タイトル:奥会津に根ざした人と人のありように関する一考察
執筆者 :五十嵐 乃里枝
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
宮澤賢治 「春と修羅」序より
一 奥会津という土地
奥会津という地域が内外に対して持つイメージといえば、なんといっても「豪雪と過疎」に代表される。豪雪〜雪深い奥会津というイメージは、しかし、故斎藤清画伯の版画や、晩年の墨彩画に表現されているように、何やら物語性を秘めた奥深さも一方で持っていると言えよう。
だが、実際ここに居をおく人間の多くは豪雪ゆえに住みにくく、過疎につながるのだという意識を持っている。確かに雪が多いということは大変なことだ。毎朝路面から除雪された雪のかたまりをスノーダンプやスコップで片付けて玄関からの道をつくり、通勤用の車を出す。一晩に何十センチも降り積もることもある。ひと冬に一〜二回は屋根の雪下ろしもしなければならない。老人世帯にとっては大きな負担だ。毎日どんよりと曇った空から雪が舞い降りてくるのを眺めて過ごすのは、気も滅入る。確かにそうだ。
だが、一度この土地を離れて冬を過ごしてみると、奥会津の冬の意味がわかってくる。からっと晴れて、布団が干せる土地で冬を過ごしたときは、自分自身も実際感激した。しかし、そのあとに春を迎えた時に、何か物足りなさが残ったのも事実だ。その理由をよく考えて見ると、「雪」の不在だった。雪に埋もれた長い冬があってこそ、春という季節に対する喜びも増すのだと、そのときに悟った。雪の下から顔を出す黒い土の豊かさと、一斉に芽吹き花をつける草木の力づよさは、モノクロームの数カ月があってこそ豊な恵みとして感じられるのだ、と。
奥会津の人間は、生まれてからずっとこの冬を過ごすことによって、人間の力ではどうにもならない時の流れがあるということ、そして同時にどんなに雪深い冬であっても、必ずそのあとには春という再生の季節がやってくるということを無意識のうちに身につけているのだ。
このような知恵は、忍耐づよいと評されることもあるし、時勢に身をゆだねるだけで自主性・積極性に欠けると批判されることもある。ただ、この特性を自らが意識したとき、それは奥会津人の美徳となり得るのではなかろうか。
だが確かに、人間がかなわない自然の力をまざまざと見せつけられるがゆえに、奥会津の冬を逃れて雪の少ない地域へと移り住む者も多い。
自然の脅威は、人間の力を超えた存在〜カミ〜として、古くから人々の祈りの対象としてあった。その形跡は、奥会津各地に残るさまざまな伝統行事がその祈りのかたちを今日にも伝えてくれている。そういった伝承にも現れているように、荒ぶる神は同時に恵みを与えてくれる存在でもあり、人々は四季それぞれの山の恵みや清らかな水の恵みに浴しながら生きて来た。大地が一面雪におおわれる冬もまた、ワラやマタタビ、ブドウやアケビの蔓などで生活の道具をこしらえるという生産の時であった。そういった意味では奥会津という土地は豊かな地域であったのだ。
だが、経済成長が、人々の暮らしに変化をもたらし、「豊かさ」の質を変えてしまった。山や川の恵みだけでは金銭的な裕福さは保証されない。また、「自然」というものは恐れずに人間の支配下において開発するものだという考えのもとに、荒ぶる神は葬りさられ、冬の積雪はなかなか手に負えない厄介なもの、というマイナスのイメージだけでとらえられるようになってしまった。
そうして人々はこれまでに奥会津にあった暮らしの中には存在しない富と生き方を求めてこの土地を離れて行ったのである。そこに「過疎」という現象がおきた。
この現象の背景となった思想は、まぎれもなく、戦後から現在に至る教育の中にあった。日本を高度成長にみちびくための教育においては、時の流れを待つというような意識や、自然を前にして敬い畏れるような思想は必要でなかった。迅速さが重視され、自然はもちろん、人までもが「人材」と呼ばれ、利用・活用の対象となってきたのである。
ニ 奥会津の人間関係
前述のような状況で住む人が減ってきている奥会津の町村であるが、こういった過疎に悩む地域でもう一度問い直す必要に迫られていることがある。それは、「過疎」とはそもそも何か、それが本当にそんなに困ったことなのかどうかをじっくり検証することではないかと思う。
人口が少ないと、地方行政にとっては税収が少なくてたしかに困る。しかし実際のところ、自主財源が三割以下の町村も少なくないわけで、財源の多くは地方交付税その他の財源に依存している。過疎の問題は、「人口が少ない、減り続けている」という数字的なところにのみ意識を集中していても見えて来ない。
人々が(自分自身も含めて)どういう思いでこの奥会津に暮らしているかをじっくり見つめてみる必要があるのだ。
この地域での暮らしは、確かに都会と比べると刺激は少ない。コンピューターネット社会が広がってきているといっても、生の情報はまた別だ。どれほど雑誌やテレビ、インターネットなどで今流行のトレンドを研究してみても、渋谷あたりを一日歩いてみる臨場感にはかなわない。働く場所にしたって、ここにいれば町村の役場か地元の大手土建業に就職するのがエリートというような限られた職場環境だが、都会に行けば金融から証券、マスコミに広告など無限の可能性があるように見える。若い人達にとって都会は、時代の流れの最先端に自分も暮らしてみたいという欲求を満足させてくれる場所、のように感じられるのだ。
そういった年代は、都会に出てみるのがいい。実際に暮らしてみるのがいい。そこで夢を実現でき自分に満足な暮らしができるのだったら、都会がその人にとってそのときの住むべき場所なのだ。
しかし、なかには親が、若い息子や娘に対し、跡継ぎだからという理由で町村外にださないケースも結構ある。現実には、中学校を卒業すると半数以上は町村以外の高校に進学し、さらに大学へと進む者はまた町村を離れて生活するわけであるから、都会の楽しい部分だけを経験し始めたという段階で親元に呼び戻されることもある。都会でもっと暮らしたかった、という無念な思いと都会へのあこがれだけを引きずって地元に帰って来た若い人々、または学校の卒業と同時に都会で暮らそうかと思っていたのに親に反対されてしぶしぶ地元に就職した若い世代、そして都会というものに敗北感を感じて故郷に戻ってきたような人たちは、この地域で自分に自信を持って、前向きに暮らせるようになるまでにかなりの時間と経験が必要になる。
そして、結局本当の自信も持てず、意識はいつも都会の尻を追いかけているような中年になってしまった人々がかなりいる。そういった人々こそが過疎の元凶となっているのである。
過疎の本質的な問題は人口が減るという現象にあるのではない。自分と自分が住む地域での生き方に自信を持てない人間の心の過疎が問題なのだ。
なぜなら、こういう人々には「自分と向き合う」という経験が欠落している場合が多いからである。奥会津のような地域の生活においては、自分というものを裸にして人と対する必要がほとんどないのだ。
ここで暮らすことは、人との「しがらみ」に囲まれて暮らすことでもある。山村の暮らしにおいては、人はanonymous(匿名)で存在することはまずできない。「ある男が住んでいる」などどいうことはこの土地ではあり得ない。その男の名は誰で、だれそれの息子であり、母親はどこそこから嫁いで来た誰々で、というように、一人の人間の存在は脈々と受け継がれてきた人間関係の網の目のなかに存在する。これが強く認識されるのは葬式などの仏事のときと、地元の選挙のときである。自分は先代、先々代からのこんな繋がりによってここに存在するのか、という新たな発見がある。葬式などでは、この繋がりによって、葬儀を取り仕切る役割をはじめとする各種の役割が、地縁血縁によって各々に振り分けられるのである。時には、仲が悪い相手との姻戚関係があることが判ったりして気まずい思いをすることもある。
こういった「しがらみ」は近年若い層には疎まれる傾向にあるが、そうはいっても現在の葬祭行事を支えているのは人口比率の三〜四割を占める高齢の方々であり、今すぐ変化がおきることはないであろうと推測される。
ここで考えてみたいのは、この「しがらみ」のはたらきである。若い時代にはこういった人間関係を疎ましがり、それらを批判したり、そこから逃れようとする者も多い。しかし、このしがらみが、人との関係の緩衝材のように働いて、前述した「裸の自分」をさらけ出さなくてもすむようになっている。その気になれば親ばかりか祖父や叔父の七光りにだって浴することができる。お互いが、しがらみによって庇護されたような状況なのである。
逆からみれば、自分個人の考えで行動しているのに、その後ろだてに親がいる、祖父がいる、と見られることもあるし、またその行動が市民運動的なものだったりすると、「親類みんなに迷惑になるからやめろ」などど牽制されるようなことになってくる。
「個人の行動」などというものは成立しにくく、また正論だからといって多くに支持される訳でもない。「個」というものが確立されにくい地域であることは確かだ。
三 奥会津の課題とそれにむけての提言〜教育をキーワードとして〜
前述した「過疎」「豪雪」そして「しがらみ」といったマイナスイメージに対して、手っ取り早い解決法はない。
しかし、この地域が生き残り、あらたな“ゆたかさ”の発信地として歩んで行くためには教育こそが鍵であると思う。過疎の大きな要因に‘自信も持てず、意識はいつも都会の尻を追いかけているような’中年人口の存在をあげたが、人々に「都会イコール先進」「奥会津のような僻地イコール後進」という意識を植えつけているのは教育である。
ここでいう教育とは「学校教育」という狭義の意味ではなく、文化全体としての教育といった意味である。
一方で、戦後めざましい経済成長をとげてきた日本であるが、バブルの崩壊以降、ダイオキシンに代表される環境問題、大企業のリストラや合併等を通じて、少しずつ価値観の変化の兆しがみられてきたような気配はある。これまで幅を利かせていた物質的豊かさ第一主義には少しずつ陰りが見えてきているのではないだろうか。
現在の若者達に広がっている登校拒否やひきこもりといった状況は、かつての学生運動と表現方法は異なるが、このように歪みが露呈してきたこれまでのシステムに対する反抗である。戦後教育を支えた目的の一つは、上層部の言うことに忠実な組織人の育成であっただろうが、それはもう方向転換が迫られているのだ。京都大学の森毅名誉教授の言葉を借りれば、「制度としての学習」ではなく「文化としての学習」の充実が必要とされている時代なのだ。
こういった背景のなかで二一世紀を迎えようとしている現在、奥会津がいかに文化としての教育を担っていけるのか、が課題である。
(幼児教育において)
世界の先進国全体が少子化傾向にあり、日本では少子化対策臨時特例交付金なるものを全国の市町村に交付するといった状況である。奥会津全域でも出生率は年々減少しており、各町村の行政区内に全く子供がいないか、いても一〜ニ人という状況もめずらしくない。
それでどういうことが起こるかというと、かつてのように近所に何人も友達がいて、年齢の差のある者同士がその序列の中で人間関係を学んで行くということが、地域の中では不可能になっている。そうなると、過疎地域ならではの幼児教育のシステムについて考え直さねばならない。
例えば、金山町の保育所などでは実際に取り入れられているが、年齢別の組編成ではなく、大きい組/小さい組という大枠の中で、大きい子に自分より下の子のめんどうを見させたりして人間関係を学ばせるということを積極的に取り入れる必要がある。
また、奥会津地域の保育所のほとんどが町村立で、保育士も町村の専門職の職員という形態がとられているのだが、ここにも問題がある。保育士が町村の職員ということは、終身雇用であり、単一の保育所にずっと勤務することになる。小中学校ならば転勤もあるし、町村役場の一般職の職員なら移動もあろうが、保育士の場合はずっとその持ち場を離れない。
これではいけない。幼児教育というものが、大学、高校、中学、小学という序列の最下位におかれてきた経緯はあるが、じつはヒトが人間となるためにはこの時期の環境と出会いが最も重要なのだ。その時期の子供たちを扱う保育者はなるべく優秀なのが望ましい。優秀といっても有名保育専門大学を出ているということではなく、広い心と深い洞察力を身につけていることが望ましいということだ。
せめて、奥会津地域の近隣町村では保育士の交換事業をするべきだ。通勤できる範囲内で移動をするということが、現在の淀みに少しは清流をいれることにならないかと思われる。
それに加え、子どもたちの保育をどう考えて実践していったらいいかということは保育士のみならず、町村それぞれが保護者を含めた関係者全体で真剣に考えてゆくことが求められている。
今は、「ほうっておいても子供は育つ」とのんきに構えていられる時代ではない。生活環境にしても、テレビ等の影響にしても、子供達にとって危険なものやよくないものは、ただいるだけでどんどん入ってくるが、子供達にとっていいものは意識して選ばないとなかなか手に入らない。
ダイオキシンと母乳の問題にしても、こうすれば一番よい、という確たる解決策ははっきりしていない現状で、母親は何らかの選択をして子供を育てなくてはならないのだ。子供達が安全に、楽しく過ごせる保育を実践していくためには、たとえば保育所内で使われている給食の食器を環境ホルモンが疑われているプラスチック樹脂製のものをやめて、町村それぞれの特徴を生かして木製、漆器、陶器などに変える。壊れる材質のものを子供に扱わせるということも教育のひとつになる。また、子供達が食べる食事やおやつなどはなるべく地元で安全な有機農法で栽培されたものを使用する。うまく地元の農家やお年寄りたちの畑作業とリンクすれば、世代間交流、高齢者の活気ある活動にもつながる。
以上のような取り組みを具体化するためには、行政はじめ保育士はもちろん、保護者たちから祖父母の年代の人たちまで、いま現実に子供達を取り巻いている状況を知らねばならない。
奥会津のような地域に住んでいると、親たちも都会ほど危機感を感じないが、ダイオキシンや環境ホルモン、添加物などによる影響はすぐには目に見えるようには現れないが、全国それほど差がない状態ですすんでいる。それらから全て逃れることはできないが、豊かな自然と、自然とともに生きる生活がかろうじて残っているこの地奥会津では、少なくとも、それらを意識して排除して行こうという暮らしの実践は可能ではあるまいか。
これからはただ子供に食糧を与えて大きくするだけでなく、また一定時間あづかるだけの保育ではない、未来を背負って生きる子供たちをこの土地でどう育んでゆくのかを今ここに生きる大人たちが真剣に考えて行く必要があると思う。
(小中学校において)
奥会津地域の小学校や中学校では、児童・生徒数の減少により統合が余儀なくされているところ、また近い将来そうなるであろうというところが多い。これまでは、子供の数が減ったから廃・統合する、というレベルでしか考えて来なかったかもしれないが、ここにおいても、過疎ならではの学校教育ということを考えることが重要だ。
子供たちを取り巻くさまざまな危険な環境の認識の必要性については前述したとおりであるが、児童生徒の数の減少といったことが学校教育にどう影響を及ぼしているか、またその現状に対していかなる思考の転換が迫られているかを考えてみたい。
まず、統廃合によって子供たちの通学形態に変化がおきる。何キロも離れた集落から、学校がある中心地に通うため、多くの町村ではスクールバス等を整備してこれに対応している。
それまで徒歩で通学していた状況に比べると、登下校時のみちくさによって培われた自然や地域とのふれあいが少なくなり、また高学年のガキ大将を中核とした遊びのグループも機能しなくなりつつある。三〇年ほど前までは、季節分校の子供たちなどは何キロかのみちのりを歩いて通い、運動会やスキー大会では好成績をあげたものだった。
しかし今、子供たちの生活は家と学校という点を、バスによる移動でつないでいるだけになってしまっている。
この状況は特に中学生に顕著であるが、どこが問題なのか。生徒数の減少に伴い、中学生たちの生活は多忙を極めている。学校の授業と定期考査などはともかくとして、各生徒に部活動という負荷がかかってくる。大きな学校ならば、球技、陸上、水泳、スキー、合唱などそれぞれに選手を確保できる。しかし生徒数が減った場合、一人の生徒がこれら全ての選手となって活動するという状況も少なくない。しかも、中には優秀な生徒も輩出しており、地方や県の大会で優秀な成績をあげる者もいる。
しかし、そのための練習ということになると、平日の放課後はもちろん、土日だって夏休みや冬休みだって、部活が休みということはほとんどない。生徒たちの生活はまさに家庭と学校を往復するだけ、まじめに活動している生徒などは特に、休みがあれば眠りたい、という状態のようだ。もちろん生徒側からみれば、さまざまな活動を体験できるという利点もあるかもしれないし、生徒指導を受け持つ先生たちからすれば、生徒は授業時間以外は部活動に専念しているのだからゲームセンターやカラオケボックスで遊んだりすることはなく、確かに理想的に楽な状況だろう。
しかし、最近気がかりなのは、小中学生たちの生活が、その土地に生活していながらも、自分の町村とか地域といったものから遊離してしまっているのではないか、そしてまた足元の生活から問題や疑問を導き出す力がかなり弱くなっているのではないかということである。学校で習うことは教科書という世界のこと、あとはテレビやコンピューターゲームの世界が存在する、というような意識をもつ者も案外多いのではないだろうか。
中学生のみならず、小学校の高学年の児童たちの生活も忙しくなっている。高学年になると陸上や水泳などの記録会を隣接町村で開催したりするので、その練習が季節ごとにある。中学生たちの部活づけの状態も含め、これらはいったいどのような考えに基づいて行われているのかというと、地区大会で大きい町や市の子供たちに対抗するためであろう。
それというのは子供たちのことを考えてであろうか。子供たちがなるべく小さいうちから優秀な能力を見つけ、それを伸ばすため、ともいえるのかもしれないが、これはむしろそれぞれの町村の教育関係者の自尊心を満足させるためではないのかという気もする。地区大会で優勝することもいい、県大会で入賞することもいい。しかし、これからはそういう意識で地域というものを考えていく時代ではない。
奥会津のような地域にこそ、世界に通用する人間の原点の教育をしていこうという視点が必要とされている。ではオリンピックにでられるような選手の育成を目指すのか、などと考え違いはしないで欲しい。
世界に通用する国際人というのはすなわち地域人であり、地域に根ざして自分自身に自信をもてる人である。子供たちが持つ能力を優劣による他人との比較によってでなく、自分に与えられた才能として発見でき、伸ばしてゆけるようなきめ細かな教育は、過疎の学校だからこそ可能なのではないだろうか。人数が少ないなら、その限られた友人関係の中でいかに深く互いとかかわり、違いを認めてゆくかに重点をおいた教育だってあるだろう。
大きな都会に行けばそれだけ友人も多くなるかというと必ずしもそうではない。一人の人間が一度に本当の友人としてつきあえる人の数などというものは、周囲に人がどれほど多くいようと限度がある。大切なのはいかに深く絆で結びあえるかだ。
地域ごとに子供たちを競わせるということに熱をあげるよりも、これからますます子供たちが少なくなるという状況を前にしてはむしろ、隣接町村の学校が一緒になって球技大会を開催する、といったことのほうが現実的になってくるのではあるまいか。例えば野球にしたって、一つの学校だけでは部活動として成立しにくくなくなっている。一つの学校がオールマイティーにどの種目でも好成績を上げようと子供たちの生活ギリギリまで練習に駆り立てようとするのでなしに、その時期の子供たちの状態と教師の力量にあわせて、その学校の得意分野を切り口に課外活動を考えていったっていいのだ。
今後は、学校教育にもさまざまな形で交流ということを取り入れて行く必要があろうと思われる。奥会津という地域全体で学校教育のビジョンということについて考えていく場だってあってしかるべきだ。古い体質が温存されている教育界はなかなか新しいことが進めにくいようだが、いずれ状況がゆるさなくなってくるだろうという気はする。
ここでとりあえず、一つの学校だけでも進めていけるのは、地域との連携であろう。二〇〇二年から始まる総合的学習に向けて各学校とも町村の教育委員会等とともに何らかのプランは作り始めているだろうが、奥会津こそはこういった流れの先端を担っていける地域だと思われる。
それは何といっても冒頭で述べた自然と共存する生活、自然を神として大切にしていた信仰の形がかろうじて残されている地域であるからにほかならない。もちろん日本全国こう言った地域は数多くあろうが、ポイントはそこに住んでいる人々が自分の地域を問題点も含め、きちんと見直すことができる地域かどうかにかかってくる。
まず、なんといってもこれまでの奥会津の暮らしを「遅れている」と捕らえるのでなしに、土と水に根ざした生活の意義というものを考え直してみよう。
今まだ残っている伝統文化の継承者の技を、その思いを、子供たちに伝えて行く必要がある。都市部の学校と同じ流れで活動を考えるのではなく、例えば金山町や昭和村で行っている、山菜を採って生徒会の活動費に充てる、というような活動は形は変わったとしても積極的に続けていくべきだろう。奥会津に生まれ育ったからには山菜の種類と味、調理法などは身につけていたほうが将来の暮らしに幅がでる。そんなプログラムは地域のお年寄りの協力のもとに進めることができるし、家庭に対してもお年寄りの知恵を大切にするというような働きかけもできると思う。また地区に残る伝統行事には、部活などはもちろんやらないで極力子供たちを参加させる。
なんといっても子供のときに生活の中で体験したことが、その子供の人格形成に大きく関与するのであるから、今辛うじて残っている遺産を大切に思うのなら、それを高齢者にあずけるだけでなく、子供たちにその中に加わってもらうことが、将来を長い目で見たときにきっと大切な種を蒔くこととなるはずだ。子供たちの運動の記録をあげることに躍起になるよりも、もっと地域での暮らし方や活動に参加できる余裕を持たせることが大切だ。
しかし、学校だけではそういったプログラムを実施するのは困難であろう。今は学校の教師たちの中に地元出身者がいることはあまりないし、仮に地元出身者であっても地元の状況をよく知っているとは限らないからだ。
そこで、各町村が、学校教育というものを生涯学習の流れの中で位置づけ、地域とどうつないでいくかをきちんと考え、実行していくことが望ましい。これまでは学校の領域を聖域扱いして、地方行政、教育委員会等はあまり踏み込まないといったきらいが強く、学校側もあまり立ち入って欲しくないといった傾向があったかもしれないが、なんといっても学社連携・学社融合が国を挙げてすすめられる時代である。学校と地域がリンクして教育を考えることに何の遠慮も要らないのだ。
しかし、そのためには、各町村の教育長は有能な人間であることが不可欠だ。文部省が総合的な学習を進めて行こうとしている時代の流れにおいて、それを先取りしてうまく利用していくくらいの力量がなくてはならない。これまでの学校教育の枠の中でしか物事をとらえられないようではなかなか発展は望めないだろう。
さて、先ほども触れたが、学校教育において「交流」はキーワードである。隣接町村の交流ももちろんだが、これからは都市部の子供たち、自然環境が著しく異なる地域の子供たちとの交流も積極的に進めて行くべきである。
学校の授業の枠の中では難しいというのなら、夏休み、冬休みを部活動にばかり明け暮れさせないで、そういった体験をさせるプログラムを町村が学校と協力して実施していくことも大切だ。三島町ではユネスコ協会三島支部と言う民間の団体が主催して、町の小学四、五年生を毎年八丈島に三泊四日で派遣するという事業を行っているが、このようなことを、他地域の学校と姉妹校提携をするとかしながらもっと頻繁に行ってもいいのではないかと思う。
また、他地域の子供たちを奥会津の各町村によんで交流事業をするということも、地域の子供たちが自分の町や村を見直すきっかけになるという観点からも重要であると考える。
よく、奥会津出身の生徒が高校生になって、それまでまじめだったのが急に髪の毛を染めたりタバコを吸ったりする子が多い、などという声を聞くこともある。実際高校生が登下校時に利用する只見線の中などでは、かなりの生徒が喫煙しているようである。
中学生までの子供たちがナイーブでまじめだと喜んでばかりはいられないのだ。ナイーブには「無知」という意味もあるように、大切な部分に無知なままで中学校まで育て上げるのではこれまでの「過疎と後進地」の奥会津から脱することはできない。
都会の生活やちょっと悪いことに魅力を感じる年代は誰にでもあるが、その時代を過ぎたころに呼び覚まされる、本当の豊かな生活への思慕を心の中に植え付けることができるかどうかが奥会津地域における青少年教育の大きな課題なのだと思う。本物を知っていれば、偽物に惑わされることはない。
たとえば、子供のころに山をかけめぐる楽しみや近所の川で釣りをする楽しさを知った人間や、それほど戸外で活発に活動しなくても四季折々の自然の美しさや厳しさを、心から受け止める経験を持つことができたとしたら、それは将来その人間にとっても、そしてこの奥会津という地域にとっても幸いなことだ。そういった経験を通して自分が生まれ育った土地を愛することができる大人が一人でも多くなれば、人口の減少は続くかもしれないが、過疎ということはさほど憂慮する事態ではなくなるだろう。そしてまた、この地域と地域を愛する人間に魅かれた人々が移り住んでくる可能性も確実に大きくなると思う。
四 ひとつの試み〜「どんぐり学級」〜
自分たちが住んでいる地域のすてきなところを子供たちと一緒に探検していこう、という試みを「どんぐり学級」という形で三島町で細々ながら続けて来た。この活動のこれまでの状況と今後の課題を以下に述べてみたい。
(「どんぐり学級」のはじまりと経過)
シュタイナー教育の研究・実践者であった故・河津祐介先生が、東京で一般の人々を対象に講座を開いており、そのグループのメンバーと三島町の有機農業友の会のメンバーが知り合いであったということで、平成元年の夏の講座を三島町で開催することになった。河津先生はそれ以前にも数回三島町を訪れて「母親が先生になってみる」というテーマで有機農業友の会を中心とする参加者にシュタイナー教育を行っていた。
その夏の講座は、三島町の“山と川”のすばらしいところを東京からの参加者と分かち合うということで、三島町側の参加メンバーは計画を重ね、ニ泊三日の盛りだくさんのメニューを作り上げた。参加者全員での川下りや、川原での芋煮、林の中をペアで組んで一人ずつ目隠しをして歩いたり、すばらしいキャンプファイヤーの炎など、東京からの参加者だけでなく、三島町の参加者にもたくさんのメリットがあった。
三島町の中心メンバーは、東京からの参加者に対する三日間のサービスにへとへとになりながらも、それまでにプランを作成するために何度も会を開いて話し合った過程、また実際にキャンプを行った過程で、それぞれが自分たちの住んでいる町のいいところを再発見した形になり、また同時に一緒に活動した仲間のそれまで知らない部分の発見にもなった。
さらに、次年度は、東京からの参加者はなくても自分たちで地元の子供たちとキャンプを実施しようということになったのである。そこで、当時六家族のメンバーが再結集し、グループ名を「どんぐり学級」として活動を開始した。 「どんぐり学級〜森の教室〜」というキャンプをニ泊三日で計画はしたものの、まず当面の問題は地元の子供たちの参加者をいかに募るか、ということであった。当時、子供たちを対象としたこのような任意団体の活動というのはこの町には無かった。
すべて学校主催、公民館主催、もしくは各地区の青少年活動というものであったため、町全体の子供たちをを対象として正体不明の団体が行う活動に、一体どれだけ参加者がいるのかということは全く不明であった。
初めの年は一応公民館から後援してもらい、チラシを持って小中学生のいるめぼしい家庭を個別に訪問した。こういうときには地元で身元の知れているあやしまれない人間がその任に当たった。「しがらみ」も活用次第である。だれそれさんのところの息子さんも参加するとなるとうちの子を参加させてもいいかな、という気になる親もけっこうあった。
それ以後「どんぐり学級」のメンバーの子供たちを中心に毎年それなりの参加者を集めて活動を続けてきたのである。
活動はおもに夏休み中に開催するキャンプを中心に、展覧会を見に行ったりコンサートを催したり、また中学校を卒業する参加者に対して「どんぐり学級」の卒業の集いを開いたりしてきた。毎年キャンプでは四〇人から五〇人の参加者が集まっていたが、キャンプにおける一つのこだわりは、まず各自が竹を削って自分で使う箸を作りキャンプ中ずっと使うということだ。初めて小刀を持つ子供も、大人や大きい子供たちの見よう見まねで竹を削って何とか箸のようにする。これは結構子供たちに好評で、みんな熱中して箸作りに励んでいる。
また、毎年必ずといっていいほど偶然的にゲストを受け入れて来た。尺八奏者もいたし、インドのチャルカを使って綿紡ぎをする人や、地元の音楽の先生がオペラを歌って生徒達がリコーダーを吹き、東京からの参加者がバイオリンを弾いたりのミニコンサートを組み入れたり会津、郡山地区からALT、外国語指導助手の方たちが十数名参加したりと、その時々の不思議な出会いによって楽しい催しが付加されてきた。
キャンプが一番の盛り上がりを見せたのは一九九七年頃のことであった。どんぐり学級が始まった当時小学校の三、四年だった子供たちが高校生になり、企画の段階から参加し、運営のかなりの部分を受け持ってくれたのだ。
三島町をよく訪れていたALT数名や若松市内の宣教師の家族、前年知り合いになった郡山の家族たちも参加し、中学・高校生が大人に教えてもらって鶏をつぶしたりと、盛り上がったニ日間であった。
しかし、時には納得のいかない催しを開催することになったこともあった。その原因は、メンバー全体がよく話し合い、合意を得ることの不足、また演奏者との意志疎通が足りなかったという点があげられる。
初めはキャンプというイベントを企画し、実行していくために何度も会を開いて細かく話し合うなかでメンバー同士お互いが何を考えているのかが理解されていた。しかしイベントを実行する手順に慣れてくると、会合の回数も減り、ほんの一、ニ回の打ち合わせでキャンプに臨むこともあった。そんなときはメンバーの気持ちが盛り上がりにかけ、キャンプ自体はなんとか滞りなく実行できても、何か物足りないような、疲労感が多くのこるような気持ちで終わることも多かった。
今年の夏は、テントを張ってのキャンプという形式をするだけに盛り上がらず、旧西方小学校を改築した宿泊研修施設に泊まり、バーベキューをするという形にとどまった。
(どんぐり学級の今後)
これまでに夏にキャンプをするということをメインに活動してきた「どんぐり学級」であるが、今後どのように活動を続けていくか、という課題に直面している。
そもそもキャンプというイベントを開催することが目的ではなく、それは一つの方法手段であったはずなのだ。活動を通じて子供たちに伝えたいこと、子供たちと一緒に考えてゆこうという思いがそれぞれのメンバーの心の中にあり、それは何度も回を重ねる話し合いや準備の段階でたがいに確認されてきたのであった。
しかし、一〇年たった現在、その思いが曖昧なままでほったらかしにされているような気がする。ここで、それぞれの一〇年間の人生の積み重ねを、再びじっくりと分かち合い、受容しあうという作業が必要となっている。
これまで続けて来た活動をさらに深めるには、原点に戻って、シュタイナー教育とその思想についてもっと勉強してみるのがいいか。三島に残された自然環境の実態、実際にどれぼど汚染が進んでいるのかをしっかりと把握してみるべきなのか。また、それらを阻止する方向に向けて何らかの運動を展開してみるか。
切り口は何であれ、大人たちが、住んでいるこの地域を愛し、子供たちといっしょに「自ら考え、行動する」ということを実践してゆくことである。
それがまた実践されたとき、その過程で、大人と子供はそれぞれにまた新たな発見をするだろう。その発見は仕掛けられた偽の「体験としての発見」ではなく、そのときそのときの出会いによってもたらされる。この「どんぐり学級」の小さな試みが、こどもたちにとって自分の生まれ育った地域を受け入れるうえでどのように影響を与えたのか、与えなかったのか、それは今すぐに現れるものではない。
しかし、わたしたちは願いつつ地道に活動を続けていこうと思う。どれほど深い雪の下からも、必ず黒い土が現れ、緑の芽が顔を出すのであるから。