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第十話 双翼

 

 

第十話 双翼



2000.10.1



 

 

暮れゆく朱の陽光に照らされた体育館の中。

 

そこは今、年頃の女の子達の激しくも、くすぐったくなるような歓声に溢れていた。

 

ある一人のヒトにだけ向けられたその感情の発露。

 

その中でシンジは戸惑うようにして佇んでいた。

 

ゴールを決めた直後にホイッスルが鳴り響くのを耳にしたエンドラインの傍で、シンジは何が起こっているのか分からないという感じでただそこに立ち尽くしていた。

 

その嬌声が向けられているのは間違いなくシンジ。

 

その当のシンジは呆然としたようにしていて自分達の送っている声が受けとめられているかどうかも分からないようであったが、そんな事はお構いなしに心を奪われた女子生徒達の呼びかけは続けられている。

 

口々にシンジの名を呼び、自分達の思いつくかぎりの賞賛の言葉を投げかけていた。

 

 

「手ぇくらい振ってやらんかい、シンジ」

 

 

ボールを手にしたままのトウジがシンジに近寄ってきて気がつかせるようにして肩を軽く叩いた。

 

 

「えっ、でも……」

 

 

僅かに驚いたようにしてシンジはトウジに振りかえる。

 

周りの雰囲気から一人外れたようにして浮かない表情のシンジを見てトウジは訝し気な顔をした。

 

 

「なんや、どないしたんや」

 

 

不思議そうなトウジにシンジは僅かに顔を伏せる。

 

 

「でも、僕、何もしていない……」

 

 

そのシンジの言葉にトウジは、はあ?という表情をする。

 

 

「何もしとらんっちゅう事はないやろ、あんだけの事しといてからに。こうなって当然の事やないか、センセ」

「あれは……。僕はただ無我夢中で、トウジをよけなきゃって思っただけで……」

 

「か〜っ、じれったいやっちゃな!。へるもんでもあらへんし、やって損するもんでもないやろが」

 

 

口篭もるシンジにトウジは本当にじれったそうにして頭をかく。

 

そんなトウジにシンジは視線を脇に逸らして何も言わない。

 

 

「……なんや、シンジ。そんなに嫌なんか?」

 

 

その言葉にもシンジは俯いたまま何も答えずにいる。

 

 

「……同じだ、あの時と……」

 

 

シンジは俯いたまま自分の口の中だけで呟いた。

 

それは歓声の中に包み込まれシンジ自身以外の誰にも聞こえる筈のないものであったが、トウジはピクリと眉を跳ね上げた。

 

 

 

 

……みんな、みんな分かっていない……

 

……僕の事なんて、何も分かっていない……

 

……みんなが見ているのは僕のした事だけ、僕自身じゃない……

 

……僕を見ているヒトなんて、誰もいない……

 

 

 

 

そんなトウジの表情に気付かず、シンジは俯いたまま両手を握り締める。

 

 

「……シンジ、ワイに言った事、あれは嘘なんか?」

 

 

そのトウジの言葉にシンジの肩がピクリと動く。

 

 

「惣流の事もワレの事も、してきた事も、みんな無かった事にするんか」

 

 

トウジは睨むような視線でシンジを見据えていた。

 

それでもシンジは何も言わない。

 

トウジも表情を微かにも動かさずシンジに自分を向けたままでいた。

 

ふと、シンジの口から何かの呟きがもれる。

 

その時のシンジの表情がどんなものであるのか、上から見下ろすようにしているトウジには計り知れない事であったが、僅かに眉を吊り上げたままトウジは何も言わずにシンジに視線を注いでいた。

 

トウジが見つめる中、シンジは、ふっと一つ息を吐く。

 

そして、自身の手を解き顔を上げた。

 

そこには、少し困ったような、無理をしているような、笑みが浮かんでいた。

 

トウジは変わらぬ表情のまま少しの間その表情を見ていたが、ややあって自身もフッと笑みをもらす。

 

シンジは僅かに頷く。

 

トウジもそれに応えた。

 

 

「(……それでええ、シンジ……)」

 

 

トウジはシンジの手首をとり高々と掲げてみせる。

 

シンジはトウジに手をとられたまま、嬉しそうな、柔らかな笑みを女子生徒達に向けた。

 

僅かに辛さと苦しさを滲ませたその笑みは儚さと透明さとを感じさせずにはいない。

 

女子生徒たちの歓声が一際たかまった。

 

他には何も聞こえない程、他に何がそこにあろうという程にその場は色のついている甘い声で一杯になった。

 

 

 

 

 

アスカは壁によりかかり佇む。

 

黄色い声を上げている同級の女子生徒達の列、その先の壁に背を預けて何も言わずにただ俯いていた。

 

ネットフェンス越しのコートの中、反対側のゴールの近くではシンジがかけられた声に手を挙げて応えている。

 

その表情に、微笑みを浮かべて。

 

 

「……大騒ぎね、みんな」

 

 

アスカの隣に並びながらヒカリは誰に言うともなしにポツリと言葉をもらした。

 

 

「まだ、授業中なんだけれどもな。……まあ、仕方ないわね。先生はまだ来ていないし、試合は全部終わっちゃったし」

 

 

そのヒカリの独白のような呟きにアスカは何も応えずにさせるがままにしている。

 

僅かに俯いたまま後ろ手に組み、ただそこに立っている。

 

 

「……私も、よく分からないけど凄いと思ったし」

 

 

ヒカリは少し声を潜めて伺うようにして言った。

 

その言葉の中には誰の何がという事は含まれていないかったが、それが何についての事なのかは明白であった。ヒカリはその自分の言った事に対してアスカがどう思うのか気にせずにはいられないようにして視線を走らせる。

 

しかし、ヒカリがあえてそれを口にしたのはアスカがシンジの事に対して心に抱いているものがこれまでとは違っているように思えたからであった。

 

先ほどのアスカの反応、シンジの事に対してのそれはこれまでのものとは間違いなく違っているものであった。ヒカリ自身、確かにシンジの事を凄いと思っていたが、その事を確かめたくてもまた、あえてシンジに関わる事をアスカの前で口にしていた。

 

ヒカリは自分の言葉を口にして、アスカの様子に目を向ける。

 

アスカは何も言わず俯いたままでいた。

 

ヒカリが言葉を発した事などなかったようにして、微かに動く事もなしに何も変わらずに。

 

何かを感じさせる事のない、気配もないようしているアスカ。

 

ヒカリは自分の言った事でさえも受け取られていないように、その言葉をなげかけた事が今のアスカにとっては的外れになっているように感じられて表情を変えて覗き込むようにする。

 

 

「……アスカ?」

 

 

そのヒカリの呼びかけにもアスカは何も応えない。

 

ヒカリはそんなアスカに不安を感じて僅かに身を屈めて覗き込むようにして、自分の存在をアスカに感じさせようとする。

 

流れ落ちた髪に隠されたアスカの顔を垣間見た時、ヒカリは自分の鼓動が一つ跳ね上がるのを感じた。

 

何もない、意思を感じさせないその表情。

 

自分の心も感情も全て無くしてしまった、少なくともそのカタチの中にはそれが失われてしまっている顔がそこにはあった。

 

 

「……ア、アスカ……」

 

 

ヒカリは胸が押し潰されるような、鈍器で殴られたような痛みを感じた。

 

アスカのその姿を目にした時、ヒカリはアスカが本当に何もかもを捨ててしまった、最後に持ち得ていたものまでをも手放してしまったと感じてしまう。

 

無をその面に張りつけ、そこにはもう何もないように思われたが、ヒカリが自分の姿を輝きを失ったその蒼濁に見せた時、アスカは一つ瞬きをすると視線をヒカリに向けて来た。

 

 

「……ヒカリ……」

 

 

アスカは微かな、本当に微かな微笑みを俯いたまま浮かべ、ヒカリを呼ぶ。

 

 

「……アスカ?」

 

 

ヒカリは微かに震える声と、自分の全てをアスカに向ける。

 

アスカの微笑みは失われる泉の輝きにその姿を変えた。

 

ヒカリは今にも泣き出しそう表情になり、瞳はその溢れそうになるもので揺らめきをたたえる。

 

 

「……駄目。……駄目だよ、アスカ……」

 

 

ヒカリはどうする事もできない不安と怖さに駆られてアスカをつなぎとめるようにしてその手を掴む。

 

 

「……大丈夫。心配しないで、ヒカリ……」

 

 

アスカは綺麗な、綺麗過ぎる笑みを浮かべてヒカリにそれを向けて来た。

 

そのアスカの言葉と表情にもヒカリはどうする事もできないようにして視線とつないだ手とでアスカを捉えて放そうとしなかった。

 

まるでそうしなければ、それをしていても尚、アスカがどこかにいってしまう、自分の手には決して届かぬ所に行ってしまうような気がしていた。

 

そんなヒカリを目にしながらアスカはふと顔を上げた。

 

ヒカリもまた自分の姿をアスカから失わせないとするかのようにして体を伸ばす。

 

 

「ただ、思っていただけ」

 

 

それを言いながらアスカの瞳はヒカリを映していなかった。その蒼の玻璃は目の前にいるヒカリの向こう側に向けられていた。

 

 

「アタシの感じている事は正しかったんだって、アタシのしている事は正しかったんだって」

 

 

自分を映していない瞳、そしてその言葉、ヒカリは分からなくて、分かろうとしてアスカの見ている方に自分も振り向く。

 

そこには未だシンジを声と心で取り囲んでいる光景があった。

 

つい先ほどまでアスカに同じ事をしていた、今はシンジにそれをしているヒト達の姿があった。

 

今はもう、アスカの事など欠片もないようにして。

 

 

「……良かった、アタシ……」

 

 

ヒカリはハッとしたようにして振りかえる。

 

 

「……感じている通りにして、思った通りにして……」

「……アスカ……」

 

 

ヒカリは何も言えずにただアスカを見つめる。

 

 

「……分かり合える事なんてない、永遠に。誰もアタシの事を見てなんていない……」

 

 

ヒカリはそれ以上は言わせない、言って欲しくないというようにしてアスカにつないだ手の力をギュッと強くする。

 

少なくとも自分は違うというようにして揺らいだ瞳のまま見つめ続ける。

 

アスカは消え入る灯火のような笑みでそれに応えた。

 

 

「……そんなもの、アタシは要らない……」

 

 

ヒカリが儚い抵抗のように首を巡らせる。

 

アスカはそっとヒカリの手を握り返した。

 

 

「……アタシは、一人でいい……」

 

 

アスカは再び浮いたように軽くなっている女子生徒達の方に視線を向けた。

 

透明な、何もない瞳と表情で。

 

 

「……アスカ……」

 

 

ヒカリは何も言えないまま、何もできないまま屈したようにして俯いた。

 

悔やむように、でもアスカの言葉を認めたように、そうする以外には何もできないようにして。

 

ただ、アスカの手を握り締めたまま。

 

アスカも、ただそれだけが自分の手にしているものであるかのように、ヒカリの手を自身の手で包んでいた。

 

放したくない、唯一のものであるかのようにそうしていた。

 

 

 

 

 

……アイツは…どう思っているのかな……

 

 

 

 

 

「シンジ」

 

 

体育館を満たす自分に向けられた同級の女子生徒達の黄色い声の中、シンジはそれとは別に自分の名前を呼ぶ声を聞いた。

 

 

「マ、マナ!?」

 

 

シンジがそちらの方に目を向けるとそこには鳶色の髪と瞳をした少女が手を振っていた。

 

満面の笑みを浮かべ、そうしている事が、シンジをその瞳にしている事が自分にとっての本当の幸せであるかのような眩しい輝きを周囲に振りまいている。

 

周囲の男子生徒に混じって女子が一人、しかも、他は全てトレーニングウェアだというのにマナだけは制服のまま。

 

それだけでも目立つというのに可愛さと可憐さを併せ持った少女がこれ以上はないというくらいに嬉しそうな笑顔でいるものだから周囲の注目を一身に集めている。周囲の男子生徒達は自分達の間にいるマナに好奇と関心を寄せたようにして視線を集めていた。

 

シンジは驚いたように呆気にとられたようにしてマナを見つめる。

 

マナとは別のクラス、そしてまだ授業は終わっていない。マナがここにいる事は普通でいけばある筈のない事であった。

 

そんな二人の様子に気がついたネットフェンス越しの女子生徒達がざわめく。

 

マナは変わらない笑顔のままシンジに手を振り続けている。

 

 

「なんや、霧島やないか。なんでここにおるんや?」

 

 

トウジの訝し気な声にシンジはハッとしたようにして我に返る。

 

 

「マ、マナ」

 

 

シンジは少し上ずったような声でマナの名前を呼ぶと小走りに駆け寄った。

 

 

「おつかれ様、シンジ」

 

 

マナは罪のないようにしてニコニコした笑顔のままシンジを迎える。

 

 

「マ、マナ、どうしてここに?。まだ授業中の筈だげど……」

 

 

シンジは困惑した表情のまま、自分の感じた疑問をそのままマナに投げかけた。

 

 

「抜け出してきちゃった」

 

 

シンジは、へっ?という顔をする。

 

 

「だって、つまんないんだもん」

 

 

マナは笑顔のままあっけらかんとして小首を傾げた。

 

 

「つ、つまんないって……」

 

 

マナがあまりにもあっさりと言うものだからシンジとしてもどう言い返していいか分からず戸惑ったような、困ったような表情をしてマナを見つめる。

 

しかし、マナはそんなシンジの事はお構いなしに笑顔のまま上目遣いに見つめ返してくる。

 

 

「……駄目?」

 

 

少しはにかむようなマナの表情、シンジはそんなマナに何をどう言う事もできなかった。

 

 

「べ、別に駄目っていう訳じゃないけど……」

 

 

それを聞いてマナの表情が再び輝いた。

 

 

「よかった、じゃあいいのね」

 

 

屈託のない、本当に嬉しそうに、愛らしい笑顔でシンジを見つめるマナ。

 

シンジは一瞬、そんなマナに見とれた後、降参したようにして苦笑しているような微笑みを浮かべた。

 

マナも笑顔のまま、その心の輝きそのままにシンジを見つめる。

 

二人はしばらくの間そうして見つめ合っていた、互いの心の全ては互いに向けられているようにして。

 

シンジは困ったように、少し辛いように苦笑して。

 

マナはシンジを困らせた事もまた嬉しいようにして、いたずらを働いた子供のようにして。

 

シンジの瞳にはマナだけが、マナの瞳にはシンジだけが映し出されていた。

 

 

「でも、よかった、間に合って」

 

 

何を言う事もなくただ見つめ合っていた二人、その先へと進むようにしてマナが自分の心の内を表す。

 

 

「えっ、何が?」

 

 

突然のマナの言いようにシンジはマナに何の事を言っているのか尋ねる。

 

 

「もしかして授業が早く終わってシンジ帰っちゃったかと思ったから」

 

 

そのマナの言う事にシンジはまた何を応えていいのか分からなくなってしまう。

 

そうなんだ、と適当に相槌をうつ事しかできなかった。

 

 

「うん、そう。抜け出してきた甲斐があってよかったな。シンジの頑張っているところも見れたし」

 

 

自分の心を素直に表してくるマナ、しかし、シンジはそのマナの言葉に触発されたようにして表情を変えた。

 

辛さと悲しみを滲ませた瞳でマナを見つめる。

 

そんなシンジにマナも気にするようにして表情を曇らせた。

 

 

「……どうしたの?、シンジ。私、何か悪い事言ったかな……」

 

 

マナは自分の言った事がシンジにそうさせている事が辛いようにして問いかける。自分が何か失敗をしているのなら謝りたいという思いを視線と表情に載せて。

 

それもまたマナの純粋な思いであったが、シンジはそれを感じてか自身が今感じているものを素直に口に出してマナに告げた。

 

 

「……マナも、僕のした事が気になるの?……」

 

 

シンジ自身、そんな事を言う自分にじれったさを感じていたが、でも言わずにはいられなかった。

 

それはマナが示してきたものに甘えていたからなのかもしれない。マナが表したものはそれを向けられたものを素直にさせるものでもあった。

 

シンジの言葉を聞いたマナは何かに気がついたようにして顔を伏せた。

 

 

「……ごめんなさい……」

 

 

マナが謝った事、それはシンジの言っている事を認めた事。

 

シンジはマナの謝罪を受けながらもどこか悔しいようにして表情を僅かに歪めた。

 

 

「……いいんだ、気にしないで。僕の方こそ、変な事言っちゃって……」

 

 

シンジはそこで言葉途切れさせた。

 

その先に言うべきものはあった筈であったが、何かをおし抱くようにして口をとざした。

 

 

「ううん、シンジが気にしている事みたいだから…やっぱり、ごめんなさい」

 

 

マナは俯いて表情を見せないままもう一度、心持ち細い声で謝った。

 

それはシンジに辛い思いをさせて、それを自分がした事に辛さを感じているというものを感じさせるものであった。自分を卑下するのではなく、本当に謝りたいと思っている事を伝えてくるものであった。

 

 

「……マナ……」

 

 

そんなマナに今度はシンジが悪い事をしてしまったようにして声をかける。

 

自分のした事が人を傷つけてしまった。シンジは気にしているが気にしていない事を告げるためにマナに少し近寄る。

 

 

「……でも……」

 

 

シンジが一つ歩を進めた時に不意にマナが俯いたまま言葉を流れさせた。

 

そして、不意に顔を上げる。

 

そこには、暖かくも優しい、思い遣りいたわるような微笑が浮かんでいた。

 

その突然の事にシンジは動きを止める。

 

魅せられたようにしてマナのその笑みに瞳を吸い寄せられていた。

 

 

「でも、私言わなかったっけ。シンジが頑張っているところが見れてよかったって」

 

 

そう言ってマナはニッコリと笑った。

 

 

「えっ!?」

 

 

シンジはマナの言っている事が分からないという感じで問い返すようにして声をあげる。

 

 

「私、シンジの凄いところが見たいなんて一言も言っていないモン」

 

 

マナはシンジが勘違いをしているというようにして小さく舌を出した。

 

シンジはまだ分からないというようにしてマナをただ見つめている。

 

そんなシンジにマナはもう一度優しい笑みを浮かべる。

 

 

「私が見たいのは、頑張っている、シンジなんだから」

 

 

そんな自分が嬉しいようにしてマナの笑顔がまた輝く。

 

それ以外には何もない、その表れとして。本当の心、そのものとして。

 

それはそれを向けられたシンジにも感じられていた。

 

何よりもマナが告げてきた言葉がシンシの胸には突き刺さった。そして、その笑顔はシンジに染み込まずにはいなかった。それはシンジにあの日の感覚を思い起こさせる、再会した入学式の日の事を。

 

 

「そうだったんだ、ありがとうマナ」

 

 

かろうじてシンジはそれだけを言った。

 

それで今の事は一区切りつけようと自分自身の中でしていたのかもしれない。

 

シンジは僅かな微笑を浮かべてマナに応えた。

 

でも、それ以上はしない。動かさないとするようにしていた。

 

心を殻で覆うとしていた。

 

それはマナにも感じられていた。

 

マナの好きなシンジの優しい暖かな微笑み、しかし、それだけの事でそれ以上のものはないというのはマナ自身分かってしまっていた。

 

 

「(……シンジ……)」

 

 

マナは今この場で自分の気持ち、想いを露にしたい、表してしまいたいという衝動にかられる。

 

自分の想いそのものであるシンジに全てを捧げてしまいそうになってしまう。

 

マナ自身が、心がそれを望まずにはいられなかった。

 

 

「(……シンジ。私は、シンジを……)」

 

 

しかし、マナはそれをしようとはしなかった。

 

自分の心と想いを自分自身で抱きしめていた。

 

まだ始まったばかりだと自分に言い聞かせてもいた。

 

かつてとは違う今、あの時のように自分の気持ちを素直に告げる事はマナにはできなかった。シンジに何かはっきりとしたものを向けるのは心の琴線に触れる事になると感じられていたから。

 

それはシンジに想像もできない程に負担を強いる事になる、マナにはそう思えてならなかった、だから、自分にとって大切な、自分の心そのものともいえるこの想いを突き付ける事はできなかった。贈りたくも感じて欲しくもあったが、押し付けるような事はしたくなった。大切なものであるからこそ自分にとっても大きなものであるというのにシンジにはそれこそ過ぎるものになるのは間違いのない事であった。

 

自分のこの想いは受けとめてもらいたい、しかし、苦しませるような真似はそれ以上にできない。マナは胸に苦しさを感じていたが、それはシンジを想う事、それ自体に比べれば何でもない事でしかなかった。

 

 

「(……シンジへのこの想い、それがあるだけでも私はこんなにも嬉しくて幸せ。だから今はこれでいいの。でも、満足なんてしていない。私は諦めない、この想いがあり続ける事、それが大切な事なんだから。そして、この想いがある限り、いつまでも私は……。そして、いつか……)」

 

 

マナは微かに曇らせた表情をどこかに捨てて、微笑んできてくれているシンジに自分も心からの笑顔で応える。

 

 

「(……どうしようもないから、想わずにはいられないから。シンジを、想わずにはいられないから……。だから、シンジ、いつか受け取ってね、私のこの想いを……)」

 

 

マナの瞳も表情も、どれだけのものも及ぶ筈もない煌きを放っていた。

 

今とこれから先を自分自身で照らし惑う事なく見つめているその存在は恋の女神の祝福を受けたかのように鮮やかに彩られる。

 

どけだけ自分で自分を囲っていても、その輝きを、眩しさを感じずにはいられない。シンジは心を動かさないようにしていても、無意識に瞳は自分の目の前にいるその存在を見つめてしまっていた。

 

マナは何も言わない、ただ、自分の想いを抱き続けているだけ。

 

いつかその時がくるのを待つのではなく、自分で自分をそこに導こうとしていた。

 

自分自身のままに、その想いのままに、ただシンジを見つめ、そこに歩んでいこうとしていた。

 

 

 

 

 

「……霧島さん」

 

 

二人が見つめ合う中、控えめにそっと呼びかけるようにして声がかけられた。

 

マナは少し驚いたようにしてハッとした表情をして我に返るとそちらの方に振り向く。

 

 

「あ、はい」

 

 

そこには複雑な表情をしたヒカリがいた。

 

申し訳無さと非難めいたものが交じり合った視線をマナに向けている。

 

 

「申し訳ないんだけれども、そろそろ先生がくるから……」

 

 

声を潜めてマナだけに語り掛けるようにしてヒカリは注意を促す。

 

どこか抑えられた声と表情、ヒカリの中では色々と複雑なものがあるようであった。

 

そのヒカリの言葉にマナは少しだけ、一瞬、悲しそうな顔をする。

 

視線も僅かに俯かせてしまうが、それもマナ自身以外には分からない程に僅かな間だけ。すぐに元の明るい表情に戻るとヒカリにそれを向けた。

 

 

「はい、分かりました」

 

 

マナのそれは他から見ても好感のもてるものであったが、ヒカリは僅かに表情にそれとは違うもの、少し怒っているようなものを滲ませた。それはマナに対してヒカリが抱いているものの内の一つが現れたものであった。

 

 

「余り、よくないと思う。抜け出して来たりするなんて、ちゃんと授業は受けないと……」

 

 

余計な事であるかもしれないとヒカリは思わないではなかったが、言わずにはいられなかった。

 

少なくとも言っている事自体は間違っていないのだからそんな事は本当なら思う筈もない事であったが、それを口にしている自分にヒカリはなんとなく嫌なものを感じていた。クラス委員としての責任とは別に心に何かを抱いている事、他意が意識に存在していた事がヒカリにそれを思わせていた。

 

 

「(……私、嫌な子……。でも、これはクラス委員としての義務なんだから、負い目なんか感じていられないわ)」

 

 

ヒカリは自分自身の中で割り切ってまっすぐにマナに自分自身を向ける。

 

マナとは別の意味であったが、ヒカリも自分の表情と視線を落としかけた。それはまた一瞬のものであったが、マナはそれを感じながらも気がついていないようにして明るいままの表情でいた。

 

ふふっと笑みを浮かべて一歩ヒカリに歩み寄る。

 

 

「ごめんなさい、ヒカリさん。マナは悪い子でした」

 

 

マナは小さく舌を出して自分を叱るように頭を軽くコツンと小突く。

 

そんなマナの屈託のなさにヒカりとしてもそれ以上の事は言えなくなってしまう。割り切ったつもりでいても心に残っている後ろめたさがそうさせたのかもしれない。

 

 

「私の方こそごめんなさい、余計な事言っちゃったみたいで。でも、先生に見つかったら叱られちゃうから……」

 

 

言いかけたのは自分のほうだというのに、間違った事は言っていないというのにヒカリはどこか視線を俯かせてマナをちゃんと見れない。

 

マナの素直さと悪びれない明るさがヒカリの心に自分に対する影を映し出しているようでもあった。

 

マナは、しかし、そんなヒカリに全くそんな事は感じさせない笑顔を向けてくる。

 

 

「嬉しいな」

 

 

脈絡のないマナの突然の言葉にヒカリは、えっ?と言う感じでマナに再び視線を向ける。

 

 

「私の事、心配してくれて」

 

 

マナは包み隠す事なく自分の思いをそのままヒカリに向ける。

 

言葉通りに心から嬉しいような感謝しているような、それを感じさせる笑顔をヒカリに見せていた。

 

そんなマナにヒカリとしても魅力的なものを感じずにはいられない。

 

友人とまではいかないが、知人として好感は抱かずにはいられなかった。色々と思うところはあるが、ヒカリはそれはそれで構わないというか、それでいいと思う。自分にとっても、そして心に抱いているヒカリ自身の親友にとっても。

 

唯一大切なもの以外の全てを排除するのがいい事だとはヒカリにはとても思えなかった。だから、ヒカリはそれを受け入れる事にした。

 

しかし、それで心に抱いているものの全てが払拭された訳でもなく、ヒカリはマナに応えようとして自身も笑顔を浮かべるが、それはどこか困っている、何かを気にしているというような苦笑めいたものになっていた。

 

そんなヒカリを目にしながらマナは気にしていないようにして楽しそうに話しかける。

 

 

「でも、ドキドキしちゃった。教室を抜け出す時も、誰もいない廊下を歩いている時も。いつ見つかるんじゃないかって」

 

 

冒険譚を語るようにして胸に手をあててその時の事をヒカリに伝えようとする。

 

そんなマナにヒカリは困った子を見るような瞳と表情になる。ヒカリもマナには適わないという感じであった。

 

 

「この感じ、クセになっちゃうかも」

「き、霧島さん!」

 

 

ふざけるようにして胸に手をあてたままマナは陶酔するような顔をする。

 

そんなマナにヒカリは流石に声を上げた、いくらなんでもおふざけが過ぎると思えたからだ。

 

そこがヒカリの真面目なところなのかもしれないが、そんなヒカリにマナは、じょうだんじょうだん、と後ろ手に組んでまたいたずらっぽく笑う。

 

ヒカリは毒気を抜かれたようにして、もう本当に適わないという感じて言葉をなくして一つため息をついた。

 

 

「アスカさんも、お疲れ様でした」

 

 

マナはヒカリに向けていたのと同じ笑顔のまま、ヒカリの後ろで視線を落として自分を隠している、感じさせないようにしているアスカに声をかけた。

 

そのマナの言葉にアスカは、しかし、黙って俯いたまま何も答えない。

 

俯き加減のその顔には何もない無表情があるだけであった。

 

 

「……アスカさん?」

 

 

自分の問いかけに何も返してこないアスカ。今自分の目の前にいるというのにその存在からは何も感じる事ができない。

 

そこにいるのにそこにいないように、その姿は目に映っているのにそれだけでしかなくそれ以外には何もありはしない。

 

まるで映像かなにかであるようにその存在を感じる事ができなかった。

 

一緒の学校に通う事になった入学式の日からこれまでにもかつての旧交とヒカリを介して何度か話しかけた事はあったが、言葉数少なく、そっけない感じではあっても何かしらの反応はあった。その事もかつてのアスカを知るマナには何があったのか気にせずにはいられない事であったが、今はそれでさえもない。

 

自分の何気ない一言がアスカの気を悪くしたのだろうかと思うが、ヒカリが自分の前に来た時からアスカは今そうしているようにしていた。マナはアスカがどうしてそうしているのかが分からず、何があったのか気にするようにして表情を曇らせる。

 

 

「アスカさん、どうかしたんですか?。まさか、怪我でも……」

 

 

マナの心配するような声音、その心に気遣いを感じさせるもの。しかし、アスカはそれにも変わらぬ自分のまま何も応えない。

 

そんなアスカにマナは気を悪くするのではなく、本当に何があったのだろうかという感じで更に表情を暗くする。

 

アスカがそうある事、自分に応えてくれない事、何も感じさせてくれない事、それが悲しいようにして辛いようにしてマナは瞳を潤ませてさえもいた。

 

 

「あ、あの、霧島さん。本当に、そろそろ、先生くるだろうから……」

 

 

アスカを見つめる、アスカの事で意識が一杯になっているマナにヒカリは慌ててとりつくろうようにして声を上げた。

 

マナはアスカへの表情そのままにヒカリに顔を向けたが、ヒカリは何か言いたい事があるような、分かって欲しいというような表情をしていた。

 

どこか辛そうに、済まなさそうにマナにそれを向けているヒカリ。

 

マナはそれを感じて、でも、それは自分の知らないところで自分が今のアスカの事に関わっている事も感じさせるもので、更に表情を落とし込み俯く。しかし、その自分がここにいるという事はアスカにとって良くない事だというのは分かっていたから、申し訳なくも何かをしたいと思いつつもその場から離れようとする。

 

 

「……はい、分かりました。ごめんなさい、お騒がせしちゃって……」

 

 

消え入るようにしてマナは誰に対してでもなくそれを告げると前を向いたまま一つ後ろに下がって振りかえり出口へと向かっていこうとする。

 

巡り行く周囲の風景の中、その時マナは目にした。

 

ヒカリの後ろで時が凍ったようにしているアスカを見つめているシンジを。

 

暖かく優しく包むように、でも、本当に心配するように、アスカがそうしている事が自分自身の事であるかのようにシンジは自分の全てをアスカに向けていた。

 

マナはそこで足を止めてしまう。

 

見てはいけないものを見てしまったように瞳を見開いて、シンジの横顔を見つめる。

 

苦しいように、切ないようにして胸に手をあてた。

 

それは一瞬の事であった、マナがアスカを見つめるシンジを見た、見つけたのは体の向きを変えるその間だけの事。

 

シンジはマナが動いた事を視界の隅に感じて、アスカから自分へと意識を戻した。

 

そして、シンジはマナへと瞳を向ける。

 

マナはシンジを見つめていた。マナの方を向いたシンジと視線が合う。

 

マナの瞳の揺らめき、それはまた一瞬のものであった。シンジが自分の方を向いたその瞬間にマナはそれを消していた。

 

シンジは、一つ、瞬きをした。

 

 

「(……マナ……)」

 

 

マナはシンジに向けていた表情を再び浮かべて最初と同じように軽く手を振る。

 

 

「それじゃあね、シンジ。また明日」

 

 

その挨拶をする時もマナは笑顔でいた。

 

 

「……うん。また、明日……」

 

 

シンジは微かな微笑みを浮かべて一つ頷いた。

 

 

「うん」

 

 

マナは今自分にできる最高の笑顔をシンジに向けると振りかえり出口へと向かう。

 

シンジは少しの間、その後姿に視線を送っていた。

 

 

「(……僕は……)」

 

 

見つめる先に語り掛けるように心の中で呟く。

 

体は他から見てそれとは分からない程に小さく震え、手は力一杯に握り締められていた。

 

でも、シンジは何も言わなかった、言おうとはしなかった。

 

それが自分のしなければならない事であると自分に決めて、自分自身を固く噤んでいた。

 

 

 

 

 

「(……シンジの心にいるのは、やっぱり……)」

 

 

シンジが見つめる中、出口へと向かいながらマナは思う。

 

あの一瞬の事、自分が目にしたシンジ、それだけでマナには分かった、分かってしまっていた。

 

それを思う時、僅かに視線が落ちかけてしまうが、それはすぐに前へと向けられた。

 

 

「(でも、負けないモン)」

 

 

マナはそうする事が自分の心も明るくするというようにして笑みを浮かべる。

 

 

「(この想いは、誰にも譲れないんだから)」

 

 

それを自分で自分に確かめるとさっき目にした光景は心の中にしまいこんだ。

 

それを気にして自分の想いをどうこうする事はマナにはできなかった。

 

ただ想う、シンジを。シンジだけを。

 

そして、マナはまた明日シンジに会える事を心に描き、楽しみな思いで心の中を一杯にしていた。

 

 

 

 

 

「(……何?、この思い……)」

 

 

アスカはただそこにあるだけのようにして立っていた。

 

ヒカリの後ろで、そこで交わされているやりとりも関係ない事であるかのように、別の世界の事であるかのようにして何も聞こえない、何も感じないでいた。

 

 

「(……心が…ざわめく。苦しくて…痛い……)」

 

 

アスカはそれを心の本当に奥深いところで思っていた。

 

今感じているもの、それはないものであるとするように表面には何も出さないで、その表情にも何もないようにして。

 

しかし、それは事実ではなかった。アスカの心には間違いなく今アスカ自身が感じているものがあった。それはアスカが、アスカ自身だけが一番良く分かっていた。

 

でも、それでもアスカは何もないようにしていた。そうする事が、そうある事が自分のあるべき姿であるかのように、自分でそう決めているように。そうでなければいけないというように。

 

 

「(……これは…嫉妬!?。そんな、アタシがそんなものを持つだなんて、感じるだなんて……)」

 

 

自分の感じているもの、それが何なのかアスカには分かっていた。

 

しかし、それは無い筈のもの、あってはならないものであるかのように否定しようとする。

 

 

「(……駄目…駄目よ、アスカ。そんなものを持ってはいけない、感じてはいけない)」

 

 

それを思うアスカの表情が微かに動く。

 

 

「(アタシの思いは正しい、間違っていない。今、こんなに苦しいじゃない、こんなに辛いじゃない)」

 

 

アスカはそれを無くそうとする、自分から切り捨てようとする。

 

しかし、それをする事でまた苦しさと痛みは増した。今そこにあるもの、感じているものを無くそうとする事が心に歪みを生じさせる。無理にそれをしようとしているアスカの心は軋みをたて悲鳴をあげていた。

 

 

「(……どうして、どうしてなの?。……今までだってそうしていたのに、何もないのがアタシだったのに。……どうして……)」

 

 

言葉にできない苦痛を感じながらもアスカはそれを止めようとはしない。それが自分が自分でいられる唯一の方法であるかのように。

 

例え自分が壊れてもそれで何も感じなくなるのならその方がいいと思い、自分自身そのものである感じているものを、自分の中にあるようになってしまっているものを押し潰そうとする。

 

しかし、それはどうしてもやり遂げる事ができなかった。

 

どれだけ自分にそれを強いようとしても、どんな苦しみも痛みも自分で甘受しても果たす事はできなかった。それはどんなに自分自身を切り刻んでもそこに厳然としてあり続けていた。

 

 

「(どうして、どうしてなの?。こんなもの要らないのに、こんな辛さと苦しさしかないものなんて欲しくなんてないのに!)」

 

 

それを思った時、アスカは不意に分かった。意識する事もなしに突然に。

 

何の脈絡もない事であったが、自分の思った事がアスカ自身にそれを理解させた。気付かせてしまっていた。

 

 

「(……ア、アタシ、望んでいる、求めているの?。……この思いがある事を、感じる事を……)」

 

 

自分の知らない自分に気がついてアスカは愕然とする。

 

 

「(……こんなにも辛くて、苦しくて、痛いのに。……どうして?、アタシ、アタシ……)」

 

 

アスカは微かに吐息を漏らし、瞳の輝きを更に失わせる。

 

瞳に映るものを無くし、どうしてそうあるのか自分に目を向け見つめるようとする。

 

しかし、どれだけそうしても今自分が感じているもの以外には何を見つける事も手にする事もできはしなかった。

 

 

「(……分からない。……どうしてなのか分からない、アタシはアタシが分からない……)」

 

 

そうしている間にもその心にあるものはアスカ自身を責め苛む。

 

痛みと苦しさをアスカに与え続けている。

 

 

「(……どうして、どうしてなの?。……でも……)」

 

 

アスカの瞳が僅かに色を取り戻した。

 

 

「(……アタシは求めてしまっている、この思いを。……アタシ自身が受け入れたいと、あって欲しいと、望んでいる……)」

 

 

アスカは僅かに瞳を揺らせる、自分の理解できない自分に惑うように恐れるように。

 

これまで一人でいたのに、何もないようにしてきたのに、自分一人では自分自身でさえも怖くて寂しくて耐えられないようにして意識を外に向けた。

 

一つ、瞬きをして自分の周囲にあるものに意を向ける。

 

その時、アスカは感じた。

 

 

「(……シンジ……)」

 

 

シンジの存在を、その視線を。

 

優しく暖かな瞳が自分を見つめ包んでくれている事を全身で感じた。

 

その思いが、心が染み込んでくるような気がした。

 

 

「(……そうか、シンジが……。だから、アタシ……)」

 

 

シンジのしている事、それが自分を今の自分にしている。それが分かった時、アスカは心の中に別の何かが生じてくるのを感じていた。

 

それが心を乱す事はなかった、アスカの心は穏やかなまま、そうある事を受け入れようとする。

 

シンジの存在を、その自分に向けてきてくれているものを心にあるようにしようとする。

 

 

「(……でも……)」

 

 

その蒼氷色の瞳が揺らめく。

 

 

「(……駄目…駄目だよ、シンジ。……アタシ、アタシは……)」

 

 

アスカはそれが消せないのなら、凍りつかせようと、そして目を背けようとする。

 

表面上は変わらないアスカ、その心の中がどうあるのか分からないシンジは変わらないまま自分の全てをアスカに向け続けている。

 

そうしたいという思いのままに、シンジはただアスカだけを見つめていた

 

 

「(やめて、やめてよ。アタシを見ないで、アタシの中に入ってこないで!)」

 

 

今少しでも動けば自分が自分でいられなくなってしまう、アスカにはそれが分かっていた。だから、振り払うのではなく自分を固めてシンジが送ってくるものを受け取らないようにしようとする。

 

しかし、そんな自分をアスカは貫く事ができない。

 

どうする事もできずに、それが本当の自分であるようにシンジの視線を感じ、その向けてきているものが、思いと存在そのものが心を満たしていってしまう。

 

 

「(……駄目。……アタシ…駄目……)」

 

 

アスカは自分がしてはならないと決めていた事をしてしまっていた。

 

でも、今のアスカにはどうする事もできなかった、それを止める事はできなかった。

 

自分自身がそれを求めてしまっている。

 

シンジの存在を自分自身にあるようにしてしまっている。

 

その想いは、アスカの全てを満たしていた。

 

アスカは戒めを破るようにしてシンジの姿をその瞳に映そうとする。

 

顔を上げて、瞳を露にした。

 

 

「(……シンジ……)」

 

 

その時、シンジの瞳はアスカに向けられてはいなかった。

 

その瞳は、マナの瞳を見つめていた。

 

 

 

 

 

体育の教師が入って来た。

 

生徒の自主性に任せているのか、いつも授業の始まりと終わりに姿を見せ授業中には準備室に引っ込んでいる。

 

課題はいつも始業の時に言い渡し、後はそれに沿ったカリキュラムをこなし、終礼をして解散する。それがいつもの流れになっていた。

 

生徒達にしてみれば好き嫌いというのではなく楽なのは間違いのない事で不平を漏らすものはいなかった。今日もまたいつものように授業の時間は終わろうとしている。

 

 

「よし、集合」

 

 

その時既に後片付けは終わっていて生徒達はめいめいそれぞれに固まって雑談などをしていたのだが、その号令と共に集まっていく。

 

そして、いつもそうしているように整列しようとする。

 

その中で、シンジとアスカは傍にあるようになった。

 

俯くようにしているアスカ、後ろの方に行こうとしていたシンジと向かい合う。

 

鼓動が、一つ高鳴った。

 

 

「……あ……」

「…………」

 

 

一瞬、二人の時は止まった。

 

シンジはアスカを瞳に映して見つめる。

 

アスカは、シンジを見てはいないが、すぐ傍にその存在を感じていた。

 

でも、シンジはそれはしてはならない事、自分がアスカに何かをする事は、視線を向ける事でさえもしてはならない、少なくともアスカにそれを感じさせてはいけないという自分の決めた事を思い起こし、自分の望みとは関係なく視線を逸らして脇へ逸れようとする。

 

シンジがそれをしようとした時、ふとアスカがその瞳を上げた。

 

シンジが自分から存在を逸らそうとしている、それを感じてアスカは何を考える事もなく、求めるようにしてシンジをその瞳にしていた。

 

動きかけていたシンジは逸らそうとしていた視線を戻してアスカの瞳を見つめる。

 

それもまた何を考えての事でもなかった、シンジ自身がそうしたいと望みそうしただけであった。

 

シンジにはアスカがどうしてそうしたのか分からなかったが、自分に向けられてきたものに応えていた。

 

その時、シンジは目にした。

 

揺れ惑い、寂しさと悲しさに彩られたその瞳を。

 

それはシンジの胸に突き刺さった、何を隔てる事もなしに。

 

その瞳を目にした時、シンジには何もなかった。自分を囲うものですらもありはしなかった。

 

自分のままの自分でアスカの瞳を、その視線を受けとめていた。

 

 

「……ア、アス……」

 

 

震える声でシンジはその名を口にしようとする。

 

シンジが自分を呼びかけようとしている事、それにアスカはハッとしたような表情をした。

 

シンジが自分から離れようとしている事に思わず瞳を向けてしまったが、まさかシンジが自分を見ているとは思っていなかった。意図する事なく合わせられた瞳に知らず見つめてしまっていたが、それはアスカ自身の意識していた事ではなかった。

 

その時、アスカは心のままに求めてしまっていた。

 

でもそれはアスカ自身の中で掴みきれていない思い、それに全てを委ねる事はまだアスカにはできなかった。

 

そうしてしまった自分が分からない、苦しいようにしてアスカはシンジから視線を逸らす。

 

その蒼い瞳の輝きを揺らせたまま。

 

シンジの事を映している事ができないようにして、自分にそれを強いるようにしてシンジのいない方へと向き俯く。

 

そんなアスカからシンジは目を逸らす事ができない。

 

自分の決めた事とは別に、今のアスカがどうしてそうしているのか、何故悲しいように辛いようにしているのかが分からなくて、心配で見つめずにはいられなかった。

 

何かできる事があるのなら、そんな思いを込めてアスカへと視線を送り続ける。

 

そんなシンジの視線も思いでさえも、今のアスカには辛かった。

 

自分がどうしてしまったのか、どうしたいのか、アスカは自分自身でさえも分からないようになってしまっていた。

 

 

 

 

 

「よーし、今日はこれで終了だ。試合はちゃんとこなしたんだろうな」

 

 

その言葉に並んでいる生徒達は口々に自分達のした事を答える。

 

 

「後片付けもちゃんとしているようだな」

 

 

そう言って軽く周りを見渡す。

 

ボールが転がっている訳でもなくネットフェンスもちゃんと退かれている。特に落ち度のようなものはなくその教師は満足げに一つ頷いた。

 

 

「よし、解散」

 

 

その声と共にヒカリが号令をかけ互いに挨拶をすると生徒達は終わった終わったなどと口々に言いながらそれぞれに体育館から出て行こうとする。

 

シンジもトウジと共に出口へと向かおうとしていた。

 

その人の流れの中でトウジはシンジに今日の事、次回の授業の事についてあれこれと話しかけていたが、シンジはその言葉を聞いてはいなかった。

 

自分から僅かに遅れてヒカリと共に歩いてくるアスカに、視線も意識も向けていた。

 

ヒカリが傍にいるのだから、という思いもあったが、それでもシンジはアスカの事を気にせずにはいられない。

 

整列の時に目にしたアスカの瞳と表情、それがシンジを不安にさせる。自分に向けられたもの、その意味するところが分からなくてアスカに馳せる思いで心は一杯になっていた。

 

その時、シンジにはアスカの事しかなくなっていた。

 

 

「待て、惣流」

 

 

体育教師の突然の呼びかけ。

 

自分が思っていた相手の名をいきなり呼ばれたものだからシンジは驚いたようにしてそちらに目を向けた。それはアスカも同様で自分の内に自分を沈めていたところに唐突に呼ばれてビクッとして振りかえる。

 

シンジは訝しげに、アスカは少し不機嫌なようにして呼びかけてきた方を見る。

 

その体育教師はそんな二人の視線は意に介した風もなく、何でもない事のようにしてそれを告げた。

 

 

「お前は少し、残っていけ」

 

 

 

 

 

 

<第十話 了>

 

 

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