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第一話 桜花

 

 

第一話 桜花



2000.1.26



桜の花びらの舞う頃合。



両脇に満開となった並木を従える、さほど長くもなく伸びる路。



通り行く足音、去り行く喧騒、流れ行く人の波。



その流れから外れた路の脇、色づいた木々の下、甘い薫りのする息吹の中に一人の少女の姿があった。



周囲の人達の織り成す喧騒、少女を含めた人達が織り成す筈のもの。しかし、それを少女は自分が今存在しているのとは別の次元のもの、まるで背景に流れる映像か何かであるかのように感じていた。



少女自身とは焦点がずれている何かぼやけているはっきりとしないもの、少なくとも少女自身はそう認識していた。



少女の纏う雰囲気、隔世の感、存在自体の主張の無さが周囲に対して少女が感じているものを周囲にも感じさせていた。少女自身もそうなるように、そう感じさせるように自分で望んでいたのかもしれない。



周囲の人達は自分達の織り成す流れから外れているにも関わらず、いや、だからこそだろうか、その少女に気づく事はなく、その少女もまた、そこに存在しているのにも関わらず自分の存在を消したまま、周囲にその意を向ける事はなかった。



その蒼氷色の瞳は満開に花開いた薄桃色のけぶりに向けられている。



華やかなる生命の開花、確かに感じさせるその息吹、しかし、そこに向けられているその瞳には本来ある筈であろう輝きが全くなかった。



蒼氷色、その言葉、その色から連想される清澄さやきらめき、そうした美しさのようなものは何もなく、ただ、表現のために必要な色がそこにはあるだけであった。



眩しいばかりの命の発露、しかし、そこに向けられている瞳には何の輝きも、何の美しさもありはしない。



何の表情も、何の感情も浮かべる事なく、その少女はただ、輝きを失った、濁りきったその瞳を美しいものへ、息づいているものへ、確かに生きている事を周囲に感じさせているそのものへと向けていた。



真新しい制服、ブランド物のジャケットとチェックのミニスカート。その華やいだ雰囲気そのままにご多分に漏れず入学式、新学期の時期。少女自身もまた今日から新しい学び舎へと通い始める事となっていた。



少女の周囲を過ぎ行く人達も皆同じ制服に身を包んでいる、そこを通る人達を皆全て祝福するかのような桜の並木路はこれもまた真新しい校舎へと続いていっている。



少女の周囲を通り過ぎていく人達の足取りはまだまだ皆ゆっくりとしたもので穏やかな日にふさわしい緩やかなものであった。



いずれその陽射しと同様に激しくも慌ただしくもなるのかもしれないが、今はまだまだゆっくりと時は流れている。



その中に身を置く人達、しかし、その少女の時だけは、まるでそこだけが周囲の全てから隔絶されているかのように、氷ついているかのようであった。



およそ日本人では考えられない美しいスタイル、そのプロポーション、服の裾から垣間見える白磁のような肌は触れれば溶けだしてしまう泡のように滑らかで儚い。



背中の中ほどまで伸びた赤みがかった栗色の髪は柔らかな春の陽射しを受けてけぶるように輝き、ある種幻想的な、神秘的な雰囲気を醸し出し、その整った顔の造形は同姓、異性を問わず魅了せずにはいない。



しかし、少女のその美しさの全てが正しく周囲に感じられる、伝えられる事はない。



少女の纏っている雰囲気、その表情が全てを無にしていた。



視覚的な美しさを感じるのは間違いのない事であったであろうが、それと共に感じる雰囲気、表情はおよそ目に映る直接的なものを遥かに陵駕して不快なもの、あるいは嫌悪を感性といった曖昧かつ確実なものに感じさせずにはいられないものであった。



無気力、退廃、怠惰、絶望、虚無。



そうした人間が生きていく上ではそれと指向してはならないもの、誰にでもありはするが、少なくとも乗り越えなければならないもの、克服しなければならないもの、時としてそれは必要であってもそれだけには決してなってはならないもの。



それだけが今の少女の全てであった。本来それだけであってはならないもの、それが今の少女の全てであった。



そして、それを少女は内に秘める事なく全てを表に晒していた。何らの恥じる事もなく、臆する事もなく、惜しむ事もなく。



恣意的に見せ付けるという意図はないようではあったが、隠すような意思もないといったような感じであった。



何の意思もない、ただそれだけ。



他者がどう感じるかはソイツの勝手、自分の知ったところではない、少女自身そんな事を思っていたのかもしれない。



「(…アタシは何故まだ生きているのだろう)」



少女の纏う雰囲気はそれを目にするもの、感じるもの、近くにいるものには強烈にそれを感じさせずにはいないものではあったが、過ぎ行く人達にはその存在を打ち消すような虚無感からか少女自身がそこにいる事さえも感じてはいない。



「(…生きていたって仕方ないのに…何にもないのに…)」



少女の瞳は何も映してはいなかった。削硝子のように濁りきったその瞳には今目の前で明るさ、華やかさを周囲に振りまいている桜でさえも只のモノとしてしか形をなしていなかった。その心は美しさとかそういったものを感じるものは何もなく、ただ何もない空っぽなだけであった。



「(…何もない自分、アタシを模っているアタシ。…なんなんだろう、今ここにいるアタシは…)」



今の自分がかつて忌み嫌っていた少女と同じ考えを抱いているとは知る筈もない事であったが、それを知ったらこの少女はどう思うのだろうか、それとも何も思わないのであろうか。



「(…何のためにここにいるの、何をするためにここにいるの…どうして?。…ここにいる必要なんてないじゃない…)」



今の少女はただのモノ。そこに存在している事に何の意思もないただ存在しているだけのモノ。モノがそこにあるのに理由がないのと同じにただそこにあるだけのモノでしかなかった。そして、それは少女自身がそうある事を全く消極的な姿勢でそうしているためにそうなっていた。自らの意思とは関係なく、望むと望まざるとに関わらずそうなっていた。少女がそこにあるのに少女の意思はなく、ただそこにある、来た、ただそれだけであった。



ものと違うところがあるとすれば動く事ができるということであったか、今の少女とモノの違いはその程度のものでしかなかった。



この場にいるのもただ流されただけ。拒否する意思もなく、受け入れる意思もなく、どちらに対する理由も自分の中に見出す事もできず、ただ他にする事もないというただそれだけの事で今いる所へと移動してきた。そう、ただ移動してきただけであった。



「(…ただ流されているだけ。…アタシにはアタシ以外に何もない。…存在している今、それしかない。…過去もない、未来もない。…ただ存在しているだけ、ただそれだけ…)」



少女にとっての過去、それは全てを否定されたもの、全てを無くしてしまっただけのもの。残ったもの、得たもの、そんなものは何一つとしてありはしなかった。少女に残ったもの、それは自分自身の存在、ただそれだけでしかなかった。少なくとも、今の少女にとってはそうであった。



「(…今のアタシ。…何?、一体なんなの?。…ここに来て一体どうなるっていうの?、この先どうなるの?。…そんなの知らない、興味もない…)」



そんな過去を少女は捨てた。少女自身にとって忌まわしいもの、禁忌たるもの。二度とはない時を無駄に費やしただけのもの、何の結実もありはしなかったもの。今とこれからの自分に何ももたらさなかったもの、だから少女は捨てた、いかようにもなしえない怒りと憎しみをもって。決して解かれる事のない戒め、自分ではそう思っている、をもって封をし、心の中の事象の彼方へと捨て去った。そちらの方に意を向ける事はあっても今の少女の視線同様にまるで全てが他人事であるかのような冷たい視線をもってするだけであった。



関心のないモノを見るような目でそれを眺めていた。



ふと少女は苦笑を漏らした、それは自分を嘲笑うような、歪んだ、その美しい顔に浮かべるには相対して醜すぎるものであった。



「(…こんな事を考えるだなんてね。…まだアタシの中に何かあるっていうのかしら、バッカみたい。…何もありゃしないっていうのに、何にもなりゃしないっていうのに…)」



環境が変わったせいかな、と思って少女は自分の中で決着をつけて考えるのを止めた。



ある意味少女の類まれなる知性が少女に考える事を指向させていたとも言えるが、それは今の少女にとっては邪魔以外の何ものでもなかった。実際、少女自身も自身の知識、思考法、性向がうとましく感じられていた。



それは第三者から見れば間違いなく少女が過去に身に着けたものであり結実の一つとしてしか考えられないものであったが、少女自身はそれをそのようには認めていなかった。いや、むしろただの無駄なのものの内の一つであり、それこそが自分がこれまでの時間を無意味に浪費してきた事を現している象徴の一つでもあった。少女自身それに対して好意よりも圧倒的に悪意を向ける事の方が多かった。事の良し悪しは別にしてそうしている事が多かった、そうせずにはいられなかった。



そんなものが一体何の役にたつのか、何の役にもたちはしない。少女はいつも心の中で吐き捨てていた。実際、少女が生活していく上でそれは何の役にも立ってはいなかった。少女自身が役立てようとしていないのだから当たり前なのではあるが。



少女は再び空になった。心には何もなく、頭には何も浮かべずただそこに佇んでいた。



その姿はまるで周囲の風景と同化しているかのようであった。美しい、美しくない、そんな人の心が感じるものとは全く別として意思あるもの、無きものの別として周囲に溶けこんでいた。



過ぎ行く人達と同じ人でありながら、それとは別のモノとして、路を彩る木々と同じものとして、そこにただ存在しているようになっていた。



ただ、図らずもその少女の類まれなる美しさは周囲に彩りを振りまいているモノ達に全くひけをとらないものであり、その姿は全く違和感なく溶けこんでいた。本当にただの風景としてはそれを目にするものに美しさを感じさせずにはいないものになっていた。



本来、質の異なる美しさであるのにも関わらず少女はその風景に溶けこんでいた、いや、溶けこんでしまっていた…。



周囲の風景、いや、全てのものを圧して余りある美しさ、輝き、きらめきを放つ事のできる筈であるというのに…。



少女は、その全てを捨て去ってしまっていた。











「アスカ!」



不意に横合いから声をかけられた。



溌剌としたその声は生気に溢れ、アスカと声をかけられた少女とは対極に位置しているものであった。



声をかけられた少女はその身に纏っている雰囲気そのままに、ただそれまでに向けていた瞳もそのままにそちらの方に顔を向けた。



「お待たせ、ちょっと遅れちゃったかな」



蒼氷色の瞳の少女が目を向けた先には黒髪、お下げの、少女自身と同年代の少女が佇んでいた。



際立って目立つ所はないが、愛嬌のある、およそ可愛らしいといえるやや童顔の少女。



声と同じ溌剌とした雰囲気はその容姿以上に周囲に好印象を与えるだろう、その点でも声をかけた方とかけられた方とでは対極の位置にいた。



声をかけてきた少女は自分の発した言葉どおりに、時間を確かめるために小首をかしげて手首の時計に目を落としている。



そんな少女に見つめる少女の瞳のいろと表情が微かに動いた。



「…そんな事ないよ、ヒカリ。アタシの方が早く来すぎちゃっただけよ」



いたわるでもなく、誤魔化すでもなく、ただ事実を告げるだけのようにしてアスカは自身がヒカリと呼んだ少女に言葉をかける。



「そう?、ならいいんだけど…」



アスカは何も言わずに僅かに頷く。



「じゃ、いこっか」



「…うん」



二人は連れ立って路を奥の方へと歩き始める。



一人は周囲の風景とこれから始まる新しい生活に期待に胸膨らませ、瞳を輝かせて。



一人は周囲の事もこれからの事も何も関係ないといった感じで、俯き加減で、ただ惰性で足を動かしているといった感じで、瞳に何も写さず、濁らしたままで。



「…綺麗よねぇ」



ふと、黒髪の少女が傍らに向けてだろうか言葉を漏らす。



「…そうね」



相槌をうつように、自分に向けてのものかどうかは判然とはしていなかったが、アスカは言葉を返した。



「…夏に咲く桜。かつては春にしか咲かないって聞いていたけど、品種改良が進んだのかしらね?」



「…そうかもね」



今度は明らかに問い掛けてきた言葉にその応えはそっけない。



だが問い掛けた方は気を悪くした風もなく笑顔を問い掛けた相手に向けている。



「…さっきはアスカも見ていたんでしょ?。桜…」



「…まあ、ね。別に見ていたっていう訳じゃないけれども、ただの暇つぶし」



「…そっか」



その返答にヒカリの表情が僅かに曇る。



自分の隣のいる親友が何かを愛でる、意識を向けるようになったかもしれない、そんな一瞬抱いた淡い期待はその次の瞬間にその親友たるアスカ自身に否定されてしまった。



僅かな希望、それさえも垣間見せる事のない友人に落胆したのかもしれない。



しかし、ヒカリは気を取り直すかのようにして表情を明るくして言葉を継ぐ。



「新学期かぁ」



「…そうね」



「またアスカと一緒になれて嬉しいな、私」



その言葉にふと、アスカが顔をあげて隣を向いた。



その髪の色と同じ黒瑠璃のような瞳を自身の蒼氷で見つめると微かに薄く、しかし、嬉しそうな透き通るような微笑みを浮かべた。



「…うん」



それだけ、呟くように聞こえるか聞こえないかのように漏らすと僅かに頷いた。



その言葉の中には謝意も迎合の意味も含まれているものではなかったが、そこには他に何もない、純粋な彼女自身の意の全てが込められていた。



それを目にしたヒカリの顔が明るく輝いた。



それは、これ以上はない嬉しさに触れた、ただそれだけしかない、それを向けてきた側と同じ純粋な、輝くような満面の笑顔であった。



それを目にしたアスカは例えようもない眩しさを感じていた。



「(…輝いている、ヒカリ。…眩しい。…名前と同じ、ヒカリ。…羨ましいのかな。…そうかもしれない、アタシにないもの、失ったもの。…失った?。…アタシは持っていたの?…)」



アスカは思い出そうとして思考を巡らしかけるがすぐにやめた。



探しても見つからないのが確信に近いもので感じられたし、何よりも思いだしたくなかった。かつての自分を。



「(…分かんない。…でも、もう、どうでもいい…)」



投げやりに思うとアスカは表情と視線を戻して再び俯き加減になる。



それを見たヒカリは表情を曇らしかけるが意識して表情を崩さぬまま視線を前に向けた。



「私達も高校生かぁ、なんだか緊張しちゃうね」



会話を途切れさせないように意識でもしているのか、ヒカリが再び口を開いた。



その言葉とは裏腹に、緊張はしているのかもしれないが、表情と瞳は期待と希望に満ち溢れ輝いている。



そんなヒカリを横目で見ながらアスカは否定的な事を言おうとも思ったが、それは自分自身だけの事でそれを傍らにいる連れ合いに押し付ける事もないとも思い止めにした。



このような事に喜びや希望を見出せるという事はまだ純粋で汚れをしらないという事で、こんな事を感じる自分自身は汚れていると思わざるを得ないが、それはただの事実でしかないので何も感じるものはなかった。



その事に関して、汚れているのがいいのか純粋なままでいるのがいいのか色々と思うところがない訳ではなかったが、またぞろ思考が動きそうになるのを忌々しく感じて自分以外に分からない口の中だけで小さく舌打ちをすると意識して無理矢理それを止めた。



自分にはそんな時期、純粋な頃があったのだろうかと思いもしたが、先程に引き続き考えだそうとするのを抑えて止めた。



どうにもありそうにはなかったし、そんな事を確認したらしたでかつて感じていた憤りが再燃しそうであったし、そうなったらそうなったで何かとてつもなく馬鹿馬鹿しいようにも思えた。どうあがいた所で所詮時間を巻き戻す事なんてできはしないのである。であるならば無駄以外の何ものでもなかった、そんな風に過去を振り返るなどという事は。



ただ、ふと疑問に思った事はあった。自分の親友たるこの少女は何をもってこのようにしていられるのだろうか、自分の未来、将来に何かを持っているのだろうか、何を持っているのだろうか、と。



それを聞いた所でどうとなるものでもなかったが、それは単なる好奇心だけであった。それを満たした所で何の得にもならない事は分かっていたが、害にもならないような気がしたので聞いてみる事にした。



「…ヒカリは自分の将来に何かあるの?」



それはある意味何らの具体性も伴わない問いであったが、問い掛けられた方はそうした事にアスカが興味を持った事自体が嬉しいかのように再び微笑みかけてきた。



「…そうね、こうなりたいっていうのはまだ決まってないんだけれども、なれればいいなっていうのはあるかな?。保育園の先生、学校の先生、調理師の免許も取ってみたいかな?。でも、何となく普通にOLになりそうな、そんな感じもしている」



楽しそうに自分の将来展望を語る少女に問い掛けた方の少女は、ふ〜んという感じで特に何の感慨もなく耳を傾けていた。らしいかな、とか、そんなところかな、と心の中で密かに納得もしていた。疑問を出す際の予想の範疇をその答えは越えるものではなかった。だからアスカとしては何の感銘も受けるような事はなかった。



ただ、それに続いてヒカリから発せられた言葉には心を動かさずにはいられなかった。



「…でもね、途中でどういう路を辿ったとしても最後には絶対に叶えたい事があるの」



アスカが訝しげな表情を向けるとヒカリは夢見るような表情で言葉を継いだ。



「それはね、幸せな家庭を築きあげること。愛する人と結婚して、授かった子供達と一緒に幸せな家族、幸せな家庭を築きあげるの。それが私の一番大切な夢、希望、かな」



その言葉を聞いた瞬間、アスカの心は激しく波をうった。



抑えきれない激情が全身を駆け巡りそれが表情にも出てしまっていた、抑える事はできなかった。



幸せ、家族、家庭、子供、そのどれもが彼女にとっては禁忌の言葉、絶対の禁句であった。



それはアスカを自分の過去へと向き合わせるものであった。望むと望まざるとに関わらずその言葉は彼女をそれへと向き合わせた、意思も抵抗も関係なく向き合ってしまう。



最後の理性はアスカ自身を激発の一歩手前に踏みとどまらせていた。



自分の聞いた事にヒカリは答えただけ、怒るくらいなら最初から聞くな。その事実とアスカ自身の信条が彼女自身をして最後の一線を越える事を留まらせていた。



彼女の厭世感、怠惰性も感情が弾けるのを押さえるのに一役買っていた。それは、皮肉な事なのかもしれないが、アスカの感情の働き、動きを鈍くしていた。それだけに彼女に考えるだけの余裕があった。故に感情に押し流される事なく、理性を働かせる事ができていた。ただ、感情の動きの全てを抑えきる事はできなかったが。



実際、アスカの表情は目つきがきつくなり眉がつり上がった程度のものであったが、それでもそれまでの沈みきったような、全てを捨てきっているような表情とは全くもって違うものであった。



一瞬、ヒカリは自分の世界に意識を埋没させたようであったが、すぐに自分の言った事に傍らの友人の表情が変化した事に気づいて、しまったというような表情になった。



しかし、その当のアスカはそんなヒカリの表情の変化に気づいてか気づかずか、意識をその事から切り離す事に成功したのか、自分の感情を抑えるためにそうしたのか、視線を正面に向けて表情を消し、素っ気無い口調で、そっか、ヒカリらしくっていいね、と言っただけであった。



そのアスカの表情はある意味美しいとも言えたが、見ようによってはこの上もなく醜いものでもあった。



それを目にしていたヒカリにはそれがどのように映ったのかは分からないが、その面に浮かんでいたのは例えようもない程の悲しみであった。



ふと、仮面を貼り付けたように無表情だったアスカは不意に微笑みを浮かべると、入学式始まるよ、急ご、と言って小走りに駆け出した。



走り行くアスカに駆け出し損ねたヒカリはその背中に今にも消え入ってしまいそうな、どこかにいってしまいそうな、決して戻ってこないような寂寥を感じて思わずこみ上げてくるものがあったが、慌てて頭を振ってそれを振り払った。



自分までもが同調してしまえば本当にどうしようもなくなる事をヒカリは知っていた。いや、本能的に感じ取っていたという方が正しいだろうか。それは理屈のない恐怖、恐れであった。



遠ざかる背姿を無言で見送りながらヒカリは知らず、独りで呟いていた。それは誰に向けたのでもない、自分自身にさえも向けたものではない、周囲の誰も耳にする事のない小さな小さなものであった。



「アスカ…まだあの事…碇君の事…」



ヒカリはこの時、心の底からアスカの過去との決別を願っていた。忌まわしい過去を振り払ってくれる事を切に願わずにはいられなかった。今とこれからを、アスカ自身を取り戻して欲しかった。



ヒカリ自身、それに対して心暗いものを抱かずにはいられなかった。







<第一話 了>





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