ぶぶ  

人名〈〉巡り

文歯会報 25号より 転載

文京区歯科医師会 前会長  田 中 久 雄

 

奇病に感染したのは、文京区歯科医師会の会長を引き受ける一年前の平成6年4月のことでした。会長就任して、会報編集用に購入した最新式のワープロ器の練習台に何か文章をと思い、慣れぬ手つきでの《沢・澤》を集めたメモを片手の作文でした。  

 

職業柄、珍しい人名に遭遇することがしばしばある。その都度、この方の名前の由来は何であろうかと興味を引かれることが多い。その点、私の姓の「田中」は誠に味気ない。

いつも、クラスには、同姓が2〜3名いて、母親姓の『高林』の方がどんなに良かったのにと、子供心に親を恨んだことすらあった。単純で、書いても形が取りにくい字で、つくずく嫌になり自己嫌悪にさえなっていた。 

最近の結婚では、どちらの姓を名乗っても可となったようだが・・・都会で開業していると、多種多様な姓に遭遇し、つい出身地まで聞きたくなる。

また、日本の姓の豊富さに感嘆することでもある。はっきりと調べたわけでもないが、無数にも近い姓が存在するから日本は素晴らしい。

外国にはこれほど多種多様な姓は存在しないと聞いている。少ない国ではせいぜいが20種ぐらいらしい。

星の数ほどある日本の姓ではあるが漢字で書くと大概は1〜3字、現代では姓名となると多くて6字以内に納まる。

これは素晴らしいことで、名簿を作って見ると日本人の姓名の素晴らしさを再認識する。ワープロで、100名 500名 いやいや 5,000名10,000名の名簿を作っても、おそらく6字以内の漢字に納まる。

これが、日本人の名簿の中に、外国人の氏名・住所をアルファベットで入れたことがあるが、実に不便この上ない。欧米人の正確なフルネームを記したら、枠など引けやしない。思わず外国の卒業生名簿はどうなっているのだろうとの興味も沸いてくる。

最近は、外国での事件に日本人が巻き込まれることも多く、テレビ等で音声を聞いただけで、日本国籍だとすぐに判別できるのも、当たり前と言えば当たり前だがおもしろい。

全ての日本人に姓名が付いたのは、明治5年に、一般庶民にも姓名を付けなさいと法律で決めたからで、歴史的にはそう古いことではないと聞く。

自分が何と名乗ろうか思案した挙げ句、身の回りの博識者に相談して(多くはお寺の住職や神主らしい)選び、届けたらしい。

『住職さん、 私の名前なんとしたらよかん べえー 何ぞ付けてくだされぇ』

『そうだなぁ ゴンベエ おまえは何処に住んでおる』

『あの 北ノ沢の柳の所でございますだ』

『そうか では おまえの家は 柳沢がよかろう。いや、北沢でもいいなぁ〜』

てなことで名前が決まっていったらしい。そこには、ご先祖様の生活の背景がにじみ出ていて面白い。ですから日本の姓には、自然環境を思わせる漢字がやたらと多い。

元より風光明媚な日本。山あり、谷あり、川あり、沢あり、橋あり、池あり、沼あり、台地あり、樹木あり、森あり、花あり・・・・

ご先祖様が好んで住み着いたのは、自然豊かな農村であったはずである。中でも《沢》となると今でもその光景が目に浮かび、あたかもそこに家が建ち、沢から水の流れる音さえ聞こえてくるし、一服の絵画を連想させるから、尚面白い。

一年前に《山沢》と名乗る患者が来院した。『山があって、そこに流がるる沢か、山間の背景が目に浮かびますね! ありそうで始めてお目にかかる。純朴で人の良さそうな、ご先祖様の雰囲気の出たいい姓ですね!』

実はこの会話から、私の《人名 沢巡り》が始まった。

《沢(澤)》の付く姓を、2人の助手とリストアップし始めた。直ぐに50〜60が挙がった。それから街を歩いていても、何故か表札がやたらと気になり始めた。手持ちの名簿をめくり始めた。初めてみる、面白い《沢》に巡り会った。

人から名簿を借り出しても、新しい、珍しい《沢》に巡り会いたくなってきた。150程の《沢》に巡り逢った頃より、コレク ターとなり既に病気ともなっていた。10冊の名簿、約10万人の量をめくった。

我ながらおかしくなり、いい加減で止め! と思っていた矢先に、たまたま取り上げた電話が新患の患者からの予約の電話であった。 

『お名前は・・・・』

 『ナラサワです・・・奈良県のナラに沢で す』‥‥また嬉しくなってきた。

 『楢の木のナラなら、コレクションに既に 蒐集済みであるが。あなたのナラは初めて ですよ。』

以来再び、コレクションが始まった。(平成7年2月当時 230種)

テレビや映画を見ては、最後の最後までスタッフの人名から目が離せなくなってきた。

新聞を見ては、つまらない人名のリストを探すようにもなっていた。

これは変な病気だと自分でも気付いていたが、面白い《沢》を発見する快感に、いまだに取り付かれている。(平成9年3月現在ほぼ完治)

いっそのこと、人名の本でも見て探したほうが早いし、完璧ではないかとも思うのだが、それは仁義に反することと自分で決めていて、自分が個々に目に触れたものしか納得できない羽目になってしまっている。

現在、(平成9年4月現在) 《○○沢》が 246種《沢○○》が37種 計 283種 蒐集できた。それぞれ私が目で確認した実在する姓である。分類してみる価値を持ってきたと思う。

ここまで来るとなかなか新しい《沢》を発見することは容易ではなくなってきたが、広い日本、豊かな日本の漢字文化を考察すれば、まだまだ 100以上の《沢》が存在すると想像している。

皆さんの知人の中に、珍しい《沢》がおられましたら、ご一報戴きたく思います。

この報告を期に、一年も続いたこの奇病から離脱し、会務に専念いたしたく思います。

 −−平成7年5月記−−以来《沢》補充−−

 

補足情報

平成9年2月:森理事よりFAXが入った。朝日新聞の記事で見出しは

『典拠の謎解き私のロマン』  元国語教師

『集めた名字29万余』   50年の執念

『日本苗字大辞典』  全3巻/定価33万円

  例  四十八願(よいなら)  朏(みかずき)  十八女(さかり)

 

姓氏研究家の丹羽基二先生は、50年以上の調査によると名字の85%は地名にちなんでいる。残りは職業、屋号、縁起を担いだ佳字、当て字のようです。(6,500ページ)

約200万基の墓を調べたようで、ついでに調べた家紋は約2万種。家紋の本は30万冊売れたそうですが、今度出版の、この高価な本は誰が買うのか?

 

推薦文を記した吉田光男東大教授(朝鮮近代史)は、「日本の氏名とは意味合いが違うが朝鮮の姓氏は 274しかない。 日本の姓氏が30万近くあるのは、そのこと自体が文化であり、二十世紀末の日本人の血縁意識、考え方を表わしている。」と評している。

 

こんなニュースに接して、私と似たような病気に罹る人もいるものと感じつつ、私は軽症で済んで良かったと、ホッとしました。

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