日本共産党の「教師聖職論」批判――日和見主義は労働組合運動を何処に導くか――

  松江 澄     労働運動研究 1974年 11月  No61

 

この論文は、『ひろしま市民新聞』に掲載されたものであるが、きわめて重要な内容をふくんでいるので、松江澄氏の承諾をえて本誌に再録する。(編集部)

 

はじめに

 

日本共産党は八月二十六日付『赤旗』紙上で、教師に関する今までの「聖職論、ストライキ論、『政党支持』義務づけ問題」についての集大成として、「教職員組合運動の正しい前進のために」と題する無署名論文を発表した。したがってこれは、従来はげしく討論されてきた一連の諸問題についての日本共産党の公式な見解であると思われる。

今日まで「教師聖職論」が、何時、誰によって、何のために主張されてきたかは今さらいうまでもない。戦前は、この「聖職論」が教師と教育を「聖戦」にかり立て、多くの教え子を戦場に送る結果となった。だからこそ教職員組合は一九五一年、教師の「倫理綱領」の中で「教師は労働者である。」と宣言し、「教え子を再び戦場に送るな」と戦後平和教育を戦い抜いてきた。今、復活した日本帝国主義が低賃金、インフレと資源の買いたたきで市場競争の優位を保ちつつGNP大国を誇り、南ベトナム、南朝鮮、台湾などの「分裂国家」を足がかりに再びアジアへの帝国主義的進出を開始するとき、「教師聖職論」は脚光を浴びて再登場した。

そうして、かつては「聖職論」を全面的に批判し、教師は労働者に徹すべきであると説き、戦後誰よりも労働者教師論を主張しつづけてきた日本共産党が、この数年間たくみにその転回を準備しながら、今日公然と「聖職」ということばを機関紙上に発表するにいたった。

たしかにこの論文でも教師が「聖職」であるといい切っていないことは事実である。 彼等は用心深く、「教師が教育の専門家として『聖職』ともいえる高い使命をもっている」とか、「教師の仕事のこうした専門性と特殊性が、常識的な意味での『聖職』ということばで表現し得る面をもつ」といっている。誰でも使い始めは用心するものだ。しかしわれわれはまずその用語を重視する。重要なことは、高い使命をもつことを仮りにも「聖職」と名づけ、まさに「常識的な意味」で「聖職」ということばを使うこと自体が問題なのだ。解放と変革をめざす党は、このことばのどんな意味ででも、高い使命を「聖職」ということばで表現することはあり得ず、階級闘争と革命運動のどんな「常識」の中にも「聖職」ということばはない。何故ならば、「聖なるもの」の否定の中にこそ真に人間の解放があるからだ。

日本帝国主義のあらたな「飛躍」が「望まれ」ているとき、奇しくも日本共産党の「伝統」ある機関紙上で教師の「聖職」について語られることは、歴史の符号におどろくほかはない。

 

日本共産党の教師観とは

 

 「論文は一応『教師は労働者である』ことを前提にしながら政府・自民党の『教師聖職論』を批判する。しかし、今日の情勢と反動の攻撃のもとでは、「たんに『教師が労働者である』ことの確認と強調だけでは、あらたな情勢に明確に対応して教師と教職員組合の運動をあらたに前進させることが困難になってきている」から、「これまでの教師観をさらに発展させ」る必要があると強調する。

それでは「教師は労働者である」ということを強調することは、「論文」が指摘するように「機械的『労働者』論」であってまちがっているのであろうか。「論文」は日本共産党が「教師は労働者であるとともに、教育の専門家として、こどもの人間形成をたすけて国民全体に奉仕する責務をもっているという、教師の統一的な全体像をあきらかにし、そのうえで教師の仕事のこうした専門性と特殊性が、常識的な意味での『聖職』といったことばで表現しうる面持つということを指摘してきた」という。結局、彼等は教師が「労働者」であることと、「教育の専門家」であることとを、教師のもつ二つの面ないし、二つの性格だと規定する。この限りでは、政府・自民党の主張の前提と変りはない。ただ異なっているのは、政府・自民党が、教師の「労働者性」と「専門家性」とも「二律排反的に対立するもの」として実際には「教師は労働者である」ことを否定するのにたいして、日本共産党は、「労働者性」と「専門家性」とを『統一的』に把握したうえで、今日とくにその「専門家性」の強調が重要であると説くところにある。

しかし、重要なことは、「二律排反」か「統一的全体像」か、にあるのではなく、その前提となっている教師の二面観――「教師は労働者であるとともに教育の専門家である」――にこそある。教師が使用者にたいして賃労働者であることは誰しも――政府でさえ――否定するものはない。しかし、それだけではまだ「教師は労働者である」ことの全面的な内容ではない。教育労働の具体的な特殊性の追求によってこそ労働者としての一般性があきらかになる。

原理的には、「労働」は対象的で「自然」に働きかけて、これを変えることによって働きかけ人間自身をも変化させるという意味で、本来教育的な機能をもっており、そこでは「肉体労働」と「精神労働」は統一されていた。しかし、階級社会の成立と分業の発展は、「労働」から教育の機能を切りはなし、「肉体労働」と「精神労働」とを対立物に転化させた。それは中世的な「徒弟教育」から今日の資本主義的な「科学・技術教育」とその準備としての「普通教育」に至るまで、時代とともにますます分化しながら「教育」を「国民分業」の一部門として成立させた。本来こどもと「自然」との相互作用を媒介することによって、こどものもつ「人間的自然の無限の可能性を追求し、ひきだすはずの教育労働は、今や資本と管理のための「つめこみ教育」の道具にさせられた。こうして特殊な「教育の専門家」が養成され、教師の仕事の「専門性」と「特殊性」が強調されることになった。もし「特殊性」というなら、それは教師の仕事の特殊性や専門性なのではなく教育労働の特殊性なのであり、必要なのは教育労働の特殊性を徹底的に追求することによって生産労働と教育労働の一体性を回復し、労働と教育の本来の位置をとりもどすことにあるのだ。

それは教師が「労働者である」ことはなにも別な「教育の専門家」であるからではなくて、まさに教師が「労働者」であり、教育労働が「労働」そのものであるからこそ可能なのであり、また教育闘争をすべての労働者の連帯した闘いとすることによってこそ可能なのである。しかし現実は教育を正しい位置にとりかえすためには余りにも多くの、そして根本的な障害があることを示している。生活の外に教育はなく政治と無縁な学校はない。支配と被支配、収奪するものと収奪されるものとの基本的な関係を抜きにした現実の教育は存在しえない。だからこそ教育労働者は賃金や労働条件だけではなく、教育の内容についても、ストライキ権とともに平和教育・教育課程の自主編成をめざして闘いつづけてきたのだ。教師の「労働者」としての階級的性格が「教育」の仕事を規定するのであって、けっしてその逆ではない。日本共産党の二面的教師観は、教育労働の特殊性を教師の「専門家性」にすりかえることによって結局、政府・自民党と同じ前提に立っている。だからこそつい、常識的に「聖職といってもよい」とのべるのだ。

教育の新しい追求は、「教育とは何か」を大胆率直に提起することのできる教育労働者とすべての労働者の闘いの中からのみきりひらかれるべきものであり、いつでもどこでも切り売りできる教育の専門的特殊的技術に矮小化されてはならない。「教師は労働者である」こと以外のなにものでもなく、それはどんなに強調しても強調しすぎることはない。

教師の教育権と「国民的責任論」

さらに「論文」は、教師の仕事の「専門性」と「特殊性」を強調する理由として次の三点をあげている。

「機械的労働者論」では第一に、反動の攻撃にたいして「真に有効な反撃を組織できず」、第二には、「教師の国民にたいする責任を軽視する傾向をうみだし」、第三には、「職場=学校を基礎とした教師の真に広範で強固な団結をつくりあげることをさまたげる」と、この三つの理由の中心は、国民にたいする教育責任論であって、これを軽視するところから「国民」の名による反動の攻撃をまねくことになり、また、「校長や教頭をひたすら『敵』視するという否定的な傾向をうみだす」ことになるということらしい。結局、「論文」によれば、教師の仕事の「専門性」と「特殊性」にもとづく教育の国民的責任を果す中でこそ教師の労働基本権を守ることができるということになる。「教師の仕事が『聖職』ともいえる崇高な使命と国民に直接おう責任をもつことを明確にしてこそ、教師の労働基本権をふくむ市民的、政治的自由の保障が、ゆきとどいた民主的教育をすすめる道であることを主張してたたかうことを可能にし、教育を真に尊重するものがだれかをいっそう鮮明にするのである」と、ここでは「労働者性」と「専門性」との統一どころか、「専門性」がなによりも優先する。

教育はブルジョア革命以来、ブルジョアジー=市民による国家や宗教とは無縁の「私事」として発展し、それはやがてこの「私事」を共同で依託するものとしての近代的な「公教育」を生むこのとになった。しかし帝国主義の発展と国家独占資本主義の成立は「公教育」にあらたな圧力と介入の機会をつくりだした。国家は「国民教育」という名のもとに教育の調停者=統制者としてあらわれ、「中立」を粧いながら教育に君臨する権威として登場した。こうして、教育を受ける権利=学習権にもとづく父母の教育権を共同で委託したはずの「公教育」は、たえず国家の圧力の前にさらされ、教師の教育権は=教育の自由はたえず権力の介入におびやかされことになった。それはしばしば、「父母の要求」あるいは「国民的要請」という形さえとって教育権を圧迫し教育の自由を制限する。

しかし、教師の教育権=教育の自由は本来こどもの学習権に根拠をもち、一旦委託された教師の自律的教育権限=教育課程の自主編成、教材選択の自由、学級運営の自由などは何ものにもおかされないものである。これがおかされる時こそ戦争と反動に道をひらく時であり、ここにこそ教育の自由を守る闘いがあった。したがって教師の教育権はあいまいな「国民への責任」論に転嫁、解消されてはならない。もし「国民への責任」というならば、それは教育労働者の階級的自律的追求の中からのみ生まれるべきものであって、要求の名による「外」からの圧迫に依るべきものではない。

この「論文」の中には、「教育権をもつ父母、国民への教師の責任」はくりかえし強調されているが、もっと重要な教師の教育権=教育の自由については一言も半句もふれられていない。それはもっぱら教師の仕事の「専門性」と「特殊性」を口実に国民的責任論をふりまわす政府・自民党の教育論と同じ土俵の上にたっている。異なるのは、どちらが「国民」という名を「上手に」僭称するかだ。だからこそ広島でも、原小学校の例に見られるように、一部の父兄の圧力による教師の教育権(学級運営の自由)への侵害と介入にたいして、日本共産党は何一つ闘おうとしない。そうして、この国民への責任論がストライキ闘争をたえずしゅんじゅん、回避させ、教育労働者としての闘いのほこ先をにぶらせるのだ。

 

教育労働者のストライキ権

 

「論文」はまず「労働組合の闘争の量的『積み重ね』だけで、自民党政治のもとでも労働者の生活と権利の全面的な保障を実現できるかのようにみなす、きわめて狭隘な組合主義的な誤まった立場」をただすために次のように主張する。今年の春闘の「重要な教訓は、わが国のような発達した資本主義国において、ストライキ権回復といった法令の改廃をともなう制度的要求の実現のためには、労働者と労働組合のストライキその他の適切な大衆行動の発展が必要であるとともに、国会内外の政治的力関係を有利にかえてゆく問題、そのための国会内外の民主勢力の共闘、国政革新をめざす統一戦線結成の問題をぬきにすることはできない。そして、革新統一戦線を基礎とする民主連合政府の樹立は、ストライキ権を立法上も行政上も確実に保障するものである」と。ここでは二重の意味で日本共産党の態度と姿勢が明らかになる。一つは、ストライキ権の回復を制度要求としてのみとらえていることであり、他の一つは、発達した資本主義国では制度的な要求は国会の多数派による政府の樹立なしには実現できないということである。是非とも「民主連合政府」の日本共産党へ一票を!というわけだ。

もちろんわれわれはストライキ権だけで万事かたがつくとは思わないし、単にゼネストで社会の変革ができるとも思っていない。しかし、ストライキ権はけっして単なる法律上、制度上だけの権利ではない。またストライキは敵に打撃を与える戦術だけでもない。それはたとえ法律的、制度的に拒否されようとも、したがってどんな弾圧があろうとも、労働者が自ら闘うことを自らが決定する階級的、自律的な闘う権利であり、また単に実害を与えるか否かという戦術的な効果の計算にとどまらない労働者の闘う意志の表現形態でもある。こうした労働者の基本的な自覚的な闘いを前提にしてのみ、制度上にもストライキ権を認めさせることができるので、「論文」は、「一般の資本主義的企業の労働者のストライキの場合には、利潤の生産、実現を一時的に中断、停止させることで資本に打撃をあたえるという効果をもつのにたいし、教師のストライキは、その仕事の特殊性からして、そうした経済的打撃をあたえるものではない。」したがってもっとも政治的な打撃をあたえる他の闘争形態をもとめるべきだという。

そうだとすれば、教育労働者に限らず、他の公務員労働者の場合にもストライキは考えもので再検討に値するわけだ。こうして日本共産党のストライキ論は、公務員労働者のストライキを否定する政府・自民党の見解に次第に近づき、「聖職論」はますます拡大される。

さらにこの「論文」の中で見のがすことのできないのは、都教組のストライキに際して「保護要員」をおいたことを弁護する次の主張である。「一方では『教育課程の自主編成』を要求し、『職員会議決議機関化』とまでいいながら、他方でストライキになると、こどもの管理の責任は“あげて管理者にある”などというのは全く矛盾した手前勝手な議論であり、とうてい父母、国民の納得や支持をえられないものであることはあきらかである」と。

教育労働者が「教育の自由」をめざして「教育課程の自主編成」を要求して管理者のみの一方的な決定に反対し、形がい化しつつある「職員会議の決議機関化」によって教師集団による自律的な決定を追求することは当然であるばかりでなく、教育闘争の最も重要な支柱の一つである。このことが、ストライキに際して、子供の管理責任が管理者にあることを明言することとどうして矛盾するのか。矛盾しているのはほかなぬ「論文」の立場である。もしこどもの「管理責任」というものがあるとすれば、それは学校管理の中に含まれるものであり、学校の管理責任は“あげて”校長(教頭)に在る。日常的には校長の指揮によって管理事務の分掌が行なわれているが、ストライキは当然にも一切の管理事務の分担を拒否する。もちろんわれわれは、教師がストライキに際してこどのたちに必要な配慮を行ない、ある場合には心を痛めることもよく知っている。しかし、それはどこまでもこどもたちにたいする日常的な生活感情からであってストライキを闘う労働者としての当然の義務だからではない。教育過程の自主編成という教育の内容と、学校管理の問題は次元の異なる別の問題だ。

「論文」はこれを全く混同することによって労働者の闘う団結を破壊するばかりでなく、結果として、教育課程を校長の管理下におこうとする政府・自民党を激励する。察するところ日本共産党にとっていちばん気がかりのは「こどもをほったらかしにしてストライキをするなど『手前勝手』でもってのほかだ」という「父母、国民」に評判が悪くなることらしい。しかし、この立場をもう一歩すすめれば、「保護要員」をおいてまでストライキをするより「父母に迷惑をかけ」ない他の方法にした方がもっとも好ましいことになる。

「聖職」者にあるまじきストライキはやめて「聖」なる一票で教育を守ろうではないかとでもいうのであろうか。彼等の「政党支持自由」論の真の根拠はここにある。

 

日共の「政党支持自由」論

 

「論文」は、「政党支持義務だけ」が「とりわけ、教師と教職員組合連合にとってはいっそう重大な害悪をもたらすものである」と主張する。それは、「思想、信条の自由を前提としてなりたっている教育、研究活動の自主性をみずからおかし、さらに教師が真の教育をおこなう基礎としてまもるべき人格の尊厳さをもふみにじるものとして、教育そのものにきわめて否定的な影響をもたらさせずにはおかない」からであると。

今まで、教師の「労働者性と「専門性」との「統一的な全体像」を強調していたはずの「論文」が、ここではいつの間にか労働運動と教育研究活動を完全に混同している。しかし、いっそう重要なことは、教職員組合にかぎらず、「動労」問題をはじめ今一様に展開されている日本共産党の「政党支持自由」論のなかみを明らかにすることである。

「論文」は、「労働組合の機関決定による『特定政党支持』義務づけ体制が、第一に「組合員の憲法上の基本的権利をじゅうりんし、労働組合の本質的性格をふみにじってその団結を破壊」し、第二に、「真に労働者の利益を擁護しえない中間政党の支持を労働者に強要しているという点」で誤りであり、「革新統一戦線の結成にとって決定的な障害」だと強調する。彼等の主張はきわめて明快である。すなわちその根拠はまず何よりも現行憲法にある。

たしかに憲法は「思想、信条の自由」を規定している。しかしこれはブルジョア民主主義にもとづく「市民的自由」の規定であって、階級闘争の武器としての労働組合の内部運営とは問題の次元が異なっている。「論文」の強調する「組合民主主義」はけっしてブルジョア民主主義=市民的自由と同一ではない。したがって労働組合の機関による「特定政党支持」の決定はどんな法律的効果ももたず、したがってまた決定に反したからといってどんな法律的制限を受けることもない。問題は、労働組合員の「労働組合内の権利」にたいする圧迫であり、組合員への義務の強制にある。「特定政党支持」を強調することがまちがっているのは、憲法違反だからではなく、同一の職業と同一の労働を基礎としてのみ保障される労働者の闘う統一を阻害することにある。したがってそれは、「動労」にたいして日本共産党がやったように、裁判に提訴して国家権力の判断を求めるべき「市民的自由」の問題ではなく、闘う統一を追求する労働組合の中で闘いとられるべき労働者の階級的自律的規範なのだ。

もし「論文」の主張にしたがって憲法による「思想、信条の自由」を論拠にすれば、自民党支持の自由をことわるどんな理由もない。日本共産党はついに階級闘争の武器である労働組合をブルジョア民主主義に解体する。われわれは彼等のようにいつまでもブルジョア民主主義に腰を落ちつけ、社会主義を恐れて闘わないのでなくて、現在の「民主主義」を有利な武器としながらもプロレタリア民主主義をめざしてたたかっているのだ。そうして組合民主主義の変形でも適用形態でもなく、正にプロレタリア民主主義をめざして闘う階級的な武器なのだ。

日本共産党のいわゆる「特定政党支持の自由」とは結局、共産党を支持する「自由」であり、共産党への投票の「自由」に外ならぬ。だからこそ第二に強調しているように、社会党は労働者の利益を擁護しない「中間政党」だから「支持を強要する」ことはまちがっているのであって、「真に」労働者の利益を擁護する日本共産党こそ支持すべきだと、語るに落ちている。こうして日本共産党は、必死になってその独占的な支持を固守しょうとしている社会党と同じように、労働組合の指導権を握ることによって自らの票田にしょうとする点では全く異なるところはない。その意味では、「特定政党支持」の強制的な義務ずけも、それを批判する「特定政党支持自由」論も、労働組合と政党とのゆ着の異なった形態なのだ。

今、必要なことは、闘う統一をめざして政党と労働組合とのどんなゆ着も排し、革命的労働者政党と労働組合との階級的な共同闘争を発展させることであり、この闘いの中でこそ、労働者政党の政治的な指導性を高くうちたてることである。

 

おわりに

 

この「論文」は教職員組合だけでなく、現代日本の労働運動を日本共産党はどこへ導こうとしているのかを端的に示している。いやそれだけではなく、この「論文」ほど現在の日本共産党がついにおちいった日和見主義戦術が鮮らかに映しだしたものはない。しかしまた、日見主義戦術は知らずしらずの内に戦略までにはいのぼるという典型を教えている点でも見事な実例となっている。

この「論文」をつらぬいているいくつかの柱がある。その第一は、敵の攻撃を恐れるあまり、その防衛論を展開しながらいつの間にか敵の土俵にはまりこんでしまうことである。     「国民」の名による教師のストライキへの攻撃にたいして、「国民に責任をおう教育」論から教師の性格論へとのめりこむうちに、教師の最も本質的な階級性をなおざりにする結果になっているのもそうである。しかしそれ以上に重要なことは、攻撃をさける「最良の方法は」攻撃する者と同じ穴の中に入ることであり、そのためには味方を裏切っても恥じないという彼等の態度をあからさまにしていることにある。

今春の教祖弾圧は日本共産党をたじろがせた。しかし、闘う教育労働者はこの弾圧の中でこそ一層闘う決意を固めて立ち上がり、ますますストライキ権回復への熱意を燃やしつづけて次の闘いを準備している。まさにこの時に「指導部隊」であるはずの日本共産党は敵を過大視し、闘うことを恐れ、日和見主義に転落したのだ。それには理由がないわけではない。

第二の柱である議会主義への堕落がそれである。今、彼等の評価のすべての基準と尺度は「議会内多数派」の獲得にある。最近ひらかれた日本共産党弟四回中央委員会総会では日常的選挙活動が重大方針の一つに加えられたというが、それは直ちにこの「論文」にも忠実に反映している。スト権回復も教育権の獲得もすべて「革新統一戦線」と称する「議会内多数派」による「民主連合政府」の樹立に解消されている。それはどこでも適用し、何にでも効く日本共産党の万能薬でありジョーカーなのだ。ここでは経済的、政治的大衆闘争だけが創りだすことのできる階級的、革命的力量がいつでも選挙と得票に還元される。ここから出てくるのは、いつでも多くの人々の耳に入りやすいことばであり、大衆への追随であり迎合である。それはいつの間にか闘う主体を置き去りにする。

そうして第三に、そのすべては「民主主義革命」論という時代錯誤の革命論に源流がある。日本におけるらん熟し切った生産力と生産関係の矛盾に目かくしして、今では適用しなくなった「二つの敵」論にしがみつき、昔ながらの二段階革命論(三〇年代人民戦線論から一歩も出ようとしない彼等の立場がある。それは、発展する世界の現代と日本の現実から目をふさいで、自己の主観で世界をながめ、自分を中心に世界をまわそうとする独善的な主観主義から生まれている。そこに、敵を恐れ、味方を恐れ、闘争をさけ、変革を恐れる日本共産党の日和見主義がある。ストライキをさける日和見主義戦術は変革を忘れる日和見主義戦略にはいのぼり、選挙と得票を金科玉条とする戦略は労働者階級と労働組合を投票箱に解体し、革命を改良主義にすりかえる。

われわれは、こうした日本共産党とのきびいしい思想的対決を闘いとることなしに革命的変革を準備することはできない。日本共産党の民族主義・議会主義と改良主義・日和見主義との思想闘争によってこそ真の革命的労働者党の建設を実現することができるのだ。

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