激動期の要請を拒否する日共指導部
―「新日和見主義」批判の批判―
長谷川 浩

激動期の要請を拒否する日共指導部

「新日和見主義」批判の批判

長谷川 浩

労働運動研究 昭和478月 No.34

 

党内からの批判の出現

 

 党創立五十周年を迎えて、いま日本共産党

の指導部は「党と自覚的民主勢力」のなかに

現われた「新しい日和見主義」と分派主義的

傾向との闘争に大わらわになっている。

 日共指導部によると、こうした左右の新し

い日和見主義は大よそ次のような見解だとさ

れる。すなわち、

 ニクソン訪中、訪ソを廻って生まれた緊張

緩和論、平和的転換論。

ベトナム問題あるいはドル危機問題と関連

しての「アメリカガタガタ」論、崩壊的危機

論。

 沖縄返還協定に関連しての「日本軍国主義

復活」論、「肩がわり」論、「日本軍国主義

主敵」論、等々である。

 とくに日共指導部が神経をたてて攻撃の焦

点としているのは、これらの見解のなかで「左

翼」的とみられるアメリカの「崩壊的危機」

論ならびに「日本軍国主義復活」論ないし「日

本軍国主義主敵」論である。だが、これら全

体を含めて、日共ならびにその影響下諸組織

を通じて問題となっていることは、外ならぬ

今日の内外情勢をどう見るかという問題であ

り、彼らの内部でもう一度、日共の情勢把握

とその基本的な戦略・戦術が問われだしたと

いうことである。たとえば、

 「トロツキスト集団や『連合赤軍』を『ゆ

きすぎた左翼』とみなすことは、おそらく歴

史の偽造に加担することになるだろう……

 「それは人民への、人民の民主主義擁護の

たたかいへの権力の手斧(ファッシァ=フア

シズムの語源)であり、まさに激動する七〇

年代初頭の情勢が、たとえば米中接近にとも

なって日本支配層の安保政策が混乱を深め、

そのなかでニクソン・ドクトリンと結合しつ

つ四次防その他に示される軍国日本への道、

改憲への道が拍車されるといった今日の情勢

の疑いない一つの産物なのである……

 「しかし、さし当っていえることは、民主

主義への新たな挑戦、人民を暴力の前に屈せ

しめていこうとする動きに、民主勢力がいま

ひるんではならないということである。権力

の捜査や『連合赤軍』退治に拍手をおくるこ

とは自己を売りわたすことである……」

 これは川端治という著名で発表された一党

員の論文の一節である。恐らくこの引用だけ

では論者の主旨を汲みにくい点があると思う

が、全文を要約してその主張するところをみ

ると、大よそ次のような意味になる。

 すなわち、体制の危機が表面化している今

日の資本主義世界と日本の矛盾、激動のなか

でもはや「労働運動内部の日和見的潮流だけ

に支配の柱をおくことでは足りなくなってい

る権力」は「軍国日本」を復活するとともに、

陰微な形で新しいファシズムを準備している。

それは「直接の弾圧よりも、毛沢東の権威ま

でとりこんだプロットを樹て」て、挑発者集

団を組織し、その挑発者集団を逆に挑発し、

弾圧し、異常にして凶悪なものに画きだすこ

とによって、「毛沢東の権威」も人民の民主

主義擁護の死活のたたかいも、これを叩きつ

ぶすファッショ体制にもってゆこうとしてい

るのだ。そういう権力の意図をみることなく、

「権力の捜査や連合赤軍退治に拍手をおくる

こと」は、まさに自己を階級敵に売りわたす

ものだというのである。

 ここには、日共指導部が批判の対象とする

「アメリカガタガタ」論、「安保政策の混乱」

「日本軍国主義の復活とファシズムの始頭」

論などすべてがふくまれ、前提とされている

だけではなく、持ってまわった言い方ではあ

るが、日共指導部が、おのれに反対するすべ

ての勢力を無差別に敵視し、とくに新左翼的

極左行動については、これを労働者的態度で・

批判するのでなく、支配階級に権力を発動し

て弾圧することを要求してきた態度に対する

手きびしい避難が述べられている。

 もちろん、この論文の現状勢の評価、ある

いはいわゆるアメリカ帝国主義の「崩壊的危

機」論や「日本軍国主義復活」論が一〇〇%

的確な科学的分析だとはいえないだろう。ま

た、そこには明らかに中国流の日本軍国主義

という見方の影響も認められる。

 にもかかわらず、それらはやはり今日多く

の常識ある人々の激動する内外情勢に対する

関心、とくに戦後帝国主義の世界体制の矛盾

の深刻な発展とそのなかでの日本の政治・経

済に対するとらわれない認識を反映すると同

時に日共指導部の理論、政治的態度と行動に

対する素直な疑問と批判が現われている。そ

れはむしろ当然のことであり、そうした一連

の見解に対する日共指導部の反批判、さらに

は具体的な指導にこそ問題があるといえよう。

 

日共の国際情勢の捉え方

 

 「党と自覚的民主勢力」の間に発生したこ

のような「新しい日和見主義」との闘争の先

頭を承った榊論文(赤旗、六月十九・二十日

号所載)は、まず「アメリヵガタガタ」論、

「崩壊的危機」論を叩く。それは今日の国際

情勢に対する日共指導部の見方を代表するも

のといってよかろう。

 すなわち、「アメリカ帝国主義はガタガタ

で、その世界支配体制の崩壊がおこり、資本

主義の全般的危機も決定的段階にはいり」「ベ

トナムにおけるアメリカの全面撤退、サイゴ

ンかいらい政権の崩壊は既定の事実である」

というような議論は誤りである。こうした主

張は「実際には、アメリカ帝国主義が世界反

動の主柱、国際的憲兵として依然として凶暴

な力をもち、侵略政策に集中している事実、

その侵略性を軽視し、アメリカ帝国主義の侵

略政策との国際的闘争の緊急性を過少評価す

るという明白な日和見主義である……」

 「大局的歴史的にみた場合、アメリカ帝国

主義の政治的経済的困難がますます強化するこ

と、その世界支配体制が打破られること、べ

トナム人民がアメリカ帝国主義に打ち勝つこ

とはもちろん、確信してよい歴史的流れであ

る」

 「しかし、この大局的歴史的な展望や南ベ

トナムでの情勢から、直ちにいますぐアメリ

カ帝国主義そのものが『崩壊的危機』にある

として、事実上アメリカ帝国主義の侵略性を

過少評価することや現在の凶暴な侵略に対す

る闘争を事実上軽視することは基本的な誤り

である……」

 以上が榊論文の国際情勢評価の要旨である

が、これはアメリカ崩壊論の批判にはなって

いない。アメリカ帝国主義の危機を論ずるこ

と自体が、その侵略性を過少評価することだ

と問題をすりかえて攻撃しているからだ。恐

らくアメリカの危機を主張するものも、ア

メリカ帝国主義が今日なお「世界反動の主柱」

であり、「侵略政策に集中している」ことを

否定しているわけではあるまい。そういうア

メリカ帝国主義が「崩壊的危機」にあるとい

っているのであろう。「崩壊的危機」論に誤

りがあるというなら、アメリカの経済的・社

会的矛盾の発展そのものについて論駁されね

ばならない。

 その意味で、アメリカ帝国主義の「崩壊的

危機」論も感覚的なものだとするなら、日共

指導部の批判、榊論文はいっそう無内容で感

覚的だ。そこでは明白な歴史的事実であるア

メリカ帝国主義の中国封じこめ政策の放棄、

あるいは冷戦政策の転換、そしてその根底に

あるアメリヵ人民の反戦意識のたかまり、あ

るいは経済的矛盾を集中的に表現するドル危

機とIMF体制の崩壊、資本主義世界のすべ

ての通貨が世界貨幣としての金とのつながり

を維持できなくなったという資本主義世界経

済の腐朽、等々、そうした経済的政治的事実

の分析、評価にはいささかも触れていないか

らだ。したがって日共指導部の批判なるもの

は、何ら積極的な結論を導きだすことのでき

ない非生産的な議論でしかない。

 だから、今日では「大局的歴史的にみて、

アメリカ帝国主義の政治的経済的困難がます

ますます強化すること、その世界支配体制が打破

られること」を「歴史の流れ」として確信す

ることが問題なのではない。そんなことは共

産主義者なら誰でも既に前から確信している。

問題は、いまそれがどう発展し、どのような

問題を提起しているかを具体的に追及し、国

内の支配体制の動向とも関連して、実践的に

闘争の課題と方向を導きだすことにある。

 だからこそ、また多少の不充分や偏向を伴

いながらも種々問題が提起されるのである。

それをすべて「アメリカ帝国主義の侵略性を

過少評価する」ものだとして拒否し、そのよ

って来る根源に眼を向けようとしないなら、

積極的なものが生まれてくるわけがない。

 したがって、榊論文のいう、

 「アメリカ帝国主義がインドシナでの困難

に直面した事態のもとで社会主義陣営内の「多

極化」「多中心主義」に対応して、従来と異

った『挑戦と機会』をねらい、自己の体制建

直しをはかっているものである。すなわち、

複数の社会主義国に対しては『接近』政策を

とり、これを政治的に牽制し、世界の焦点と

なっているベトナム侵略をずるがしこく、か

つ、安心して進めるため政治的保障をとりつ

けようとしている。これがニクソン・ドクト

リンにもとすく各個撃破政策であり、二面政

策である」云々の分析・評価も、今日のアメ

リカ帝国主義の本質的な矛盾の発展から問題

を捉えるのでなく、単なる術策の変化の問題

としてしか見ていないのである。

 日共指導部にとっては、実をいうと、問題

をそこにまで掘りさげることは具合が悪い。

彼らにとっては、情勢がどう発展しようと、

「アメリカ帝国主義の侵略性」なり強力性な

りが微動だにしないことが、その理論的政治

的建前と「指導的権威」のために必要でさえ

あるのである。なぜなら、その強調なしには

「アメリカ帝国主義の対日支配」したがって

日本における「民族解放民主革命」の路線を

正当化できないからである。

 

国内情勢の見方

 

 ところで、日共指導部の「日本軍国主義主

敵」論に対する批判は、その国内情勢につい

ての捉え方を示す代表的なものといえよう。

 「国際情勢の把握における上述のようなア

メリカ帝国主義の侵略性の過少評価などに示

される日和見主義は、国内情勢の捉え方にお

いてアメリカ帝国主義の対日支配の問題、独

立・平和・民主・中立の問題、一言でいえば

.安保条約の廃棄を中心とするサンフランシス

コ体制打破の問題などの課題をそらす日和見

主義と固く結びついている。

 「沖縄協定を日本軍国主義の全面復活ない

しファシズム確立論にむすびつけ、事実上ア

メリカ帝国主義の問題そのものを抽象する傾

向がそれであった。

 「日米沖縄交渉は無条件全面返還という図

式的要求をじゅうりんして、アメリカ軍の半

占領というワクのなかで施政権だけを返還し、

……軍事基地・基地機能の存続、インドシナ

侵略のため、東アジア侵略へのより緊密な協

力を日本に押しつけるなど、侵略的屈辱的な

取り決めである。

 「アメリカは軍事的経済的に最強の帝国主

義として自己の侵略政策の展開に、同盟従属

国の軍事的経済的な力を動員しようとしてい

る…:・アメリカは同盟従属諸国に人員供出を

求めている……自衛隊の沖縄派遺も例外では

ない・・…・

 「『日本軍国主義主敵』論は、問題の基本

的特質をはぐらかし、左翼的形態をとりなが

ら『二つの敵』とのたたかい、とりわけアメ

 リカ帝国主義との闘争の課題を回避する日和

見主義の新種にほかならない・・・・」

 こうした一連の日共の見解で特徴的なこと

は、アメリカ帝国主義の侵略性を云っても、

日本の支配階級、日本の帝国主義的独占ブル

ジョアジーの侵略性については一言も触れて

いないことである。したがってそこにはここ

十数年閣の日本の独占ブルジョアジーの高度

成長についても、その生産力の増大からする

海外市場と海外資源に対する死活的な欲望に

ついても語られない。

 したがって、沖縄返還協定は、全く一方的

にアメリカから押しつけられた「屈辱的」な

協定となる。それは、一九六九年の日米首脳

会談で当時の佐藤首相が「韓国、台湾を日本

の生命線とする」といった日本の独占ブルジ

ョアジーの帝国主義的意図を理解しないし、

むしろ、その侵略性をいんぺいするものとな

る。

 だから、かつて曰本帝国主義の侵略に大き

な犠牲を払い辛酸をなめたアジア諸民族を代

表して、中国共産党あるいは朝鮮労働党が、

「日本軍国主義の復活」を強調して、日共指

導部にきびしい警告を発したことは当然であ

る。(たとえその軍国主義復活の規定が理論

的厳密性を欠くとしても)だが、日共指導部

は「日本軍国主義の対米従属性」を強調して、

日本の帝国主義的独占ブルジョアジー自体の

侵略性を冤罪しようとする。

 このことは対外的に、アジアの諸民族との

連帯のたたかいを拒否するという問題に止ま

らない。自国の独占ブルジョアジーと合理化

政策――権利の剰奪と低賃金・非人間的労働

の押しつけ、組織の破壊と右寄り再編成と対

決する労働者の断固たる決意と闘争の意義を

理解せず、むしろこれを恐れ、いつもたたか

いを回避し、もっぱら自己の安泰をはかるこ

こ十年一貫した態度と相通じているのである。

日共指導部はいう、「もちろん、わが党は

対米従属下の日本軍国主義復活強化、四次防、

憲法改悪・政治反動に反対し『二つの敵』に 

反対して断固たたかってきたしと。

 だが、この職場でのギリギリの闘争を回避

して「日本軍国主義復活」との断固たる闘争

があるだろうか。

 七一年十月、沖縄労働者が返還協定粉砕の

ゼネストに立上り、三百をこえる本土行動団

を上京させたとき、これをうけた社共の一日

共闘は相変らず「整然たる国会請願デモ」を

おこなった。しかも、国会前でゼッケンをつ

け旗を持つ合法性をとる楯に、同じデモの隊

列に沖縄行動団を引きかえしくりかえし三回

も編入し馬社共の部隊はその後についていっ

た。沖縄の労働者が「ゼネストを打って、請願

デモとは一体何だ!」と怒ったのも当然で

あるが、まさに「断固たるたたかい」の実体

はこのようなものであった。

 労働者は行動を見て判断する、日共指導部

が百万言を費やして、どんなに左右の日和見

主義を批判し、攻撃しょうと、何が本当の日

和見主義であり、どこにその根源があるかを

決して見逃しはしないのである。

 

落ちるところは党勢拡大、票集め

 

 陳腐化した日共指導部の言い草を長々とた

どってゆくことは退屈する。だが、もう少し

辛抱しよう。結局するところ、日共指導部の

新日和見主義批判、榊論文の言いたいところ

は次の点にある。

 「情勢論での左翼日和見主義的偏向が、選

挙、議会闘争と人民的議会主義へのうしろ向

きの態度とつながることも見やすい道理であ

ろう……

 「左翼日和見主義的な偏向が大衆運動と大

衆的前衛党建設の活動を対置させて党勢拡大

を第二義化し、さらにはサボタージュしたり

妨害したりする党建設上の日和見主義と無関

係でないことを指摘しておきたい……

 「くわえて、党勢拡大は自然発生的にすす

むものではなくて、目的意識的に追及してこ

そ達成される」

 問うに落ちずして語るに落ちる。大体、日共

指導部が「新しい日和見主義との闘争」を、

いまやっきとなってやり始めたことの起りは、

第十一回党大会以後、党員、民青同盟員、ア

カハタ読者をふくめて、いわゆる党勢の伸び

が止まったことにある。年初からの拡大運動

で民青が若干もりかえし、赤旗読者も回復し

たが、党員数はこの五月末で前大会当時の党

員数に僅かながら及ばないという。そういう

情況のもとで、民青幹部の年齢制限問題に関

連して、一部民青幹部をふくめた同盟員から、

「党のニクソン訪中をめぐる情勢評価はおか

しい」「連合赤軍問題に対する態度は誤って

いる」「民青を選挙の道具にばかり使う」と

いう批判が出た、冒頭に引用した一文もこう

した批判の一つである。

 このような指導部批判が出るのは決して理

由のないことではない。今日、社会党系の活

動家まで含めて、大よそ労働運動にたずさわ

る者のすべてを通じて、日共の組織ないし党

員が職場で闘争をしようとしないということ

は常識になっている。

 およそ、労働者階級の前衛の党たるものは

階級闘争の鉄火のなかで自らを大衆とともに

鍛えあげてゆかねばならぬことは、いまさら

いうまでもない。そうした闘争を組織したた

かい抜くためには、大衆の要求に対する深い

理解とその戦闘力に対する信頼に立って活動

家が体を張って行動の先頭に立つことが要求

される。しかし、今日の日共の細胞は、大衆

の要求をとらえ行動に組織する能力も体を張

って行動する決意も失っている。彼らの活動

はたかだかレジャーやうたとおどりのサーク

ル作りであり、そのなかでの赤旗読者獲得、

選挙の票集めである。居住地域の住民運動で

も行動形態は、署名運動、請願運動とほぼそ

の型はきまっている。ここ十数年間日共の組

織はそういうように作りあげられてきたので

ある。階級闘争の対決点とは離れて。

 榊論文は「左翼日和見主義」を批判して、

「大衆運動と大衆的前衛党建設の活動を対立

させる」と云っているが、党建設を大衆闘争、

階級闘争から切離し、「目的意識的に」「選

挙、議会闘争と人民的議会主義」(労働者的

革命的議会主義では決してない)にあわせた

サークル作り、仲間作りに変質してしまった

のは日共指導部自身である。

 情勢が発展し、職場でも地域でも労働者、

勤労諸階層の人々がたたかうことなしに自ら

の生活も権利も守れないようになっている昨

今、とりわけ若い層の間に日共のこうした在

り方に反撥・批判が出るのは当然である。い

や、そういう批判・反撥はすでに六〇年安保

闘争以来、周知のような形で不断に生まれ拡

大してきたのである。

 現在の問題は、最近の内外情勢の激勤の中

で、いままで無気力に臼共指導部に追随して

きた部分にまでそうした動きが出始めたとい

うことである。階級意識ある労働者や活動家

にとっては-既に早くから自明の問題であっ

た。日共指導部の小ブルジョア民族主義と議

会主義の理論、政策、行動、一言で云ってそ

の階級的本質がますます広範な層に見分けら

れるようになったということである。そこに

党員、民青同盟員の増勢がとまり、指導部批

判が幹部の間よりも一般党員、同盟員大衆の

間から起ってきた理由がある。それは「三つ

の目標」による党勢拡大の必死のキャンペイ

ンでも本質的には解決できない。一時的に破

綻をとりつくろうことができても。

 ただ、日共指導部の安心のために一言つけ

加えるなら「極左主義は自ら権力に頭をぶつ

け、組織を自壊されるが、右翼日和見主義は

権力とたたかわないのだから温存される」、

決して一挙に崩れるようなことはないだろう

ということである。

 

日共理論の誤リの基本点

 

 日共指導部の理論、政策、行動は一つの体

系を成した日和見主義である。恐らくそれは

戦後型の日和見主義といってよいだろう。と

いうのは、榊論丈とも関連して、日共の綱領、

決定を通じてその根幹となっている「日本は

高度に発達した資本主義国であるが、アメリ

カ帝国主義に支配される従属国」であり、し

たがって当面する革命は「民族民主革命」と

いう規定、そしてそこから「一九七〇年代は

……アメリカ帝国主義に対する従属的同盟の

もとでの軍国主義、帝国主義復活の路線と、

独立・民主・平和・中立をめざす路線との日

本の進路をめぐる二つの道の闘争」を設定す

る第十一回大会の決定は、戦後の帝国主義の

世界体制を全く理解していない。その小ブル

ジョア民族主義的ないし小ブルジョア民主主

義的把握から出発しているからである。

 戦後の帝国主義は戦前の帝国主義が世界市

場の再分割のたあに世界戦争を賭けて対立し

抗争したのとは異り、相互に競争し鋭く対立

しつつも、社会主義の世界体制の成立と民族

解放運動の発展、国際労働運動の…般的前進

に対抗して、経済的、政治的、軍事的に協定

し協同し、一個の世界体制を形成してその支

配を維持しなければ存立しえないようになっ

た帝国主義である。その具体的な体制は、経

済的には、IMFその他の一連の国際経済機

構であり、あるいはECであり、それを基礎

にした侵略的軍事ブロックは、いうまでもな

NATOであり日米安保体制であろう。

 周知のように、それは戦後圧倒的優位に立

ったアメリカ帝国主義の指導権のもとに形成

され、アメリヵ帝国主義の「世界制覇」の政

策として展開された。しかし、客観的に成立

したものは、アメリヵ帝国主義に支配される

植民地・従属国の体系ではなく、帝国主義の

世界体制であった。確かにそこには高度に発

展した資本主義国が強大なアメリカ帝国主義

によって経済的・政治的に「定の制約をうけ

る関係が存在した。だが、そこにはまた帝国

主義の不均等発展の法則も作用し貫徹した。

そしてアメリヵの優位と強制力が次第に低下

したこと、西独をはじめとするEC諸国なら

びに日本の経済力がいちじるしく伸び、政治

的位置が栢対的に強化されたことは、ここ十

年間の事実が示すところである。

日共指導部の誤まりは、この戦後帝国主義の

体制における日本とアメリカの関係を、あた

かも帝国主義と植民地の間における支配・被

支配の関係と同じように考え、取ちがえて

いるところにある。そのことによって、日本

の独占ブルジョアジーの侵略性を抽象し、日

本における労働者階級と帝国主義ブルジョア

ジーの和解しがたい階級対立、日々の闘争を

政治の後方に押しやっていることにある。

 だから、今日のわが国労働者階級の死活の

闘争のなかに、必然的に社会主義を指向し、

ブルジョア民主主義のワクを越えて労指者の

権利を確立しようとするたたかいが胚胎し、

発展しつつあることなど見ようとしない。い

や、むしろ、こうした闘争を抑え封殺しよう

 とさえする。日共指導部が一概に「極左主義」

のレッテルを貼り、非難攻撃する労働者の闘

争のなかに、例えばゼネ石労働者の闘争のよ

うに、労働の安全を保障するため生産手段の

資本による一方的管理に挑戦せざるをえない

ような重要な意義をもつ闘争がしばしば見ら

れることを指摘するなら、このことは明らか

であろう。

 生産点における、このような労働者の闘争

を無視し、これに依拠することをせず、ただ、

「独立・民主・平和・中立」すなわちいわゆ

る一般民主主義的政治課題のみを強調するな

ら、それは現代の帝国主義体制とこれに依拠

ナる侵略的な独占ブルジョアジーの支配体制

にたたかいの鉾先を向けることを一切回避し、

そのワク内での民主主義的改良を目指す改良

主義・議会主義に?落することは、論理の上

からも必然の帰結である。

 日共指導部が、安保体制打破の闘争をいか

に強調しようとも、それが帝国主義の世界体

制の」環どしての日本帝国主義の侵略的同盟

を粉砕する闘争として、階級的視点が明確に

されない限り、国際情勢における社会主義と

帝国主義の力関係の変化の中で、「中立」に

逃げ場を求めるブルジョアジーの立場と区別

しがたいものとなり、体制の変革との関連

は断ち切られることとなる。

 しかも、今日の問題は、まさにその戦後の

帝国主義の世界体制が深刻な矛盾をばくろし、

大きく動揺している点にある。アメリカ帝国

主義のインドシナ侵略の挫折、それと相関連

していつまでもつづくドル危機・国際通貨信

用体制全体の混乱と動揺、そうしたなかでの

中国封じこめ政策の放棄と冷戦政策全般の転

換、こうした転換が、帝国主義の侵略的意図

の不変にもかかわらず、余儀なくされている

そうした国際的な諸条件は、国内的にも佐藤

内閣を退陣に追いこんだ。革命の主体的勢力

の未成熟のゆえに、同じ自民党から田中内閣

があとをうけついだといえども、そこにはや

はりかつての吉田内閣以来、日本の独占ブル

ジョアジーが一貫してとりつづけてきた基本

政策、帝国主義世界体制の一員として、中国

封じ込めと冷戦を推進してきた日米軍事同盟

の路線を何らかの意味で転換せざるをえなく

している。しかも彼ら自身、その方向にお

いて一致したものを見出しえていない。そこ

に現在の政治的激動の特質があり、階級闘争

の新しい重要な課題の提起がある。

 日共指導部は、こうした時の要請に全く不

感性である。その「新しい日和見主義」批判

は、すべてこうした激動期を意識し階級闘争

の新しい条件を追及し課題に応えようとする

努力。たとえ誤りを犯しても問題に取組もう

とするわかわかしい力をすべて封じこもうと

するものである。そこにはこうした力に対す

る潜在的な恐怖感すらあるといえよう。

 七月十五日、「党創立五十周年記念集会」

で日共委員長宮本顕治は、ベトナムの現情勢

と関連して、ソ中両国がアメリカ帝国主義と

戦わないと批判し、その「自主独立」路線を

強調した。だが、レーニンは自国の帝国主義

勢力の侵略政策とたたかうことなくして、労

働者階級は自らを解放しえないといった。日

共指導部は果してこの基本的なたたかいの任

務を遂行したうえで、口をきいてるのだろう

か。日共指導部は、口では反米の

国際的統一戦線を強調しているが、

はたして自国の帝国主義勢力、日

本の独占ブルジョアジーの搾取と

支配に対する労働者階級の闘争に

真剣に取り組んでいるだろうか。

職場のもっとも困難なたたかいを

回避して、もっぱら選挙の投票集

めに熱中していることは、われひ

と共に知るところではないのか。

そうした、もはやかならずしも

「新しくない日和見主義」の本質

が、行動の土でも、理論の上でも、

かくしきれなくなる時代がすでに

きていることを、「新しい日和見

主義」批判そのものが、自己ばく

ろしているのである。

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