電通合理化と反対闘争の基本的視点

 これは昨年十二月から半年間、修道大学(広島)の茂木先生と私が、全電通反合理化闘争の追求のためにつくられた中国地方本部のプロジェクト・チームに参加し、闘争の現状分析を基礎に調査と数回にわたる討論を経て最終的に完成したものである。この文書は共同研究にもとついてつくられたものではあるが、最終的には二人のそれぞれの分担と責任において執筆し、七月二十一日からひらかれる全電通中国地方大会に向けての地方本部の正式資料として発表されたものである。このたび、中国地方本部の了解のもとに、茂木先生の承認も得たうえで『労働運動研究』に発表するものである。 (七月十七日 松江)

 

  労働運動研究 昭和519月 No.83

合理化の基礎となっている

技術革新についてどう考えるか

茂木六郎

  

 卒直にいって、デックスをうけいれるかどうかという点に合せて技術の問題を考えてみるわけだが、技術の問題は、技術そのものをどうみるかということと、技術の適用の矛盾である。この矛盾は、形式上の論理の矛盾でなくて、現実に存在する矛盾の論理の反映であることにまず留意する必要がある。

 適用の関係でいえば、新技術の採用が、わが国のような資本主義体制(正確にいえば国家独占資本主義体制)の下では、労働者がどんな影響をうけるか、それに対処するにはどんなことが必要かということがすぐ問題になる。全電通に関していえば事前協議を中心としたこれまでの方針は、基本的には正しいということができる。ただこの事前協議のやり方には疑問もあるが、それはこの報告案の「反合闘争」の項にゆづり、ここではおどろくほどのテンポで職場の中や、職場の環境をかえてゆく新技術の浸透について、労働者として考えておくべきことはなにかを整理してみることにする。

 だが、デックス導入の当否を前提問題とするからには、電々公社(または公社がほぼ独占している電気通信技術の体系)が今日の日本経済社会で占める地位や、そこでの電気通信労働のもつ意義にも考えを拡げなければならないであろうということも当然であろう。

(一)今日の新しい技術について

(1) 新技術の採用によって、やがて 労働者が不要になるということは どうなのか。

 きわめて極端な言い方をすれば、こうした考え方は、国際的にもあるし、国内的にもこうした結論になりかねない考え方はある。つまり、新しい技術というのは、オートメーションに必らず関係しているので、オートメーションがすすめば、それだけ労働力が省力され、やがてはオートメーションの全面的利用によって労働者は不要になるか、働く必要がなくなるのではないか。その証拠には、交換が手動式から自動式に変った結果、交換部門での労働者は減員されたではないか。こうした全電通の労働者が経験したことからいっても、コンピューターや電子工学や制御装置の組合せであるサイバネーションがすすめば、ほとんど労働は不必要になり、あったとしても労働も均一化してゆくのではないかということは考えられないでもない。

 こうしたことから二つの極端な考え方が発生する。つまり、その一つは、技術が進展すればするほど、直接労働は不要となり、労働者は労働から解放され、労働の苦しさもなくなり、労働者解放を目標とするような労働運動も不要となるであろうという考え方である。資本家の側でいうならまだわかるが、実は労働者側からさえこれに近い考え方が出たり、なんとなくそれがほんとにそうかと思うような労働者さえ現れたりする。

 もう一つは、労働者を不要とするようなそんな技術がすすめば、今日ではその結果は失業者の増大や、この失業者群を背景とした労働条件の悪化をもたらすだけなのだから、どんな技術であろうと、新しい技術はどんな場合でも、全面的に、絶対に入れるべきではない。合理化のたびに人員削減を強制されている国労や動労をみればわかるのではないか。

全電通の揚合だって、現職の首切りこそないが、実質的な人員削減の結果となっていることで誰にでもわかるのではないかという見方である。

 だが、この二つの見解も、右のような極端でなければ、なんとなくありそうである。といってとりわけ前者は、労働者側として、とてもみとめられないだろうが、この二つの考え方が理論的に正しいか否かはまだ充分われわれの間で論じつくされているというわけでもあるまい。デックスを入れるかどうかも結局ここにさいごはかかってくるというわけであろう。

(2) 今日の新技術の特徴づけ

 資本主義が起り、急速に発展して機械制工場工業となったとき、労働者解放の理論家のマルクスは、機械類が自立的ないろいろの直接的な労働にとって代り、人間の労働を圧縮し無用なものにするといった。ところが今日では、数学・電子工学・人間の頭脳の働きをとり入れた自動制御方法であるサイバネティックス等等の組合せによって、物を生産する労働者の肉体労働に代りうるような技術的手段の開発はもとより、技術者や生産の組織者、管理部門の勤労者、事務職員、さらには学者も含めて、これらの人々の精神的労働のいろいろの部面を代替しうるような技術的手段の開発がなされている。つまり、サイバネーション(サイバネティックスとオートメーションの結合)機械は、社会のいろいろな活動領域で働く人々の監視=制御する働きの多くを遂行する能力をもっているのである。このような新技術は、徐々に生産者の労働の性格をかえて、広い意昧での生産過程の中での生産者の位置をかえてゆくことは事実である。

 だがここではっきりさせておかなければならないのは、人間(生産者)は生産一般から立ち去ることはないということである。さきに引用したマルクスは、一〇〇年以上前にこういっている。 「労働はもはや生産過程に内包されたものとしては現われないで、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関係する。……労働者は生産過程の主作用因ではなくて、生産過程とならんで現われる」と。(「経済学批判要綱」V)生産過程の自動化の行く末を、一〇〇年以上前に見透したこの見地の「生産過程とならんで現われる」労働者とはどんな労働をするのであろうか。それは、原料や補助材料が工場に入れられる速度を制御したり、製品が市場に適合するように供給されるための速度を制御し、さらには機械や装置の故障や摩滅に対して保安・修繕の労働を行ったりしなければならない。また新しいオートメーション機器の開発のための技術者も必要であり、研究や開発に従事する技術者・学者のほか事務的管理労働をする人々もまた要求されるであろう。

 ところでこのような技術革新によってもなお生産過程から立去らぬ労働者には、二つの大きな影響が資本主義そのものによって与えられる。

一つは消極的な意味をもつともいえる側面である。この労働者は、高い水準の教育を受けて、いろいろな職業につくことのできる能力をもつ「全面的に発達した個人」ともいうべき性質をもち、それらの人々は情報の発展によって、地方的から全国的な組織をもつばかりでなく、国の境界を超えてまで全世界的規模での組織さえももちうる労働者となりうるのがそれである。他方、その裏側では、労働は資本の基本的要求である剰余価値生産のために強化され、単純化され、労働災害や職業病や公害にさらされ、景気変動の波の中で次第に失業者が増加するにいたる。

そこで就業労働者を民主的に組織する手段となるはずの情報が、資本によって独占され利用されて労働組織はときとして官僚化の危険に陥る。

こうして前途への見とおしをもつことのできない大衆は、行動を個人主義的自我に局限し、マイホーム主義にみられるような資本の生産物の購買市場でだけ意味のある人間としてかたちづけられるという点である。

(3) 電気通信における技術革新

 一般に交通(コミュニケーション)(運輸と通信)は、どんな社会でも、またどんな生産過程でも必要であることはいうまでもないが、いま運輸については割愛し、通信すなわち情報の伝達についてまず考えてみる。今日、通信は人と人とのあいだの連絡だけではなく、人間と各種装置との問の情報の交換・伝達・貯蔵・加工のために用いられる技術である。しかし通信それ自体は、まず生産過程(かつては同時に生産過程そのものであったが)において必要とされ、生産の単位(工場等)の空間的拡大によって伝達の手段が変化、発展し、この手段は現代史的には電磁波を用いたラジオの発明によって時期を画したということができる。しかし戦後は、一方でマイクロ電子工学・混成および集積回路をふくむトランジスタ技術やその機械器具の利用によって、情報の検索、伝送、再中継の自動変換システムを開発する前提が整備され、他方では、すでにのべたようなサイバネティックスの方法を用いて、通信回線の作動を基本的に改善、自動化し、また回避の負荷率を各装置のそれぞれのパラメータに応じて最適化することもできるようになったことである。

 だが、このような技術の発展が、生産過程の発展、すなわち資本主義の下では資本の集積・集中による拡大化に対応して行われ、この集積・集中が独占資本体制にまで到達したときに対応していることを忘れることはできない。ということは、資本がいつ、いかなる場合でも利潤獲得を出発点とし資本として存在する限り、これを目的としてのみ活動するという原則の上では、物質的生産に直接無関係にみえる通信(とりわけ電気通信)といえども、基本的には資本の利潤獲得という原則をよりよく遂行するための管理機能を果すための手段たらざるを得ない。しかし通信は、他方で直接の生産過程や、間接的に生産過程の管理機能とは別個に、個別的な生産目的のためにも情報連絡の機能を果しうるし、通信技術の発展は、この機能を広汎に大衆のために果す方向でも配備される。一国の全地域にわたって利潤獲得の支配体制を樹立する独占のための管理機能を発揮するための電気通信機能の発展は、好むと否とにかかわらず、国民の多数を占める大衆(プロレタリアート)の利用・便利化のために役立つという機能を付随せざるを得ないこととなる。このことこそレーニンが、 「資本主義の技術は、勤労者を賃金奴隷に運命づける社会的諸条件を、日ごとにますますのりこえて成長しつつある。」 (全集一九巻) といった点である。社会的条件を変えて勤労者が社会の主人公となるならば、技術はそれだけ早く労働者のためのものとすることができる。このような技術そのものと技術の適用においての社会的形態との区別を労働者が持つならば、その数が多ければ多いほど技術に対する取扱いは冒頭にあげた二つの極端な見方への批判となりうる。すなわち、技術をプロレタリアートの解放の過程で、プロレタリアートのために用いるなら、ただ技術を拒否することだけが目的とはならないということである。

(4) 一つの提議

 以上(1)〜(3)をふまえて、序のデックス導入の当否についてどんなことが考えられるかといえば、まず資本制の下においては、たとえどんな技術であっても利潤獲得に係り合いのないものはないのであって、さらに通信労働は管理労働の手段として有効であるという点を想起しなければならない。この場合の利潤獲得とは二重の意味をもつ。つまり、今日までの莫大な設備投資の原資がどこから生れたかといえば、電通労働者の低賃金と過重労働との搾取の結果であることにみられるとおり、電電公社それ自体が公社に雇用されている労働者の搾取を強化する目的であるという点とともに、国家独占資本主義体制をとっている日本の独占資本の国内経済のうちの非独占体(つまり労働者階級、中小資本、零細業者―独立生産者、他人を雇わない商業者、農民)を対象とした搾取体系のうちの指揮.命令によって独占利潤を確保するための重大な部分として機能しているということに外ならない。とすれば、労働者としてまず為さねばならない点は、デックスが導入される職揚の意志の統一的な状態(或いは多数による代位)による可否の決定である。すべてに先行するものは、導入による労働条件の悪化や今後の失業への道への危険の検討である。これとともに、もしさきのレーニンの定言のように、デックス            の新技術が搾取条件をのりこえるはたらきを、内にもっているならば、民主的管理が可能となるような組合の実力下では、管理能力を有する専門的労働者が、必ずや、必要となるという認識をもつことでなければなるまい。

(二)電電公社と今日の日本経済との関係

 一を読んだ限りでは、おそらくすっきりしない感じを持たれたに違いない。がそれは、すでにのべたように、技術の本質とその適用との矛盾を表現しているからだどいってよい。もし広くすべての職場についてみても、新技術の労働過程での省力性(利便性)と、その結果としての労働者の雇用不安とは、つねについて回るといえるであろうが、特別に電電公社の揚合には、日本経済の中での地位とともに、電気通信労働の日本経済の中で果す役割りによって、全国的な影響(全日本の労働者階級に対する影響)がきわめて大きいという意味で、矛盾の集中的な表現の場所となっているといえるからである。

(1) 電気通信労働と独占資本主義

 まず簡単に、通信労働とはなにかという点について資本制経済について明確にしておく必要がある。次章の「反合闘争」の(一)・(A)が示しているように、通信労働はまず「生産的労働」であったので、次第に個人的生活に役立つ「サービス労働」の役割が付随的に大きくなってきたとみるべきである。つまり物質的生産において、生産の計画(予定)は生産に参加する人々の問で伝達され、その生産工程において予定通りの進行や、改訂行程のための意志が相互に伝達される必要上通信は行われ、その結果の交換なり、消費のための輸送なりのすべての進行に音声または文書(さらには記号や動作)が用いられたのである。この通信の空間が広くなったり、時間的隔差が出たりしたことによって通信への手段も次第に変化したにせよ、生産全般の管理は基本的に文字(記号も含む)か音声による情報・意志の伝達という基本的性格は今日も変らないのである。

 資本制経済社会においての基底をなす生産においては、資本家が賃労働者を雇用し、剰余価値生産を有効に行わせるために必要な監督や、その同じ目的で直接の生産のみでなく、生産に不可欠の事務労働(生産と必要な限りでの流通等の)を含めての生産の全般的管理・監督の方法は、この音声や文字の伝達という通信を通じてしか実施できないのである。つまり資本制経済においては、生産・流通を一貫する管理も、より直接的な労働者の搾取を強化する監督も、いずれも通信なしでは行われえないのである。

 ところが、資本制経済が独占段階に入ると、独占資本はまず、全国的に市場の占拠率を拡張するという相互の競争に勝つためにも、非独占体(中小資本・零細企業・独占的農業者等)を収奪の対象とするためにも、全国津々浦々に直接・間接の触手となる支店・出張所・分工場等を配置し、それらを管理・監督するためと、全国的に、同時に、指揮実現の手段としての通信網を必要とする。ここに電気通信は、独占資本の全国的支配の手段として決定的な意義をもつこととなる。この独占の支配体制の第一の結果が、労働力の全国的分散配置・再配置となり、それが家族の居住地分散をもたらし、そこで個人生活上の情報伝達手段としても電気通信は生活上必需となり、その要求をみたすこととなり、提供側ではサービス(公共性)性を強調しうることとなる。さらにこの独占支配には、収奪される中小資本・零細企業・独立生産・流通業者等の側でも、独占の抵抗手段として相互の協同、また相互の競争のためにも電気通信を利用しなければならない。

そこで公共性や非独占の利益追求に役立つかぎり、電気通信は独占のためにだけあるのではないという理由になる。しかし、公共性への充実とか、非独占国民への便益供与というようなうたい文句は、あくまでも二次的なことであり、第一義的には独占体制の維持・深化に役立つ機能を充実することが、電電公社の存在理由であって、その結果として順次サービスが付随し、さらに公衆からのサービス要求が昂まることに対応しようとするのが真実である。そしてその裏は、独占奉仕体制のための設備投資の費用負担を公衆(絶対多数)に転じうることになっているのが現実である。独占資本主義国での電気通信労働と企業との役割は、独占支配の有力手段であると同涛に、サービス供用という矛盾を内部にもつものである。

(2) 電電公社の特異性について

 ここではわが国の電電公社をとりあげてその特異な性質について論ずるというより、むしろわが国の独占資本主義体制そのものの特異性について考えるといったほうがよいかも知れない。というのは、わが国の独占資本主義は、今日では生産力の高さではアメリカに次いで先進国の間では抜きんでているにもかかわらず、つい三十年前までは、国家権力としては絶対主義天皇制という本質的に封建権力が存続しうるような前期的経済を主として農村部に残存させる独占資本主義という世界的に例をみない体質をもっていたのである。この三十年前までの交通(運輸と通信)は、この権力維持を第一の目的とする軍事優先を絶対的なものとする性格をもっていたし、従って国有・国営の官僚機構内の一部分であった。

 敗戦後の外国勢力による天皇制の性格変更によって、この軍事優先性をとり去るように強制はされたが、新国家の性格としての独占資本主義国家の支配手段としての内容は、経営形態上は形式的な公社への変更に反して依然として変更されるようなことはなかった。むしろかつての軍国主義的侵略的政治権力の国内支配の手段としての通信体系は、そのまま戦後は独占の経済的国内支配体系の神経として電気通信の分野において強化されてきたのである。

 昭和四八年度の電電公社の決算についての公けの文書は、公社の資産が五兆円を超え目本最大の規模を持つ企業であることを誇らしげにのべている。さらにこの量的な日本最大の規模企業であるにとどまらず、国際的通信技術の実施には制限があるために問題が残るにせよ、世界中のいずれの国の水準をも上回る通信技術の開発と利用形態が国内では実現されているのが事実である。 つまり、規模からいっても、技術水準からいっても、今日の日本独占資本主義体制の中では、群を抜いて集中度(完全独占)からも、全経済の支配体制における機能からみても高いのである。このような企業は、かつてエンゲルスが、社会変革における「管制高地」をなすと指摘したが、今やわが国の経済においてそのような意義を有する企業が電電公社に外ならないといえよう。従って、わが国では若干の民間企業とともにこのような特異な性格を電電公社は有しているとともに、全電通に結集する労働者は、このような特異企業の労働者であると自覚すべきである。

 これまで、時としてわが国経済を国家独占資本主義とよんだり、単に独占資本主義とよんだりしたが、筆者は国家独占資本主義とは、独占資本の側で国家権力を従属させる度合の問題にすぎないと考えている。勿論、国家独占資本主義が先進国に共通した状況となった時期を一九三〇年代(世界恐慌にひきつづく不況と金本位制の全面的離脱の時期)とみる限り、管理通貨制度であるとか、労働力売買への国家管理の介入等、標識としてとりあげるべき特徴はあるにしても、その度合の問題であるので、むしろ本質的に独占資本主義であることの指摘がまず重要であり、その上で若干の標識がそれぞれの国家で如何に現われているかの具体的形態がとりあげられるべきであると考える。さて、そこで電気通信企業として独占的地位を占める電電公社の特異性とこの国家独占資本主義との関係は、つぎのように考えられるであろう。

 さきにもわが国の経済と国家権力の変化について要約的にのべたが、独占にとって、運輸と通信のような物材的生産における搾取体系の追加工程については、他の機関―とくに公衆の負担において膨大な設備が行われてきた過去の実績を利用しうる国有または国営、さらには公社形態等―であるならば敢て民有を望む必要はなく、むしろ国家権力を利用して低廉な利用費用ですませることをとるであろうことは、容易に考えられるところである。

 権力の支配が、経営上の最重要点に及んでいる限り、独占の全国的な経済支配(搾取・収奪体系)のためには、権力の座につく政党を支配する方策で、目標を達成しうるのである。

 とりわけ、絶対主義権力の官僚支配体制がなお根強く残るわが国の政治勢力の下に公社の機能を置くことが最短距離となるであろう。

 このような企業体支配の政治体質を無視して、企業の機能である技術の利用に単に従順になるべきか否かはも早明自であろう。一方で技術の発展は、先にレーニンからの引用によって指摘した如く「勤労者を賃金奴隷に運命づける社会的諸条件を、日ごとにますますのりこえて成長しつつある」と同時に、独占の体制的支配(各独占資本の内部における労働者搾取と、非独占企業や独立生産、流通業者の収奪)の強化を結集していることを前提にせざるを得ないであろう。

 かくして、技術革新の採用において発生する問題の解決は、単にただあれかこれかという矛盾のどちらを選べばすむというものではなく「管制高地」としての電電公社の地位とそこでの労組の役割を、技術のもつ本質に照らして、労働者の高い認識をつねに全体のものとするような闘いをすすめるという実践においてのみ解結される筈のものであるだろう。いの一つのあり方が「戦術的絶対反対闘争」ということになるのである。これは「反合闘争」の章において詳論される。



全電通反合理化闘争の発展のために

松江 澄

(一) 基本的な視点について

(1) 〃資本"に対する"労働"の視点

 全電通合理化反対闘争は、公社資本と国家独占資本主義に対する"労働"の基本的な視点に立って闘う必要があり、どんな場合にもいわゆる"公共性問題"はその視点に立ってのみ重要な位置を占める。

(A)通信労働とその性質の変化

 本来通信労働は、物質的財貨の生産にかかわる生産労働と利用者に通信上の便宜を供与するサービス労働の両側面をもつ労働であった。しかし今日の通信・情報の発展とその巨大規模化は通信労働に新しい性質をもたらしている。

 すなわち、現在の通信・情報産業は、公社という単一独占形態のもとで、急速な技術革新を進めつつ、戦後国家独占資本主義の発展と構造変化の中で、生産と流通の総過程をつらぬく独占的神経系統産業としての役割りを担っている。それは直接、生産過程に関与するか否かにかかわらず、とくに通信・情報(流通)規模の巨大化にともなって国家独占資本主義による流通過程支配のための最も重要な手段となっている。従って通信・情報労働は古典的な意味での生産労働とサービス労働の概念では包摂することのできない一般的労働としての性質に転化し、単に電通資本のみならず国家独占資本主義によっても搾取、収奪される"労働"として、とくに重要な位置を占めている。

 こうした関係にある"資本""労働"との基本的な対抗関係を明らかにして闘うことは、全電通反合理化闘争の基本的な視点である。

(B)いわゆる"公共性問題"について 

"資本""労働"の闘いの前に超階級的な「公共性」はない。 「公共性」の対象とされる「国民」の概念は、厳密に、また階級的に分析されるべきである。

 いわゆる「国民」の概念のうち、資本の側に属するものを除けば、一つには労働者でありながら、通信の利用については消費者の立場におかれている他部門の組織、あるいは未組織の労働者であり、他の一つは都市中間層および農民である。前者は労働者階級自身の問題として共同闘争と階級連帯によって解決されるべきものであり、後者は反独占闘争の視点からいえば、労働者階級の重要な同盟軍である。同盟軍は階級闘争で敵を圧倒する力を基本として同盟軍たるべき階級と階層の要求を支援し共に闘う力量と実践、および日常的な宣伝と説得によってのみ獲得することができる。何れにしてもそれは「公共性」もしくは「国民」という"客観的"であいまいな概念で総括されるべきではない。その意味で主体と内容の不明確な「ナショナル・ミニマム」論は、反合理化闘争にとって無益であるばかりでなく、有害でさえある。いわゆる住民要求も、主体である電通労働者の反合理化闘争と要求する住民の闘いが結合されたときにのみ資本と闘う武器となる。

  「公共性」の概念は、支配階級の教育と宣伝によって人々の意識の中では「現実」的なものとなっているが、実際には「幻想」である。資本は「公共性」の概念を利用するが、労働者は真の公共性のために闘かう。国家独占資本主義のもとでは、機械・技術の使用についてのどんな外見的な「公共性」も、実は資本による機械・技術の私的な利用であり、真の公共性は、労働者による機槻・技術の公的な利用、すなわち資本と労働の階級対立が変革を通じて止揚されたときにこそ完全に実現される。

 その意味で階級的な反合理化闘争の徹底的な追求それ自体こそが機械・技術の公的な利用=真の公共性をめざす闘いである。

(2)  "機械・技術"に対する"人間"の視点

 全電通反合理化闘争は、機械・技術に対する人間労働の主体性を確立する視点――人間労働の機械・技術への従属化との闘いの視点――から闘かわなければならない。それはまた、職場と生産において労働者が名実共に主人公になるための闘いででもある。

(A)物的生産手段と社会的搾取形態との区別

 機械・技術に関して生れる矛盾や敵対関係は、機械・技術そのものからではなく、その資本主義的使用から生れる。

 従ってそれ自体としての機械・技術は労働時間を短縮し労働を軽減し、労働を解放するが、資本主義的に使用されれば労働時間を延長し、労働の密度を高め、労働強化をもたらすばかりでなく、とくにオートメーション化は労働の質を均等化し、労働をその内容から「解放」することによって労働を単純・単調化し、労働を不具化し、労働を無内容にすることによって労働者に肉体的精神的苦痛を与える。そこでは労働はすでに生産過程の中に組みこまれる主な要因ではなくなり、機械作用の外にあってその監視と監督の役割りを振り当てられる単なるロボットにすぎなくなる。

 この区別――物的生産手段と社会的搾取形態との区別――をあいまいにするならば、反合理化闘争が、かつての"機械打ち壊し運動〃に後退し、この区別を不当に拡大して社会的搾取形態を搾取と合理化の現象的な諸結集に矮小化するならば、結局、機械・技術の資本による近代化に追随し、反合理化闘争を大衆迎合的な諸要求闘争に解消する結果となる。機械・技術それ自体とその資本主義的使用を区別し物的生産手段とその社会的搾取形態を区別することは、機械・技術に対する人間労働の主体性を確立するための基礎的な視点である。

(B)生産力と生産関係の相互関係の視点

 機械・技術がその一形態である生産力と資本対労働に表現される生産関係とは不可分の相互関係にある。

もし生産関係を捨象した生産力の視点に立つならば、生産力の発展の無条件的な支持=生産性向上運動協力論となり、生産力の発展を無視して生産関係だけの視点に立つならば、すべての生産力の発展に対する無条件的な反対=反体制機械的絶対反対論となる。それらは何れもまちがっている。

 生産力と生産関係の相互関係あるいは矛盾関係の視点に立つならば、われわれは機械・技術の利用に不可避的にともなう資本主義的搾取形態に反対して闘うとともに、生産力の本来の目的――人間の幸福のための目的実現をめざして闘うべきである。

そこにこそ労働の解放があり、人民の利益と真の公共性がある。

(C)職場と生産の主人公としての労働者

 以上の視点から、労働者が職場と生産の真の主人公になることをめざして闘う重要性が生れる。それはけっして抽象的かつ実現不可能な目標ではない。それどころか、技術革新は機械と技術の飛躍的な発展を通じて、労働者を"部分的"労働者からますます"全体的"労働者に発展させる契機を内的必然性としてもっている。機械化は、原初的には不可分であった現場の生産労働と管理労働を分離したが、技術革新とくにオートメーション化は、新しい次元で生産労働と管理労働を再統一しつつ、労働者を直接的生産労働においてだけでなく、管理と経営にとっても不可欠の存在とする。そこに資本による新しい「ヒューマン・リレーションズ」の必要があり、またそこにこそ「心の合理化」が求められる理由がある。

 しかしそれは同時に、彼等が労働者を生産と職揚のニセの「主人公」に仕立て上げることなしには、生産と経営を維持することができなくなっていることをも示している。それは資本主義的な発展が不可避的に生み出すその対立物である。われわれはこの客観的必然性を主体的な闘いの実践によって追求し、ニセの「主人公」ではなく真に職場と生産の主人公になることをめざして闘うべきである。

技術革新による合理化に反対する闘争の基本的な方法論について

 (一)の基本的視点に立つとき、技術革新による合理化に反対する闘争の基本的な方法は、ただ合理化の結果に対する闘争ではなく、結果の原因である機械・技術の導入そのものに対して、その本来の使用がもたらすべき諸結果を要求として対置し、それが容れられなければどんな機械・技術の導入も断呼拒否する戦術的絶対反対闘争でなければならない。事前協議制はこの闘いと別なものではなく、正にこの闘いの最も重要な武器である。この闘いの蓄積こそ真に生産と職場の主人公をめざす労働者の指導的主体性を形成し、来るべき新しい展望をつくりだす力の源泉である。

(1) 結果に対する闘いから結果の原因に対する闘いへ

 機械・技術の導入によらない合理化は、もっぱら資本の力による外的強制である。従って時間延長、労働強化・人減らし、賃下げ等の事実それ自体が合理化であり、合理化反対闘争もこうした資本の外的強制に反対して闘い、全面撤回による現状維持か、あるいは力関係による部分的譲歩―現状改悪の部分的くい止めーをかちとるかにとどまった。

 しかし、機械・技術の導入とくにオートメーション化による合理化は、外的強制によってではなく、技術革新の導入そのものが自動的に生産性向上をもたらし、省力化による「過剰人員」の整理、労働の密度の強化、労働の単純化と単調化、不具化と無内容化による労働者の肉体的精神的苦痛をその諸結果としてもたらす。従って合理化に反対する闘いがただその諸結果に対する闘いとしてでは、すでに時期を失するばかりでなく、結局、機械・技術の導入を承認することを前提とした闘いとなり、展望を欠いた条件闘争として、最も戦闘的に闘ったとしても、せいぜい若干の附随的条件についての譲歩をかちとることができるにすぎない。

 従って、技術革新による合理化に対しては、結果に対する闘争ではなく、結果の原因である機械・技術の導入そのものに対する闘いとして開始されなければならない。そのためには、資本の計画を事前に察知するとともに、計画されている機械・技術の全ぼうと導入のもたらす諸結果を各級機関とりわけ当該および関連職場が闘いの一環として事前に調査して全員で討論を組織し、あらかじめ導入に対抗する要求を確立して事前に闘いを開始しなければならない。事前調査―事前討論―事前要求―事前闘争は、技術革新合理化に対する反合理化闘争の第一の基本的な方法である。

(2) 反合理化闘争の目標(要求)

 資本主義体制のもとでは合理化は不可避である。機械・技術の導入とそれに伴う業務の変更は一見どんなに無害に見える揚合でも、合理化のための資本の意志と計画が貫徹している。異っているのは直接の合理化か、間接の合理化か、目に見える合理化か、目に見えない合理化かの相違があるだけである。従って認めてもよい合理化と反対する合理化との区別はない。反合理化闘争の追求にとって「資本の論理」の矛盾を衝くことはしばしば有効な戦術となるが、中途半端な「建設的」要求は「資本の論理」を補完することでしかない。われわれの政策にとって必要なのは、「資本の論理」と対決する労働の論理であり、合理化と正面から闘う基本的な対抗要求である。

 基本的対抗要求は、その機械・技術が搾取の手段――ニセの「公共性」のための手段――としてではなく、その本来の目的――労働の軽減と解放および人民の利益と真の公共性――に適った使用がもたらすべき諸結果を体系的に組織化することによってつくり上げられる。それは労働の解放を前提に自由な余暇の労働者的使用を中心とした作業の再配置と、機械・技術の公的な解放を廉価に供与するものとなるだろう。

 この場合、技術革新にもとつく生産と経営の機能の有機的な拡大によって、合理化の接点が空間的にも時間的にも拡大また延長されることを考慮に入れる必要がある。すなわち、直接導入局所に限定されない関連職場の拡大、および目前にとどまらず将来に亘る資本の攻撃を見定めて要求を組織化しなければならない。

 こうした基本的対抗要求に附随する諸要求もしばしば重要となる。とくに力関係によって導入が直ちに阻止できない段階では附随要求を闘うことによって最少抵抗陣地を構築しつつ再び出撃することも可能となる。とくに情勢と闘争の多様な変化と発展の中では、時として基本要求と附随要求がその位置をかえることさえある。重要なことはまず闘いを継続発展させるための陣地をきずくことである。しかし、闘いの全局面をつらぬく一貫した要求の中心は基本的対抗要求である。この要求にもとつく正面からの反撃を欠けば、折角の附随要求の獲得も困難となるばかりでなく、従来の要求獲得闘争の域を出ることなく結果として資本による機械・技術の導入を是認することになり闘争が断絶する。

 最も重要なことは、結果の原因である機械・技術の導入それ自体を争う基本的対抗要求である。それはもはや単なる一般的要求のワクを超え、機械・技術と人間労働の関係の根本的な改変をめざす闘いの公的な要求であり、たとえ闘争が力関係で決まるとしても機械・技術に対する人間労働の主体性確立をめざす労働者の闘争宣言である。

(3) 戦術的絶対反対闘争と事前協議制

 こうした要求と、職場を基礎とした闘いはきり離すことはできない。

どんな正しい要求も職場の闘いを欠けば空論となり、どんな戦闘的な抵抗闘争も目標がなければ敗北主義となって大衆的な発展が組織できない。その要求と闘争の結節点が戦術的絶対反対闘争=事前協議制である。すなわち導入されようとしている機械・技術が本来もたらすべき諸結果を要求として対置し、その要求が容れられなければ、その導入を絶対拒否することをあらかじめ内外に宣言しつつ徹底的な反対闘争を組織することである。それは機械・技術の私的利用に対決する公的利用のための闘いでもある。

 この闘いが機械的絶対反対闘争と根本的に異っているのは機械・技術それ自体に対する闘いではなくその社会的搾取形態に対する徹底した闘いであるからであり、またこの闘いが諸結果に対する条件闘争の戦術と根本的に異っているのは基本的な要求が容れられなければ、導入を絶対に拒否する闘いであるからである。

 この場合、中心的な対抗要求を明らかにすることはこの闘いの性質上もっとも必要かつ重要であるが、ひきつづく闘争の継続発展の展望のもとでは、たとえ充分な対抗要求が組織し得ない場合でもこの闘いの重要な性格を追求することは闘争の基礎的な土台である。

 それは職場の労働者の同意がなければどんな機械・技術の導入も、また勤務体制の変更も絶対に許さないという力を職場の中につくり上げる闘いである。それはまた大衆的な闘いの力によって職場と生産における資本の一方的な管理を拒否し、まだ全面的にではないが、少なくとも職場と生産の新たな現状変更については労働者の同意を公然と必要とさせることによって、職場管理における労働者の発言権と指導権を承認させる闘いの第一歩である。

 こうした闘いを前提としてこそ事前協議制が重要な意味と意義をもつことができる。事前に協議することは、事前に承認することもあり得るが、事前に担否することもあり得ることを前提としてのみ成立する。それはまだ全面的にではないが機械・技術の新規採用についての労働者の拒否権を保留することによって労働者の指導権確立のための闘いの陣地である。だからこそ事前協議制を近代化にもとつく合理化への労働者の闘いの前進的な拠点とみなすことができる。もし労働者の拒否権を欠いた事前協議制があるとすれば、それは資本による一方的な合理化通告制となる。

 従って事前協議制は戦術的絶対反対闘争の最も重要な武器であり、戦術的絶対反対闘争は事前協議制の内容を規定するものであり、両者は切りはなすことのできない一つの闘いである。そこで最ものぞましいことは、闘いの場=生産点と協議の場を直接一致させることである。重要なことは、現在の事前協議制をテコとしながら闘いの場に事実上の事前協議制=労働者の拒否権にもとつく同意権=を確立するために闘うことである。また、戦術的絶対反対闘争=事前協議制の闘いはその時々の反合理化の闘いで断絶することなく、ひきつづく反合理化闘争の一歩一歩を通じ一貫した闘いで蓄積されることによってのみ職場における労働者が職場と生産の真の主人公となることをめざす闘いの第一歩である。

(三) 反合理化闘争の基礎と展望

(1) 生産点闘争の今日的意義

 階級的な反合理化闘争をすすめるうえで、日常的な生産点闘争は今日新しい意義をもっている。

 技術革新が全国的に導入され公社の機能と機構が現在のように確立される以前の職場闘争は、その職場限りでの闘いで職場要求が獲得される現実の可能性があった。従って短期的に決せられる激しい要求獲得の闘いとその成果が、直接生産点での労働者の一層強い団結をもたらすとともに反合理化闘争の重要な土台となった。

 しかし今日、技術革新にもとつく公社統一機能の発展は、職場における職制の部分的対応機能を奪いつつ従来のような職場闘争を空洞化させている。こうした状態のもとではもはや以前のように職場限りの要求獲得と短期の激しい闘いの結果はじめて得られる労働者の意識と団結の前進を、職揚闘争の唯一の指標とすべき時期ではない。職場闘争としての本質は不変でもその要求と闘争形態は変化する。

 闘い方の変化と発展を必要とするのは、闘争の客観的な土台である生産と作業の過程自体が変化したからである。以前には作業過程は点と線で結ばれ中枢部と末端機能は分離されていた。しかし今日では中枢部と作業の第一線は統一機能の中で自動的に接合され、全機能がどの一部分も欠くことのできない面的な結合の中で動いている。従って職場における資本と労働の対立は全体の対立の一部分として表われ、作業と労働をめぐる双方の指導権が生産の接点でツバゼリ合いとなっている。

 しかし、技術革薪にもとつく公社の訓練に習熟し切っていない職制の強制と労働者の抵抗は結抗しつつ、ある種の「無政府状態」を生んでいる。そこでは一つ一つの生産過程、一つ一つの作業過程の中で労働者の指導権を前進させるための職制(資本)との闘いが中心となる。それは労働とその条件について労働者の云い分をどれだけ通すかによってはかられる。それは地味な闘いではあるが、バラバラでは成立し得ない公社の機能=合理化を部分的に停滞させその統一意志を部分的に切断することによって公社に手痛い打撃を与える結果となる。それは以前のように目に見える「物」をとる闘いではなく目に見えない「指導権」に肉薄するための闘いであり、従って、以前のように断絶した激発的な闘争ではなく連続した不断の闘いであり、また従って以前のように短期の決戦ではなく、長期で持続的な闘いである。それは、いわば「引き延ばされた激しい闘い」として強い忍耐と持続的な追求を必要とするばかりでなく、従来の職場闘争以上に激しい、しかし内にたくわえられた闘志を必要とする。

 このような日常的な生産点闘争が不断に追求されるなかでこそ、反合理化闘争の中心となる「戦術的絶対反対闘争」が準備され構築される。

またすべての職場におけるこうした日常的な闘いがあってこそ、拠点の「戦術的絶対反対闘争」に呼応する統一闘争の力の源泉が生れる。

(2) 統一闘争と拠点闘争について

 統一闘争と拠点闘争の関係については、ただ一般的に重要であるというだけでなく、技術革新合理化に対する反合理化闘争においては、特殊に重要な位置を占めている。それはますます進む技術的土台の上に発展する"資本"の側の統一機能に対し"労働"の側の闘う統一を進める上で拠点闘争が新に重要な役割りを担っているからである。

 公社は第一次から第三次五力年計画まで、戦争によって破壊された土台の回復とその後の近代化の基礎となる技術的準備に全力をそそいだ。

この過程の最後の段階で闘われた広島電信分会の中継機械化反合理化闘争は、拠点闘争としてとくに重要な位置を占めた。それは広電分会から地方的に発展しつつ中国地方本部の指導のもとで地方的統一闘争として追求され、僅かにせよ質的に高い時間短縮をかちとり、その犠牲にかかわらず全国的に大きな影響を与えた。この闘いは全国的な近代化への過渡期の闘いであり、時間短縮要求等今日の反合理化統一闘争を志向しながらなお闘争形態としては戦後来闘われた職場闘争の最後の集中点でもあった。しかし今日では技術革新にもとづく公社統一機能の発展は職場での部分的な公社機能を喪失させつつますます中央集中制を強めている。従って職場単位での完結的な闘争はただそれだけでは附随的条件に限定され、孤立した分散闘争に終って基本要求の貫徹は阻まれる。

 それでは中央指令にもとづく統一闘争だけで資本の全般的合理化計画を突破できるだろうか。公社は巧妙にも一気に勝負を迫るのではなく、かくされた全般的全国的計画のもとで計画の部分的実施を逐次迫ることによって計画の完全実施をめざしている。そこでは統一的計画にもとづく攻撃は個々の局面で闘う労働者と対決する。こうした状況のもとで統一闘争がもし公社の統一機能を土台とするならば、結果においでは資本の設定したワクの中にからめとられることになる。そこに広電分会闘争の歴史的制約とともに今日なおくみ出すべき貴重な教訓がある。

 今、重要なことは、公社の部分的逐次的合理化を戦術的絶対反対闘争で迎撃しつつその統一機能を下からの地方賢争で分断突破し、闘いの過程で連帯的に発展させることによって闘う統一を追求することである。

それは部分的闘争の単なるつみ重ねではなく、部分から全体を志向する闘いとしてこそ重要な意義がある。

何れにしても明らかなことは、労働者闘争の「統一機能」は公社の統一機能を土台としてではなく、労働者の闘いを土台とした拠点闘争の闘う再編成としてこそ形成される。ここに現在の反合理化闘争の中での拠点闘争の新しい意義がある。それは統一闘争と対立するものではなく、その内容を規定するものであり、統一闘争は全国的な拠点闘争の連帯的発展によって達成される。闘いは質から量へ、量から質へと発展しつつ闘う統一を完成する。

(3) 経済危機と反合理化闘争

 今、合理化をとりまく環境は大きく変化した。

 公社が今日のように急速に近代化を進めることができた条件は、戦争による設備破壊によって技術革新の最新の成果を新規導入することができたことと、一連の民主化による市場の拡大、資本の独占・集中の発展と蓄積を補強する国家の役割りの一層の強化等によって流通過程で占める通信・情報の位置が飛躍的に発展したことであった。

 今日まで公社が最も力を注いだのは、労働者の反合理化闘争をあらゆる手段によって押えつつもなお労使関係の決定的破局を避けることにあった。それは通信・情報網の完成という公社の目的――それは国家独占資本主義の重要な要請でもある――を達成することを至上命題とする所にある。

 その意味でこの計画の急速な実現にとって不可欠な高度成長下での「労使正常化」は彼等にとって単なる労働問題以上の重要な意味があった。

 しかし高度成長は終り、今、経済恐慌――不況は経済のあらゆる領域に危機的状況をつくり出している。情勢は一変した。本来なら当然予想される省力化による「人員整理」を、「生首」を切ることを避け専ら職種転換の循環で内部保留をしてきた公社も最早長つづきはしない。確かに今日まで資本による技術革新の導入がもたらすべき「人員整理」をくいとめてきたのは全電通の歴史的な闘いの成果であるが、それを「可能」にした客観的情勢と条件を無視することはできない。今、公社は困難な経済危機のもとでなお初期の目的―通信・情報網の完成―を実現することを追られている。彼等にとっても「労使正常化」を第一義的に維持する条件は次第に失なわれつつある。

彼等にとってたとえそれが労使関係の破局を招こうとも敢て力ずくでも「人員整理」を強行せざるを得ない時期は迫っている。そうしてなおこうした状況を含み込んだ上での「労資正常化」の夢もまたすてきれず、和戦両様の構えで準備を進めている。スト権問題でも明らかなように、政府の云い分は、民間大企業並みに合理化に協力し「闘う」体質を変えてくれば条件付のスト権をやっても良い、ということに外ならない。

 全電通合理化反対闘争はこうした情勢の変化を明確に見定めつつ、今までの闘いの単なる延長の上にではなく、新しい情勢と条件のもとで予想される資本の攻撃をはね返すため真の闘う統一をめざして一層思想的組織的団結をたかめなければならない。それはすでに提起した基本的視点と方法を棚上げすることではなく、全く反対に、ますますその視点に立ち、ますますその方法を貫ぬいて闘わない限り資本の攻撃と闘うことができないことを一層明らかにしている。

 そのためにも、本来防衛的な闘いである反合理化闘争に限定することなく、経済危機のもとで一層大胆な大幅賃上げと労働条件の積極的な改善をめざして攻撃に転じつつ合理化を迎え撃ち、反合理化闘争の徹底的な闘いの中から新たな展望をつくりださなくてはならない。 「合理化か賃上げか」の資本家的二者択一を粉砕して「賃上げも反合理化も」労働者の力で闘いとらなければならない。一層公労協の闘う統一を強化し、全労働者との共同闘争を発展させるために闘おう。

【附記】

 労働者教育と学習活動について

 技術革新とくにサイバネーションの導入による合理化の進展は、これと闘う反合理化闘争を従来の闘争の経験の範囲内だけでは充分闘い得ない情況を生んでいる。

 それは資本の攻撃が個々のライン別々にではなく、全体=の一環として系統的に展開されているからでありとくにその中心的な土台となっている機械・技術がサイバネーションの採用により闘いの基礎となる労働そのものの性質を変化させているからである。それはまたこうした合理化との闘いが、部分的・個別的な要求獲得の範囲を超えた闘い、すなわち電通における資本と労働の根本的な改革をめざす闘いとしてのみ発展的な展望をもつこと解できるからでもある。

 従って今目の反合理化闘争を発展させるためには、公社の全計画と機械・技術のシステムを階級的立揚から系統的に把握するとともに、資本によってではなく労働者が機械・技術を管理し、文字通り労働者が生産の主人公となるための諸条件をどうして創り出すかを明らかにすることが是非とも必要となる。従って教育学習活動はただ一般的に重要だというだけではなく、特殊に重要な位置を占め、闘争と学習は不可分のものとしてのみ発展する。教育学習活動なくして反合理化闘争の発展はないといっても過言ではない。

 労働者学習教育活動は、次のようなテーマを基本として闘いの一環として特別に取組むべき課題である。

(1) 生産力と生産関係についての基礎理論と搾取論、とくに最新の機械・技術と労働の関係についての系統的理論的な把握。

(2) 公社の計画、現在および将来導入される機械・技術とそのシステムについての階級的立場からの系統的実際的把握。

(3) 今目の反合理化闘争の発展が不可避的に必然とする新しい生産関係、労働者による機械・技術の管理(生産の管理)と社会主義との関係についての追求。

 

電通合理化と反対闘争の基本的視点

1.合理化の基礎となっている技術革新についてどう考えるか
    茂木六郎


2.全電通飯ごう理化闘争の発展のために
  松江 澄