Rambler

第四話 闇衷

 

 

第四話 闇衷



2000.3.6



静寂に沈む部屋、昏い深藍に染まる空の彩を通す窓。

 

誰がいるともないないとも分からないその室内、およそ無機的に硬質に過ぎる空気。

 

全く動くものとてないそこには何か意思あるものの存在が感じられなかった。

 

窓で隔てられた外界は次第にその色を濃くしつつあり、あと幾ばくかの時が経てばその懐にいる全てのものに眠りと安らぎをもたらす深淵となるだろう。

 

それを受けてその部屋も薄墨を溶かし込んでいくように陰りを満たしていく。

 

何も動かないそこで、ただ時だけが流れ過ぎ去っていく。

 

僅かに時を告げる時計の仄かな明かりがうっすらと浮かびあがっているが、そこにあるそれ以外のもの全てはそれこそ時の流れから外れたようにしてただそこにあるだけであった。

 

そこには一人の人が生活していくにはそれなりに十分な広さがあった。

 

およそ十畳程度の洋間、窓は南向き、床はフローリング、壁は木目調で統一されている。

 

窓と向かい合っている壁に扉があり、それを除いた一面にはクローゼットが設えてあった。

 

形はやや縦長で扉から見て奥の方に調度品の類が置いてある。

 

機能的に整然と配置されているそれらはこの部屋の住者の人となりをあらわしているようであり、過ぎるくらいに整頓されている室内は清潔感と清涼感とを感じさせずにはいない。

 

そこにある室内具のほとんどは控えめで落ちついた感じでもあったが、どこか華やいだ感じのする柔らかなものばかりでここの住居人はどうやら女性、それもまだ若い、どちらかというと少女のようでもある。

 

しかし、そこにある物自体はそんなに数がある訳ではなかった、どちらかというとかなり少ない部類に入る。

 

机とベッド、それに鏡台。そんなものしかなかった。

 

およそ趣味・娯楽のものは全くない。テレビもラジカセも、そうした生活必需品でないものは一切なかった。

 

何もない部屋、暗く沈みつつある室内、静寂に満たされたその空間。

 

室内で唯一動いているのはデジタル表示の時計だけ…。

 

僅かな灯しが微かに明滅し、それが次に進んだ事を誰もいない周囲に告げる。

 

窓にかけられたブラインドの隙間から冷たい、青白い斜光がもれてきた。

 

ベッドの上に投げかけられたそれがぼやけた光と影の線を窓の形に区切られた枠に落とす。

 

その僅かに訪れた変化はそこにあるものの形を薄く浮かび上がらせた。

 

陰影に縁取られた形が青と黒の映像のように儚く朧げに映し出される。

 

ベッドの隅に人のカタチがあった。

 

部屋自体が作り出す翳り中に隠れるように、沈むように一人の人影がベッドの隅、部屋の角にわだかまっていた。

 

膝を抱えて小さくそこに存在していた。

 

いつからそこにいたのか、いつまでそうしていたのか、それと分からない程にその人影はこの何もない、物しかない虚ろな空間においてその存在を溶かし込んでいた。

 

あまりにも違和感なくこの中でそうしていた。

 

微かとも言える照らしにその身なりが暗がりの中に栄える。

 

濃紺のジャケットとチェックのブリッツスカートの組み合わせはどこかの制服のよう。

 

まだ仕立ての新しいそれは、しかし、ほこりにまみれて薄汚れていた。

 

自分で自分の身体を抱くようなその姿勢から僅かに覗く手足には酷いすり傷が擦り付けられている。

 

未だに鮮やかなその傷口もほこりに汚されており、それを負ったその時から何らの手もつけられていないようであった。

 

両腕で両膝を抱え込み小さく背中を丸めているその姿、俯き自身の両膝にあてられているその顔にどのような表情が浮かんでいるのかは他から伺い知る事はできない。

 

肩から腕に流れる赤みがかった栗色の髪はばらばらにほつれあるいは流れるように、あるいは絡みつくように彼女自身にまとわりついている。

 

その人影、少女はそこにそうしていた。

 

他に誰もいないそこで、もしかしたら自分でさえもいないそこで、そこにある物達と共に決して動く事のない、変わる事のない硬化した暗がりの中でその存在をそこに置いていた。

 

他の誰かがそうとしない限りいつまでも崩れる事のない、凍てついた空の中で自分の身体を抱き固めていた。

 

自分で自分をモノにしたいように、させるようにして。

 

アスカは、果てのない暗闇の中にいた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時、シンジにはどうする事もできなかった。

 

去り行くアスカに声をかける事もその意を向ける事もできずに、ただ見送る事だけしかできなかった。

 

自分の中にあるものを伝える事もアスカの胸の内にあるものを感じる事もできずに、ただ壁に向かってその満たされぬものをぷつけるという愚かで虚しい事しかできなかった。

 

その報いは間違いなくもたらされ、今その身を一欠けらの情もなく打ちのめされている。

 

シンジはただそれに唯々諾々して打たれ、ひしがれるしかなかった。

 

それが自らに定められた事であるかのように、それ以外にどうする事もできないように、それより他には為しようがないかのように。

 

それは、それまでに彼が辿ってきている事をただ反復しているだけのようでもあったが、僅かに違うところがあるとすればその事から自分の内に何かを持つ事、形作る事ができたという事であろうか。

 

ただそれが果たして自分と傍にいる人達、何よりも彼自身にそれをさせた、もたらした人にとっていい事であるかどうかは判然としていなかった。少なくとも彼とその相手に何かをもたらすものではない事だけは確かであった。

 

それが彼に分かっていたかどうかは分からない。しかし、シンジはそれを自分の中で決めた。

 

彼がした事に対する報いは彼にそれ以外の事を思わせる事も持たせる事も許しはしなかった、彼にはそれ以外にはどうする事もできはしなかった。

 

だからシンジは決めた。それが自分の本当に望んでいる事なのか、それが自分と自分の心の中にいる存在にとっていい事なのかどうかも計りきれないままに。

 

自分の本心かどうかも分からないのに自分の本心だと、それが一番なのだと、自分と相手にとってそれ以外にはないのだと心の表面だけでそう言い聞かせて。

 

自分自身が本当は何を求めているのか、何を思っているのか、何がその心の中にあるのか、知る事もなしに、感じる事もなしに。

 

「…当然だよ…」

 

シンジは俯いたまま、誰に言うともなしにポツリと呟いた。

 

「…そんなの、分かりきっていた事じゃないか。僕があの時に何をしたのか、こうなるのなんて当たり前の事じゃないか…」

 

その口調は全く自分を蔑むものに違いなく、それがかつての自分のものと何ら変わりのない事にこの少年は気がついているのだろうか。

 

今のこの状況を自分にもたらした、かつての自分自身と同じだという事に…。

 

「…あの時僕は何をした?。僕はこの手でアス…彼女を…」

 

シンジはその名を言いかけて途中で止めた。

 

それは既に口にする事でさえもできはしない畏敬の対象になっていた。

 

シンジは自分の中でそう決めていた。自分で自分にそう思い込ませようとしていた。

 

「…それが僕のした事への報いなんだ。彼女の事を求めながらそれが自分の都合のいいようにいかないからって、彼女が自分の思う通りにならなかったからって、拒否されたのが…拒絶されるのが恐くって、やってはならない事をしてしまった…」

 

シンジの体も声も小さく震えていた。

 

それが自分のした事への罪の意識からくるものなのか、かつてと同じただ自分が他人に受け入れてもらえない、一人になる、自分の存在がその中から消される事を恐れての事なのか、そのいずれなのかはシンジ自身にさえも分かっていなかった。

 

「…僕は自分の都合のいいように忘れようといていただけじゃないか。あの時した事は決して消えないのに、彼女が僕の事を嫌っている事が分かっていたのに、それでも縋ってしまって。自分が辛いからって、寂しいからって、そんな自分の都合を彼女に押し付けようとして、それで拒絶されたからって…」

 

その心は奈落へと、堕ちてゆく。

 

「…最低だよ。わがままでずるくて臆病で、自分一人しかいない。本当に、彼女の言う通りだよ…」

 

かつてあの時自己に向けた嫌悪と憐憫の言葉をシンジは今この時も口にしていた。

 

それはこの少年が未だにかつての自分から脱却、変われていない事を示している象徴でもあった。

 

今少年の心はあの時と同じに自己を傷つけ、その事に関わる全てのものをより深く傷つけようとしている。

 

彼自身が口にした自分しかいない、その言葉、そう思う事自体が既にして自分の事しか考えていないという事に気がつく事もなしに。

 

「…そんな僕が何をした?。そんな最低な僕が世界を破滅に導いて、元に戻る事を望んで、他人の存在を望んで、戻って、唯一傍にいた人を…彼女を…」

 

心から吐き出される自虐の念はその表情にもありありと現れていた。

 

シンジ自身、あの時の事に深く捉われ、その事がまた更ならる深淵へと心を誘い沈めこんでいっていた。

 

あの時、シンジが自らの意思をもってあの世界規模の人災を導いたかどうかは彼自身を含めたそれぞれで見解の異なる事であろうが、その時シンジがそこにいて重要な要素であった事は間違いのない事であった。

 

シンジならばその事を引き起こす事ができたであろうが、その他のものではそれができたかどうか分からない。

 

その事実がシンジにあの事に対する重すぎる責任と深すぎる罪悪とを背負わせ刻み付けていた。

 

シンジ自身、その事に対しての罪の意識も嫌悪感も消す事も受け入れる事も拭い去る事もできていなかった。到底できるものではなかったしできそうでもなかった。

 

その事に関わる全てのものに対して自分自身に罪と罰を背負わせていた、そこに罪を負わせるものも罰を与えるものもいはしないというのに。

 

「…そう、僕にはもうそんな事なんてできない、最初からできる筈がなかったんだ、もう終わっていたんだ。あんな事になってしまって、してしまった時に終わっていたんだ、生きていたって仕方がなかったんだ。何かを持とうだなんて、自分を持とうだなんて、そんな事できる筈がなかったんだ、叶う筈がなかったんだ…」

 

抗しきれない程の自己破壊衝動と自己否定に自身を埋め尽くし、シンジはそれに砕けてしまいそうになっていた。

 

それはかつてない程にシンジ自身を激しく駆りたてようとしていた。

 

しかし、その最後の狭間でシンジは踏みとどまっていた。

 

「…日向さん、どうして僕を。こんな事ならいっそ全てを僕に、裁いてくれれば、その方が…」

 

責任転嫁という逃避が支えていたのか、シンジの責任を負っているものの名がその口から出された。

 

しかし、それはその場での思いつきでしかない。今この時にそう思ったのは間違いのない事ではあったがその実は、シンジ自身をそこに居させ続けていたのは例えシンジがどう思おうとも確かにそこに形取っているその想い、その存在であった。

 

「…でも…」

 

シンジは自分の胸の内を確かめるようにして、絞り出すようにして言葉を紡ぐ。

 

「…でも、でもどうする事もできないんだ。持ち続ける事もできない、叶う事もないって分かっている、そう思っている。それでも消す事も捨てる事もできない。駄目なんだ…」

 

それは彼自身が過去に捕らわれている事と同義なのだろうか。もしかするとそうなのかもしれない、彼の性向を考えるならば。

 

しかし、それは彼自身の中での事にしか過ぎないがかつてと今とではそうと望んでいるかいないのかの違いがあった。

 

自らが意思、感情をもってそうありたい、そうありたくないと思い感じる違いがあった。その心の向く先が正反対であった。

 

だから彼は自らの求めるものに従って今この時、この場所にいた…。

 

「…だから、だよね。だから僕は最低なんだよね。わがままで自分勝手なんだよね…」

 

その言葉は嫌悪と拒絶に満ちていたが、それだけではない何かがそこにはあった。

 

彼自身果たしてそれを感じていたかどうかは分からない。しかし、その心も表情も少しは自身の泥濘の淵からは抜けてきているようでもあった。

 

それが彼の少しは変化した現れなのだろうか。手にした、形にした何かなのだろうか。それが例えそうだとしても僅かな儚いものでしかなかったが。

 

シンジは何かを振り払うかのようにして首を左右に巡らす。

 

そして面を上げる、それと共に心も。

 

「…これで、これでいいんだ。僕はまだなにもかも駄目だけどこうして生きていく。何もできないし何も叶わないけど、何もかも終わっているけど、僕のした事に対して何かが下されるその時まで。僕は自分に対してでさえ何もできないからね自分を終わらせる事もできないから、だからこのままこうしていくよ…」

 

シンジは誰に対してであろうか、どこか語りかける口調で空に呟くようにして言葉を漏らす。

 

「…彼女には僕はもう必要ない、あってはならないものだけどこの想い、心にある形、手にしたもの、僕自身を模っているもの、それは決して無くせないものだから、失えないものだから、持っていたいと願っている、祈っているものだから。他に何もなくても、例えこの想いが叶わなくても、僕を僕自身でいさせてくれるようにしたその人自身がいなくても、それを手にして、それだけを心に抱いて、生きていくよ。それだけが僕の生きていける理由だから。…それしかないから、このくらいはいいよね…」

 

その言の終わりの方は間違いなく誰かに向けられてのものであった。

 

それは、今彼が心に描いている一人の少女へのもの…。

 

「…僕の存在を消して、心の中から。僕ももう決して近づいたりしないから。だから、いいよね?…」

 

その表情は苦渋に満ちていた、今にも溢れる何かがその頬を伝いそうでもあった。

 

しかし、シンジは決してそれを自分にさせようとはしなかった。

 

それに身を委ねてしまう事は決して許されない、してはならない事だと自分自身に言い聞かせていた。

 

こみ上げてくるものを抑えるようにして顔を振り上げ天を仰ぐ。

 

広がる蒼さが曇りかけた瞳に染み込んできた。

 

虚空に向かって深く大きく、一つ息をつく。

 

ざわめく木々と吹かれる微かな流れに身を委ねながら少しの間何かを鎮めるように、自分を感じるようにしてそうしていた。

 

やがて何かを自分の内に掴んだように、確かめたかのようにして顔を正面に据える。

 

その表情にはどこか薄くも綺麗な翳りのある何かを見据えたような、それでも穏やかなものが浮かんでいた。

 

消し得ぬなにかは、確かにそこに存在していた。

 

「…大分遅れたけど行かなくちゃ。いろいろあるけど彼女が僕にならともかく僕が彼女を避けたりするだなんて許されないからね」

 

その言葉が果たして実際のものになるかどうかはともかくシンジはそう思い、口にもして今度こそその場を後にした。かつてアスカがそこに居た方へと動き始めた。

 

大遅刻だな、という呟きも聞こえてくるがその足取りはしっかりとしたものでシンジ自身が求めながら叶わないと胸に刻んだ、心の中の存在たる少女がいるであろうそこに向かって逸れる事も揺らぐ事もなく進んでいった。

 

逃げ出したかったのかもしれないし、恐れていたのかもしれない。しかし、確かにそこへと向かっていった。その心が自然とそうさせているかのように、それと求めているかのように。

 

その時既に式は始まっていた。しかし、そこへと向かう少年の元から過ぎ去ったその少女は今その場所に姿を現してはいなかった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

アスカは心の迷宮をさまよっていた。

 

自分がどうしてあんな事をしたのか、自分自身が何を思っていたのか、何を望んでいたのかが分からない。その事が少女を心の陥穽に陥らせていた。

 

少女自身はそれが一体なんであるのか、自分の中になにがあるのか、どういう思いでいたのか、それを知りたかったが求めるものはその心の中をどれだけ見詰めようとも探してみようとも見つける事も感じる事ですらもできなかった。

 

その心は暗く漂う霞に覆われ自分自身のものであるのにも関わらず遥としてはっきりとせず、それを見通す事も立ち入る事もできはしなかった。

 

その事の源になっている筈のあの頃の事は心の中に思い浮かべる事はできるのだが、そこから生じた、生み出された自分の思い、感じた筈のものはその闇霧の中に包まれて自分自身を定める確かなものは何一つとして感じる事も得る事もできなかった。

 

自分があの時にしたことから何かが自分の中にあるのは間違いのない事。しかし、それが何なのかが分からない。アスカはその事に捕らわれると共に得体の知れないそれに漠然とした、しかし、例えようもない恐れと戸惑いを感じずにはいられなかった。

 

事実はアスカ自身がその事に対して無意識の内に近づかない、触れようとしていないというものであったが、今の彼女にはその事を自分自身で気づく事も意識する事もできはしなかった。

 

それは自分自身のしてきた事に対する潜在的な意識、恐怖、拒絶からくるものなのであろうか。彼女がそうと望んでも彼女自身がそれを許しはしなかった。

 

アスカは自分が向かい合う事のできないそれにただ戸惑い困惑するより他にはなかった。

 

自分の中にあるもの、自分で理解できない何か、そこから感じる切なくも大切な何かを感じて、でもそれを確かめる事もできずにアスカはただ悲嘆にくれるしかなかった。

 

今の自分はそうとは望んでいない筈なのにそれをしてしまった事にただ失意と絶望を感じているより他にはなかった。

 

だから自分を自分に陥らせるより他にどうする事もできなかった…。

 

アスカ自身の時は止まったまま、夜の闇は確実にその手を伸ばしてくる。

 

何もかもが変わらない部屋の中でアスカはそこにあるもの達と同じに微かな動き一つさえもしない。

 

ただ一つ動くもの、時の流れを告げるものが今一つ瞬く。

 

そして、それはそこにある他のものとは関係なくそれを繰り返していく。

 

「(…何をしているの、アタシ…)」

 

暗がりの中、仄かな灯りの明滅が幾度かに及んだとき、アスカは自分の中で語り掛けた。

 

アスカは自分でも分からない、自分の中で知りたい感じたいと願う自分とそれを許さない自分とのせめぎあいの中でこれまでの自分と今の自分とを思った。

 

それはいかようにもなしえない自分の中で巡る螺旋の狭間において、保つ事のできなかったアスカの自意識が僅かに導きだされたものであった。

 

その果てる事のない苦衷から今の自分を逃がそうとする、逃れようとする自己防衛本能、逃避行動がアスカ自身の中で今の自分に対する疑問を形づくらせていた。

 

「(…あの時、全てを失った時、分かった筈じゃない。そんなものを持てば、何か大切なものを持てばそれが失われた時に、失ってしまった時にどんなに辛くて苦しい思いをするか知った筈、思い知らされた筈…)」

 

アスカの意識は今自分が感じている苦しみ、辛さ、切なさ、それら自分を苛むものにだけ向けられていた。

 

その理由、それをもたらしているものが何であるのか分からない、自分自身ですら計りきれない以上、それ以外にはどうする事もできなかった。

 

そうする事でしかその事から逃れる事、自分を救う事ができなかった。自分の中にあるそれから目を逸らし、感じないようにする事しかできなかった。

 

「(…それを守るために頑張り続ければいつか報われるなんて何も知らない、何も分かっていない奴の絵空事。現実はそんな事ばかりじゃない。そうなる事もあるのかも知れないけれども少なくともアタシはそうじゃなかった…)」

 

それは事実。アスカにとって何よりも確かな、アスカ自身がそうであった、アスカがかつてその身をもって知らしめられた事。

 

それはアスカにどのような観念、理屈よりも雄弁にアスカ自身にその思いこそが真実だと教えていた。

 

どのような他者が何を語ろうとアスカにとっての真実を動かす事はできなかった。

 

アスカ自身、自分の思っている事が自分を含む他の全てではないという事は分かってはいた。

 

しかし、アスカの真実はそうでしかなかった。

 

「(…アタシは頑張った。アタシの全てをかけてアタシ自身の大切だと思える、手にしたいと願ったものを守ろうとした。他の全てをかなぐり捨ててまで、それだけにかけていた。それは誰にも否定させない。…でも、その結果は…)」

 

アスカにとっての事実、それは自分の信じた事に裏切られたという事、自分の大切なものが失われたという事、自分のしてきた事の全ては無駄に終わったという事、何も自分には残らなかったという事。

 

アスカにとっては自分に何かを持ち、それに対して何かの思いを持つとか自分の何かをかけるとかいう事はしてはならない、それこそが無為なやってはならない事であった。

 

「(…何を抱き続けろというの?、何を守れというの?、アタシには何もない。何もかも無くした、奪われてしまった、自分の全てをかけても守る事ができなかった。アタシ自身の全てが…奪われてしまった…)」

 

あの時、アスカの全ては失われた。

 

自分の全てをかけて、自分自身を壊してまで手にしようとしていたもの、守ろうとしていたもの、願ったもの、その全ては何一つとしてアスカの元には残らなかった。

 

それを望んだ事が正しかったのか、願った対象の存在意義が正しかったのかどうか、そんな事は今とその時のアスカにとっては関係のない事であった。

 

それを望み叶わなかった、それが全てであった。その事実だけが全てであった。

 

アスカ自身の思いが、願いが叶わなかった。それだけであった。

 

そこにあったのは痛さ、辛さ、苦しさ、ありとあらゆるアスカ自身を責め苛むものでしかなかった。

 

「(…だから信じない、そんな事は信じない。願えば叶うなんて、頑張れば手にする事ができるだなんて、アタシは信じない、信じられない。アタシの事実と現実はそれが嘘だと、ありえない事だと証明している。そんなものは決して信じられない、信じてはいけない。それがアタシの…)」

 

アスカの心は例えようも無い程の虚無感と喪失感に満たされていた。それと共にあの時の光景がまざまざと浮かび上がってくる。

 

自分が全てをかけていたものに負けて自分を見失った、壊してしまった時の事を。

 

自分が本当に求めていたものが自分を守ってくれていた、傍にいてくれていた、その手にした時の事を。

 

そして、その次の瞬間にそれはまた自分の思いとは全く正反対に、残酷に、無残に奪われた時の事を。

 

アスカはより一層身を固めて自身を抱く両腕の力を強くする。

 

「(…そんなものはアタシに辛さと苦しみしか与えない!。…それを信じて何かをするという事はアタシに何ももたらしてはくれない。…全てが無駄な事にしかならない。…これまでも、これからも…)」

 

その時の光景は絶える事なくアスカを責め立てていた。

 

望みもしないのに勝手に映し出されてきてはその時の事を、感覚を、感じていた事を、その思いを甦らせてきていた。

 

存在理由の喪失、自己崩壊。

 

死の恐怖、拒絶。溢れる暖かさ、自我の覚醒、母親の存在。その手にしたもの、抱いたもの。

 

空を舞う白いもの、九つの敵。殺し合い、奪い合い。

 

磔刑。群がり、食われる。噛み裂かれ、咀嚼される。陵辱され、引き千切られる。

 

全てを無くした。母親も自分自身でさえも、奪われ、失った。愛情も、自分自身の存在でさえも無残に踏み荒された。

 

後のアスカに残されたのは辛く悲しい、苦しい、口惜しい、そんな決して自分では感じたいとは思わないようなものだけであった。

 

喪失、絶望、虚無、それしか残されなかった。打ちひしがれた自分しか残らなかった、残されなかった。

 

自分の信じていたものの全ては叶わなかった。ただ、裏切られた。その事実しか残らなかった。

 

「(…だからアタシは捨てた。そんな無駄になってしまった、何かを信じて頑張るという愚かな事をしたアタシ自身のした事、してきた事を。そんな何にもならない、どうにもならない、ただそれをしてしまった今の自分のバカさ加減を証明するだけのもの。そんなものなど、アタシは捨てた…)」

 

何も残されなかったという事実、それだけがアスカにとって残されたものだった。

 

自分自身に起こった事、何かを求めて何も手に入らなかった過去、そのために費やしてきた生、そのためにかけてきた想い、心。

 

全てが無駄に終わった、何にもならなかった。ただ浪費しただけの自分自身、何を手にする事も何が叶う事も何かが通じ合う事もなかった。

 

ただ無くしただけの、奪われただけの自分…。

 

「(…だからアタシは持たない、何も手にしない。大切なものなんて、何かを願うだなんて、そんな事は絶対にしない。それがどんなにか辛いか、苦しいか、許せない事になるのかアタシには分かっているから。何よりも確かなアタシ自身の事実がそこにあるから。どんな綺麗事も全て打ち消してしまうアタシ自身の現実がそこにあるから…)」

 

何かを求め追う事、それはアスカにとってはしてはならない事、そうあってはならない事。

 

それをしてしまえばまた同じ事にしかならないから、そうなってしまうようにしか思えないから、そうなってしまうかもしれないから。

 

そんな事になるのはもう嫌だったから、少しでもそんな事になるのかもしれないのは恐いから。何かを自分の中に持ち、大切にする事は自分自身にとって辛い事、苦しい事にしかならないから。

 

「(…だから…できない。…思い知らされているから、心に刻み付けられているから…)」

 

どれだけそれを拭おうと、消し去ろうとしてもそれは叶わなかった。

 

それはアスカの中に確かに焼き付けられていてその痕はどのようにしても無くす事も癒す事もそれを受け入れる事もできはしなかった。

 

それは未だに熱を持ち、底から滲み出てくるような痛みと疼きとを常にアスカにもたらしていた。

 

それこそがアスカを今のアスカにしていた。何もしない、何もできない、何もしようともしない、何も望まない、そんなアスカにしていた。

 

心を無間の縛鎖で絡め取り、そこから動かぬよう、どこにも動けぬよう縒り固めていた。

 

今ある自分の中のものに踏み出す事をさせなくしていた。

 

「(…やりたくても、そうしたくてもできない。怖いから、そうなるのが辛いから。そうなった時にもうアタシは耐えられないから…)」

 

もしも、とアスカは思う。

 

もし今またあの時と同じ事になったら、何かに執着してそれに何らかの結果を見る事ができなかったら、と。

 

何らかの結果を見たとしてもそれがかつてあった事と同じようになったら、と。

 

それは果てのない悲しみ、辛さ、苦しさ。

 

どれだけその心に奥底があったとしても全て堕ちきる事ができない程に本当に何もかも、自分という存在でさえも失ってしまうのではないかと、そう思えた。それ以外に思えなかった、感じられなかった。

 

自分を内に引き込み潰してしまう、存在そのものを消してしまう、それは言葉にもできない程の恐れ、恐怖。

 

「(…アタシには何もない、空っぽのアタシ、だから何も感じない。辛い事も、ある訳もない喜びも、アタシは何も感じない…)」

 

自分をとりまく周囲の環境、襲い来るもの、責め苛むもの、それらから自分を守るためにアスカはその手段をとった。

 

自分を周囲から隔絶する事、それだけが自分を守る唯一のものだと信じて。

 

「(…今アタシの感じているものは無い筈のもの。それでもまだ何かを感じるアタシがいるというのならそんなものは要らない、必要ない。捨ててしまおう。今現実にアタシはこんな思いをしているじゃない…)」

 

自分は何も感じない、そうある事にのみ執着してアスカはそれに反するもの、自分の中にあるもの、自分の中の形あるもの、できてしまったものの全てを捨て去ろうとしていた。

 

それが自分が望んだものであるのか望んでいないものであるのかは問題ではなかった。そこにある、存在している、その事だけがアスカにとっての意識すべき事であった。

 

そこに存在している、ただそれのみにおいてそれは排斥せねばならないものになっていた。

 

それは自分を守る、自分しか自分を守れないという認識、事実の生み出した一つの結末であった。

 

「(…何かを持ってはいけない、何もかも捨てなければいけない、そうしなければならない…)」

 

そうでなければ自分は自分ではない、自分が自分であるために必要な事を心の中で繰り返す。

 

自分にとってのあるべき姿、自分自身のありよう、その意とするところ、それをしなければ自分が自分でいられなくなる、だからそれは為さなければならない事。

 

そして、それを妨げるものは自分の存在を脅かすもの。自分に何かをもたらすもの、そうと働きかけるもの、そんなものは自分の傍にあってはならないもの、そんな存在を許してはならない。

 

そうでなければ自分が自分でいられなくなってしまうのだから。

 

それが自分の本当に望んでいるものなのかどうかに関わらず、そうでなければ自分は自分を守れないのだから。傷つき苦しむだけなのだから。

 

「(…だから、なのかな。あの時、シンジに会った時にあんな事をしたのは。何かがアタシ自身の中にありそうになったから、何かがアタシの中に感じられるようになりそうだったからかな…)」

 

アスカの体は小さく震えていた。自分の行った事、その理由、それらしいものを見つけ感じる事ができたような気はしていたが、そのために思い起こした事はアスカにとって言葉にはできない不思議な感覚を呼び起こしていた。

 

自分の中に広がる何か、そこにあり続けている得体のしれないもの、それは何故だか今思い起こした事にその源泉があるような気がしていた。

 

それは少なくとも不快なものではないような気がしていた、もしかしたら自分にとっての大切な何か。

 

しかし、それは捨てなければならないモノ、無くさなければならないモノ。

 

それが自分にとってのいいものであるのかいいものでないのかは問題ではなかった。

 

何もない事。正にそれこそが、それだけが自分にとっての大切な事、必要な事なのだから。

 

だからこそアスカはあの時にあんな事をした。それが望んでいるか望んでいないかに関わらず必要だからそうした。意識する事もなく、ただその事を恐れて気がつけばそんな事をしていた、してしまっていた。

 

自分と相対した少年、再会する事のできた少年、ようやく会う事のできた少年。

 

アスカは想わずにはいられなかった。その少年の事を、シンジの事を。

 

その時自分に沸き上がりそうになった事を。シンジと再会した事によって、傍にいる事によって自分の中に形作りそうになったものの事を。

 

「(…シンジ…。アタシに何かをもたらしそうになったヒト、何かをくれそうになったヒト…)」

 

その蒼氷色の瞳はゆらめきをたたえて今にもそれが溢れ零れ落ちそうになっていた。

 

遠くを見詰めるような眼差しは今そこにある何をも映してはいなかった。今そこにあるのは、映しているのは自分が想い描いている一人の少年の姿だけ。

 

今そこにいない、記憶の中にだけいる、心の中にだけいる、校舎の裏で再び出会う事のできた、自分の前にいてくれた、傍に感じる事のできた一人の少年の姿だけであった。

 

自身の全てが、そこにあった…。

 

「(…でも、駄目だよシンジ。アタシは…)」

 

アスカは瞳を瞑り、両の膝にその両の眸を押し当てる。

 

それが溢れてしまわないように、巡ってしまわないように、自身のものになってしまわないように。

 

全てを捨てなければ、何も無いようにしなければ。何かがあってはいけない、何かを抱いてはいけない。それを必死になって自分に課しながら。

 

それが自分なのだと、もうどうする事もできないのだと、全ては決まった事なのだと、決めてしまった事なのだと自分に言い聞かせていた。

 

どれだけの願いもどれだけの想いも叶わない、叶えられない事が分かっていたから。そうとしか思えなかったから、そうする事しかできなかったから。

 

「(…だから…)」

 

噛み締める唇から赫い流れが滴り落ちる。

 

何も思わず、何も映さず、ただその言葉を心に載せた。

 

そして、それはしなければならない事だと、発さなければならないものだと自身を固める。

 

わななく体、震える心、何もかもを亡くす刻、その瞬間。

 

最後に一つ息を呑むと、自分に残された全てを込めて送り出した。

 

それは、他の誰に向けてでもない、ただ唯一、自分へ向けての、自分自身のためだけのものであった。

 

 

 

 

…さよなら…シンジ…

 

 

 

 

闇を照らす雫が一粒、その頬を伝った。

 

 

 

 

 

 

<第四話 了>

 

 

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