「奥会津」の論文募集-入選作品7


タイトル:奧会津を理想郷にする方法
執筆者 :坂本知忠

 

一 奥会津との出会い

今から三〇年も前、南会津・奧会津と呼ばれる地方に心ひかれて、村々、山々を尋ね歩いたことがある。山村民俗や村々に伝わる伝承を調べて紀行文を書くためだった。その頃、二〇才代前半の私は旅行作家になりたいと思っていた。
当時、五万分の一地図や二万五千分の一地図を広げてみると、南会津駒止高原山地(登山家の間で舘岩川、伊南川、只見川、大川に囲まれた山地をそのように呼称した。)の山壁深く小さな集落が点在しており、小さな集落と集落を結んで峠路が四通八通していた。
中でも最奧の小さな山上集落の成立過程に興味を持ち、小さな峠を越え山村集落を尋ね歩く旅をくり返した。こうした旅は奧会津地方全域に及び、「新編会津風土記」の記載にひかれて、昭和四三年夏、会津高田町の奥地海老山峠を越えた山上集落海老山を手始めに柳津町最奧の久々明、遅越渡などに泊めて戴いた。銀山峠に近い市野や久保田等の集落を尋ねたこともある。昭和村では大芦や小野川が好きな集落だった。
大水害があった年、昭和四四年秋、只見町の布沢川を遡って戸数三戸の山上集落、吉尾の小林文雄さん宅に泊めていただいた。
田島町の吉野屋旅館は「民俗探訪の旅」の根拠地として常宿にしていた。舘岩村の山本屋旅館もたびたび投宿して、故・阿久津政吾さんからいろいろな話を聞いた。
下郷町戸赤地区の木地小屋、小倉清光さん宅は木地屋の歴史や民俗を調べるために何度か泊めて戴いた。そのころ大内宿は世に知られておらず、冬にこの江戸時代さながらの宿場集落を訪れたとき、周囲をとりまく山々と村の景観が融け合い実に美しい趣きをみせていた。 当時はまだ民宿と呼ばれるものがなかったから、行商人相手の木賃宿か、奥地の集落では民家にお願いして泊めてもらった。突然の訪問にもかかわらず心よく各地の民家に泊めて戴いた。昭和四三年二月、下郷町赤土という戸数六戸の集落の室井長吾さん宅に泊めて戴いたことが特に印象深い。長吾さん宅は赤土で一番古い建物だった。家の中はまったく江戸時代のような趣きだった。朝起きてみると、どこから入り込んだのか、寝ていた布団の上に薄すらと雪が積もっていた。
奧会津の村々を歩くうち、木地師の話と高倉宮以仁王の話を各地で良く聞いた。
木地師の話は歴史的事実であり専門的研究者もいた。だが以仁王の話は単なる伝説にもかかわらず史実と混同されてしまっていた。どうしてこの伝説が広く奧会津各地に流布しているのか疑問がわいて、伝説の採集をしたこともある。後日わかったことだが以仁王巡幸の伝説は木地屋の“飛”と関係した創作であろうと民俗学者の柳田国男は指摘している。

昭和四六年、舘岩村保城の木地屋集落跡を高杖原に移住した持主の小椋新助さんより借地して山小屋を建てた。この小屋は今でも健在で登山仲間に使われている。その保城小屋を根城に南会津の主だった山に登った。
静かで趣深い南会津、奧会津の山々に登る旅、細々たる峠路をたどる旅を繰りかえしてゆくうちに、奧会津地方が本当に好きになった。

そんなとき昭和六二年、売却に出されていた県重要文化財民家である長谷部家住宅(只見・叶津番所)に出合った。
昭和四〇年代、五〇年代の二〇年間で、茅葺民家の立並ぶ奧会津の美しい集落の数々は消滅したと云ってもよいが、最後の砦とでもいうべき奧会津地方最大規模の古民家迄もが存続の危機にさらされていた。持主の長部保信さんは夫婦二人きりになって現代生活に適合しなくなった民家を売却して、別の敷地に新しく家を建てようとしていた。
私はこの建物をどこにでもあるような資料館的な見せ物だけの文化財にしたくなかった。できれば人が住み、いろいろ活用しながら保存してみたいと考えた。この建物は奧会津の歴史と文化の象徴である。この建物に新しい息吹きを吹き込みたいと願った。
そのような思いが通じたのか、何人かいた買受希望者の中で、私が叶津番所を買わせていただけることになった。
その後、平成元年に復元工事をほどこし、保存するための一つの方法として会員制の別荘クラブとした。別荘クラブの運営をしながら同時に様々なイベントを企画し活用方法を探ってきた。
このような建物は一部の人が活用することでなければ宝の持ち腐れと云わざるを得ない。残念ながら文化財民家の多くは博物館となってしまった。資料館、博物館としての活かし方しかできない多くの自治体の取組に意義を持っていたので、金儲の事業としては失敗するかも知れないが、文化財保護を民間でと、あえて取組んだのが叶津番所の保護と活用であった。
叶津番所の保護と活用を一〇年以上継続して解ったことは、文化事業は金にならないが、『心を成長させ、精神を豊かにし、生きる喜びと生きがいを与えてくれた』ということだった。会員制別荘クラブとしての運営は必ずしもうまくいっているとはいえないが、精神的充実があったからこそ、私財を投入し今まで保護活動を継続できたのだ。
今でも年間二〇回位、奧会津方面へ出かけるので奧会津の良さと欠点、そして首都圏の良さと欠点が少しは見えて来た。
そのような観点から奧会津地方をどのようにすれば活性化し、理想郷となるか自論を述べたい。

 

二 奥会津の活性化に向けて

奧会津地方は豊かな観光資源に恵まれているが、周囲を有名な観光地、日光・那須・裏磐梯・尾瀬などに囲まれているため、その魅力が埋没してしまっている。他に比べて今まで交通が不便だったことと、都会に向けてのアピール不足、マスコミの取りあげ方などにも起因しているかもしれない。近年になって有名でないけど魅力的な奧会津の山々に注目する登山者が増えてきた。奧会津の活性化には旅人や登山者を惹き付ける地域としての奧会津にするのがいいと思う。
中山間地域に位置する奧会津に住んでいる人は、自分の住んでいる村、毎日見ている山の良さが、あまりにも日常的であり、情報網と視点が外部に向っているため気付かないことがある。良いもの美しいものが身近にありながら見落していることが多い。外来者から指摘されて、あるいは一度村から出て生活したり、海外旅行をしてくるなど客観的視点から見ないと、その本当の良さに気付かないものである。日常生活のほとんどが自分の思うように展開しない為に、人間は苦悩しているが、その原因の大半が自己をとりまく環境のせいにして、環境の欠点だけを見てしまからであろう。
私は若いころから今までに、いろいろな国を旅してきた。ネパールへは三回、インドへは九回、バリ島、ランカウイ島、イタリア各地、スペイン、オランダ、トルコ、マダガスカル島、セイシェルズ諸島、スリランカ、デンマーク、リトワニア、ラトビア、パキスタン、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、ボリビア、ブラジル、ペルー、アメリカ合州国、中国シルクロード地方、等々である。旅人の訪れが少ない辺境の地も好んで旅してきた。そのような経験から魅力的な観光地は個性的だと云える。
そこで、奧会津の再生には他のまねごとでない奧会津のユニークさを生みださなければならないと思う。

他にまねできない奥会津の源泉として想い出されるのが、美しい集落である。私が駒止高原山地の峠や集落を尋ねる旅をくりかえしていた三〇年前迄、そこにはまだ美しい集落が残されていた。そこに住む多くの人が誠実に勤勉に生活しているようだった。旅する若い私には喜びと感動があった。
しかし、日本の経済発展と共に奧会津から美しい民家が消えていった。トタン屋根の色彩が、赤、青、白、茶、シルバーと勝手に自己主張し、ゴチャゴチャになり醜悪になった。バラバラになったトタン屋根の色彩は集落に住む人の心が、バラバラに自己主張しているようでとても厭だ。世界中見ても屋根の色彩がこのようにメチャメチャに醜いのは奧会津地方だけのような気がする。それは軽薄で心に喜びのない、感動のない風景だ。
かつて美しかった所、美しい集落、趣ある峠路、美しい風景の憶い出を尋ねて、今、同じ所にくると全てが悲しい。トタン屋根のゴチャゴチャになった色彩と、芸術性、美意識が完全に欠落した公共工事によって不要なところまでコンクリートで固められていてガッカリする。奧会津の風景から伝統が失われ精神性、文化性が失われてしまったのだ。

では、どのようにしたら、失われてしまった精神性・文化性、それらに支えられた美しい集落を取り戻すことができるだろうか。
奧会津九町村の連合体が各々に、実験的な試みとして、一村で一つの個性的な文化村(集落)を作り、都会からの移住者を受け入れ定住してもらうことにしたらどうだろう。一つの文化村の規模を五十家族位とし、定住してもらう人の条件として、自給自足的生活を望む人で、さらに芸術や文化の愛好者、あるいはその創作活動のできる人とする。
少数派かも知れないが、そのような人は必ず居るものである。現に日本中にそのような価値観を持った人が増えて中山間地域に移住し定住しはじめている。だが、現在起こっていることは単独移住であって集団移住になっていない。
文化的活動が個々に独立したものであると一人では限界があって、他にアピールできない。同好の志がある程度まとまって、一つの共同体に近い集落を作っていくと、いろいろある問題が解決してうまくいく。本郷焼の窯元が集まっている、そのような芸術文化の地域をイメージしてもらうとわかりやすい。
都市圏から文化人が中山間地域に移住して来たとしても一人で懸命に活動してもなかなかうまくゆかない。近くに同好の志がなければ周囲で孤立し、結局は失敗して都会にもどることになってしまうだろう。それが、若者が都会に惹かれ村を出ていってしまう最大の原因なのだから。
同好の志が近隣に居れば、それが五〇軒程度まとまっていたら、そこが理想郷になる可能性がある。集積効果と相乗効果できっとうまくいく。そこに住む人は、たとえ金銭的、物質的に恵まれていなくとも、文化的、精神的なものに価値観を置く住人だからである。そういう人は確かに少数派かも知れない。その少数派の人達に定住してもらうことが、奧会津から人間復興、文芸復興のルネッサンスを起すことになる。
中山間地域は経済活動に適さない地域である。ここを金銭経済の場にしようとしても大都市圏にはかなわない。金儲けとしてだけの活動を中山間地域で行なおうとすると失敗することが多い。今、中山間地域で儲かっている企業は公共投資事業関連だけといってもよい。それがコンクリートで山や川を固め景観を醜悪にしている。
中山間地域を豊かにするポイントは、金銭経済ではなく文化の拠点にすることにある。文化はムダとかゆとりの中から生れるものだ。中山間地域は文化芸術活動の場とすることで再生の息吹きを吹き込むことができる。
日本経済のバブル崩壊後、不況感が深まり企業のリストラもおもいきったものになってきた。このような世相であるから、都会に住む人の中で物質に恵まれた贅沢な生活の追求に限界と疑問を感じる人が増えて来た。企業間の競争が熾烈になってきたため、人間らしくゆとりを持って自由に生きたいと願いながら、ビジネスマンの多くを不自由にし、奴隷のような生活だと感じさせている。人間らしい精神的に満された生活がしたい、自分が本当にやりたいこと文化的な活動をしたいと真剣に考えている人も居る。そうした人は、地球環境を保全する上でも地方に住みたいと考えはじめている。
このような人に奧会津にまとまって定住してもらい、そこから日本文化のルネッサンスを起すことが、今、必要な施策であると思う。
例えば彫刻家、彫刻を趣味とする人、彫刻をやってみたいと思っている人達だけを集めて一つの集落を作る。今ある集落を活用しても良い。規模としては、最低三〇家族以上、五〇家族位までのものがうまくいく。その集落に住む住人は、彫刻という共通の芸術文化を愛している同好の志である。人間は同好の志の集まっている所にいると楽しいものだ。これが地域住人の強い絆になる。

 

三 どんな村、どんな集落を作るか

ここでは、このような集落のイメージ・規模と、そこでの人々の生活について記述してみたい。

(イメージ)

旅人がこんな美しい村や町に住みたいと思うような地域を作る。少人数でいいから、常に特定な文化に関心ある人をひきつける場所であり、自然豊かな中に人々が定住していて、そこから精神的な文化と芸術が生れる集落である。
集落に住む人にとっては喜びある人生を送れる場所としての村であり、役所や他人任せにしないで自から創造的に生きる住人が強い心の絆で結ばれた村である。一芸に秀いでた人達が集まっている村であり、自給自足的生活を望む人が集まっている村である。

建築物が自然景観と融合した美しいものであり、外観や色彩が統一された一団の住宅がまとまって建っている集落である。集落までの道路はジャリ敷の未舗装が望ましい。なぜならアスファルト舗装が景観と合わないからだ。仮にメイン道路をアスファルト舗装としても集落内の路地や広場は石畳や、ウッドタイル敷とする。擁壁は自然石を築み上げて石垣とする。
住人は集落近くの登山者を常に整備し、森の手入れと維持管理をしっかりすべきである。このような活動に対し自治体は予算を充分につけるべきである。

そのような美しい精神的な村があったら住んでみたい。又、行ってみたいという人は都会に沢山居る。文化のある所、哲学のある所は常に都会人の関心を集めることとなるだろう。来訪者が多く訪れれば金銭的にもうまくいく。しかし、あくまで文化村での活動は経済的活動や金儲けではないのだから、地域でのユニークな文化活動を怠ってはならない。金にならないようなことにこそ価値があり、それに都会人は魅力を感じるのである。

(集落の規模)

文化村の規模は五〇戸位の集落が望ましい。どんな山奥でも、五〇戸程に集落がまとまっていれば相互秩序の精神も発揮される。また、学児就学の問題なども解決しやすい。

各町村は、都会人に定住してもらう施策として、一戸当り一〇〇〇坪の土地を分譲する。一〇〇〇坪と考えたのは、なるべく各戸が自給自足的な生活をし、金銭経済に組み込まれないためでもある。既存集落を活用する場合は、一千坪の土地を付けられないかも知れない。その場合には、近くに自給自足用の田や畑を賃貸等の方法で斡旋する。
一〇〇〇坪の土地を総額一〇〇万円程度の低価格で分譲する。これなら都会人にとっても魅力ある値段である。損することは民間企業には出来ないので、自治体に施策としてやってほしい。人の住まないような山奥の地価はたぶん坪当り三〇〇〇円位であると思うから、一軒当り二〇〇万円位の出費となる。戸数五〇戸の集落を作るとして、町の予算としては一億円程度と考えられる。又、道路(未舗装でかまわない)建設、水道や電気の敷設なども、自治体の負担となる。水道は自然水を使える所であれば自然水でかまわないし、むしろその方が文化的に面白い。電気を引くことも必ず必要ではなく、新しい方法で必要な電気を作り出すことなどもユニークな集落作りに欠かせないと思う。

文化村を作るという施策が仮にうまくいかなかったとしても、昨今のムダな公共投資事業に比べればたいした予算でもないし損害も少ない。失敗するより成功する確率の方が高いと思うから、成功すれば地域がとても明るくなる。文字通り日本文化、山村文化ルネッサンスとなる。もし一集落に五〇家族の文化人の定住が実現すれば、その中に世界に通用する一流の文化人が生れる可能性がある。その人は、必ず世界中から人々を奧会津にひきつけるであろう。

奧会津の豊かな自然の中に、精神文化が発達する。それは、新しい中山間地域の発展のモデルであり、それが全国的に広がって、日本の国土の隅々に生きがいを持った人々が生き生きと生活することとなれば、今までとはすっかり違った健全な社会現象が生れる。
奧会津全域で、一斉に四〇〇〜五〇〇家族を定住させる。定住がうまくいけば、旅行者や集落での滞在者も増え、旧住民が自分達の郷土を新しい視点でみるようになり誇りを持つようになる。

(どのような集落をどこに作るか)

金銭経済でなく文化・芸術の創造活動をしたい人々を都市から受け入れ、定住してもらうために、まず各集落を明確に定義し特徴をもたせる必要がある。定住者として想定される文化人を一定のグループとしてとらえる。次に、各町村で地域的特徴を生かして文化村の基本コンセプトを作る。これには九町村での調整が必要となるだろう。
ここでは、私の試案として、別図のような芸術文化定住村構想を提案したい。
◇柳津町
久保田の集落には民家、倉、石垣、路地などが趣き深く残っており、起伏する地形、集落をとりまく風景が桃源郷のイメージにピッタリである。ここは、奧会津の原風景としたい。◇金山町
沼沢湖周辺がハイランド的で風光明眉だ。将来有望な観光地となりうる所であるが、このあたりに音楽と合唱の村を新しく作る。都会から音楽家を五〇家族位集めて定住する村とするのが良い。◇三島町
近年、金山町など只見川に沿って石材業がさかんになってきている。町のどこかに石彫芸術家や宝石研磨職人だけを集めて石彫芸術家の村を作るのはどうだろうか。◇昭和村地場産業である家具造りやこけし作りの職人、盆や椀などを轆轤で挽く木地師等による木工芸術家の村、「からむし織の里」の内容を拡大した手織物や染色等の芸術家を集めた村が考えられる。◇只見町五札という字の景観はインドのリシケシに似ており、ここを日本のリシケシにすることも考えられる。そのためには、ヒーリング、アロマテラピーなどの研究家に定住してほしいものである。◇南郷村南郷村には、地球環境にやさしい生き方実践の村を提案したい。自分が食べる物は自分で作りたいという価値観や考えを持っている家族を五〇家族定住させれば、二一世紀の新文明が起ってくる可能性がある。◇伊南村剣道の村というイメージがある伊南村では、古武道伝承の村を作り武道家が定住する集落を作り、この村に来ればすべての“道”が学べるようにする。◇舘岩村舘岩村は会津高原として知名度があがりつつあるし、村全体のイメージが随分良くなった。さらにイメージを高めるためにも、画家や小説家の卵,,,を集めた、小説家の村をつくるといいかもしれない。◇桧枝岐村桧枝岐村では、演劇と舞踏の村はどうだろうか。すでに桧枝岐歌舞伎が全国的に有名になっているので、山奥の集落に劇団や舞踏家が多数定住しているということはとても魅力的なことだと思う。

(定住者のライフスタイル)

定住者は家族の食べる食品は半自給自足して、なるべく支出をおさえる。自給自足が本来の人間生活の基本であることを多くの人々に知らせる努力をする。そして半自給自足の生活に誇りをもつのである。
各世帯は必ず宿泊規模二〜四人の小さなゲストハウスを備える。自宅の中、あるいは別棟として負担にならない小規模な民宿を営む。これなら友人がちょっと泊りに来たという感覚で気軽に経営できるし、現金収入が入る。又、イベント時の宿泊者を受入れられる。

収入については、物作りとしての職人や芸術家であればその作品が売れることによって入ってくる。又、無形の文化活動にともなうものも、収入になりうる。具体的には、講演料、授業料、セミナー代、会費などが期待できる。又、山道を維持したり、森や河川を入手したり守る仕事を請け負うことも臨時的な収入になる。
仮に収入が少なくとも、精神的な生き方、地球環境にやさしい生き方、景観を守る誇りある生き方をする人々が住んでいるような、そんな集落でありたい。

さて、このような集落が九町村のどこかに一つずつ出来上ったとして、地域の連帯を深めるためにも、毎年もち回りで奧会津文化連合祭と称するような祭を開催することが必要となる。奧会津太鼓祭り、合唱祭、舞踏祭、雪祭り、山岳祭のような大イベントを九町村連合で行い、奧会津の文化イメージを高める努力をすべきである。

(冬の雪をどうとらえるか)

奧会津に都会人が定住するにあたって、一つ問題がある。それは冬期の降雪である。都会人が降雪をどのようにとらえてくれるかで、定住者募集の成否がかかっている。

私は、個人的に雪に閉ざされる冬こそ、文化的生活を実践するにふさわしい季節だと考えている。冬は雪国に住む文化人にとって長期休暇をもらえたようなものだ。イタリア人のバカンスより長い休暇だ。来るべき春、夏、秋にそなえて、イベントの企画を練ったり、住民同志の話し合いや絆を深める時でもあると思う。又、都会に住む後援者や支持者、マスコミ等に、まとめて文化情報を発信する時でもある。インターネットを使って世界中の人々とコミュニケーションするといい。この時期、出版に向けて本を執筆したり、新しい学びの為に海外旅行に出かけるのも良い。
発想を変えて、冬こそ奧会津のオンシーズンと考える。雪祭りや雪中イベントを企画し、冬に人を集める工夫と努力をするときでもある。毎日見慣れうんざりしている降雪や積雪も、雪の降らない土地に住んでいる人々にとってはどんなに魅力的に映るかしれない。台湾、香港、シンガポール、タイ、マレーシア、インドなど、アジア各国からの観光客を呼び寄せるのも楽しい。

雪国の冬の山村生活が厳しいものだとしても、現在は昔と比べればはるかに便利で重宝なものである。建物の断熱材、効率のよい薪ストーブを使えば、冬も暖たかく過せる。寝具もすいぶんと軽く保温性が良くなった。テレビもあればビデオもある。冬の屋内での娯楽にも事欠かない。戸外では、クロスカントリースキーやスノーモービルだって楽しめる。奧会津の各町村には、一ヶ所ずつはスキー場がある。
屋根の雪降ろしについても、自然に雪が落下するように工夫すれば、落下した雪の片付けだけで済む。雪下ろしや雪の片付けも、健康維持の為の運動、エクササイズと考えて毎日少しづつやってゆけば苦になることはない。

山村生活の苦しさは、冬や雪、経済的な貧しさによるつらさではない。文化的・精神的・知性的に孤立すること、近くに同好の志が見い出せないことが大きい。五〇家族の志を同じくする人々が、同じ集落に住んで結束すれば、中山間地域は都会よりはるかに住みやすい環境であることは間違いない。

 

四 私の今後の予定

私は、今後も叶津番所の保存と活用を続けてゆくつもりである。只見町の叶津番所を中核として、少しずつ周囲に建造物を増してゆき、瞑想とヒーリングのための特別なリゾートを作ってゆきたいと思っている。
今は資金がなくて出来ないでいるが、只見川に面した河岸段丘上に、独特で美しくヒーリングパワーに満ちた建築物を作ることも企画している。この建物の中に入るだけで元気になり、ヤマイが癒され、すがすがしい気分になれる。そんな仕掛を水晶や貴石を使って作りたい。建物は他に類例を見ない独特の姿、形の建築物だ。そこではインドやアジア各地に古代から伝わるメディティションを学ぶことができ、水晶ヒーリングなども学習できる施設としたい。今、多くの日本人が求めている宗教でない宗教、医療でない医療を知覚瞑想法やクリスタルヒーリングとして広める拠点として作りたいと思っている。
現在のように私一人では、孤立し限界があるので、同志を集めて文化村の一つである瞑想とヒーリングの集落を実現させたいと念願している。

参考文献
「リゾートの思想」 一条真也・河出書房新社・一九九一年
「リゾートの博物誌」 一条真也・日本コンサルタント・一九九一年
「沢の生活」 秋元幸久・連合出版・一九九四年
「二〇五〇年は江戸時代」 石川英輔・PHP研究所・一九九五年
「地球大予測」 高木善之・総合法令・一九九五年
「森と平野に分化定住する時代」 マドモアゼル、愛・星と森・一九九七年
「九八年〜二〇一〇年に起る一〇〇の出来事」 浅井隆・第二海援隊・一九九七年

「奥会津」の作品募集〜入選作品第1校〜


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