クラスの女子にはかなり好評だった香取君の転校の知らせは想像通り朝のホームルームを軽い騒ぎにさせた。
学習会仲間の田中君も驚いている様子からして…どこがどうなって転校が決まって誰が知っていたのかが判らない。開けっ放しの窓から吹き込んでくる風はまだ涼しさが残っていて気持ち良い。高校三年の夏に転校する香取君の苦労を考えると風を気持ち良いと考えるのは不謹慎かもしれない。
確かに香取君の事を考えないといけないのだけれど、それより先に考えないといけないのは通路側前方の席で何やらホームルーム半分で数独を解いている佐々木君と私より後ろの席に着いている神津君と須藤君の事だった。
今朝の佐々木君の提案には私は即答出来なかった。
判ってるよと言いたそうな表情でくすっと笑って私の頭を撫でた佐々木君に申し訳なくて、でも何故かそれが許されてしまいそうで、不思議な気分がする。
窓際の席で空を見上げると濃い色の夏空に遠い洋上の入道雲が見えた。短縮授業の開始前だから校庭には誰も出ておらず、散水機が水を撒く円が乾いた土に模様を作っている。風に乗った土と水のにおい。
私は佐々木君や須藤君をどう考えているんだろう。神津君が多分他の学習会の皆よりも特に信用してるのは判るから神津君を介して信用していい…まぁこの前提は香取君の一件があるから鵜呑みにしてはいけない危険性は学習済みで、だから自分なりに考えてみたい。
「玲ー、移動教室ーっ」
いつの間にかぼんやりしていたらしく不意に掛けられた声に私は首を巡らせた。神津君の学習会位の付き合いの同級生は過保護過ぎず気楽で疲れない。
「はぁい」
一時限目の授業の教材を慌てて掻き集めて立ち上がった私の横を……。
「平気か?」
ぽそりと小さな神津君の声がすれ違いざまに聞こえた。不意に聞いたから予想外で、教室内で一瞬でも気にかけてくれるなんて思わなくて、一気に顔が熱くなる。そのまま返事も待たず視線も合わせずまるで辻斬りの様に何食わぬ顔で教室を出ていく神津君に、私は教材を抱きかかえたまま固まってしまう。
「やだ玲、顔真っ赤ー。まだ風邪治ってないんじゃない?」
「槇原さん保健室行かれます?」
「――違うちがう。重症だにゃー玲も」
揶揄う様に言う同級生にどきっとして私は慌てて口を塞ごうと飛びつくけれど、背が高く運動神経もいい級友は軽々と避けてにひひと笑った。
「割とあ奴もまんざらじゃなさげだと思うだけどにゃー」
「えー!?そうなのっ?」
「まぁ」
「違うのーちがうー騒いじゃ嫌だ」
騒ぎ立てる人達じゃないと判っているけれど、やっぱり学習会の内容を聞いたら応援してはくれないと思うと少し残念で、でもそれが当然だと思い出させてくれる有り難い存在でもある。
ぱたぱたと歩く私が前を通る時、佐々木君が数独の本を閉じた。移動教室なのを失念してたのだろうか数独に熱中していたのか、急がないといけないのにたまに暢気な人になるなぁと思いながら私は教室を出る。
きゅっと後頭部で締まる感触の後本当に暗くなった視界に私は少し感心する。安眠用アイマスクや眼帯だと少し光が入ってくるものなのにSM用アイマスクは本当に光を遮断してくれる…これはもっとメジャーに販売すれば寝付きの悪い人に需要があるかもしれない。
「髪巻き込んだりしてない?」
「平気です」
心配そうな佐々木君の声に私はこくんと頷いた後左右に首を振って状態を確認する。アイマスクと言っても目元を隠す帯状の立体裁断されている革製の物で、色は赤でこういった物の色の相場は黒の印象とはかなり異なる。
須藤君の部屋をあんまり頼ってはいけないと思うけれど、今日もやはり須藤君の部屋に私はいる。しかも制服でなく男性物の大きなYシャツ一枚と新調された可愛らしいミントグリーンのストライプの下着姿。『これ本当は木村君のリクエストだったんだけどね』と佐々木君は笑って言ってたので何かアイドルかキャラクター系の設定だろうか…コスプレプレイは疎いのでよく判らない。
神津君とは離れたくない、でも佐々木君と須藤君達なしでは成立しない構図を考えた結果の妥協案がこれだった。
神津君のいる中で目隠ししてエッチ。まるで食べ物の好き嫌いを誤魔化すみたいな方法でちょっと情けないけれど、そうしないと神津君以外を区別して避けてしまいそうだったから仕方ないと思いたい。
「いいか?槇原」
「は、はいっ」
背後からの須藤君の声に身体がびくんと跳ねる。香取君じゃないのにあんなに頼り甲斐のある須藤君の声なのに、跳ねる自分が判らなくて訳が判らず泣きたい気分になってしまう。そんな私の肩がひょいと引き寄せられて誰かの腕の中に入ったと同時に唇が重ねられた。
憶えのあるミントの匂いと辛味のあるキスの味にかぁっと顔が熱くなる私の口内に舌が優しく捩じ込まれ、くちゅくちゅと絡み付く。
「――待った」
不意に須藤君の低い声がして、私を抱き寄せてくれていた腕がするりと解かれる。
「だな」
「だね」
神津君と佐々木君の声の後、複数の動く気配がしてから私の目隠しが急に解かれた。それなりには防音性能を期待出来ても流石にそういう事の間は締め切っている窓を神津君がからりと開けると、夏の夕暮れの風が部屋の中に流れ込んできた。
「え……?あの、あれ……?」
「騙し討ち、よくないよね」
アイマスクを手にした佐々木君の苦笑いに私の全身からかくんと力が抜ける…力なんて入れてない筈なのに、まるで全力疾走をした後みたいに疲れた感覚が襲ってきてそのまま倒れ込みそうになる私の頭を須藤君の手がわしわしと撫でる。
「ラーメンでも食いにいくか」
「そうだね。槇原さん今日夕食こっちでいい?」
「あ、はい、お母さん婦人会で遅いので」
騙し討ち。神津君に騙すなんて言い方を該当させたくないけれど、今しようとしていた事はそれになってしまうのだろうか。誰かのうちの一人が神津君なら大丈夫、他の人がいても神津君なら気付ける、そんな好き嫌いを誤魔化す子供みたいな行為を止めてくれた三人に泣きたい気持ちになる。神津君とは全く違うけれど須藤君も佐々木君もいい人で、男子を好きと評するのには抵抗があって、でもやっぱりいい人なんだと思う。
「豚骨?塩?」
「槇原連れなら二郎は無理だな」
「え?どこでも行けます」
「……。まず無理」
へたり込んでしまっている私をひょいと立ち上がらせると佐々木君と神津君が手慣れた動きでYシャツを脱がせ、制服に着替えさせていく。いつも行為の後の余力のない時は皆に任せるしかない状態で恥ずかしくてもそのままだったけれど、今は体力も残っているのに、余りにも自然な流れについ従ってしまいながら私は顔が熱くなるのを感じていた。
神津君が着せてくれるのは申し訳ないけれど触って貰える事が既に嬉しくて、ブラジャーを綺麗に着ける佐々木君の手も支えてくれている須藤君の手も怖いとは思えなくて…何だか落ち着かなく心臓がどきどきしている。女の子として羞恥心が欠落していて駄目かもしれない。
手早い着替えの後、ラーメン屋へと歩きながら頬の熱さを持て余していた私の耳に携帯電話の着信音が届く。他愛もない話をしていた神津達がぴたりと会話を中断してくれるのに頭を下げつつ電話に出ると、自宅からだった。
《玲? お爺ちゃんが入院したからこれからお父さんと田舎行ってくるわ》
「え? お爺ちゃん大丈夫なの?私も行った方がいい?」
《ちょっと骨折したみたいなの。命に別状はないし意識もしっかりしているらしいけれど、一応交通事故らしいからお父さんと行ってくるわ。玲が急ぐ程じゃないみたいだから夏休みになってからお見舞いに行けばいいわ。だからとりあえず留守よろしくね》
「はい。お爺ちゃんにお大事にって伝えて下さい。お母さん達も気をつけて行ってらっしゃい」
手短な会話が終了して私は少し考え込む。父方の祖父は金沢の人で入院したとすれば日帰りは難しいだろう。父の仕事は明日だけは休むとしてももうしばらく帰って来れないかもしれない。
「――もしかして槇原さんの家、今日一人?」
佐々木君の遠慮がちな問いかけに私はこくんと頷いた。祖父に何かがあったら私もすぐに金沢に行かなければならないし、父は携帯電話を持っているけれど緊急の連絡は自宅にかかってくる可能性は高い。
「流石にそこまでは心配しなくてもいいだろう?」
「……」
のんびりとした須藤君の言葉に少し眉間に皺を寄せている神津君の表情で、私は彼らが気にしているのが私の祖父の体調ではなくて私が一人きりでいる事だと遅れて気付いて、その理由を思い出して強張ってしまう。まさか香取君が家に押し掛けてくるとは思いたくないけれど、でも確かに自宅で一人きりなのは不安と言えなくもない。
「流石に俺の部屋に泊めるわけにはいかんしな」
「家を空けるのは駄目です」
連絡の問題もあるけれど、ただでさえ迷惑をかけている須藤君にこれ以上お世話になるのも躊躇われるし、何と言うか彼女でもないのに異性の家に泊まるのはいけない気がして首を振る私の頭を須藤君の手がぽんぽんと叩く。
「念を入れておこうか?」
「いや…玲、俺が泊まってもいいか?」
神津君の問いに、私の頭が真っ白になった。
両親の留守に男の子を自宅に招き入れるなんてとんでもない素行上の問題。
頭の中で正体不明の渦巻きがぐるぐると回る漫画の様な精神状態のまま、私は新しいバスタオルと父の浴衣を持って脱衣所へ向かった。下着などはコンビニで購入してくれたので父の物を準備せずに済んだのが有り難い。
「あの、湯加減、如何ですか?」
「ちょうどいい」
神津君が我が家のお風呂に入っている。用心棒としてであって決してふしだらな意味で考えないでいいと言われていても、あの神津君がこの神津君がその神津君が我が家にいるなんて。顔が真っ赤になって目が回りそうになる。
夕食の後須藤君と佐々木君とは別れ、運良く近所の人と鉢合わせする事もなく家に帰宅してからあまり会話も出来ていないから神津君も気詰まりかもしれない。とりあえず神津君の服は現在洗濯中で、明日の授業の教科書は隣のクラスの友達から借りる手筈を整えたそうなので心配しないで済むそうだ。
「浴衣、置いておきます」
神津君の布団を客間に準備しないといけないので脱衣所から出ようとして、でもこのまま立ち去るのが何となく切ないのは不謹慎で、心臓が激しく脈打つのに、何か不安で仕方ない。
面倒にならないだろうか。友達と絶交してしまう原因だけれど彼女でも何でもなくて、家に帰れず用心棒をしないといけなくて、会話も下手で、頭の中がすぐにいっぱいになってしまって…。いや、多分それは事実だけれど言い訳で、神津君が触れてくれないのが不安で仕方ないのだ。贅沢に慣れてしまった。
家はもう戸締まりも済ませてあって、もしも香取君が襲おうとしても雨戸や玄関などを壊さなければ侵入出来ない。父は夏の間は暑さが厳しくなければ居間のテラス窓を開けて網戸にして過ごす習慣があり、防犯上の不安が以前から若干あったから現在の状態で十分に安全と思えるし、父に香取君の事を話して窓を閉めて貰うのはかなり問題があるのでこの状態は二重三重に有り難かった。
「槇原」
「は、はいっ」
「判らない科目があるなら後で教える」
浴室内でぱしゃんとお湯の弾ける音と比べて神津君の声が押さえ気味なのは、ただでさえ響きがちな浴室からの声をでお隣さんなどに聞かれない為だろう。静かな住宅街での外聞を意識してくれるのが嬉しいけれど申し訳ない。
まだ夏休み直前の短縮授業は残っており、確かに不得意科目の授業が明日もある。でも神津君と二人きりの夜に勉強を教わるのもおかしな気がして、そしてふと神津君の呼び方が名前でなく苗字の方だと遅れて気付いた私の肩がかくんと落ちる。本当に用心棒として真面目に気遣ってくれている神津君に対して変に意識してしまう自分が恥ずかしい。それに骨折して入院している祖父や今まだ金沢への移動中の両親にも申し訳がない。
「ゆっくりお風呂入って下さい」
そう言い脱衣所を後にする私の背後で先刻より少し大きくお湯の弾ける音がした。
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『夕立迷路・9』
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