特集 ロシア革命70周年とペレストロイカ

われわれにとつてのロシア革命

 松江 澄 

 労働運動研究 198711月 No.217

             

 ロシア革命から七〇年。その一年半あとに生れた私にとってそれは殆んど私の一生である。私が生れた年には、この革命の影響のもとに朝鮮三・一独立運動が起り、中国では五・四運動が始まった。

 この革命のとどろきが日本にとどくと、各方面に大きな衝撃が走った。その一つとしてよく例に出されるのは、友愛会機関紙の「労働及産業」にのった懸賞論文「ロシア革命の感想」――仙台支部会員の一文である。

 「迅雷霹靂のごとくロシアに大革命がおこって、またたく間に天下は労働者の手に帰してしまった。私は想像できなかった事実であるから、一時、面くらってしまった。だがやはりロシアではほんとうに、そんな天下が現われたのだ。私はおどり上った。そして家にかけこんで子供らをだきしめてこう叫んだ。『オイ小僧ども、心配するな。お前たちでも天下は取れるんだ! 総理大臣にもなれるのだ!』 いはばロシアの革命はわれわれに生きる希望を与えてくれたのだ」と。

 そこには躍り上って無条件に喜ぶ日本の労働者の声があり、国境を越えた労働者の連帯がある。だが子供に托すその希望は、その期待はかなえられたのか。確かに労働者でも総理大臣にはなれたが、果して労働者の 「天下」 になったのか。ベレストロイカという「第二の革命」 は始まったが、労働者の「天下」は未だしと云わなくてはならぬ。しかし私達が一つの革命を考えるとき、その革命に寄せる熱い期待とその革命が世界に与えた影響についての冷静な洞察とを混同してはなるまい。一つは主観的で精神的なものだが、もう一つは客観的で物質的なものであるからだ。

 七〇年前のロシアは当時のヨーロッパ先進諸国から見ればけっして心許した仲間ではなく、ヨーロッパ東辺の古くおくれたツアーの帝国として、中枢諸国の支配者達にとって恰好の 「憲兵」 であった。それは自らの周辺に位置するトルコやポーランドにたいしては威丈高に振舞いつつ時として侵略するが、ヨーロッパ中央諸国にたいしては事によって噛みつくがおおむね従順な番犬であった。

 その大国ロシアがひっくり返って労働者と農民の国になったことがどんなにヨーロッパの支配者達に大きな衝撃を与えたことか。それから三〇年、東欧につづいて今度はアジアの果ての大国である中国が同じように逆転した。ヨーロッパ帝国主義が切りきざんで植民地的領有と尨大な商品市場を分ち合い、おくればせに乗り出した日本帝国主義が十五年に亘って侵略をつづけた中国が一九四九年ついに人民中国に生れ変った。

ロシアというヨーロッパとアジアにまたがる大帝国、中国という世界で最も古くかつ広大なアジアの超大国が帝国主義の味方から敵になったのだ。世界をそのしくみにひきずり込み、世界中を己れの貪欲な欲望のほしいままの対象にしていた資本主義の体制から完全に離脱したのである。

 これは巨大な歴史的事実である。この巨大な客観的事実またその影響と、それぞれの革命への思い入れのくい違いや失望とを混同してはならないと思う。

 それはそれとしても、なお私達の念頭を去らないのはそのロシア革命が世界の労働者の期待にどう応えたか、というその革命像である。はじめてこの世で実現された社会主義革命として、社会主義とは何かという一般的な命題を、その革命像のなかにあらわすという意味で重大である。しかし残念ながら今日もなおわれわれから見れば、すこぶる期待に副わない問題が常に語られる。

 その問題とは人間の解放に向うべき民主主義と自由である。それは労働者・人民が主人公であることの証である。そうして結局のところ、社会・経済の発展の過程でいつかはきっと通るはずの近代的市民社会を経過しないで早産した革命だからだ、と、その古くさい官僚主義を批難するのが常であった。つまり、進んだヨーロッパ――進んだ「脱亜入欧」日本――から見たおくれたアジアの必然だと云うわけである。

 しかしそれは自分の身の丈に合わせて他人のオーダーメイドを批評するようなものである。それはまた、革命ということでは「おくれた」 ヨーロッパが――そして日本も――「進んだ」アジアやラテン・アメリカの社会主義革命にいつも投げかけるジェラシーをこめた批難なのである。しかしそれは果して正当な批判であり批難なのか。民主主義と自由はいつでも方程式のように近代化を通りすぎた資本主義社会だけが労働者にバトン・タッチすることのできるリレー棒なのか。

 たしかにマルクスもレーニンも、理論的にはブルジョアジーの所産であるブルジョア民主主義からその歴史的淵漁を説きおこしている。しかしロシア革命は、グラムシが指摘するように、「資本論に反する革命」であった。史的唯物論の規範によれば、もともと社会主義革命は前近代から資本主義へと段階的に発展した社会の成熟と腐敗のなかから生れ出る革命のはずであった。しかしロシア革命はグラムシのいうように、数々の証拠をそろえて、史的唯物論の規範は人々が考えるほどには鉄の規範ではないことを検証したのだった。その意味でロシア革命は史的唯物論の図式を事実が爆破した革命でもあった。中国革命がもちろんロシア革命以上にそうである.ことは云うまでもない。

 そこで問題になるのは、その革命の発展にとって何よりも重要な民主主義と自由はどこから生れるのか。それが資本主義の成熟だけが伝えることができるもの――ブルジョア民主主義だけがその反対物としてその内に季むもの――であるとすれば、自らの胎内にその卵子をもたぬ革命はせいぜい先進資本主義から民主主義を輸入して社会主義の鋳型で焼き直す以外に方法はないということになる。

 しかしグラムシもローザ・ルクセンブルグも、そんな借物ではない民主主義、革命自身が創り出す民主主義について語る。グラムシは革命がプロレタリアートによるというだけでなく、革命が真にプロレタリア革命であるためには別の要因すなわち精神的な要因が必要だという。「革命的事実が権力現象としてだけでなく習俗現象として現われること、道徳的事実としても現われることが必要である」と(一九一七年「ロシア革命についての覚え書」)。そこにはすでに後年の知的道穂的ヘゲモニー論の思想的萌芽がある。彼はこの革命が権威主義を破壊し普通選挙をもって権威主義に代えることによって、「自由をもって権威主義に代え、普遍的意識の自由の声をもって制定法に代えた」ととらえたが、果してそうであったか。

一九一七年十一月、革命が成功するや否や、レーニンとトロッキーはその直前まで積極的に支持し、革命がその道をひらくはずであった憲法制定議会を解散した。トロッキーによれば、「民主主義制度という動きの鈍い機構」は、国が広く技術的設備が不完全であればあるほど発展に追いつくことができないという。そこで彼は、革命期間中は一般的に普通選挙によって選ばれた人民代表制度はすべて役に立たないと断言する。ところがローザは正にそれをきびしく批判する。「全く逆だ。まさに革命こそはその炸熱によって世論の波や民衆の生活の脈拍が代議体にたいして瞬時的におどろくべき影響を与えるあの微妙な微動する鋭敏な政治的雰囲気をつくり出すのである」と(一九一八年「ロシア革命のために」草稿)。彼女は「民主主義(制度〕という動きの鈍い機構」がまさに大衆の生き生きとした運動と不断の圧力の下では強力な規制力をそなえることを指摘する。そうして、たとえどんな場合でも、たとえ一時的でも、民主主義を殺すことは広範な人民大衆の積極的な、自由な精力的な政治生活を殺してしまうことになると断言する。

 こうしてローザもグラムシも、無制限の自由と民主主義は権力を奪った瞬間から始まるべきで、そのため一定の経済的土台ができてから指導者が人民に贈るプレゼントではないことを確認する。プロレタリア独裁とは階級の独裁であって誰かが代行する誰かの独裁ではなく、広く公開され、人民大衆がこの上なく活発・自由に参加する何の制限もない民主主義のもとでの独裁であるとローザは云う。全く、プロレタリア独裁と社会主義的民主主義とは同義語なのだ。「共産党宣言」がいうように、「労働者革命の第一歩はプロレタリアートを支配階級にまで高めること、民主主義をかちとる.ことである。」 この場合、プロレタリアートを支配階級にまで高めることと、民主主義をかちとることとは一つのことなのだ。

 この自由と民主主義は誰からも――先進国からも、すばらしい哲学者からも――貰ったり教わったりするものではなく、革命そのものが旧権力の鎖から人々を解き放つ自由であり、その自由な大衆が積極的自発的に参加する民主主義である。そうして、その民主主義と自由を切り縮めるとどうなるかを、ローザは革命の翌年に画いて見せる、まるで占師のように。「普通選挙、無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度のなかの生活は萎えしぼみ、偽りの生活になり、そこには官僚制だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、無限のエネルギーと限りない理想主義をもった数十人の党指導者が指令し、統治し、現実にはその中の十人位の傑出した首脳・達が指導して、労働者のエリートが指導者の演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために時おり会議に召集される、ということになろう」と(前掲書)。

 

   三

 

 そこで重要なのは、お行儀のよい史的唯物論の教科書にはけっして載っていない民主主義、すなわち革命的飛躍だけが創り出す民主主義である。社会主義―共産主義への道が、誰か偉大な人間の教えと尊きによってではなく労働する大衆自身によって敷かれるものであるならば、その最初の石こそこの革命的民主主義ではないか。だからといってこの民主主義は或る日、忽然として生れ出るものではない。その原型はしばしば荒っぽいやり方で、その国その社会の大きな歴史的な変革期にその姿を垣間見せるものである。ロシアや中国がそうであったように日本でも。

 日本でその最も古くてすばらしい思想的創始者としては十八世紀中葉の八戸の医師安藤昌益であろう。不耕貧食の徒が支配する「法世」を変革して再び直耕の衆人による自由・平等の「自然世」 に還すというその思想はまさに日本的コソミュンーソの最初の思想的礎石である。また明治の変革後、始まったばかりの藩閥的官僚制支配に抗して立ち上った自由民権の思想と行動はついに秩父闘争というラディカルな極点にまでつきつめられる。しかし上からの弾圧と指導者の懐柔によって分裂させられた自由民権運動は最後には日本ナショナリズムの思想に萎えさせられて亡ぶ。しかしその六〇年後、長い侵略戦争をつづけた日本帝国主義が敗戦によって崩壊の危機にあるとき、湧き起った民主主義と自由の嵐は占領軍の弾圧とその飢蛾脱出的限界のゆえにやがて戦後民主主義にひきつがれたが、それもいままた「戦後総決算」 によって新たなナショナリズムの挑むところとなっている。

 こうして時としておこる歴史的波頭にもかかわらず、大正以来の日本革命運動は自らの根本を掘り起すより、「脱亜入欧」 の民主主義革命をソ連共産党とコミソテルソに求める。その指導する二七年テーゼと三二年テーゼは、情勢分析について重大な相違はあるが、結局いずれもブルジョア民主主義革命から社会主義革命への強行転化という二段革命論である。戦後の五〇年テーゼ草案(徳田テーゼ) は人民民主主義革命から社会主義革命、五一年新綱領は民族民主革命から社会主義革命、そして六一年綱領(現)は反帝支独占民主主義革命から社会主義革命。一九二七年から今日まで六〇年、その間一貫して二段革命論で、当面の草命は性格に相違はあるにしても何れも同じ民主主義革命。社会主義革命はいつでも彼方の夢である。

 これは一体どうしたことなのか。確かにその一つには、民主主義革命から社会主義革命までのいくつかの類型に分けているブハーリンの定式化に見られる史的唯物論の規範――その国の発達程度と他国への隷属如何によるものであろう。だがもう一つ見逃がすことができないのはスターリンのテーゼである。それぞれの国の社会主義革命よりもソ同盟の擁護を第一とするこのテーゼは何よりも当面の民主主義闘争でソ同盟への侵略と攻撃を牽制することの方が重要なのだ。それは民主主義革命にまで高められる方がより安定する。そのうえレーニンの率いるボルシェビキの二段革命――民主主義革命から社会主義革命へ――は見事に勝利しているのだ。こうしてスターリン的二段革命論=民主主義革命論は「自主独立」の日共のなかで今でも脈々として生きている。

 しかしいま必要なのは旧態依燃たる二段革命論でもなく、また、ある特定の党や集団のなかだけで論争される革命論でもない。いま西欧の革命陣営が何れも行きづまっているのは、どんな革命を、ではなく、どのように革命を発展させるのか、それとも後退を余儀なく受け入れるのか、という重大な岐路に立っているからである。とりわけグラムシの理論を継承しつつ模索する西欧最大の党・イタリア共産党の悩みはいっそう革命的な深刻さを感じさせる。

 それは、すでに回復し難い危機的情況のもとで、労働者と勤労者の社会的諸集団とその統一的な力――新しい歴史的ブロック――の力量が、旧い支配的諸集団のブロックとの「民主主義的交替」を果し得るほど成長しているかどうかという問題である。それがいまとくに重大なのは、現在の社会的ブロックに代ってもっと危険な全体主義的傾向のブロックがとって替る危険性があるからである。そこではすでに集票競争によって委任代理をめぐる政党の争いではなく、主体としての新しい社会的カが反動的なブロックを押しのけて政治の舞台に登場できるかどうかという切羽つまった問題なのだ。

 それは危機の深さと主体的力量及び歴史的戦略の相違を別とすれば、多かれ少なかれ発達した資本主義国の何れもが共通に遭遇している状況である。日本も例外でほない。世界経済と国内経済の矛盾とりわけ修復し難い日米間矛盾、長期の経済不況といつ襲うかも知れぬ金融恐慌の不安、経済と政治、政治と軍事の亀裂。ますます分散的遠心的となる民衆の再統合をあせるなかで戦後四〇年も続いてきた一党支配体制の物質的精神的弛緩と腐敗にとって替るものは何か。一見平穏に見える海の底ではすでに遠からぬ波の高まりを予知させるものがある。

 好機至れりとばかり半体制的中道ブロックの形成を急ぐ動きは活発化し、万年野党からの離脱を決意した社会党の新しい模索も始まっている。他方、自民党内一部の有志集団(国家基本問題懇談会など)は右から危機感を高ぶらせつつ中曽根の敷いた新国家主義のレールを急いで乗り越えようとしている。こうした情勢のもとでいま革新的な政治諸勢カに求められているのは、最も危険な集団の登場を全力をあげて阻止し、労働者をはじめとした社会的諸集団のカを養い統一をかちとるための長期の戦略を提起することであり、必要なイニシアチープを統一するために分立する力を再編統合することである。

 いまわれわれがロシア革命から学ぶべきことがあるとすれば、それはレーニンが云うように、二〇世紀における三回のロシア革命によって確認された革命の根本法則であろう。すなわち、「搾取され圧迫された大衆がこれまでどおりに生活することができないということを意識して変更を要求するというだけでは革命にとって不充分である。革命にとっては搾取者がこれまでのように生活し支配することができなくなる、ということが必要である」(「共産主義における『左翼』小児病」)と。革命はいつでも革命家集団が考えているほど主観的なものではないのだ。

 

 

   ▲四

 

 

一九八一年十二月、イタリア共産党指導部は、「社会主義闘争の新局面を開くために  ポーランドの劇的事態への反省」と題する文書をウニタに発表し、「十月革命ではじまった局面もまたその推進力を使い尽してしまったということを理解する必要がある」とのべて物議をかもしたことがある。

 その理由は、歴史的過程としてではなくモデルとしての社会主義という思想が自由と創造的エネルギーの活気を失なわせ、社会の経済的・技術的・文化的ダイナミズムそのものを抑制することになるからだ、という。ここであげているのは一般的な社会主義ではなく、ソ連タイプの単一モデルのもつ有害性についてである。そうしてその限りでは全く理にかなっている。何故ならば、一つの革命のもっている歴史的過程としての意味と、その革命を永久不変のモデルとしてとらえることとは全く別だからである。

 そこで、ソ連型モデルとは何か、それは特殊ロシア的であるということだけなのか。どこかに普遍性はないのか。いままでソ連型モデルを批判する立場として殆んど共通なのは、いわゆる「先進国革命」論ではなかったか。そこで批判の原型になっているのは西欧型民主主義と自由である。当時のロシアはしかしこうした西欧型民主主義の洗礼を受けていない後進資本主義社会――グラムシによれば、まだ市民社会はゼラチン状で固まっていない――であった。

 だが革命は帝国主義の弱い環であるこの国をとらえて世界で最初の労働者権力を創り出した。やがて期待するヨーロッパ革命が遠のくなかで、革命政府は急いで生産力を引き上げることによって軍備をととのえるとともに、経済的・社会的にも安定し文化的にも発展した西欧社会におとらぬ立派な一国社会主義に育て上げなければならぬと決意した。当時レーニンも、社会主義とは「労働者権力プラス電化」だと断言したことさえある。たしかにロシア社会はおくれているうえに反革命軍による破壊はそれに拍車をかけていた。だがレーニンの励ましの言葉はいま、ソ連でも中国でも、原子力発電所建設への不退転の決意となってよみがえる――チェルノヴイリの事故にもかかわらず。

 以来、スターリンによる重工業化政策はすべてを呑み込んで機関車のように驀進し、見事に世界第二の工業国となった。かくして「資本論に反する革命」は資本論に適う革命へと針路を修正し、「史的唯物論による宿命的必然の批判的証明」は破り棄てられた。自由と民主主義は立派な大工業国になるまで封印されることになった。いまベレストロイカとグラスノスチ(情報公開)の花は咲き始めたが、ソ連共産党二七回大会の方針の中では、先進的テクノロジーの輸入による生産力の質的改造はその最も重要なかなめの一つなのだ。

 われわれが心深く自戒すべきは、史的唯物論の教条への信仰から生れる生産力第一主義である。それはしばしば革命的なまなこをくもらせる。ソ連型モデルとは結局「先進」国モデルの裏返しではないか。従って、もしわれわれがソ連型モデルを拒否するとすれば、それはまた「先進」国革命論を拒否しなければならぬ。「先進」国革命論とは自らを「後進」と区別することによって、「後進」を支配し収奪しあるいは軽蔑することによってのみ存在し得た「先進」自らを問い返すことなく、我ひとり高しとする閉鎖的一国革命への道に足をふみ入れることになる

からである。

 われわれはすでに先進技術と先進的な生産力がどんなに人間的連帯を引き裂き、はては核戦争システムとも結び合うかを身近に見えるところにいる。ゴルバチョフはベレストロイカでハイテクノロジーをというが、われわれが革命によって救い出さなくてはならないのは人間であり人間と共生する自然なのだ。それは民主主義の道をとおって到達する社会主義なのではなく社会主義革命によって創られる人間的な民主主義なのである。重要なのは民主主義革命ではなく革命的民主主義である。

 それは「一国民主主義」ではなく、かつてアジア太平洋の民衆を軍靴で蹂躙した帝国主義的「民主主義」の対立物として、アジア・世界の民衆と共生する新しい社会主義的民主主義でなくてはならぬ。そこで、新しく闘いとられた社会主義が試されるのは、旧時代に支配し或いは分割し、収奪しつづけた国と民族との間に新しい連帯をどのように創り得るかにある。ちょうどロシア革命が創り出した社会主義ソ連がポーランドとどのように共生できるかと同じように、日本の社会主義革命は韓国・朝鮮とどのような交りを結ぶことができるかということこそその試金石である。

 それがどんなに遠くであろうとも、革命的未来への展望のなかにこそいまのわれわれの闘いがあるのでほないか。  (一九八七・一〇・一)

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