「ねぇ、槙原さんって神津君と付き合ってるの?」
昇降口でいきなり、本当に前置きも挨拶もなしで唐突にかけられた声に私は上履きを手にしたまま凍り付いてしまった。
地域有数の古い高校は駅からそう離れていないにも関わらず広い敷地内に木が生い茂っていて、蝉時雨がうるさいくらいなのに、私の耳にそれは届かなくなってしまう。一学期終了間際で授業は午前中までで、今日は珍しく神津君達との時間がないから図書館で本を読んでいて、部活などで残っている生徒以外は殆ど帰宅してしまっているだろう。蝉時雨以外はない筈だった世界で、見覚えのない女生徒が私を見ていた。
極普通の、つまり校則よりもかなり短めのスカートを履いている彼女は、私より十センチ以上背が高くてとても綺麗な脚と、均整の取れたしなやかな身体つきと大人っぽい顔立ちに赤いフレームの眼鏡が印象的だった。不格好に胸だけしか成長していなくて高校三年の夏になっても中学生以下と間違われれしまう貧弱な私とちょっと種族が違うと思えてしまうくらいに、大人っぽさを漂わせていてそれでいて少し猫っぽい悪戯な印象を与える人だった。
いやそれよりどうすればいいのだろうか、神津君と、もとい神津君達と私は到底人には言えない秘密の時間を共有する間柄ではあるものの、付き合っているなどとは決して言えない状態である。頭の中がぐちゃぐちゃに混乱してしまうのは説明出来る筈もない関係を人に見咎められてしまったかもしれないからだった。いつだろう。どこだろう。心当たりがありすぎて怒涛の勢いで問題個所が脳裏に甦る。見つからない様に注意してくれている筈で…任せ過ぎているのかもしれない、でも、でも、最後までしっかり意識を保つ事は最初の方から困難だった。
七人がかり、最低でも三人がかりで満喫されてしまうのだからそれは許して欲しいというのは少し迂闊だったかもしれない。神津君が私を送ってくれるのは体力が根こそぎ持っていかれて歩けない場合が多いからであって……。
「……。ねぇ槙原さん、聞いてる?」
少し呆れているか苛立っている様な声に、私は我に帰る。
「え、えと、付き合ってません」
反射的に返事をして、そして自分の発言ながらにその事実が少し切なくて、思わず俯いてしまう。春先に神津君には気持ちを伝え済みだけれど、神津君の気持ちは同じではなくて…。泣き出してしまいそうな鼻のつんとした感覚に、私は更に俯いてしまう。
「やだ、泣かないでよ。――ともあれそういう事ね、了解」
「槙原に告白か?」
更に不意に割り込んできた声に、私は更に凍り付く。
「私そういう趣味じゃないの。普通に考えて貴方がフリーかどうかの確認の場面でしょ?これ」
少女マンガ的な光景では下調べの現場を意中の人に見つかったらどぎまぎしてしまうのが定石だけれど、彼女は居直るのとはまた違う当たり前の自然な会話の様に返事をする。私には到底真似が出来ない事で、彼女の様に話せたらいいのにと考えてしまう。――そうしたら、もっと神津君の顔を見てもっと話せるのに。
「まぁそうだとは思った。でも俺は残念ながら他の奴に構う余裕はない」
「付き合ってるの?」
膝が小刻みに震えだす。嬉しいからではなくて、神津君の口調にわずかに含まれている苛立ちが、私の対応の失敗の為だと直感したからだった。同級生男子七人で女子一人を性的対象物にしている秘密を誰か他の人に気づかれてはいけないのに、そのものずばりでもない質問一つでびくびくしてしまったのは、危険である。
「……。こいつは別なんだ」
ふぅんとどこか興味深そうに彼女が私に視線を注いでいるのを感じた。
「ま、付き合っていないならチャンスを狙う事にする。じゃ、またね」
さばさばとした口調の彼女の足音が遠ざかっても、私の耳には蝉時雨が戻ってこない。後ろにいる神津君に迷惑をかけてしまった事が怖くて、そして別という響きの複雑さが泣いていいのかそれでも喜んでいいのか判らなくて、動けなくなる。
あんなにはっきりと思った事を口に出来て、格好よくて大人びた彼女は神津君が好きなのだ。私よりずっとバランスがよくて、きっと、今の会話みたいに神津君と堂々と物怖じしないで話せる…羨ましくて、切なくて、嫉妬にすらなってくれない負け犬な感情が開き直りみたいで居心地が悪い。
「ごめんなさい」
「何を謝る?」
「――変な感じで、聞いちゃった事」
「変も何も、お前は聞かされた方だろう」
凍り付いたまま動けない私の横を通って神津君が下駄箱に向かう。神津君と彼女の問題なのを立ち聞きしてしまった気がするけれど、確かに私は彼女に話し掛けられた側だから……。
そっと私は顔を上げる。目の前に、革靴を取り出す姿勢のまま見下ろしている神津君がいた。そもそも表情に出にくい神津君は相変わらず何を考えているのか判らないままで、私は気まずさに俯いてしまう。顔を上げてちゃんと話せるくらい堂々としないといけないと思うのに、とんでもない理由で神津君の近くに行ければ行けた分だけ自分の駄目さを実感する。
「俺はお前の管理担当なんだ」
少し咎める様な声の後、不意に顎に添えられた手が顔を上げさせ、そして唇が重ねられた。
とん、と背中と後頭部がスチール製下駄箱に当たる。
ゆっくりと開く唇が重なっている唇をなぞり、神津君の熱い息が撫でる。身長差を埋める為に背を丸めた神津君は覆い被さる体勢になり、少し迷った後、神津君の負担を減らす為に私は踵を浮かせて背伸びした。多分誰もいない、と考えても先刻の彼女を考えるとやっぱり昇降口という場所は見つかってしまう可能性が高いのに、神津君を止める事など考えられなくて……。
くちゅっと舌を絡められる音が鳴る。
熱い吐息が神津君の唇を湿らせ、頭の中がぼぉっと熱を帯びて鞄を落としてしまう私の瞳が少しだけ顔を離した至近距離から覗き込まれた。
「何の管理か……言えないから……」
すぐに体調を崩してしまう私がハードな乱交を続けられるのは、神津君達がとても気を使ってくれているからなのだと理解するのはあまり時間がかからなかった。神津君もだけれど、須藤君と佐々木君は驚くくらいに私の調子を把握してくれていて、神津君の希望を叶えたいから多少無理でも頑張ろうとする私を何気なく止めてくれる。でも、そんな彼らとの関係でも一般的には複数対一人のセックスは堂々と人に言えるものではない。
「――帰るか」
そっと身体を離した神津君に、私の踵が床に戻る。まだ唇の感触が生々しいままなのに淋しいと感じてしまう贅沢と、神津君の機嫌を損ねてしまう自分の不甲斐なさに私は俯いてしまう。と、床に落ちている鞄を拾う神津君の手に、私は慌てて顔を上げる。
「帰るぞ。まだ何か用はあるか?」
「え、な、ないです」
キスなどしていないみたいな素っ気ない、そしてただの同級生として当たり前の様な仕草で私の鞄を持ってくれる神津君に、私は慌てて靴を履き換えた。
先に歩き始めている神津君は前庭の強い日差しを背にしていて、白いYシャツが少し透けて細身のシルエットがよく判る。風が髪をわずかに揺らす。不意に、蝉時雨が戻ってきた。
「鞄、あの」
「持つ」
私の体力がほとんどゼロになった時はこうして神津君が鞄を持ってくれる事があり、思わず流されそうになって声をかけた私に構わず、神津君は歩き出す。数歩遅れてついていく私は何か話そうと考えて、そして考え始めるとどうしても先刻の彼女を思い出してしまう。何組なのだろうか。年下には見えなかったから三年生だとして、それでも見覚えがないから、持ち上がりの2年以降の転校生か何かだろうか。神津君とはどんな知り合いなのだろうか。
そんな詮索は、多分神津君には嫌がられる。かなり未練を感じながら気持ちを切り替えようと私は視線を横に逸らす。
正門へのポプラ並木が日陰を作っているけれど暑さをしのげる事はなく、じわりと汗が滲んでくる。耳を覆いたくなるくらいの蝉時雨。蝉は一週間しか生きられないとは思えない凄い存在感で、たった一週間後の自分は今とまったく変わらないであろうと考えるととても不思議な気持ちになる。時間は無駄にしてはいけない、とぼんやり考えると、何かが頭の中で小さく騒ぐ。三年生の夏。――多分、勉強以外の事で。
正門を出て少し歩けば駅に着けてしまう好立地なのだけれど、逆に一緒に歩ける時間はかなり短い。いつもならば駅とは方向が違う須藤君のアパートに寄るのだけれど、今日はそれはない。
「何、考えてる?」
「え……?あ…、その……暑いな、とか」
「腹減ってないか?」
そう言われて私は今更ながらお昼御飯を食べていない事に気付いた。図書館でぼんやりと本を読んでいると食事を忘れてしまうのは、元からあまり食欲に鈍いからであって、決して読書に集中し過ぎた結果ではない。
「神津君は御飯食べた?」
「いや。まだ」
そう言えば神津君は何でこの時間まで学校に残っていたのだろうか。正門を出てすぐに線路沿いの通りを歩きながらの会話は電車や車の通過音で消えてしまいがちで、私は少しだけ神津君との距離を縮める。
「スパゲティ。ピザ。ポテト。素麺」
「え?」
「親が食べる様に言ってた物」
「……。全部準備してあるの?」
炭水化物が多くて少し栄養的に偏っていそうなメニューに私は少し戸惑う。柔道部の須藤君は大食で当然だけれど年齢相応に神津君もやっぱり食べる人だから親御さんとしては食べさせてあげて当然かもしれないけれど、少し野菜が足りない気がする。
「いや。冷凍物。素麺は…茹でるの面倒だから他のにするか」
「素麺が面倒って、あれ茹でるだけ」
「他はレンジに突っ込むだけだからもっと楽だ」
最近の冷凍食品を侮るつもりはないけれど、でもそもそもの時点で野菜が少ない気がして、神津君はこの様子では野菜分を補充してくれる気がしなくて、思わず口を開いてしまう。
「何か作って……」
あげる、と言いかけて自分の家で料理してそれを神津君の家に持っていくと時間的に夕食に近くなってしまうかもしれないし、一人暮らしならばまだしもご家族もいらっしゃるのに差し出がましい話だと気付いて言葉が続かなくなる。それに神津君に何か作ってあげられるとしたら全力で前日から準備をしたいという気持ちもあった。
「作りにくるか?」
「え?」
「夕飯代、二千円貰ってるけど冷蔵庫の有り合わせで槙原が作ってくれれば丸ごと浮く。山分けでどうだ?」
神津君を、神津君を馬鹿にしたくはないけれど、一瞬私の頭に浮かんだのは『うわっだから男の子って…』と言う少し一般論的に男の子を嘲る感想だった。余所の家の冷蔵庫をいきなり漁ってそれだけでちゃんとした御飯を作るのは相当の技術と厚かましさが必要になる。気の利いた物を作るとしても高額な材料が冷蔵庫にあってもそれは翌日の予定の食材かもしれない、などは男の子は多分考えないのだろう。でも自分としては少しはよい物を食べて欲しくて……。
「――え?」
そして気付く。神津君の家にお料理をしに行くと言うのは、つまり神津君の家に上がり込むと言う事なのだろうか? しかも、話の流れからするとご家族不在の状態で。
かぁっと頬が熱くなって思わず私は下を向いてしまう。
神津君と私はこの一学期中ほとんど毎日の様に個人的に会っていて、そして毎日の様にセックスをしているけれど恋人でないのは他の人達も周知の事実で、でも男の子の家にご飯を作りに行くなんてまるで彼女の様で…。
「面倒か?」
「そんなの絶対ないです!」
反射的に逆上したみたいな大声で答えてしまい慌てて手で口を塞ぐ私に、一瞬神津君は驚いた様に少し目を見開いて、その後少し笑った。学校はもう人がいなくても駅に近い通りは駅に近づくにつれて人通りがそれなりに増していて、何人も通行人がこちらを向いている。
「ご…ごめんなさい……」
気恥ずかしさに俯いた私は、足元で黒い影がすぅっと滲むのを感じた。気付くと蝉時雨が止んでいて、ひやりと寒くなった気がする。貧血の時の感覚を思い出してかすかに声を漏らす私の視界に、神津君の革靴が入った。
「どうした?槙原」
「ううん…急に……」
私の貧血歴を知ってる神津君が心配してしまった気がして焦って顔をあげた時、ぽつんと頬に何かが当たる。何だろう、と空に目を向けると急に曇って暗くなった空から大粒の雨が降り出してきたのが映り、それは夏特有の夕立で一気にバケツをひっくり返した様な本降りに変わっていく。
「雨宿りするぞ」
神津君に手を引かれ、私は足が縺れそうになりながら何とかその後に続く。神津君の手の大きさとその力の強さに胸がどきどきして頬が熱くなるのが判る。いつも手首や足首を軽く掴んで凄い事をしてしまう手なのに、いつも握られるたびに恥ずかしくて嬉しくて堪らなくときめいてしまう。この人に自分のみっともない身体を好きにされてるなんて、何て幸せなんだろう…そう考えた瞬間、先刻の彼女のすらりとした身体やはきはきした物言いを思い出して急に空と同じ雨雲が胸の中に広がっていくのを感じる。
周囲でも皆慌てて店の軒先などに避難していく中、神津君と私がデパートの入口にたどり着く頃には、私は濡れた道路しか見れなくなっていた。
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『夕立迷路・2』
初校201105250001