「奥会津」の論文募集-入選作品2


タイトル:いとなみを伝える〜文化と産業〜(1/2)
執筆者 :大久保裕美

 

一 はじめに
 
昭和村は人口二〇〇〇人程の山間部に位置する小さい村である。そこには古くから人々の生活の糧であった。苧麻(からむし)が、今もなお栽培され、息づいている。平成六年より村の振興、及びPRのため始まった「織姫体験制度」により、からむしを知る人も随分増えてきた。私自身、この制度に応募して、平成八年六月にこの村に入り現在、四年目になる。今年はからむしの畑を借り、栽培から刈り取りまでの勉強も始めた。
今、私の視点は外から来た者の見方から、私の生活圏でお世話になっている人やからむし関係者に関わる事で、少しづつ変わって来ていると感じる。染織という分野だけでなく、土壌や肥料、からむしに関わる行政の在り方等にも興味を持って考えられる様になった。それに伴い、今迄見えていたものだけでなく、違った部分も見える様になったと思う。これまでの経過、考察等を記載し、広い視野を念頭に置き、今後の課題を考えて行きたい。

 

二 昭和村と越後との歴史的関わり

苧麻は帰化植物であると言われているが、縄文時代より、からむしを含むイラクサ科の植物は、人々の生活に利用されている。村内でも、野山に栽培種ではない苧麻を見る事もあり、人間の生活には昔から欠かせないものであったようだが、丈夫で肌触りの良いからむしの布は支配する側への「税」という形で召し上げられ、通常の人々の生活とは程遠い物となった。そのお陰(?)と言おうか、より良いものを作るという技術の錬磨が命を削るが如く重ねられ、人間の粋を極めた上納布として生産される様になった。
昭和村は越後上布の原料のからむしを生産、供給し続けてきた場所である。天保七年(一八三六年)に書かれた越後塩沢の鈴木牧之著『北越雪譜』に、「縮(ちぢみ)に用いる紵は奥州会津、出羽最上の産を用ふ。白縮はもつはら会津を用ふ。」とあり、会津で栽培されたからむしがいかに最良品質を誇ったかが伺われる。青苧の買い付け商人が越後から国境の六十里峠、八十里峠を越えて、からむし仲買人のところへ毎年通い、約四〇キログラムずつ本荷とし、人足を雇って復路を辿った。明治の最盛期には栽培面積二〇ヘクタール、年間生産量高一六〇〇貫匁(約六トン)を記録し、本村唯一の換金作物となった。 大正〜昭和にかけての養蚕の普及、戦後の食料難、化学繊維の普及及び着物需要の激減によって、からむしは一時衰退して行ったが、からむしを残したいという個々の願いが村の集まりの中で語られ、からむし栽培復興のきざしが見え始めるのが昭和二五年頃である。そして昭和四六年、農協に「からむし生産部会」が作られ、昭和五六年農協工芸課が新設、昭和五九年「青苧栽培からむし織り技術保存会」が発足する。平成元年には昭和村からむし織りが県の指定重要無形文化財に、平成二年二月「昭和村からむし生産技術保存協会」発足、同年からむしの栽培技術が県の選定保存技術に指定され、追って平成三年に「からむし(苧麻)生産・苧引き」が国の選定保存技術に認定される。
このような経緯から、越後との関わりを学ぶのは必須である。又、苧麻が現在栽培されている場所は本州では昭和村のみ、後は宮古島を含む八重山地方である。しかも八重山では栽培から糸づくり、染色を加えた織りまでが一貫して行われている。昭和村は栽培から繊維の取り出しまでで、その原麻を材料にすることを条件づけられて国の重要無形文化財となる越後へ引き継がれ、糸づくりから織りを経て製品になる。

 

三 研修−越後

切り離されている工程と比較するとともに、他の場所の保存協会、あるいは織物協同組合の運営等を学ぶために、平成一〇年一二月越後へ、平成一一年三月沖縄への研修を実施した。(私自身は昭和村からむし生産技術保存協会事務局員として仕事をしている。)

(十日町市博物館)

江戸時代の法令で武士は夏服として上布の袴、裃着用を定められていた。白布で江戸に出され、江戸小紋に染められ、袴等に仕立てられた。産物としては最上でありその当時、一反織ると一両になった。中条村の部落別戸数と縮生産高の表(元禄五年)では戸数が八三戸、それに対しての縮生産高(反物数)は七五反、だいたい一戸につき一反織っている計算になる。最盛期には一〇月から三月まで、半年間で糸づくりから始まり、一反織り上げられた。その後、工程が分業制になっていった。
昭和と同じく糸づくりから織りは冬期間の仕事である。昔は手代木(てしろぎ)という簡素な道具で糸のよりかけをしていたが、その技術はもはや廃れ、現在では糸車を使用する人すら少ない。かせ煮は灰汁と米のとぎ汁とで八時間程煮込み、そのまま一晩寝かせ、水洗いする。糸の不純物が取れ、しなやかになる。その後糸を晒す。昔は日中、雪上にひろげ二〇日以上かけて晒していた。今は晒粉を溶いた水に四〜五日浸し、水洗している。糸繰りをし易くするため、半乾きのかせの糸すじやからみを正す(アジワケ)作業がある。糸繰り、糊付け、糸ごしらえ、その後糸くびり(絣にくくる作業)に昔古苧(コソ、古い原麻)を使用していたが、木綿が入った以後は木綿糸にて絣括りを行う。(現在は機締めである。) 昔からの簡素な機、いじゃり機(越後での呼名)で織る作業は、昔、北に面した締め切った奥座敷の窓を開け、あるいは雪を器に盛ったものを機の側に置いてなされた。また、土間の水をまいたところに機を置くこともあった。からむしの細い糸は湿気を含んでいないと非常に切れやすいためである。糸の状態の良さに比重を置くと人間の方が耐えねばならなかった。機は昭和の足の付いたいざり機でなく旧式(地べたに置いたもの)を使用する。やはり糸が細いため、足付きの機では斜めになり、糸に重量が掛かり切れ易いためである。

(六日町−丸麻織物)
現在、藍染め以外の染めは化学染料である。天然染料では雪晒しで色が飛んでしまう(昔の染色はとにかく手を掛けたため支障がなかったのか)

 

四 研修−沖縄

(石垣市織物事業協同組合)
昭和五一年に組合結成、平成元年に八重山上布、八重山ミンサ−が通産省の伝統的工芸品に指定される。市の建物(昭和五一年〜)を石垣市伝統工芸館とし、事務局、展示室による展示即売、研修を行ったり整経等を組合員が行う作業場(染色室、機等完備)組合員の製品を検査する検査室等がある。現在の組合員数は九一名、その内三〇〜四〇名が実質活動している。理事九名(内、通産省との関わりで石垣市の商工観光課より一名)役員二名(監査)事務局二名で、総会を年一回、理事、役員の定例会が月一回行われる。
運営費は市からの補助と組合員の糸等購入時や売り上げからの手数料、検査手数料等である。検査は織られた布の長さ、巾、一センチメートルの経糸密度(例えば着尺は一八以上)絣柄合わせ、色段、織段がないか、重さ(着尺は六〇〇グラム程度)その他摩擦堅ろう度等。県営の検査に合格すれば規定の伝統工芸品として格付印で表示される。
糸績みをする人は自分達で績める量のブ−を家の周りにつくり、績んだ糸はひとヨミ、ふたヨミとヨミ数で売買する。(通常一〇ヨミ単位)ひとヨミは四〇本、長さおよそ七メートル程。糸の値段は(着尺用)三八グラムで二〇〇〇円、四五六グラムで二四〇〇〇円。一カ月約三二〇〇〇円の仕事である。市の補助で、糸づくりに対する奨励金があり、それは糸績みをして三八グラム約二〇〇〇円のところ、績んだ人に+αが買い上げ時に付く形である。糸績みの方法は経糸が二本で短い方に繊維を足し、よりをかけて繋ぎ合わせる、昭和村の糸績みと同じで、その後糸車にてよりをかける。Hの形をしたかせくり道具でかせにし、四〇本ずつヨミを取る。緯糸は一本の繊維に繋ぐ方法であった。しかし現在、経糸は主に機械紡績糸を使用している。
問題点としては、まず原材料の不足、例えば染料の福木は庭木が切り倒された時に貰い受ける、ク−ルは年一回組合員で山へ採集しに行っている。インド藍は栽培し、琉球藍は沖縄本島(本部)より購入している。糸績み工程においての後継者の問題、組合員の物作りに対する意識等他産地と同様の問題を抱えながら、伝統保存と利潤追求という相反する部分を比較的うまく妥協させながら今を乗り切ろうとされていた。
 一人の組合員が年間、どれ位の制作が可能か。組合理事長の松竹喜生子氏の場合は、年間着尺三反、帯五〜六反程度である。

(竹富町織物事業協同組合)

竹富島が現在の八重山ミンサ−の本場で、組合は昭和六三年から任意団体だったが平成元年に八重山ミンサ−が通産省の伝統的工芸品として指定され、同時に織物事業協同組合として発足した。組合員は講習受講者で、組合に入る時、出資金一万円を支払い、年間六〇〇〇円の組合費(自己負担金)を納める。他、国と県から二〇〇万の補助金が入る。現在、組合員八一名でその内、約半数が活動している。竹富島二九名、小浜島一〇名、西表島(東部二四名、美原、古見五名、西部四名)と、竹富町は離島の為、総会等で集まる時に経費がかさむという問題がある。役員は竹富島三名、小浜島二名、東部三名、美原一名、西部一名の一〇名と竹富町役場の経済課、商工観光係一名で成っている。
共同購買を原則として、材料、染料は自給と組合で調達の方法を取っており、糸はブ−(苧麻)芭蕉についてはなるべく個人で準備し(ちなみにブ−の値段は六〇〇グラムで五〇〇〇〜七〇〇〇円)、糸づくりも織り手が自分で供給するように指導。糸づくりの値段は着尺用の良いもので三・八グラム二〇〇円、太い糸は六〇〜八〇円である。木綿糸は共同購買、絹は採算が合わず、平成五年に養蚕を止めてしまったが、今はまだ個々の家に絹糸の在庫がある。共同販売のシステムは組合員の品物は買取の形を取り、一カ月に一回、支払いをしている。買取値は素材の違いや巾等で変わってくる。
 今の状況は非常に厳しいが、組合の運営等は比較的理想に近いのではないか。

(宮古織物事業協同組合)

現住所の建物は琉球王朝時代、織り上がった上布を検査する所であり、明治頃より組合の様なものがあった。戦時中は贅沢品禁止令のため上布が作れず、ブランクとなる。昭和二二〜二三年頃より復活し、紆余曲折を経て現在に至る。組合員数は現在五三名、内半数が活動されている。約五年間の研修を経て、上布を織れる事が組合員の条件だと言われたが、厳しい条件である。バブル前は年間三〇〇反程作られたが、現在は三〇〜四〇反で作った分は掃けている。
宮古上布は約四〇〇年前より始まる。四〜五月に収穫する「うりずんブ−」を最も上質の材料とする。良いブ−とは節と節の間が長い、柔らかい等が基準で、根の際から刈り取る。ミミガイ(あわび貝に似ている)の殻によるブ−引きも見せて貰う。こちらの苧引き金具と同じ様に持ち、表皮をこそぎとる作業を2〜3回繰り返し、それを干す。人によっては干す前に水にくぐらし、青水を流す。
糸は三八グラム五〇〇〜六〇〇円、一〇ヨミで一八〇〇〇円にてやり取りされている。一ヨミの本数四〇本、長さ七メートル五〇センチ。糸は一人で経糸を年間生産二反分作れる。経糸を績む人は三〇名、その内半数が実質活動されている。全員で七〇名程度、年齢は五〇歳代から八〇、九〇歳の方が殆どであった。ブ−績みは経糸が二本取りで昭和と同じ繋ぎ方、緯糸は一本取りで越後と同じ繋ぎ方、但し結び苧ではない。昔の着尺で一反二六ヨミの経糸、絣括りは二カ月以上かけて手で括った。(現在は機締めである。)藍立ては琉球藍、宮古の蓼藍に苛性ソ−ダ、水飴、泡盛等を入れ、一週間〜一〇日で発酵させると染められる。

(喜如嘉芭蕉布保存会、事業協同組合)

喜如嘉芭蕉布保存会は文化庁保存団体で会員数が二二名。平均年齢は八〇歳代で総会員数の半数が活動し、工房内は二三名(パ−ト等含む)が従事している。喜如嘉芭蕉布事業協同組合は組合員数二三名で、一人につき何口かの出資と、製品販売高からの手数料等を運営に当てている。年に四〜六回の展示会に参加している。 芭蕉布は、現在需要に供給が追い付かない状態であり、生産した分は全て掃けているらしい。というのも、一本の芭蕉は二〜三年の栽培年数を経なければならず、着尺に使用するための糸は、一本につき平均二〇グラム程度しか採れないからである。通常、一〇〇gを二五〇〇円でやり取りされる。昭和のからむしとほぼ同等の値段である。しかし、出来上がった製品の値段は昭和村のものよりも安価であった。

(石垣市立八重山博物館)

昭和六二年に開館一五周年記念特別展として日本民藝館蔵の八重山上布の里帰り展と言う事で「八重山の染織」展が開催された。それ以来、琉球王府の頃の上布の復元に取り組んでいる。
精巧に作られた八重山上布は二〇ヨミ。一ヨミ四〇×二本×二〇=一六〇〇本の経糸が使用されている。現在、通常の着尺で一三〜一四ヨミ、復元品は一五〜一七ヨミである。博物館所蔵の染織品は比較的新しいものが多く、琉球王府の時代のものはあまりないとの事であった。

(新垣幸子氏訪問)

八重山上布は大正時代に捺染の方法が確立(捺染の場合は、絣の経糸をカセクリに巻いたまま染め付け、そのまま短機に上げて使用出来る)された後、機の機能も改良され、現在の短機(経糸を張る部分が短いため)にて大量生産されるようになった。括り染の絣が廃れ、白地にク−ル(紅露)で染めた茶の絣が、長い間八重山上布とされて来た。
新垣氏は数年前から八重山博物館の依頼で昔の上布を復元されている。古い上布は漆器の下地に使われたので、昔から本土より古い苧麻布を買う商人が来ていたため、石垣には上布があまり残らなかった。現在、東京の日本民藝館所蔵である琉球王府の八重山上布や、御絵図を元に復元に尽力しておられる。先人の素晴らしい知恵の一端を垣間見た思いであった。他に琉球王の色である黄色い上布(染料うこん)グンボウと呼ばれる交布等の復元サンプルや、伝統的な絣柄を独自で自在に組み合わせた、新しい上布等を見せて貰う。新しい上布が伝統に添ったものになるのは、シンボリックな伝統的パターンが数多い事、その柄一つ一つがとてもシンプルであるため、組み合わせてもうるさくならなからだろう。絣柄は人間が使う道具類や体の部分、自然のものが紋様になっている。
 ブ−の栽培は昔から金肥(化学肥料)は使わないとされ、山羊や牛の糞、人糞尿、牛糞とサトウキビ滓の堆肥等が使われる。冬を越したブ−(三月頃のもの)は質が良くないため、刈り投げてしまう人もいるが、新垣氏宅のブ−は丈の伸びたもので一m程になっていた。ブ−の刈り取りは、昭和では根元から約二〇センチメートル程の茎が赤くなるため、それを避けて刈り取るが、石垣では土すれすれに刈る。数センチ残して刈ると、分岐点で新芽が曲がって伸びるからである。その場で葉を落とし、皮を剥ぎ水に浸す。通常、一晩程度浸すと表皮を半分づつ、ステンレスの板でしごき取るが、板を持つ手に付けた軍手にブ−の青水を吸わせ、乾燥させる。からむしの目方も違っていて、一斤=六〇〇グラムという単位である。三月頃のものを刈ってしまうと、また約四〇日程で一メートル以上になる。五月頃のブ−が「うりずんブ−」と言い、繊維の質が最も良い。その後四〜五回刈り取り可能のため、年に一回しか収穫出来ない昭和村とは、からむしに対する「思い」の様なものが、少し違った感じだった。糸績み出来ない分の原麻は一斤約五〇〇〇〜六〇〇〇円にてやりとりされる。昔は経糸も全て手績みの糸だったが、今はほとんどが機械紡績のラミ−を使用、復元品については宮古島から手績みの経糸を取り寄せておられる。

(新里玲子氏訪問)

新里氏は何名かの人達と「あだんの会」というグル−プを結成し、主に草木染めによる宮古上布を作られている。宮古も石垣と同じく、昔は草木染めの絣もあったが、石垣の場合はク−ル染めの絣が主流だったように、宮古では藍絣が宮古上布と言われており、草木染めの絣は認められていない。今でも藍絣と草木染めの絣とは格差があり、例えば洗濯代等にも差がある。
昔は、織り上った布の仕上げをする洗濯人の交渉によって布の値段を決められていた。最近、洗濯人の方が亡くなった。洗濯人があと一人、という時にもっと危機感を感じていれば、何等かの対処が出来たのではと悔やまれていた。
宮古の苧麻栽培も肥料に牛糞とサトウキビの搾り滓を堆肥として主に使用し、表皮を取るだけで干して使う。糸は10ヨミ120gが平均で細い糸になると19ヨミ100gのものもある。

(石垣金星氏、昭子氏訪問)
西表島は人間が昔のまま自然に対して畏敬の念を抱いている、非常に貴重な場所であった。工房の周りにさまざまな植物染料や芭蕉等、ほとんど島で入手出来る材料が植えられており、養蚕も手掛けられている。近くに山、川そして海があり物作りをするには理想的な空間である。自然と共生する姿勢を非常に強く感じ、故郷にどっしりと深い根を降ろして、その土地と見詰め合っておられる姿に、伝統保存の違った形を見出だせた様に思う。

台湾の苧麻の説明を聞けた。台湾の農業試験場では四〇種類程の苧麻が株ごとに植えられ、その中に日本の地名が入った種もある。それらは戦前、戦後、生産するよう日本から送られたものである。日本では苧麻を栽培しなくなった時点でその種すら残していないのに対し、台湾では研究者がいなくなった後も系統分類した畑で、管理している。植物は長い間同じように育てていると退化していき、いつかはリフレッシュさせねばならず、実際その時が来る前に種の保存をしておかねばならないという話であった。

 

五 昭和村のからむし原麻の質の変化について

数年前から昭和のからむしの質が昔のそれと変わってきた、と言う指摘を前々から聞いていた。本当にからむしは変わってしまったのだろうか?
それを確認するため、研修の先々で尋ねてみた。

(十日町市博物館)
髪の毛よりも細い糸(博物館に陳列してある)は現在つくることが出来ない。栽培方法の変化(主に肥料と天候)にも原因はあるが、越後の方も苧績みをする人の高齢化による勘の鈍りや、昔程細い糸を績めなくなったことと、績む人(後継者)もほとんどいなくなった事も理由の一つである。

(六日町の丸麻織物)
約二〇年前頃より、コワク(硬く)なった。昭和村で生産された原麻は殆ど全て越後に買い上げられた訳だが、親苧、裏苧にいたるまで糸にされた。只、古い苧は染め分けのための絣くくりに使用されている。繊維の硬い物に至ってはどうしても糸にするしかなく、その糸は最終、座布団や帯にされる。

(六日町機屋)
 
原麻の中に良品と粗悪な物が混じっているが、その年の内に全部糸に出来る訳ではない。

(越後上布・小千谷縮布技術保存協会の講習会場)

やはり、硬くなったようである。他から入る糸で布にした場合、硬い感じになるが、糸づくりをしている人の年齢層が若いためか(苧績みの方法が若干違うためとも考えるが)つなぎ目がしっかりしており、糸は越後で績んだものよりも扱いやすいらしい。

(小出町糸屋)

最近のからむしは良い年と悪い年がある、全く硬いものばかりではない。昔程の柔らかさを持った布をつくるには、なんとか昭和のからむしを昔の様なしなやかなものにする事が必要である。

((財)海洋博覧会記念公園管理財団、都市緑化植物園)
苧麻は南方原産とみえて、沖縄の植物辞典に資料を見付け、系統分類された株から同じ様に繊維を取り出し、強度や光沢、繊維の詰まり具合等、違いを調べる。苧麻の栽培土壌は少しアルカリ性が良いらしく、やはり植え換えをこまめにする事も大切である。同作物の連作は、土壌が酸性に傾いたり、根が地中にはびこり過ぎて栄養補給しにくくなり、植物自体の寿命もあるが失せる原因にもなる。野がらむしについては、畑のからむし自体が突然野生化するのは考えにくい、しかし植え換えの段階で根に混じる、あるいは飛んで落ちた野がらむしの種の発芽、栽培種と畑の縁にある野がらむしとの交配で出来た種が落ち、発芽してその繁殖力の強さで栽培種に勝つ事等が考えられる。

 一つ一つの工程を経験すると、その前工程が必ず影響を与える、と言う事に気が付く。そう考えると栽培は最も肝心な工程である。昭和村からむし保存協会の方々は長年生産を続けている、それだけで十分賞賛に値するが、前工程が影響を与えるという見地からは、生産高より高品質に重点を置くのが望ましい。しかし昔からの栽培方法そのままを継承していく事は不可能に近く、今後の栽培技術の確立は天候の変化等を含め、問題を多分に含んでいる。昔のようにからむし畑のこまめな植え代えを、会員の約半数が七〇歳代の保存協会で指導していくのはかなり厳しい。それと共に、越後の方でも同じように後継者の高齢化で技術が衰退しているのも理由の一つのようだ。複合的な要因が考えられるが、今は原因を特定するための判断材料が少ない。

2/2へつづく)


2000.2.10作成