「現行憲法下における『天皇制』の存在理由についての考察」
(2008年度)慶応義塾大学通信課程 法学部 甲類(法学部) 卒業論文 杉崎しをり著
はじめに
第一章
天皇の歴史的変遷
1.
古代における天皇
2.
中世から幕府へ
3.
軍事政権としての徳川幕府
第二章
天皇制と中世ヨーロッパにおける政治権力正当化の構造
1.
キリスト教会と王権
2.
日本古代に見る二王政と中世ヨーロッパ社会
3.
権力の正当化機関としての権威
第三章
明治憲法と天皇
1.
フランス革命と明治維新
2.
リバイアサンと現人神
3.
226事件と天皇機関説
第四章
第二次大戦後の天皇制
1.
天皇制と天皇教
2.
終戦と天皇制の必要性
3.
民主主義と天皇制
第五章
現行憲法下における天皇制とは
1.
国事行為が意味するもの
2.
象徴天皇制民主主義と多民族国家日本
3.
むすび
はじめに
2007年5月14日 憲法改正にむけて国民投票法案が可決した。
憲法改正にむけて、その賛否については、筆者は言及を控える。第二次大戦後新たに制定された現行憲法が、歴史的な必然性のもとに改憲されるのであれば、それもまた歴史の一部として捉えていく必要があるからである。
憲法改正にむけて現在論議の中心となっているものに現行憲法9条の問題がある。
日本の交戦権に対する論議は既にあちらこちらでなされているが、天皇制に関する議論はあまりなされていないように思われる。
単刀直入に言ってしまえば、筆者は憲法改正がなされたとしても、天皇制は残すべきであると考えている。これが結論である。では何故、残すべきであるのか、残すのであれば、どういった形式で残していけばよいのか。その「存在価値」を本稿にて明らかに出来ればと想い執筆することとした。
現行憲法下における天皇制は「象徴天皇」という形をとっているが、わが国の長きにわたる歴史の中において、天皇はさまざまな「形態」をとりつつ、現代に「存続」している、わが国固有の「権力統制システム」であったことを表してみたいと考える。このシステムは、時の権力者たちが、「天皇」という不可侵領域を設けることによって、権力のバランスを取ってきたという「特殊」な「文化形態」であると筆者は考えている。人間には我欲はつきものである。自らの権力、財力は際限なく伸ばして行きたい、その地位も頂点を極めたいと考えるのは、一種本能であると考えてもよい。その「無制限」な「権力欲」を日本の「天皇」というポジションは、しいて「権力から距離を置く」ことで、逆に「コントロール」してきたという特殊性を持っている。たとえば想像してほしい。ここに人数分に満たない椅子が一つある。電車やバスの中のようなカジュアルなシチュエーションであるなら、開いてる席を見つければ、すかさず座るようなこともある。しかし、何かの式典のようなフォーマルな場所で、開いている席が一つしかなく、あとの数人が立っていなくてはならないような場合、われ先にとその席に座る人間は日本文化の中ではなかなかいないであろう。席が一つ目の前に空席であるからこそ、他の数人が、「平等に立っていることに納得する」ということもあるのである。その「空席」がまさに「天皇」のポジションであると筆者は考えた。
本稿は第一章「天皇の歴史的変遷」によってまず、初期天皇の存在の形態を明らかにする。「古代における天皇」がいかに、政治中枢の中心におかれていたか、また自ら政治を執り行う形態の中に入っていったか。その結果引き起こされた悲劇は何であったかを表すのが狙いである。
第二章「天皇制と中世ヨーロッパにおける政治権力正当化の構造」においては日本独自と思われる「権力正当化機関」としての「天皇制」と「中世ヨーロッパ」における「キリスト教会」との「権力正当化の構造」を比較することによって、そのシステムの酷似制を紹介しつつ、「世俗的権力」から距離を置くことによって、むしろとめどない「権力の抗争」を牽制してきたという構造を紹介したく思う。
第三章「明治憲法と天皇」においては、徳川幕府の崩壊、明治維新というひとつの旧体制が大きく崩れ去る時代背景と、同じく、アンシャンレジームの崩壊と近代化のために勃発するフランス革命とを比較することによって、日本人の持つバランス感覚を紹介したい。一方は「国王」が処刑されるにいたり、またそのことによる、動乱はとどまるところを知らなかった。一方明治維新においては「天皇」は「別の役割」を持たされることによって「存続」する。その「従来とは別の役割」とは何であったのかを、第二章にて明らかにした「政治権力正当化の能力」を持つ「キリスト教」と西洋文化の導入によって、「天皇」の存在の形態に「変化」をもたらさなくてはならなくなった過程を記する。
第四章「第二次大戦後の天皇制」では、暴走する軍部とアメリカとの間で、日本を終戦させるにあたっての「天皇」の担った大きな役割について述べる。
そして最終章第五章「現行憲法下における天皇制とは」では、「象徴天皇」とは何か。「民族の統合の象徴」とする「天皇」の存在理由を解明するとともに、身分制度を否定する「民主主義」と「天皇」の関係を考察する。
こうして、わが国とともに「存在」してきた「天皇」を歴史とともに眺めることで、わが国における天皇制とは、長い歴史の流れの中で培われてきた、民族の「知恵」であることが浮かび上がってくると考える。その「知恵」は継続することによりいまや「文化」となっている。
憲法改正が叫ばれる今、「経済的理由」または、「民主主義」もしくは「社会主義」に、その「天皇」という「身分」が抵触するとして排除されるようなことがあってはならないと筆者は考える。なぜならば、「天皇」という存在は「身分制度」を超え、いまや「文化」であり、重要文化財的存在価値を見出すことが出来るからである。また、その「不可侵領域を置くことで権力の統治、統制のバランスを取る文化」というものを永らく保持してきた日本人の政治的民族性は、これからも引き続き継承される価値があるものと考えるのである。環境や文化的建造物のように、破壊することはたやすいが、再び取り戻すことの出来ないものは「保護」していくことが必要である。
そうした意図の下に本稿を書いたつもりである。
天皇制を語ることにおいて、「右翼思想」であるとか「排他的民族主義」、ひいては「軍国主義」であるとの短絡的な烙印を押されることを恐れるあまり、「天皇制」そのものの価値を、こうした短絡的思考の渦に巻き込み、充分な推考もせず、価値も見出さないまま、うやむやにされてしまうことを筆者は何よりも恐れる。
本稿は「天皇礼賛」「軍国主義絶賛」的なものではなく、いかに、わが国の歴史の中で「平和のために天皇がその役割を果たしてきたか」また、過去における悲しむべき歴史的事実のように、政治的に悪用されることなく、「天皇とは何か」を、歴史的所視点から分析し、これからの「天皇」の役割がいかにあるべきかを提案するために著したものである。
第一章
天皇の歴史的変遷
1.
古代における天皇
はじめに本章を表すにあたり明確にしたい事は、本章の目的は「古代における天皇」がいかに、実質的権力の中心に存在した者であったかであって、その「起源」に関しては、本章の目的とは合致しないので、『紀記』『日本書紀』『古事記』等にみられる「神代」の神話の中の神々と、歴史的事実とされる天皇の名を重ねあわせるような作業は行わない[1][1]と同時に「上代」を「古代日本」のスタート地点と位置づけ、その歴史的資料の拠りどころを慶應義塾大学教材『日本法制史1〔古代〕』(利光三津夫 著 慶應義塾大学出版会 平成11年8月20日)と同大学教材『歴史〔日本史〕』(河北展生・志水正司・高橋正彦・高瀬弘一郎 著 慶應義塾大学出版会 平成12年3月10日)とする。
利光教授によれば古代日本は
「紀元前1.2世紀に中国人が国または国巴と称していた氏族国家が並びたち、かかる氏族国家は、統合をくりかえして、大体三世紀大和の北半、または北九州の平野を支配するいわゆる氏族連合国家に発展した。そして、これ等の連合国家はさらに強者が統合するという運動をくりかえし、四世紀より五世紀にかけて関東地方より北九州にかけての国家を作にあげた。」(「日本法制史1〔古代〕」利光三津夫著 慶應義塾大学出版会 平成11年8月20日8頁 )
とされる。また同大学教材『歴史〔日本史〕』(河北展生・志水正司・高橋正彦・高瀬弘一郎 著 慶應義塾大学出版会 平成12年3月10日)においての古代日本は
「推古朝遺文と認める上宮記一云々を用いて 崇神天皇に遡る系譜の信用度を検討して、崇神は実際の天皇であり、仁徳天皇の年代から逆算して、三世紀末か四世紀初のころの人物と推定している」(「歴史〔日本史〕」河北展生・志水正司・高橋正彦・高瀬弘一郎 著 慶應義塾大学出版会 平成12年3月10日6頁)
とされる。
この両説を尊重して考慮するとすれば、四世紀より五世紀にかけて関東地方より北九州にかけて国家を形成した氏族連合国家をさらに統合した「強者」の中に「天皇の系統」を見ることが可能であると定義する。氏族連合国家の長たる「王」をさらに「大王」たる「強者」が統合する「倭の五王」時代[2][2]から、大和朝廷までの経過は冒頭で述べたとおり、さほど本章の目的に影響のない事柄であるので、細かく記すことは避け、これから記する六世紀末の大和朝廷が現存する「天皇の系統」を内包する朝廷であった事を前提として進めていきたいと思う。 何故「天皇の系統を内包する朝廷」などと、まわりくどい表現をもちいるかといえば、当時の朝廷は「大王」すなわち「天皇の系統」を有力な豪族が取り囲んだ形で、政治が行われ、天皇家と姻戚関係を結ぶ有力豪族、蘇我氏の如き勢力等が権力争いを行う活発な状態であったためと考えるからである。それを裏付けるものとして、以下の笠原英彦教授、利光三津夫教授の両説を引用する。
「日本古代史上にはいくたの大事件が発生しているが、なかでも祟峻五年〔592〕の祟峻天皇暗殺は実に衝撃的というほかはない。いまだ「天皇」号が成立していないことを考えれば大王暗殺と呼ぶべきであろうか。当時、天皇は依然「大王」と称せられ、大和朝廷を構成する大豪族ら〔王〕にとって、いわば同は同輩者中の主席ともいうべ存在であった。とはいえ、事件が朝廷にあたえた衝撃が絶大であったことは疑いがない。王位継承をめぐる王族間の争いはまさに血ぬられた闘争の歴史であり、背後にある大豪族らの覇権争いを色濃く投影していた。大和王権が軍事力によって支配を拡大した五世紀は、もてる軍事指揮能力や豪族らを束ねる力量が自然に大王を決定していった側面が大きい。だが、いざ戦乱の世が去り、政治的秩序の維持が至上命題となると、大王に期待される能力にもしだいに違った要素が求められた。とりわけ重要なのは大臣ら大豪族との関係であった。それは大王即位の決定権が事実上、王族よりもむしろ大豪族の手に握られていたからにほかならない。「日本書紀」は、祟峻暗殺をこともなげに記す。まず祟峻五年十月条に、山猪が献上された際、〔祟峻〕天皇は猪を指して「いずれのときにか、この猪の首を切るがごとく朕が嫌しとおもふところのひとを断らむ」と詔したとある。これに続き、書紀は「多くつわものを設くること、常よりも異なることあり」と記していることから、身辺の警備を強化したことがうかがえる。まもなく蘇我馬子は天皇の詔を聞きつけ、「朕が嫌しと思ふところの人」とは己に違いないと畏怖し、一党を集めて天皇暗殺を謀ることになる。翌月東国の調を進上する機会をとらえて、「東漢直駒をして、天皇をしいせまつらしむ」にいたる。天皇の身辺警護の強化はいっそう馬子の警戒心を煽らずにはいかなかった。祟峻の政治姿勢が馬子との距離を広げていただけでなく、王権と時の最高実力者との間には常に一定の潜在的緊張関係が存在したと考えねばならない。」〔「天皇と官僚 古代王権をめぐる権力の相克」笠原英彦著PHP新書 1998年12月4日第一版第一刷 20〜21頁〕
「氏姓制下の国家体制は、五世紀以降着々と整備せられ、その中心首長の地位は大王と称せられた。大王の訓は、「大王」であり、また別に、「あめのたらしひこ」とも称した。大王は、五世紀には既に、卑弥呼の如き司祭的な性格を脱却し、「宋書」夷○伝に見える。倭王武の如きは、その上表文によれば、軍事的指導者としての君主の姿をみせている。しかし、司祭的性格がまったく失われたわけではなく、「随書倭国伝」に見える、推古帝などは聖徳太子を俗王とする二王制の体制を復活している。これより見れば、大王の権威は複合的であってその置かれた環境によって、さまざまな権威を使い分けていたものと見てよい。なお、大王の権力が、絶対的なものであったか否かには、先人の対立せる論があるが、筆者はこれを否定的に解し、政権は大王を中心とする、畿内豪族の連合によって保たれていたものと考えている。」〔「日本法制史1〔古代〕」利光三津夫 慶應義塾大学出版会平成11年8月20日14頁〕
この権力抗争の顕著な歴史的裏づけとして、わが国初の憲法十七条の制定〔604〕をあげる。
憲法十七条は、いわずと知れた聖徳太子作とされた憲法である。実は筆者としては、この憲法十七条の中に、ひとつの疑問点を発見しているのだが本稿の目的からは焦点が若干ずれるので、ここでは取り上げずに置くこととする。まず、憲法十七条と太子〔厩戸皇子〕の系図も重ねて上げたい。
1-3 〔系図引用「天皇と官僚 古代王権をめぐる権力の相克」笠原英彦著PHP新書 1998年12月4日第一版第一刷 23頁より〕
1-3の系図を見ると大豪族蘇我氏の中に天皇家の系統が姻戚関係を以って密接に絡みあっている。厩戸皇子は用明天皇の息子でもあるが、母方の血をたどれば蘇我稲目は祖父、馬子は叔父にあたる。大豪族の血と天皇家の血の両方を引く厩戸皇子は、憲法十七条を読む限り、「大豪族」と「天皇家」の間に入って両者の緊迫する関係の調節役を行おうとした人物であったように筆者には思えてならない。憲法十七条の第一条「以和為尊。」(「日本法制史」資料 霞信彦 漆原徹 浜野潔 慶應義塾大学出版会2005年7月16日 初版 第2刷より)はあまりにも有名な文言であるが、憲法十七条は終始「豪族」に対して「争いをやめるよう」諭しているように思われる。冠位十二階の制定は豪族たちに官僚としての身分の保障を行ったが、裏を返せば天皇家との差別化を図ったともいえる。馬子による祟峻天皇暗殺のような暴挙を行わせることのないよう、又、天皇家の血筋を引く太子が推古女帝の摂政となって自らが大王として立たなかったのも、天皇から「政治的権力抗争の対象となる因子」を抽出しようとしたためではないかと考える。憲法十七条の二に上げられる「篤敬三宝。三宝仏法僧也」(「日本法制史」資料 霞信彦 漆原徹 浜野潔 慶應義塾大学出版会2005年7月16日 初版 第2刷より)という仏教を薦めるのも、天皇家の祖を祭る「神道」は天皇のものに。豪族には、それと代わる仏教を。という、やはり一種の差別化を行ったのではないかと考えるのである。差別分離を行おうとしたということは、それだけ天皇と豪族が渾然一体となって政治権力の中心にあるのは、いつ政変によって天皇である「大王」が暗殺されるかわからない状態にあるということであり極めて危険な状態であることを太子は経験的に知っていた。[3][3]憲法十七条十四に「郡臣百寮。無有嫉妬。我既嫉人。人亦嫉我。嫉妬患。不知其極」(「日本法制史」資料 霞信彦 漆原徹 浜野潔 慶應義塾大学出版会2005年7月16日 初版 第2刷より)と「人の持つねたみ」についてとくとくと述べているが、こうした妬みの渦中に太子自身も居て悩まされた事をこの文言は立証していて、又その妬みが「不知其極」となって、権力争いがとどまるところを知らず、結果、国家のための政治ではなく「妬み」と「我欲」による権力争いへと発展していくのを太子は心を痛めながらも「歯止め」をかけようと苦心されたのではないかと思うのである。太子のなかの政治権力の構図は1-1 のようなものであったと思われる。図1-1の構図は天皇と太子が平行に位置づけられている。この構図は、天皇の権限を主に「祭司的役割」として、実質的な政治権力の中枢から遠ざけ、太子自身が「摂政」となることで、天皇の名代的存在となり、「並立」した状態を意味している。
、しかしこの構図は豪族の側からは1-2図のように見えた。1-1のような、かつて古代にて行われていた卑弥呼と弟王との「二王制」の図式をもって、実際の権力の場から天皇を排除し、「二王制」のごとき「祭司的」な部分による「権威」の役割を天皇に持たせる試みは、豪族たちの目に映った構図とは食い違う。太子の考案した方法は、豪族側からしてみれば、いままで天皇もほぼ自分たちと同等な権力の立場にあって、車座で円卓会議的に物事が決まっていったのに、太子のとった「摂政」というポジションが設けられることによって、天皇に対してストレートにものを言うことが出来なくなった。なにやら、「太子」という事務局を通さなくては話が天皇に伝わりにくくなった。そう、かんじられたのではないかと推察するのである。太子の、「天皇を政治の外に置くことで天皇の存在を守る」という考え方は豪族には伝わらず、目の上のたんこぶ的なものとしか「摂政」という立場がうつらなかったのではないか、太子の考案した1-1の構図は、豪族からすると自分たちの上に、何かひとつぬきんでた権力を持った存在が天皇との間に入ったと見えたのではなかろうか。
このビジョンの食い違いが後に悲劇を巻き起こすことになる。

1-1

1-2
太子の憲法十七条設立によって、天皇と摂政、冠位十二階による豪族の格付けが行われ、政治の中枢部は血みどろの権力抗争が収まるかに見えたが、実際は、天皇と豪族間の間に「摂政」というワンクッション設けられたことによって、実権が思うままに振るえなくなったことによる不満であろうか、蘇我入鹿による上宮家〔太子一族〕討伐[4][4]が行われ、かつて祟峻天皇暗殺を行った蘇我氏としては二度目の暴挙を行うにいたる。かかる暴挙に対し、中大兄皇子と中臣鎌足らは、入鹿を殺害。世に言う「大化改新」が行われる。以降、中大兄皇子が天智天皇として即位し、その子大友皇子との皇位争い〔壬申の乱〕を経て後、大海人皇子が天武帝[5][5]として即位すると、天皇は改めて「律令制」を導入し、政治の世界のイニシアチブをとるポジションへとシフトすることになる。このようにして古代の歴史をたどることにより「古代における天皇」という存在が、いかに実権を伴うグループの中心的存在であり、政治権力の抗争に巻き込まれなくてはならないほどの存在であったかが推測されるのである。
2.
中世から幕府へ
この章では古代における「天皇」から、律令制を導入した「天皇」の存在が、政治的にいかに変化していったかを表してみたいと思う。
憲法十七条における聖徳太子の「天皇制」の構図は2-1のようなものであった。

2-1
しかしながら、その構図は安定せずに、大化の改新をむかえ、時を経て天智帝のころより導入された律令制によって新たに、政治の構図は変化する。
律令制は天智帝・天武帝・持統帝と時を重ねるごとに整備され、「大宝律令」を持統帝が完成させるころには天皇をめぐる政治の構図は2-2に変化し、「二官八省一台五衛府」[6][6]の組織体制が完了する。

2-2
古代における天皇制の軍事力は豪族による人材派遣に支えられてきた面が大きいと思われるが、このころになると軍事力が五衛府のもとに組み込まれることが大きな特徴である。
中央官制も整い地方官制も整い、対外的軍備は整備されたが、一方この組織体制では国内の地方に対しての警察機構に弱点を持っていたように思われる。対外的な軍の発動に関する指令は、今日のそれとは違い、緊急性を要しなかったので、いったん「中央」での閣議の末、決定、指令という手順でもよかったが、地方や、緊急性を要する騒動の鎮圧等には、やはり中央からの指示では伝達が遅れ対処も遅れる。後に「荘園」を荒らす悪党から「荘園」を守る自警団が発生するが、その自警団こそ後の「武士」階級となる。「自警団」の起用は、今流に言えば、国家が、民間のガードマン会社と契約して警察的権限を与えているうちに、いつの間にか、その民間企業がそっくり国営になっているという形態をとる。武士の発端的な存在として「検非違使」が令外の官として律令国家の組織に追加されるわけであるが、「律令の外の官」という異例な応急処置的部署を設けたことは、のちに律令国家を崩壊に導く蟻の一穴になっていくのは興味深いものである。地方の治安維持に関しては五衛府に「地元の自警組織」が加わることで強化され、都の治安維持のためには追加的に置かれた検非違使があったが、本来なら律令体制の律にならって刑が行われなくてはならない。[7][7]律令体制下の刑に関しては、その刑の執行の厳密な規定に驚かされる。律には五刑〔笞・杖・従・流・死〕があるが、女性や子供は刑の適応能力が低く、死罪以外であっても、笞〔むちうち〕や杖〔つえうち〕による刑によって結果的に刑に耐え切れずに死んでしまう可能性が高い。死んでしまっては、死罪と笞・杖・従・流の区別の意味をなさない。
「なお婦人もまた流刑について、決杖留住役の対象とされるが、これは婦人は生活力がなく、独り流刑地において生計をたてえないからと説明される」〔「日本法制史1 古代」 利光三津夫著 慶應義塾大学出版会平成11年8月20日105頁〕
とあるように、刑は刑として執行することは守られるが、又、その刑以上の結果が起こってしまうことは刑を下す帝の命令にそむくことにもなる。
「凡杖。皆削去節目。」『令義解獄令』(「日本法制史」資料 霞信彦 漆原徹 浜野潔 慶應義塾大学出版会2005年7月16日 初版 第2刷より)
と杖罪に用いる「杖の節目を取り除く」よう規定があるが、これは刑の目的は杖でたたくことであって、節目のついた杖で傷を負わせることが目的ではないからである。ましてや、死に及ぶようでは刑の過剰になる。このような律の執行は裁判手続きによって行われるが、強盗や窃盗などの緊急性を帯びたもの、また犯罪者と互角に戦える能力を持つものでなくては治安維持が難しくなった京都には「検非違使」の設置はやむをえない処置であった。強盗・窃盗等の犯罪が多発した背景には、班田収受制度が日本国に不向きであったため、貧富の格差が生じ、貴族宅を狙う夜盗・盗賊の類が後を絶たない状態になったためではないかと推察する。そして班田制度が崩れると「荘園」がますます発達をとげていく。基本的に班田制も荘園制も田を耕すことにおいては変わりないはずである。が、荘園制の田を耕す人材は「力田の輩」とよばれる「力仕事の専門家」によるものであったから、おなじ条件下であっても、もともと資本力のある貴族たちによる人材の確保が「生産性」の高さと結びつくのは必然的といえる。
また荘園は、寺社・神田の不輸・不入の特権にも着目していくことになる。以降荘園制度の発展については慶應義塾大学教材『日本法制史1〔古代〕』(利光三津夫著 慶應義塾大学出版会平成11年8月20日134頁)利光三津夫教授の説を引用したい。
「律令の下においても寺田・神田は不輸とされているから権門勢家はいずれもこれに準じて自己荘園の不輸化につとめた。不輸の荘園は承和年間以降にはじまり初期においては太政官府民部省府によって合法的地位を得た。かかる荘は官省府荘と呼ばれている。官省府荘は国家に対して負担を強いるものであるからその設立には厳重な手続きを用いた。それには先ず、一定の土地の租税免除の申し込みを出し太政官がこれを審査し積極に決すれば官或いは民部省より国衙に対して符が下される。而して国司は申し立て人とともに現地に赴き測量をなし、四至を決定し榜示をうち、その目録を太政官に報告する。それを立券荘号と称しここにおいてはじめて不輸の特権が認められたのであった。延喜以降、しばしば発せられた「新制」中の荘園整理令の対象とされたものは、かかる不輸の荘園であった。不輸の特権は、平安中期には国司もこれを認可しうるようになり、国司の発行する許可証を免判と称しかかる国免荘は、その手続きが簡易なゆえに、官省府荘にかかわって次第にその数を増した。荘園が不輸化すれば、国司は徴税のためにこれに入部する必要が皆無となる。もともと、古代王政の民政安定の目的は、租税徴収と平行するものであるから、入部には、国衙にとっては利益がなく、荘園側にとっては迷惑以外のなにものでもなくなる。仍って、不輸の特権は、次第に拡大され、国司の入部を拒絶する不入の特権をも含むこととなる。ここにおいて、荘園は、国家の統制を離脱し、国家内に半独立の政治団体が生ずるに至ったのである。」
こうして「荘園制度」が全国的に発展していくとみられるが、中でも寺田・神田の不輸の法を荘園がとりいれていく過程として筆者はひとつの仮説を立てている。それは「稲荷神社」の存在である。稲荷神社の祭神は何の神であるかを筆者は一時期調べたことがあるが、どうしても「祭神名[8][8]」が出てこない。ただ「きつね」が強調されるばかりで、稲荷明神とは何なのか、神そのものの名が筆者の調べる現段階では明らかにならないのである。そして「お稲荷さん」すなわち「きつね」とされることもあって、なにやら「きつね」そのものが「祭神」であるかのように扱われているむきもあるが、あくまでも「きつね」は「田の神の使い」であって「ご神体」そのものではない。さらに、稲荷には時折「律令制」による官位が朝廷より与えられているものも存在する。[9][9]これは稲荷特有の現象といってもよいかもしれない。
こうした「田」と「稲荷」の密接な関係から推測するに、「私田」であった荘園内に「稲荷神社」を建立することで「神田」とし、減税を試みようとしたものではないかと考えるのである。「いなり」は「異なり」とも解釈できる。「私田」とは「異にするなり」という意味あいをこめて立てられた、書類上の土地区分のための「神社」だったのではないかと筆者は推測している。こうした詭弁が役人である貴族社会で横行することで「不輸・不入」の特権が成立し、政治腐敗も進んでいったと考えられる。そうした腐敗した官僚中心の政治に、律令制が陥っていった原因としては、律令制においての「参議」が天皇の強い独裁的決定権のもとに行われていたわけではなく、参議の構成員たる有力貴族からの圧力が常に天皇の決定権に影響を及ぼしていたことも原因であると考えられる。天皇を牛耳ったかたちでの有力貴族による独裁政治は藤原氏・平氏によって行われた歴史があるか、そうした政治体制になると、再び天皇の権力回復を行おうとする力もまた浮上してきざるをえなくなる。こうした流れの延長線上に、天皇による院制政治や、天皇と上皇の対立、保元・平治の乱等、天皇派・上皇派とが合間見えることになる。「武士」の原型が「荘園の自警団」であるとすると、政権を握る貴族と武士との間は親密な利害関係が生じる。そうした時代背景の中から、律令政権下で権力を握った貴族「藤原氏」から、平氏の時代へ移行、その平氏がかつての藤原氏と同様の勢いをみせると、源氏によって討伐。この栄枯盛衰ぶりを見た源頼朝のとった道は平氏討伐後、平氏のいなくなったポストに源氏が入れ替わる政策ではなく、「貴族社会」に属することなく、鎌倉に幕府を開いて朝廷とは別機関としての国家体制を築くという道であった。正式に朝廷より、この新しい「幕府」という組織が認可されることによって「律令体制」における「五衛府」の実質上の機能は失われ、天皇から軍事力を取り去った状態が生まれたと考える。軍事力は権威という正当性を失えば、暴力となる。以降、武士による戦国時代から徳川幕府に至る歴史の流れの中において「天皇の勅令」があるか無いかによって、武家の軍事力は「正当な軍事力」か「暴力集団」かに区別され、武家という組織にとっても、その区分は、とどまるところを知らない泥沼の戦いを避けるべく、必要不可欠な「ルール」となっていったと考えるのである。
3.軍事政権としての徳川幕府
権力には三通りの種類があると筆者は考える。ひとつには軍事力。二つには知力。三つには財力。軍事力や財力が「権力」であることは容易に理解しやすいが、知力が権力であると考えるのは理解されにくいかもしれない。しかし、知識は「力」である。人の知らぬことを知っていることは他者より勝ることになる。今までに無い知識や、他国のことを知るもの。または、古い経験を持つもの、それら「知識」を持ったものが政治の世界に参入すれば、それは「権力」となりうる。大豪族の自警団として発達した武士が、鎌倉幕府、室町幕府を経て、戦国時代をむかえ徳川幕府にと移り変わって徳川幕府という280年[10][10]に及ぶ安定期をむかえたときの政治権力の構図3-3は、古代における天皇でのべた、聖徳太子の描いた構図3-1を豪族の側から見た構図3-2と重なり合うものとなっている。


3-1
3-2

3-3
「幕府」という形態を生み出したのが源頼朝であるが、彼のつくり出した「幕府」の構図も徳川幕府のものとまったく同じ形態をとっている。ここに小説『源頼朝』の作者山岡荘八の言葉をかりれば、この構図の意図するものは
「それまでの院のやりかたは、頼朝が深く警戒していたように、実力のあるものが現れると、その敵となりえるものを選んでは、これに対抗させ、会い争わせて、院の勢力を維持するという陰険な政策に終始している。平家の末路は義仲の最後など考え合わせると思い半ばにすぎるものがある。したがって、頼朝の幕府草創の根本目的はそこにあった。どうして院をそのままにしておいて、日本中の武士を掌握統一していくか。それをしなければ、いずれ頼朝やら官軍やらわけのわからぬ戦乱が果てしも無く続いていく・・・・。そこで院と地方武士の間に武士の棟梁として頼朝が厳然と存在し、武士の叙任は一切頼朝を仲介者としてこれを行う・・・それでようやく、平和がくると計算した。」(「源 頼朝」 山岡荘八著 講談社文庫 昭和56年4月20日第4刷 347頁)
この文章一文に集約されているといっても過言ではないと思う。かつて聖徳太子が行おうとした形態も「天皇をそのままにしておいて、豪族の棟梁として太子がいならぶ豪族をしきる」形をとろうとした。しかし、天皇が実権をにぎり、その天皇と姻戚関係を結ぶことによって豪族たちにも「血で権力が継承される権限」が分配されてしまう現実がある以上「血で血を洗う権力闘争」が天皇を巻き込んだ形で繰り返されるのは必然的である。これをくいとめるには「権威」と「権力」を切り離すしか方法はない。聖徳太子も頼朝も徳川家康も1000年の時を隔てながらも構想は同じであったかもしれない。ただし、太子の構想が実現するまで、その「構図」には改良されなくてはならない問題をひとつひとつクリアしていかなくてはならなかった。その結果として徳川幕府にたどり着くまでに1000年の時代と「戦乱」を要したのだった。
徳川幕府は聖徳太子が行おうとした古代邪馬台国で行なわれていた「卑弥呼」と、その「弟王」による、シャーマニズムと軍事力との「二王制」の進化形であると考える。無論、「シャーマニズム」は「天皇の権威」に置き換えられる。そもそも「権威」とは何か。権威とは暴力を使わずに相手を従わせるパワーである。「権威」の構成要件として「時間の経過」は不可欠要素である。コミュニティの最長老を敬う文化は世界的な規模での共通価値観[11][11]として存在するが、その長老が何故「敬意」を表されるかは、「長く生きた」ことによる。
医療の発達していない昔において、「長く生きた人間」はそれだけさまざまな危険を回避してきた証である。時には戦い、又周囲から守られることで永らえる。周囲から守られるということは「周囲が守る価値があるもの」と認めたものである。徳川幕府は「天皇」から「実権」をとり除くことに成功した。禁中並公家諸法度[12][12]によって、律令制の政治組織は実質的に封印されたと考える。そして天皇からの委任をうけて徳川幕府は、ほかの勢力を持つ武家を押さえつけることに成功した。この徳川幕府の行った政策をここでいちいち挙げ連ねることは本論文にとっては意味のないことであるから差し控えたい。本章の目的は徳川幕府の下、天皇が政治の実権の場から離れることで280年平和が保たれたという事実を導くことだからである。
第二章
天皇制と中世ヨーロッパにおける政治権力正当化の構造
1.キリスト教会と王権
本章の目的はキリスト教会を中心とした中世ヨーロッパにおける政治権力の正当化の構造について明らかにすることであって、政治思想史の歴史の中で、思想活動がキリスト教によって弾圧され、科学的発展を阻まれた暗黒時代であったことを肯定したりもしくは否定したりすることを目的としていない。むしろ、中世ヨーロッパ社会の権威と王権の構造を再確認することによって、日本とヨーロッパという全く地理的にも異なる社会において、ほぼ一致する権力の正当化機関を、異なった文化圏によって構築されたという事実に注目したいと考えるのである。であるから、キリスト教会と西欧ヨーロッパにおいての政治正当化原理のシステムについては、他の多くの文献によることは避け、慶應義塾大学教材『ヨーロッパ中世政治思想』〔鷲見誠一著慶応義塾大学印刷会 平成10年4月1日〕と同大学教材『歴史・西洋史』〔森岡敬一郎・米田治・坂口昴吉・小川英雄 慶応義塾大学印刷会 平成10年3月10日〕をベースとしてまとめていきたいと考える。
ところで唐突であるが支配者にとって一番恐ろしいことは何だろうか。それは被支配者側からの抵抗であると考える。被支配者側から抵抗しうる武力をすべて取り上げたとして、被支配者側による「死を賭した抵抗」にあった場合、支配者はどうしたら良いだろうか。たとえば、他民族が土地所有をめぐって侵略を行う場合は、相手方の民族が「絶滅」してしまってもかまわない。土地を使用する人間が入れ替わるだけであるから生産力は落ちることはない。もしくは、その土地の「地理的価値」のための侵略でも同じである。しかし、もともと居る先住民族間で、支配者と被支配者の争いが起きたらどうであろうか。支配者が被支配者を武力で抑えつけた結果、被支配者が集団で自決してしまったら、もしくは抵抗をつづけたなら、支配者は労働力を失った土地を前に呆然とたたずむほかはない。支配の意義は、労働力を支配することであって労働する人間が、死を選んでまでも支配されることを拒んだ場合、支配者は窮地に追い込まれる。そして被支配者側の「死を賭した抵抗」は時に「宗教」と結びつくことによって、より強固になったり誘発させられる傾向にある。この顕著な例としての歴史的な出来事が、ローマ帝国の皇帝崇拝に対するキリスト教徒の拒否であると考える。来世利益の大きい宗教ほど信者は来世に期待を継続して死を恐れなくなるわけだが、そうした宗教の前では武力は意味をなさなくなる。
「これから後のローマ帝国は世襲制専制君主の宮廷やキリスト教会の内紛の国家への影響、それとゲルマン族やササン朝ペルシャの軍隊との絶え間のない戦争をめぐって展開される。
まず、キリスト教と他の諸宗派の間の社会的、思想的争いは391年テオドシウスの異教禁止令で終わりをつげた。この宗教的統一はローマ帝国の統一強化をもたらさなかったばかりか、彼の死後〔395〕帝国は二分され、西ローマは480年に蛮族のために滅ぼされることになった。東ローマはビザンティン帝国として、独自の道を歩み始める。」
と『歴史・西洋史』〔森岡敬一郎・米田治・坂口昴吉・小川英雄 慶応義塾大学印刷会 平成10年3月10日22頁)の中に書かれているように、テオドシウスの強行なキリスト教弾圧は返って、ローマ帝国を分断してしまう危機を招く結果になる。命がけな人々の前で、強行な政策をとれば、被支配者側からの承認が得られず「支配できない」というパラドックスに陥るのである。つきつめれば「支配」は「支配者と被支配者との契約」であって支配される側が「支配されること」に同意しなければ支配は成立しない。[13][13]神の国〔教会〕を味方につけた人々は、支配者を間接的ではあるが「支配する力」を持つ。その点において、いまだ「主権」という概念はこの時代において存在していないが、キリスト教は2-1-1的な民主主義的な構図を内包している。
2-1-1
2-1-1の構図を政治的に積極的に取り組んだ事件がフランク王国における「ピピンのクーデター」である。フランク王国はゲルマン神話に基づく王族による世襲王国であったが、王国の私有財産化による相続争いや強大貴族勢力による内部混乱のため王の存在理由が問われる状態にあった。実質的な政治は貴族の支配者である官宰カール・マルテルによって行われ、その息子ピピンが国王を排斥し本来世襲の権利のないものが王座につく事件がおきた。
「官宰ピピンは751年に二人の高位聖職者をローマに派遣し、ローマ教皇ザカリアスに以下の事柄を尋ねさせた。『いずれが王冠をかぶるべきかーーー王の称号を持っているものか。王の諸権利を実際に行使しているものか』前者がチルデリッヒ三世で後者がピピンであるのは明白である。そして教皇ザカリアスは、『実際に王の権利を行使しているものが王冠をかぶるべきである』と回答した。そこでピピンは、チルデリッヒ三世を修道院に幽閉し、自らが王位に即位た。カロリンガ王朝の成立である。」
と慶應義塾大学教材『ヨーロッパ中世政治思想』〔鷲見誠一著慶応義塾大学印刷会平成10年4月1日16頁〕にあるように歴史上初めてキリスト教を政治権力の正当化機関にとりいれられた事件であった。
「以降の歴史はこの線に沿って進んだのである。」と同書内にいわれるが、シャルル・マーニュによって、よりこの構図は安定させられる。
ところでキリスト教には以下のような性質を持っていると西山清著の『聖書神話の解説』にはある。
「十二使徒の『使徒』”apostle”はギリシャ語の『送り出されたもの』”apostolos”を意味することばに由来するが、確かに彼らは布教のためにイエスのもとから送り出されたのである。イエスはかれらにキリスト教布教の目的と心構えを教えるため、ひとつの逆説を提示する。―私が地上に平和をもたらせるためにきたと思うな。平和ではなく剣をもたらしに来た。人はその父と、娘をその母と、嫁をその義母と仲たがいさせるために、わたしは来たのだ。〔10章34節〜35節〕−剣は普通権威の象徴である。――中略――肉親の情や因習の絆をより大いなる情と絆に結ぶためには、旧来の束縛を断ち切る剣が必要なのだ」〔「聖書神話の解説」西山清著 中公文庫 1998年11月25日発行 155〜156頁〕
かつてピピンの行った行為は、ゲルマンの神話から「国王、貴族は彼らの主神の血をより純粋にひくものと考えられていた」〔慶應義塾大学教材「歴史・西洋史」森岡敬一郎・米田治・坂口昴吉・小川英雄慶応義塾大学印刷会平成10年3月10日26頁〕とされたゲルマンの血の伝統を、「キリストの剣」によって断ち切った結果の「王位就任」であったと考えることができる。そして息子シャルル・マーニュはキリスト教を保護した。そのキリスト教は、以降「権威」として「力」〔暴力・武力〕を正当化するシステムとして中世ヨーロッパにおいて確立することになるが、そのことについては慶應義塾大学教材『ヨーロッパ中世政治思想』〔鷲見誠一著慶応義塾大学印刷会平成10年4月1日20頁〕以下のように記されているので引用する。
「『キリスト教の保護者というほうが人々からの尊敬を集められると政治家は判断して』率先してキリスト教を権力正当化の構図にの中へと引き込んでいった。そして「以降、ある人間が皇位の位に即くということは形式的にはローマ教皇がある人を皇帝に任命するという形をとったのである。」
中世ヨーロッパ時代は、キリスト教ゆえに、近代的思想の発展を著しく阻害したとされ、歴史上「暗黒期」とさえ称されるときもあるが、権力正当化のシステムとして考えるとき、その存在価値はたんに近代化を遅らせしめた社会悪ではなく、「一つの合理的システム」であったと考えられるのである。
2.日本古代における二王制と中世ヨーロッパ社会
「宗教」=「権威」という公式は、中世ヨーロッパ社会における、キリスト教会の存在にも容易にあてはまる。この「宗教」の部分に「一神教」であるキリスト教を代入しようと、「多神教」である自然崇拝を代入しようと、その「神聖な神」を祭る「組織」は武力を用いることなく、「精神を従属」させる力を持つ点において「権威」足りうる存在となる。
日本古代においてもシャーマニズムはひとつの権威であった。14あがめる神が何であれ、聖職者は「より神に近い存在」として権威を持つ。物理的にも精神的にもより「近い」ものが「権威」を持つとすれば、神殿において祭司を行う聖職者は、物理的に神に近いことになる。そして、その神殿にて、神意を聞くことができるとあれば、精神的にも神に近いことになるわけであるから、シャーマンや聖職者のその「権威の威力」は神から遠い一般人よりは増大されるであろう。この「近さ」はキリスト教においても「価値」があった。
「ペトロは人間として一番偉いのである」。(慶應義塾大学教材「ヨーロッパ中世政治思想」鷲見誠一著 慶応義塾大学印刷会平成14年4月1日14頁)
この言葉は、キリストの一番弟子のペトロは「一番弟子」であるがゆえに「一番キリストに距離的に近い」。「一番弟子」であるから、当然「キリストの意思を一番受け継いでいる」ことにもなるかもしれないが、むしろ「キリストの言葉をより多く理解している」という一番というよりも「一番最初にキリストの言う言葉を信じた人間」としてキリスト教の世界において「一番偉いのだ」と私は思うのである。「いままでの節と異なる節を唱えるもの」に「一番最初に耳を傾けた人間」だからペトロは偉いのである。多くの人間は、それが、誰が考えてもよくないと思われることでも、長らく習慣として行われていると、その生活パターンから抜け出すことを好まなくなる。利害関係が絡めばなおさらである。「異論」を唱えるものに対しては排斥するのが世の習いである。しかし、ペトロは違った。キリストの言葉に素直に耳を傾けたのである。そのペトロが、キリスト12使徒のなかで「キリスト教会の礎」とされ「ペトロの座」につく。「ペトロの座」については慶應義塾大学教材『ヨーロッパ中世政治思想』〔鷲見誠一著慶応義塾大学印刷会平成10年4月1日14頁〕によれば
「ローマ教会の組織のなかの最高位の存在で、その職位に就任した人間はすべてペトロが持っていたカリスマ性を継承する。だから、人間個人に主観的にカリスマがあるのではなくて、その職位に客観的にカリスマがあるのである。職位・官職についたがゆえにカリスマがその人に付与されるという、そういうものの考え方である。」
とされる。この説によれば「選ばれた人」が「偉いから」ではなく、「ペトロの座」についたがゆえに「偉くなる」のであって、民主主義的に周囲から「権威」が与えられて成立している。
一方日本における古代シャーマニズムはどうであったか。キリスト教のそれとはかなり異なり、「本人の能力」が問われる。「他者に聞こえない神意を聞く能力」があると周囲が認めることによってシャーマンは生まれる。しかしながら「周囲が認める」という点においては[14][14]シャーマンに与えられる権威もペトロに与えられる権威も「同じ」である。「権威」の構成要件には「民主主義的要素」も内在させているのである。古代日本においてはシャーマニズムが直接政治と関与したのは女王卑弥呼と弟王による統治である。その後卑弥呼が没した後は、飛鳥時代において、推古女帝と聖徳太子によって「二王制」が模されている。キリスト教会と、中世ヨーロッパにおける政治形態も「俗世の王」インペリウムと「神の国の王」サケルドチウムによる「二王制」であったと考える。[15][15]
3.権力の正当化機関としての権威
まったく異なる文化背景を持つヨーロッパ社会と日本。一方は陸続きの大陸、一方は海に囲まれた島国。地理的にも全く接点を持たないヨーロッパ社会の権威正当化機関の構造と日本という国の権力正当化機関の構造が「権威」と「権力」という「二王制」の形式をとってきたという偶然に筆者は驚くととともに、又「何故権力のみでは統治しかねたのか」という疑問がわいて出るのである。その疑問は本稿第ニ章・第1項の「キリスト教会と王権」の章でもおおむね明らかになったが「権威」と「権力」をひとつの機関が併せ持ったとき、やはりこの構造による安定は崩れる。「自らの行動を自ら正当化することは不可能である」[16][16]ためと考えるからである。「正当化」は常に「他者」が行う。そしてその「他者」は一人でも多いほうがよい。そして更にその「他者」は「自らの欲求や利害を追求し、歯止めが利かなくなた集団」ではなく「正義〔公平〕さ」をわきまえた集団であることが望ましい。中世ヨーロッパにおいて「教会」の腐敗が激しく、世俗の欲と癒着したキリスト教を正すべく[17][17]ルターが行った宗教改革も、この「理想」が強く行われた結果であろうと思う。この章の目的は「衆愚政治批判」ではないので、これ以上の言及は控えるが「権威」は人々を規制する。規制しうるが、人々は「権威」を規制する。もしくは「拒否」できる。「権威」は人々の支持なくしては成り立たない。権威は「法」ではないからである。人々の支持を受けるということは、「人々にとって、その価値観で生活したほうが都合がよい」からである。わざわざ自分たちに「枠」をはめるものを支持するというのは、一見おかしなことのように思えるが、近世ロックの唱えた「自然状態における人々」を彷彿とさせられる。ロックによれば、
「自然状態においてまず第一に正邪の基準となる客観的な尺度がなく、第二に、法に従ってあらゆる不和の解決をはかるべき公平な裁判官が存在せず、第三に、判決を適正に執行する権力が欠けているため、そこでは人間の自然権の享受はきわめて不確実となり、絶えず他からの侵害の危険にさらされている―――中略―――かくして共同体は社会契約により、自然法の執行し人々の間に正義を行う権利を付与されることになる」(慶応義塾大学教材「政治学J」(島田久吉 多田真鋤慶応義塾大学印刷会平成10年3月10日256頁)
とされる。この「共同体」の部分に「キリスト教」を代入すれば、まさに、中世ヨ―ロッパにおける「教会」イコ―ル「共同体」(エクレシア)であり、[18][18]個人の利益の権利に対し規制を伴う社会契約は、個人の欲望への行動に道徳的規制を設ける神との契約と置き換えられる。契約の基本は合意である。双方にとって都合がよいと判断されれば契約はなされるし、どうしても呑めないとなればなされない。権力は時に合意を伴わない。しかし「権威」は常に周囲の合意によって支えられる。
「権威」と「権力」は近代国家にあてはめると「司法」と「国家権力」と置き換えが可能と考える。しかし、「司法」もまた「国家権力」に含まれる。その「司法は正当か否か」。そもそも正当とは何か。正義であるのか。正義とは何か。それを哲学的に追求するのは難しい。てっとり早く、民衆に理解させる手段として「神聖なもの」すなわち「権威」という決まりごとをつくる方法がある。かつて「ペトロの座」を「地位におけるカリスマ」と定義したように。日本における「天皇」の存在も本稿、第一章2項 「中世から幕府へ」 で述べたように「武力集団」としての武家の争いの中で見つけ出した「不可侵領域」であって、「権力正当化機関」として武家たちが「神聖であるがゆえに不可侵な領域」を作り出したのだと考える。また「権威」は「常に正しく」なくてはいけない。正しい存在は「神」と通じている。ゆえに古代から近世にかけてのキリスト教における教皇の存在と非常に酷似した「権威」の機関であるといえるのである。この合理的システムが洋の東西を問わず、発達し、継続していった事実に筆者は驚かされるのである。
第三章 明治憲法と天皇
1.フランス革命と明治維新
フランス革命と聞いて、一番に連想する事柄といえばマリーアントワネットの浪費とフランス人民の困窮、そしてルイ16世王家のギロチン・・・であるが、このフランス革命を取り上げた書籍、小説はあまた存在するが、その一般的傾向は、このフランス革命が、まるで「百姓一揆」の拡大版のようになってしまっているように思われるような描写や脚色が多く、非常に残念でならない。フランスの財政はマリ―アントワネットの浪費のせいで起こるわけではない。フランスの経済はルイ15世の7年戦争[19][19]当時においても既に悪化していた。
その当時について語られる一文を引用したい。
「ルソ―は七年戦争期を回想して『網紀の頽廃から近くフランスが崩壊しそうだということを・・・・わたしも考えていた』という。その理由として、彼は七年戦争・財政のびん乱・大臣間の争い、人民の不平、ポンパドゥ―ル婦人の頑冥などを数えている。こうして、絶対王政を強めるための戦争が、絶対王政を覆し、革命を進めるための力に転化する。その直接のきっかけが、ルソ―も指摘するように、財政問題であること、イギリス革命にもアメリカ独立革命にも等しく見られる現象である」(「フランス革命の研究」 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行 1959 2頁)。
ルソ―の時代にアントワネットはまだフランス王妃として存在していない。[20][20]
「フランス革命の正当性」の問題はどこに起因するのか。
フランス革命は「神の下の自由と平等」を求め、王権と癒着した腐敗したキリスト教会を正すべく、一念発起した民衆による「宗教革命」ではないのである。多くの小説や映画等に描かれる一般的なストーリーとしては、王家一家がギロチンにかかることで、あたかもフランス革命が終わりを告げるかのように描かれている。
「悪い貴族の親分がギロチンにかけられたので、これからは自由と平等な社会がやってくる」といわんばかりである。その栄枯盛衰ぶりは「平家物語」も彷彿とさせられるかもしれない。実際そういうものが「フランス革命であった」と筆者も長い間、フランス革命を題材にした作品等に接し、そういうものであると信じて疑わなかった。しかし、フランス革命は終わってはいなかった。むしろこれは「始まり」と言っても過言ではない。ではいつ「終わり」をみたのか。フランス革命とは何であったのか。
『フランス革命の研究「序論フランス革命の構造」』によれば
「フランス革命の終点はマチエやトムソンによると1794年7月27日の『テルミド―ル反動』とされオラ―ルは1804年のナポレオン帝政の成立をフランス革命の終点としている」(フランス革命の研究 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959 44頁)
と書かれているが、筆者は、後者の「ナポレオン帝政の成立」をもってフランス革命の終点と考える方を支持する。では始点はといえば、同書によると
「フランス革命はいわゆる『貴族の反抗』によって口火を切られた。貴族が王権に反抗したのは、王の政府が財政的危機を切り抜けるために貴族の免税特権の廃止を決定したからである。」(フランス革命の研究 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959 44頁)
と記されている。そして王政に不満をもつ貴族と、ブルジョア階級が結びついた形で口火を切るが、そこに見られるのは「神の前の平等」もしくは「人間本来の持つ恒久的かつ基本的な平等感」のために王制を転覆させようというが如き発想は毛頭ない。
「『自由』への要求、とくに所有の不可侵性への要求は強いが『平等』は法がすべての国民に適用されるべきだ、という程度以上に出でず、階級に対する攻撃は微弱であり、『博愛』に至ってはほとんど言及されていない」(フランス革命の研究 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959 44頁)
この一文が現実的であろうと思われる。
「人びとは、国王はフランスではなく、後者を愛し、これに献身しつつ前者を軽蔑しうることを理解しはじめた」にしても、一般のフランス人にとっては、なおこの両者の不可分のものと感じられていたのである。ただ国王の絶対性の意識はおとろえ、法や祖国を国王に優先せしめるものも生じ、外務大臣ヴェルジェンヌは、フランス王は征服王ではなく「市民王」(roi
citoyen)であるといい、一七八八年の僧侶階級の「建白書」には「陛下の名誉は『フランス王』たることではなく『フランス人の王』たることであります」と書かれるにいたり、国王はいわば「一般意志」の代行者というふううに考えられはじめていた。したがって国王が民意をきくために三部会を招集するという報は国民を感謝と賛美にまきこみ、「フランスの復興者」ルイ一六世のために記念碑を建てたいと要求する「陳情書」が多かったのである。しかしルイ十六世は三部会の招集をよぎなくされただけであり、もともと改革を好んだのではなかった。」(フランス革命の研究 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959 44頁)
ともあるように、フランス市民は、一度は「王の下に三部会を開いて」上記の権利を得ようとしたのである。「神の前の平等」ではなく「王の前の平等」である。
何の前であれ「平等」ならなんでもよかったのである。しかしながらフランス王室はそれを裏切る対策を下した[21][21]ことにより、事体は急速に悪化する。逆説的ではあるが、三部会が成功できれば、王制の転覆はなかったと考えるのである。でなくては
、その後の「絶対王政」→「共和制」→「ナポレオンによる帝政」という時代の流れの説明がつかないのである。フランス革命による共和制時代はフランスにとっても不幸な時代であったと思うほかはない。また『フランス革命の研究』 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959のなかで
「ドイツのカ―ル・ビデマン原著のなかでは『其初メニ方リテヤ暴猛劇烈ナル騒乱起リ、全国人民塗炭ノ困苦ヲ経テ始メテ此政体起立シタリ、且ツ俄ニ学者ノ理論盛大ナル勢力ヲ形貌上ニ於テハ英国ニ優ル遙カニ数等ナルガ如シト雖モ、其実際ノ景況ヲ視ルトキハ、却テ英国ニ劣ル遙カ数等ニシテ、絶テ永続ニ堪ユル者ニアラズ。而シテ其盛衰常ナキノミナラズ、近年ノ形成ハ却テ徃昔ニ及バザルガ如シ』 (フランス革命の研究 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959 600頁)
といわれている。また福沢諭吉もその著書「西洋事情」の中で
「その中で国王処刑については、王が「政体の趣旨も従じこと信ならずとて、無根の罪を強ひ」て斬首したとき書き、ジャコバン独裁については、「政府の挙動、恰も狂するが如くなれども、其狂に触るる者は之を殺し、国中の人皆恐惶せざる者なし。・・・・・粗暴も亦甚し。名は自由なれども其実は然らず。今般の改革を以て仏蘭西の政治は暴を以て暴に代へたるのみならず、改革を望みし者も自由を求て却て残虐を蒙ると云ふ可し」(フランス革命の研究 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959 597頁)
と述べる。 第三者の目からすれば、やはり「王の処刑」と打ち続く内乱は「残虐」に移ったものと思われる。筆者の目からしても、絶対王制の次におとずれた共和制下にて行われた「大衆徴募」の演説は「貴族的身分への嫉妬羨望怨恨の演説」としかうつらない。以下引用する。
「この今から、敵が共和国の領土から追い払われるときまで、すべてのフランス人は軍務のために徴用される。
若者は戦闘におもむき、既婚の男は兵器をきたえ、糧食を輸送し、女はテントと軍服をつくり、病院に奉仕し、子供は古布を外科用ガーゼにほどき、老人は公共の広場に出て、戦士の勇気をもえあがらせ、諸国王への憎悪をかきたて、共和国の統一をすすめよ。・・・・・
何びとも自ら徴用された任務において、代理をたてることはできぬ!
徴募は国民全部に及ぶ。十八歳から二十五歳までの市民にして、未婚あるいは子なくして妻を失えるものは、最初に進撃する。彼らは遅滞なく郡役所所在地におもむき、出征命令のあるまで、毎日武器の操作を訓練する。・・・・・
各地区において組織された大隊は、次の文句を記入した旗のもとに結集される―暴君どもに対して立ち上がったフランス人民―」(フランス革命の研究 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959 68頁)
この演説からおよそ「自由」は感じられない。感情に押し流されて突き進んだフランス革命と、翻ってわが国における「明治維新」はいかなるものであったか。
そもそも「明治維新」とは何かと問われれば徳川幕府がキリスト教の布教を避けるために元和2年1616年から行ってきた「鎖国」政策に対し、「開国」を米国より迫られて、国内が現状維持派(尊王攘夷派)と開国派に分かれて争った結果起こった政変である。徳川幕府が何故キリスト教布教を避けたかは本稿第二章天皇制と中世ヨ―ロッパにおける政治権力正当化の構図の第二項によって、そのキリスト教の持つ「政治権力の正当化の構造」とわが国「天皇制」における「政治権力の正当化の構図」を比較すればあきらかなように、両者は洋の東西に隔てられながら、非常に酷似する構造をもっている。まったく違う環境下のもとに、非常に似通った化学構造式を持つ天然の鉱石を発見するかのごとく、紅玉(ルビ―)と青玉(サファイア)[22][22]のごとく似通っているのである。その類似した「機能」を持つものが国内に入ってくれば、どのようなことになるかは、当時の幕府の人間にも容易に想像できたに違いない。また、「キリスト布教が外国の植民地獲得政策と緊密な関係を持っているとの疑惑をわが国の為政者がもったとすれば、なおさらのことであろう。」(「歴史」〔日本史〕河北展生・志水正司・高橋正彦・高瀬弘一郎 著慶應義塾大学出版会107頁)とあるような懸念もあったであろう。その結果とられた「鎖国」であったが、島国日本も科学の発展を伴う諸外国による時流の流れには勝てず「開国」を余儀なくされる。ところで筆者はフランス革命について一般的に主張されるところの「神の前の正義と平等を実現するべく」革命が起きたわけではないと書いた。共和制のもとに行われた市民による「大衆徴募」の演説に関しては「怨恨の演説」であると書いた。ここにわが国明治維新においても、
「幕末の攘夷論には『きれいな攘夷論』と『汚い攘夷論』と二つの異なった顔がある」(「古代大和朝廷」宮崎市定著 1998年9月22日初版第1刷 筑摩書房296頁)
とする宮崎市定氏の説を挙げたいと思う。そもそも攘夷論とは、1853年開国を迫られた、孝明天皇が「鎖国の維持」を望まれたこと[23][23]に端を発する。当時幕府は1854年ペリ―によって「日米和親条約」を結んでいる。黒船による軍事的な圧力をうけての条約締結は、本来「鎖国」か「開国」かと国内で選択できる余地などなかったと考えるべきである。「開国」か「鎖国を継続するならば黒船(米国)との戦い」しかないのである。
文化の発展のため「五箇条のご誓文」にあるように「智識を世界に求める」ための開国とは、後から取ってつけた「開国に対する正当化」であって、実際問題、攘夷として「開国反対」の立場をとってきた薩摩・長州両藩が、かつての徳川幕府の位置についたとたん「開国派」に転じるとはどういうことか。この点において宮崎氏はこう述べている。
「ところでいよいよ薩長の天下になると、もとより鎖国攘夷などは実行されようはずもない。『智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし』という宣言が発布された。これまでの行きがかりを覚えている人にとっては、まったく人を馬鹿にした話であるが、そういうときには責任を一切皇室に押しかぶせてしまった。そして天皇が転地神明に誓った御誓文であるから、違背にはならぬぞ、と過去の言葉を全部棒引きにし、帳消しにしてしまったわけである。このような経過から見てみると、開国の利益を一番良く知っていたのは、もともと薩長の人間だったということになる。だからこそ、開国を幕府にさせてはならぬが、自分等の世の中になれば、真っ先に自分らの手で結構するのである。主義主張というようなことには拘泥せず、現実的に動き、時期をみてさっさと転身するのが薩長政治家の特技であった。」「古代大和朝廷」宮崎市定著 1998年9月22日初版第1刷 筑摩書房306頁)
宮崎氏の説はなかなかに正しい[24][24]と考える。ただ、こうした時勢にあって、280年に及ぶひとつの旧体制が壊れ、新しい体制が作られるにいたって、フランス革命のごとき市民を巻きこむ内乱が国内で勃発するを見なかったことは、徳川であれ、薩長藩であれ、優れた政治家であったといえる。
2.リバイアサンと現人神
徳川幕府倒幕の流れの中、土佐藩は徳川慶喜に大政奉還を勧め、これにて徳川家存続がなされる道も開けたかに見えたが、「徳川家の政界における指導的地位を奪い取るため、倒幕派は12月9日、王政復古の大号令と呼ばれる一種のク―デタ―を断行」(「歴史」〔日本史〕河北展生・志水正司・高橋正彦・高瀬弘一郎 慶應義塾大学出版会 平成12年3月10日138頁)したことから、徳川氏は政界より締め出されることになったが、王政復古の大号令の五箇条のご誓文の文言の現行を「横井 (小楠)の弟子で越前の家臣であった福井の三岡(八郎)、後の由利(公正)子爵」(「ミカド」 W.Eグリフィス著 日本の内なる力 亀井俊介訳 岩波書店 1995年6月16日第一刷145頁)が原案としたものを「土佐藩氏福岡孝弟が修正し、それを長州藩士木戸孝允が改正」(「歴史」〔日本史〕河北展生・志水正司・高橋正彦・高瀬弘一郎 慶應義塾大学出版会平成12年3月10日139頁)したという流れを見るに、王政復古はたんに徳川家を政界から追い出すための手段であったとは思わない。「開国」をするということは、キリスト教が入ってくるということである。キリスト教の持つ「政治権力正当化の構造」が「天皇制による政治権力正当化の構造」に酷似していることは前の章で述べたとおりである。その構造の並立をさけるためには、幕府と朝廷との「二重統治」システムを一元化することによって、キリスト教のもつ「正統化の機能」を政治権力の場に導入させないようにさせなくてはならない。「公武合体」の「明治政府」は「必然的」結果であったと考える。そして五箇条御誓文は
「明治元年三月二十三日〔正しくは慶応四年三月十四日〕(一八六八年四月六日)皇帝陛下は宮廷(京都)の紫宸殿に出御、天地神明(つまり神々)に誓いを立て、王政復古の基本原則を宣言せられた。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至迄其志を遂ゲ人心ヲシテ
(倦)マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道に基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」
(「ミカド」 W.Eグリフィス著 日本の内なる力 亀井俊介訳 岩波書店 1995年6月16日第一刷 146頁より)
とあり、天皇は絶対王政を望んではいなかった。これはフランス革命の初期において、ルイ16世の下、三部会を開くことを市民が望んだ体制であると考える。明治憲法下の日本は「帝政民主主義」といえるのではないだろうか。
しかしながら
「ボストンではオリヴァ―・ウェンデル・ホ−ムズ(医者にして随筆家当時文壇の大御所の一人)が公式の公式の使節歓迎晩餐会で詩を読んだのだが、いかめしい使節たちに、無邪気ながらとんでもないお笑い草をしでかしてしまった。彼はこううたったのである。
神よ、ミカドに祝福を与えたまえ。長くいのちあれ、大君〔将軍〕よ。
この祈りは叶えられた。睦仁は1912年に亡くなり、前大君(将軍)は1913年まで生きたのである。それはともかくとして、滑稽なのはこの二つの称号、地位を一緒くたにしてしまったことである」(「ミカド」 W.Eグリフィス著 日本の内なる力 亀井俊介訳 岩波書店 1995年6月16日第一刷216頁)
と著者グリフィスはオリヴァ―・ウェンデル・ホ−ムズの逸話を失敗談としてとりあげているが、この失敗は、「当たらずとも遠からず」であって、今までは「ミカド」と「将軍」は別々の存在であったが、確かに「王政復古」後の明治憲法下では、天皇は「主権を持つ君主」であり、「神聖にして侵すべからず」という「徳」(権威)も備えた存在となったわけであるからオリヴァ―・ウェンデル・ホ−ムズの観察眼は間違いなかったともいえるのである。
今筆者は「徳」という言葉を用いた。「徳」とは「道を悟った立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護。」と広辞苑にはある。ト―マス・ホッブスの思い描いた君主は、宗教と政治を切り離した上で、主権を君主に一任する。しかし、君主は国民に対して、常に「よい」処置を行い、自らの至福や野心のためにその権力を行使しない。そんな存在をリバイアサンとして思い描いた。
「このように、ホッブズにあっては、いっさいが主権者に源を発し、主権者がすべての中心に位置すると考えられていた。従って人々のなし得る選択は、全能の主権者につくか、社会以前の状態(自然状態)にたちもどるか、あるいは、絶対的な権力に従うか、完全な無秩序にとどまるのか、二者択一以外にはありえないのである。そして、そのような絶対的にして全能な権力を行使するものとしてホッブスは君主政治、貴族政治、民主政治の三つを掲げるが、この中で最もすぐれているのは君主政であると説く。なぜなら「君主政においては、私的な利益が公共のそれと同一」であり、「君主の財産、権力および名誉は、彼の被支配者たちの財産、強さ、および、名声からのみ生じる」が、それ以外の政体においては、「公共の利益と私的利益と交錯するようなことがある」からである。さらにまた、君主政の長所としては、君主が欲するがままに人と時と場所とを問わずに忠告をうけとることができる点、君主の決意は、人間の本性に基づく不定性以外には、不定性に支配されない点(合議体では本性の不定性以外に数による不定性がある)などをあげる。
ホッブズにこのような王権擁護の主張をなさしめた動機は、清教徒革命に伴う混乱であったことは言うまでもない。主権者の絶対万能性を理論的に確立し、国王に絶対的主権を与えることによって、彼はこの混乱を収拾する指摘を示そうとしたのである。」(慶應義塾大学通信教育教材「政治学」島田久吉・多田真鋤 慶應義塾大学出版会平成10年3月10日241頁)
上記のごとく、ホッブスの思い描く君主は「善き君主」である。この「善き君主」の固定化こそ、大日本帝国憲法における明治天皇の位置づけであり、それは成文憲法によってなされたのである。
「三、天皇は神聖にして侵すべからず」
(慶應義塾大学通信教育教材 「憲法」浅井 清著 慶応義塾出版会 平成11年3月10日発行269頁)
この一文は天皇の神聖を表していると同時に「徳」も表していると解する。この一文は、国民に対して「侵すべからず」と天皇の地位に対して「禁止」の命令を発令しているが、一方では、天皇は「神聖であること」を誓わされているとも解することができる。この一文は欽定憲法であるが、「天皇の側」からの「約束」の成文化でもある。明治憲法の源となった「五箇条の御誓文」がそれを物語っている。
この一文によって明治天皇は、明治憲法下において理想的なリバイアサンとなったのである。
しかしこの「神聖」という言葉が後に誇張され、ファナティックな軍国主義者たちによって拡大されていくという悲劇が待っていることになる。「権威」と「権力」の構造を長らく保持してきた日本であったが「開国」という外的揺さぶりをうけて再び「王政復古」の道をとらざるを得なくなっためい時政府は「権威」と「権力」の一体化、「ミカド」と「ショ―グン」の一体化を図った。その結果導き出された不幸は、聖徳太子以降の「天皇制」が既に答えを出している。では日本もフランス革命期のフランスのように教余生をとり、明治維新の際に天皇制は意志の道をとればよかったのかといえば、それもまた、国内の「果てしない闘争」が繰り返されることは明らかであって、やはり「リバイアサン的天皇制」の道をとることは、その歴史のその地点において、一番妥当な選択であったと考えるのである。また日本にとって、開国は多分に外国を意識してのアイデンティティを内外ともにアピ―ルし、世界のなかでの自己の立ち位置を再確認する必要もあったのだと考える。以下の事例はその「天皇の名のもとの『臣民』による国家」の存在をアピ―ルした事例であると考える。
「帝国政府ハ、一九二八年八月二十八日巴里ニ於テ署名セラレタル戦争抛棄ニ関スル条約第一条中ノ『其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ』ナル字句ハ、帝国憲法ノ条章ヨリ観テ、日本国ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス」とし、自国民はあくまで「人民」ではなく、天皇の名の下の「臣民」であるという態度を表明したのである。」(「現代国際法」栗林忠男著 2002年3月25日初版第4刷 慶應義塾大学出版会60頁)
3. 226事件と天皇機関説
度を越したナショナリズムとファナティックな天皇崇拝はやがて、不幸な軍国主義へと向かっていくであろう未来を予見せしめたのであろうか。「天皇制」から「宗教的部分」を取り除こうと試みたものがあった。それが美濃部達吉による「天皇機関説」であると筆者はとらえている。では天皇機関説とはいかなる説であったのか。宮本盛太郎著『天皇機関説の周辺』の中で「天皇機関説」は以下のように説明されている。
天皇機関説
主権は国家にあって天皇にはなく、天皇の権能は、法人における理事と同じく、国家を代表する最高の機関としておこなわれるという学説。明治憲法下に、ドイツのイェリネック流の国家法人説を適用して、天皇統治権は、その私的権利と異なった公的なものであると説明し、大権政治より立憲政治を重視する考え方にたった・・・岩波小事典「政治」
(「天皇機関説の周辺」宮本盛太郎 有斐閣選書 昭和55年3月20日3頁)
これは一見「天皇主権の明治憲法」に対し異論を唱えているようにみえる。しかし、明治憲法の源案となる「五箇条の御誓文」を見る限り、この「天皇機関説」も内在しうると考えられるのである。トマス・ホッブスに見るリバイアサンはどうであったか。主権の持ち主は一人であるが、その一人の君主は常に国家のために決断を下すのである。とするなら、君主は「主権者」でありながら国家の意志を代弁する「代弁者」もしくは「具現者」でもある。かつてのフランス革命において、市民が「ルイ16世」のもとで「三部会」を開会したかったのは、ルイ16世に「リバイアサン」を求めたのではなかったろうか。それがうらぎられた。故にフランスは国王を斬首した。
美濃部説の「天皇機関説」を、張本人である昭和天皇はみずから「機関」であることを肯定している。[25][25]私はこの美濃部のいう「機関」という意味を昭和天皇が一番理解していたのではないかと考える。
主権とは何であろうか。主権とは「決定権」であると考える。例えば一つの家庭内において、父親と母親と子供があるとする。その父親に子が玩具をねだる。父の権限でもって玩具が与えられるか否かが、その家庭内において決められる。父親が「この子は少し厳しくしたほうがよい」と判断すれば容易に玩具は与えられないだろう。一方「子供の喜ぶ顔を見ることは自分にとっても喜びである」と考える父親は少々玩具を与える基準が甘くなるだろう。では、子供がいなかったら、どうだろうか。父親は玩具を与える対象がないわけであるから、行動そのものが変わってくる。子供の存在は「父である主権者の行動や決定権に影響を与える」のである。「主権」は自己決定権であるが、その決定にかかわる意志は常に「外部」からの影響をうける。天皇は「主権者」であるが「臣民」の要求に呼応する。
『天皇機関説の周辺』(宮本盛太郎 有斐閣選書 昭和55年3月20日8頁)の中で、明治天皇の「主権」については、
「その私的権利と異なった公的なものである」( 「天皇機関説の周辺」宮本盛太郎 有斐閣選書 昭和55年3月20日8頁)
と記されているが、「決断権がある」とはいえ、「100パーセント恣意的に決断する」わけではなく、その決定権のなかの「決定に至る思索」は常に「公的」であって「臣民を配慮したものである」とする、解釈が見て取れる。リバイアサン的天皇制である明治憲法において極めて妥当な解釈である。
しかしながら
「それらの政治勢力は、天皇機関説の考え方のうちに、かれらの政治観に真正面から反対する政治的傾向を―正しくも―読みとったのである。したがって、天皇機関説の禁止の目的は、単なる一憲法学説の抹殺ではなくて、それによって、超国家主義、神権主義、軍国主義、ファシズムの進軍のためにひろく道を開くことであった。実際において、天皇機関説の禁止がそういう目的のためにいかに役だったかは、その後の日本の歴史があまりにもはっきりと証明している。」 (「天皇機関説事件」 上 史料は語る 宮沢俊義著 有斐閣 昭和45年5月10日P8)
と書かれているように、皮肉にもこの平和主義者である美濃部は、軍国主義者、神権主義者らによって
「天皇機関説論者は、表面いかに学問的に粉飾し、詭弁を弄するとも、西洋の革命的思想に深く根ざすこと、共産主義と何ら変わりない。」(「天皇機関説の周辺」宮本盛太郎 有斐閣選書 昭和55年3月20日252頁)
として弾圧される。またこの「天皇機関説」発表後に「永田鉄山暗殺事件」「226事件」が起きるが、どうもこの時代における「主義主張」は全て軍部による荒っぽい解釈によって捻じ曲げられて、平和主義であったり、自然科学を論ずるものは、「共産党員」(共産党員は神を否定するからか?)とされ、天皇を崇拝し、国家の動向を愁う愛国者も、軍部に掛かれば「不敬のもの」とされる始末らしく、226事件[26][26]の首謀者の北一輝なども、内閣閣僚暗殺という暴挙に出た反逆者ではあったが、彼は熱心な法華経信者であり、「天皇陛下万歳」という言葉を拒んだという説は「天皇」中心の宗教に改心するのを拒んだだけであって、共産主義者ゆえの暴挙ではないと筆者は考えている。また北一輝は「皇道派」とされるが、「皇道派」[27][27]がすなわち「天皇教の信者」ではなかった。
「天皇教の信者」ではないが「天皇中心の社会」を望んでク―デタ―を起こした人間であった。そして、北が「社会主義者」であったとされるが、彼は独特の「純正社会主義」という思想を打ち立てて、「天皇制は否定せず」、ただ当時の財政困窮をブルジョアと政府役人の癒着が原因と喝破し
「ほんとの社会主義は、大鉱山其者を国家の所有とし、国民の経営とし有者たる大日本帝国が取るべきものだと云ふのだ。言ひ換えれば俺達が命がけで働いた地下の富は、其土地の所有者たる大日本帝国が取るべきものだと云ふのだ。も一つ言換へれだ、三井、三菱、鴻の池、大倉のために日本国民たる我々は断じて働くのではない。」(「天皇機関説の周辺」宮本盛太郎 有斐閣選書 昭和55年3月20日201頁)
という独特の思想をもとにク―デタ―を起こすのであって、「身分階級」を否定するマルクス主義者、共産主義者とは言い切れない。
永田鉄山の暗殺に関しても、永田が職業軍人であって、また穏健派であったことからファッショ的軍国主義者らに暗殺されたようであるが、当時はこれらも「皇道派」とされるので、いかにファッショ的軍国主義者が「天皇の名」を濫用したかは歴史が物語っているといえよう。今日の我々の仕事はこうして乱暴に間違って貼られたラベルを今一度真偽を見定めて付け替え、正しく整理することにあると考えるのである。
これらは「リバイアサン的徳の保持者」である天皇が、神権主義的軍国主義者に利用された結果である。この時代の過ちを端的に表す一文がある。
「自分の位は勿論別なりとするも、肉体的には武官長等と何等変わる所なき筈なり。従て機関説を排撃せんが為め自分をして動きの取れないものとする事は、精神的にも身体的にも迷惑な次第なり」(『本庄日記』二〇三頁)といわれている。騒ぎ立てたのはまわりの者であって天皇自身ではない。
しかも、「憲法第四条天皇は『国家の元首』云々は即ち機関説なり。之が改正をも要求するとせば憲法を改正せざるべからざることとなるべし」(前掲、二〇四頁)といわれている。天皇は憲法解釈において機関説を採用され、きわめて合理的に、しかも冷静な態度をとっているわけである。」(「天皇制ファシズム論」 中村菊男 原書房 昭和47年5月15日 再販22頁)
この時の天皇は昭和の天皇であったが、いかに天皇本人が蚊帳の外で「主権」がなかったか、この事件が皮肉にも全てを解き明かし美濃部の正当性を示している。
では美濃部の「天皇機関説」に基づいて天皇から「神権的性格」を抽出したとすると、
「この型にあたつては、国家が必要とするときは、天皇は最大限の権力をふるうことができ、国家が不要とするときは、天皇は最高機関としての地位を失う。北一輝の天皇機関説がこの型に入る」(「天皇機関説の周辺」宮本盛太郎 有斐閣選書 昭和55年3月20日5頁)として、天皇制は不要とされるのであろうか。否、天皇制は第二次大戦を乗り越え、新たな「役割」を担うことになる。
美濃部の「機関説」は現行憲法によって終焉したと考えるべきである。
第四章 第二次大戦後の天皇制
1.天皇制と天皇教
歴史というものを眺めるに、ただ一冊の歴史書のみを見ても、事実には行き当たらない。否、何百という文献に当たっても、真実は書かれていないかもしれない。第二次大戦勃発に関しても同様、何故開戦に至ったかは、歴史上の誰が起こしたので始まった・・・という単純なものではナイ。開戦に至るまでには、あらゆる複雑なファクタ―が内外問わずから見あい、時流という要素も加わることもあれば、その場に居合わせた人材も重要な要素となるかもしれない。戦争回避が可能だったか否かはよく言われるように「歴史にもしもしはない」以上、現在は、ありのままの記録をうけいれるより他はない。ただいえることは戦争を行うにあたり、「絶対的服従の究極的対象は戦陣訓が『皇軍軍記の神髄は畏くも大元帥陛下に対する奉る絶対随順の崇高なる精神に存す』と述べているように天皇にある」(「日本の近代9 逆説の軍隊」戸部良一著 中央公論1998年12月10日初版334頁)としていながら、その敗戦のポツダム宣言受託の聖断を天皇自らが下し、いざ8/15の「玉音放送」がなされんとする直前「君側の奸(天皇の邪悪な側近)を覗き、天皇にもう一度聖断を願って降伏を撤回するための義挙」(「日本の近代9 逆説の軍隊」戸部良一著 中央公論1998年12月10日初版9頁)として、陸軍内部にてク―デタ―を起こそうとし、天皇の「玉音放送」のレコ―ドを盗み出し、奪い取ってポツダム宣言受託を国民にふせ、再び、天皇を説得して戦いを続行せんとした反乱軍が存在したというのは、誠に驚きの事実である。
「八月十五日のク―デタ―には、はしなくも旧日本軍の一見矛盾した二面性が現れている。一つにはそのファナティシズムである。いかに、国家、民俗としての尊厳を守ろうという純粋な動機から発していようと、敗戦が必須となったときに、いかなる犠牲をも省みず、最後の一兵まで戦おうというのは狂気であった。天皇を現人神としながら、その意志に反してでも戦いつづけるというのはファナティックと言う以外はなかった」(「日本の近代9 逆説の軍隊」戸部良一著 中央公論1998年12月10日初版12頁)
絶対服従をちかっいるはずの兵士がク―デタ―を起こしてまで戦争をやめようとしない。「天皇の主権」はどこへ行ったのか。ル―ス・ペネディクトは「菊と刀」の中で交述べている。
「日本を理解することがアメリカにとって非常に重要な事柄となってきた時、これらの矛盾や、なおこのほかの同様にはなはだしい多くの矛盾を見てみないふりをするわけにはゆかなかった。重大局面がぞくぞくと、くびすを接してわれわれの前に立ち現れつつたった。日本人はどうするだろうか。日本本土に進攻することなしに降服させることができるであろうか。われわれは皇居の爆撃を行なうべきであろうか。日本人俘虜から何を期待することができるだろうか。日本の軍隊ならびに日本本土に対する宣伝においてどんなことを言えば、アメリカ人の生命を救い、最後の一人まで抗戦するという日本人の決意を弱めることができるができるだろうか。日本人を最もよく知っている人びとの間でも、はなはだしい意見の相違があった。平和になった時に、日本人は秩序を維持させるためには永続的な戒厳令を布かなければならないような国民だろうか。わが軍は日本の山中にあらゆる要塞で、国際平和が可能となる前に、フランス革命やロシア革命程度の革命が、日本に起こる必要があるのだろうか。だれをその革命の指導者にしたらよいのか。それとも、日本国民は絶滅させなければならないのだろうか。われわれの判断いかんによって非常な相違が生ずるのであった。
私は一九四四年六月に日本研究の仕事を委嘱された。私は、日本人がどんな国民であるかということを解明するために、文化人類学者として私の利用しうるあらゆる研究技術を利用するよう依頼を受けた。」(「菊と刀」 ル-ス・ペネディクト 長谷川松治訳 現代教養文庫 社会思想社 1967 P7)
何故ル―ス・ペネディクトは、軍より「日本人」の分析を委任されねばならなかったのか。天皇に絶対的な権力があったら、こんな研究はいらなかった。この時代の天皇の存在は私には「ハイジャックされたジャンボ機のパイロット」のように見える。ハイジャッカ―は「軍国主義者」である。パイロットが天皇であり、乗客が国民である。[28][28]ハイジジャッカ―は「狂信的」である。その信仰の対象は「広告」への信仰であって
実際に操縦桿を握るパイロットである天皇ではない。彼らの作り出した「理想の皇国の天皇」とは別に、実際の天皇は、背中に銃をつきつけられてつつ操縦桿を握るが如くである。しかし、乗客である国民は、そんなコクピットの内部の出来事は知らされない。すべてパイロットの意志で飛行機は飛んでいると信じ込まされている。ハイジャッカ―の「信仰」はいったい何だったのか。この点をル―ス・ペネディクトは以下のように記している。
「まだ日本が勝っていた時でさえ、日本の政治家も、大本営も、軍人たちも、くり返しくり返し、この戦争は軍備と軍備との間の戦いではない、アメリカ人の物に対する信仰と、日本人の精神に対する信仰との戦いだ、と言っていた。われわれの方が勝っていた時にも、彼らは幾度も幾度も、このような戦いにおいては、必ず物質力が負けるにきまっている、と言っていた。この信条はサイパンや硫黄島の敗北のころには、たしかに都合のよい言逃れになった。しかしそれは敗北の言逃れとして捏造されたものではない。それは日本軍が連戦連勝を誇っていた何か月間かを通じて進軍ラッパの役割を演じたものでもあるし、真珠湾奇襲のずっと以前から公認されていたスローガンであった。一九三〇年代に、狂信的軍国主義者であり、かつては陸軍大臣であった荒木大将は、『全日本民族に訴う』というパンフレットの中で、「真の使命は皇道を四海に遍く弘布し宣揚することである。力の不足はわれわれの意に介するところではない。何故に物質的な事柄に気を使う必要があろうか」と書いている。(「菊と刀」 ル-ス・ペネディクト 長谷川松治訳 現代教養文庫 社会思想社 1967 29頁)
「物質に対する信仰」と「日本人の精神に対する信仰」との戦いとはいかなるものか。この言葉は「人はパンのみに生きるにあらず」というキリストの言葉を彷彿とさせる。精神に重きをおく思想は、物質である肉体の死をいとわなくなる。知らず知らずのうちに日本人は「天皇制ファシズム」ではなく、「天皇教」ともいうべき宗教を作り出してしまったのではなかろうか。その「天皇教」のご神体こそ「天皇」であるが、「教祖」と「御神体」の差異は、「教祖」は自ら教えを説くが、「御神体」は「物を言わない」点にある。
2.終戦と天皇制の必要性
第二次大戦敗戦後、日本は「象徴天皇制」のもとに憲法改正を余儀なくされる。その憲法改正と天皇制存続について考察するに重要な文献がある。以下引用する。
「ジョセフ・グル―。1932(昭和7)年二月から太平洋戦争開戦までの駐日米国大使である。太平洋戦争で国交が断絶して四二年八月帰国したグルーは、日本での体験を『東京報告』や『滞日十年』にまとめた。目的は「米日戦争について同胞諸君の誤診を訂正する」ことである。
妻のアリスは、幕末に開国を求めて来日した米国特使ペリーの末裔で、幼児に父と一緒に来たこともある。天皇の母君、と交際が深く、結婚前米国で学んだ秩父宮妃とは、ファッション雑誌『ヴォーグ』やジャズのレコードを贈るなど親密な間柄だった。
グルーは著作のほか米国各地を講演、日本における天皇という存在は、女王蜂のようなものだと説いた。女王蜂はそれ自身は何も決断しないが、群がる万余のハチ敬愛を受けている。女王蜂を除去するとハチ社会はバラバラになり、収拾がつかなくなる。天皇もそれに近い、というのである。』(「象徴天皇」 高橋紘 著 岩波新書 1987年6月5日第2刷発行P6)
この観察は正しい。しかし、ではなぜ、「社会がバラバラになる」ほどの女王蜂の如き影響力が天皇にあるのかが説明されえていない。筆者はこれは「聖なるものとの同化願望」によって支えられているのではないかと考える。キリスト教において、キリストは、最後の晩餐にて、十二人の使途を前に、「一同が食事をしているときに、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子達に与えて言われた。」『取れ、これはわたしのからだである』「また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同をその杯から飲んだ。イエスはまた言われた『これは多くの人のために流す私の契約の血である。』」(「NEW TESTAMENT新約聖書」 日本国際ギデオン教会発行マルコによる福音書P139)
といってパンとぶどう酒を自らのからだに例えて、それを弟子に分け与える。口から摂取されたパンとぶどう酒は弟子達の体内に吸収されるとなればこれはイエスの側からの同化願望である。この過ぎ越しの晩餐の前にキリストは弟子達の足を洗う。そして、神の前では上下関係のないこと、そして「わたしがあなた方にした通りにあなた方もするように。私は手本を示したのだ」と言う。イエスは、弟子達を「自分の分身」としたかった。布教のためには、自らが布教することが望ましいが、「弟子達との同一化」[29][29]を図ることで、布教は合理的に行われる。この最後の晩餐の行為は、キリスト教信者によって今日においてもミサの場で日常的に行われる。キリスト教において始めに信者との同一化を望んだのはキリストの方であったが、後に、キリストの受けた受難が、信者自信の苦痛を乗り越える為の励みとなり、信者のほうから、キリストとの同一化を望む例は殉教という形で無数に見られる。こうして宗教的な関係においては「聖なる対象」を崇める一方自らも「聖なる者に使える自分も、聖なる者に使えるが故に尊い」と言う気分にさせていく。「皇軍」という意識、「臣民」という意識は「帝の軍隊であるが故にありがたい」のであり、帝の存在は自尊心そのものと化していったのでは無いかと考えるのである。軍隊とは常に死を伴う。かつて「世襲的職業軍人」であった「武士階級」が存在したとき「武士」の自尊心は「刀」に象徴されたが筆者は違うと思う。「武士」の心のよりどころは「先祖」であると思うのである。自分の父も祖父も、代々「死を恐れずに戦ってきたのだ」と言う気持ちが「自尊心」となって、戦場へ赴く恐怖を何とか紛らわせてきたのではないか。では「武士」という階級が廃止され「大衆徴募」による「兵士」にとって死を恐れずに前進するには何をよりどころにすればよいか。それが、「皇軍」という意識であったのではないかと考えるのである。「皇軍」であることがプライドであった。そのプライドを敗戦で傷つけられた国民にとっては、プライドの根源となった「天皇」からの説得が、一番、受け入れやすかったことであろう。狂信的な軍国主義者によるマインドコントロールを解く一番の手段は「天皇本人」による敗戦宣言であった。
「天皇」の当時の日本国民にとっての存在価値の分析があらゆる角度からなされていく。また天皇自らも、アクティブに行動している。それはわが身保身のためではなく、いかに、戦争を終結させるかの「アメリカとの交渉の手段」としてわが身を賭して動かれたようにみえる。その当時のエピソードが『象徴天皇』(高橋紘 著 岩波新書 1987年6月5日第2刷発行3 2頁)の中に「最高司令官へのメモ」の章によって緊張感をもって記されているので下記に引用するものである。
「その成果が、フェラーズの一〇月二日付の「最高司令官へのメモ」であろう。法政大学教授袖井林二郎が私にくれた米国土産の「メモ」にはこうある。「天皇は先祖の徳が宿る民族の生きた象徴である。天皇への忠誠は絶対であり、皆が敬虔なる畏敬の念を抱いている。触ることはおろか、まじまじと顔もみないし、話し掛けることも影さえ踏むこともなかった」
「もし彼を戦犯に加えようとすれば、日本人にとって神聖さを汚されたことであり、精神的自由の否定である」
「開戦の詔勅は、国家元首である天皇の責任において発せられた。しかし最も信頼すべき筋によると、戦争は天皇自身が起こしたのではない」
「日本人が機会を与えられて元首を選ぶとしたら、彼らはきっと天皇を国家の象徴的元首として選ぶであろう。天皇の協力で我々は無血上陸に成功した。彼の命令で七〇〇万人余の兵士が武器を捨て、軍隊はすみやかに解体させられた。天皇の力で何十万人の米国人の命が救われた」
「天皇が戦犯として訴追されれば、統治機構は崩れ去る。国民の蜂起は避け難い。日本人は他のどんな屈辱にも辛抱するが(天皇に対する)屈辱には耐えられないのである。武装は解除されても混乱と流血は避けられない」
東京経済大学教授竹前栄治は、スタンフォード大学所蔵の「天皇ヒロヒトの降伏への苦闘」と題するフェラーズのエッセイを発見した。
一九四七年七月号の『フォーリン・サーヴィス』に掲載するため書かれたもので、「聖断」が「四五万人の米将兵の生命を救い、何十億ドルもの物的損害を出さずに済ませた」。天皇に戦争責任はある。しかし「形式上の統治者に過ぎなかった天皇が、部下の狂信的軍国主義者と対決し、彼らの実質的な権力を一時的に奪い、日本を降伏へ導いた波乱のドラマは軽んじられてはならない」と。六ページのエッセイを結んでいる。
フェラーズのエッセイはマッカーサーを動かした。「SWNCCの問いに対して彼ら、四十六年一月二十五日、アイゼンハワー陸軍参謀総長『過去十年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。・・・・・・(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには百万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である』と述べた。フェラーズの『メモ』をそのまま引用したような回答である。天皇の終戦直後の動きが、マッカーサーの陸軍参謀総長への手紙に結実した感がある。」(「象徴天皇」 高橋紘 著 岩波新書 1987年6月5日第2刷発行P34)
戦いを終わらせるにあたっての天皇の役割は重要であった。そして米国は正しい選択をしたのであった。
4.
民主主義と天皇制
戦争を終結させるため、「天皇」は必要であったことは前項で述べた。
「しかしポツダム宣言の大命題は『日本の民主化』であった。天皇制を残すにしても戦前のままというわけにはいかなかった。」(「象徴天皇」 高橋紘 著 岩波新書 1987年6月5日第2刷発行P35)
戦争終結のために天皇は必要であった。しかし、「ポツダム宣言」のいう「日本民主化」という命題の前には「天皇の存在」は身分制度を否定する民主主義とは相容れないと考えられた。
「「自由の指令」を出して天皇制に対して自由な討議を促し、十二月十五日の「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布に関する件」(神道指令)で政教分離をうたった。さらに民主化を進めるためには、「現人神」である天皇を、人間にしなければならなかった。1946年元旦の「新日本建設に関する詔書」いわゆる「人間宣言」ができる背景には、こうした動きがあった。「宣言」が作られた過程については諸説あるが、天皇は後年、かつての側近に次のように語っている。「宣言について書いたり話したりする場合は五箇条の御誓文(右はマ元帥これの存在を知り、こんな結構なものがあるならと賛成したる由、幣原から聞くと)を主とせよ、現人神のことは軽く言え、ブライスのことは言うに及ばず」中略「五箇条の御誓文」について、天皇は1977年夏の記者会見で、神格を否定することは「ニの問題」で、第一の目的は「明治天皇が既に御誓文で民主主義を説いているということを強調したかった、と語っている。」(「象徴天皇」 高橋紘 著 岩波新書 1987年6月5日第2刷発行P36)
このなかで昭和天皇が強調しているように、明治憲法下においても、日本は「民主主義」であったのである。繰り返すことになるが、フランス革命初期において、フランス国民がルイ16世の下の民主化を三部会開催という形で実現させたかったように、日本は明治天皇の下の民主政治を行っていた。しかしながら民主主義は「平等」であり、主権は国民にあり、身分制度を認めない。この「アメリカ式民主主義」と日本の「天皇制」は相容れない。
今まで筆者は長々と「天皇」を掲げつつ歩んできた日本の歴史をつたないながらも精一杯綴ってきた。「天皇制」と、一言で言っても、歴史の中で「天皇制」はさまざまな形に変化を遂げてきたのである。古代における実質的な「天皇制」。幕府という権力の「正当化機関」としての「天皇制」。明治政府における「リバイアサン的天皇制」。そしてここに、時代は「象徴天皇制」を生み出すに至る。では「象徴天皇制」とはいかなる構造の「天皇制」であるか。次章にて述べたいと思う。
第五章 現行憲法下における天皇制とは
1、
国事行為が意味するもの
国民主権とは「主権」はあっても「権威」が存在しない。
ポツダム宣言後の新たな現行憲法は、「民主主義と身分制度の矛盾」について指摘されるが、「日本国民は天皇に国家の権威」を国民の総意のもとに「委任」しているのが「現行憲法」なのだと考えるのである。
天皇が「権威」であり国事行為の一種の「権威による承認行為」で「天皇家」は「権威による権力の承認機関」であるとすれば、それは現行憲法第一章第3条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」と文言と、まったく正反対の存在となる。では何故憲法第一章第7条において「天皇は、内閣の助言により、国民のために、左の国事に関する行為を行う」とし、わざわざ「国事行為」として
第五項 憲法改正、法律、政令および条約を公布すること。
第六項 国会を召集すること。
第七項 衆議院を解散すること。
第八項 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
第九項 国務大臣および法律の定めるそのほかの官吏の任免並びに全権委任状および大使および・・・・
(旧司法試験用六法T 平成18年度版 法曹会 2頁)
以上の事柄を行うのであろうか。しかも「国民のため」に行うとはいかなる意味なのだろうか。では、国民のために「国事行為を行わない」ことは可能であろうか。現行憲法下においてはすべて、天皇の国事行為を国民からの強制で「天皇による国事行為の拒否権」はない。内閣による助言と承認により、天皇はその要請があれば、必ず国事行為をなさなくてはいけない義務があることになる。現行憲法下には天皇に対して「義務」という言葉は一切出てこない。しかしながら、このシステムは「義務」という言葉こそ用いていないが結果的に「強制的に行わせる」点において「義務」づけていると考えられる。
何ゆえ、現行憲法は天皇に国事行為を「義務付け」ているのか。私には「内閣」というものが「天皇」に対し「国事行為をなせ」と無条件で命令しているように感じられるのである。その行為が善か悪か、不敬か否かを問いたいわけではない。なぜ「その必要があるのか」を問題にしたいのである。
「内閣」が「天皇」に対して「助言と承認」をする「助言と承認」という言葉をみる限りでは、「天皇は国事行為を自主的に行いたいが、内閣によって助言をうけなくてはならないし、その行動に対し、承認を得なくてはならない」と解することができる。
「天皇」は基本的に「国事行為を行いたい存在」であり、内閣はそれを「制限する存在」であるかのような書き方である。
「国事行為は、出発点においては天皇の完全な権限として存在する。しかし、天皇は、内閣の助言と承認に完全に服する結果、内閣のいうままに行動する以外にない。他方、内閣は、助言・承認をするに当たり、当然、憲法およびその下に制定された法律に服するが、憲法・法律の範囲内では国事行為の決定権を行使することになる。その場合に、憲法および法律の内容いかんより、内閣の裁量の幅には広狭を生じうる。ほとんど裁量のない幅がない典型例が内閣総理大臣の任命・助言である。裁量の幅のほとんどない行為を内閣に決定(助言・承認)させることにしたのは、内閣の側から見れば無意味に見えようが、天皇の側から見れば無意味ではない。天皇にとって、自分の行うべき行為が実質誰によって決定されたかなどは、実はどうでもよいことである。重要なのは、誰の決定(助言・承認)に従うべきかが明確に定まっていることである。この点で、憲法は、常に内閣の決定(それが形式的なのか実質的なものか関係なく)に従うよう要求したのである。」(「憲法T(第三版)」野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利 有斐閣 平成14年4月30日第3版 第4刷117頁)
上記の引用文の中で重要な文言は、「重要なのは誰の決定に従うべきか」という文言である。
この文章から「現行の日本国において天皇には権限はないが統治はしている」ということがいえないだろうか。となれば、かのイギリスにおけるエリザベス女王の「君臨すれども統治せず」の機能よりもわが国の天皇は「存在感」が「強調されている」と感じるのである。
概念、観念的であるが、天皇の下に国会があるのではなく、この憲法の条文からは5-1の図のような「国会の下に天皇がある」とすらイメージできるのである。
国民の上に天皇があるが、その天皇の上に国民の選んだ議員による国会がある。という図式である。そして国民はシナリオを作るのは自分たちの代表であるが、それを読み上げるのは「天皇」であってほしいと欲するのである。
スタートラインが「天皇に統治してほしい」とういところから始まって、
「しかしシナリオはわれわれ国民によって作りたい」という希望が現行憲法の制憲者の望みであったように思われるのである。では何故そのような強い望みが制憲者にあったのだろうか。
この時点により、「天皇主権」の憲法から「国民主権」の憲法に移行するが、依然「天皇」の存在を否定するものではなく、むしろ現行憲法において天皇は「国民の総意のもと」に存在している。何故「天皇」は「国民はシナリオを作るのは自分たちの代表であるが、それを読み上げるのは「天皇」であってほしいと欲する」という感情を国民に維持させることができたのか。
非常にややこしい手続きになっているが、「古来より天皇を中心に国家を営んできた歴史を尊重した国民」が「日本は天皇のいる国である」とそれが「日本である」と、まず「日本の国のアイデンティティー」を決めたのだと考えるのである。
アイデンティティーやパーソナリティーを意識するときというのはいかなる時であるか、と考えたとき、自分と違う外界と接し他者を意識したときに生じると考える。
自己の家に一人でいるときは、自分の苗字を気にしなくてもよい。たった一人なら、名前も必要ない。名称は「他者」のものであって実は自分のためのものではない。しかし、外界に出て他者と接するとき、名前が必要になる。そして自分が「どういう人格であるか」を相手に知らせる必要がある。それは今後自分と相手との関係をどうして行くかを決める大切な情報源になる。
ではパーソナリティーはいかにして築かれていくか。それはその個人の歩んできた経験と素質によって形成されていくのであろう。見知らぬ人が就職するとき履歴書を雇用先に提出することでその人のある程度のパーソナリティーが相手に伝わり、その人間と関係を結ぶにあたり有効な情報となるように、日本という国家は古来より「天皇」を中心に国を営んできたのだという「歴史」が、国家の個性としてあることを国民が総意の元に決めた存在なのであると考えるのである。
天皇の存在する国、それが日本である。というところからすべてがスタートしている。
むしろ「天皇制」にここまでこだわらなくてはならなかった理由は何か。わたしはひとえに「敗戦後の日本」の「国家としての独自性」を勝戦国アメリカ、および、世界に対して示したかったのではないかと考えるのである。
実は私は明治維新も対米間の無血戦争の敗北によるものであると私は考えている。であるから、明治政府の「皇国日本」と、大戦後の日本のこだわりに共通する精神をみるのである。ところで、終戦を国民に伝えたものは天皇陛下の「玉音放送」であった。
なぜ終戦を伝えたのが「内閣総理大臣」ではなく「天皇」であったのか。
当初の制憲者たちの理想は、「天皇の統治する国」とすることであったのではないか。
アメリカのように政治家として大統領が直接「政治を行い号令もかける」のではなく、あくまで「表舞台」に立つのは「天皇」の方であって、実質的な政治を行う内閣総理大臣はじめ議員・国会の会議なるものは、「天皇」の「裏方」であることを望んだのではないだろうか。テレビが圧倒的に普及したことで、「裏方」も表に出る頻度が高まり、「天皇が国事をする国」というイメージが薄れ、むしろ、「シナリオ作成者側」がマスメディアに登場することで、「日本国」の当初の「アイデンティティー」である「天皇制」の影が希薄になってしまったのではないだろうかと考えるのである。

5-1
2.象徴天皇制民主主義と多民族国家日本
本稿第五章第1項「国事行為が意味するもの」において、日本国民は「権威ある天皇」による「国事行為」を望むものであると述べた。
「象徴」という言葉の解釈にあたっては、慶應義塾大学通信教育教材 『憲法』(浅井 清著 慶応義塾出版会 平成11年3月10日発行46頁)に次のような文章がある。
「次に天皇が『日本国民統合の象徴』であるというのは「日本国の象徴」とは異なった意味を表している。ここに「日本国民」とは「日本国」と謂った場合のように国家組織を指示するものではなく、日本民族と謂うと同じく、一つの社会組織―指示したものである。またここに「統合」というのは、天皇に日本国民を統合する働きがあるという意味ではなくして、既に一つに統合された日本国民を天皇が表現するという意味である。これは結局、一つにまとまった日本民族の中心と仰ぐものが天皇であるということであり、従って日本国の象徴の場合のように、対外的なものではなく、むしろ対内的なものである。故に天皇を持って象徴とすることは、一つには国家組織の上における対外的代表性を、二つには組織上における対内中心性をいずれも謂い表したものと考えてよい。」
この解釈が一番正当であると考える。かつて日本は「西南戦争」「北海道共和国」なる独立国家設立の危機や「二二六事件」「八一五ク―デタ―」等、民族統合の危機を幾度となく経験している。また、『東洋史の上の日本』という論文の中で、著者である宮崎一定氏はいう。
「言うまでもなく、人が生まれるためには父と母と二人が必要である。この父母二人をうむためにには祖父母四人が必要である。曾祖父母になると八人、高祖父母になると十六人である。こうして一代前にさかのぼるごとに祖先の数は二倍になるので、もし十代前の祖先を数えると、千二十四人となり、二十代前の祖先は百万人以上、三十代前の祖先は十億人以上になる。三十代といえば一世三十年として僅かに九百年前のことである。もちろんこれは延べ人数であるから、その大部分は何重にも重なるのであって、だいいち九百年前のころには世界中に十億などという人口はなかったはずである。それにしても、この延べ十億という人数はそのことごとくが日本の島にいた人だけであろうとは考えられぬ。乏しい記録に載せられたところを見ただけでも、大陸や朝鮮から、日本へ向かって人口の移入がたえず行われているからである。この十億は恐らく日本の人口の全部を含んだ上、更にその人の三十代前の祖先十億人は、当時の東アジアの総人口を含んだであろうことが十分に推察される。この筆法をおしていけば、ある人の祖先は百代も前へさかのぼると、すべて人類が多かれ少なかれ祖先になってしまうのである。」(「古代大和朝廷」大和国 宮崎市定著 1998年9月22日初版第1刷 筑摩書房250頁)
日本は古代より、隣国、大陸(中国)や朝鮮半島間の人間の移動がさかんである。昭和期における日韓併合時代や満州国建国時代など、盛んに交流が行われた時代も存在したことも事実である。[30][30]宮崎氏はこうした日本を「タ―ミナル文化」と名づけているが「日本」とはつまるところ「多民族国家」の側面も持ち合わせた国家なのである。であるからこそ「日本国民の統合の象徴」として「天皇在位」を「国民の総意のもとに」規定し、その下において「民主主義」が行われる「象徴天皇制民主主義国家」なのである。
それはまさにあのキリスト教におけるロ−マ法王「ペトロの座」に酷似する。
現行日本国憲法第一章第一条
天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存ずる日本国民の総意に基く。
一、この条文における「天皇は日本国の象徴」の意味は、「ナンバーワンの席をあえて空白にすることによって、権力を抑制し、均衡を保ってきたという、わが国の歴史が生み出した道徳的権威であり、それを重んじる国であることをあらわしている」と解釈する。
二、「日本国民統合の象徴」の意味は「中国系、朝鮮系、その他他民族系の日本国籍を有する国民も含め、上記「道徳感」に同意した人々によって国家が統合されている」という象徴であると解釈する。
三、「この地位は、主権の存ずる日本国民の総意に基く」の意味は、「天皇」というポジションを作ること、(平たくいえば「一番偉い人」を天皇と定義すること。)によって、道徳的権威を生み出し、「経済力」や「数」の原理をもってしても『手にいれることは出来ないものがこの世にはある』という道徳的権威をわれわれ国民が納得して作り出しているのだと解釈する。
「国旗」でもなく「国歌」でもなく「人」たる「天皇」を「権威」としてきた日本の歴史としての「天皇制」は、単に偶然、風雪に耐えてきたものではなく、「権力」を抑制する機関として必要とされ、必然的に存在するシステムであると考える。「天皇制」は時代を超え「変化」しつつ現代に引き継がれ、現代憲法の中に今もなお「権力抑制の道徳的権威」として生きているのである。
3・むすび
国家の統一の象徴を国旗とせず、古来より「人」たる天皇が担ってきた文化的背景の一部として、私は「謙遜」「謙譲の美」の精神を挙げたい。古代より、天皇の地位は常にずば抜けた超越的武力や、財力からくるものではなく、「廃止」しようと思えば「廃止」出来るほどの勢力であった。しかし、それがなされなかった「権力正当化機関」としての「存在の有効性」は、本稿、第一章より本章にいたるまで示してきたとおりである。そこには「不可侵領域」である「天皇という座」を置くことで、力の均衡を保ってきた「力のある集団」の存在が常に示される。「天皇の座」という「不可侵領域」はあえて「政治権力」から遠ざかるところに位置することで、逆に、権力を統制してきたという、きわめて珍しい、わが国独特のひとつの文化形態であるとかんがえる。彼らが「天皇の座」を廃した時、もしくは「吸収した」とき、絶える事のない「戦い」が繰り返される。それはホッブスのいう「万人の万人による闘争」状態である。その際限のない「闘争」を食い止めるには「譲る」という精神が有効である。そして今日上古より受け継がれた天皇の役割も大きく変わった。経済的、合理的な視点から考えた時「天皇制はもういらない」という意見も出てくるかもしれない。
「筆者が以上のような問題意識をもったきっかけは、そもそも米国留学中の出来事にあった。社会科学分野の様々な研究者が集う、とある集会で、昭和天皇の崩御に接した米国人研究者から、日本では何故天皇制が長期にわたり存在してきたのか、という基本的ではあるが、おそろしく難解なトイが発せられた」
と『天皇と官僚』の著者、笠原英彦氏は書かれているが、外国人からすると、「不思議」な存在であることになるのかもしれない。ことに「合理的」「非合理的」の価値判断基準を「金銭的利益損失」に置き換えて考える人たちにとっては、理解しがたいかもしれない。しかし世の中には「金銭では買えないもの」がある。歴史や伝統、品位や礼節を重んじる精神は、経済活動偏重の現代社会においては一見「非合理」に見えることもあるかもしれないが、そうしたものを「大切にする国民」というのが今日の我々の民族性であり、「国民総意のもと」に「象徴天皇制民主主義」が行われていると考えるのである。
今日の憲法下における「天皇制」は「民族統合の象徴」である。
しかし、次世代における「天皇制」の役割を考えたとき、わたしは「民族統合の象徴」にとどまらず、一つの国家が誕生して以来、「権力の統制機能」を持つ独特の文化形態の一種であり、こうした文化の精神性を表現するための「象徴」でもあるべきであると考えるのである。「天皇制」は私たち日本人にとって「日本国」の過去から連綿と現在に続く、歴史と連動する大切な「国家のアイデンティティー」なのである。改憲の声が高まる中、われわれが、もし天皇制を否定したとき、それは国際社会にむけて、「日本人は道徳意識」を捨て去ったと世界に宣言したも同然であると考える。
大事なのは、天皇の『道徳的行動』ではない。「存在」である。
天皇制は一種の「ペトロの座」であるが、「ペトロの座に座るもの」を民主的に選ぶことはできない。その座につくためには、「天皇家に生まれてこなくてはならない」。しかし、何ぴとも、親を選ぶことはできない。天皇自身は天皇になりたくて生まれてくるわけではない。
その「選べない運命」、「権力ではどうにもならないものがこの世にはある」という「存在の肯定」が欲望に歯止めをかける「道徳感」であり、「倫理観」なのである。
その「道徳感」の象徴こそが天皇制であると考えるのである。
参考文献リスト
「BOOKS ESOTERICA 第22号 天皇の本 日本霊的根源と封印の秘史を探る」
学研 2008年8月28日第五刷発行
「BOOKS ESOTERICA 神道の本」 学研 1992年3月10日第1刷
「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」 笠原英彦著 中公文庫 2006年4月10日23版
「天皇と官僚 古代王権をめぐる権力の相克」笠原英彦著PHP新書 1998年12月4日第一版第一刷
「ミカド」 W.Eグリフィス著 日本の内なる力 亀井俊介訳 岩波書店 1995年6月16日第一刷
「菊と刀」 ル-ス・ペネディクト 長谷川松治訳 現代教養文庫 社会思想社 1967
「源 頼朝」 山岡荘八著 講談社文庫 昭和56年4月20日第4刷
「象徴天皇」 高橋紘 著 岩波新書 1987年6月5日第2刷発行
慶應義塾大学通信教育教材「歴史(日本史)」河北展生・志水庄司・高橋正彦・高瀬弘一郎 慶應義塾大学出版会 平成12年3月10日
慶應義塾大学通信教育教材「歴史(西洋史)」森岡敬一郎・米田治・坂口昴吉・小川英雄 慶應義塾大学出版会 平成10年3月10日
慶應義塾大学通信教育教材「政治学」島田久吉・多田真鋤 慶應義塾大学出版会株式会社平成10年3月10日
慶應義塾大学通信教育教材「ヨ-ロッパ中世政治思想」 鷲見誠一 慶應義塾大学出版会平成10年4月1日
慶應義塾大学通信教育教材「日本法制史1〔古代〕」利光三津夫著 慶應義塾大学出版会平成11年8月20日
「日本法制史」資料 霞信彦 漆原徹 浜野潔 慶應義塾大学出版会
2005年7月16日 初版 第2刷
慶應義塾大学通信教育教材 『憲法』(浅井 清著 慶応義塾出版会
「NEW TESTAMENT新約聖書」 日本国際ギデオン教会発行
「聖書神話の解説」西山清著 中公文庫 1998年11月25日発行
「現代国際法」栗林忠男著 2002年3月25日初版第4刷 慶應義塾大学出版会
「古代大和朝廷」宮崎市定著 1998年9月22日初版第1刷 筑摩書房
「憲法T(第三版)」野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利 有斐閣 平成14年4月30日第3版 第4刷
「憲法U(第四版)」野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利 有斐閣 平成18年3月30日第4版 第1刷
「憲法(第三版)」芦部信喜 著 岩波書店 2004年9月3日第6刷
「憲法(第三版)」佐藤幸ニ 著 青林書院 平成11年12月10日第三版九刷
「日本の近代9 逆説の軍隊」戸部良一著 中央公論1998年12月10日初版
「心理学辞典」中島義明 安藤清志 子安増生 坂野雄二 繁桝算男 立花正夫 箱田裕司 有斐閣 1991年 1月 25日 初版第一刷
「ルソ-社会契約論」桑原武夫 前川貞次郎訳 岩波文庫 1999年2月15日 第66刷
「共産党宣言」マルクス エンゲルス 塩田庄兵衛 訳 角川文庫 昭和40年9月30日15版
「日本の憲法」 長谷川正安著 第2版 岩波新書1988年 4月10日第15刷
「ベルサイユのばら」1〜5巻 1944年12月 5日 第一刷集英社文庫 池田理代子著
「秘録 永田鉄山」 永田鉄山刊行会編 芙蓉書房 昭和51年 2月26日 第6刷
「天皇制ファシズム論」 中村菊男 原書房 昭和47年5月15日 再販
「天皇機関説事件」 上下 史料は語る 宮沢俊義著 有斐閣 昭和45年5月10日
「天皇機関説の周辺」宮本盛太郎 有斐閣選書 昭和55年3月20日
「人権宣言論」 イェリネック 訳者 美濃部達吉 昭和21年7月25日 第一版 日本評論社
「フランス革命の研究」 京都大学人文科学研究所報告 桑原武夫編 岩波書店刊行1959年発行
「朝鮮人がなぜ『日本名』を名のるのか 民族意識と差別」金一勉著 三一書房1980年1月31日第一版第3刷発行
旧司法試験用六法T 平成18年度版 法曹会
注釈
[1] 「日本開闢由来紀」によれば、コノハナノサクヤヒメとニニギノミコトの子であるホオリノミコトが天津日高彦穂穂井出見命〔紀記によれば彦火火井出見命 呼び方は同様にヒコホホデミノミコト〕であり、初代天皇である神武天皇の祖父にあたるとされる。また天照大神を卑弥呼とする説、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命〔大物主神の妻 ヤマトトトヒモモソヒメノミコト〕同一人物説など、神話の神々と歴史的人物を当てはめる試みは数知れずなされている。
[2]四世紀半ば西日本を統一。倭の五王については 済 興 武 讃 珍〔允恭 安康 雄略 仁徳 履中〕
[3]日本書記によれば祟峻5年 594年 祟峻天皇が蘇我馬子によって暗殺されている。天皇と官僚 古代王権をめぐる権力の相克 笠原英彦著 PHP新書 24頁参照のこと
[4]皇極2年 643年 十一月 蘇我入鹿による上宮王家討滅事件がおきる。舒明天皇没後起こった皇嗣問題に巻き込まれ、聖徳太子の息子にして欽明天皇のひ孫の山背大兄皇子を蘇我入鹿が襲撃。山中に逃げるものの、のち子弟妃ともに自決。
[5]大海人皇子は天智天皇〔大化改新を行った中大兄皇子〕の弟 壬申の乱 672年 天智帝の息子大友皇子を進撃したのち自決においこみ後天武帝として即位。
[6]律令における中央官制は、これを総称して二官八省一台五衛府の制といわれている。詳細に関しては日本法制史T〔古代〕利光美津夫 慶應義塾大学教材 平成11年8月20日発行 慶応義塾大学出版会 51頁参照
[7]日本法制史 史料集 6頁 律令の項目参照のこと。 霞信彦・漆原徹・浜野潔 編 慶応義塾大学出版会 2005年7月16日 初版第二刷発行
[8] ウカノミタマノ神とする説インドのダキニ天とする説などがある。
[9]京都伏見稲荷が正一位とされる。「正一位稲荷大明神」榎本直樹著 岩田書院 平成9年
[10]初代徳川家康1603年に幕府を開いてより以後1863年15代徳川慶喜による大政奉還まで幕府が置かれる。
[11]長老・伝統に関する価値観に関しては、福沢諭吉著作集 第9巻「帝室論」「尊王論」に多々見える。慶応義塾大学出版会 2005年2月3日 初版第二刷発行
[12] 1615年朝廷統制のため徳川家康より発布される。
「これに対し、江戸幕府を開闢する徳川家康は朝廷に冷淡であったが、自己を神格化するためにはやはり天皇の権威をかりなければならなかった。幕府は一方で「禁中並公家諸法度」により天皇を学問の世界に閉じ込めることで政治の局外に置いたものの、日光東照宮の実現のためには神号の勅許を必要とした。」〔歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか 笠原英彦著 中公新書はじめに X 参照〕
[13] この説は筆者の意見であるが、ルソーの「社会契約論」〔岩波文庫 桑原武夫・前川貞次郎訳 195頁〕、福沢諭吉「帝室論」172頁 慶応義塾大学出版会 2005年2月3日 初版第二刷発行 の中に同様の思想がみられる。
[14]例として卑弥呼のシャーマニズムと弟王のおこなった「二王制」
[15]日本古来の風俗にみる「一年神主」などは、能力に関係なく、「神主として他者が認める」という慣例によって成立するという例のひとつである。
[16] 「何人も自らの裁判官にはなれない」〔法源〕
[17]免罪符の販売など
[18] ヨーロッパ中世政治思想 鷲見誠一著 慶應義塾大学教材 平成10年4月1日発行 慶応義塾大学出版会 34頁 参照のこと
[19] 1756〜 1763年の七年間 ルイ15世によっておこなわれる
[20] マリー・アントワネット 1755年〜1793年ルイ16世の王妃。1770・5.16ルイ16世と結婚。ジャン・ジャック・ルソー 1712〜78年 正確にはルソーがこの世を去る8年前にフランス王妃となるが、ルソーの記す「ルイ15世による七年戦争」のころにはまだアントワネットはフランス王妃ではなかった。フランス国家の困窮はアントワネットがフランスに嫁ぐ前から既に始まっていた。
[21] 1789年 6月 20日国王により三部会を閉鎖。 テニスコートの誓い。
22ルビー サファイアともにコランダム〔鋼玉〕の一種。科学組成 AL2O3 酸化アルミ。
結晶にふくまれる不純物イオンによって色がつきルビー・サファイアにわかれる。
[23]孝明天皇による鎖国の維持については、さほど深い意味を持って述べられたようではなく、事情がよくつかめぬまま現状維持が望ましいくらいの感覚であったとされる。
[24] 「維新の事は帝室の名義ありと雖も、その実は2.3の強藩が徳川に敵したる者より他ならず」と「痩せ我慢の説」115頁の中においても福沢諭吉も同じ立場をとっている。福沢諭吉著作集 第9巻 慶応義塾大学出版会 2005年2月3日 初版第二刷発行
[25] 「天皇は憲法解釈において機関説を採用され、きわめて合理的に、しかも冷静な態度をとっているわけである。」(「天皇制ファシズム論」 中村菊男 原書房 昭和47年5月15日 再販22頁)
[26]永田鉄山 永田鉄山刊行会編 芙蓉書房 昭和51年2月26日第六刷発行 175頁によれば、二二六事件の粗雑さ〔放送局を占拠しない。皇居を包囲して天皇を擁立しなかった。など〕からして、北一輝の関与に関して疑問を持つ説が記されている。
また「この二二六事件は一部の幕僚に利用され、ひいては軍幕府ができた、と思います。二二六事件は国家的な視点からみれば非常にマイナスであった」永田鉄山 永田鉄山刊行会編 芙蓉書房 昭和51年2月26日第六刷発行 175頁 等の説もあり、二二六事件後の人事が軍による「ファッショ」につながっていったとされる説もある。
[27] いわゆる軍内部における派閥について、「皇道派」とは永田鉄山 永田鉄山刊行会編 芙蓉書房 昭和51年2月26日第六刷発行 によると「統制派、皇道派という色分けはなにびとかの作為により鮮明となったが、中級以上の人はこの区別はないと思われる。所詮皇道派は、親分子分関係で脈絡完全で上層と結びついているようである」〔同書 「軍を健全に明るくする為の意見」頁47〕「『某隊長のためなら喜んで命を捨てるが・・・』というような軍隊を作ることは、封建制度の発芽であって、この思想は絶対に排除せねばならぬ。いつ隊長が変わっても直ちに新隊長に献身的奉仕をするよう訓練することこそ皇国日本軍隊の真価であるとの信念は永田鉄山の常に堅持していたところである。」〔同書 340頁〕という思想から、「統制派とは皇道派とはなんであったか」がうかがえる。
また、皇道派の起こした二二六事件に関しても「『何故あのように馬鹿げたことを青年将校にやらしたのだ』と聞くと、山口は、『青年将校があそこまでいくと・・・・もう栗原なんかが可愛くてしょうがないんだ。押さえるためにはバラさなければならない〔計画を?〕バラせば彼らは相当の処罰をされる。それではかわいそうだ。それを考えるとどうしてもバラす気になれなかった』と涙ながらに授戒したものです。」永田鉄山 永田鉄山刊行会編 芙蓉書房 昭和51年2月26日第六刷発行 175頁 との記述から、「皇道派」とは、「天皇崇拝派」というよりは、一種「衆道的結束」にも似た独自の人間関係を持つ一派であったようにも推察される。
[28]日本会戦に関しての経緯は、「永田鉄山」永田鉄山刊行会編 芙蓉書房 昭和51年2月26日第六刷発行 及び 「天皇制ファシズム論」 原書房 昭和47年5月15日 再版 中村菊夫著 ハル・ノートと日本会戦 340頁 参照のこと
[29] 29同一化に関してケルマンによると「追従〔compliance〕同一化〔identification〕内在化〔internalization〕の三タイプの社会的影響を仮定した。影響源が賞罰によって個人をコントロールする手段を持つとき「追従」が生ずる。影響源と個人との関係が魅力的であり、満足できるものであれば個人は影響源の立場を採用するという「同一化」が、影響源に信憑性があり、かつ当該事象が個人の価値体系と斉合すれば「内在化」が起こる。」とされる。心理学辞典 有斐閣 631頁 中島義明 安藤清志 子安増正 板野雄二 繁桝算男 立花政夫 箱田祐司〔編集1999年 初版第1刷発行〕
30] 古代から近代に至るまでの朝鮮半島からの朝鮮人と日本人との移動やその関係については「朝鮮人がなぜ『日本名』を名のるのか 民族意識と差別」金一勉著 三一書房1980年1月31日第一版第3刷発行 を参照されたし。公平かつ冷静な視点によって克明詳細に記されている。
2009年
(2008年度)慶応義塾大学通信課程 法学部 甲類(法学部) 卒業論文 杉崎しをり著
卒論指導担当 駒村圭吾
卒論面接試験 主査 駒村圭吾 副査 小林節 評価A