「――馬鹿!」
神津君にもうこれ以上不利な事を起こすまいと彼と香取君の間に割って入ろうとした私の身体がぐいと強く引き寄せられ、そのまま背後から神津君に抱きとめられて転倒している香取君から引き離された。口の端に滲んでいる血を手の甲でぐいと拭う香取君の怒りの形相を正面から見てしまった私の膝ががくがくと震える。
「騎士気取りか?神津。槇原がいいって言ってるのに何考えてるんだよ」
「この件では他の参加者は増やさないと最初に決めた筈だ」
あまり意識していなかったその条件に私はあまり回らないままの思考のまま何となく納得する。須藤君の部屋に部活の人が来る事があって、そういった事の最中で声が聞こえてしまい茶化されても決して部屋に上げず私を晒さないし、田中君は他のクラスにもっと仲のよい友達がいるけれど学習会に連れてくる事はなかった。私の体力のなさが今以上の人数増加に耐えられないのもあるけれど、あくまでも七人だけならば黒人二人などの話は条件に違反するだろう。
「個人だけで使うのも避けるともあったよな?」
にやりと嗤う香取君に、私は神津君の腕の中で何度も深呼吸を繰り返して落ち着こうとするけれど細かな引き攣ったものしか出来ない。背後からの逞しい腕にこのまま縋り付きたいけれど、でも人を殴ったばかりの腕がどこか怖くもある…私のせいで奮ってしまった暴力なのに。
取り決めがあるのならば確かに神津君が破っているのは否めない。もしも個人個人で必要な時に私と致してしまうのならば周囲に見つかってしまう危険性が高くなるし、私の体力がもう追いつかない可能性も高い。今日の様に正直歩くのも億劫な程の事をする人は神津君と須藤君と佐々木君くらいしか思い浮かばないけれど、でも香取君の先刻の発言が実現すれば歩くのも億劫レベルでない事態になるだろう…。今まで神津君とだけ致しているのが見つからなかったのが奇跡で、そして一対一が禁止だとすれば神津君のそれは確かに咎められて仕方ない。
でも、でも、神津君とは二人きりでして貰えると死にそうなくらい嬉しくても、他の人と二人きりではしたくない。ましてや更に他の人まで加わるなんて怖くて仕方ない。
「口止めしたいよな、管理担当。これは業務上横領みたいなものだろう?」
香取君の口調は完全に私を一人の人間と認めていないもので、今更ながらに自分が他の人達にどう考えられているのかを実感させられる。須藤君や佐々木君まで同じ様な感覚とは思わないけれど、でも他の三人は彼等ほど会話はしていないから確かではない。疑うのはいけないけれど、逆に私を同等に扱う人達の方がおかしいのかもしれない…そういう事をしているのだろうか。
「玲。耳が腐るからもう聞くな。須藤の所に行け」
「肉便器を肉便器扱いして何が悪いんだよ、お前も別にこいつの事好きでも何でもないだろう?好きな女なら公衆便所にさせておかないからな。何人も同時にやられてよがり狂う淫乱に黒人のブツぶち込ませて感謝されても嫌がられる筈がない」
びくっと自分でも判るくらいはっきりと身体が震えた。
好きな女なら乱交をしない、それはいつもどうしても考えてしまう事である。神津君が乱交趣味だからこそ学習会でも他の人に身体を許しているつもりだけれど、でもそれを口にすると神津君にとって重い女と思われてしまいそうでとても言えない…でも好きでないから特別でないから乱交対象にされているのだろうか、そう思うと胸がぎゅっと掴まれた様な感覚が襲ってくる。
「俺でも佐々木でも田中でも中出しされてイキまくったよなぁ?え?極太バイブ突っ込まれて『おチンチン下さい』って泣きながら腰振ったの忘れてないだろう?もっと大勢に見られてやられる方がぞくぞくするよな?玲」
「――香取……っ」
名前を言われた瞬間、足元が崩れた様な気がした。神津君だけしかそう呼んでほしくない。咄嗟に俯いてキツく瞳を閉じ両手で耳を塞いでしまった私を抱きしめる神津君の腕に力が入って痛いくらいになり、身体の痛みではなくて胸の痛みで大粒の涙がポロポロ溢れる。身長差で私の肩の辺りを抱きしめている神津君の腕に涙が弾けてしまうのに気づいて慌てて手の甲で涙を拭うけれど、それと同時に神津君の腕を抱え込んでしまっている体勢だと気づいて慌てて自分の腕を前へ放す。
「女を盾にしている体勢?」
「ち、ちがっ、ちがいます…っ、こうづくん、そうゆ…ひとじゃ、な……っ」
完全に裏返ってしまっている声にかあっと恥ずかしくて消えたくなりながら私は香取君の言葉を否定した。ただ盾にしたいだけならば私の肩をこんなに強く抱くべきではないし、咄嗟に対応出来なくなる私の腕を振りほどいていただろう…妙に冷静に考えてしまえていそうなのにすべての事象がクロスワードの問いの様に無秩序に頭の中で飛び交って、何一つ確かな状態で根付いてくれない。
「――『特定の相手が出来た場合はすみやかに学習会から外れる事』」
ぼそりと、でも不思議とはっきりとした声が頭の上のすぐ近くから聞こえた。投げやりとは違う、でも喜んでいるのとは絶対に違う、どちらかと言えば本を朗読している様な声だけれど感情が暴発する直前みたいな、常の神津君らしからぬ何かが煮え滾ぎっているのを感じる声音で、香取君などそっちのけで私の心臓が緊張してどくんと鳴る。
「俺が槙原と付き合えば全前提ぶち壊しで学習会解散だ、文句あるまい」
多分、咄嗟に行き当たりばったりで口走ってしまったのだろうな。
卑屈とかのレベルでなく多分私だけでなく香取君もそう感じただろうなと思えるくらい、神津君の声音はいつもの冷静なものに近いのにどこか異なっていた。でも何故か、いや、多分頭の螺子がいくつか飛んでしまったみたいに私はぽけっと放心状態の空周りでいろいろ無駄に考える。
「――三文芝居にも程があるぞ神津」
「鬼畜なSMやりたいならパートナーくらい自力で探せ大馬鹿野郎」
嘲る口調の香取君に何だかふっ切れた口調の神津君が応じる間も、私の問題だというのにぽーっとしてしまうのは何のかの言っても神津君の言葉がやっぱり嬉しいかも知れない。好きと言って貰えないとしても偽装お付き合いをしてくれる程度には悪く思って貰えているのだろうか、多分どうでもいい相手ならば発生しないであろう提案で…でも香取君の酷さへの義憤という場合もあるのかな?他人事の様に分析していた私は、不意に腕を解いた神津君に手を引かれた。
「帰るぞ玲」
「え?は、はいっ」
もしかして神津君の思いつき通りに交際開始になるのだろうかと驚いてしまう私の横を背後から何かが掠め、そして目の前の神津君の肩が引かれ、振り向きかけた頬を香取君に殴られる。
「まさか殴っておいてそのまま終わると思ってないだろうなぁ」
「神津君……っ」
香取君に殴られて体勢を崩した瞬間に手を解かれた私は目の前の光景に血の気が引いていく。立て直す間も与えずに香取君の足が神津君を蹴り、転倒した所を更に踏みにじる。友達を殴るだけでなく踏みにじるなどという事が何故出来るのか判らないけれど、でも、香取君が踏みにじったのは、神津君の手であり……、
ぶちっと、何かが切れた。
がくがくと震えながら私の手が何度も神津君の手を踏もうとする香取君の身体を突き飛ばす。――力が足りず押しただけの効果しかなかったけれど、それでも香取君の足が神津君から離れたのを見て、私は神津君と香取君の間に割り込み睨みつけていた。
「こ、神津君を踏むなんて、許せません!」完全に震えきった裏返った情けない甲高い声が溢れる。「だ、大体、わ、わ、私が神津君と不純異性交遊しているのを見つけた香取君が言いふらすのを秘密にする交換条件に私を脅迫して婦女暴行しようとしたって警察に嘘を言ったら、お、怒られるのは香取君ですっ、冤罪とか駄目ですけど、でも、脅迫されてるのは本当ですっ。私、神津君を傷つける人なんて絶対に従えませんっ。踏むなんて、絶対に許さない!」
ぽつりと頬に雨粒が弾け、ざあっと音を立てて雨が降り出す中、心臓が自分のものではない様な勢いで鳴っていて今にも倒れそうな息苦しさに全身で息をしている中、神津君がまた踏まれない様に出来るだけ広げた腕がぶるぶると震える。
「今後がどうとか判りませんけど、謝ってくださいとか言いませんけど、先に手を上げた神津君を許せないで攻撃するのだとしても、でも、で、でも、私を守ってくれようとしての攻撃だから、反撃したいなら私に向ければいいんです!でも、私、神津君を踏んだ人になんて無条件に踏まれも蹴られも犯されもしませんっ、絶対に、逆らいますっ」
何を言ってるのか推敲する余裕もなくまくしたてる私の目に、顎を突き出して見下す香取君の顔が映る。何度も学習会で私と致している人だけれど、雅な顔立ちに浮かぶ表情は高圧的な見下しきったもので到底身体を許せる雰囲気ではない。SMというモノを正確に理解しているワケではないけれど、もしも二人で何かがあるとしたらそれはSMでなくただの暴行にしかならないだろう、そう感じて全身が嫌悪感で震える。
「生意気な口を利くな!」
香取君の足が大きく上がり、私へと振り落とされようとした瞬間、神津君の腕が私の頭を庇って跳ね上がり、もう一方の腕が私の身体を力強く引き寄せた。
ばしゃん、と軽やかな水の音が鳴ったのが聞こえると同時に風が唸る。
バランスが崩れて地面に尻餅をついた私の目に、まるで大きい獣か何かを思わせる灰色の影が視認出来ない速さで香取君に接近し、次の瞬間綺麗な弧を描いて跳ねるのが映った。細かな動きは目で追えるものでなく、残像を残した影がどんと大きな音を立て地面の上で固まる。
「……。サンキュ、須藤」
「おう。――で、何やらかしとるんだお前ら」
香取君が私を蹴ろうとしてから多分瞬き何回分位の間しかなく、急展開で何が何だかよく判らなくて呆けてしまう私を、須藤君が軽々と持ち上げて立ち上がらせる。
「知らずに偶然駆け付けたのか?」
「いやそこは秘密にさせてやってくれ。それにしてもこんな小さな女相手に暴力はいかんぞ香取、思わず手加減を少ししか出来なかった。すまんな」
雨がまた降り出した公園の濡れた地面に投げた後で差し伸べる須藤君の手を、香取君の手が払って拒絶した。
「このままで済むと思うなよ」
泥だらけになった腰から背中や所々泥の飛んだ顔やシャツを拭いながら神津君と私を一瞥して立ち上がり、香取君は背中を向けて歩き去っていく。怖くてどうしようもないのに、あんなに汚れた姿で帰るのは大変目立つだろうなと思い、その後ろ姿の高級そうな靴を見た途端に慌てて私は同じく一人で立ち上がっていた神津君の手を握る。
「痛っ」
「あ、ご、ごめんなさいっ、血、出てるっ、えと、水道っ、あの、公園に、洗わないと、あのっ、あっ、病院!? ――ぁ…れ……?」
踏まれた時に強く擦り剥いたのか手の甲から出血していて泥にまみれている神津君の手に、ハンカチを当てかけて私は慌てて左右を見回す…ままにぐるんと世界が回った気がした。全身の血の気が抜けていく貧血の感覚にそのまま蹲りかけた私の身体を神津君が抱き留めてくれる。
「悪い、須藤、俺に背負わせてくれ」
「だがお前も泥付いとるぞ。手の血が槙原の制服に付いたら言い訳が面倒になるしな」
「……。須藤、槙原を頼む」
「それより…、神津君の手、早く洗って下さい…破傷風とか、心配……」
少し低い声で言う神津君にお願いしながら私は身体をひょいと持ち上げられるのを感じる。一応にも女子高生なのに子猫でも持ち上げる様な簡単そうな動きは須藤君以外の何者でもない。全身の血液が下へとごっていく様な感覚の中、私は目を開けるのも辛くて須藤君の背中に身体を預ける。
「ごめんなさい…おもい、のに……」
「いやいつも通りの鳥ガラ具合だ安心して寝ておけ。のびたウチの部員とは比較にならん」
「とりがら……」
あまりにもあまりな表現に絶句しながら私は息を吐き、そして歩き出す須藤君の背中の揺れを感じながら眠りそうになっていく。いや貧血の記憶からするとこのまま眠ってしまうのだろう。でも頭の奥は目茶苦茶にざわめいて眠れるとは思えなかった。――私は、これからどうすればいいのだろうか。目が醒めた時に神津君はどの様に接してくれるのだろう。
ぱしゃぱしゃと水が弾ける音と神津君の小さな呻き声で、公園の水道か何かで傷を洗ってくれているのだと判って少しほっとする。傷が残らないといいのだけれど…いやそれより先に勉強などに支障が出ない方が、いやもっと先に傷が早く治って欲しい。
ぽつぽつと降る雨の中、私の身体にかけられているのは須藤君の道着だろうか、少し汗臭い。でも尻餅で泥がついている私に掛けてくれる優しさが嬉しい。でも神津君のにおいだったらもっと幸せかも、と、贅沢で我が侭な事を考えてしまう。
二人の話し声が耳に届いている筈なのに、耳から頭に届く間に血の気と一緒に溶けて体内で落ちていく。やはり眠ってしまうのだと感じながら、頭の芯はまだ高揚の余韻が波打っていた。
香取君の今後の事。他の皆が私をどう考えているのか。神津君の先程の言葉の行く先。
「しかしあれだ。あそこまで貧弱な威嚇は初めて見たぞ」
「――俺も、驚いた」
何だか酷い事を言われている中、小雨の音が聞こえてくる。道路を行く車のタイヤが水を跳ねる音、ノイズの様な雨音、濡れた足音、商店か何かの雨除けらしい布地に弾けるくぐもった音。濡れた草木の匂い。須藤君の温もりは少し冷えたらしい私にとっては有難かった。
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『夕立迷路・6』
初校201303171551