Rambler

第二話 朝愁

 

 

第二話 朝愁




2000.2.4



“ハッ、ハッ、ハッ”

 

朝のしじまの中に少年の息遣いが聞こえる。

 

“ハッ、ハッ、ハッ”

 

まだ太陽がその姿の全てを地平の彼方から現しきって間もない時間、しんとした静寂に包まれた空気に目覚めた鳥達の囀りが響く中、一人の少年が黙々と走り続けていた。

 

“スッ、ハッ、ハッ、スッ、ハッ、ハッ”

 

他に何も無い、誰もいない人工の造形の中、青いトレーニングウェアに身を包んだ少年が駆け抜けて行く。

 

“ゼッ、ゼッ、ゼッ”

 

少年の呼吸が次第に荒く苦しいものになっていく。しかし、それでも少年の足取りは変わる事なく、まるでそれが自分に課せられた定めであるかのようにして走り続ける。

 

「(…あと…少し…)」

 

少年は心の中でそれだけ呟いて終わりが近い事を自分に確認し、それをもって自分を励まして最後の頑張りとばかりにペースを上げた。

 

小高い丘の上へと続く昇りの坂道、その傾斜はそれなりにきついが普通に歩いていく分には大した苦にもならない程度。しかし、ここまで走り続けてきた少年にとっては自身の限界の前に立ち塞がる、乗り越える事が困難な障壁のようにも思える。

 

しかし、それにも関わらず少年の足運びは変わらない。むしろ少しづつではあるが早くなりつつある。まるで自分の限界に挑むように、それこそが越えなければならない今の自分自身であるかのように。

 

吹き出る汗、苦しそうな表情、さしもの少年も本当に限界を迎えようとしていた。しかし、その幾ばくかの時の流れの後に少年に課せられていた障害と困難は終わりを告げた。

 

足を僅かにもつれさせながら駆け上がってきた少年の目の前に、坂はその姿を消して開けた緑の草地が現れる。

 

さほど広くも無い広場、少年はその中央のあたりまで足を運んでようやく動きを止めた。

 

上体を折って両手を両膝につき、俯いて荒い息をはいている。

 

少しの間そうしていたが、ふと姿勢を正すとクールダウンをしながら広場の端の方へとゆっくりと移動していく。

 

日は少しづつ高くなってきており、未だ朝露の乾ききらない僅かに緑の輝きを発している丘の頂きとそこにいる青の少年とを照らし出す。

 

街の上にけぶるようにたゆたっていた霞はその時には既に人の目、少年の目には映らなくなっており、抜けるような爽青の広がりがその街の全てを覆っていた。

 

平地の街、その中にある小高い丘、今少年がいる場所からは少年自身が住んでいる街のほとんど全てを見渡す事ができた。

 

街から頭一つ抜き出た丘陵、その頂きの端に立った少年。

 

その頬をまだ温まっていない乾いた空気の流れが撫でていきその線の細い柔らかな黒髪を僅かに揺らす。

 

どことなく細身の印象を受けるその体、貧弱という言葉はあてはまらないが逞しいという程に居丈夫という訳でもない。

 

特徴がないといえばそれまでなのかもしれないが、全身のバランスは整っていた。生まれついてのものかもしれないが、中庸の美、機能美、そんな言葉がまさしくあてはまるような、そんな体格をしていた。

 

しなやかに伸びているその手足、腰の位置も東洋人の標準よりは高く実際よりも身長は高く見られるかもしれない。しかしてその事がまた、少年自身をしていささか線の細いような感じにもさせていた。

 

細く小さな面影、整った目鼻立ち、僅かに幼さを残しているその容貌は標準以上の身長の少年を実際の年齢よりも若干年少に見せている。

 

十人いれば五人は振りかえる、少年はそんな風貌、容姿をしていた。それが年上の異性ならば母性を刺激されてその比率はかなりの割合で増える事だろう。

 

消え入るような、けぶるような、幼さを残したどこか儚くて気の無い表情、見るとはなしというような感じで少年は眼下に広がっている光景にその漆黒の瞳を向けている。

 

黒く澄んだ瞳、それは汚れを知らぬものであるかのように透き通っていた。

 

そこに映るもの、宿るものは何なのか、それとも何も宿していないのか。何も無いからこそ透明でいられるのか。

 

その輝き、瞳に宿る光りは激しいとは到底言えるものではなかったが、それでも確かにあった。その輝きは小さな小さな、それとわからない程度のものでしかなかったが、確かにそこに存在していた。

 

吹けば消えるような、そんな頼りないものでしかなかったが、そこにありたい、あって欲しいとそれを宿しているもの自身がそう願っているかのようにして微かに灯されていた。

 

その瞳に映るもの、少年の眼前の光景、第三新東京市。

 

その街並みは少年の記憶の中にあるものとは違いがあるが、それは間違いなく人の営みの集まりが形作り生み出しているものであった。

 

人の創り出したもの、人の集っている所、人が自分達の生活を営むために必要とする、人自身が創った人のもの。

 

それは人が人であり続けている事の象徴であるかのように少年には思えていたし、感じられてもいた。

 

ふと、視線を巡らす。

 

平地の一角を占める街、それは視界の内のかなりの割合に及んでいたが、その範囲から外れるとまるで境目で区切られているかのようにして何も無くなってしまう。

 

街の外、そこには人工のものは何も無く、それどころか自然のものでさえも何も無かった。

 

そこには剥き出しになっている赤土の地面がただ広がっているだけであった、見渡す地平の彼方まで。

 

それはまた、ある意味において人工のものであると言えるかも知れなかった、人の行った所産、その証として。

 

それを目にした少年の表情が曇り憂いを帯びる。

 

そこに宿るのは悲しさ、切なさ、無力さ、嫌悪、悔恨、人の心にある感情の暗い部分のものであった。

 

「…僕は…」

 

少年が小さく呟いた。

 

その呟きは他に誰も聞く者とていないこの場所で静かに流れる時と共に静寂の中に溶けていく。

 

その胸に去来するものは何なのか、空しさが吹き抜けるだけか、それとも何も無いのか。

 

少年は僅かに俯き傍らの木立の枝に手をやる。

 

静寂が流れ風がそよぐ。

 

その手に力がこめられ、枝が僅かに軋むような音をたてた。

 

少しの間少年はそのままの状態でいたが、ややあって声を漏らす。

 

それは誰に向けてのものでもない、ただ自分の中からあふれ出るものを抑えきれなかった、それが口を衝いて外にでた、心の内を吐き出したものであった。

 

「…僕は…駄目だ…まだ…駄目なんだ…」

 

それは絞り出されたような、うめくようなものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

行き交う人々、聞こえてくるざわめき、流れるアナウンスの声。

 

横に長く伸びいてるフロア、壁際に設えられているカウンター、そこには航空各社の搭乗手続き受け付け口が入っていて、そこでは今しも乗客と係員のやりとりが行われている。

 

大小様々な荷物を手にした人たちが右から左へ、あるいは左から右へと歩いていく。中には重そうに荷物を引きずりながら慌てた感じで走っていく人もいた。

 

見送りに来た人、これから乗る人、降りてきた人。白を基調に配色され採光がふんだんに取り入れられている空港のロビーは明るい喧騒に包まれている。

 

乗る人に送る言葉、降りてきた人への迎えの言葉。

 

そんなざわめきの中で一人の男が無言でソファーに座っていた。

 

短かく刈った髪を後ろに流して縁のある眼鏡をかけているその男はソファーに深く身を沈めて腕を組んで黙然としている。

 

ただ一人周囲の雰囲気から外れている男、何を目的としているのか周囲から窺い知る事はできないが、ただ、視線は先ほどからある程度の間隔をおいてある一方向に向けられていた。もしかしたら誰かが来るのを待っているのかもしれない。

 

その視線の向けられている先には国際線の到着口があった。

 

男は先ほどから視線をそちらに向ける時に時計にも目を落としていた。アナウンスによって彼は自分の待っている旅客機が到着予定時刻よりも若干遅れている事を知っていたが、やはり気になっているようだ。

 

その顔には何かを案ずるかのような表情が浮かんでいた。彼が迎えようとしている者が彼にそうさせているのかもしれない。

 

ややあって目的の旅客機が到着した旨を告げるアナウンスが流された、彼は今一度時計に目を落とすと天井を振り仰いで一つ嘆息をする。どことなく緊張している風に見えなくもない。

 

それから暫くして到着口の扉が開き中から人が出てくる。彼はいずまいを正して今度はそちらの方から視線をそらす事なく注視していた。

 

自分の前を通りすぎていく人達、彼はその人達の一人一人を確認するようにして視線を向けていく。

 

その中に彼は一人の少年の姿を見出した。今しも到着口から出てくる所、肩にスポーツバッグを下げている。

 

その少年は長く伸びた黒い髪を後ろで束ねて縛っていた。彼がその少年と分かれた時とはそこが違っていて髪形の変化によるイメージの差はあったが、彼はそれが自分が迎えに来た少年その人である事を見誤りはしなかった。

 

彼はソファから立ち上がるとその少年の歩いていく方に移動する。

 

二人の距離が縮まる。少年の方は彼が自分の方に向かい始めた時から彼の事に気がついていたようで、視線を彼の方に向けながら近づいてきた。

 

程なく距離が近づいた所で二人は声を交わす。

 

「お疲れ様だったね、シンジ君」

 

「…お久しぶりです、日向さん」

 

二、三歩離れた程度の距離で二人は向かい合いどちらからともなく互いに手を差し出して握手を交わす。僅かに少年の方が遅れただろうか。

 

「とにかく無事に戻ってきてくれて何よりだったよ、道中何事もなくて本当に良かった。向こうから護衛の随伴がないと聞いた時は本当にアタマにきたもんさ。向こうの連中は何を考えているのか…」

 

日向と呼ばれたその男は握手を終えて手を離した後に半分の本気と半分の冗談を交えて自分がシンジと呼びかけた少年に語りかけた。

 

おどけた態度とその口調はその心の内を感じさせない筈のものであったが、話しかけられた少年の方はその心中を知ってか知らずか僅かに俯いて、顔合わせした当初の微笑みを消して無表情のまま何も言わずにいる。

 

その表情からは何も読み取る事はできなかったが、瞳には何がしかのいろが浮かんでいた。

 

正面にいる日向からはそれがなんなのかは読み取る事ができなかった。しかし、シンジの様子からその心中を、押し隠そうとしているものを察する事はできた。

 

自分の発した言葉がこの少年に与えたもの、警護が必要だという事、その事自体は今のこの状況においては必要なものなのではあるが、その根元にあるもの、それがシンジの心に重くのしかかっている。

 

のしかかっているもの、それが一体なんなのか、それは他ならぬシンジ自身が一番よく知っている事、それは日向にも分かっていた。そして、それに対して何かができるのは、どうにかできるのはシンジ自身以外にいないという事も。

 

もしかしたら彼女なら…。

 

日向は一瞬思いかけて自分の中だけで頭を振ってそれを打ち消した。なぜならばその人は今…。

 

どうする事もできないのか、そんな考えが浮かんでこないではなかったが、少なくとも今のこの場ではどうにもできない事は確かなので日向はこの事に関してはここまでとした。今はその事から意識をそらすべきだとも思って現実的な事を聞く事にする。

 

「そういえばあの件はどうなったんだい?、予定では今回ので最終の聴聞会だった筈だけど。新しい聴取事項は出てこなかったのかい?」

 

シンジは僅かに顔を上げて日向と目線を合わせる。

 

「…これから暫くはその聴取事項そのものを調べ直すとの事でした、いつになるのかは分かりませんが、必要になったら要請するので応じて欲しいと…」

 

その言葉を聞いた日向の表情が幾分厳しくなった。

 

「…要請?、応じて欲しい?。という事は強制じゃないんだね?」

 

「…はい、多分そういう事だと思います」

 

「それでシンジ君は何て答えたんだ?。まさか応じたんじゃ…」

 

日向の言葉にシンジは僅かに視線をそらして表情と口調に自嘲を滲ませる。

 

「…僕に…断る事なんてできる訳ないじゃないですか」

 

そんなシンジに日向は僅かに顔を上げて天井を振り仰ぐ。

 

「(…まだ…まだシンジ君の事を縛り続けるつもりなのか、一体いつになったら…)」

 

そう日向は思わずにはいられなかった。あれから二年、世界規模に影響を及ぼした事にしてみれば確かにこの期間は、たったの、という事になるのだろうが、当事者の立場にしてみればそれは決して無視できるようなものではないからだ。

 

この時期の少年の心にこういった事がどういう影響を与えるのか、それと分からぬ程に愚かな連中でもあるまいに、分かっててやっているのだろうが、それができるのが日向には到底信じられなかった。

 

上に立つもの、全体を見渡すものが故の性か、それは分かる、分かるが納得がいかない。

 

そんな過去を振り返ってどうするというのか、あれは二度と起こらない筈のもの、何故ならばそれを起こせるものは全て失われてしまっているからだ。

 

であるならば、シンジを今だに引きずりまわしてやっている事に一体なんの意味があるというのか、調査のための調査でしかない。起こり得ない事に過去の教訓も未然防止も何もない、もう少し勘案してくれてもいいではないか。ましてやシンジは…。

 

そこまで考えて日向は自分の中だけで苦笑を浮かべた。それは自分自身への嘲笑でもあった。

 

それはかつて自分を含む組織がやっていた事と何ら変わりのない事に気がついたからだ。組織全体が、自分自身を含めた組織全体がこの少年に戦いを押し付けていた。それと今彼等がやっている事と何が違うのか、何も違いはしない。

 

その時少年は拒否する事はなかった、人類全体を守るという大義名分があった、確かにそれは事実ではあったろう。しかし、今のこの現状に対してそれは何の言い訳にもならない、それもまた事実であった。

 

結局、元を辿れば全ては自分達のせいではないか、彼等にどの口を拭って偉そうな事が言えるというのか、そんな思いも浮かんではくるが、それは現実的ではないと思い直してともすれば泥沼にはまりそうな考えを止める事にした。

 

この手の事を話題にする限りどうにも良い方向に話しが進んでいかないように感じられたので、日向はここでの話しは切り上げる事にした。

 

「そうか、シンジ君がそう決めたのなら俺は何も言えないが、少なくともこれまでの処遇は変わらないようにする。だからシンジ君はシンジ君の望む通りにしてくれ」

 

「…はい」

 

シンジはそう小さく答えると視線を日向の方に戻して、感謝の意を表そうとしたのか微笑を浮かべる。

 

ただ、その笑顔はひどく寂しそうな、もの悲しそうな、辛そうなものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…この街も随分元に戻ってきていますね」

 

車窓の外を流れていく風景に目をやりながらシンジが誰に対してだろうか、呟くようにして声を発した。

 

空港から出発して三時間、二人を乗せた黒塗りの高級車は街の中を走っていた。

 

その車中、シンジと日向は後部座席に並んで座っている。

 

それまでほとんど無言だったシンジがふともらしたその言葉に日向は、それまでシンジと同様に見るともなしに窓に向けていた目をシンジの方に向け直して答えた。

 

「再開発は急ピッチで進んでいるからね、特別災害復興地域の指定、あちら側の思惑はどうあれありがたい事さ」

 

シンジも知っている筈の事を日向は気にする事もなく再度確認させるかのようにして告げる。

 

シンジは日向の方に顔を向ける事はなかったが、自分自身の内で噛み締めるようにして小さく頷いた。シンジ自身もその事にどうゆう思惑が絡んでいるにせよ街がかつての姿を取り戻していくのは喜ばしい事だと感じているようであった。

 

ただ、それが自分のした事を消し去る事にはならないとも思っていた。

 

決して贖える、消え去る事のないものだと自分自身に刻み込んでいた。いや、望むと望まざるとに関わらずシンジ自身の中でそうなってしまっていた。

 

シンジ自身の望みとしては消えてしまった方が、無かった事になってしまう方がどんなにか良いかと思っているのにも関わらず…。

 

シンジは瞑目して自分の考えが堕ちていかないように、心の奥底に向かわないように意識を集中した。そんな事になればどんなにか自分が辛いか、嫌なのかがそれこそ肌身に染みて思い知らされていたから。

 

日向はシンジが僅かに頷いたのを目にして今が話す時だと思っていた。

 

ここに至るまでのシンジは自分の方に意識を向ける事はなくただ窓の外を眺めていた。しかしてそれすらもシンジの自意識をもってしている事ではないうのも分かっていた。

 

その目には何も映らず、意識はその内に堅く閉ざされているのは間違いなかった。心ここにあらず、そんな言葉が目の前に形をもって存在している、ここに至るまでのシンジはそんな状態であった。

 

しかし、シンジの発した言葉は意識を外に向けた事の証拠。自分の言葉に答える、答えないは別にして外界に対して心が開かれている、それは間違いのない事であった。

 

つきはぎだらけの心に触れるには細心の注意を払わなければならない。日向はここで話さなければこの先いつまた機会が訪れるか分からないので、出来る限りさりげなく、タイミングを見計らってシンジに伝えるべきを伝え始める。

 

「…シンジ君」

 

日向の何か言いたそうな言葉にシンジもまた窓の方から視線をそらして日向の方に向き直る。

 

振りかえったシンジに日向は、自分から話しかけたのにも関わらず、自分の中では伝えるべきを伝える事を決めているというのに、ただシンジの瞳に自身の視線を合わせて何も言わずにいた。

 

シンジは訝しげな表情をするが、日向のその態度が自分に何か伝えづらい事を伝えようとしているという事を感じて、また日向の自分の心情に対するそんな心遣い、聞く事を促してくれている、が嬉しくて心になけなしの強さを総動員して、無理が出てしまう微笑みを浮かべて自分の相対している人物を促す。

 

それを目にした日向はその心情がどうあれシンジの聞いてくれる態度に話しを切り出す。

 

「これまでに調査してきた事、分かった事、それを整理してまとめたものがある程度の形にできたんだ、報告書としてね」

 

それを聞いたシンジの表情が引き締まったものになる。

 

「シンジ君の立場を考えるとこういうものは本来なら見せられないのだろうけれども、俺には君にその権利があると思う。何があったのか、どういった経緯であの事が起こったのか、君の周囲で何が行われ、何が画策されていたのかをね」

 

シンジの視線は小刻みに揺れていたが、それでも日向からそれが逃げていく事はなかった。

 

「これからも君は向こうに行く事があるかもしれない、その時にこういった事を知っている、知りすぎている事は君自身にとってマイナスに働くかもしれない、知らなければいい事なのかもしれない、そしてこれは強制するようなものでもない、だから、君に決めて欲しい、どうするのかを」

 

今度はシンジは視線をそらした、僅かに俯き惑うような、考えるような表情をしている。

 

その面には猛烈な逃避衝動と果てのない恐怖とが滲んでもいた。

 

日向そんなシンジを目にしていた。

 

少しの間ただ黙ってその様子を見守っていたが、シンジの様子に変化はなく返事を返してくるそぶりもない。

 

そんなシンジに日向はこのままでは目の前の少年は結論を出し得ないのではないのかとも思い、暫く逡巡したが、もう一石を投じる事にした。

 

それはまたシンジにとって重要な事だが、それと同時に心の琴線に触れるものでもあった。

 

「…今俺が言った事の中にはチルドレン達の事も含まれている」

 

それを耳にしたシンジの身体がビクッと震えた。

 

日向はそれだけを告げると再び何も言わずにシンジを見続ける。

 

シンジの身体は小刻みに震えていたが、暫くして何かを恐れるような表情をして顔を上げた。

 

怯えるような目をして、何かを確かめるようにしてシンジは日向に視線を向ける。

 

「…チルドレン達の事…僕達三人の事…ですか?」

 

「…そうだ」

 

日向はシンジに思い知らせるようにして重々しく頷く。

 

「…日向さんも知っているんですか?…そうですよね、当たり前ですよね、司令代行が知らない訳ないですよね」

 

何かを嘲るようにしてシンジは言うと表情にも嘲りを浮かべて、視線をそらす。

 

しかし、その表情はすぐに悔恨、自虐、理不尽な憤りにとって変わられた。二つとしてない、かけがえのない、何か大切なものを奪われた、そんな心中を伺わせるような、他者から見たそれは例えようもない程にいびつに歪んでいるものであった。

 

そんなシンジに日向は、しかし、表情を変える事なく爆弾を放りこむ。

 

「…いや、俺は知らないし目にしてさえもいない」

 

「!?」

 

意外さと驚きの表情をしてシンジが顔を上げる。

 

そんなバカな、そんな事を表情で語っている、そんな顔をしていた。

 

そんなシンジに対して日向は幾分表情を和らげて、しかし、視線を逃がさないようにして射るような眼差しでシンジの瞳を捉える。

 

「俺だけじゃない、青葉や伊吹、司令部を始めとする職員全員誰一人としてその資料を目にした者はいない。存在を知っている者だって俺達三人だけだからね」

 

「…そんな…どうして…」

 

シンジは表情の驚きと不信さをそのままに反駁の声を漏らす。それは普通で考えれば当然の事であった。資料はあるのに見た者はいない、それならば一体どうやってその資料そのものを作ったのか、あり得ない話しであった。

 

「…それぞれの情報はMAGIの中に独立した形で記録されていたんだ、滅多に参照されない、それも最重要機密扱いでね。それは発見する事自体でさえ困難だったけれども調査を進めていく過程で伊吹が偶然ともいえる形で発見したんだ。まあ、いずれ調査が進めば見つかっていただろうけれどもね」

 

シンジは何も言わずに日向の言葉に聞き入っていた、その一言一句も逃さないとするかのようにして。

 

「その報告は伊吹から直接俺の所にきたんだ、間に人は介していない。それを受けた俺は伊吹にその情報をバックアップメディアに退避してMAGI上から削除するように指示したんだ。そのメディアは最重要機密文書保管庫にいれてある。キーを知っているのは俺だけだし保管庫はN2兵器の直撃にも耐えられる。他者の目に触れる可能性は絶無に等しい。俺自身、誓ってもいいが、そのデータにはアクセスもしていないよ」

 

日向もまた自分の言う事の全てを伝えるようにして、一つ一つの言葉に重みを持たせてシンジの目を捉えたまま言を継ぐ。

 

「資料はまだ出力していない、電子情報として存在しているだけ。チルドレンの情報の部分に関してはメディアに記録しているものを参照するようにしてある。だから、俺を含めて誰も情報の中身については知らないって寸法さ」

 

そう言って日向はいたずらを働いたかのようにしてシンジに笑いかける、あまり上等のものとは言えなかったが。

 

そんな日向にシンジは未だ驚いたような、呆然としたような表情をしていた。

 

信じられない、というような感じは未だ強く残っていたが、それは先ほどのものとは違った望外の幸運が訪れた、そんな感じのものになっていた。

 

そんなシンジに日向は一端言葉を区切った後に念を押すようにして頷いてみせた。それはシンジの心のその事に対する懸念と疑惑を払拭させ、安心と平穏をもたらした。

 

それによってシンジの表情にも安らぎのようなものが現れるが、それはすぐに逡巡と困惑にとって変わられた。それはシンジの心に訪れた葛藤を如実に表しているものであった。

 

日向はシンジがまた純粋に知るべきか知らざるべきかを悩み始めたのを目にして表情を真剣なものにして答えを待つ。

 

日向自身、自分の投げ込んだ石は確実にシンジの心をいずれかに傾けさせたと確信していた。

 

だから、今度は本当に何も言わずに待つつもりでいた。

 

しかし、意外にもシンジは日向の提示に対する回答を少しの間だけをおいてすぐに示した。

 

「…見ません…」

 

その言葉に日向の表情が真剣なものから厳しいものに変わる。

 

「知りたくないと、そういう事なのかい?」

 

「…いえ、知りたくない訳じゃありません」

 

「なら、どうし…」

「僕自身で決めた事があるんです。だから…」

 

日向の反駁の言葉を遮るようにして強くはないが、意思の込められた口調と声でシンジは言った。

 

そこに込められた少なくとも弱くはないものに日向は口を閉ざした。

 

シンジはその言葉を言った時にも俯いて日向の方は見ていない。しかし、そこには必死になってそこに踏みとどまっている、そんなシンジのあるかなしかの譲れないものが確かに感じられた。

 

そんなシンジを目にして、感じて日向は少しの間厳しい表情のままシンジを凝視していたが、ふと表情を和らげる。

 

それが例えどのような事であれ、何事につけ自分というものを持っていなかったシンジがちゃんと自分の意思を示したというのは少なくとも悪い事ではないような気がしたからだ。

 

「…分かったよ、シンジ君。それが君の決めた事なら俺はそれを尊重するよ。さっきも言った通りこれは強制じゃないからね」

 

「…すいません、折角僕のために…」

 

シンジはまるで何かの罪を犯したかのように弱々しく呟くようにして謝罪するが、日向はまるでそんな事は気にしていないかのような笑みを浮かべている。

 

「気にしなくてもいいさ、君達の生まれ、生い立ち、経歴、そんなものは俺達にも向こう側にもそんなに重要なものじゃないからね、資料は提出しなければならないから紙に出力するけどその部分の情報は抜いておくから安心していいよ。ただ、いつ必要になるか分からないから覚悟だけはしておいた方がいい。見る気になったら俺に連絡をしてくれないか?、いつでも閲覧させてあげるから」

 

はい、と小さく答えるとシンジは俯いたまま何も言わなくなった。

 

そんなシンジに日向は一瞬口を開きかけるが、それを噤むと何も言わずに再び視線を窓の外に向ける。

 

「(…やはりだめなのか…彼女の事…どうする事もできないのか…)」

 

日向は一瞬考えかけるが、シンジを含めて誰も見ていないのをいい事に今度は心の中でではなく実際に頭を左右に巡らしてそれを振り払った。

 

今はこれで満足するしかない、あの時よりはマシになってきている筈だ、子供達の事を含めた全てが。日向はそう自分に言い聞かせた。

 

実際、時の流れは、良し悪しは別にして人を、シンジを変えてはいた。それが例えどのように僅かなものであったとしても。

 

日向は一瞬、シンジの方に目を向けるがまたすぐに目を窓の方に戻す。

 

少なくとも今のシンジは心を空っぽにしているとか、自分の心を押し殺しているという訳ではなく、自分のした事を噛み締めているように感じられた、だから今声をかけるのは気遣いではなく邪魔になると思えていた。

 

日向は自分が感じた事を信じたかった、信じていたかった。そうでなければやっていられなかった。

 

その時シンジは日向が洞察したように自分のした事、自分がどうしてそうしたのかを心の中で確かめていた。他の誰にでもなく自分自身に問いかけながら。

 

「(…綾波の事は知っている…忘れられない…感じている何かもあった…)」

 

「(…僕の事…それは別に構わない…興味を引くものなんて無い…何も無い…)」

 

「(…でも…)」

 

だから、だった。

 

だから自分は決めた。そこに理由なんてないのかもしれない、ただ心がそれを求めたからに過ぎないのかもしれない。でも、だからこそ決めた。

 

そして、自分はそれを守った、押し通した。他人からの意思も勧めも退けてまで。

 

震えがきた、怖かった、逃げ出したかった、どうする事もできない程に嫌だった。

 

そんな自分が嫌だった、そんなものは感じたくなかった、感じるくらいなら何も無いほうがはるかにマシだった。

 

でも、しかし、そう、これが、この事こそが自分自身があの時選んだ、選んでしまった…。

 

「(…だから…だから僕は逃げちゃ駄目なんだ。いや、逃げられないんだ!)」

 

シンジは俯いて両手を握り締めて、全身を強張らせて身体が震えようとするのを必死になってこらえていた。

 

空にできないのに心を空にしようとして、感じてしまうのに何も感じないようにしようとして。

 

自分自身でも気がつかない、心の奥底に生じた微かな達成感と誇らしさとを秘めたまま、それも含めて今の自分の全てを虚ろにしようとしていた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

程近い梢から鳥の声が聞こえてきた。

 

それに触発されてかシンジの意識は現実の元へと戻ってくる。

 

少しの間呆うとした表情をしていたが、見直すようにして視界に入る風景を右から左へと見渡していく。

 

願掛けの意味もあったが、実際は床屋に行く間もなく伸ばし放題にしていた髪は戻って来た当日に切っていた。少し短めのさっぱりとした髪は風にさらされて少し乱れている。

 

「…あれから二ヶ月、街は変わっていく、僕はどうなのかな…」

 

どこか感慨に耽るようにしてシンジは呟いた。

 

その呟きのとおりに街はその姿を日一日と変えていく、少なくとも人にとっては、そこに住む人達にとっては良い方向に。

 

それにひきかえ自分はどうなのだろうか、そこにいる自分はどうなのか、シンジは思わずにはいられない。

 

「…そんなに簡単に人は変われないよ…失う事も、無くす事も、忘れる事も、取り戻す事も、手に入れる事も…」

 

どこか虚ろな目で、気のない表情でシンジはぽつりと呟く。

 

それがシンジにとっての事実なのだろうか、変わらない自分、変われない自分、昔のままの自分、今もこれからも変わらない自分…。

 

ふっとシンジは吐息を漏らして僅かに俯き何かを振り払うかのようにして左右に首を巡らすと顔を上げてその場を後にしていく。

 

広場と道の境辺りにつくと、そこで足を止めて手首足首をほぐして二、三度屈伸をすると空を振り仰いで大きく一つ息をついた。

 

「…今日から高校生か…何か変われば、変わってくれればいいけど」

 

そう呟いてシンジは何かに気がついたようにして一つ苦笑を漏らし、それがスタートの合図だとでもいうように一つ飛び上がった。

 

「よしっ、行こう」

 

元気を出すようにして一声あげると、来たときと変わらぬスピードで丘から街へと続く道をシンジは駆け下っていった。

 

 

 

 

<第二話 了>

 

 

第一話へ

第三話へ

 

インデックスへ