Rambler

第三話 風会

 

 

第三話 風会



2000.2.26



ざわめく校庭、集う人達。

 

そこには同じ歳に生まれ、同じ時の流れを生きてきた少年少女達が集まってきていた。

 

それまで会った事のない人達、これまでに会った事のある人達、あるいは一緒にいた人達。

 

それぞれの表情、それぞれの気持ちで今この場に臨んでいる。

 

それはあるいは運命というものなのであろうか、それ程までに大仰ではなくても何かの縁で今それまでに別々のところで等量に訪れていた時間を過ごしてきた者達がこれから同じ場所で生活を分かち合っていこうとしている。

 

それは大切な事なのだろうか、それともただの偶然の一言で済まされるものなのだろうか。

 

ある人は言った、きっかけは大した事のないものなのかもしれないが、そこで手にしたものは一生の宝物になるだろうと。

 

そう思うのもそう思わないのも今そこにいる少年少女達がそれぞれにこれから決めていくのだろう。二度とはない高校生活という人生の中でも最も輝いている時をそこで過ごしていく中で…。

 

はしゃぐ声、喜ぶ声、期待に胸膨らませている声。

 

様々な声音、様々な感情、そのどれもが一様に明るいものであり一点の曇りも染みもない。

 

これからの彼等の未来を示しているかのように見渡す限り空は青く澄み渡り、その姿の全てを見せている太陽は満面の輝きを放ち彼等の高揚している心の中にはそれが象徴であるとでもいうように何の懸念も不安もなく期待と希望という光り放つものしかなかった。

 

暖かく柔らかく降り注ぐ陽射し、薫る空気の流れ、和やかに交わされる少年少女達のやりとり…。

 

新入生出入り口、校庭のすぐ傍にある玄関の前にはクラス名簿が張り出されていた。

 

それを前にして築き上げられた同じ制服を身に纏った少年少女達による人垣、人の群れ。

 

それぞれがそれぞれに相方と一緒に、あるいは一人でその掲示を目にして一喜一憂している。

 

喜んでいる者は望みの相手と一緒になれた事、そうでないものはその逆といったような感じであった。

 

どちらにしてもその場にいる者全てに明るい表情が浮かんでいる。

 

その賑わいから、掲示板から少し離れた所にアスカはいた。

 

校庭の端の木立の許に寄りかかって佇んでいる。

 

僅かに俯き、地面に目を向けて、揺れる髪も気にせずそのままに。

 

すぐ傍にある喧騒に加わる事もなく意識を向ける事もなく、目を向ける事もなくただ静かにそこに佇んでいる。

 

アスカの心はここにくるまでの事を思っていた。

 

ヒカリから離れるようにして駆け出した後、ここにくるまでにそれなりの人達とすれ違った、追い越してきた。

 

アスカの意識はそれらの人達に向けられる事は無かったが何人もの彼女と同じと思われる新入生、生徒達が振り返った。

 

そんな事もアスカの目には映らなかったが中には露骨に視線と意識を向けてきた者もいた。その自分に向けられた意識にはアスカは気がついた。

 

好奇、羨望、感嘆、嫉妬。

 

それら様々な感情の産物が彼女に向けられてきた、いや、注がれてきた。

 

自分にまとわりつく様々なもの、這い回るような視線、アスカは悪寒がして鳥肌がたった。

 

それはもしかしたら意識過剰というものなのかもしれないがアスカにはそうとしか感じられなかった。また実際にそうだと言いきれるものも中にはそれなりに混じってもいた。

 

気がつけばアスカはここにいた。人気のないここに、一人でいられるここに。

 

心が動いた訳ではなかったが身体は勝手に反応していた、それを静めるためにアスカはそこで少しの時を過ごす事にしていた。

 

「(…やっばりこない方が良かったかな、でも部屋にいても仕方ないし…)」

 

アスカ自身、身体の示した反応はともかくその事について特にどうとも思ってはいなかった。それが本当なのかどうなのかは別にして心が動くような事はなかった。

 

「(…まあ、別にどうでもいい事だし。好きにすればいい、あいつらも…私も…)」

 

そう心の中で呟くとアスカは思うのを止めた。

 

心は虚しくなり、面には何も無くなる。

 

そうした時に誰かが近づいてくる気配がした。

 

「ア〜スカ」

 

少し強めに呼びかけてくる声、アスカはそちらの方に顔を上げた。

 

「酷いじゃないのよ、一人で先に行っちゃうなんて」

 

その強い口調とは裏腹に笑顔を浮かべたヒカリがそこにいた。

 

アスカは一瞬無表情のままヒカリの事を見つめるが先程の事もあったのであろうか、来てくれた事が嬉しいかのようにして、こうして触れ合える事を喜んでいるかのようにして僅かに表情を和らげて微笑みを浮かべる。

 

「…うん」

 

こんな時のアスカは本当に綺麗な笑みをみせてくれる、ヒカリは自分までもが嬉しくなってしまうのを感じずにはいられなかった。

 

それは仮初めの事かもしれない。しかし、もう少しこうしていたいという思いからか心とは裏腹の行為をとる。

 

「うんじゃないでしょ、うんじゃ。私がどれだけ…」

 

そう言ってヒカリはアスカの肩に手を差し伸べるがアスカは軽いステップを踏んで跳ねるようにしてそれをよける。

 

ヒカリがアスカを見ると少し離れたところでアスカは変わらぬ微笑みを浮かべていた。

 

悪戯っぽく小首をかしげて、少し肩を竦めてヒカリをその蒼氷色の瞳で見つめている。

 

それを目にしてヒカリは心が満たされるような気がして、でもやはり拭い切れない寂しさを心の片隅に残して、今この時を大切にしたくてアスカを追いかける。

 

「待ちなさいよ、もう、許さないんだから」

 

アスカは声をたてる事はなかったがそれでもその表情から微笑みが消える事はなかった。

 

まるで踊るように、舞うようにして追いかけてくるヒカリをかわしていく。

 

もしかしたらアスカ自身も今はこうしていたいと思っていたのかもしれない…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠くに喧騒とざわめき、人の足音の聞こえる人気のない裏手。

 

表側の賑わいとはかけ離れて静かな、校舎が未だ昇りきらぬ太陽の陽射しを遮り自身以上の大きさの影を地面に投げかけているそこ。どことなく陰鬱とした人の存在感の無い場所。

 

シンジはそこで困ったような顔をして周囲に視線を巡らせていた。

 

「まいったな、もうすぐ時間だって言うのに…」

 

シンジはその言葉通りの表情で一人ごちる。

 

シンジの住んでいる場所は今いる所から十分とかからない。正門から来るよりも近いので裏手の方から来たのはいいが、元々地理感の悪い上に不慣れな事からさほど複雑な構造もしていないのにシンジは自分が今どこにいるのか見失ってしまっていた。

 

しかし、人の気配が全くしないという訳ではなく校舎を挟んだ反対側からは多くの人達がいるであろうざわめきが聞こえてくるので、困ってはいるがどうにもならないという感じはシンジ自身してはいなかった。

 

ただ、入学式が始まる時間というものもあるので多少は焦っている、そんな所であろうか。彼の几帳面な性格の事、時間的にはまだまだ余裕があるのだが気にせずにはいられないのだろう。

 

シンジ自身のつもりとしては自分のクラス割りを確認しておきたかったし、どこか時間までに行かなくてはいけない所があってその途中でもたもたしているというのは嫌だった。さっさとそこに着いて気分的にも落ち着きたいというのもあるようであった。

 

「とりあえず壁伝いに回っていってみるかな。こんな事なら最初から正面の方からくればよかった。急がば回れ、なんてね」

 

シンジは仕方ないという感じで足を動かし始める。

 

と、そこに傍らから声をかけられた。

 

「あら、君、こんなところで何をしているの?」

 

シンジがその声のした方に目を向けると一人の女子生徒が通用口から顔を見せていた。

 

おそらくというか間違いなくこの学校の生徒なのだろう、この学校の女子用の制服に身を包んでいる。

 

その少し大人びた口調、着慣れた感じの制服。少なくとも新入生には見えない、在校生なのだろう。という事はシンジにとっては先輩という事になるのか。

 

シンジは声をかけられた時に少し驚いたような表情をしたが、すぐにいつも感じに戻ってその女子生徒の方に向き直る。

 

「…あ、あの…」

 

向き合ったはいいが、どうしたの?、と言われてシンジにはどう答えていいか分からなかった。まさか正直に迷いましたと言うのは憚られたし、シンジには言えなかった。

 

少し俯いてなんとなく困ったようにしているシンジをその女子生徒は暫く黙って見つめると好意的な笑みを浮かべて 話しができる所まで近づいてきた。

 

「あなた、新入生でしょ?」

 

シンジが、えっ!?という感じで顔をあげるとそこには自分に微笑みを向けてくる少し年上の女の子がいた。

 

「…あ、はい」

 

「やっぱりね。まだ制服になじんでいない感じだし、なんか君、かわいいもの」

 

「…そんなこと…ないですよ…」

 

シンジは何と言っていいのか分からないような表情をしていたがそれには少し憮然としたものが混じっていた。

 

シンジにとってその言葉がどういう意味を持っているのかはともかく、そんなシンジの様子にその女子生徒は慌てて手をふった。

 

「ああ、ごめんごめん、気を悪くしたのなら謝るわ。怒んないでよ」

 

「…別に怒ってなんかいませんよ」

 

その言葉は自分の心とは反対の事を表すためにあるようなものだが、シンジの口調には本当にそういったものが込められていなかった。そこに込められていたのは虚しさと無感情であり、それが相手にいらぬ気遣いをさせぬためのものであるかどうかは本人以外には計り知れない。

 

その女子生徒はシンジがその言葉を口にしている表情を少しの間みとれるように見詰めていた。それがこの少年の翳りとして感じたのか、そこに普通ではない魅力を感じたのかシンジのすぐ傍に歩み寄る。

 

「ホント、ごめんね。なんだか気にさわるような事言っちゃったみたいだからお詫びに体育館まで連れて行ってあげる」

 

シンジはそんな女子生徒の言葉と行動に少し戸惑ったような表情を浮かべたがすぐに元の表情、どこか気のない表情に戻って少しの感情を込めてうそぶくようにして言う。

 

「そんな、悪いですよ」

 

「いいからいいから、まだ始業には時間あるから、いいでしょ?」

 

少し媚びを売るようなそのしぐさにシンジは軽い嫌悪感を感じた。

 

しかし、それと同時に自分に恣意的に近づいてくるその女子生徒に心動かされそうになっている自分にも気がついていた。

 

自分はどうしたいんだろう?、シンジは心の中でそんな事も思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やった、アスカ。また一緒のクラスになれたね」

 

そう言うとヒカリはアスカの手をとって小さく飛び跳ねる。

 

ヒカリとアスカは暫くの間戯れあっていたが、その後で連れだってクラス名簿が貼り出してある掲示板の前に来ていた。そしてその掲示板を目にして二人は自分達がかつてと同じように一緒のクラスになれている事を知った。

 

アスカはヒカリに手をとられて少しの間驚いたような表情をしていたが、ややあって嬉しそうな表情を浮かべる。

 

小躍りするように嬉しそうにはしゃぐヒカリとただ黙って手を取られているだけのアスカ。

 

二人の様子はまるで対照的であったが、そこに浮かべている表情は程度の差こそあれ同じ気持ちからきているものであった。

 

喜んでいるヒカリを心持ち目を細めて柔らかい表情で見詰めていたアスカであったが、ふと視線をそらして掲示板の方を見る。

 

そうした時、アスカの表情はそれまでのものとは一転した。

 

一瞬瞳が大きく見開かれ次の瞬間には睨みつけるように細くなる。

 

ギュッと眉根を寄せて僅かに顎を引いて、視線の先にある一点を凝視しているその表情はまるで何かをねめつけるかのよう…。

 

それまで自分と一緒に嬉しそうな表情をしていたアスカが急に表情を固くして動かなくなった事にヒカリは少しの間戸惑った。

 

アスカは何気なく視線を動かして掲示板の方を見てからそうなった。一体どうしたのかと声をかけてみるが、答えは何も返ってこない。

 

ヒカリには一体何がどうしたのか分からなかったが、アスカの視線の先に何かがあるのかと思い掲示板とアスカの顔とを交互に見比べながらそれを追う。

 

幾度かそれを繰り返した後にヒカリの視線も固まった。

 

 

碇 シンジ

 

 

そこにはそう書いてあった。

 

アスカとシンジの間に何があったのかヒカリはよく知らない。

 

しかし、アスカはシンジの事が話題の端にでものぼろうものなら途端に今のような表情になった。たとえそれがどんなに些細なものであっても程度の差こそあれ少なくともいい表情はしなかった。そう、ちょうど今のように。

 

かつての戦いの最中、疎開で別れる前のアスカはあまりいい状態とは言えなかった。

 

自分の家に泊まり込み何日も学校にも行かずにテレビゲームだけをしていた。

 

思いつめたような表情でほとんど何も喋らず、ただ黙々とコントローラを操っていた。

 

信じられない変わりようだった、太陽のように明るく聡明な彼女を何がそこまで追いつめたのか。

 

 

…ヒカリ…アタシ…勝てなかった…エヴァで…

 

 

アスカはそうポツリと言った。

 

ヒカリはただ一言だけ言った。

 

 

…アスカの好きにすればいいと思う、アスカはよくやったと思うもの…

 

 

それしか言わなかった。いや、言えなかった。

 

アスカがエヴァに乗っている事、それはヒカリも知っていたがそれ以上の事は何も知らなかった。

 

ただアスカやシンジが使徒と呼ばれる正体不明のものからこの街を守っているという事は知っていた。

 

自分の身を呈してこの街を、自分達を守ってくれている…。

 

だからヒカリはそう言った、そうとしか言えなかった。

 

アスカの事もほとんど知らない、何をしているのかもほんの少しだけしか知らないヒカリにはそうとしか言えなかった。

 

そして、数ヶ月前に再会した時の事。

 

あの時よりは回復したように見えたアスカにヒカリは若干の安堵をした。

 

しかし、それはすぐに過ちだと気がついた。アスカの状態はもっと底辺の方で安定してしまっていたのだ。その心に負ったものをヒカリは感じずにはいられなかった、安定しているから回復したように見えてしまったのだ。

 

アスカの見せるシンジの事への反応…。

 

ヒカリはアスカとシンジの間に何かあったと知らざるを得なかった、傍にいれば嫌でも思い知らされた。

 

いつも沈んでいて弾む事のない心。今のように多少良い状態の時でもシンジの事に話題が触れるとすぐにこのようになった。あるいは完全に心を閉ざした、感情を殺した。

 

だからヒカリとしては極力シンジの事には触れないようにするより他には無かった、何かを聞き出すなどとんでもない事であった。

 

あまりにも危険だった。今のアスカの状態そのものにも危ういところはあったがそれ以上にシンジについての事になると今にも壊れてしまいそうな危険な感じがヒカリにはしていた。

 

「あ、アスカ!?。もうすぐ入学式始まるだろうから、そろそろ…」

 

ヒカリはアスカの方を振り向いて焦ったような口調でそう言いかけたがその言葉は途中で消え入るように途切れていった。

 

あまりにも硬質な感じ、溢れる感情。

 

今のこの時ほどアスカが危うく感じられた事はヒカリにはなかった、これまでの付き合い全てを通して。

 

何かほんの僅かのきっかけでもあればその場で跡形もなく壊れてしまいそうな、そんな感じを受けずにはいられなかった。

 

ヒカリには何も言えない、込み上げてくるものを必死になって抑えながらただアスカを見詰める事しかできなかった。

 

あの時と違い何もない、自分と何も変わる所の無い同年代の少女、友人、親友。

 

あの時ヒカリとアスカの間には隔てるものがあったが今は何もない。等身大の自分達として付き合っていける、ヒカリはそう思っていたし、事実、二人はそうして付き合っていた。

 

だから今はあの時とは違い自分にも何か言える事がある筈、言えるのではないのかとヒカリは思っていたが事実はそうではなかった。

 

あの時の事がまだアスカを縛り付けている、自分達の間を隔てている、自分に何も言えなくさせている。

 

ヒカリにはただ願う事しかできなかった、祈るような気持ちでいる事しかできなかった。

 

ただひたすら、今のこの時にアスカがどうにかなってしまわないようにと想っている事しかできなかった…。

 

「…ヒカリ…」

 

どれだけの時間が過ぎたのか、ヒカリにとっては永遠ともいえる時の後にアスカが呟くようにして呼びかけてきた。

 

「な、なに?、アスカ」

 

ヒカリは努めて何気ないように答えるつもりで失敗した。その言葉の端々には震えるような響きがあった。

 

「…校舎の周り、見てこよう…」

 

アスカはそれだけを言うとヒカリに語り掛ける時には俯いていた視線そのままに入学式の会場である体育館とは反対の方に歩き始めた。

 

ヒカリはアスカに呼びかけるがアスカはその歩みを止めようとはしない。そのまま人垣の脇を通り抜け、人の流れに逆らって人気の無い方へと歩み去っていく。

 

「アスカ、待って!」

 

ヒカリはアスカに少し強く大きい声をかけるとその後を追うようにして小走りに駆け出した。

 

それは今ヒカリ自身が感じている不安や恐れを打ち消そうとしたからなのかもしれない、何もできない自分に情けなさを感じたのかもしれない、いつまでも自分の過去に囚われ続けているアスカに苛立ちを感じたのかもしれない。そのいずれかなのかはヒカリ自身にも分からなかった。

 

ただ、今のアスカを独りにしておく事はできなかった、純粋に感性の部分で恐怖を感じていたのかもしれない。考えるよりも先に声が出て足が動いていた。

 

二人が過ぎ去った後には変わらぬ人の流れが続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな、やっぱりいいですよ」

 

自分はどうしたいんだろう?、そう自問した時にシンジは自分の中で決めた事、目指そうとしている事に気がついた。

 

それに思い至った時、少しでも心動かされそうになっていた自分が酷く恥ずかしくなった。

 

自分の中にあるもの、何もなかった自分に初めてできたもの、与えられたものではなく自分で手に入れたもの、形作ったもの。

 

あの時のように曖昧に手にしたもの、押しつけられたものではなく自分で初めて持った大切な事。

 

ほんの僅かの事、些細な事、でも自分にとっては譲れない筈のもの。

 

それを他ならぬ自分でどうかしようとしていた、自分の中の自分がそれを見たら何と言う事だろう。恥ずかしくもあり自分に腹が立った。

 

それは拒絶なのかもしれない、拒否なのかもしれない。言いようの知れない恐怖。それが自分に向けられた時一体どう思うのだろうか、全身が粟立つような感覚をシンジは覚えた。

 

この人の事を傷つけるかもしれない、それによって自分が傷つくかもしれない、傷つけられるかもしれない。

 

嫌な事、怖い事、恐ろしい事。シンジはたまらなく嫌だった、そんな思いするのは絶対に嫌だった。

 

しかし、これは引き換えにしなければならない事。自分の大切なものを守るためにはしなければならない事。どちらが本当に嫌なのか自分に諮って決めなければならない事。

 

あの時もそうだった。日向に自分達の事、チルドレンの事を知らされそうになった時、それを断ったのは自分の中の大切なものを守る事が日向の好意を踏みにじるとしてもそうしたかったからだ。

 

結局自分は利己主義者なのかとも思ってしまうが、それは受け止めるしかなかった。

 

それが何かを守るという事なのかもしれない、シンジは恐怖に怯える心でそれを紛らわせるためにであろうか努めて冷めたような感じでそんな事も思っていた。そうでなければ自分の発した言葉に耐えられなくて逃げ出しそうだったから。

 

そのせいだろうか、その声も何かを押し殺したようなものになっていた。表情は心を隠すために取り繕うようにどこか虚ろな儚いものになり手はきつく握り締められ震えそうになるのを抑えるために全身は堅く強張っている。

 

ただ、それ以上の事は言えなかった。はぐらかすための適当な言葉などそもそもが言えないのだが、思いつく筈もなかった。今のシンジにとってはそれだけでも言うのが精一杯であった。

 

その女子生徒は、しかし、シンジのその表情に何を感じたのか今にも腕を取らんばかりに近づいてくる。

 

緊張しているのを可愛らしく感じたのか、どこか翳があるのが気に入ったのか好意的な笑みを浮かべて下から覗き込むように見つめてくる。

 

「遠慮なんかしないの、先輩からの好意は素直に受け取っておくものよ」

 

今度こそシンジは追い詰められた。

 

他人からの好意と自分の中の大切なもの、そのどちらをとるのか決断を迫られていた。

 

激しい葛藤がシンジの中で巻き起こる。その表情はそれまでのどこか自分を今の状況から切り離そうとしているものから困惑しきったものに変わっていた。

 

そんなシンジの心中も知らずにその表情が照れているものと勘違いした女子生徒は微笑みを浮かべながらシンジを見つめてくる。

 

ふと、シンジは気がついた。今自分に向けられているものがかつてあった押し着せるものと同じものだという事に。

 

それに唯々諾々として従っていた自分がどうなったか、そんな自分が一体何をしたか、そのせいで自分の傍にいた人がどうなったのか。

 

シンジの脳裏には一瞬のフラッシュバックのようにあの頃の光景が浮かんできていた。

 

あの時の、最後の時の光景も、一人の少女の姿も。

 

そして、そもそも何故自分が迷っているのかにも気がついた。今目の前にいる女子生徒からの申し出が自分にとって受け入れられるものならこんなに悩んだりはしないのだろうと。だからこそ迷っているのだろうと。

 

迷い、それは未だにはっきりとしない自分の心のせい。シンジは自分の心を今一度見つめてみる、感じ直そうとしてみる。

 

それはやはりそこにあった。動く事なく変わる事なく、揺らぎもしないで。

 

ざわめいているのはその周りにある余計な事だけ、それらも決して無視できるものではないがシンジは今一度自分の中にあるもの、自分の事をかみ締めた。

 

「…すいません、ご好意だけ受けとっておきます…」

 

だから、そう言った。

 

少しでも気にされないように無理矢理に表情を作って少しでも柔らかく、でもどこか固く、自身の感じているものを必死に押し殺して余裕のない心でかろうじて言葉を考えて拒絶と謝罪の言葉を口にした。

 

それははっきりとしたきっぱりとした口調ではなかったが、譲れない確かなものをその内に秘めていた。

 

その瞳は頼りなげにも申し訳なさそうにもしていたが、相手の目に確かに据えられていた。

 

そんなシンジの言葉にさすがの女子生徒もそれ以上の無理強いはできないようであった、諦めたようにして一歩下がる。

 

「そっか、それじゃしょうがないね。これから校内で会う事もあるかもしれないけれどもその時はよろしくね、新入生君」

 

少し残念そうにしながら微笑みを向けてくる女子生徒にシンジは猛烈な罪悪感を感じて思わずいつもの口癖が出そうになったが、ここでそれを口にすればぶり返されかねないと思って慌ててそれを抑えた。かわりにただ一言、はいと答えた。

 

その女子生徒はシンジに背を向けて校舎の中に戻って行こうとするが、何かに気がついたかのようにして入り口で振りかえる。

 

「君、もしかして彼女持ち?」

 

シンジは突然の事に、えっ!?という表情になる。

 

「いやね、君って身持ち固そうだし、まじめそうだから」

 

シンジはその言葉にそんな事はないですよとうそぶきながら、それに触発されたのかおかしな感情が沸き立ってくるのを感じていた。

 

それと同時に一人の少女の姿が脳裏に浮かんだ。

 

その瞬間、シンジの顔は真っ赤に染まる。

 

少し日焼けしていたが、元々色白のせいかそれはよく映えて見えた。多少離れていてもそれと分かるほどに鮮やかに染まっていた。

 

「あははっ、真っ赤になっちゃって、か〜わい〜」

 

そう言ってその女子生徒は校内に戻っていった。なんだ売約済みか、という呟きを残して。

 

暫くシンジはその場に固まっていたが、ややあって顔の火照りも収まりふうっとため息をついた。

 

それまでの緊張から開放されたせいか両肩を落として疲れたような表情をしている。

 

「…助かった…」

 

情けないと言わざるを得ないが、それがシンジの偽らざる本心であった。シンジ自身、自分の事を情けないと思ってもいた。

 

だがしかし、とにもかくにも自分の事は守り通せた。いささかの後味の悪さと微かな痛痒とを心に感じないではなかったが、何度も自分に言い聞かせてきたようにそれは仕方の無い事だと今度もまた自分自身に言い聞かせていた。

 

してしまった事は仕方が無い、後は流されるまま身を任せよう。そうした主体性のなさは彼の得意とするところであったからそう思いこむ事にさしたる抵抗はなかった。これもまた情けないところではあるのだろうが。

 

ただ、かつてと違うところはそれを自分の意思をもってやろうとしているかそうでないかという所で少なくともかつてとは変わっているという事であろうか。それがいいのか悪いのかは本人を含めたそれぞれによって見解が異なるのであろうが。

 

これまでの彼であったなら他人からの好意を拒絶した、その事に心を深く沈めてしまうところであったであろうが、今はそれよりも自分の決めた事を、秘めたものを守れた事が嬉しかった。

 

あの女子生徒の軽い感じもシンジの心の負担を軽くするのに一役買っているようであった。彼女はシンジの言葉にも、ああ駄目だったか、という程度のものしか感じていないように見えた。少なくとも傷ついているとかそんな風には見えなかった。

 

シンジとしてもそれを目にして、心で感じてこの程度の事なら誰も気にしないのかもしれないと思うようになっていた。それはシンジにとって新たなる発見であり新鮮な感覚をその心にもたらしていた。

 

思えばこれまで自分の周りには何も無かったか大きすぎる事しかなかった、もしかするとこれが当たり前で自分はやっぱりどこかおかしなところがあったのかもしれないとも考えていた。

 

少し鼓動は速くなっていたし手には汗が滲んでもいたが、それでも大きく心が乱れる事は無かった。そんな自分にシンジは少しは変われたのかなと心の中で思ってもいた。

 

「さて、と。思わぬところで時間くっちゃったな、そろそろ行かないと…」

 

そう呟いて壁の途切れている方に視線を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人は足早に歩き続けていた。アスカは俯いたまま、ヒカリはアスカに気つかわしげな視線を向けたまま。

 

他の何に気を取られる事もなく、ただそれ自体を目的としているかのようにして二人は校舎の側面を通り抜けようとしていた。

 

周囲の状況に気を向けていないアスカではあったが、その事に気がついたのか壁伝いに足の向きを変える。

 

そのまま進んでいくと校舎の構造上少し入り組んだ所に入っていった。

 

ヒカリは少し不安になったが、アスカの歩みは心持ちゆっくりになりはしたものの、止まろうとはしない。

 

さすがにヒカリは声をかけようとした、まだ不案内な学校の敷地内でこれ以上無目的にうろつけば迷ってしまうのではないかと思われたから。

 

二人の前に現れた幾度目かの曲がり角を曲がったところでヒカリはアスカに呼びかけた。

 

「アス…」

 

人の声が聞こえてきたのと、アスカが歩みを止めたのと、それは同時であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザッ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アスカは足を止めた。

 

まるでそこに何かあるかのように、そこが自分の目的としている所であったかのように。

 

角を曲がる時に何かを感じたのか、ここに至るまでにずっと俯いていた面を上げて、地面に注がれていた視線は何かを見ようとするかのように、導かれるようにして前を向いている。

 

アスカが目にしたもの、その蒼氷色の瞳に映ったもの。

 

それは、一人の少年…。

 

何かに導かれるようにアスカへと振り向いていく…。

 

アスカにそれが、描き出されていく。

 

その瞳にそのしぐさがスローモーションのようにゆっくりと流れていく。

 

その姿が、顔が、存在が、時の流れから外れたようにしてゆっくりとアスカの方に向けられていく。

 

少年も自分がその場から立ち去ろうと視線を動かした時にその場に一人の少女が姿を現したのをその瞳に映していた。

 

振り向く少年の動きは止められる事なく続けられ少年もまた少女を自身に映していく。

 

二人は、互いに向き合った。

 

視線が互いの間にある隔てを越えて届けられ、合わせられる。

 

それは触れ合い、融けるように絡み合い一つになった。

 

色の異なる互いの瞳に、互いの姿が映し出される…。

 

 

 

 

ドクン

 

 

 

 

期せずして二人の鼓動は同時に一つ高鳴る。

 

その時、二人の瞳には互いの事しか映し出されていなかった。

 

少年は少女を、少女は少年だけをその瞳に映していた。

 

心の全ては、互いの事しかなくなっていた。

 

互い以外の全ては少年と少女の中からなくなってしまっていた。

 

何かを口にする事もできずにただ無言で見詰め合う二人…。

 

明るく照らし出されている周囲の風景も、穏やかに過ぎ去っていく風も、辺りに響いているざわめきも、流れゆく時も互いに互いを見詰め合う二人には何の意味も関係も無い事になっていた。

 

今の二人にとっては互いの存在、それ以外には何もなかった。自分とその瞳に映るもの、それ以外には何も存在しえなかった。

 

今そこにいる、自分のすぐ傍にいる互いの存在を感じあおうとするかのように。

 

それがしたい事の全てであるかのように、それが自分の求める全てであるかのように…。

 

今、アスカの表情はこれまでに見せた事のないようなものになっていた。

 

驚いたように、心奪われたように、望んでいなかったものをその目にしたかのように。

 

自身の全てを、心を露にしたかのように惑い揺れていた…。

 

僅かに開かれた桜色の唇は、それと分からぬ程に小さく震えている。

 

蒼氷色の瞳は潤み、微かな何かでもあれば今にもその心が雫となって透明なきらめきを落としそうになっていた。

 

全身に込められていたものは失われ、頼りなくも儚く今にも消え入ってしまいそうにしてただその場に佇んでいる。

 

その全てを眼前の存在に捕らわれ奪われてしまっているようでもあった…。

 

シンジも何も言えずに佇んでいた。

 

まるで呆気にとられたように、今自分の目の前に起こった事が信じられないかのように。

 

そこにいる筈のない存在、失った存在、それが今自分の目の前に与えられた、もたらされた、そんな感じであった。

 

いつも自分の心の中にいた存在、その為に自分の中に自分のものを持つ事ができた。自分自身の大切なもの、自分が自分であると思えるものを手にさせてくれた少女。

 

それは何もなかった自分の心に初めて形をもったもの、想い、決めた事。

 

今すぐ傍にいる少女、それはシンジ自身にとっての…。

 

その存在が今自分の目の前にいる、もしかしたらもう二度と会えない、会う事のできないと思っていた少女がシンジの夜空色の瞳に映っていた。

 

シンジの心は、刹那、あの頃へと旅立っていた。

 

出会い、同居、訓練、戦い。

 

触れ合い、争い、喪失、拒絶、別れ。

 

その全ての情景が一瞬の内に蘇っては消えていった。その時に感じていたものはこの時には感じなかった。

 

ただ、思った事はあった。今の自分が自分として、この時に少女を目の前にして感じた事、思った事はあった。

 

 

 

…良かった…

 

 

 

ただ、それだけ。

 

少女の姿を目にして、瞳に映して、心に浮かんだ事は、思ったのはただそれだけであった。

 

今この時が、こうしている自分が、あの時の事が、全てが良かったとそれだけしか思えなかった。

 

今、この時に全てが集約されているのなら、この時のためにこれまでの事の全てがあったのなら、そうとしか思えなかった。今ここでこうしている、その姿を目にしている、傍にいる、その事で全てであった。

 

他に何もありはしなかった、その存在、それで全てであった…。

 

シンジの瞳も潤み、その心が、想いが溢れ出してしまいそうになっている。

 

今この時、たとえ一歩を踏み出しただけでも自分の中に込み上げてくる、満たしているものが溢れてしまいそうになっていた。

 

二人はただ、そうしていた。

 

互いの事を、その存在を自身に刻み付けるように、焼き付けるようにしてただ向かい合い、見詰め合っていた。

 

想いが、心が、存在そのものが惹かれ合うように、求め合うように、通じ合っているように。

 

それが許されるのならいつまでも、どれだけの時の流れの果てまでもそうしていたいかのように。

 

時の流れは、二人を隔てる何かにはなり得なかった。

 

そこに二人を阻みえるものなど、何一つとしてありえる筈もなかった…。

 

 

 

 

 

 

予鈴の鐘が鳴る。

 

 

 

 

 

 

瞬間、アスカの体がびくりと震えた。

 

視線はそのままではあったが、自分を取り戻したように大きく目を見開くと瞳孔が小さく収縮する。

 

その一瞬の瞳の変化の後にゆっくりと全身に力が込められ手が握り締められる。

 

眉が逆立ち、表情はそれまでのものとは一転して険しいものになる。

 

視線もそれまでの澄みきった柔らかなものから射るような、刺し貫くような、注ぐというよりは睨み付けるようなものになる。

 

きつく結ばれた口元からは何かを擦りあわせるような、軋むような乾いた音が聞こえてきていた。

 

アスカのその姿は決して許し得ない、自分の存在とは相容れない全否定の対象を前にした者の様相でもあった。

 

激しい感情、全身から撒き散らされる気圧。

 

その全てをアスカは今目の前にいる少年に叩き付けていた、シンジに今の自分の全てを放っていた。

 

シンジはそんなアスカの変化に驚いた表情をした。

 

アスカの様子はシンジの元にも確実に届いていた。シンジは一瞬のその表情の後に自分の心が冷え固まっていくのを感じずにはいられなかった。

 

それまで自分の中にあった暖かなものはすべて消え去り、それにとってかわってあの時に感じていたようなどす黒い嫌なものが広がっていく。

 

シンジにはアスカの変化が理解できなかった。あの時の事を今にも引きずっているのならそれは理解できないでもないが、最初に自分に見せてくれた、向けてきていたあの表情、あの心、あの感じは…。

 

シンジは混乱しそうになっていた。自分の中に蘇ってきたあの時の事、まだ全てを受け入れる事のできない自分、自分の思っているような自分になれていない自分、確実に自分を持ち切れていない自分。シンジは自分が引き込まれていくような、あの時の自分に堕ちていくような感覚を受けていた。

 

しかし、それはやってはならない事。それをしてしまえばあの時からの自分を、少しは何かしてきた事を全て台無しにしてしまうと残された僅かな心でそう思っていた。

 

もし全てが終わっているのなら、全てが手遅れになっているというならそれはそれこそどうしようもない事であった。泣いても喚いてもどうしようもないのならそれは仕方のない事であった。

 

それを最後に確かめるため、自身の全てを賭けてシンジは自身の眼前の存在にそれを投げかける。

 

「…アスカ…」

 

その瞬間、アスカの体が大きく震えた。

 

シンジの自分を呼びかける声にアスカの何かが揺らめきそうになる。

 

しかし、それに反するように大きく肩は動き、表情は更に厳しく激しいものになっていった。

 

僅かに俯いて荒い息を継ぐ。その表情は栗色の流れに隠れて見えなかったが、そこにあるのは人としておよそ美しいとは決して言えないものであった。

 

そんなアスカにシンジは何も言えなかった。

 

微かに感じた揺らめきも、今受けているものを覆す何かにはなりえなかった。

 

アスカが自分を拒んでいる事は瞳に映るその姿から明らかであった。もう既に結論はでているような、そんな気にもなっていた。

 

「…なに馴れ馴れしくしてんのよ」

 

俯いたままのアスカから声が漏らされてきた。

 

その奥底から響いてくるような声にシンジは気押されたように、脅されるようにして体を揺らす。

 

何も言わない、言えないシンジ。

 

そのアスカからの言葉を耳にした時、シンジの頭の中は空になっていた。シンジ自身から全てが無くなっていた。

 

呆然としてアスカの方に目を向けている事しかできない。その瞳には今自分に突き付けられているものしか映されてはいない。

 

そんなシンジに向かってアスカは歩を進め始める。

 

俯いたまま、その表情をシンジに見せないまま。

 

圧するような雰囲気を消して、シンジには何も感じさせないようにしてそこに何もいないかのように、何もないかのようにして淡々とした足取りで近づいてくる。

 

二人の距離が縮まる。互いの姿を映さぬまま、互いの存在を確かめ合わないまま。

 

言葉を交じあわせぬまま、一言も発しないまま二人は互いの存在の傍へとありつつある。

 

刹那、シンジとアスカの肩が線を一にする。

 

「!。アスカ、その、僕…」

 

何かに突き動かされたようにして現実と向き合ったシンジがアスカに顔を向けて言葉を紡ぐ。

 

アスカは自分に向けられたそれに足を止める。

 

しかし、シンジにその表情を向ける事はなく、俯いたまま発したのはたった一言であった。

 

「…別に…好きにすれば…」

 

シンジは言葉を失った。

 

頭の中から全てが消え去ったかのように何も浮かんでこない、何かをしようという意思でさえもかたどる事ができない。

 

空白、それだけがシンジの中を満たしていた。

 

その一言だけを残してアスカは再び歩を進めていこうとする。

 

シンジの脇を抜けて、肩と肩が違おうとする。

 

その瞬間、差し出した足を踏みしめ微かに吐息を漏らした。

 

シンジは、去り行くアスカに視線を追わせようとはしなかった。その場で動けぬまま、アスカのいなくなった虚空にただ顔を向けているだけであった。

 

アスカはシンジから遠ざかっていく、振りかえる事もなしに、留まる事もなしに。

 

それはこの場に来た時と同じ、ただその場から離れたかっただけ。その姿を、シンジの事を目にしていたくなかっただけ、そのためだけに足を動かしていた。

 

シンジの姿を前にしている事は、シンジをその瞳に映している事はアスカにはできなかった。

 

シンジの存在を感じている事は、今のアスカにはできなかった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれだけの時間が経った事だろうか、シンジは我に返った。

 

随分と長い時が経っていたような気がしていたが、それは実際にはほとんど一瞬の事でしかなかった。それを証するように慌ててアスカの過ぎ去った後を視線で追いかけるとまださほど遠くないそこにアスカの去り行く姿が見えた。

 

シンジは一瞬追いかけたい衝動に駆られるが、先程のアスカの事、その言葉、それが心にしこりとなって固まっていてそうさせるのをシンジ自身にためらわせた。

 

「碇君!!」

 

その時、小脇の方から声がかけられた。それは問い掛けるというよりは投げつける、浴びせ掛けるという程に大きく厳しいものが含まれていた。

シンジはその声がした方に振り向いた。そこにはそれまで自分の存在をその場から隠していた、潜めていたヒカリの姿があった。

 

「…洞木さん…」

 

シンジはまた驚いたような表情をしたが、それは先程のものとは比べ物になにない程に薄いものであった。急に声をかけられて驚いた、それと同列にみなされる程度のものでしかなかった。

 

シンジは久しぶりの級友に目をやるが、ヒカリは刺すような、責めるような視線をシンジに向けてきている。

 

それはとても再会を喜び合うようなものではなかった。実際、シンジもヒカリもそんな思いは抱いてはおらずそれぞれの中ではそれぞれの別の思いを抱いていた。

 

シンジとヒカリは互いに色の異なった視線を合わせるが、シンジはそのヒカリの視線に耐え切れなかったのか今この場でのアスカの事についてだろうか、顔をぐっと貶めて何かに耐えるような、とてもではないがこらえきれない何かを必死になって抑えているような表情になる。

 

そんなシンジを見てヒカリは口を開きかけるが、そこから何かが発せられる事はなかった。

 

ヒカリ自身、どうしていいのか分からなかった。シンジにアスカを追いかけるようにと言おうとしたが、それが本当にいい事なのかどうかこれまでの事から確証がもてずにいた。

 

アスカの垣間見せたあの表情、それは本当に綺麗なものだった。これまで時折見せてきたどんな表情も嘘偽りのもの、紛い物、本当のものではないと言いきれる程にその表情は美しく輝いていた。

 

同性であるヒカリ自身でさえも見とれていた。いや、人としてその姿に、表情に心奪われないものはいない、そうでないものはどこかおかしい、そうヒカリに確信させる程にその時のアスカは眩くも儚く、美しかった。

 

しかし、その輝きが収まった後、失われた後、アスカのその姿は…。

 

それが同一人物だとは思えなかった。どうすればこんな事になるのかヒカリには分からなかった。

 

これまでにもシンジの事に触れると気分を害したような表情になりはしたが、それはいつもどこか最後の一線の手前で止められていた。それが表情に現れても全身に漲らせるような事はしなかった。あの姿をみればこれまでのアスカはまだ自分を見失ってはいなかったという事が分かる。しかし逆に言えば先程のアスカは全てを解き放っていた、自分を抑える事もなしに。その全てを露にしてシンジと周囲に対して向けていた。

 

激しい、熱するような、焦がすような視線とその感情を自分の周囲全てに放っていた。

 

それを思うとヒカリは何も言えなくなる。最初のアスカとその次の瞬間のアスカ。それは全く別個のものであり違いがありすぎた。しかし、そのどちらもが本当にアスカだと思えてならなかった。だからどうしていいのか分からなかった。

 

最初の事を思えば後からのアスカのあの態度は本当の心の裏返しだと思えなくもないが、それにしては激しすぎた。その心の内に根ざしている本当のものがあるとしたらあそこまでの事はできる筈がなかった。あれは本当に存在そのものを拒絶の対象にしている者を前にしているかのような姿であった。その視線、その気圧で自己の傍にいる存在を消し去り跳ね除ける、そうしている、しようとしている、それ以外にはとてもではないが見えようも感じようもなかった。

 

もしそうなら、アスカがああなったその根底にシンジの存在があるのならアスカとシンジをこれ以上会わせている事は、同一の場に居合わせている事はこの上もなく危険であった。アスカがどうなってしまうのかが分からなかった。少なくともいい事がないのだけは確かであった。

 

だからヒカリは言いかけてそれを閉ざした。最初に目にしたアスカの姿が実は仇を前にした狂気の喜びに身を任せたものだとしたらシンジに後を追わせる事はできなかった。いや、決してしてはならない事であった。

 

アスカを壊してしまう。少なくとも今小康状態にあるというのに決定的な事にしてしまう。そんな事はとてもではないがヒカリにはできなかった。そんな事になるくらいなら今のままのでいてくれている方がはるかにマシというものであった。

 

だからヒカリは何も言えずに何も知らない自分がそんな事をしてはいけないとは思いながらシンジを責めるような目で見据える事しかできなかった。僅かな自制を心の片隅に感じながらもアスカの様子からシンジとの間になにかあったのは間違いのない事であったからどうしてもそうなってしまっていた。

 

ヒカリはそのまま何かを吐き捨てるようにしてシンジから視線を外すとアスカの後を追いかけ始めた。

 

「待って、アスカ!」

 

もう姿の小さくなったアスカをヒカリは追いかけていく、決して届かぬものを追い求めるように。

 

シンジはその場に残された。

 

僅かに俯き、貶められた、何かに耐えるかのような苦渋の表情を浮かべながらその場から動く事なく身じろぎ一つもできずにその場にただ、独り佇んでいた。

 

何も語らず何もできず、ただそこにいるだけのシンジ。

 

虚ろを照らし出す日差し、その身を過ぎていく時の流れ。

 

それはその場にいるものに確かに自身の存在を感じさせるものであったが、今のシンジにはそれを感じる事はできなかった。その存在は薄くも脆く、そこにあってそこにないような感じになっていた。

 

ふと、右手の指先がピクリと動く。

 

 

 

 

ゴツッ

 

 

 

 

「…っ、くっ…」

 

握り締められた右手の拳が傍らの壁に打ちつけられていた。

 

「…僕は…僕は…」

 

白くなる程に固く閉じられた手のひら、壁との隙間からは紅が滲み広がっていく。

 

「…終わったんだ。もう、全てが終わってしまったんだ…」

 

先程のアスカのあの表情、それは最後の時に自分にその感情の全てを叩き付けてきた時のものをシンジに思い起こさせていた。

 

事実はそれとは微妙に違っていたのだが、かつての事を振り切る事も受け入れる事もできていないシンジにはその事は分からなかった。

 

ただあの時と同じ顔であの時と同じ心を自分に向けている、そうとしか見えなかった、感じられなかった。

 

「…いや、最初から終わってしまっていたんだ、あの時に終わっていたんだ。どんなにあがいても無駄だったんだ、どうにもならなかったんだ…」

 

あの時の事、最後の最後でアスカにしてしまった事、それがシンジの心に巨大な楔となって突き刺さっていた。

 

それが例えどのような理由、事情があるにせよ自分のした事は消える事のない、動かしようの無い事実。どのように口を拭ってみても、言葉を操ってみてもそれは変わる事なく厳然としてそこに存在している現実のものであった。

 

「…僕は許されない事をしでかしてしまっていたんだ。僕がどんなに望んでも、他の誰がそうしてくれても決して許されない罪を…」

 

シンジはあの時の光景をまざまざと思い起こしていた。

 

戦いの中で自分の傍にいた人を、自分と共にあった人を、自分の中に居続けた人を、淡い想いの中にいてくれていた人をその手にかけようとしていた時の事を。

 

自分でもう一度会いたいと想いながら、傍にいたいと願いながら戻ったそのすぐ後に自分のしでかしてしまった事を思い出していた。

 

あの時の恐怖は本当のものであった。あの時自身の中にはそれ以外にはなかった、それは事実。

 

だからといってそんな事が許される筈もない。それまでにあった事、それも決して無視できるものではなかったが、それがあの時にしてしまった事の言い訳になどなる筈もなかった。

 

それをしたのは自分、あの時の先にいる今の自分、その時の事と今の自分を切り離せる訳もなかった。捨てる事も消す事もできない、それは絶対の事実。

 

あの時アスカが自分にぶつけてきたもの、それは間違いなくアスカが自分に対して思っていたものなのであろうが、その源にあるのが善意にしろ悪意にしろそれは碇シンジという人物の一端を捕らえていた。それが全てという訳ではないが、根幹をなしているものである事は間違いなかった。

 

それは自分自身が誤魔化していた事、目を向けようとしていなかった事、それをアスカは突きつけてきていた、いや、突きつけてきてくれていた。それをしてくれなければ自分はいつまでも変わらぬ自分でいたかもしれないというのに、自分の嫌いな自分のままに…。

 

今の自分、ほんの少しだけれども、僅かだけれども自分の中に何かを持つ事ができるようになっている自分、手にする事ができるようになっている自分。そんな自分がシンジには嬉しかった、少しは自分というものが持てるようになれた事が嬉しかった。

 

あの時の事を経て今の自分になれた。少しは自分の事が好きに、大切に思えるような自分になれた。それをくれたのは、そうさせてくれたのはあの時に心と心をぶつけあったアスカだというのに。

 

そのアスカを自分は手にかけようとした、自分のエゴをむき出しにしてその存在を消そうとした。許される筈がない、その事から自分が解放される訳もない。

 

その楔は生涯自分に打ち込まれたまま決して解き放たれる事はない。シンジは自分のしでかした事の大きさに、その深さに今更ながらに打ちのめされていた。

 

「…でも、でも僕は…」

 

シンジに刻み込まれた、自分で自分に刻み込んだ刻印、それは決して消えるものでも癒されるものでもなかった。

 

しかし、その事とは別にしてシンジの中には確かに存在しているものがあった。

 

それは自分のしてきたどのような事実も、それに対するどのような理屈も観念も越えたシンジ自身の想い…。

 

それが一体なんなのか、それをはっきりと認識する事、言葉にする事はシンジ自身にもできなかったが、それはシンジ自身の中に確かに息づいていた。

 

シンジ自身を照らす仄かな明かりのように暖かにそこに灯っていた。

 

だからシンジには全てを捨て去る事ができなかった。外に向かってその想いに基づく何かを行使する事はシンジ自身の意識からする事はできなかったが、それを自分の中で暖め持ち続ける事はできた。いや、それと意識する事なく持ち続けてしまっていたし捨てる事も消し去る事もできはしなかった。

 

それはアスカが自分に持たせてくれた、手にさせてくれたものだから…。

 

今の自分になるために自分を支えてくれた、自分の中で育んできた大切な大切な想い、心の形。

 

だからシンジは思う。アスカとの事はもう自分にはどうする事もできない事、自分のしてしまった事に全ての源があるのだから。アスカが自分を拒絶するのは当然の事だし、それだけの事を自分はしでかした。その結実がこれだというのなら本当に悲しいし本当に嫌だし、本当に辛いけれどもそれは受け入れなければならない、受け止めなければならないと。

 

だが自分が特にアスカに対して何もしないのなら自分の中にあるものを持ち続けるのは、そのくらいなら許されるのではないのか、許して欲しいとも思っていた。自分の中でその想いを秘める事だけは許して欲しいと思っていたし願ってもいた。

 

それすらも許されなかったら自分はどうなるか分からない。今のこの時に自分というものを形づくっている事でさえもできはしないのではないのかと思えた。だからこの想いだけは決して知られてはならない、自分の中の奥底に沈めて本当に秘めたものにしなければならないと、そうも思っていた。

 

自分とアスカにとってそれが一番いいのではないのかと、シンジはそう思った。そしてそれは確信に変わる。

 

「…アスカ…僕はもうアスカには関わらないよ。だから、だからこれくらいはいいよね。僕にとって本当に大切なものだから…」

 

シンジはここにはいないアスカに語り掛けるようにして、自分に言い聞かせるようにして言葉を紡ぐ。

 

それは苦渋に満ちた、自分の全てを押し殺しているような、そんな響きに満ちていた。

 

シンジの全身には何かに耐えるように力が込められ、小刻みに震えていた。顔はこれ以上ないくらいに俯きどこまでも堕ちていくような、そんな感じがしていた。

 

そして、これが最後だとでもいうように、心の中にあるものがその口から漏らされる。

 

 

 

 

「…アスカ…」

 

 

 

 

それはシンジの心が覆われた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

走る、走る、走る。

 

何かを振り払うかのように、何かから離れたいかのように。

 

そこに居てはならないかのように、まるで自分をせきたてるように、それが今自分のできるただ一つのことであるかのように。

 

乱れる息も高鳴る鼓動も気にならなかった。

 

手が、足が、勝手に動いていた。

 

例え限界がきたとしても止まらないかもしれない、それに気がつかないかもしれない。

 

その足が止まる事、その動きが止まる事、それは今この時にはありえなかった。

 

流れ行く風景も目の前の光景も関係なかった。

 

アスカはただひたすらに駆け続けていた。

 

「(…何を、何をしているの?。アタシ…)」

 

それはあの時の事、シンジと相対した時の自分の事。

 

「(…どうして、どうしてあんな事。あんな事を言うつもりなんてなかったのに…)」

 

アスカはその時の事を振り返る。少し前の校舎裏での自分の事を。

 

そしてそれと共にアスカの心にはあの時の事が思い起こされてきていた、最後の戦いの時の事が。

 

それまでに自分自身がしてきた事の結実、その結果。自分が共にいた、一緒にいた少年との最後の情景がアスカの心の中に映し出されていた。

 

それを思う時、少なからずアスカの心は波をうった。心がざわめき胸を締め付けられるような感覚が走りぬける。

 

「(…分かっている、分かっているのよ。あの時はどうしようもなかったって事くらい、他にどうする事もできはしなかったって事くらい…)」

 

アスカの心は揺れながら沈んでいく。それは校舎裏で激しく動いた後の反動であるかのように、ゆっくりと、しかし、確実に深淵へと向かって堕ちていく。

 

「(…アイツは、シンジは悪くなかった、シンジが悪い訳じゃなかった。シンジはシンジなりに必死にやっていたもの。自分が望みもしないのに押しつけられて、自分の事を自分で決めさせても貰えずに状況に巻きこまれて。命を、自分の全てを他人に奪われて…)」

 

アスカの心は時を遡っていく、それは不規則に乱れ整然としたものではなかったが、アスカ自身、これまでにした事のなかった自分自身への邂逅をしていく。

 

「(…アタシもシンジも必死だった。あの時、自分達の全てをかけていた時、激しくなる戦いの中でアタシ達は次第に余裕を無くしていき自分の事だけで精一杯になった。それ以外に何もなくなってしまっていた…)」

 

アスカは淵に辿りついた、自分の中に横たわるそれを少し離れたところから眺め渡す。

 

「(…今なら分かる。シンジはただ自分を守ろうとしていただけだった、自分を保とうとして必死なだけだった。何の力もない、何もない自分にどうにかしようとして、あがいて苦しんでいた。シンジが悪かった訳じゃない…)」

 

アスカの中にあるそれは時の流れと共に幾分昇華されているようであった。それがアスカにそれと向き合えるようにしていたのだが、アスカ自身の主観による改竄、美化もされていた。アスカのそうあって欲しいという希望的観測がアスカにとっての真実となっていた。

 

「(…アタシもそうだった、必死だった、全てをかけていた。その事には誰にも何も言わせない、決して譲れない。アタシ達に何か言えるのはアタシ達自身だけ、他には誰も許さない…)」

 

アスカの心はそれを映し出していく、自分が味わった事を、自分が味あわされた数々の事を。

 

「(…でもアタシは自分を保つ事ができなかった。亡くしてしまった、自分を捨ててしまった。シンジは自分自身でいられたというのに、戦い続けていたというのに。自分と周りの全てとをアタシは投げ出してしまった、自分を含めた全てを…)」

 

アスかの心は怯みを感じずにはいられなかった。それはアスカのこれまでの人生の中で最も辛かった時期の内の一つ、それを目にしただけでも、感じただけでも怯えずにはいられなかった。

 

しかし、それはしなければならない事。アスカは更に自分の心を進めていく。

 

「(…シンジは、シンジは悪くない。最後の最後まで戦い続けていたシンジが悪いだなんて誰にも言えない。悪いのは巻き込まれた状況、それをつくった、それをどうしようともしなかった周りにいた大人。何もできなかったアタシ。シンジ以外の周りにいた全ての人達…)」

 

少しづつ少しづつ、アスカはその深みへと入っていく。自分が乱れないように、平静を保ったままでいられるように。これ以上の混乱にアスカは耐えられる自信がなかった。

 

「(…でも、でも嫌だった。あの時のシンジは嫌だった。傍にいるのに頼ろうとしなかったけど、何も頼もうとしなかったけど、嫌いじゃなかったけどそれでもあのシンジは嫌だった…)」

 

媚びるような目、おどおどとした態度。シンジは何をしたという訳ではないが、その時のアスカにとっては不快の源のような存在であった。

 

何もしない事、それこそがアスカがシンジを嫌だと思わせていた。

 

「(…アタシもシンジも子供だった、何の力もない無力な存在だった。周囲の状況に自分達の事でさえもどうする事もできなかった。どうしようもなかった、それは分かっている。でも、それでもあの時の、あの時のシンジだけは…)」

 

アスカの心の奥底にあるもの、それはあの時の状況とシンジの事を考えあわせてアスカ自身にそれを理解させようとする。

 

あの頃、シンジはアスカを含めた周囲の状況から次第に自分の中にある可能性を失いつつあり、過去の自分だけを、それも悪い形で出す事しかできなくなっていた。

 

それは誰かが、普通であれば親が導いてやるべきだったのだが、シンジの周囲にはそんな人は誰もいなかった。シンジ自身も内へと篭り誰かを頼みにするような事はしなかった。

 

それはアスカにも分かっていた。しかしそれはアスカ自身も同様だった。それが為かアスカにはそんなシンジを許す事ができなかった。

 

シンジに対してアスカは後ろ暗いものも持っていた、その反動もあってかシンジに対して頑なにもなっていた。

 

「(…一連の戦い、崩れていく自分自身、アタシ達。周りには誰もいない、傍にいるのはアタシ達だけ。アタシ達はアタシ達自身を互いに一番見ていた。それは間違いのない事だと、そう思う。少なくともアタシはシンジを一番見ていた…)」

 

アスカはシンジを、シンジはアスカを見ていた。それは間違いの無い事実。しかし心に映っていたかどうかは分からない。

 

その時の二人の事はそれこその時の二人だけのものだが、当人であるアスカにはその時の事を見つめ直す事ができた。今そうしているように。

 

その時のアスカの心は今となってはアスカ自身にさえも正しくは分からないが、少なくとも今のアスカは間違いなくその時のシンジの事を一番見ていた、見詰めていた。

 

「(…自分の中で苦しみながら、もがきながら何もしない。ただ耐えて流されていくだけのシンジ。全てを自分の中にためて自分の中に向けて、それを受け入れる事もしなかったシンジ…)」

 

だからアスカには分かっていた、他の誰よりもシンジの事が。

 

「(…自分を表す事もせずに理解されようとしない。他との距離を適当にとって踏みこんでくる事も離れる事もしようとしない。何かを与える事も与えられる事もしようとしない…)」

 

シンジ自身にさえも、いや自分だからこそできない心の奥底、そのありようを見つめる事ができていた。

 

「(…傷つけられる事が怖くて、でも誰もいなくなるのは寂しくて、もっと怖くて。傍にいれば傷つけ傷つけられるからそれが嫌で怖くて、ただそこに自分があるだけ、ただそれだけ。それが全てだったシンジ…)」

 

否応なしに感じるもの、心が感じてしまうものと共にそれは分かっていた、分かってしまっていた…。

 

「(…全部自分が悪い事にしていた。なにかあればすぐに謝っていた。自分の存在を消される事を恐れて、他人に受け入れられなくなる事が怖くて…)」

 

それを思う時、アスカの心に微妙な感情が疾る。

 

それはアスカの心に波風をたててアスカ自身を乱そうとする。

 

しかしアスカはそれを心を強く持って抑えた。これは受けとめなければならない事、見つめなければならない事、今はまだ自分に負けるわけにはいかないと自分自身に言い聞かせながら。

 

「(…そんなシンジが嫌だった。それがシンジの全てだとは思わなかったけれどもその時のシンジはアタシにそんなところばかりを見せていた。だからアタシはシンジの事を嫌いはしなかったけれど疎みはした。シンジのそんな部分をアタシは受け入れる事も認める事もできなかった…)」

 

離れ始めた二人、戦いが激しくなり始めた頃。

 

嫌な事がたて続けに起こってきていた。二人をとりまく周囲の状況は二人の間を切り裂くように作用していた。

 

そして、二人自身もまた、互いに癒し合い、互いに支え合える事はなかった。

 

それどころか、直接的ではないにしても、互いが互いを傷つける事さえもあった。

 

傍にいた二人、だからこそその傷はどんなものよりも深いものになっていた。

 

そしてそんな二人は、アスカは激化していく戦いの果てに…。

 

「(…そしてアタシは自分を失った。傍にいたというのに、互いの他には何もなかったというのにシンジから離れた。自分から遠ざかったアタシは一人になって耐える事も止める事もできずに壊してしまった。…無くしてしまった、自分を…アタシ自身を…)」

 

自己破壊、アスカは自分で自分を壊してしまった。

 

自分が生きるために自分で築き上げていたプライド、それはいつの間にか自分の内にあって自分を高めるものではなく外にあって自分を形どっている自分自身そのものになってしまっていた。

 

自己存在の確立のなさ、エヴァというものにかけた存在意義は自分のありようよりも頼っていたそのモノにこそ左右された。

 

だからそれを失った時、エヴァに乗れなくなった時、アスカの存在はそれと共に失われ壊れてしまった。

 

「(…でもそれだって別にシンジが悪い訳じゃない。シンジは関係すらしていない。勝手に壊れたのはアタシ、全部自分でやった事。シンジは悪くない。悪かったのはアタシ…)」

 

その後アスカは廃墟のバスタブの中で発見された。

 

頬はこけ、濁った何も映さない瞳で虚空を見つめていた。

 

その心にあったのが何なのか、それはアスカ自身にでさえも分かりはしなかった。

 

ただ発見された当初は何事か小さなつぷやきを時折漏らしていたという。

 

そしてアスカは病院に収容された。

 

脳神経外科303号室。

 

そこがアスカの新しい置き場所であった。

 

「(…そして最後の戦い。アタシは自分を失ったままエヴァに乗せられた…)」

 

巻き起こる人と人の戦い、人自身を守る筈のそこは血で血を洗う殺戮の巷と化した。

 

「(…響く爆音、震える空気、打たれる体、死の恐怖。アタシはその中でママの存在をエヴァの中に見た、感じた…)」

 

溢れる光、暖かな心。

 

アスカが自らを閉じ込め死の淵に瀕した時、エヴァから生じた仄かな灯りはアスカを優しく暖かく包み込んだ。

 

「(…甦る心、自分を取り戻したアタシ。アタシを見てくれていた、守ってくれていたママ。アタシは再び戦いへと赴いた…)」

 

空を舞う白いエヴァ、降り立つ九体、アスカの前に現れた、敵。

 

「(…でもアタシはそこでも負けた、勝てなかった。自分自身も大切なものも、ママを、守れなかった…)」

 

自分を貫いた槍、地に倒れる身体。

 

群がり、喰いつくしていく、敗者に残すものなど何もないとでもいうように。

 

「(…奪われた、失ってしまった。何もかも…)」

 

母親との再会、逢瀬、その直後にその場は略奪の地と化した。

 

アスカは失った、母親と自分自身の心と身体を同時に。

 

「(…そして世界は一つになった、全ての人が一つに。そこでのシンジとの再会。そこでシンジは初めてアタシを求めてきた、縋ってきた。全てを失った、疲れ果てていたアタシに…)」

 

甦る心象風景、その時アスカの心にはあの時の光景が映し出されていた。

 

疲れきった自分達の顔。アスカはシンジを、シンジはアスカを思いやる余裕などその時には欠片程もありはしなかった。

 

久しぶりの再会は最悪の形で行われアスカの心にはそれを喜ぶどころか自分の前に現れた少年に対する嫌悪の念しかなかった。

 

「(…そんなシンジをアタシは受け入れなかった。拒絶した、徹底的に。否定もした、シンジの全てを狂気に犯された心で…)」

 

その時の事を見つめるアスカの心に細波が疾る。

 

歪んだ表情、醜い心、その全てをアスカはシンジに叩きつけていた。

 

そこにどんな理由があろうとそんな事が許される筈はない、どんな事があったとしてもそれは人としてしてはならない筈の事。

 

アスカの心は言いようの知れない痛みと悲しみに揺れた、それはその時の自分とそんな状況に追いこまれなければならなかった自分自身の定めへの憐憫だったのかもしれない。

 

「(…そして戻ってきた直後、シンジはアタシを…)」

 

赤い水をたたえた湖のほとり、アスカとシンジは並んで横たわっていた。

 

周囲の風景には最早何もなかった、ただ赤い光景が広がっているだけだった。

 

シンジがふと、視線を巡らす。

 

アスカは虚空を見つめる暗く澱んだ瞳を微かにも動かそうとしない。

 

シンジがアスカの上にまたがる。

 

その蒼白といってもいい程に白い首に手をかけ力を込めた…。

 

「(…でもそれだってシンジが悪い訳じゃない。そこまでの事をシンジにさせるようにしたのはアタシ。追い詰められたシンジをアタシは認める事も受け入れる事もしなかった。それどころか更に追いつめた、狂った心で…)」

 

シンジにそこまでさせた、そこまでの恐怖を与えたのは自分だとアスカは思った。

 

人に対して何かを恣意的にやろうとは決してしていなかったシンジがそんな事をするなど余程の事だったのだろうともアスカは思う。実際、あの時のアスカはそこまでの事をシンジにしていた。

 

しかしそれはアスカにしてみても仕方のない事だった、シンジが自分に対して思っていたのと同じ事をアスカもシンジに対して感じていた。

 

「(…あの時のシンジは本当に嫌だった。憎んでさえもいたのかもしれない。でもあの時のアタシもシンジも普通じゃなかったって今ならそう思う。だから今、シンジの事を嫌う事も憎む事もない。アタシの中にそんなものはありはしない。ただあの時のシンジが嫌だっただけ。ただそれだけ…)」

 

それが果たして事実であったのかどうかは誰にも分からない、それがあの時の事を体験した今のアスカであったとしても。それが分かるのはその時のアスカとシンジだけであった。

 

しかしその時のアスカがどのように思ったのかその事実が奈辺にあるのかどうかはともかく、少なくとも今のアスカはそう思っていたし願ってもいた。

 

その思いが本当の、心からのものであるかどうかでさえもアスカ自身分からなかったが、その願いが本当に自分の心からのものであって欲しいと自分自身に対して祈るような気持ちでいたし望んでもいた。

 

それが自分のどのような想いからきているものなのか気づきもせずに、思い到ろうとする事もなしに…。

 

「(…最後にシンジがアタシにした事も、その手にかけようとした事ももういい。あの時シンジは止めてくれたのだから。心からの恐怖、完全な拒絶の中でさえアタシがそれと望んだ時にちゃんと応えてくれた、止めてくれた。今こうしてここにいるアタシ、そしてシンジ。それでいい、そう思う…)」

 

アスカの心は次第にあの時の事から今の自分へと、今現在の自分の元へと戻ってくる。

 

あの時の事はあの時の事として、その時に自分がどう思ったのかはともかく今の自分がシンジに対してどういう思いを抱いているのか、そこに思いを巡らし始めた。

 

アスカの心はあの時に感じていた事を今に引き継いではいなかった、少なくとも今の時点ではアスカにはそう思えていた。

 

だからなのか、アスカは今の自分の事を、その心に抱いているものを感じようとしていた。シンジに対してあの時と同じ快くないものをその胸に抱いているとすればそもそもがそんな事はできなかっただろう。

 

それができるのなら自分の中にあるシンジへの思いがどのようなものであるのか、それをアスカは知りたかった。自分の中で自分のものとして感じたかった。

 

「(…アタシはシンジの存在を否定したりはしない。今のシンジを嫌う事も憎む事もしない。あの時の事を今とつなげる事なんてできない。あまりにも過酷な状況、狂っていたアタシ達。そんな中にいたシンジを、それが本当にシンジだと思う事はアタシにはできない。もしかしたらそれは全てではなくてもシンジの側面の一つだったのかもしれないけれどもそんな心の暗い部分なんて誰でも持っている、あの時のアタシは正にそうだった、アタシ達は同じだった。そんな所ばかり表にだして、露出させて、それがアタシの全てだなんて、シンジの全てだなんてそんな事絶対にない。アタシにだって自分でそんな事は言えないのかもしれないけれどもいいところはあるんだって、あんな部分ばかりじゃないって、そう信じている。シンジだってあんな部分ばかりじゃないって、いいところだっていっぱいあるって信じている。だってアタシはシンジの事を一番よく知っているから。そう、信じている。シンジの事、信じている…)」

 

その事を思う時、アスカの心は揺れていた。

 

今アスカが思った事、それはシンジがそうであるという事実というよりはむしろアスカの思い描いている望み、願いというものであった、シンジがそうであって欲しいという。

 

その事はそれを思ったアスカ自身にも分かってはいた。それが何らの根拠もないただの自分の願望、希望的観測にしか過ぎないという事が。

 

しかしアスカはそう思いたかった、願いたかった。

 

あの時の事が自分とシンジの全てだなどとは思いたくないし耐えられるものではなかった。

 

「(…いつも一緒にいた、傍にいた、心をぶつけあった。そして互いの存在を感じ合えていた。でも、だからってシンジの全てが分かっている訳じゃない。そんな事はあり得ないのかも知れない。でもシンジの事を一番良く分かっていると思う。他の誰よりも傍で見ていたのだから、感じていたのだから、心を感じる事ができたから…)」

 

その想いは暖かくも穏やかに、アスカを満たしていった。

 

人の事を想う時、いや、アスカにとってはシンジの事を想ったからだろうか、それはアスカ自身の内に心地いい優しいものをもたらしていた。

 

どうする事もできない嬉しいようなもどかしいような、そんなうまく言葉にはできない何かをアスカは自分一杯に感じていた。

 

その想いに自分の全てを委ねてしまいたい、そんな思いさえ抱かずにはいられなかった。

 

今、アスカはシンジの事を想い、感じていた。

 

「(…だから信じている。シンジの事、アタシ信じているよ。シンジ…)」

 

今その場にはいないシンジに語り掛けるようにして思いを告げる。

 

それが、今のアスカの全て。

 

アスカはシンジの事を信じていた…。

 

「(…でも…)」

 

全てがシンジの事で満たされていた心に翳りが宿る。

 

その瞬間、アスカの身体は宙を舞った。

 

「あっ!?」

 

小さく声を上げて身体が地面に打ちつけられる。

 

かろうじて反射的に顔はかばったが、受身をとる事は全くできなかった。鈍い音がして息がつまる。

 

意識が混濁しそうになる程の衝撃、アスカは必死になってそれを抑えた。

 

自身の全部で耐えていると少し落ちついてきた、無意識に面を上げる。

 

そこでアスカは初めて周囲の状況に目を向けた。

 

倒れたのは整地されていない地面の上、周囲には誰もいなくて緑の芝生が外縁を囲んでいる。

 

どうやら自分でも意識しないままに走り続けていたアスカは学校の外に出て、このどことも知れない公園にまでやってきたようであった。

 

周りに人の気配がなかったのは幸いであったろうか、少なくとも無様に大仰にひっくり返ったところは誰にも見られなかったようだ。

 

しかしそんな事は今のアスカにはどうでもいい事だった。そこに誰がいようとも気にするような状態ではなかったしそんな他人の目など関係のない事以外の何ものでもなかった。

 

アスカは少しの間うつ伏せに倒れたままでいたが、やがてゆっくりと緩慢に身を起こす。

 

真新しい制服は土埃にまみれていた。それはまるで汚れを知らぬものが汚されたような喪失感をそれを目にするものに、あるいはそれを身に纏っているものに与えずにはいない。

 

手も足も埃にまみれている、擦りむいた個所から赤い流れが湧き出し周囲を鮮やかに彩っていく。

 

赤い光沢を帯びた栗色の髪はほつれて乱れ放題に乱れていた。全身から汗が吹き出し纏っているものはそれを吸って重くなる程に湿っている。

 

今もまだ額や首筋から幾筋も吹き出してくる汗が流れていく、息はこれ以上はない程に浅く速くその間に一言でさえも差し挟む暇をも与えはしないようであった。

 

アスカは暫くの間、呆然としたようにしてその場に佇んでいた。

 

薄汚れた服装、乱れきった身なり、そんな人には決して見せらないような姿のアスカではあったが、降り注ぐ陽光の中に照らし出されたその容貌はそれでもなお美しかった。

 

乱れた髪は光の粒子を乱反射させ幻の中にいるかのような雰囲気を醸し出し、汚れたその姿は凄惨な美をそれを目にする者に感じさせずにはいない。

 

透明な流れがアスカの脇を通りぬけ、栗色の髪を揺らしていく。

 

過ぎ去りしそのものはアスカを優しく包み込み、意識を誘うようにして消えていく。

 

それに従うようにアスカはその流れに身を任せ、ゆっくりと歩を進めて芝生の木陰へと入っていった。

 

木の茂りの隙間から落ちてくる陽射しはアスカの身体に光と陰の模様を映し出す。

 

一つの木の身に背中を預けてアスカはずり落ちるように、崩れるようにしてその場に身を落とした。

 

力なくうな垂れる頭、全身は糸のきれた人形のように砕けてその全てを自分の背後にあるものに委ねきっている。

 

「…でも…」

 

ポツリとアスカの口から言葉がもれた、止まっていた思考は全く同じそこから再開される。

 

「…でも、だったらどうして?。どうしてアタシはあんな事…」

 

その全てが抜けきった身体に僅かにだけ意思が込められ両腕が両膝を抱え込む。

 

「…せっかく会えたのに、二年も会えなかったのに。アタシとあの時を、同じ時を共有できたたった一人のヒトなのに。もう嫌っても憎んでもいないのに、どうして?…」

 

その心から溢れ出した感情が全身を駆け巡り、それはアスカ自身を小さく震えさせる。

 

「…信じているのに、それなのに。どうして?、どうしてなの?。アタシ、アタシ…」

 

アスカの心にはあの時の少年の顔が、再会を果たした少年の姿が映し出されていた。

 

「…分からない、分からないよアタシ。自分がどうしていいのか、どうしたらいいのか、どうしたいのか分からない、分からないよ…」

 

何かに耐えるように、自身を抱くように、自分の存在を確かめるかのようにアスカの両腕に力が込められその面を自分の腕の中にある両膝に埋める。

 

「…いや、もういやぁ。こんなのないよ、こんなの、こんなのって、アタシ、アタシ…」

 

アスカの心は混沌として乱れ、自分自身でさえもそこにあるのが一体何なのか、一体何を望んでいるのか、何を求めているのか分からなくなっていた。

 

ただ自分でも意識する事のできない、自覚する事のできない、そんな混乱した中でも決して揺らぐ事のない確かにそこに存在しているものがその口から漏らされた。

 

それこそが今のアスカの中にあるただ一つだけのもの。アスカ自身の、どんな事をしても、何をしても、何があっても変わる事のない真実、アスカの心が求めているもの。

 

アスカ自身、それと気づかずに、意識する事もなしに、自覚する事もなしにその言葉を口にしていた。

 

 

 

 

「…シンジぃ…」

 

 

 

 

その頬に、雫は流れていなかった…。

 

 

 

 

 

 

<第三話 了>

 

 

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