「奥会津」の論文募集-入選作品1


タイトル:いとなみを伝える〜文化と産業〜(2/2)
執筆者 :大久保裕美

六 比較−伝産法の推進事業

 沖縄の染織は文化共に愛好者が多いせいか、今の所、産業としても成り立っているため、通産省の「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(以下、伝産法)に基づき、伝統的工芸品の指定及び振興事業を推進している。しかし、どの保存団体も後継者育成の問題は深刻である。文化財保存として文化庁、伝産法(通産省)の、それに基づく後継者育成事業について場所ごとに比較してみた。

(越後上布・小千谷縮布技術保存協会)

塩沢町と小千谷市の織物工業組合内に、保存協会事務局がある。重要文化財の指定と共に越後も伝産法の指定を受けている。塩沢町、小千谷市の百日講習(経のべ〜織り)を一二月末から、毎年一カ月間(二月)糸づくり講習会も行っている。こちらの保存協会は機屋(業者)がほとんどで、地場産業として有名ではあるが昭和のからむし程、行政による観光目的のイメ−ジ化はなされていない。営利が絡むためであろうか、満足のいく補助金は入っていないようで、機屋が補助金以外に+αを負担し合う。講習生(伝統保存という事で生活補助を受けて技術を学べるため、定員がある)と聴講生(技術は学べるが、補助は無い)は個々に機屋と契約し、機屋の提供する糸(塩沢の講習会では本せい(手績みの糸)を1年目から使用し、小千谷では一年目の聴講生が機械紡績のラミ−糸を使用する)で一冬一反を織り上げる。講習生、聴講生共講習期間は五年間で五年後は個人で機屋と契約し、出機として仕事を貰う。しかし、講習会後は続けられない人もいる。
小出町の干溝・板木集落の糸づくり講習会は、ヨリカケを含まず、ひたすら一カ月間原麻を裂きつなぐという苧績みの工程のみ行う。東頸城郡松代町、松之山町、小千谷市でも糸づくり講習会がなされていた。平成九年頃まで六カ所で行われていたが、糸をつくる方の高齢化で二〜三カ所となっている。

(石垣市織物事業協同組合)
 
組合が機能する以前は、市の商工課の事業として研修生を募っていた。平成二年より組合の方で研修制度を行い始め、平成一〇年度で二三期目である。通産省、県、自己負担分として市から補助金が、三分の一ずつ約三〇〇万を後継者育成事業の資金としており、八重山上布、八重山ミンサ−の糸下ごしらえから織りまでの初級コ−スが毎年各五名ずつ合計一〇名(本年度は四名ずつ八名)の定員で行われている。他、市からの補助で上級コ−スやデザイン(図柄)色等の講習が不定期に(今年は八日間の講習で講師に新垣幸子氏)そして七〇〜八〇代の方を対象にしたブ−績み講習(一週間)がある。定員は約一五名程だがその内、常に糸績みをされる方が七〜八名である。糸績みをされる方は約五七名、糸の太さは四ランク程に分かれ、着尺用の細い糸(Aランク)を績む方はその内八名、Bランク二〇〜二七名と、細い糸を績める人は少ない。七〇〜八〇代の方は子供の頃から糸績みをされている人が殆どだが、現在、糸績みを始める方は五〇〜六〇代の人であるため、今後は若い人達も募るとの事だった。

(工房−新垣幸子氏)

工房では現在、五名が仕事をされており、うち三名が本土からの研修生である。研修生達は四年間工房で研修後、独立する形である。個々に家を借り、平日日中は工房にて作業については先生の図案で下準備からこなし、他の時間にアルバイトをしている。

(竹富町織物事業協同組合)

講習は八重山ミンサ−と八重山上布、各五名ずつで(本年度は各四名)講習会のための補助金は講師謝金半分と材料費。講習期間は七月〜一二月の六カ月間。後継者育成事業とは別に、県の補助で講習後二年間は、その仕事に従事する事を条件として、2年間の貸し付け金制度がある。事務局はその2年間、半年毎に証明書類を県に送付する。その制度を利用して、織機を購入する人が多い。

(宮古織物事業協同組合)
 
後継者育成事業として国、県より補助金が入っている。一年間の研修制度は講習、材料費等が無料。前は一二名だったが現在一五名、期間は七月から一二月まで。研修は実質一年間で終了だが上布を織れるようになるまで五年を要するため、研修終了後も残りたい人はおり、その人達への対処が難しいとの事だった。織りをしたい人は多くいるが、糸づくり、図案、定規にしるしを付ける、糸にしるしを付ける、絣括り、仕上げ加工(洗濯屋、補修等)の後継者がいないのが現状である。

(喜如嘉芭蕉布保存会、事業協同組合)

伝承者養成事業は、一〜三月の保存会の研修(文化庁からの補助金)と、その後の6カ月間にわたる組合による研修(通産省、県、村の補助金)による。受講生五名の内、県外者二名、村外者三名であるため、その土地に根差した後継者育成はやはり難しい。

 

七 昭和村の現状と比較後の考察

どこの保存会、組合においても地元からの後継者はなかなか望めない状況であるらしい。昭和村では村独自で「織姫体験制度」を行っているが、後継者育成事業の色は薄いため比較対照とする事は出来ない。しかし、その目的とは裏腹に少数ではあるが、からむしに今後も携わって行こうと考え、村に残る人がいるのも事実である。その功績は認められるべきであろう。
越後も沖縄も、商品がはける所まで組合が携わるため、昭和の保存協会の形態とは全く違ったものだった。しかも越後では、保存協会までが全て業者で運営されていた。現在、昭和村からむし生産技術保存協会の会員数は三六名、全栽培面積は推定九三アール程度。生産者の年齢は年々高齢化している。長い間栽培されていた方が退かれ、新たに始められる方が入会されて一進一退の状況である。
現在の昭和と越後との関わりは、国の重要無形文化財としての越後上布があっての昭和のからむし、そしてその逆とも言える。本当ならば原材料とそれを扱う工程とは、切っても切り離せない筈で、昭和村と越後の場合、どちらかに問題が生じた時の共倒れの可能性は極めて大きい。現時点で考えても、越後では糸づくりの後継者は期待できず、年々昭和村の方にからむしが在庫として残っている状況である。沖縄はいづれも組合で一括に材料を揃えたり、個人で糸を績んだりして、繊維入手から布になるまで切れ間無く作業が流れている。
昭和村におけるからむしの一把は一〇〇匁(現在三九〇グラム)単位であり、現在の昭和村のからむし原麻総生産量は推定五三貫匁弱(一〇〇匁×五三〇)となっている。ここ数年の平均原麻買入量は四一貫四〇〇匁、ここ数年越後に出荷される原麻は八貫匁である。因みに越後では二把のからむしで着尺の糸一反分となる。
平成九年まではからむしの一括買上であったが、からむし織りの製品販売等の業務を農協から(株)奥会津昭和村振興公社が引き継いだ。その後、からむし織り製品のための機械紡績糸用のの原麻消費量約一〇〜一三貫匁以外に、原麻の状態で個人への販売を行うようになり、その消費量が平均六貫匁程度である。すると年々約一五貫匁は在庫として残っている事となる。
からむし(苧麻)生産・苧引きは越後の重要無形文化財の関係上、技術保存の方向で文化庁の指定を受けている。そのため、村に在庫が残るからという理由でからむし原麻の生産量を落とす事は考えられない。青苧栽培からむし織り技術保存会から「生産・苧引き」のみが国選定保存技術に認定された事で、今日まで日常として機能していた麻織りを生かしてのからむし織りの技術が見過ごされ、現在では昔からの地機(いざり機)を動かす人は何名もいない。いざり機の機音は環境庁認定の「日本の音一〇〇選」に選ばれた。日常として続いて来た地機での織りは正真正銘の昭和の文化なのだが、今後の動向が懸念される。また、八重山ミンサ−は昔から人々の生活必需品であったもので現在も消費と生産のバランスがとられ、民芸的なものも伝産法の対象となる。昭和村のいざり機による日常的な織りも、組合としてのシステムが構築されれば、指定を受けても何等不思議は無いと言える。
沖縄に行って非常に素晴らしいと思った事は、今でも伝統芸能の分野(祭りや舞踊等)が盛んで、それらに利用する伝統的な手仕事の着物や帯が必要とされている事だった。広い範囲での文化が守られる事で、染織といった非常に狭い範囲まで影響があり、お互いに魅力を損ねること無く継続して行ける。さまざまな職業は昔から一蓮托生で、一つだけが突出する事は滅多になかった。現在はそれぞれの職業が切り離されている状況が一般的で、織物だけで成り立たねばならない時代なのだろうが、それは非常に厳しい現実である。食物連鎖の様に周り回っている形が一番理想的だと思う。
沖縄は独特の文化を持っている。時代の波に取り残されたと良く耳にするが、果たして時代の波に乗った方が良かったのか否かを現時点で考える時、それだけが良いとはとても思えないのである。日本人が日本の文化をどんどん切り捨てようとしている昨今、沖縄の人々は自分達の文化を守り、育てて行こうとされている。
若者が本土から沖縄へ流れている現状の裏には、人の生き方を真っ当なものにしている本当の底力があるからではないだろうか。沖縄は繊維植物、染料についても非常に恵まれた所で、持ち前のものを生かし、一貫したものづくりを大事にされている。本来ならどの文化、どの場所でもそういうやり方だったのではないだろうか。そして同じ上布と呼ばれる苧麻の布でも、気候や風土でからむしの系統、工程が微妙に違う。しかしいづれの工程も多くの自然と共にある、と言う点では同じと言って良いだろう。

 

八 昭和村の今後の方向性

昔から昭和村で行ってきた糸づくり〜織りの作業は麻、時にはからむしを用い、主に「自家用日常着」としてのものづくりであったため、糸の太さは越後の比較にならない。ある意味では、同じ原料を用いても技術的に見て、越後にとっての驚異とはならないだろう。私個人としては高品質であるとか、最も細い糸がつくれる事等、高度な技術というところに重きは置いていない。昔の人は手間を惜しまず、工業、産業と言った問題でなく、生活に欠かせない事と、糸の成りたい様にという素材を第一に考える姿勢であり、精神的な部分が一番重要視されてこそ、からむしが良い状態になれたのだと思う。
産業としてとらえようとする事からの弊害が垣間見える現在、原点に立ち戻る必要があるのではないか。産業化よりも大切なのは、昔の栽培方法が一番良いものを生産したという事実(自然と人が共存していた頃)に着目し、都市緑化植物園の花城氏が言われたように、昭和村の文化と自然から成るオリジナリティに目を向ける事である。出来るならば、今後からむしの栽培から地機での織り、一連の工程そのものを昭和村の文化として見据えた上で昭和村の一つの魅力として捕らえて行く事が必要である。
それには、地元住民の意識を変える事が大前提である。昭和村=からむしと言われるだけのPRは確かに確立されようとしているが、一体何人の地元住民がからむしに関心を持って関わっているか。高齢化、過疎が進む現状で、年配のからむし保存協会員は「自分達がいなくなったらからむしも終りだ」と諦め、若い人達も地元の魅力を見出だせない状態にある。確かに私自身もそうだが、生まれ育ってきた場所の良さ、魅力は麻痺してしまうものなのかも知れない。
ただ、村外向けのPR効果の逆輸入なのか、少数の地元住民が、村の魅力としてのからむしに目覚めるという効果を生んでいる事は見逃せない。しかし「からむし織の里」を昭和村の象徴として空洞化したイメージを是正しようとするならば、村の全住民とはいかないまでも、行政に関わる方々には観光イメ−ジとしてのからむしでなく、本当のからむしの姿、在り方を是非知っていただきたい。
織姫体験制度の応募が絶えないのはなぜか?
もちろん、人それぞれ違う魅力を昭和村に、そしてからむしに感じているだろうが、「昔からの人間の営みが、どれだけ素晴らしいものであったのか」「厳しい自然と共に生きる事で得る恩恵が、どれだけ有り難いものか」という本当の生き方を希求する人々が多いことを裏付けているとも言える。織姫体験生の制作した作品のアイディア等を村の方へ還元していく事も一つの方法だろう。村のPR的な役割の他に、織姫体験制度の重要な目的として、からむしに関わってやりがいの見出だせる部分を作ることで、村を離れてからも行き来のある関係が築けるのではないか。
村に滞在してからむしを学ぶ中で、それぞれの工程が、春にからむし畑焼き、夏に刈り取り、苧引きをし、秋から冬にかけて糸づくりを行い、雪の溶ける頃に機を織るという節による自然な流れとして成されている事に気付いた。その流れをそのまま受け継ぎ、節毎の作業が見られるようにする等、村を訪れる人に年間を通した昭和の良さを知って貰うい、何度か足を運んで貰えるような形にしてはどうか。
その際、昭和村の文化と言える、日常から発生した地機の技術保存は必ず必要となるだろう。しかも地機を操れる方が幾人かおられる内に成されねばならない。
まず、完全な管理体制は人にやる気を失わせるため、材料、販売、道具類の管理を念頭に置いた研修制度をもうける。地機を主とする研修は「糸づくり」「織り」と分業制にする事でコストも上がるため、糸づくりから染色、機ごしらえの一貫した作業を学べるものとし、個々に製品作りが出来る人を確保していく。そして、クラフト展等の積極的な参加を行い、一人一人の意識を高めるものづくりを目指す事が重要であり、それには地元住民に解放した作業場と道具類等が自由に使える形があっても良い。一貫作業の技術者が育成されれば、互いに協力しながら自立の意識を持った組合を組織化することも可能である。
私は子供の頃、祖母と松葉をかきに山へ行ったり、川で泳いだり、小学生の時に手植えによる田植えを経験したりした。石器時代や縄文時代の生活に憧れ、弓矢を作ってみたりもした。そう言った子供の頃の体験は原風景となって、私に、街ではなく山村を選ばせる。何故なら、私が生れ育った町は5〜6年の間にみるみる変貌し、四季を感じさせない植林と舗装道路と、岩肌の見えない河川敷になってしまったからである。昭和村の子供達にも是非、からむし作業の体験を含め、自然に接し、今の昭和村をしっかりと目に焼き付けておいて貰いたい。

 

九 おわりに

昭和村に入ってから、村内外の人々に「何も無い所ですね。どうしてこんな所に来たのですか?」と質問をされる事が多い。田舎と言う言葉のコンプレックスと、それに対する開き直りの様な部分が「こんな所」という言い方にさせるのだろうか。
あまり良くないイメ−ジで取られる「発展途上」という言葉は「先進」と呼ばれる所の人々が作り出し、それは片方からの見解でしか成り立っていない。逆に先進と言われる場所に生ずる犯罪や、社会問題等の元凶を考えた場合、目に見える物質的な事柄をのみ全てとする考え方から生まれているのではないか自分には無いものを人は常に求める。それは便利な生活をもたらす物質だったりするが、それを望む方向そのものが、近い将来に弊害をもたらすものである事を見ようとしないのはなぜか。それはマスメディアによる先進地からの一方的な情報に惑わされたり、最終的に同じ立場に立たないと他人の立場は理解し難いからではないだろうか。
もちろん今の私には昔の人々の大変な生活はもはや想像すら出来ないが、全く苦労を伴わない生活は人の内面に何等かの影響を及ぼすと思う。今の時代は生活を楽にしようとする欲求だけが余りに多く、苦労の末に手に入れる充足感を忘れてしまっている様に思えてならない。緻密な手仕事は、お金だけで価値を計れるものではない筈だし、今迄連綿と受け継がれて来た文化と知恵を、ここで切り捨てる方向を選んでも良いのだろうか。確かに、奥会津の冬は厳しい。しかし厳しい冬があったからこその恵みは、その厳しさを優に越え、からむしのみならず奥会津の文化を守り、培って来たとは考えられないか。
からむしを含む奥会津の文化は、今迄、日常の中で、当たり前の事として受け継がれて来た。しかし、今の時代はそれを日常として継承して行くのは不可能に近い。ならば、その不可能を試みている事に日本人としての誇りを持って生活して欲しいと思うのである。

 

お話を聞かせて下さった方々
(後でこちらで入れます。間に合わなくて申し訳ございません...)

「奥会津」の作品募集〜入選作品第1校〜


2000.2.10作成