何でも鑑定団 中島誠之助の若き日の想い出 若き日の山脈 骨董屋からくさ店主 中島誠之助 |
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著者の中島誠之助君とは柳風の私立芝高校時代の親友で、当時はワンダーフォーゲルが流行でした。卒後の昭和三十二年の夏、南アルプス北岳に登山したときのエッセイです。 |
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| 羽田を出た福岡行ゆきの朝一便が、十五分足らずで甲府盆地の上空をかすめようとしている。講演会や取材などで、この早朝の西行きの飛行機便を、私はいったい何度くりかえしたことてあろうか。天候のいい日は窓際の席を確保して搭乗機がこの上空にさしかかるのを待ち、それが山好きの人間の義務かのようにして、はるか眼下に厳然こして隆起する広大な南アルプスの山嶺を眺めるのが常なのである。 顔見知りのスチュワーデスが、「富士山をごらんになるなら左側のお席が空いておりますからどうぞ」と親切に言ってくれるが、私にとっては、右側の窓から見える北岳を盟主とする白峰三山に挨拶することが長いあいだの習慣てあり、そして尾根筋を見つめる目のサインは、長らく遠ざかっている山々への敬愛のしるしなのてある。 「自分は山男なのだ。それをきれてはあかんぜよ」という自己にたいしての警鐘が、一万メートルの成層圏から熱いまなざしとなって、夏は黒々と雲海から頭をもたげ、冬は純目に輝いて横たわる南アルプスに注がれ、「分かっているよ、待っているからな」こいう岩肌からの欲を受け取るのである。 あれははるかな昔のことになる。大学生活一年目の夏の盛りの日、高校時代の友人二人と南アルプスの主峰北岳の登頂を目指したことがあった。まさにあの北岳の初登山が、私の人生における長い長い中継いの旅の出発点になったことを思えば、あれは記念ずべき道標として還暦を迎えた現在にいたるも、決して忘れることのない彷徨だったのである。 昭和三十二年八月十六日、午前零時十分新宿発の夜行列単は、松本経由で北アルプスへ向かう山男でむせかえるようてあった。あの時代、この時間帯に長野県へ向かう夜行列車は、俗に山列車と呼ばれ山男たちのステータスであり、車内は確実にひとつの文化圏を持っていたように思われる。 私たち三人はひそやかに固まっていたが、甲府を過ぎても眠れず、ようやく夜のとばりが開け始めた頃、私たちよりはぐっと大人の、哲学的にみえる山男たちに別れを告げて、早朝の中央本線「日野春駅」の霧のプラットホームに降り立ったのである。 台地の稜線上にある日野春駅から釜無川まての急坂を下り、無舗装だった甲州街道を越えれば、眼前には南アルプス前衛の鳳凰三山が覆いかぶさるようにして追ってくる。材木を運びにゆくトラックに拾われて出発地点のざ赤薙沢の出合まで時間を稼ぎ、伐採小屋てお茶を御馳走になってからが、いよいよ登りの始まりてあった。 そこは五万分の一地図を広げてみれば尾無尾根と表記され、まさに名のごとく鉈で断ち切ったごとき急峻咳な壁てある。あごをだしながら森林帯の底を這い登るようにしての苦闘二時間三十分、やっとの思いで前衛の尾根を登りきり広河原峠に立つことができた。 井上が大きなリュックの中から粉末ジュースを取り出し、水筒の水で溶き乾杯をする。峠は鬱蒼とした樹林に埋もれていて、まったく眺望かきかないのである。北アルプスの上高地を目指したあの山列車の男たちは、今ごろ徳本峠に立って恋い焦がれた穂高岳を見て、歓声を上げているに違いないと話しながら、「騒がしい北よりもなあ、南こそ男の舞台だぜ」などと、夜行列車の肩身の狭さをここぞとばかりに発散したものである。 広河原峠からの下りは風倒木の連続で、横たわる大木に抱き付くようにして一本ずつ乗り越えて、標高差八百メ-トルちかい苔むした急斜面を、ぼろぼろになって目も霞みながら駆け下る。とっぷり日が暮れてからようやくのことて野呂川の妙州にたどりつき、露に濡れて重くなったズック製の三角テントを、広河原」のベースに設営したのであった。 早稲田のワンゲル一年生の井上が、習いたての野菜サラダの腕をふるって夜食をすまし、砂地のここちよさを背にして羽毛の寝袋にくるまれば、ただ聞こえるものは川の昔のみ。「なんという大自然であろうか、なんという山の深さであろうか」。東京歯科大学に進んだ田中が、呻くようにつぶやくのを聞きつつ、三人は昏睡していったのてある。 山行二日目、 十七日の朝は体が動かず、のろのろこ起き上がり、真夏の太陽の光が野呂川の谷を真上からきらめき落ちる十時半項になって出発。午後一時白根御池に到着。わずか二時間半の登りで体力電池が完全に消耗、霧の這い昇る鳳凰三山を眺めつつ三角テントの設管をする。 白根御池は可愛らしい小さな鏡のように、昨日越えてきた前衛の鳳風三中の尾根筋を映して、さかんに赤トンボか細い尻で水面を叩いている。ふりかえって山側を見上げれば、草すべりと名付けられた急斜面がそそり立っている。はるか上の方は霧に閉ざされて、めざす北岳の岩場も見えず、なにか「来るなら来てみろ」と我々を拒絶ずるかのように不気味である。井上の指示て腕時計の針を一時間すすめる。 山行三日目、午前三時起床。草すべりとの格闘が三時間つづき、ついに稜線に出る。北岳の肩へ出たのだ。左手のすぐそこに山頂の岩峰がどっしりと構えているではないか。 富士山、八ヶ岳,仙丈岳,北アルプス、中央アルプス、三六〇度の大展望てある。山頂て過ごすこと三十分、一路縦走路を間ノ岳へ向かう。一面にささくれだった岩が転がりあっている広い空間の中を、ただひたすら歩き続けて、白峰三山の最後のピークである農鳥岳の手前て夕闇となる。 山行四日目、厳島岳の頂上で天候が急変して雨となる。山頂直下の灌木林へ駆け下り、そのまま一気に大門沢のガレ場て苦闘する。下りがこんなに辛いものだとは、まさか体験するまでは気がつかず、一足ごとに崩れ落ちる砂礫の斜面を,ただもう夢中で滑り落ちるようにして下っていけば、膝はおろか全身がばらばらのがたかたになる。ここを秩父官が「泣き坂」こ名付けたといわれているが、スポーツの宮様として有名だった、かの親王殿下も、このガレを下ったのであろうか、いやまさか登りはすまい。そんなことを三人てわめき入口いながら,ガレ場の終点で昼飯をとる。沢の水のなんと甘沫なことか、白峰三山を歩き通してきた満足感と、新たに湧き起こってきた自信に支えられて、食後の昼寝をすば,はるか速くを雲が流れていく。そよ風の葉ずれの音が心地よい。 山行五日目、奈良田の大家旅館で遅く目覚め、ダム湖でボートへ乗る。田中は山行中いつも携帯していたスケッチブックを開き、終わりちかくなったページに吊橋を写生している。井上はリュックから新品の登山靴をとりだして履いている。北岳の尾根ではおニューの靴を持っているなどと、おくびにも出さなかったくせに「イノさん、お前そんな靴持っていたのかよ」と、田中と私に詰問される。午後のバスて身延駅に向かい、甲府で中央本線に乗り換え夜九時新宿へ着き、中村屋でビールを飲んて家路をたどる。 私たちの山行から数年して、立派な林道が夜叉神峠を越えて野呂川に沿って伸び、広河原の北岳登山基地まで、バスに座ったまま行けるようになったのである。 あの日から四十年の歳月が経ってしまった。現在、井上は真言宗の古刹の住持になり、田中は息子に歯科医院を任せたいわゆる大先生になって趣味の油絵を描いている。かくいう私は、西行さの飛行機の上から、北岳の峻鋭を見下ろしている。若き日の山旅は、それが辛くきついものてあればあるほど、甘美な思い出となって、決して忘れることがないのてある。 (終) |