タイトル:会津遊学
執筆者 :飯尾 満・青山友雄
一 はじめに
一九九二年八月七日午後、前沢集落始まって以来という大惨事が起こった。突然、空が暗くなり、雷とヒョウと突風が、まるで何が起こったのかわからないくらいに同時に集落を襲ったのである。
玉子大くらいあったとも言われているヒョウは、集落にある曲家資料館の障子にも穴を開けた。この穴から推測すると玉子大というのは少しオーバーであると思われるが、約三キロメートル離れた水引集落にいた知人は、東の方はまるで湾岸戦争の様だったと表現している。とにかく物凄い音で、村の人は恐ろしくて家の中で震えて拝んでいたほどである。
少しおさまって、樹齢八〇〇年、高さ三〇メートルといわれる大杉の前に住んでいる人が玄関に出ると、辺りがいつもより明るくなっており変だなと思ったそうである。この時に、直径三メートルもある大杉が前の家を押しつぶして倒れているのが発見されたのである。気の毒なことに、病床のジイサマは大黒柱の下におしつぶされて死んでしまい、ちょうど看病に来ていた娘さんは骨を折って入院したという。
この原因は不明であるが、とにかくこの信じられない民話のような出来事が起きたのである。
一方、我々は、この大惨事の一三日前に、倒壊した民家に隣接する家を借りる契約をし大掃除と引っ越しをすませていた。借りるといっても、常住するのではなく、年間を通して魅力あるこの地をサークルの行動拠点として、自然と対峙しての自己研鑽の場にしようというものであった。我々の借りた民家は、大杉の枝で茅葺き屋根の一部に穴をあけた程度ですんだが、雨漏りするので急遽萱を葺き替えなければならなくなってしまった。
二 なぜ館岩村なのか
館岩村には、一九八〇年頃から毎年のように友人と遊びに来ており、鱒沢渓谷における渓流釣りやキャンプを通じて美しい自然を満喫してきた。東京から三〇〇キロメートルと遠いようだが、自然豊かな水の飲める川という条件を満たす中でも東京に最も近いのが舘岩村なのである。初めて鱒沢渓谷を体験した私は、きれいな渓流、美味しい水、ブナ・ミズナラ・シラカバなどの美しい雑木林、野草、昆虫や野鳥そしてイワナなどの魚類等が織りなす風景に、初めてこれぞ自然というものを見たと思った。子供達を連れて来たいと思い、毎年五月の連休には四、五家族によるキャンプを張った。
一九八六年、縁があって大学に奉職することになった。私の専門は住居計画であるが、勤めた学部は農学系であった。当然、学生は自然に関して興味があり、知識もある筈だが、門外漢の私の方が詳しかった。受験戦争を戦った学生達は、遊び方を知らないばかりか外にあまりにも出ていないので、未消化の知識しか持っていないと見えた。自然とのやり取りなどは受験には不必要であり、親も、子供が机に向かっていれば安心してしまい、自然のシステムを体得させる努力に欠けていた。
このような傾向は、東京のような身近な自然が少なくなってしまった過密都市では無理からぬことかも知れない。いや、それだからこそ、自然のなかに連れ出す必要があると思えた。このような状況のなか発奮して、その年、アウトドアーのサークルをもう一人の理解あるヤマ男の先生と創設した。学生達を机上から外に連れだし本当の自然を体験させることにより、人間の考えること全てを自然の尺度で判断することができるようになるものと考えたためだった。
ヤマと聞いて飛びつく学生達は多くはなかったが、少人数のほうが好都合であった。最初のキャンプはもちろん鱒沢渓谷に張った。川の水が飲めるということは、学生にとって初体験で信じられないことだったらしく、彼らは驚きを隠せなかった。帰路、だんだんと下流に近づくにつれて、よごれていく川を見る学生の目が何かを感じているのがわかった。好都合にも化学系の研究室に所属している学生もいたので、水を採取しパックテストを行い美味しい水についての考察を行ってみた。この時以来行く度に水の調査をするとともに、授業で毎年行われている水質テストにも特別に加えてもらっている。なお、その評価は、市販の水をおさえトップクラスに入っている。
三 前沢の借家
同僚の先生は、「これまでに三つの山小屋をつくった経験があり、この村は、釣りやキャンプ以外にも、会津駒ヶ岳、田代山等のトレッキング、冬のスキーなど一年を通して活動できるし、それに温泉もある。そして何よりも我々好みの自然がある。こういう環境で学生達と話しがしたい。」とし、サークルの拠点となる借家を真剣に探すことになった。休日ごとに館岩村を訪れ、村中をかけ回り、多くの人に出会って我々の目的を話した。
一年ほどの間に十数回訪村し、ついに役場の方より前沢集落に空家があるとの情報を得た。前沢集落は、曲家の集落として村でも修景に力を入れ始めていた地域で、全二三戸のうち一〇戸が曲家で、ほとんどが萱葺きの民家であった。紹介してくれた民家は、集落のはずれに位置し、一九五三年頃に建築された比較的新しい民家で、曲家ではないが広い土間と囲炉裏が二ケ所、延べ面積も四六坪と大きさも手ごろで、痛んでいる萱さえ二、三年内に葺き替えれば、我々には何とか手におえそうだという実感があった。なによりも火の焚ける囲炉裏と萱葺きが魅力的だと思った。
小屋は、大学で管理する方式はとらずに、自主運営が出来るようにサークルのOBが会を組織しOB会と賃貸契約を結ぶ方式をとった。経費の問題はあるが、この方が責任もあるので、小屋運営について緊張感が生まれると考えた。予想通り活発な討論等を通じて会そのものが活性化した上に、OBと現役学生との交流も生まれた。借りてから7年になるが、毎年の延べ泊人数は三〇〇〜四〇〇泊人、冬仕度の秋ワークの時などは三〇名を超え、勢揃いすると集落の人数よりも多くなるとの笑い話しもある。
残念なことに、現役の大学生達は、遠いことと学校があるので夏期や冬期の休みにしか連れて来られないが、あまりにも都会的でないことと虫嫌いのため何人かは拒否反応を示す。
都会的でないことの典型的な事項として、携帯電話がつながりにくいことが挙げられる。我々の年代層には信じられないことかもしれないが、携帯電話が友達との日常の大事なコミュニケーションである女子学生にとっては、電波のとどかない会津(我々としては、都会ではないことを会津に求めたので、いつまでも開通しないで欲しいと願うが)に三、四日も行くことは、友達関係に支障をきたすとか、あるいは社会から取り残されると思っている若者が都会では増えてきている。また、都会では全ての虫が排除される傾向にあり、虫は害だと思いこんでいる都会人が増えてきている。それでいて、何が有機栽培の野菜だと叫びたくなるが、とりわけ幼児期の家庭での虫に対する考え方が影響されていると考えると、親の顔が見たくなってくるような神経質な学生が増えている。
目的意識があって入部した我がサークル内だけだから、こうした拒否反応者は少ない方だが、都会育ちの大学生に調査したら驚くべき数になるだろう。
こうしてみると、このような現代都会派学生達の拒否する部分が、これからの会津に残したいことと考えられそうだ。
四 村に何が返せるのか
ようやく、三年目に入り、我が小屋のトイレ改装や鍋釜類の備品類も整い、小屋生活も安定しはじめた頃から、「我々は村に何が出来るか?返せるのか?」が、たびたび囲炉裏を囲んでの話題になった。村税を納めているわけではないし、来る度に村におとすお金は少量(試算によると年間で六〇万円程で家賃、汚水処理費、電気料金、火災保険、薪代、食料雑貨、土産、ガソリン代等である)であり経済効果もないので、村から恩恵をこうむるばかりではよくないということになった。東京で毎年開かれるOB会総会でも議題にあがり、顧問二人もああだこうだと時あるごとに議論している。こうしたせっぱ詰まらない事項の結論はなかなか出にくいが、酒を飲みながらの会話はしだいに、村つくりの方向につながっていくことが多い。
小屋を借りる時も、大家さんは、私達夫婦は身体が弱いので、雪下ろしが楽なように、今度屋根を葺き替える時は、萱の上に鉄板をかぶせたいという考えを持っていた。鉄板にするのなら借りたくないなどと、雪おろしの大変さも知らずに萱葺きを強く要求したこともあって、その結果として囲炉裏で薪をたく(いまでは前沢で裸火を炊事に使っているのは我々のみと思われる。そして囲炉裏の煙りが萱に染込んで萱を長もちさせるという)ことが出来るし、雪下ろし、薪の調達、薪割り等の作業体験も出来る。囲炉裏のメニューもたくさん考えられ、火を囲んでの会話は楽しく朝方まで続くこともしばしばある。
借りて間もなくの萱葺き替えの下走りの手伝いはめったにない貴重な体験であったし、何よりも村の修景に協力出来たという意識が最初のころから会員間に根づいたといえる。
話しのなかでのおもだった提案は次の3項目に大別される。なお、*印が付いているものはトライ済のものである。
(村の人達と関係すること)
我々の小屋で音楽会を開く
バーベキューパーティを開く
蕎麦打やきのこ取りを教えてもらう
コンピュータ教室を開催する
同じ年齢層の人達と話す(*
村の行事に参加する(*
(村の修景に関係すること)
我々の小屋の修景を行う(*
前沢の修景について提案する(*
集落内の空き缶をひろう
観光客相手に集落を案内する(*
観光客相手にアンケート調査を実施する
我々のゴミは全部持ち帰る(*
修景民家を調査するとともに図面化する(*
(村の情報活動に関わること)
大学の学部祭で館岩村のポスターを展示する(*
大学の学部祭で赤カブを販売する(*
サークルのホームページに館岩情報を載せる
小屋で他大学の学生と交流する(*
テレビや雑誌等で活動を紹介する
外国人や知人を積極的に連れてくる(*
以上のように、すでに行っていることから、準備中なもの、実行には困難なもの、時間がかかるものと、いろいろ挙げてあるが、我々の村に対する方向が表れている。ここでは、その中でも印象に残っている取り組みについて触れてみたい。
(村の人達との交流)
この項目は、一番難しいと感じているチャンネルで、いつも二、三泊しか出来ない我々にとって、渓流にも入りたいし、山登りもしたい、冬にはスキーもしたいと自然相手の行動メニューがたくさんあって、村の人達との交流はなかなか実現はしない。
そのような中で、毎年秋に開催されるゴーマン杯ふるさと健康マラソン大会には第八回大会から有志が毎回参加しており、小屋には木製の立派な楯が八つも飾ってある。村民とのコミュニケーションの場というより、情報の場としての色合いがつよい。
三年程前から役場の紹介で、村の青年達がつくっている二一人会というグループと交流が持てた。来ていただいた四名の青年達は意外にもいま東京で起こっていることを、知りたがっている様子はまったくなく、大勢の女子大生が居たからかもしれないが彼等の前沢での生活がいかにおもしろく、そして大変であるかとかの話が多かった。さらに、館岩村をどうしたらよいのかなどの意見も聞きたかった様子だった。
小さな集落の隅から隅まで、家の内々まで知りつくし、箸の置き方まで知っているという彼等に、都会人の我々は大きな驚きを感じたし、ある面でうらやましくも見えた。我々をさらに深い自然へと案内しているがごとく夜更けまで話し込んだ。会話の中で、蕎麦打の話がでて、次の日、手ほどきを受けた。
(小屋の修景)
前にも述べたが、茅葺き屋根を残したということが、我々の出発点となっているので、次の行動は、資金繰りさえつけばと考えていた外壁の改修だった。前に住んでいた方がお年寄りであったこともあって、雪囲い用に外周すべての板壁の上にナマコ鉄板を張り巡らし雪から建物を守っていた。これが釘で止めてある為雪解け後も外されないので、景観上好ましくはなかった。
一九九七年、資金にもめどがついたので、大家さんに許可を得て、この建物を当初の姿に戻す為、杉板を上張りし壁上部の土壁部分の左官も塗り替えた。工事費用の三分の二は補助金でまかなったが、七五万円ほどかかった。
月日がたつにつれて、杉板の色が変わりしだいに風景に溶け込み、違和感はなくなった。我々の行動を役場の人達は賛美してくれ、見て見ないふりだった集落の人達が我々に関心をもってくれたらしく、以前とは異なった見方をされているように感じられてきた。
今年作られた「前沢の歩き方」という地図の入った観光パンフレットに載った一四軒の民家に挙げられて以降、訪れる人が多くなり、カメラに納める人も増えた。
五 役場への手紙
一九九六年一一月、我々は村の修景のことに関して館岩村役場あてに一通の書簡を出した。
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一九九六年一一月一四日
館岩村企画観光課長殿
館岩村前沢 日大コロボックル前沢小屋
日本大学短期大学部 助教授 青山友雄
同 飯尾 満
拝啓 本年もひと月ちょっととなり、さぞかしお忙しいこととお察し申し上げます。日頃、前沢集落の我々の活動にたいし、ご理解、ご協力いただき感謝申し上げます。
平成四年の夏に当時の観光課長であられた大山さんと館岩工務所の芳賀社長、本学の青木志郎教授のお骨おりで、当地の民家をお借りしてから早いもので四年が過ぎ、多くの学生(記録によりますと延べ泊人数は一三〇〇泊人を超える)が萱葺きの民家のすばらしさに感動し、また館岩村の豊かな自然や温かな人々に接し、多くのことを学びとり、教育の場としてもかけがえの無いところとなっております。その間、前沢集落も環境整備がすすみ、駐車場ならびにバス停小屋、下水道と浄化装置や、蕎麦圃場の整備、建築中の蕎麦実演小屋、それにともなう観光客の増大やポイステのゴミ等、訪れる度に変化していく環境に戸惑いをかくしきれませんが、しだいに、自然と住まいとの共生が唯一の観光資源である前沢集落が何か大切なものを失っていくように見えてきました。「やむをえないのかなー」と学生達も考え始めました。観光客も何か物足りなく帰っていきます。ハーブガーデンには都会人は感動も覚えず、そして自然に逆らって植たために全滅してしまいました。先日も観光に来た親子が我々の囲炉裏で炊事しているのを見て、家の中で火を焚くことにおどろいていた様子で、しばし帰,,,ろうとはしませんでした。集落にひっそり咲く野草を見つけ写真におさめている人多くみられます。訪れる多くの人々が真の自然を求め当地にやってくるのではないでしょうか。
今月の三日に冬支度のため学生達と小屋を訪れました。今年の紅葉はとてもきれいでしたが、ひとつ気になることが起こっていました。観光課の方もご存じでしょうが、我々の小屋の前の小川に、河川改修計画の地縄とみられるテープが張ってあったのです。五月に訪れた時、測量している方がいて、お聞きしたところダムをつくるらしいとの返事でしたので計画が予測できるのですが、ほんとうなのでしょうか。あの小川の水は前沢でもっともおいしく、雪解けの福寿草、五月にはかたくりの群生、その後の水芭蕉、蒲穂の群生、いわな、たぬきそして鳥類など自然豊な我々のもっとも気にいっているところなのです。もし、計画が真実なら誠に残念でなりません。関係当局の必要あっての計画ですから、異議は申しませんがもし改修する場合、ひとつ注文がございます。
*数年前に作られた前沢集落の北の河川(ハーブガーデンのそば)改修のような自然と対立するような計画は絶対やめてほしい。
*自然復元出来るような(ビオトープ)型の計画(例えば小動物や昆虫類が生息できるよう、河床はコンクリートとせず自然土とする。中州、浅瀬、淵をもうけ、護岸も可能な限りコンクリートはもちろん石積みも極力おさえ、自然斜面とした生態土木工法が望ましい。もし石積みを行う場合はすきまをつくる工法にする)
*工事用道路の仮設にも自然に留意して欲しい。また完成後には道路をつくらず自然のままとする。
以上かってな注文をならべ失礼とは存じますが、貴重な自然資源を保護して、自然豊かな魅力ある館岩村が存続することを願う上でとご理解いただき、関係当局にご提案いただきご検討願えないでしょうか。なお、ビオトープについては青木先生はじめ本学生物資源学部の勝野先生、糸長先生も研究されておりますので、何かと協力できるかと思います。
末筆ながら、皆様のご健勝をお祈り申し上げます。敬具
追伸 別紙のコピーはドイツでのビオトープの参考事例です。
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(原文のまま)
この一通の手紙が思わぬ方向に進んだ。工事計画の見直しをしてくれたのだった。北側にあるコンクリート護岸のような河川改修がストップされそうなのだ。
いまだに着工していないので、どうなるかは不安だが、翌夏、我々が小屋にいた時、大学の先生がお見えになって、出来る限り君たちの考えを取り入れた絵を描くといっておられたので安心した。その後、この河川改修は不必要なのではという話も聞くが、それからは何の連絡もない。こうした我々のような、外部の者から意見があったことが、役場の中でもかなりの出来事だったらしく、特に若手の職員達には歓迎されたらしいことを、後になって聞いた。
時折、ソトモノの我々の行動は村にとってプラスなのかマイナスなのかわからなくなる時がある。そのとき自然資源の保護こそ共通の目的であるはずだと自らに言い聞かせている。
六 大学生の環境教育の場に
水の飲める川に学生達を連れ出したいという当初の目的から、六年後に前沢集落に拠点を設けたことによって、人と自然との共生という次のステップに入ったといえる。
都会では身近な快適な自然環境が求められ、公園や野原の緑さえあれば“自然”と認識している人が多いが、この館岩村のように、厳しい自然環境と共生してきた姿こそ、これからの日本を創っていく学生達には原点として見ておいて欲しいと願っている。いや、見ておくだけでなく、ここでの生活を体験して彼等の体に染込ませておいて欲しい。
その自然との共生の尺度さえ持ってくれれば、人間の考えることすべてについて、大きく道はそれないだろうと考えるからだ。自然風という偽ものの自然では感動も本物ではないのだから、原点にもならず、なにを尺度にしてよいか迷い、あやまった方向に行く可能性がある。豪雪の中での生活を体験し、生活の原点として川の水の飲めるところで野営をし、萱葺きの民家で火を焚いてみると、原点が少し見えてくる。
自然を克服するなどの考えは持たずに、どう自然とつき合っていくのかが、この地にはいたるところに描いてあるし、体験できる。原点さがしの場として、この館岩村は好適地だと思う。
我々の七年間に館岩村は早い速度で変貌してきたと書いた。残念だが悪い方に変わってきたと考える。
単に観光客を増やす目的であるフツウの観光地をめざしてしまったからだ。その為に通りがかりの無関心な人がやってきて、村の共生のシステムを乱してしまった。ダンゴ屋もなく土産屋もないこの集落に、つまらなさを感じ、二度とこない彼等になんでサービスをしなければならないのだろう。集落に不釣り合いの飲料水の自販機はどれほど彼等から稼ぐのだろう。ポイステの空き缶が増え、川に投げ込む人も現れてきた。六月の観光客目当てに植栽されている菖蒲園も村民が一列になって雑草を抜くという大変なエネルギーを提供して管理しており、花はきれいだが、ほんとに何のためにやっているのだろうかと疑問になる。なぜここで人工的なことをやらなければならないのか、別の場所でやってくれよと叫びたくなる。
極言すれば、自然との共生があれば、あとは何もいらない。そのことを資源として、理解ある人だけ来ればよい村を目指すべきだ。何もなくてもよいということと、何もしなくてもよいとは異なり、村は自然との共生をテーマに腰をすえてゆっくりと発展すればよく、村民を昔の姿にして観光客に媚をうる必要もない。観光資源を新たにつくって、観光客を集めるようなことは、この村には向いていない。大変な試行錯誤がいるが、多くの村ように自分の顔を失ったフツウの村になってしまわないよう努力すべきだと考える。
例えば、村民のエネルギーはこうした村を理解してわざわざ来てくれた人に対して、生活を実体験させる手助けに注いで欲しい。訪れる人は個人の場合もあるだろうし、学校のような集団であることもあるだろう。夏期のみでなく冬期もあり、短期間から長期に渡る人まで、いろいろなケースが考えられる。自然のフィールドで自己研鑽の拠点さえ用意できれば、あとは何とかなるはずである。いまある多くの民宿のように観光客相手のやど屋ではなく、館岩版ホームステイといえる、いまある民家を利用した生活の実体験のできる本来の民宿が出現することが望まれる。役場はこうしたシステムの構築を考え支援する必要があると考える。
こうした、村で仕掛けるフィールドと平行して、我々のようなグループに空家を提供(賃貸)することも、村を活気づけていくとと考えられる。村づくり、建築、環境等に関係ある学部や学科、サークル、ゼミなどに募り、彼等の行動の拠点としてのみでなく、それらのネットワークを創ることによって、村を面白く出来ないかと考えている。村民にとっても、学生にとってもプラスになるような交流も可能であるだろう。しかしこうした試みには、サークルごとにしっかりとした指導者が必要になってくるのでなかなか難しいが、厳しい自然はすばらしい指導者を選んでくれるに違いない。