル候補に勝利した。
仏社会党の分裂の歴史
これまで、フランス社会党は敗北のたびに割れている。
1993年、総選挙での敗北後、ミシェル・ロカールは「ビッグバン」を遂行できなかった。
2002年、リオネル・ジョスパンが大統領第1回投票で脱落した後、オランド第一書記は党
革新を開始するに足る権威の定着に成功しなかった。さらに05年、ヨーロッパ憲法への国民投票で「反対」が勝利した後、社会党は党内で行った全国投票によって危機におちいり、分裂の瀬戸際まで追詰められた。
95年だけは、ジョスパンが大統領選挙に敗北したあと、社会党は内部分裂をさけた。このときの敗北は、今日のロワイヤル夫人の敗北によく似ている。
ロワイヤル夫人と同様、ジョスパンは社会党の機関と対立して選挙に立った。得票率も似ている。ジョスパンは47・4%で、このとき第1回投票ではトップに立って世間の耳目を驚かせた。ロワイヤル夫人は46・94%で、今回は、02年におけるような第1回投票での脱落をまぬがれた。
しかし、得票数では違いがある。今回は有権者数が飛躍的に増え、投票率も非常に高くて、ロワイヤル夫人の獲得した1679万0611票というのは、ジョスパン元首相の得票数を260万票上回っている。大統領選挙における左翼の3回連続の敗北を記録したものの、彼女の得票は社会党候補としては史上最高に達した。彼女の獲得票数は、フランソワ・ミッテランの1981年における最初の選挙のときよりも108万2349票多く、88年に再選されたときの票よりも、かすかすだが、8万6332票多い。
指導力、路線、同盟関係
だからロワイヤル夫人の敗北が手痛いものであっても、彼女の資格は損なわれてはいない。
5月6日の夕方、彼女は野党の指導者として、「政治活動の、政治方法の、そして左翼そのもの革新」をさらに遂行すると語ることができたのも、そのためだ。この点でも夫人はジョスパン民に似ている。彼は95年の敗北から5ヵ月後に、代議士をすてて第一書記の地位をえらんだ。彼は社会党の活動を再開させ、テーマ別の会議を3回重ね、党を団結させて98年の総選挙にそなえた。そしてシラク大統領が予定を早めて97年に議会を解散したとき、社会党はこれを待ち受け、大統領の思惑とは逆に、総選挙に勝利した。
社会党の改革が不可避的なものであるとすれば、そして、6月10日、17日の総選挙の結果が、大方の予想どおり、敗北に終れば、社会党にとっては最悪の状況となろう。そのときは、臨時大会がたぶん秋に予想され、そこでは指導力、路線、同盟関係の三つの問題が、党革新のために解決されなければならない。
まず指導部の問題で、この10年来党第1書記であるオランド氏は、2005年11月のマンス大会で、これが最後の任期とのべているので、たぶん、留任はむずかしい。ロワイヤル夫人が代議十をつづける気であれば、彼女は側近を党指導部に送るだろう。たとえば、フランソワ・ロブスマンで、彼は書記次長、ディジョン市の市長、そして彼女の選挙運動の共同総括者だった。
路線の問題では、社会民主主義の容認か、左翼への逸走かの選択に党は直面している。ロワイヤル夫人は選挙運動で、北欧の例を取上げており、彼女が社会民主主義箪新の路線を守るのであれば、党内左派は分裂に出る危険がある。その際、彼らが優先するのは「進歩主義党」で、これはドイツでオスカー・ラフォンテーヌが社会民主党の左に作ったものがモデルになっている。
指導部、路線とあわせてロワイヤル失人が解決しなければならないのは同盟関係だ。彼女が頭に描いているのは、イタリアのプロディ首相による中道から極左にいたる連合のタイプだ。
しかし中道のバイルからトロツキー派のブザンスノまで抱える虹の連合は現実的ではないだろう。だが、社会党の左の、緑の党と共産党がともに今回の第一回投票で後退している現状では、バイル氏の「民主運動」との接近もタブー視できないのではないか。
「68年5月」批判が示す サルコジの戦略
サルコジが選択しているのは資本の支配的思考である競争価値の優位であり、連帯の価値は無視される。サルコジが選ぶのはどのような形にせよ、市場経済への従属である。彼が大金融、大産業グループに支配された世界から脱出できるとか、脱出を望むなどとは考えられない。これらのグループはさらに、メディアと出版の大部分を掌握している。
サルコジ氏のイメージには恐怖がつきまとう。郊外の緊迫した問題に、彼が解決を迫られたとき、最悪の不幸が予想され、是非はともかく、彼は郊外居住者にとっては打倒の対象になっている。国際関係で彼の不謹慎な発言はアフリカとアラブ世界で完全な不信をまねいている。
米国以外にほとんどいたる所で、彼の印象は最悪だ。彼の仲間はスペインのアズナール元首相であり、イタリアのベルルスコー二元首相だ。
サルコジ氏とロワイヤル夫人の両大統領候補は新たな世代として、それぞれに改革の展望を提起したが、サルコジの改革意欲は、労働の価値と個人能力の倫理(もっと働けば…もっと稼げる)に依拠する。一方、ロワイヤルの意欲は、社会的対話を拡大強化して、国おと企業と労働者のあいだの敵対関係を和らげることにある。これが成長を取り戻すうえでの障害になっているのだ。
サルコジ戦略が最もよく分かるのは、彼が1968年5月を批判して、われわれは今なおこの遺産にしばられているとしていることだ。彼が狙っているのは権威の確立だ。たしかに68年5月は、あらゆる分野の権威にたいする告発であり、あらゆる階層秩序の否認だ。そこには行.き過ぎもあった。しかし、68年5月は決定的で有益な改革の源泉になった。そこからは女性にとっては妊娠中絶の権利や、その他さまざまな成果がもたらされた。68年5月がなければジスカール・デスタン元大統領の世評高い措置は何も行えなかっただろう。
サルコジ戦略の目的は、68年5月や左翼の文化的ヘゲモニーに異議を挟むことだけではなく、罪悪感をもたずに、国民意識を排外主義にもってゆき、自由主義を支配的な政治思考として推進することにある。ここにわれわれが立会っている退化があり、その均衡が崩れれば急速に憂慮すべきものになる。ここに真の「サルコジ・ショック」
がある。彼は避けて通れないとされる経済的自由主義とその精神面への跳ね返りの綜合を体現している。サルコジを悪魔扱いにはしないが、この点では譲歩すべきでない。彼のなかに「プッシュ」がいるというのは、誤りではない。権力を集中する大統領にたいして、社会党が対抗勢力の役割を果たさなければならない必要性と緊急性がここにある。
【参考資料】
・『ル・モンド』5月9日、ミッシエル・ノーブルクール氏論評・『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』2218号、ジャン・ダニエル氏論評
(gekan senku2007.07より)
6月30日久間防衛大臣が、先の大戦での米国の原爆投下について「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている」など述べたことに対し、県原水禁と平和運動センターは7月2日別記の抗議文を安倍首相、久間防衛相に抗議と罷免・辞任を求めました。
この座り込みには原水禁国民会議の福山真劫事務局長、井上年弘事務局次長も広島市長との懇談の前に参加しました。
また、7月2日慰霊碑前で、12団体による抗議と罷免を求め95人が、そして、東広島市役所前では憲法を守る東広島地区協議会の呼びかけで19人が座り込み行動を実施しました。
抗議文(別紙)⇒「久間章生防衛大臣の原爆容認発言に強く抗議し、防衛大臣の罷免と辞任を求める」
2007年7月3日久間章生防衛大臣の辞任表明についてフォーラム平和・人権・環境
久間章生防衛大臣は7月3日、長崎への原爆投下は「しょうがない」とした発言の責任をとり、大臣を辞任する意向を表明しました。原水禁と平和フォーラムは、大臣罷免と被爆者への謝罪を求める要請文を政府に提出、被爆地である長崎・広島の原水禁も抗議行動に取り組みました。さらに、被爆者団体の強い抗議も行われました。野党4党も一致して、大臣の罷免を要求しました。久間大臣の辞任表明は、こうした行動をはじめとした、久間発言と核兵器に反対する世論の成果であると考えます。
久間大臣の発言は、不見識な一閣僚の発言にとどまるものではありません。安倍内閣の進める日米軍事一体化と「戦争のできる国作り」のなかで、これまで防衛省(庁)・自衛隊の行動を規制してきた様々な制約が、一挙に外れてしまったことの現われなのです。私たちは久間大臣の辞任で事態を終わらせることなく、安倍総理の責任を強く追及しなければなりません。
安倍内閣の成立以降、久間防衛大臣のもとで、米軍再編関連法や改正イラク特措法が成立し、米軍とともに「海外で戦う軍隊」としての役割が明確になってきました。一方で海上自衛隊掃海母艦の名護市辺野古への投入や、陸上自衛隊情報保全隊による平和運動監視が発覚するなど、自衛隊の「治安維持機関」としての役割も明らかになりました。
上述した防衛関連法だけではなく、安倍内閣は今国会で、改憲手続き法、教育関連3法、年金特例法、社保庁改革法などを強行採決しました。生活者・労働者を切り捨てる様々な制度改悪も進んでいます。国会では自民・公明両党による多数派の横行がまかり通っているのです。しかし一方で、報道各社の世論調査では安倍内閣の支持率は急速に落下しています。こうした世論を背景に、参議院選挙で与野党逆転を実現すること、その上で早期の解散総選挙に追い込み政権交代を実現することが、重要な政治目標となってきました。
原水禁と平和フォーラムは、全世界からの核兵器の廃絶を求めます。また核を含む先制攻撃を前提とした日米軍事同盟と、そのための在日米軍再編に強く反対します。原水禁と平和フォーラムは、安倍内閣の進める「戦争のできる国作り」を許さない取り組みを、今後も一層強めていきます。
久間防衛大臣は、6月30日千葉県麗沢大学の講演で、米国の原爆投下を正当化する発言をしました。 県原水禁と平和運動センターは直ちに安倍首相と久間防衛大臣に対し、抗議と防衛大臣の罷免、辞任要求を送付しました。
|
集点 東京を人間にやさしく、安全で、文化的な都市に変えよう!
統一地方選の幕開けの13都道府県知事選がスタートした。この中で、最も注目されるのが有権者1000万人を越える首都東京の都知事選である。この選挙結果は7月の参院選ばかりか、安倍政権の命運を含め今後の政局に重大な政治的影響を与えることは必至である。今回の都知事選の緒戦で、共産党が石原都知事の都政私物化を暴露し、民主党の候補選び迷走で有権者の間に拡がった厭戦気分を一変させた役割は大きい。
宮城県知事3期の実績を持ち、情報公開などで革新知事として著名な浅野史郎氏が市民に押されて立候補を表明したのを契機に、有権者の間から石原都政打倒の機運が大きく盛り上がってきた。ところが共産党は、浅野氏が出馬表明を行った直後から、志位委員長談話やr赤旗』紙上で浅野批判の口火を切り、浅野宮城県政が高齢者、医療、保育、教育費を「冷酷」に削減して無駄な巨大開発を増やし、「県の借金を倍加」させたとして、石原都政も浅野県政も「うり二つだ」という攻撃を強め、選挙戦に入ってからいっそう激しさを増している。
共産党の意図が「浅野のほうが石原よりマシだから、候補者を統…しろ」という声を封じ、参院選を有利に闘う態勢を作ることにあることは明らかだ。だがどう見ても共産党の浅野県政批判は、「福祉の浅野」の実績や情報公開も含めた浅野県政の先進的側面をまったく無視する点で公正さを欠いている。その典型が「国民健康保険証取り上げ」問題だ。
志位氏は前記の『談話』で、前県政で0件だった「国保証取り上げ」が、浅野県政下の02年から急増し、05年には2,330件に
達したと指摘した。だがここでも浅野県政下の2000年でも0件だった事実は黙殺している。
だがそれよりも根本的な問題は、志位氏が小泉政権以降の政府の福祉予算の削減や厚生労働省の「国保証取り上げ」の強権的な行政指導、地方住民の貧困化と格差拡大などの諸要因と切り離して論じていることである。まして「国保証」の交付主体である市町村行財政の窮迫化の現状の検討が棚上げされ、宮城県段階の集計数字だけて浅野県政を非難している。こういうやり方は明らかに正しくない。
事実、「国保証」取り上げが02年から一挙に激増したのは東北6県全部にわたり、青森県などは01年の0件が02年には1,981件、同じく.福島県が443件から2,046件に激増していることでも明らかだ。これでは政府の福祉切捨て政策を免罪するに等しい。
現在、自民党指導部は安倍首相ら極右派に牛耳られ党内が大きく揺れ、政治・経済・外交・安全保障など政策全体にわたる対立と矛盾は激化する…方である。こうした中で、かつての保守本流の…部と、民主、社民など野党陣営や無党派勢力の間で、憲法・格差是正・『労働ビッグバン』などの諸問題で、政治勢力の再編成が進行する一方で、広範な平和・民主連合を形成する可能性も広がっている。
これに対し、共産党は今度の統一地方選挙でも「オール与党」対共産党という路線で闘おうとしているが、いったいこれで安倍政権の改憲路線と闘って勝てるのか。しかもこの闘いには21世紀の日本とアジア人民の運命がかかっているのだ。浅野候補は、選挙マニフェストで「情報公開で透明な都政」、「高齢化対策の強化と介護労働者の労働条件の改善」、「障害者対策の強化」、「直下型地震対策の促進」、「公立学校での日の丸・君が代の強制の中止」等を公約している。今こそ民主勢力は石原都政打倒で連合し、共闘すべき時である。(柴山)
映画『日本の青空』は、憲法学者・鈴木安蔵の学生時代以後の人生を紹介しつつ、1920年代から満州事変(「事変」という名の、宣戦布告なき侵略戦争)を経て敗戦、そして新憲法成立にいたるまでの日本の歩みを振り返る。「日本国憲法は外国から一方的に押しつけられたんだ」という主張は事実に反し間違っていることが、この映画を見ると良く分かる。
敗戦当時の日本政府は、大日本帝国憲法を引き写したような憲法草案しか作らなかった。一方、鈴木安蔵らは「憲法研究会」を組織し、「日本は共和国になるべきだ」と主張する高野岩三郎が会長となって民主的な憲法草案を練り上げていく。GHQ民政局のラウエル中佐らがこの案に注目し高く評価した結果、彼ら日本人の草案が下地となって今の日本国憲法が成立したのである。鈴木安蔵の本は戦争中、敵国であるアメリカの研究者たちによく知られ読まれていた。GHQの中にその読者がいたことも「憲法研究会草案」高評価の背景にあったようだ。
GHQと、戦前の非民主的な考えを≪そのまんま≫引きずった日本政府側との、女性の地位向上実現に向けた激しいやりとりも印象に残る。また、「憲法研究会草案」に入っていなかった軍事条項は、最終的な政府案には9条の戦争否定条項として織り込まれた。日本軍国主義復活への外国の警戒心が非常に高かった事情が映画から読み取れる。この映画では、軍事条項を空白にしておいた(それには、わけがあったのだが)鈴木がこの9条を見て満足する姿が描かれている。それに、しっかりした妻・鈴木俊子の人柄が魅力的で感銘を与える。
国民主権・基本的人権の尊重・戦力不保持(平和主義)を3つの柱とする新憲法は大日本帝国憲法を明確に否定した。希代の悪法「治安維持法」違反の罪で逮捕・投獄され、天皇制ファシズムの暴威を身をもって体験した鈴木ら良心的な日本人の努力がなければ今の新憲法はできなかったであろうことを、この映画は教えてくれる。だから、「『中身がよければいいじゃないか』という考えは間違いだ。憲法は手続きが大事だ」と映画の中で語る安倍晋三の言葉が、映画を見終わったあと大変むなしく響く。
「今の憲法は外国からの『押し付け』憲法だ。だから手続きに問題がある」と非難し、「『押し付けられた』ことだけを口実にして『中身』、とりわけ9条を改悪してしまおう」とたくらむ者たち。この『日本の青空』は、そんな彼らへの痛烈な反撃となっている。商業上なかなか採算のとりにくい「憲法制定」という難しい主題を扱いながら、時代背景もよく分かり、引き込まれる映画だ。上映時間123分が少しも長く感じられない。 (井上遥)
仮題『被爆動員学徒の生きた時代』 小畑弘道著 出版に寄せて 評者 米澤鐵志(高雄病院元事務長)
出版社 たけしま出版 定価1500円 (4月出版予定)
広島の小畑弘道さんが故近藤幸四郎氏の原水禁,被爆者運動を軸に書かれた本が出版される。
著者の小畑氏に始めて会ったのは、彼が同志社大学在学中時の、ある集会だった。彼が「私は政治にはあまり興味がないが、いいだももに興味をもっている」と言うような発言をしたのを聞き、彼は文学青年だなと感じたのと、広島出身で私と同郷だと知り好感を持ったのが最初だった。
先日労研編集部の室崎氏から「今度、小畑氏が近藤幸四郎氏の本を出すので書評を書け」と依頼された。
私が「まだ見てもいない本の書評は書けない」と言うと、「小畑さんに言って原稿を送らせるから、とにかく書け」と押し付けられた。
間もなく小畑氏からA5サイズ 百二十七枚のコピーが送られてきた。
原稿を読んでみると、その中身が豊富で、近藤幸四郎氏への愛情と彼の運動への信頼感が溢れていて素晴らしい本になると感じた。
私が近藤氏に会ったのは、この本にも述べられているが、広島駅前の小さなビルの二階に置かれていた松江澄の事務所だった。私が帰郷したとき事務所を訪ねたところ、たまたま近藤氏がいて、松江さんか久保田さんに紹介された。
その時は全電通の活動家で、ここの家主の息子さんと言うことだったが挨拶程度で終わったと思う。
二度目は山口氏康氏が宮崎安男氏と近藤氏を連れて、当時私の勤めていた京都の高雄病院に二泊三日の検査入院したときだった。帰広する前の晩は、私の手作りの醸造酒を飲んでよもやま話(もちろん運動や政治の)をして大いに意気投合した。
話の中で「明日の帰りは、途中で金閣寺によって金箔を少し剥いでいこうか」などの冗談も出て検査とはいえ入院中の患者との会話を遥かに超えていた。
その縁もあって、会えば「てっちゃん」「近ちゃん」と呼ぶ仲になり、八・六に帰広するたびに近藤氏と一緒に食事をしたりした。近ちゃんは忙しい人で、いっしょにいるのが原水禁大会に来た外国代表であったり、国連の事務局職員であったり、又本書にも登場するデルタの会のメンバーだったりが一緒で実に多彩な話が聞けた。
九十九年だったと思うが八・六集会のあと平和会館に寄ったら石田氏(原爆投下の時、爆心七百五十米の地点で私と同じ電車に乗っていて、氏は兄を、私は母を喪うという奇跡の生き残り同志)と、これも旧知の朝被協会長の李実根氏と近ちゃんと私の四人がそろい、「七日の午後一杯やろう」という話が出た。私は七日の昼迄には京都に帰らねばならず、またの機会ということになったが、残念ながら実現しなかった。
本の中身に入るが、彼が本格的に組合活動に参加する契機になったのは共産党との関係だった。
《六十二年当時の全電通広島県支部大会は執行部側と共産党系代議員側との対立が極度に先鋭化し、荒れた大会になった。
その背景には、前年、共産党中央指導部の方針を批判して共産党を離党した林田史朗副委員長に対する理不尽とも言える個人攻撃が行われていた。
彼は、電通細胞のリーダーで「林田学校」といわれて人々の信望を集めていた存在であったが、硬直した組織による人身攻撃の横行を嫌っていた。
大会での議論は合理化、生理休暇、政党支持、国際問題に至るまで事案ごとに蒸し返され、聞かされた側の代議員はうんざりだったというが、この中で行われた役員選挙で異例なことが起こる。
支部役員の定数通りの立候補で信任投票になったが共産系の候補者(屋敷代議員、後に日共広島市議)が不信任になり再投票、再々投票でも不信任に終わり、欠員になった専従役員の補選は次期委員会に持ち越された。
屋敷は共産党系代議員が多数を占める支部委員会で信任を得ようとして再び立候補した。
近藤は所属する分会の有志と相談して負けを承知で対立候補として出ることにした。
支部大会で三回にわたる投票で信任されなかった人が少数の委員会で信任されることは、どうしても我慢できなかったである。
立候補に当たっては、相手陣営から厳しい攻撃にさらされたが、投票結果は、意外にも彼が当選したが、彼にしては予想外の当選で、家族、職場の仲間にも賛成してくれる者がなく困難な状況であったが、止むなしとして、専従役員として活動することになった。》
しかし党の独善的方針で、運動で敗北し、職場で孤立した党員を論功行賞で市会議員にする日共の姿勢は一般には理解できないことだろう。
翌六十三年が激動の年だった。日本の平和運動は、前年の原水禁大会でソ連の核実験をめぐってゆれにゆれ、全電通内部も対立と決別の渦に巻き込まれていた。
いわゆる、いかなる国の核実験問題に対する共産党系の態度は、原水禁運動を分裂させ被爆者団体も分裂させられた。
近藤は「ヒロシマ」の体験者として、核実験およびその被害を絶対に許すことが出来ず、ソ連の死の灰なら喜んで浴びるとか、ソ連の原爆は放射能がないなどの暴論を許すことが出来なかった。
近藤は政治に強い関心を持っていた訳でもなかったが、それでも全電通の組合員になって以降は共産党にシンパシーを抱くようになり、選挙では共産党の候補者に投票していた。
共産党の硬直した、独善的路線が近藤幸四郎という稀有な活動家を生み出したことは間違いないと思う。
またこの本の特徴は、近藤の本分である現場主義をあらゆる章で紹介していることだろう。
彼が全電通被爆者運動を下からの運動に広げた動機に、ある女性の夏期手当てが異常に低いのに驚いて当局にただすと、「その女性は上司にも無断でよく休む」と言われた。近藤が当人に聞くと、彼女は被爆者で、肉親を喪い自身も肝機能障害や無力症で原爆病院に入退院を繰り返しており、職場に知れたら首になると悩んでいた。それを知った近藤は反核運動が職場の被爆者を置き去りにしてカンパニアに走っていたと反省した。他にも職場の中で悩みを持った被爆者がいるに違いないと考え、全電通広島の「被爆者対策結成準備会」を結成し、被爆者がどのくらいいるか調査した。
当時多くの被爆者は結婚問題や被爆者差別を恐れ、内緒にしていた。被爆手帳の申請をしない人も多かったし、実態調査も困難を究めたが、彼は運動を通じて被爆実態を明らかにし、当局に被爆者の健康管理を求めて「全電通広島被爆者連絡会」を結成し交渉を始めた。
しかし当局は当然の如く、「それは国の問題だ」として一蹴されるが、国や自治体が被爆者援護法の問題として知らんといっても、現に電電公社に働く被爆職員が健康に不安を持ち、病弱で職務遂行にも支障をきたしている以上、公社は責任を持って問題解決にあたれと迫った。まして公社は政府機関の一つであり、国家の戦争責任、補償の要求に答えよと交渉を続け、72年には被爆者、被爆二世の健康管理の充実、二世を含む実態調査の実施などを勝ち取った。
いち早く国労は被爆者対策協議会を設置し、当局に入院する被爆職員を「公傷扱い」にすることを当局に認めさせていた。
広島被爆協は、一、被爆体験記の募集 二、実態調査と被爆者手帳申請の呼びかけ 三、略 四、運動を全国化する を決めた。ついには七十三年、全電通被爆者協議会が結成され、近藤は事務局長になる。
同じ頃広島県教組も「被爆教師の会」を結成した。長崎県にも呼びかけ、同じく「被爆教師の会」が結成され、間もなく「全国被爆教職員の会」に発展する。以後、動力車労組、自治労、全専売、高教組、全水道、放影研、広和労などに次々と被爆協が設立された。各組織の全国化と、総評被爆連に発展し援護法作成のため「政府に直接交渉できる総評を窓口に、統一要求として取り組む」ことになる。
近藤が取り組んだ一女性労働者の、被爆者の悩みが対政府交渉にまで発展したのだ。
近藤の仕事で凄いのは広島被爆者団体連絡会議の結成とその事務局長に就任する。
国労広島地本の呼びかけにより広島県教組と全電通広島の三者で、被爆二世について地域で輪を広げながら共同で取り組むことを確認し、「被爆二世問題連絡会議」を発足させた。この連絡会議に十年前に分裂した広島県被団協(原水禁系、森滝理事長 原水協系、田辺理事長)が被爆二世問題で同一のテーブルに着いたことであった。
連絡会議は県、市に対し被爆二世の健康診断の無料検診の実施と一部治療費の援護措置として具体化させた。
当初七団体でスタートした連絡会議は、二つの県被団協も正式参加し、最後には十三団体となり、消極的だった行政を被爆二世問題に前向きにさせていった。
「被爆二世連絡会議」はフランスの核実験抗議の座り込み、被爆者援護法のシンポ、援護法制定中央行動への派遣、ABCC問題での同労組との相互討論、自衛隊十三師団の広島市内パレードに対する抗議行動をおこなった。「広島被爆者団体連絡会議」準備会が「広島被団連」になり近藤事務局長の腕の見せ所となった。援護法制定のための知事交渉、市長交渉、中央交渉への参加、広島県警の教組弾圧、平和教育への弾圧抗議、核保有国の相次ぐ核実験に対する慰霊碑前の抗議の座り込みなどなど多岐にわたる共同行動がおこなわれたが、中でも特筆すべきは広島市民を巻き込んだ「自衛隊市内パレード阻止闘争」だった。
自衛隊は六十五年から創立記念日として市中パレードを行ってきたが、年々これに抗議する人が増え、七十二年には県労会議など労働者、市民三千人が抗議したにもかかわらず、翌七十三年、来栖師団長は例年通り開くと発表した。これに対し広島被爆者団体連絡会議準備会(近藤幸四郎事務局長)が「陸上自衛隊が予定している広島市中パレードは被爆市民の心を踏みにじるものだ」と中止を求める抗議声明を発表し、「私たちの親、兄弟の血が流され、おびただしい白骨が眠っているこの地を軍靴と戦車が踏みにじるのを黙ってはいられない」とした。
知事への申し入れ、市長室前の座り込み、数多くの団体の師団長への抗議など運動は広がり、パレード当日は自衛官一七〇六人、戦車七台など車両一九三台、航空機十二機が参加した。県警は二千百人体制で臨んだが、対する総評系組合員や被爆者、学生ら一万二千人、さらに、これを取り巻く市民四万五千人余が詰めかけ騒然としたなかで終わった。
翌年、来栖に代わった新しい師団長は「交通事情への配慮」を理由にパレードの中止を発表、隊内で行うとした。
この闘いは広島の平和運動の中でも画期的な出来事で、多くの新しい平和の担い手が作られ、多様な形で運動が繰り広げられている。
近藤の被爆死者と被爆者への哀悼の念は誰もが認めるところであり、その私心なき運動は、十余年前役員選挙で手痛い打撃を受けた日共さえ人民の敵近藤を運動のなかで認めざるをえなかった。
原水禁運動の分裂と七十三年の中央から頭ごなしの統一という、現地を無視した問題についても、この本は詳しく触れている。「運動は地域から起き、具体的課題で大衆の行動から進んだが、分裂は中央の党派や大労組、団体などのセクト主義が無理やり現地無視で強行されたが、今また現地を無視して中央からの統一という運動の規制(組織統一の条件に一致したこと以外の行動、たとえば反原発運動は認めない)が始まろうとした」と鋭く批判している。
これに関連し、ミニコミ紙で「被爆列車と統一列車」と題しての原稿に、七十五年二月に広島、長崎から被爆者、被爆二世が夜行列車を仕立てて大挙上京し中央行動を展開したときのことを書いている。
「大成功の中央行動の総括会議の後の雑談で、総評のA氏と原水禁中央のH氏と単産本部のO氏が異口同音に広島、長崎現地代表に「被爆列車はすんだ、次は統一列車だ、今度は東京から統一列車を仕立てて広島、長崎に向かうからよろしく」だった、しかし問い返した、「誰と誰がのってきますか」と、返事は今のところまだはっきりしてないが、同乗の誘いを二、三かけている。なんとか統一列車を走らせたい」ということで、どうも統一列車を走らせることが目的のように思われた(中略)広島、長崎の痛みと訴えを知りすぎる程知る者にとって、このようなことが批判、反発なしに受け入れられるはずがない。以後、不統一列車が走り、来たり、来て“統一世界大会”と銘打つセレモニーが開かれた(中略)がその間、老いた被爆者が苦しみつつ命を奪われていく、と痛烈に結んでいる。
また近藤は国際的活動についても数度にわたる渡米訪欧で現地の運動と交流し具体的行動の経験をし、自らの現地主義(西ドイツの緑の党など)に自信を深めた。
交友関係でマスコミのことにも触れているが、毎日新聞宇治支局の記者も近藤さんに貴方のことを聞いたと私を訪ねてきた記者も数人おり、中には記事で紹介したりもした。
広島の被害と加害については、八十年代から加害責任の問題がクローズアップされたが、これに対して八十九年八月の「毎日新聞記者の目」に「語り部を問い詰めないで」という記事が載った。内容はある中学生グループが平和公園周辺を歩いて「平和学習」をした時のことだった。語り部のAさんが韓国人原爆犠牲者の碑の前で碑とそれに関する日本の加害責任、民族差別に触れなかったとし、A子さん宅にA子さんの“不勉強”を責める手紙が数多く来た。
A子さんはそれ以後語り部活動を殆どしていない。(中略)
記者は被爆者が体験を人前で語るに至るまでの心の葛藤は大変なものだとし、他の語り部の言葉を紹介している。
「被爆者であると同時に、加害者の立場にあったことは免れない。でも、自分の被爆体験を語ることだけで精いっぱいで加害責任は?と問われたら、何も答えられない。」(中略)老いた被爆者には「八月六日、九日に起きた事実」さえ語ってもらえば、それでいいのではないか。
格時代の原点で人間は何をしたか、その悲劇を干からびさせることなく、生々しく後世に伝えるという一点で被爆者と若い世代が結びつくことがまず第一だ。
「広島は加害者か被害者か」という検証を被爆体験のない側から押し付けるのは慎むべきだろうとし、戦争の根元=加害責任を問いただす姿勢が原水禁運動や平和運動に課せられているのは当然だが、それを語り部に求めるのは筋が違うと思う、と結んでいる。
近藤はこの意見に賛成し、加害責任や差別の問題は大切で勉強しなければならない。
「だが、最近まで家庭の主婦として沈黙を守ってきた証言者もいる、そんな人に加害について語れとは私は言えない。三十六万人の被爆者のなかで、増えたとはいえほんのひと握りの人がようやく重い口を開き始めたに過ぎないことを考えて欲しい」『一億総懺悔』は責任をあいまいにするだけである。
被爆者はまず被害者である。そこに立脚して、問題を掘り下げていくことによって被害者同士が連帯できるはずである。そこにこそ、国を超えて結び合うことが出来るであろう」
被爆者援護法の問題はこの運動の中では原点であり「国はまどえ(補償と謝罪)」を五十五年頃から一貫して主張してきた。
この本は、野党四党で被爆者援護法を国会提案させ、村山内閣で被爆者援護法というまがい物が出るまでの長い道のりを近藤の活動を通して紹介している。
国家に謝罪させる、戦争の責任を取らせるという被爆者の願いは、村山内閣でも果たされず、当時社会党広島県本部委員長石田明(全国被爆教師の会会長)氏は次のように批判している。
《政府与党が「決着した」被爆者援護法案は、悲憤の声とともに社会党村山内閣への不信感をヒロシマに巻き起こした。村山総理は、政府与党案を「最善のもの」だと言った。しかし、この法案が出来るまでの社会党や政府内の動きを見てきた私は、とうてい同意できない。「核兵器廃絶」というヒロシマ、ナガサキの純粋な願いは、政争の具とされ、社会党政権維持のために利用された。私はヒロシマの地の社会党委員長として、戦後最大の耐え難い憤怒の念を心に抱いている。広島、長崎の生き地獄は何であったのか。》
被爆者援護法の大きな壁であった、国との雇用関係や官僚の言い分に対する批判も随所に出されている。
近藤は国が慰霊碑の横に造った国立原爆死没者追悼平和記念館に対し「核廃絶、平和への政府の決意を感じさせる建物でないと作る意味がない、また、外国人被爆者にも触れるべきだと主張」し、執拗に被爆七団体の事務局長として数度の癌手術で余命が見えていたが、最後の力を振り絞った。建設理念を示す説明に「この館に納められた遺影が、誤った国の政策の犠牲者であること。核兵器廃絶を国家が誓うこと」と明記させた。
《単なる追悼記念館ということだけでなくて、国があそこで死者に対する、きっちとした謝罪をして、今後、反戦、反核を誓うという館にしたかったのだ。
ちょっとニュアンスが薄れたけれども僕はそれで満足している。だからアジアの人がきても、日本はこういうことをしてくれたんだ。国が負の遺産である戦争と原爆を刻んだということが大きな意義があると思う。(中略)記念館は、人間の心、亡くなった人の心の問題に踏み込んでいる。そういう意味では破壊力と違う意味での重みがある。原爆の破壊力はよく知られているがそれによってどれだけ家族崩壊が起きたのか、個人個人がどんなに苦しい思いをして亡くなったか、遺族はどれだけ悲しんだか追悼記念館に行くことによって分かると思う。『風化』は最大の犠牲者である死没者に対する慰霊の気持ちが薄れたときから始まる。国の施設として、日本の過去に対してどのような認識を国の内外に示すことが適切なのか。国民みずからが戦争犯罪を考えることなく『全体』の責任があいまいにされてきた》と近藤は語っている。
また原水禁運動が始まって以来の多くの人たちや近藤と運動をともにした組合の仲間についても、その運動の紹介とともにヒロシマの運動史とも言える詳しい紹介がされている。
ただ、この本で紹介が洩れていると思われるのは五十七年から十数年広島原水協、原水禁の事務局次長として活躍した故板倉静夫氏に触れられていないことだ。私は五十八年、六十年と平和会館に板倉氏を訪ねたが森滝、伊藤満、伊藤壮先生に囲まれて平和会館を仕切っていた感じがする。
訪ねてきた被爆者や大学の偉い先生の中でいつもニコニコ人の話を聞き、相談に乗り、いろんな人と酒を酌み交わし信頼されていた。近藤も、伊藤さかえさんも、高橋さんも日詰さんも当時平和会館に出入りしていた人で彼と話をしなかった人はいないと私は思う。藤居平一氏も然りで信頼できる次長で、家業に専念するときも板倉氏に期待し任せたのではないかと思う。
また日共系が勝手に自分たちだけで被団協をおん出て分裂したときも、多くの人は板倉氏を信頼して日共の執拗な分裂工作も、彼の説明で多くの人が跳ね除けたのではないかと思う。
その他戦後処理の問題でも、軍人・軍属・一般戦災者、外国人被爆者、在外被爆者のそれぞれ差別についても詳しく触れている。
最後に、近藤さんが亡くなったとき山口氏康氏が「日本の平和運動は、いや世界の反核平和運動にとっても大きな痛手である」と嘆いたのを紹介しておく。(引用は原稿(草稿)に拠る)(2007.2.14)
新しい年と中曽根力イライ政権の動向
1983年1月 労働運動研究 No.159
焦点
鈴木にかわる自民党政権が中曽根首班になることは、予備選の結果を待たなくとも国民の誰もが予想した。だが、予備選は河本ら反主流派が意外に弱く、中曽根の圧勝に終わったことで、刑事被告人田中角栄の自民党内における支配力がまだ強大であることをまざまざとみせつける結果となった。
入閣した閣僚の顔ぶれは、まさに田中内閣そのものであった。党幹事長には灰色高官二階堂進が留任した。官房長官には田中の参謀後藤田正晴、蔵相に竹下登、法相に秦野章、自治・国家公安委員長に山本幸雄と、竹下を除く警察出身の田中派で固め、しかも同派だけで六人も入閣し、ふらつく風見鶏の根元を固めた。
中曽根はこれを「派閥にとらわれない能力中心の人選」という。しかし世間は闇将軍が采配したロッキード裁判シフトの内閣、国民不在の政府だと批判する。灰色高官加藤六月(福田派)を国土庁長官に起用し、党内非主流派の中心福田派のシフト批判封じに使ったところなど、角栄一流の巧妙なやり口だとみる見方が強い。
〃第三次田中内閣〃と名づけた方がふさわしいこの新政府の眼前には、人勧凍結や仲裁裁定実施問題、国鉄再建監理委設置法案など労働者階級にとって大問題が山積している。そうした具体的案件をふくめて、「増税なき財政再建」をはたし、 「行財政改革を推進する」ことは、ない袖をふるよりむずかしい魔術師の仕業である。
中曽根は施政演説で「『思いやりの心』と『責任ある実行』を政治の基本に据える」と強調した。 「何よりも心の触れあう社会、礼節と愛情に富んだ社会の建設を目指したい」とさえきれいごとを並べた。
中曽根はまた行革の実行を「『たくましい文化と福祉の国』をつくる突破口」だと表現した。しかし、行財政改革とは高度成長のツケである国家財政の赤字をすべて、労働者人民に押しつけ、・その犠牲の上に資本主義日本の延命をはかろうとする独占資本の戦略であることは明らかである。前首相鈴木は、この難業をロッキード裁判シフトと抱きあわせで田中に押しつけられ、嫌気がさして退却したのである。中曽根は首相になりたい一念から、あえて「困難におくすることなく、最も緊要な政策課題として取り組む」と言い切った。
中曽根は組閣早々、まずレーガン大統領との訪米日程を取りきめ、アメリカを「最も重要なパートナー」として「日米問の信頼関係の一層の強化」を訴えた。防衛費についてもGNP一%を守るとは言い切っていない。中曽根のお目付役後藤田官房長官は「GNP一%で国の安全を図ろうなんていうのは日本しかない」 「戦後三十六年間で何が遅れているかというと国の安全保障、防衛の問題だ。防衛費はふやさ,ないと仕様がない」と公言している。中曽根内閣がアメリカに追随して、軍事大国化の道をすすむことは明白である。
しかし、それよりも何よりも、中曽根内閣の最重要課題は、本年二月に予定されるロッキード裁判の論告求刑、'秋の判決の影響をいかに薄めるかにある。それは闇将軍の至上命令である。
中曽根内閣の支持率は三七%、歴代内閣の最低であり、情勢は日々に悪化しても好くならないことが観測されている。永田町では、通常国会再開冒頭の国会解散説さえ流れている。自民党いや田中派にとってロッキード裁判の火の粉が一番少なくて済むからである。
日本の労働者人民は、このような刑事被告人にふりまわされる国民不在の反動政府を、一日も早く葬らなければならない。わたくしたちは、今こそ反自民・反独占の大綱で大同団結する時である。 (C)
二六歳未満の若者を雇えば最初の二年間は自由に解雇できる初期雇用契約(CPE)に反対する学生のストやデモがフランス全土にひろがった。
シラク大統領下、ドビルパン首相がこの法律を、下院審議を省く憲法規定を適用して強行採決させた背景には二二%に達する若年失業率の高さや、グローバル化によって雇用制度の柔軟化を求める産業界の声があった。
たしかに欧州連合内で二五歳未満の失業率が八%台と低いオランダ、アイルランド、デンマークなどでは長い試用期間が認められている。そして若年失業率がフランスよりも低い英国、ドイツでも、雇用条件はフランスよりも雇用主に有利だ。
しかし、デンマークでは失業したときの安全網が強力であるし、雇用の柔軟化には再就職紹介などの公的支援が組み合わされなければならない。それにフランスでも九七〜〇二年のジョスパン社会党政権は、主として若者を対象にした先進的な労働政策を実施して失業率を目に見えて引き下げたのに、〇二年からの右派政権はそれらを次々に切り崩すことで、失業率をまた元の高い水準に戻してしまったのだ。
統一行動が威力
今回のCPEに先立ち、ドビルパン首相は、〇五年夏に従業員二〇人未満の小企業に「採用から二年は説明なく解雇できる」というCPEと同種の雇用制度を導入し、この制度によって約三〇万人が半年間に雇用された。その成功に勢いづいて、ドビルパン首相は功を急いだ。
本年一月一六日、ドビルパン首相が月例記者会見でCPEを発表。
二月 七日、全国約一五〇都市で抗議行動。
三月 七日、学生、労組のデモに全国で一〇〇万人が参加。
九日、CPEを含む新雇用機会平等法が成立。
一四日、社会党が憲法評議会に提訴。
一六日、デモに一〇〇万人。
一八日、デモに一五〇万人。
二三日、デモに四五万人、大学生よりも高校生が目立つ。
二四日、首相と労組団体が初会合。
二八日、デモに三〇〇万人。国鉄では二八%の労働者がストに参加。新幹線の三分の一、在来線のほぼ半分が運休。主要都市の地下鉄やバスも大幅な間引き運転。航空も管制官のストで国内便の約三分の一が欠航。公立校では教員の約四割がストに参加。パリの国立オペラ座は新旧両館とも二八日夜のバレエ公演を臨時休演。国立シャイヨー劇場、フランス座も週内の一部公演を休止。フィガロなど主要全国紙は印刷所のストでネット上のみの「発行」。公共ラジオも通常の番組を音楽などに切り替え。
三〇日、憲法評議会がCPEを合憲と判断。
三一日、シラク大統領がCPEの公布を宣言。
三月中の逮捕者約一四〇〇人。負傷者も約四五〇人。
四月 四日、前回と同じく、デモに三〇〇万人。
五日、与党と労組が初協議
一〇日、首相がCPE撤回を発表。
今回のフランスの労働者と学生の闘争を、冷ややかに見る目もないわけではない。朝日新聞(四月二日付)のパリ特派員の記事は、「楽しく危うい『街頭政治』」という題で、「自由な意思表示は民主国家のあかしだ。同時に、兵舎や宮廷や街頭で國が動かないようにする知恵が、議会制民主主義ではなかったのか」と冷やかしている。
同じ論調で、英国の新聞は、「革命以外では変れない國」とフランスを茶化しているという。しかし、理屈で正しいことと、現場の労働者の肌で実感することとは別だ。「国会を通った法律は適用する」と主張していたシラク大統領も、労働者と学生の統一行動のまえに、ついに屈服した。このフランスにおける大衆行動の勝利に、レバノンやギリシャの街頭行動が勢いづいたとのニュースも伝えられている。
フランスにおける社会運動には、フランス大革命以来の伝統がある。最近では一九六八年の五月革命が、硬直化した既存の体制に衝撃をあたえ、その影響は七〇年安保を闘う日本にまで及び、翌年、ドゴール大統領は国民投票に破れて辞任、やがてミッテラン左翼政権の樹立に道を開く。八六年、保守派のシラク首相は新自由主義的な教育改革を提案、これに反対する学生運動を労働組合が支持し、手痛い打撃をうけたシラク首相は八八年の大統領選で敗退した。ミッテラン政権下、九三年の総選挙で大勝した保守派は九四年、若者の最低賃金を削る法案を提出したが、これはデモで葬られた。九五年、大統領に選出されたシラク政権下で、ジュペ首相が提起した社会保障改革は、ストによって全交通機関が三週間止まるなかで撤回を余儀なくされた。
日本にも運動の伝統
日本にもこのような大衆運動の経験がないわけではない。一九六〇年の新安保条約反対闘争では、二一次にわたる安保阻止統一行動のなかで、米大統領新聞係秘書ハガチーが羽田でデモに包囲されてヘリコプタで脱出、これによって米大統領アイゼンハワー訪日が断念され、岸内閣は新安保条約を通したとはいえ、直後に総辞職し、その後を継いだ池田内閣は「寛容と忍耐の精神」をかかげる「低姿勢」で発足せざるをえなかった。
一九四九年に発生した松川事件では、国鉄と東芝の労働者合せて二〇名に死刑を含む有罪が宣告されたが、「松川被告を救えという……人民結束の規模と大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史にも未曾有のことであった」(作家・広津和郎氏の起草による碑文から)とたたえられる大衆的裁判批判闘争の空前のひろがりのなかで、一九六三年に被告全員の無罪が確定した。
国労としては一九七一年にマル生反対闘争に決起し、同年一〇月、国鉄当局は国労にたいして陳謝文を提出し、生産性教育の中断を表明した。
このところ日本の労働運動や学生運動は低調に推移しているが、やがて風向きが変れば、これまでの伝統は蘇るだろう。小泉内閣がもたらした社会的格差の拡大が、社会運動復活のきっかけになるかもしれない。(2006.9.25) (福田玲三)
島田博明
労働運動研究 1987年9月 No.215号
高度情報化社会と階級
資本主義社会の一定の発展形態が高度情報化社会と称されるようになる契機は、情報処理、情報復製、および情報伝達に関わる技術の発達である。そして技術を基本的にコントロールしているのは資本であることから、高度情報化社会は以下の三点の特徴をもつ。
@情報の量的過剰。郵政省の「情報流通センサス」によると、総消費情報量は、八五年と七五年を比較すると一・一三倍であるが、総供給情報量は一・八一倍にも増加している。また七五年には供給情報量は消費情報量の一一倍であったが、八五年には一八倍となっている。
A媒介的・一方向的情報の増加。供給情報量の増加の内容をみてみると、会話とか教育といった人間相互間の直接的かつ双方向的なコミュニケーションはほとんど増加せず、増加の大部分は、テレビに代表されるマスメディアによる一方向的な情報供給である。
B産業の情報化から情報の産業化への進展。情報技術はまず生産過程に導入されて、生産力を増大させ、次に労働力の生産過程(以下再生産過程という)へ浸透していく。再生産過程とは労働力としての人間の物質的再生産過程であると同時に、精神的再生産過程でもある。賃金や社会保障等の所得の再分配は、資本による物質的再生産過程に対する統制であり、公教育やマスコミは精神的再生産過程に対する統制の代表的なものといえる。情報技術はこの精神的再生産過程に対する統制手段として活用しうるのである。
高度情報化の進展により、階級社会が消滅するという主張がある。その根拠をなしているのはFA(ファクトリ・オートメーション)の導入により工場生産は無人化.自動化されること、およびOAの導入により単純事務労働が不要となり、専門的技術的労働のみが人間労働として残存するという予測である。
大橋隆憲著『日本の階級構成』(岩波新書)の方式により、八五年までの階級別労働力人口構成の変化を見ると、上記の予測は実証されない。確かに専門的技術的職業従事者は増加しているが(八○年、四一〇万人↓八五年、五二〇万人)、 生産的労働者層も増加しているのである(一六三〇万人↓一七二〇万人)。また事務従事者も増加している(八七〇万人↓一〇〇〇万人)。 人口構成比でみても、生産的労働者層の構成比は減少せず、二九%を維持し続けている。
以上は日本国内の人口構成であるが、階級構成を見る場合、帝国主義という視点も考慮しなければならない。八一年の通産省の調査では日本企業の海外現地法人が雇用している従業員数は八八万人である。最近、円高対策としての生産拠点の海外移転が加速しているので、この数字は現時点では相当増加していると推定される。
このように生産的労働者層総体としての量的減少は認められないが、その内部の構成は変化している。労働省の雇用動向調査によると、製造業において、七六年と八五年を比較した場合、大企業の生産的労働者は二四五万人減少し、一方、中小企業では八八万人増加しているのである。また事務従事者についても大企業では三三万人減少し、中小企業では二五万人増加している。このように、生産的労働者、事務従事者は「消滅」しているのではなくて、大企業から排除され、中小企業へ移動しているのである。国税庁の「民間給与の実態」によると、八四年において、十人未満の事業所と、五千人以上の事業所の一人あたり年間平均給与は二五四万円と四九一万円であり、一・九倍の格差がある。このように生産的労働者層の内部構成をみた場合、階層間の下への移動傾向が認められ、また階層間格差は依然として存続していることが確認できる。
マルクス主義の階級論
高度情報化による階級社会消滅論は誤りであり、生産的労働者は増加し続けているが、このことをもって、マルクスが『共産党宣言』で述べた、二大階級への分極傾向の証明と理解するのも誤りである。従来のオーソドックスなマルクス主義は、この二大階級分極論を絶対的法則として擁護してきたが、七〇年代の「マルクス主義国家論ルネサンス」の過程を経て、 『共産党宣言』の二大階級分極論は、一八四八年の革命の挫折のあと、マルクス自身により転形されているという解釈が一般化してきた。すなわち階級闘争を二大階級の単純な敵対としてではなく、同盟、ブロック、組織上の諸形態、体制、政治的代表者、政治的イデオロギー、諸分派、諸党派等の概念を導入することにより、さまざまなレベルで複合的に構成されるものとして把握するにいたったという主張である。
このマルクス主義階級論の刷新の中で、焦点のひとつどなったのは「新しい中闘階級」としての、専門的技術的職業従事者、事務従事者、販売従事者およびサービス職業従事者の位置づけである。専門的技術的職業従事者と事務従事者の増加傾向については先に述べたが、従来「剰
余価値を生産しない」あるいは「物質生産ではない」という理由で、不生産的労働者と位置づけられ、あまり分析もされてこなかった販売従事者、サービス職業従事者も急速に増加している(四四〇万人↓五一〇万人、二四〇万人↓二七〇万人)。 この「新しい中間階級」を国内だけの人口構成でみると、七五年以降は生産的労働者層を人数的には上回っている。
情報化社会の階級構成
情報技術は、生産技術として、労働をより生産的にする点ではこれまでの工業化社会をささえてきた技術と変わりない。生産過剰を加速し、販売競争を激化させることにより、直接生産費の削減(その手段として下請化や海外生産)と販売費の増加(その結果として販売従事者の増加)をもたらす。
しかし一方で情報技術は再生産過程の統制手段として機能する。これまでは消費者全体を対象とした大量宣伝ー大量販売がマーケティング戦略の主要形態であったが、情報技術は個々の消費者の欲求内容の収集、蓄積、分析をある程度可能とすることから、これからはターゲットをしぼった効率的なマーケティング戦略が増加するだろう。したがって大企業での販売費はクレジットカード、POS、顧客管理システム等の情報機器やソフトウェアへの投資に向けられ、販士冗従事者の増加は抑えられ、生産的労働者や事務従事者と同様に、大企業から販売代理店等の中小企業への販売従事者の移動がおこると考えられる。このようにして大企業の労働者が中小企業の労働者を管理・監督するという労働者階級内の多階層化はいっそう強まる。
さらに情報技術は、個人の商品購売欲求だけでなく、社会意識や世界観の統制も可能とする。人間の社会意識は現実がそのまま反映してつくられるのではなく、社会規範や常識といった世界了解のパターン、イメージの経験的学習によってつくられる。それらは必ずしも論理的な体系をなしていない。したがって支配階級のイデナロギーが被支配階級に受容されるためには、いったん社会規範や常識のレベルに翻訳される必要がある。マスメディアから発した影響力は、まずオピニオンリーダーに達し、次にオピニオンリーダーが読んだり、聞いたりしたことを日常交際している誰かれに受け渡していくという「二段階仮説」も同じことを語っているにすぎない。
階級構成においては、資本家と労働者の直接的敵対という図式はますますあてはまらなくなり、 「新しい中間階級」と生産的労働者、大企業と中小企業、男性と女性といった多階層化が進行し、媒介的な敵対へとド変化している。その結果として、利害の敵対性の反映としての階級意識の成立という図式もあてはまらなくなる。 マスメディアやオピニオンリーダーといった媒介物を資本がコントロールすることにより、巧みに翻訳された資本のイデオロギーの受容を生みだしている。二大階級分極論とともに、反映論および科学的体系的認識の優位性を基礎とする階級意識論も刷新を迫られている。
表紙へ
更新2009.9.5