山本菊代著作リスト








No. 1
標題:闘いに生きて/副標題:No:14
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:222/刊年:1988.4/頁:43〜45/標題関連:

No. 2
標題:闘いに生きて/副標題:厚生省の三通牒撤回運動/No:15
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:223/刊年:1988.5/頁:45〜47/標題関連:

No. 3
標題:闘いに生きて/副標題:党員グル−プのあつれき/No:18
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:226/刊年:1988.8/頁:44〜46/標題関連:

No. 4
標題:闘いに生きて/副標題:No:16
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:224/刊年:1988.6/頁:43〜45/標題関連:

No. 5
標題:闘いに生きて/副標題:No:17
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:225/刊年:1988.7/頁:43〜45/標題関連:

No. 6
標題:闘いに生きて/副標題:母親運動の始まり/No:19
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:227/刊年:1988.9/頁:43〜45/標題関連:

No. 7
標題:闘いに生きて/副標題:No:20
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:228/刊年:1988.10/頁:43〜45/標題関連:

No. 8
標題:闘いに生きて/副標題:No:24
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:234/刊年:1989.4/頁:45〜47/標題関連:

No. 9
標題:闘いに生きて/副標題:No:27
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:237/刊年:1989.7/頁:43〜45/標題関連:

No. 10
標題:闘いに生きて/副標題:No:26
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:236/刊年:1989.6/頁:45〜47/標題関連:

No. 11
標題:闘いに生きて/副標題:No:28
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:238/刊年:1989.8/頁:45〜47/標題関連:

No. 12
標題:闘いに生きて/副標題:No:29
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:239/刊年:1989.9/頁:45〜47/標題関連:

No. 13
標題:闘いに生きて/副標題:No:30
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:240/刊年:1989.10/頁:44〜46/標題関連:

No. 14
標題:闘いに生きて/副標題:No:32
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:242/刊年:1989.12/頁:42〜45,39/標題関連:

No. 15
標題:闘いに生きて/副標題:No:33
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:244/刊年:1990.2/頁:44〜46/標題関連:

No. 16
標題:闘いに生きて/副標題:No:35
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:246/刊年:1990.4/頁:42〜45/標題関連:

No. 17
標題:闘いに生きて/副標題:No:36
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:247/刊年:1990.5/頁:44〜46/標題関連:

No. 18
標題:闘いに生きて/副標題:No:37・完
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:248/刊年:1990.6/頁:45〜47/標題関連:

No. 19
標題:人気のあった山懸さん夫妻(座談会)/副標題:なぜ共産党指導部は野坂参三に丁重なのか/No:
著者:山本菊代 山本正美 横井亀夫 佐和慶太郎 大竹一燈子/誌名:労働運動研究
巻号:277/刊年:1992.11/頁:2〜9/標題関連:

No. 20
標題:伊藤晃著『労働組合評議会の研究』(書評)/副標題:No:
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:385/刊年:2002.3/頁:47〜48/標題関連:

No. 21
標題:母性保護と婦人労働の実態/副標題:生理休暇の問題を中心に/No:
著者:山本菊代/誌名:労働運動研究
巻号:125/刊年:1980.3/頁:26〜33/標題関連:


闘いに生きて()

敗戦そして復党まで

山 本 菊 代

労働運動研究 19873月 No.209

復党の自信を失う

 一九四五年十一月初め、山本正美の疎開先の長野から千葉県松戸市の兄の家に帰ったあと、山本の両親からの要請で高知県窪川町を訪ねた。戦後の混乱とはいえ比較的物資の登富な田舎に、両親は私を長くとどめたかったようだが、私の方には松戸に残っている山本から、共産党が発表した第一次国会議員の候補者名やその他の情報を知らせてくる。私は両規を説得して、翌年の一月早々に松戸に帰った。帰ると山本から、「すぐ目本共産党に復党した方がよい」といわれた。しかし私は党にすぐ復党手続きをとることに二の脚をふんだ。それには二つの理由があった。

 第一は、敗鞍直後の十一月に疎開先から帰京したとき、真っ先に代々木の共産党本部へ行った。そこで、闘病生活を続けているとばかり思っていた西村桜東洋さんの生き生きとした姿をみて嬉しかった。私は懐しさのあまり駆け寄って声をかけた。しかし、その時の桜東洋さんはきこえなかのたのか、私には目もくれず、寸時もおしむように働いていた。これは私にひどくこたえた。

 第二は私が高知から帰宅した時、家の二階で山本は風早八十二氏と二人で自炊していた。風早氏が山本に「君は会合に出ても発言しない方がよい。その場では君の意見に賛成しても、翌日の会議では前言を翻して反対意見になる人もいるのだから、君の発言は無駄だ」というよう

なことを言っているのを聞いた。

 それから数日後に風早氏は川崎己二郎氏から、「山本のとこるにいると君の不利になるから早く出た方がよい」といわれて出て行かれた。

 山本の行動については、彼自身から話もしないし、私からもあえて聞かなかった。その後も山本は朝出かけ夜遅く帰って米ており、私たち夫婦の問にはその後も朝食のとき以外、会話を交わす時間はほとんどなかった。それに私自身も地域活動で、夜も子供を背負って出かげていた。

 あるとき山本がボツリと、徳田書記長から徳田氏の秘書になれといわれたが、戦略閥題で意見が違うのだから無理だと断わったといった。

 山本は一九四五年十二月二日、五日の二回にわたって、湯本正夫名で「乗京新聞」に「現段階と労働者階級」という論文を発表した。その後も『社会評論』その他の発表機関を利用して、戦略間題を展開していた。

 私には理諭的に十分な理解ほ困難であったが、日本共産党は当時三十二年テーゼを路襲しているように思われた。山本が戦争の過程で日本の情勢は三十二年テーゼ作成の時とは変化している、三十二年テーゼではもう古い、三十二年テーゼを発展させた戦略が必要だとして発表した「現段階と労鎖者階級」の論文は、日本共産党の戦略と正面衝突していること、それは周囲の事情から推祭することができた。

 徳田書記長は多分、彼を野放しにすると何をしでかすかわからないという考えから秘書にといったと思うが、彼はそれを拒否した。 誤解とはいえ、女房の泣き落しで転向した脱落者とされ、さらに山本に恨みうらみの数々を持っている袴田氏が党の重鎮として存在していた。そうした寡囲気の中で私は党に戻って活動する自信はなかった。

山本の論文による波紋

 その後ずっとのちに上田耕一郎氏が『戦後革命諭争史』で、さらにそれから十数年後、東京大学出版会の「講座日本史」 (一〇巻)が、また犬丸義一氏が「戦後日本マルクス主義史学にかんする覚書」の中で、さきの山本の論文「現段階と労働者階級」をとりあげていることを知った。

 それを知ったのは私たちがボルゴグラードに滞在中(一九七一〜七四年)のことで、しかも意外なことからであった。三井物産で山本と同じ課にいて、結婚後モスクワ大学に入学した女性であったか、あるいは私の娘であったか、いずれにしてもソビエトの歴史学者トペーハ氏から前記の本のことを聞いたというのである。私は一九七四年十二月に日本に帰ってのちさっそく犬丸氏の本を買って読んだ。

 犬丸氏は日本国憲法制定以前で時期尚早であったが、新しい要素を敏感に把握した点で、歴史的意義の深い問題提起であったと書いている。上田氏も前記『戦後革命論争史』を絶版にした現在はともかくとして、この本の中では「時期尚早の感はまぬがれないとしても「社会主義革命論」の主要論点はほとんど網羅されて提起されており、歴史的意義をもつ先鋭な論文である」と、ある程度の評価をしているが、また、共産党本部では宮本氏が真先きに「……ブルジョア的革命を一応連成したものとして、われわれの今後の闘争目標を設定するならば、それは決定的誤謬である」と反論したとも書かれている。

 山本はといえば、誰にでも判るようになってからではおそい、政治家は先が見えなくてどうする、理論は曲げられない、と相変らず強気に戦略論争に熱中していた。

 そんな山本も、戦前モスクワから帰国したとき、第一番にお会いし、日本共産党中央部の野呂栄太郎氏との連絡をつけていただいた細川嘉六氏と、帰国後の活動ならびに彼のいわゆる「転向問題」についての経過およびその時の思想的動向等を知りている風早八十二氏の二人の証明で、間もなく、一九四六年初めごろに復党したようだ。

「生活擁護同盟」で活動

 私はといえば、共産党復党の自信を喪失したが、そうかといってじっとしていられるような状況ではなかった。配給だけでは死ぬるほかないことを、ある潔癖な判事の死が証明した。復党を諦めたとにいっても中央の動きに無感心ではいられず、 一九四六年一月二十六日、日比谷公園での野坂氏帰国大歓迎大会や、メーデー、それにつづく五月十九日の人民広場(二重橘前広場)での食量メーデー等に参加した。徳田書記長の心をゆさぶる演説にすっかり感動し、人民広場から上野公園までのデモ行進にも一歳半の背中の子供の重みも感ぜず、みんなと一緒に行進することができた。

 その間に地域の大衆組織と連絡がついた。たしか二月半ば頃であった。きっかけは買物に歩いていた商店街で、女性中心のデモに出会ったことであった。当時の松戸は保守的な土地がらで有名であったので、これは思いがけないことであつた。

どこの団体の、どんな目的のためのものか判らないまま後についた。目的地は市役所で、参加者は戦災者であった。

 東京で戦災に遭った人たちが、江戸川ひとつ隔てた松戸へ集まってきたのは当然である。最初は遊郭が開放されてそこに住んだらしいが、それでは間に合わない。幸いにも松戸駅のすぐ裏の高台一帯が旧陸軍工兵学校の建物と演習場であった。校舎には東京の工芸掌校が入ったが、そのほかの建物は馬小屋といい物置といい、すべて戦災者の住宅になっていた。自分たちで、そこにある材科をつかって床を張り、仕切りをして住んだのだということであった。その人たちの市に対する特別配給の要求デモであった。

 指導者は笹森登美夫という人で、工兵学校のつづきに住んでおり、アナキスト的思想の持ち主ではあったが、精力的な活動家であった。よく羽仁五郎氏の話をされていた。この人が戦災者を中心に「生活擁護同盟」を組織し、戦災者、引揚げ者の救援活動を指導していた。松戸市には他の大衆組織はなく、敗戦後の混乱期における戦災者の救後活動はまさに「生活擁護同盟」のひとり舞台であった。

しかも活動の性質からいって、対市闘争だけではなく、対県闘争もあり、他地域との横のつながりも必要であった。松戸では当時共産党は公然化していなかったので、同盟は直按共産党の千葉県委員会と接触していたようであつた。私が共産党の千葉県関係の人と最初に会ったのは、生活擁護同盟に訪ねで来られた千葉県党の石内夫人と佐藤二郎氏の妹さんであった。

 笹森氏は「生活擁護同盟にだけでなく、別に「相互扶助組合」をつくって一種の消費組合週動もはじめたが、物資の入手が困難で成功しなかったようである。しかし戦災者が一ヵ所にまとまっていることと、笹森氏の行動力などで、同盟の事務所はいつも青年男女の協力者で活気があった。私もほとんど毎日のように子供を背負って行って協力した。

 ここで特筆できるのは次の二点であろう。その一つは、暖くなってからだと思うから一九四六年四月頃だったろうか。ソビエトの映画観賞会を同盟は計画したのである。山本のアドバイスでフィルムをソビエト大使館から借り、松戸駅前の常設の映画館を借りて上映した。ストーリーは全く憶えていないが、画面には労働者や農民だけでなく、足首まである長い洋服を着た人も出て、幅の広い裾をひらめかしてダンスをしたりする場面もあり、はじめて観るツビエト映画に、人々は喰い入るように見入っていた。大成功でホットした。それから何日かのちにGHQから呼び出された。ソ連映画のことなどとは思いもつかずとにかく皇居の掘端の、たしか第一生命の本社に陣取っているGHQへ行った。何のことはない、前記配映画のフィルムの出所にっいての訊問であった。 その二つめは、夏らしくなってからだと思う。演説会を同盟は計画した。労働、農民、市民問題のそれぞれの活動家兼理論家を私が探し、依頼することになった。この時も山本のアドパイスで農林省、国鉄本社等を訪ね、講師を探して歩いた。農林省でははからずも、かつての私の職場、労働科学研究所で一緒であった川瀬氏に出会った。その時の講師で記憶しているのは、農民問題の井上噴丸氏だけである。当時は公会堂も公民館もなく、何かというと小学校の講堂を使用していた。したがってそう広くはなかったが、この時も講堂は満員であった。

 どちらの催しも松戸市ではかつてないことで、「生活擁護同盟」の功績に特筆に価いするのではないかと思う。

 こうした活動のかたわら、私たち家族も食べなければならない。松戸近在の農家には米の買い出しのできる家を知らない。会津の私の疎開先の荷物もそのままにしてある。米の買い山しも荷物の引き取りも、みな私の役だ。山本が子侠を背負って米の一○キロや二〇キロ運べないことはない。しかし「どこの家庭でも主婦がやっている」と山本にいわれた。このわからずやには腹が立ったが、やはりやれば私にもやれなくはなかった。雪解けを待って私は会津の疎開先に行き、そこでわが家の米だけでたく風早氏宅分も約束を取りつけることができた。

共産党本部から呼び出し

 そうこうしている時、私に共産党本部から呼び出しがあった。会ったのは袴田里見氏であった。部屋に入るや否や、 「戦前、山本は僕を東京市萎員長にすると約束していながら、しなかった」 「予審中、侯が山本に面会を申し込んだのに会うのを拒否した」「戦後実家に帰って短波ラジオを持って来ると約束して、持って来なかった」と、私には全く関係ないことを次々に言い、私はただそれを承わって帰った。

 この三点については全くの初耳だった。袴田氏の東京市委員長の件は、野呂氏の反対で実現できなかったことを、山本は「激動の時代に生きて」で明らかにしている。面会の件も、予審中の被絞告同志の面会は、裁判官か訊問に必要とした場合にだけ認められると思っていた私には、理解できなかった。

 第三の短波ラジオのり件は、全く山本が軽卒であったと思う。実家にあった短淀ラジオは、山本の弟が第一回目の召集の時習得した技術で自分で組立てたもので、その時点ではまだ弟は第二回目の召集から復慶員していなかった。もしかかした両親にとってそのラジオが形見になるかもしれない時、袴田氏に約束したとすれば軽率も甚だしい。  (つづく)

この闘いに生きては 後に柘植書房より書籍として出版されてます。


湯本正夫名で「乗京新聞」に「現段階と労働者階級」という論文は次ぎの書籍に収録されてます

山本正美裁判関係記録・論文集   ―真説「32年」テーゼ前後

                B5判・上製・箱入り・714頁・300部限定・定価40000円+税

                コミンテルンと日本共産党の貴重な証言     新泉社

 


思い出すことなど

―九六年七ヶ月を生きて―

労働運動研究所 山本菊代

労働運動研究 200110No.384号 

 

末端の一兵卒

 私はすでに九年前に自伝『たたかいに生きて』を柘植書房から出版しましたが、いま九六歳と七ヶ月になり、もう一度過去をふりかえり、また三二年間共に歩んだ私たちの雑誌『労働運動研究』誌が残念にも最後を迎えることになりましたので、お別れの意味も含め、未熟ではあっても共産主義者としての七三年間の思い出、また残しておきたいことを少し書かせていただくことにしました。

 私が入党したとき、党の秘密は他言してはならないと言われました。私の仕事は労働組合全国協議会のレポーターでした。四・一六(一九二九年)の夜、私はいつもの家に行きました。約束の「安全信号」があるので元気よく中に入ったとたんに、オーと言ってがっしりした男の手で両手を握られ、その後の警察での訊問で、私は最後まで何も言わないのに、「共産党員」として起訴されました。また、東京電灯争議で長期間拘留されたために重症の脚気になって療養中の同志まで、このとき検挙されました。聞けば東京都の責任者が街を歩いていて検挙され、家宅捜索の結果、党員の名簿が出たというのです。幹部より末端の一兵卒の方が真剣に闘っていたのです。

転向と石堂著作

 私の未決拘禁も三ヵ年経って一九三二年になり、やっと公判が始まり、その準備として幹部の予審記録が差入れられ、私には佐野学氏の記録が差入れられました。その記録を読んでいるうちに目が釘付けになりました。佐野氏が次のように予審判事に言っているのです。

 「古い党員が留守の時、全国大会を開いて幹部を決めることなど、もっての外だ」

 これでは組織の最高幹部が国家機関の裁判官に内部の不満をもらしていることになる。これで良いのだろうか、敵にこのようなことを言って良いのだろうかと、佐野氏に対する私の信頼の念は一時に消えました。

しかし、三・一五(一九二八年)、四・一六の一審公判は、佐野氏など一〇名の幹部の指導によって、統制を保ち、階級闘争らしく闘うことができ、一九三二年の八月に第一審判決があり、被告たちは控訴の手続きをとり、保釈になったものはそれぞれ非合法活動に入りました。

 ほどなく私は、一九三三年五月、中央部の人々の検挙の際に巻添えになり、二ヶ月の留置場生活の後に保釈を取り消された。その時、佐野、鍋山、三田村の転向をちらっと聞きました。またこの時、モップル(救援組織)の活動家も、解放運動犠牲者のために活動していた弁護士まで、総ぐるみで検挙されたことを、姉が面会にきたときに知りました。

 姉からは控訴を取り下げ、下獄すれば減刑になるとすすめられましたが、そのまま控訴を維持していたところ、名前も知らない弁護士が面会に来て、「私が弁護人になった」と言うので、救援組織も破壊されたと、おおよそのことは察していましたが、佐野・鍋山の転向の実態は刑期満了で一九三六年に出所して初めて知りました。

 四・一六検挙の一九二九年八月には、佐野文夫、浅野晃たちが転向したが、その時、浅野晃の夫人が私と同じ刑務所にいて、獄内から何回か公判のために裁判所にゆき、帰ってくると、私に相談を持ちかけていました。浅野たちは裁判官とかけひきをしているようだ、天皇制を認めた共産党などどうなんだろう、とも話かけられましたが、彼女は心配のあまり遂に発狂し、獄内で「天皇陛下万歳!」を叫んで、獄中の被告たちを驚かせました。

 私は佐野文夫を中心にした転向の内容を多少聞いていたのと、先に少し書いた佐野学の性格から、これをうまく利用され、転向させられた位に、これまで思っていたところ、最近、石堂清倫氏の『わが異端の昭和史』を読んだら、佐野・鍋山転向問題について次のように書かれていました。

 「平田検事は資本主義の変革の運動をある程度許容し、共産党の合法化を認めてもよいと云ったようである。そしてそれを許容する代償として『天皇制反対』のスローガンを取り下げさせようとしたのである。それは平田個人の構想のように見えるが、日本の支配層のうちには、ことに新しい資本主義によって後退させられた勢力のうちには平田を支持する層があったであろう。この平田に誘導されたのが佐野・鍋山の『転向』であったと思われる……平田的な構想がなかったら、あの昭和の大転向運動は生まれなかったであろう。転向が共産主義運動の弱い環からではなしに、その最強部から指導者集団から生まれた事もこの考えを支持すると思われる」

 幼稚な私の頭では言われている意味がよく分からないのです。党中央がスパイの手引で検挙された時期を狙っての転向表明について、共産党だけでなく、社会改革の運動からみて、あの転向とその大々的な宣伝もふくめて、石堂氏がこの転向を肯定されているのか、否定されているのか、分からない。

 また佐野・鍋山の転向とその大宣伝は、当時の社会の動きにどんな役割を果したのか、それは労働者や農民の解放運動にどのような影響を与えたのか、平田検事は労働者、農民の解放運動に理解をもって転向をすすめたのではないか、とも取れば取れるような感じがするのですが、石堂氏の真意はどうなのか、私には分からないのです。

 平田検事は国家権力機関の一人であり、その立場から、特高警察のスパイによって共産党幹部たちが検挙されたこの時期を狙って、転向工作をしたと私は思うのですが、違うでしょうか。

リンチ事件

 私はごく最近、いわゆるリンチ事件に関する竹村一氏の書かれたものを読み、これでは特高刑事の拷問以上だと思いました。それは拷問のためのあらゆる道具を並べたなかでの拷問です。赤く焼けたタドンを手の甲にのせ、お腹の上に燐酸液をたらす、小畑氏は「自分は未熟だから間違いをしているかも知れない、何でも云うから拷問はやめてくれ」と言っている。

 考えてみれば、スパイ大泉は党中央委員として一九三二年から野呂氏の信頼のもとにのうのうとしている。小畑氏も大泉を信頼し、そこから秘密が漏れるというのはあり得ることです。それなのに、拷問によって小畑氏は遂にショック死した。私の知っている海員の永山正昭氏が「当時、自分はアメリカからの野坂氏の文書を預り、日本の党に渡していた。小畑氏にすすめられて入党もした。自分の感じでは小畑氏がスパイとは思われなかった」と言っておられた。

 亡くなった人にはどうしてあげようもないが、こうしてスパイということに疑問をもつ人がいる以上、厳密な調査をして、少しでも疑念があれば名誉回復をしてあげて欲しい。

今は党員でもない私が口幅ったいことを言うのはおかしいけれども、本人はもうやむを得ないとしても、家族の人を考えて気の毒でたまらない。私は小林多喜二のお母さんが自分の気持ちを訴えたものを、涙を流しながら読んだことがありますが、この場合は、息子は階級闘争のなかで敵権力に殺されたのだという慰めがあるが、味方からスパイだとなぶり殺されたのでは、家族にはたまりません。

 あの強権をふりまわしたスターリン後のソ連でさえ、何十年も経過して無実と分かった人には名誉回復をしているのだから、党員でもないものからのまったくのお節介で失礼とは思いますが、竹村氏の本を読んでだまっていられなくなったのです。

反党除名問題

 野坂参三氏は『風雪のあゆみ』()の夫人竜さんの項で、関東婦人同盟の活動家で、共産党に入党し、後に除名された何人かについて書いています。田島ひでは共産党の国会議員になったが、のち反党活動によって

        

除名された、清家齢(とし)、山本菊代も一九六〇年に反党活動をし、除名された、渡辺政之輔の妻丹野せつは診療所活動に参加していたが、中国盲従分子に同調して除名された、などなど。

 ここには書かれていないが、四・一六の時に私と一緒に検挙された西村櫻東洋(おとよ)氏の場合は、福岡で農民とともに活動中、政府の自作農創設特別措置法(一九四六年)に共産党は反対したが、農民は現に耕作している小作の農地が安い土地代で自分のものになるので、みんな買い取りたいと喜んでいる状況のなかで、その間にはさまれた西村さんを、彼女が農民側になったといって党は除名し、それだけでなく、生活のために経営していた食堂に乱入、食器から食卓の机まで叩きこわして営業を不能にさせた。

 野坂氏は何かにつけて反党といわれるが、共産党は中国共産党支持かと思うと、ソ連共産党支持に変わり、日本の国民はいかなる核実験にも反対して平和を求めているのに、中国の核実験は正しいが、ソ連のそれには反対だ、ソ連が部分的核実験停止に賛成し、アメリカと提携すると、それに反対し、部分的核停条約に賛成した党所属国会議員を除名するなど、国民の要望をになって活動した場合にも除名している。私は共産党の方にこそ責任があると信じている。

淋しく逝った同志

 野坂氏は『風雪のあゆみ』()に、戦前の活動家のことを書いていられる。そこに、三・一五事件で検挙され、一九二八年の総選挙に共産党候補として静岡県から立候補した杉浦啓一氏が入っている。彼は一九三九年に亡くなられている。

 三九年の何時だったか忘れてしまったが、ある日、私が当時勤めていた中野の組合病院に、一〇年の刑を終えた杉浦氏が訪ねてくれた。とくに親しくしていたのではないのに来てくれて、私はとても嬉しかった。

いつ牢を出たのかと聞くと、一昨日と言ったように思う。「奥さんは元気だった?」と聞くと、「離婚したから今は一人だ」と言われ、やはり、共産党の幹部で刑務所に入れられたのでは、その家族を雇ってくれるところはどこもない、生きるためには別れる他なかったのだろう、一人ぼっちで淋しいだろうと同情していたところ、それから二、三日後に突然亡くなられたと聞き、刑務所でなくてよかったと痛切に思ったことが、今も忘れられません。

 杉浦氏と同じく、労働組合評議会の幹部だった松尾直義氏は一九二八年に検挙されたとき、可愛い男の赤ちゃんがいました。その松尾さんは獄中で肺結核にかかり、刑の執行停止かなにかで出獄されたが、夫人と子供に会いたいと言いながら亡くなられた。夫人は再婚されていたので、会わすことができず可愛想だったと、当時、野坂竜さんから私は聞いたが、松尾氏とは三・一五前に多少かかわりがあったので、なんとかして会わせられなかったかと、その話を聞いたとき涙が押えられませんでした。

 ついでに、とかく問題になった山本懸蔵氏の日本脱出については、警視庁が見てみぬふりをしての脱出では決してありません。前記の西村櫻東洋さんが苦心に苦心を重ねて下町娘になりすまし、特高の張っているなかを抜けてうまく家のなかに入り、党からのレポを渡すことに成功し、それで脱出したのです。

 私はこのことを直接、櫻東洋さんから聞いて、私にはとてもできない大胆な行動と、大層感心したことを思い出します。

綱領問題

 野坂氏の『風雪のあゆみ』()の三二年テーゼの項には次のように書かれています。

 「山本懸蔵は妻と共にウラジボストークでの仕事をいちおう終えて、モスクワのプロフィンテルン本部に帰ってきた。そして片山やわたしの宿舎から歩いて十分もかからないところにあるプロフィンテルンのアパートに落ちついた。

 こうして片山、山本、わたしの三人の協力態勢ができたかに見えた。そこでヤンソンなどは『このトロイカの(ロシアの三頭立ての馬橇)によってモスクワに初めて強力な日本共産党の海外指導部が作られた』と云って喜んだ。

 トロイカに与えられた任務は第一に前記の政治テーゼ(草案)の誤りを正し、かつ『二十七年テーゼ』を発展させた、精確で新しい綱領的文書の作成に参加することであり、第二には日本帝国主義の中国に対する新たな侵略戦争に反対する日本の人民のたたかいの方針を明らかにすることであった。しかし老齢の片山と肺結核で病みながらの山本との『トロイカ』はヤンソン氏が期待したほどには稼働できなかった」。

 ところが、『日本共産党の六十年』には、「日本帝国主義の中国侵略戦争と、そこにしめされた日本の支配勢力の実態は、天皇制との闘争を革命運動の第二義的な課題にとした『政治テーゼ草案』の誤りをあきらかにした。コミンテルンでは一九三一年から三二年にかけて、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して日本問題の深い検討が行われ、三二年五月『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』いわゆる『三ニテーゼ』が決定された」と書いてあります。

 野坂氏の『風雪のあゆみ』()とこの『日本共産党の六十年』との記述の相違は何でしょう。私には理解できません。宮本顕治氏に私は、私の夫であった同志山本正美に対する宮本氏の中傷について一言云いたいのです。

 山本の検挙は、一九三三年五月三日であったと思いますが、三船留吉という人聞からメーデーの報告を受けに新宿の中村屋に行き、そこで検挙されました。検挙されるまで山本は不覚にもその三船を信用していたそうです。

 検挙後の山本の態度について、それから五〇年経った一九八三年刊『野呂栄太郎』という本に次の記述のあることを、私は野坂参三氏の『風雪のあゆみ』()を読んで知りました。

 「一九三二年一〇月、スパイの手引きによる弾圧で、指導部が検挙されていた党は、ただちに野呂栄太郎を中心にして党再建活動をすすめていたが、翌三三年一月に帰国した山本を含めた指導部が成立した。……謙虚な野呂は山本を指導部に加えただけでなく、その中心に推したが、日本の党活動の試練でなんらきたえられていない山本のような人間をこのように扱ったのは、山本がコミンテルンから帰ったと云うことにたいする善意の敬意と期待がはらわれていたからだと思う。しかし周知のように山本は(この年の)五月に検挙されるとたちまち警察に屈服してしまった」(宮本顕治「野呂栄太郎の思い出」)

 そういえば山本のところへこの『野呂栄太郎』が送られてきたとき、「僕は誰にも迷惑はかけていない」と云い、「野呂君の論文として、実は僕が書いたものが一つ載っているが、外ならぬ野呂君だからいいわ」と云って本を机上に置いたことを思い出しました。

 一九三三年当時、スパイが二人党内に侵入し、一人は野呂氏の信頼が厚く、何人かの人は感づきながらも手が出せず、もう一人の三船には気づかず、これに山本はやられたのでした。山本は私の知っている範囲では、すぐに屈服したどころか、自分を売ったスパイを摘発するため、留置場にいる人を介して苦労してルポを届け、それが党中央に届いたときには、すでに三船は逃げていたのです。

 私は数年前、小林多喜二のお母さんの本を読んで、そのとき小林多喜二を売った三船をなぜ追求しなかったんだろう、検挙の原因の追求が緩かったのだなと思っていました。山本が検挙されて程なく、三ニテーゼに反対だった佐野、鍋山の転向問題が起き、これが大々的に宣伝され、党内に転向の大旋風が起き、山本としては獄内でできる方法で、これと懸命に闘っていたようです。

 その年一一月の革命記念日には、党の健在を知らせるため、一人で「ロシア革命万歳!」と「日本共産党万歳!」を叫び、刑務所内の特別刑務所に入れられ、鉄の鎖でがんじがらめにされています。

 ついで公開統一裁判を要求し、認められたのは「公開」だけでしたが、当時の傍聴者による山本の公判記録を大学ノート八冊分私は頂いており、日本の実情になれない彼としても、できるだけの努力はしていましたから、私は宮本氏の記述を見て、その真意を疑いました。

 それに宮本氏は、山本の弁護人であった栗林弁護士を紹介してほしいと、夫人の中条百合子さんをわざわざ私のいた板橋までよこして、私が栗林氏を紹介したのです。宮本氏の場合、公選弁護士ではなく、謝礼を払うのですから、何も本に書くまで不信を抱いている山本の妻のところへ、弁護人を頼みにくるなど矛盾も甚だしいと思います。

 宮本氏は山本を中傷する方が自分にとって何か都合がよいから、五〇年も経った一九八三年になってあの記事を書かれたのでしょう。自分の個人的な利益を図るためとすれば、公党の、しかも共産党の書記長として最も恥ずかしい行為だと思います。

 山本は公判が終わった段階で、第二次大戦を予想し、日本にとって有利な条件は失われ、必ず敗北する、その時に備え、労働者階級の党としての取組みなどを考え、非難を承知で、「床の間の飾りを捨てる」と云って転向したことについては、私の『たたかいに生きて』(柘植書房、一九九二年刊)と彼の『激動の時代に生きて』(マルジュ社、一九八五年刊)に詳しく書いてあります。



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