内野壮児著作リスト




No. 1
標題:日本政治経済研究所と『大衆政治経済』/副標題:小林英三郎氏に聞く/No:3・完
著者:話し手:小林英三郎/誌名:大原社会問題研究所雑誌
巻号:459/刊年:1997.2/頁:55〜64/標題関連:


No. 2
標題:戦後運動史外伝・人物群像/副標題:内野壮児と武井武夫/No:
著者:増山太助/誌名:労働運動研究
巻号:329/刊年:1997.3/頁:38〜39/標題関連:


No. 3
標題:わが国労働運動の基本的諸問題 労働戦線統一問題によせて(シンポジウム)/副標題:No:
著者:内野壮児他/誌名:知識と労働
巻号:4/刊年:1972.6/頁:〜/標題関連:


No. 4
標題:闘争のための統一か、統一のための統一か/副標題:吉村励「労働組合の戦線統一に関する諸問題」批判/No:
著者:内野壮児/誌名:労働運動研究
巻号:27/刊年:1972.1/頁:61〜64/標題関連:


No. 5
標題:闘争のための統一か、統一のための統一か/副標題:吉村励「労働組合の戦線統一に関する諸問題」批判/No:
著者:内野壮児/誌名:労働運動研究
巻号:29/刊年:1972.3/頁:55〜64/標題関連:


No. 6
標題:ストライキ戦術の諸経験と基本問題/副標題:No:
著者:誌名:労働運動研究
巻号:30/刊年:1972.4/頁:1〜11/標題関連:


No. 7
標題:日本共産党の解党問題/副標題:日本共産党史の教訓 1/No:
著者:内野壮児/誌名:労働運動研究
巻号:35/刊年:1972.9/頁:2〜7/標題関連:


No. 8
標題:党再建期と解党主義にたいする闘争/副標題:日本共産党史の教訓 2/No:
著者:内野壮児/誌名:労働運動研究
巻号:37/刊年:1972.11/頁:2〜13,47/標題関連:


No. 9
標題:党再建期と解党主義にたいする闘争/副標題:日本共産党史の教訓 3/No:
著者:内野壮児/誌名:労働運動研究
巻号:39/刊年:1973.1/頁:50〜60/標題関連:続・「日本共産党の五十年」批判


No. 10
標題:党再建期と解党主義にたいする闘争/副標題:日本共産党史の教訓 4/No:
著者:内野壮児/誌名:労働運動研究
巻号:41/刊年:1973.3/頁:48〜57/標題関連:続・「日本共産党の五十年」批判


No. 11
標題:党の再建と福本イズム下の闘争/副標題:日本共産党史の教訓 5/No:
著者:内野壮児/誌名:労働運動研究
巻号:43/刊年:1973.5/頁:68〜80/標題関連:続・「日本共産党の五十年」批判




「戦後革命論争史」内幕

「運動史研究」14巻(48〜49頁)にも触れていますが、内野壮児、小野義彦、勝部元、山崎春成、それに私が「戦後の戦略思想」について、何カ月もかかって、総括研究討論会をやったことがあります。それをまとめて、内野の名で単行本をだす計画でした。一同が五〇年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論がつづきました。

 その筆記役を、まだ無名の上田にやらせたのです。上田はよくまとめましたが、肝腎の内野が超遅筆で、一向に進捗しないのに、代わってまとめることはそれぞれが時間がなく、窮余の一策として、上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。

 大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって、反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟にも一部分まとめさせてよいかと申出ましたが、それもよかろうということになったのです。

 これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。そんな関係で上田の結婚パーティも、内野はじめ全員が出ています。ところが、その後の経緯は不明ですが、上田は宮本派に鞍がえをしてしまいます。後日、宮本に言われて、上田はあの本を絶版にしますが、本来ならわれわれに同意を求める必要があるはずです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があったのです。(石堂清倫)



書評 志賀義雄編「千島問題――アジア集団安全保障への道」日本のこえ出版局

労働運動研究 昭和47年6月1日発行 第32号 掲載

内野壮児著

 

 千島問題は、日本の民主陣営の内部に、多くの意見の分岐と混乱がある問題である。それだけに、七〇年代闘争を前進させるために、日本労働者階級は、この問題にたいして明確な見解をもつことが必要である。

 「沖縄のつぎは北方領土」というのが、佐藤内閣と自民党のスローガンである。六九年十一月、悪名たかい「日米共同声明」をつくりあげた佐藤・ニクソン会談直後のナショナル・プレス・クラブの演説の中で、佐藤首相は、「北方領土の復帰」を「日本国民の正当な要求」として、その実現のために努力することを強調した。追っかけて翌七〇年十月の国連二五周年記念総会でも、「北方領土固有領土論」を強調したこともよく知られている。佐藤・ニクソン会談に先立って、政府は建設省国土地理院に、四四年度地図から、ハボマイ・シコタン、クナシリ、エトロフを日本固有領土として色をぬりかえ、日本帝国時代の地名をつけて発売させた。また文部省の指示によって、七一年四月から使用する教科書と地図も、同じように改訂された。ちかごろでは、商業放送のコマーシャルで、北洋の風景と、政府が領土として要求する島々の地図を画面に写し出す北方領土問題対策協議会のスポットが、毎日のように茶の間にとびこんでくる。この協会に政府は四十六年度いらい一億六千万円近くの補助金を出している。「南千島固有領土論」を国民の日常感情とするための思想カンパニアが、政府の指導のもとに、根気よく不断におこなわれているのである。

 日本政府が「南千島固有領土論」をもちだし、エトロフ・クナシリの返還要求にあくまで固執し、それを大々的に宣伝したのは、五六年のモスクワの日ソ平和交渉いらいのことである。そのため日ソ平和条約の締結は不可能になり、代りに、日ソ両国間の戦争状態を締結し、平和関係を回復する「日ソ共同宣言」が合意された。だが、その後も、政府と自民党は、日ソ平和条約を締結で切る現実的条件を真剣に考慮したことはない。反対に「南千島固有領土論」をますますかため、「日米共同声明」以後、北方領土要求カンパニアをつよめて、反ソ報復主義を扇動し、軍国主義強化と、新しい侵略的日米軍事同盟を推進する武器としているのが現在の情勢である。しかも、今日、問題を複雑にしているのは、十五年前「南千島固有領土論」に反対してたたかった日本共産党が、六九年三月いらい、その態度を公然と百八十度転換させて、政府・自民党の「南千島固有領土論」をさらに上まわる「全千島固有領土論」を主張し、日本帝国主義の水車に水を注いでいることである。それだけに、日本の労働者階級は、区区の表面的現象にまどわされず、この問題の本質を、根底的にみきわめなければならない。

 志賀義雄編「千島問題――アジア集団安全保障への道」は、この問題を解明し、労働者階級のとるべき態度を明確にしょうとしたものである。編者が述べているように、「日本帝国主義の千島要求に反対して、社会体制にかかわらない平和共存の立場を主張し、アジア集団安全保障の前提条件をあきらかにする論文と資料を集めた」ものが本書である。

 本書の第一の特色は、現在の東アジアと太平洋の国際情勢、そのなかで帝国主義強国として復活した日本帝国主義の進路という観点から、日本政府の千島要求の性格と意義をあきらかにしようとしていることである。

 日本帝国主義の現在の進路を表明しているものは「日米共同声明」である。編者は「はしがきに代えて」のなかでいう。

「日米共同声明は日米両帝国主義が相互に協力して社会主義を東方から侵略し、太平洋を独占する帝国主義的共同綱領であり、それが七〇年安保の主性格を決定した。」そして佐藤演説が南千島要求を第一に言及したのはなぜか。

 「日米合同作戦計画では、対馬、津軽、宗谷の三海峡の封鎖が対ソ作戦の基本におかれているが、千島がソ連領であっては、その封鎖が尻抜けになってしまう。千島の諸島間の水深は大きく、潜水艦の出入りに適している。現在の海岸の主要戦力は航空母艦から核武装原子力潜水艦に移りつつある。そして南千島のエトロフとクナシリは海空軍の基地となる広さをもっている。ことにエトロフの太平洋岸の中央部にあるヒトカップ湾は真珠湾攻撃の日本航空母艦基地となったほどある。」

 こうして南千島要求の真の性格は、日米両帝国主義の軍事戦略的要求であり、それいがいの何ものでもない。

 それでは正面におしだされている「南千島固有領土論」を労働者階級はどうみるべきか、本書第二章「報復主義者の台頭と千島問題」はこの問題に詳細に論じている。

 千島列島の帰属は、日本がポツダム宣言を受諾したときから決定していたとみるべきでる。ポツダム宣言の第八項は「『カイロ宣言』の条項は履行せられるべく又日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸諸島に局限せらるべし」とある。これを受諾したとき、日本は千島問題の帰属を連合国の決定にゆだね、それに服することを誓約したのである。千島問題の帰属を決定したの連合国間の協定派、当時はまだ公表れていなかったが、四五年二月のヤルタ協定であった。この協定による千島列島のソ連帰属が制約力をもっていたからこそ、サンフランシスコ平和条約でも、日本の千島領有権放棄を規定しているのである。

 「南千島固有領土論」は、サンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄することを承認した日本政府が、何とかしてその一部、南千島(クナシリ・エトロフ)をとり戻そうとしてあみだした「論理」である。それはつぎのように構成されている。@クナシリ・エトロフは日本固有の領土である。日本はいかなる国にたいしても日本固有の領土を放棄することはできない。A大西洋憲章は領土の拡大を求めないことを明白にしており、ソ連も賛同した大方針である。カイロ宣言にも、日本が他より<奪取した地域>を返還させるとあり、固有の民族領土は尊重されるというのは大原則である。

 クナシリ・エトロフを日本国固有の領土という論拠は、一八五五年調印され、翌年発効した最初の「日本国魯西亜国通好条約」が、日本とロシアの国境線をエトロフ島とウルップ島との間にひき、ウルップ以北をロシア領、エトロフ以南を日本領として、相互に承認し合ったからである。この歴史的事実を至上の論拠として、日本政府はヤルタ協定を否定し去ろうとしているのである。

 だが労働者階級にとっての中心問題は、第二次世界大戦遂行のための連合国の共同綱領となり、戦後処理の原則と戦後の世界秩序を規定する基礎となった、カイロ、ヤルタ、ポツダムの諸宣言、諸協定をどう評価し、これにたいしいかなる態度をとるべきかということである。これは第二次世界大戦をどう評価すべきかということにつながる。

 第二次世界大戦は、複雑な要因と性格をもちながらも、全体としてみれば、諸民族を侵略し奴隷化しようとした世界ファシズムを撃滅し、諸民族の自由と民主主義を擁護しようとする戦争であった。したがって戦後処理の原則は、何よりも戦争の火元となった、ドイツ・イタリーのファシズム、日本軍国主義を消滅させ、根こそぎにして、その再起を不可能にするような世界秩序をつくりあげることでなければならなかった。mあた、戦後平和を確保するために、連合国の主力となった社会主義ソ連と資本主義米・英の共存、協調を保証するものでなければならなかったのである。

 カイロ、ヤルタ、ポツダムの諸宣言と協定は、この原則にもとづいてつくりあげられた具体的諸協定である。領土問題に対する処理も、ファシズムと侵略的軍国主義の再起を不可能にし、平和をたかめるという観点からおこなわれた。だからこそファシズムの撃滅のために、自らも血の議背を払って、この戦争に参加した世界労働者階級は、これらの諸協定を完全な実施を要求し、この協定をふみにじろうとするアメリカ帝国主義などの帝国主義者の企図とたたかってきたのである。

 日本の労働者階級は、日本帝国主義と軍国主義者の惨虐な侵略戦争を阻止しえなかっいた歴史的責任を負っている。彼ら軍国主義者が侵略戦争によって他民族に与えた損害を償い、日本帝国主義と軍国主義の復活に抗して、その消滅と平和のためにたたかうことは、その歴史的任務である。カイロ、ヤルタ、ポツダムの完全実施のためにたたかうことは、現在も重要な任務である。

 たとえ南千島が戦争によって取得された領土でないとしても、それは真珠湾奇襲の前進基地となった。これを再び帝国主義者の軍事的侵略拠点としないために、ヤルタ協定による領土処理がおこなわれたのである。それはたしかに部分的に大西洋憲章と矛盾する。だが戦後処理の最高原則は、ファシズムの消滅、平和に対する脅威の防止と除去である。ヨーロッパとアジアの国境線は、この観点から制定されたものであり、この承認こそ、戦後平和の基礎なのである。

 本書は千島問題をめぐる歴史的経過をあきらかにして、ヤルタ協定を第二次大戦戦後処理の原則として強調する。日本帝国主義の反ソ策動を暴露するとともに、一九六五年いらい、日本共産党が千島問題にたいする態度を転換してきたことを「宮本指導部の変節」として批判し、告発する。代々木流の論理は、政府・自民党の「南千島固有領土論」と基本的に同じ論理である。大西洋憲章をもちだし、ヤルタ協定の領土処理はあやまっていたというのである。ちがうところは、一八七五年の「樺太千島交換条約」を根拠に、日本の「固有領土」の範囲を全千島に拡大して自民党の主張をさらに増幅していることである。そして自民党政府がサンフランシスコ条約で千島を放棄したことを非難し、将来の民主連合政府のもとで、日米安保条約を破棄した上で、サンフランシスコ条約の千島条項を破棄し、全千島の復帰をソ連に要求するというのである。この見解が連合国の戦後処理諸協定にたいする階級的評価とプロレタリア国際主義を忘れた小ブルジョア民族主義の産物であり、日米両帝国主義の侵略的デマゴギーを掩護する役割をはたしていることはいうまでもない。

 あえて大西洋憲章といわず、第一次世界大戦におけるレーニンの「無併合無賠償」の原則を、この問題の解決基準と主張することはあやまりである。双方の側からの帝国主義戦争であった第一次世界大戦と、第二次世界大戦とは、さきにのべたように戦争の性格が違っており、この性格の相違に応じた戦後処理の原則が基準とならなければならないからである。

 領土問題は本書も指摘しているように大衆をしばしば排外主義的熱狂にかりたてやすい問題であり、とくに帝国主義的侵略戦争をおこなって敗戦した国ではそうである。それだけに日本の労働者階級は、民族的感情を配慮しながらもこれに迎合せず厳格な階級態度を、その分析と政策につらぬかなければならない。

 「千島問題は、第二次大戦後の社会主義と帝国主義という二つの体制の境界領土の問題である。」その今日の帰属を決定しているものは第二次大戦とその結果であって、千島が過去にどうして日本領土になったかというのは主要な問題ではない。これは本書の基本的立場であり、労働者階級の見地から見て正しい。

 本書の特色は、また、千島問題を含めて戦後形成された国境の承認を真の集団安全保障の基礎としてとらえていることである。第三章、中立と集団安全保障――アジア集団安全保障への道は、ヨーロッパと対比しながら、アジア集団保障の条件を論じたものであり、重要な政策提案として検討されなければならない。

 第四章、平和共存と集団安全保障に、この問題にたいする国際共産主義運動およびソ連の公式文書が集録されている。附属試料として、年表、条約、関係法などが集められているのも便利である。

    (内野)

(日本のこえ出版局発行 定価九六〇円)


社革の平和闘争と三全総

―社会主義革新運動への反省・その3

内 野 壮 児

労働運動研究 昭和4912月 .62

 

平和をまもる闘争

 第二回全国総会(六二年五月)と第三回全国総会(六三年九月)の期間は、戦争と平和の問題をめぐって日本の労働者階級と人民が、さまざまな複雑な問題に直面した時期であった。

 六二年七月、モスクワで、全般的軍縮と平和のための世界大会がひらかれた。この大会には、帝国主義ブロックを構成する諸国ーアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、日本などから、かつてない多数の平和擁護者が参加したばかりでなく、 「爆弾のない世界」国際会議ーアクラ会議に代表されるアジァ、アフリカ、ラテン・アメリカ諸国の平和勢力がこれに合流した。歴史上かつてない統一の大会といわれるこの大会は「世界諸国民へのメッセージ」を圧倒的多数(賛成二一八六、反対二、棄権七)で採択し、恒久平和という共通の目標を確認し、全般・完全軍縮の実現のために全力をあげて行動することをあきらかにした。

 軍縮問題に関するソ連政府の見解を表明するために大会に出席したフルシチョフは、戦争の脅威にたいしてソ連の平和共存政策を強調し、完全軍縮のためのソ連案の主要点を説明した。また論争の焦点となっていた平和軍縮闘争と民族独立闘争との関係、階級闘争と平和運動の関係について、その見解を明らかにしたのち、世界的な規模の諸国民の反戦同盟の必要を訴えて、大会の熱狂的な歓迎を受けた。一方中国は、大会の前年十二月の世界平和評議会総会で「軍縮と民族独立のための世界大会」にせよという修正案をだし、否決されていたため、その態度が注目されていたが、茅盾を団長とする十三名の代表団を参加させ、消極的ながら賛成の態度を明らかにした。しかし大会における茅盾の発言は、中国がなおそれまでの見解を改めたのではないことを示していたのである。

 社革は『新しい路線』三六号(七月二十三日号)で大会の経過や結果を詳しく報道するとともに、その主張で、「モスクワ大会の成果をまもり原水禁世界大会を成功させよう」とよびかけた。

 だが第八回原水禁世界大会は混乱のうちに終り、原水禁運動がかつてない深刻な危機におちいったことをばくろした。

 すでに前年の七回大会いご、ソ連の核実験再開をめぐる混乱いらい原水禁運動は停滞と混迷をつづけていた。運動の再建をはかるため、原水禁運動の「基本原則」が決定されたが見るべき進展はなかった。

 大会を前に共産党の発表した方針は、核実験禁止協定や、全般的軍縮協定も、要求としてはかかげるが、これをたたかいとるためには何よりも基地闘争が必要であるというものであり、平和と全般的軍縮との闘争と民族独立のたたかいの密接な関連を強調するものであった。

 一方、社会党は、原水協の「基本原則」が社会党の積極的中立主義に一致することを強調し、この「基本原則」の精神によって大会が成功するよう努力する、原水禁運動の立場から軍縮問題の占める地位をあきらかにし、これに重点をおくべきで、植民地解放闘争に重点をおくべきではないという方針を示した。

 これらの方針の相違はモスクワ大会の成功にまなんで解決できるという希望がもたれたが、七月二十七日のアカハタの内野竹千代論文は、モスクワ大会のメッセージは「軍縮に主題をおいたためにきわめて不充分なものになった」 「日本にとっては適切なものではない」といいきって、大会の前途のただならぬことを予想させたのである。

 こうして大会の諸会議は、社共両党の論争の場となり対立的な空気を増大させた。一致点をまとめる努力は、僅かな例外をのぞいて殆どおこなわれなかった。八月五日夜、ソ連核実験のニュースはこの対立に火をつけた。六日未明、社会党、総評代表から、運営委員会に、ソ連の核実験に抗議せよという動議が提出された。動議が否決されるや、社会党、総評は役員引揚げを決定の上、六日の開会劈頭、緊急動議として提出、会場は混乱におちいってしまった。

大会宣言、決議の提案さえおこなわれず、安井大会総長の経過報告をもって閉会したのである。

 同じ六日の広島大会では別の混乱がおこった。中国五県の代表二千三百名が集ったこの大会では「広島アピール」の採択につづいて「米・ソ両国に核実験中止を要請する電報をうつこと」が採択され、つぎの議事に移ったとき、会場のあちこちから「議長!」 「議長!」と発言をもとめる声がおこり、議場は混乱した。

中華人民土ハ和国代表は演壇にかけ上り、何かを発言し始めて、混乱がはげしくなるばかり、運営委員会の大会採択手続などについての説明後、「原爆許すまじ」の合唱で大会の幕は閉じられたが、合唱の最中、共産党員、民青同盟員は「反対・反対」のシュプレヒコールをおこなった。全体の四分の一たらずの数であった。

 この原水禁運動の危機にあたって社革は『新しい路線』で事実を詳しく報道するとともに、三七号(八月十目)に「平和運動にたいする共産主義者の基本的態度」と題する主張をかかげてその態度をあきらかにした。

 主張はこの危機をみちびいた主要な責任は共産党にあるとして平和運動にたいする共産党の誤った方針を批判している。また社会党のセクト主義を批判し、政党が指導権をうばいあう争いの場となった平和運動自体の弱点を指摘して、その克服の必要を訴えている。

 主張は、今日、平和の擁護が、共産主義者の第一義的任務となっていることをあきらかにし、階級闘争と平和運動との関連を明白にして、平和運動の正しい発展を保障する責任と任務を説く。

 「社会主義の世界体制は、平和を擁護する基本的な力であるとはいえ社会主義だけで平和を守ることはできない。労働者階級は最も強力な平和勢力であっても、労働者階級の力だけで戦争を阻止することはできない。労働者階級が平和を擁護するためには、広汎な同盟者が必要である。

 帝国主義の戦争政策、軍事同盟と基地、彪大な軍備は、経済的にも政治的にも、また思想的にも多くの矛盾をその内部にうみだしている。そこから新しい層が平和を要求して立ちあがってきている。青年、婦人、知識層、宗教家、芸術家、ブルジョアジーの一部まで、平和擁護の問題は国籍や階層の別をこえ全人類的な課題となっている。

 労働者階級、とくにその前衛は、たとえこれらの人々が階級闘争における労働者の立場と一致しない場合があっても、また、社会主義と帝国主義の質的ちがいを正確にしらなくとも、その平和の熱意を積極的に評価し、これと手を結んで幅広い平和の戦線を形成し、その自主的な運動の正しい発展を保障しなければならない。いまでは、このような結集が積極的な役割をはたす時がきているのであり、そこに平和運動の新しい性格がある。」

 主張はまた、ソ連の核実験支持を平和運動に強制しようとした共産党の誤りを批判し、ソ連核実験にたいする自然発生的抗議の性格をあきらかにし、共産主義者のとるべき態度を明確にする。

 またさきにも述べた平和運動の弱点として、職場や農村の下からの運動が弱いことを指摘し、これを克服するために実生活と結びついたさまざまな平和要求にもとつく運動を、その特質に応じて発展させ、平和運動の中心課題にむけてゆくこと、平和委員会からセクト主義を一掃し、職場、農村に基礎をおく大衆的な行動組織とすることを説く。

 そして平和運動と階級闘争のちがいと関連を説明し、さまざまな思想の人との協力を説いて最後にいう。

 「日本の真の支配者をアメリカ帝国主義だと考え、民族の独立、軍事基地の撤去を第一義的課題と考える人々とも、平和擁護の立場から役に立つ具体的な行動でともにたたかう用意がある。

 しかし例えば平和擁護運動をすべて反米独立の民族解放運動の『理論』で規制し、或は『積極中立主義こそ平和の道』と主張して一定の政治的見解を運動に押しつけようとする一切の企図に反対する。

 そして、平和を脅かす実際的な危険をとりのぞき、諸民族の平和的共存と友好を進めるすべての具体的課題について協力を組織することこそ平和運動におけるわれわれ共産主義者の任務である。」

 この主張は社革の平和運動にたいする態度を定立したものとして大きな意義をもったといえよう。

 原水禁大会後、社共両党ともにその立揚を固執し、論争は泥試合の様相さえ呈してきて事実上の分裂が進行し始めた。このような事態のなかで、心ある平和活動家の間には、いつまでも論争をくりかえすのでなく行動を開始することが必要だという空気も生れた。

 社革は、九月十二日の全国常任委員会で、来年一月一日を期し、核実験停止協定を締結させることを、国連、米、ソ、日政府に要請する署名運動を展開することを決定、二十日そのよびかけを発表した。 『新しい路線』第四一号(九月二十日)はこのよびかけを掲載するとともに、核実験停止のための行動をー署名運動の提唱に当って」という主張を発表してその意義をあきらかにした。『新しい路線』にはこの署名簿が刷りこまれた。なおこの提唱には、春日庄次郎の申入れが機縁となったことも記しておかなければならない。

 社革全国常任委員会は、十二月十六目この署名運動を集約して核停協定要請書を、国連ウ・タント事務総長、ケネディ米大統領、フルシチョフ・ソ連首相、池田内閣総理大臣あて送ったが、これにそえられた文書はつぎのように述べている。

 「東京、埼玉、茨城、大阪、広島、福岡、富山などをはじめ、全国各地の平和、労働、社会団体の協力によって、それぞれの地域、経営、学校、農村などで、この運動が熱心にすすめられた。

 とくに東京、大阪、広島などでは各地域原水爆禁止協議会が、これを組織の共同活動としてとり上げ、また鳥取県倉吉市議会をはじめ、多くの地方自治体議会でも、積極的に右協定の実現を要求することが決議された。

 そして、十一月一日おこなわれた国際軍縮要求デー広島集会、十二月三、四日広島市でおこなわれた原水爆禁止と平和のための国民大会でも圧倒的多数の賛成によって、この運動を発展させることが決議され、引続いて全国的な運動として推進されていることを附記する。」

 十月下旬、カリブ海に重大な核戦争の危機が生れた。二十二日、ケネディ米大統領は、ソ連の核ミサイル供与を口実にキューバの海上交通しゃ断を声明、米艦隊を配置するとともにグワンタナム基地の兵力を増強した。社革常任員会はただちに抗議声明を発表して、アメリカ政府の封鎖無条件解除、兵力撤去を要求し、日本政府がアメリカの行為を支持することを糾弾した。情報を聞いた社革教育大支部は緊急行動をきめ、社青同、社学同などに統一行動をよびか

けるとともに、各大学社革支部とも連絡した。また慶大支部は、大学管理法反対デモの学生にアメリカ大使館への抗議行動参加をよびかけた。

 二十四日午後四時、アメリヵ大使館前には、二百三十余名の学生がよびかけに応じて集り、警官隊と対峙するなかで、抗議の叫びをあげた。

 また社革全国常任委員会と東京都委員会も代表をアメリカ大使館に送って抗議し、ケネディ声明の無条件撤回を要求した。

 フルシチョフの基地撤去によって危機が回避され、キューバの独立が擁護されたとき、 『新しい路線』四六号は、これを賢明な処置と支持して「平和擁護の闘いこそキューバの革命を防衛する」という主張をかかげて、平和擁護闘争の強化と平和戦線の統一のために奪闘することをよびかけた。

 キューバ危機に当ってソ連のとった措置にたいして中国共産党は批判的態度をとり、国際論争を燃え上がらせるきっかけとなった。中共はソ連ばかりでなくフランス、イタリア、アメリヵの諸党を修正主義として批判し、当然これにたいする反論をよびおこした。これらの論争は深刻な波紋をよび、わが国の平和運動、労働運動、社会主義運動に重大な影響を与えた。共産主義者のこれにたいする態度が問われたことはいうまでもない。

 第八回大会以後、原水禁運動の事実上の分裂が進行したことは前にも見た通りである。共産党は平和委員会を握って、十月下旬全国各地で基地行進をおこない、十一月二十―二十二日の日本平和大会を反米独立の立場からの平和大会とするため積極的に活動した。

 一方社会党・総評の幹部は、平和活動家の要請による「原水爆禁止と平和のための広島大会」をひらくことを決定した。これは積極的意義をもつとともに、共産党の指導する日本平和大会に対決するセクト的傾向をもまぬかれなかった。広島原水協を中心とする中国地方原水協は、この広島大会を日本原水協が全組織をあげて実現し、原水協の統一を守ることを要求したが、日本原水協は、社共の対立で機能をマヒし、この要求に応えられる状態ではなかった。

 この大会に積極的にとりくんだ平和活動家は、社会党など十三団体のワクを外し、各地に自主的に結集される実行委員会を組織して新しい運動の出発点となるよう努力した。広島大会は核禁協定の締結、日本非核武装宣言、破爆者の医療と生活保障確立の努力などを訴え、一定の成果をのこしたが、なお社会党系というセクト的においを克服することはできなかった。

 この大会の準備過程で、大阪ではモスクワ大会に参加した地評幹部を中心に「全般的軍縮と平和の会」が結成され、モスクワ大会の方向に従って日本の平和運動を発展させる独自の活動を展開することになった。

 このような下部の動きは日本原水協の統一と活動再開を促がした。六三年二月いらい原水協担当常任理事会は意志統一の会議を重ね、舞台裏では総評を仲介に社・共の話合いがおこなわれた。

 二月二十一日、日本原水協担当常任理事会は「いかなる国の核実験にも反対し、この地球上から核実験をなくすため、すべての核保有国による核実験停止協定を即時無条件締結させる」の条項をふくむ四項目の具体的目標をかがけて原水禁運動の統一と強化をはかり、三・一ビキニデーと第九回世界大会をめざして運動を再開することを一致して決定し、声明を発表した。

 しかしビキニデーの前日、二月二十八日、静岡市でひらかられた全国常任理事会は、共産党系理事が、前に承認した声明を保留するという態度に出たため混乱した。担当常任理事の多数が辞職を表明、焼津集会は統一してひらくことができず、原水協はまたもや分裂状態に逆もどりした。

 この惰勢のなかで、広島原水協は五月十九日、各地方原水協ブロックによびかけて会議をもち、原水協担当常任理事会の二・二一声明にもとついて統一することを提案して懇談、六月三日には全国地方原水協代表者会議をひらいて、日本原水協に強く統一を要請した。

 よく知られているように第九回原水禁世界大会はついに分裂した。八月五日、モスクワで部分核停条約が調印された日である。この大会が中ソ論争の舞台となったこともよく知られている。現地にもちこされた担当常任理事会はついに統一的な大会方針を決定できず、大会の準備執行を広島原水協に白紙委任する非常措置をとって、局面の打開をはかったが、開会総会の直前、総評、社会党は不参加を表明し、八月六目、広島原水協も、その委任を返上した。

 こうして、目本原水協はほとんど目共系の役員のみで、大会を強行した。開会総会でおこなわれた森滝基調報告は完全にふみにじられ、日共の主張がストレートに大会の決議にもりこまれた。七日、広島原水協の森滝代表と伊藤事務局長は、声明を発表して、分裂にたいする痛恨の情をのべ、森滝基調報告を基礎として再出発の方途をはかる決意を表明した。

 社革全国常任委員会は七月二十四日、「八・六原水禁世界大会の成功のためにすべての平和擁護者の力を結集しよう」 『新しい路線』六九号(七月二十五日)という長文の声明を発表して基本方針をあきらかにしていたが、西川議長、内藤事務局長、長谷川常任委員を現地に派遣、松江県委員長はじめ広島県委員会とともに、現地指導部を構成して、大会の成功のために活動した。大会は分裂に終ったが、貴重な経験を蓄積したといえよう。

 大会の分裂を報じた『新しい路線』(第七〇号)は「八・六原水爆禁止大会の教訓とわれわれの任務」という主張をかかげて、今後の活動の方向を明らかにしたのである。

第三回全国総会

 第三回全国総会は六三年九月二十二、二十三、二十四の三日間にわたって東京でひらかれた。大会には各組織を代表する代議員と評議員、八月以降支部結成のすすんだ東京、長崎等の各支部の傍聴者あわせて約百名が参加した。

 大会の主要議題となったのは政治報告草案と「社会主義日本への道と新しい党の建設」と題するテーゼ草案、及び会則改正案であった。

 このうちテーゼ草案はとくに統社同との分裂以後、われわれの組織の骨格を定立するものとして要望されていた。六三年一月常任委員会がこれについての討論要綱を発表していらい全国的な討論がおこなわれ、全国委員会の討論を経て、五月二十五日『路線』第六四号で草案が発表されていた。特別な討論誌として『討論』が発刊され、総会までに二号を発行していた。だが大会で出された意見は、さまざまであり、草案についての一致をみることは困難であった。

議長団を中心に設けられた集約委員会に全国常任委員会はテーゼ草案の撤回と簡潔な政治活動の基準を作成することを提案した。これは反対意見がなく、保留四で、総会決議として採択されたが、その全文はつぎのとおりである。

1 今日社会主義世界体制と国際労 働者階級は世界史の動向を決定する主な要因となり、資本主義の全 般的危機は新しい段階に入っている。そのなかで、日本帝国主義は復活し、その客観的諸矛盾が成熟している。

  この情勢のなかで発展してきた 戦後日本の階級闘争、労働運動と 民主主義的大衆運動の経験は、当面の闘争の性格と革命の展望をあ きらかにしている。

2 すなわち現在の日本には、社会 主義的変革を不可避とする内的諸 矛盾が成熟している。日本の社会 主義への道は、当面の平和と民主 主義のための諸闘争の発展、反独 占民主改革の闘争の前進によって 開かれる。日本における社会主義 のための闘争は高度に発達した資 本主義諸国と共通した一般的性格 をもつとともに日本独自の諸条件 から生れる特殊性をもっている。

  第一は独占資本の急速な復活と 発展の基礎となった日本特有の低 賃金構造、それを支える後進的な 経済構造の改革が反独占民主改革 の重要な課題となっていることで あり、第二は戦後の特殊条件から 生れた日米軍事同盟打破と中立の ための闘争が革命の発展過程に重 要な特殊性をあたえていることで ある。

3 そこから、われわれの政治活動 の基準は次の五点に集約される。

 第一、われわれは平和共存路線を とる。この平和共存路線は、日本 の諸条件のもとでは中立路線と不 可分にむすびついている。

 第二、憲法と民主主義を擁護し、 その内容を人民的なものに発展さ せる立場にたつ。戦後日本の民主 主義と憲法は、第二次世界大戦に おける国際労働者階級と民主主義 の勝利の成果の反映であり、労働 者階級と人民の手によって擁護さ れてきた。この民主主義をさらに 拡大し発展させ、経済の領域にも およぼし反独占的性格と人民的内 容をもつものに革新する。

第三、日本における反独占民主経済改革の闘争のとくに重要な課題は、日本の特殊な低賃金構造の打破、低所得者の一掃、都市農村の後進的な経済構造の打破である。

第四、この闘争のなかで反独占諸階層を結集して統一戦線を組織する。反独占民主政府の樹立を中心目標とするこの統一戦線は、人民戦線、第二次大戦中の反ファッショ国民戦線の歴史的継承であると同時に、現代の日本の諸条件に応じてその内容と形態を発展させねばならない。

 反独占民主政府は労働者階級の国家権力への接近の形態である。

こうして、社会主義への平和的移行の可能な条件がつくられる。

 統一戦線に参加する諸階層が闘争のなかで社会主義的方向に前進するためには、社会主義への展望を堅持する労働者階級の指導権の確保が決定的である。

第五、この展望と労働運動、社会主義運動の現状は、労働者階級の新しい前衛党の建設を必至の課題としている。