3.日本画と水墨画

平安末期に禅僧らによってやってきた水墨画ですが、その後禅僧らが禅の思想をもとに描く時代がつづくいたのち(室町時代)、狩野派の誕生によって水墨画の「日本化」が起こったとされています。(平凡社 別冊太陽 水墨画 より)「武家俗人の専門絵師の出現」と平凡社 別冊太陽 水墨画では書かれています。

ではそれまで職業絵師は世の中に存在しなかったのか・・・というと、ちゃんといます。平安時代に描かれた「絵師草子」などに登場しています。しかし前者と大きく違うのは彼らは「宮廷絵師」で「武家俗人の専門絵師」ではないんですね。

どうも現代人の感覚だと、こうした身分制度の厳しさになかなかピンとこれず、古い日本の絵画などを見ていても、ついつい、描かれた年号にばかり気が行ってしまって、「宮廷絵師」の作品も「武家(ご用絵師)俗人の専門絵師」の作品もごちゃまぜに捕らえてしまうきらいがありますが、これは凛然と乖離させてとらえる必要があると思います。

これはあくまでわたしの個人的な推測ですが、「宮廷絵師(朝廷の)」の技法、いわゆる大和絵の技法は絶対に門外不出であって、「武家俗人の専門絵師」たちには伝播されておらず、武家や商人や町人たちの間で絵画に触れる機会を得るには、室町時代、武家出身の狩野正信の出現まで「武家や商人や町人たちのための日本画の誕生」を待たねばならなかったのだとおもいます。

ここでややこしいのは、公家や朝廷の装飾を担ってきた大和絵にも水墨画は影響を及ぼしていますし、武家や俗人たちのための装飾絵画は水墨画から生まれてきた・・・ということになります。

混乱をさけるために、以後は「武家俗人」を対象にした絵画としての日本画と水墨画について書いて行きます。こうして、狩野派が誕生し、水墨画は「日本画」を産み出し、桃山時代には、キリシタン宣教師らが持ちこんだイタリアや北方ルネッサンスで名高いベルギー絵画などの影響を色濃く受けて装飾性ゆたかなものへと変遷を遂げて行きます。(注・のちに狩野派は京都御所にも出入りするようになるので、幕府のご用絵師の座を超え宮廷絵師としても活躍していきます)

江戸時代に入って尾形光琳を創始者とする琳派がうまれるなど、他にもかずかずの流派が「職業絵師」の流派として誕生し明治に一気に衰退期を迎えるまで、活躍しつづけることになります。