Rambler

第五話 現葬

 

 

第五話 現葬



2000.9.24



その日に催された事、行われるべき予定であったもの、それらは恙無く、滞りなく消化された。

 

そこから出入りする所、その場に初めて来た人達が新たな第一歩を踏み出したところ、新入生入退出用にあてがわれた玄関。

 

そこからは今続々とついさっき新たにこの学ぶ事を目的とした集りの一員となった人達が溢れ出てきていた。

 

その事に対する余韻だろうか、自分がそうなった、そうなれた、これからそうなれた自分を過ごしていく、そうした思いの現われであるかのように、それぞれの顔には満足感、充足感、希望と覇気が浮かんでいた。

 

その足取りも軽く確かなもので、自分から進んでいく事、先へと向かっていく事を意図している、そう感じさせるのに十分なものがあった。

 

それぞれに自分の親しいもの、新たに今日この場でそうなったものと談笑しあい、絶える事のないざわめきの中、流れをつくり帰路へとついていく。

 

あるいは単に帰るだけではなく今日この日の事に、これからの自分達の事にどこかに寄り道をしたりするのかもしれない。

 

しかし、それはそれぞれの事といったところだろう。親しいもの、親しくなったものと連れ立って歩いていく。

 

まだまだ多くの人が集り散っていく、そんな事を繰り返している自分達用にあてがわれた玄関…。

 

そこにシンジの姿はあった。

 

自身の周囲を埋めている人達とは対象的にそこに浮かんでいる表情、醸し出しているものは浮かない、冴えない、沈みがちなものであった。

 

それを象徴するかのようなゆっくりとした、やや緩慢な動作でそこでやるべき事、自分に割り当てられた場所へと向かい、そこに置いてある自分の上履きと外履きを履き替えようとする。

 

一応は意識して買った、制服の色に合わせた、自分でもそれなりに気に入っている白と黒を基調にしたハイカットのシューズに足を通し、紐を結ぶ。その手つきもどことなく覚束ない、そんな感じがしている。

 

自分の足に密着するような感じになったそれに必要な事が終わった事を覚えて、シンジは屈んでいた身体を起こすと何かを思うようにして一つため息をついた。

 

それは周囲から感じられるものに対して余りにも正反対なものであった。

 

心の底から吐き出されたような、澱みが色をつけている、目に見えるかのようなそれと、周囲の明るい、あるいは浮わついているともいえる程に軽くなっている雰囲気とは全くもって相反していた。

 

それが見つかったら、気がつかれたなら責められ、咎められたかも知れない。

 

それ程までにその時シンジの発したものは彼自身以外の周囲にいる人達と、その人達がいいものと感じている雰囲気とを貶め害するものがあった。

 

しかし、彼等はその事に気が付かなかった。自分達の雰囲気、世界を作り出した彼等にはそれから外れている者などは別世界の事になっているのだろう。

 

彼等が造り出したもの、その周囲を囲んで包んでいるものはそれに適合できる者のみが入る事が許されていて、そうでないものは排除するようなものになっていた。

 

この場にあって今のこの雰囲気に適合しない、それに反する者などいる筈がない、そんな無言の了解がそこにはあったのかもしれない。

 

シンジも特に気にする事もなく、周囲に目を向ける事も意識する事もなくただ一人、その場でそうしていた。

 

自分が周囲に対してどういう状況でいるのか、そんな事は構わない、関係ないというような感じで。

 

気のない、冴えない、物憂げな表情、それが自らの傍を通り過ぎていく周囲に対して向けられる事はない。

 

その時シンジの意識は自分の内に向いていた。自分の事を意うのではなく、自分の存在を惟す事もなしにただ自分の思い、考えにその全てを捕らわれていた。

 

だから周囲の事を感じる事も気がつく事もなかったし、周囲が彼に対してその存在を感じる事もなかった。

 

その存在を思っていない者がその場にある他の周囲の者から認識される事も確立される事もありはしない。

 

シンジの心はうつろい、さまよっていた。

 

今日あった事、自分の身に起こった事、自分のした事。それに対して感じる思い、考える事、どうすればいいのか、どうしたいのか、それを思っていた、決めかねていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の入学式での事…。

 

静けさをたたえた入学式会場、体育館に遅れて入ってきたシンジは自分のクラスの列の最後尾へと向かう。

 

担任と思われる中年男性教師の非難げな、気遣しげな視線が向けられてきたが、その時のシンジにとってはそんな事に気を回す余裕はなかった。

 

玄関口でクラス名簿を確認したシンジは驚愕と共にこの事を仕組んだ何かを恨まずにはいられなかった、どこまでも自分に優しくも甘くもしてくれない自分自身の定めを厭わずにはいられなかった。

 

その教師も式の途中という事もあってシンジに対してよからぬものを感じていたではあろうが、何を言う事もする事もなく、ただシンジをいるべき場所へと連れていく。

 

その場を乱したくなかったというのもあるだろうが、ともかくシンジはその教師の導きに従い列の一番後ろに立った。

 

もっとも、背の順番の並びであったから始めからいたとしてもそこに位置する事になったであろうが。一つ手前の同級生の頭でもシンジの額の上程までしかない。

 

男子女子と交互にクラスの列は並んでいたのでシンジの隣には同じクラスの背の一番高い女子が立っている事になる。

 

その女子はシンジが自分の隣に来た時に一瞬視線を向けてきていたが、すぐに前に向き直っていた。

 

シンジも隣を意識していた。その女子はシンジと比べれば頭一つ分くらいの違いがあったが、つい最前に会った少女の背丈はそれと同じか高いかというものであった。

 

しかし、今自分の隣にいる女子は自分が意識している少女とは別の人。

 

少なくとも隣り合わせにならなかった事に安堵し、自覚できない心の奥底で落胆し、視線を前の方へと移していく。

 

その時シンジの心には今自分が参加している式の事は念頭になく、その場の事など意識の上から完全に失われてしまっていた。

 

一人一人確認するようにその後ろ姿に目を移していこうとするが、そうするまでもなく自分の意の中にいる少女がこの場にいない事がすぐに分かった、分かってしまったと言うべきだろうか。

 

シンジの目に映ったのは全て黒髪の頭だけ、視界に収めた列の女子達の姿には異なるものが何一つとしてなかった。

 

あの鮮やかで綺麗な髪を戴いているその姿はそこにはなかった。

 

そこにいる女子達の姿に見るべきものがないとかそういう訳ではなかったが、シンジにとってはそこにいない少女以外の全てのものは色褪せてしか映らなかった。

 

それが自分の贔屓目なのかどうかも分からず、考えようともせずにただそう感じていた、そうとしか感じられなかった。

 

それを確認した時、彼女がその場にいないと知った時、シンジは心からの深い安堵を感じため息を微かにもらす。それと意識していなくても身体はその場の雰囲気というものを感じていたのかもしれない。

 

しかし、それと同時に先程は自覚できなかった、心の奥底で感じていた落胆が今感じた安堵と等量かそれを上回る程にその心に感じられていた。

 

その事にシンジ自身、自分の心を計りきれずに戸惑い、表情に困惑を浮かべる。

 

自分は諦めた筈じゃなかったのか?。

 

シンジは自分に問いただすが、そんな事を思う事自体がまだ心の中からそれを払拭しきれていないという事に気がついて、そんな情けない自分に憮然とした心持ちになる。

 

こんな事ではこの先やっていく事はできない、彼女とは何でもない、全く関係のない事にしなければ、事実、そうでしかない、と沈み行く心にそれを上乗せして自分の中からそれを少なくとも表には出ないもののようにしようとしていた。

 

いつか、それがあった事に気がついた時にそれが無くなっている、消えているようになる事を期待して、願って。

 

そして、もうその事から意識を切り離そうとした時にふと気がついた事があった、彼女がこの場にいないというその事実を。

 

全く馬鹿な事と言わざるをえないが、シンジはこの時自分の事にその主眼が置かれてアスカがいないという事実よりもそれによって自分の受けた事、感じた事こそが主になってしまっていた。

 

だから自分の事、感じた事に自分の中でどう対処するかにその意の全ては向けられ、費やされ、それをもたらしたアスカがいないという事実が失落してしまっていた。

 

全くあの頃と変わっていない、自分の事しか考えられない自分。

 

流石にシンジもその事を自覚して激しい自己嫌悪の念がこみ上げてくるのを感じずにはいられなかった。

 

しかし、それに捕らわれる事はまた同じ事の繰り返しになるので、込み上げてくるものを抑える事はできなくてもそれに目を向ける事はしないようにした。意識そのものはアスカが今この場にいないという事実に向けるようにした。

 

何故、どうして、という問いにそんなに自分は嫌われているのか、嫌がられているというのかという答えが帰ってくる。

 

あの時のアスカの態度からそれも無理からぬ事であったし、玄関前に張り出されているクラス名簿から自分と同じクラスであるという事も知っている筈。

 

だから、なのかな、という思いは比較的すんなりと自身の内に受け入れられた。

 

アスカが今自分が参加しているような事に価値を見出すかどうかは分からなかったが、もし見出しているとしたらそこまでして自分を、という事になる。

 

もしそうでなくても少なくとも嫌われている、嫌がられている、拒否されているというのは間違いのない事…。

 

その事はシンジに改めて激しい痛みと耐えきれないほどの恐怖を感じさせるものであったが、それは仕方のない事だと、覚悟していた事だと、受けねばならない事だと分かってはいた。

 

だから、何ともない、自分のままでいられるなどという事はなかったが、それどころか心が乱れ、ざわめき、自分が自分でいられなくなりそうになってしまっていたが、それでもどうにか耐える事はできていた。何とか踏みとどまっていられた。

 

それは恐怖以外の何ものでもなかった。

 

どうにかこの場にい続けてはいたが、後ろも見ずに逃げ出したい気持ちで一杯であった、そうしたいという衝動に激しく駆りたてられずにはいられない。

 

しかし、それは納得ずくの事、自分のした事が招いた自業自得以外のなにものでもない。それから逃れ、逃げようとする事は更なる辛さ、苦しさ、痛みを自分にもたらさずにはいないという事も分かっていた。

 

だから、ここに来る前にそれをしてはならないと自分で思い返し、言い聞かせてもいた。そのおかげで、衝動に負ける事はなかったが、こうなる前に自分で自分に思い知らせていなければどうなったのだろうかとシンジ自身思わないでもない。

 

そんな普通ではいられない状態の中、シンジは必死になって自分で自分に言い聞かせていた。

 

自分が彼女の事を意識して心を乱すのは仕方のない、どうしようもない事ではあるが、それは決して表には出してはならない事であると、それを彼女に見せたり感じさせたりしてはならないという事を。

 

シンジは思う、彼女は自分の事を嫌っている、存在そのものを許してはいない。自分に対する彼女の中には絶対的な拒絶、それしかない。

 

そうさせたのは自分、その結果を招いた、今の状況をもたらしたのは自分自身、自分のした事に他ならない。なべて責任の全ては自分にある、自分のせいでしかない。

 

その自分が彼女から返されてきた事に対して何を思う事ができるというのか、何を感じる事ができるというのか、嫌がる事ができるというのか。

 

できる筈がない、許される筈がない。

 

自分にできる事といえば自分がした事に対して彼女が思い望んだようにしてやる事だけ。

 

それだけが自分に許された唯一の事であるとシンジは思っていた、そうとしか思えなかった。

 

他に何をどうする事もできはしなかった。

 

自らを処断する事、それはシンジにはできない。

 

そこまで自分というものを捨て去る事は一つの存在としてできる事ではなかったし、今の自分の中にはそれがどんなに些少なものであったとしても自分というものがあったから。

 

だからそれも含めてシンジには自分の全てを捨て去り消してしまう事はできなかった。

 

それならばせめて、次善としてでもないだろうが、最低限、自分と彼女との間には何もないようにしなければならない。

 

一緒のクラスになった事、なってしまった事、それはどうする事もできない事実であったし、いかようにもそれを変える事、変えさせる事も今のシンジにはできる筈もない事。

 

であるならば、自分の存在を彼女の前から消す事ができないのなら、そうするしか、そうと意する以外にどうしようもなかった、せめてもの選択できる方法はそれ以外にはなかった。

 

現実問題としてそこにいる自分の存在を消す事はできないが、彼女の意識からその存在を消す事はできる筈、シンジとしてはそこにかけるしかなかった。

 

自分の存在を彼女に意識させず、関わりを持たず、そこにいるのにいないようにさせなければならない、そんな事を自身の中で思っていた。

 

それは甚だ消極的であり、何らの建設的な事ももたらさないものであったが、シンジにはそうとしか思えない。

 

シンジ自身それを積極的に自分の中で認めようとも勧めようとも思えなかったが、それ以外には何もなかった、何も思う事ができなかった。

 

そして、シンジは自分に言い聞かせる、それでいいのだと、それが自分と彼女にとって一番いいことなのだと。

 

自分が思う事も感じる事もそれは全て外に出してはならない自分の内だけに秘めておくべき、納めておかなければならない事。

 

自身の事をもって彼女に相対する、何かを感じさせる、何かを思わせるという事は絶対にやってはならない事、厳に戒しめるべき事。

 

かつて自分のした事、やってしまった事にその責があるのだから。

 

彼女が自分にそうと望むのなら、自分の存在を感じさせてはいけない、関わりを持ってはいけない、何らの繋がりもあってはならない。

 

自分が傍にいてはならない、それは決して許されない事。

 

それができないのなら本当に自分はどうしようもない奴になってしまう、あの頃と何一つ変わっていない自分になってしまう、シンジは心の中でそうとも思い自らにその事を改めて課していた、戒めていた。

 

それが実はあの時と何ら変わらない自分の為しようである事に気がつく事もなしに、それが今の自分のあるべき姿、自分が今の自分であるためにしなければならない事だと思いこんでいた、それ以外には思いつかなかった。

 

その思いの源泉があの時と何ら変わらぬ自己への逃避、エゴにあるという事に気づきもせずに。

 

ただ一つ変わったところといえばその思いの中に彼女の事が加わった事であろうか。

 

かつては自分の事しかなかったそこに、それが例えどのようなものに根差したものであれ彼女への思いが存在していた。逃避の対象ではなく、思いを巡らす対象として。

 

それは結局のところ自己逃避のための口実でしかなかったのかもしれないが、そこに何らかの思いが込められているのも確かな事であった。

 

それが今のシンジが彼女に思える精一杯の事であった。

 

だからシンジは必死になってそれをしようと、為そうとしていた。それが今の自分の限界ならせめてそれだけでも全うしようとしていた。

 

そこに辿りつけなければ、その先にあるものなど見える筈もないのだから、目指す事などできはしないのだから。

 

そう思うと少し心が楽になった。今自分のするべき事、これから自分が達さねばならない事、それが良い事であるのか悪い事であるのか、正しいのか間違っているのか、そんな事は分からなかったが、それが見えた、決める事ができただけでも胸の内のざわめきが少しは治まりつつあった。

 

どうしたらいいのか分からないという不安が少しは解消されたせいかもしれない。それが消えただけでも少しは違うようであった。

 

そうした時に思うのはアスカがいないという事実、それは仕方のない事だし彼女が自分を避けたにしろそうでないにしろそれが彼女の望んだ事なら自分としてはそれを尊重しなければならない。

 

少なくとも自分が関わりを持ってはいけない、それはたった今シンジ自身が思っていた認識であった。

 

でも、ともシンジは思う。

 

それはかつてあの時、エヴァに乗っていた頃自分がした事と何ら変わらないものではないのかと。

 

あの時、彼女が自分の前から消えた時、何もしなかった、何もしようとしなかった自分と何も変わらないのではないのかと。

 

今とその時との違いがあるとすれば自分の心情のありようだけでやろうとしている事は何も変わっていない。

 

また何もせずにいるのか、また何もしようとしないのか、また同じ事を繰り返すつもりなのか。

 

今自分にこんな思いをさせている自分の為しようをまた等しく繰り返すというのか。

 

シンジの心は再びざわめきたつ。

 

あの時は自分から何もしなかったというのは事実だが、どうしようもなかったというのもまた事実だった。

 

アスカに起こった事は全くシンジに対して知らされる事も伝えられる事もなく、だからもしあの時何かを思い立っていたとしても何をしようもなかったというのが現実であった。そこに到るまでの経過が既にして駄目だというのなら何を言うこともできはしないのであろうが。

 

実際、あの時シンジには自分で自分を思うようにする自由ですらもなかった。監視の目は常に光り、同居していた指揮官はそれをしようとしても止めただろう。無駄な事は止めなさいと、諜報部が発見するから任せておけと。

 

それをしようともしなかったのだから何を言う事もできはしないのだろうが、少なくともあの時は全てに対して諦めのようなものを抱いていた。

 

続けて起こる嫌な事、いなくなった身近な存在、何を為す事もどうする事もできない自分、自分の事さえ自分の意のままにできない自分。

 

だから何もしようとしなかったのかもしれない、何かをしようとも思わなかったのかもしれない。

 

それがその時のありようの元となっていた原因の全てとは言わないが、それが理由の一つであった事は間違いのない事だった。

 

しかし、今はどうであろう。

 

彼女がいなくなった、ここにはいない、どこにいるのか分からない、それはあの時と変わらない事。

 

しかし、少なくとも今はあの時と違って自分の事を自由にできる自分がいる。その姿を求めようとすれば追い求める事のできる自分がいる。そうと思える、そう思う事のできる自分がいる。

 

何かを思い、それを志そうとしている自分がいる。シンジ自身、そうありたいと願い、事実、その心はそれを抱いてもいた。

 

アスカがどこにいるか分からないという事はシンジにとって問題ではなかった、だからこそ探すのだから。

 

分かっているのならそもそもが探す必要がない。どこにいるのかが分からなければ分かるようになるまで、見つかるまで探せばいい、それだけの事。

 

何もためらう必要などない、自分にはあるのだから、自分の自由にできる時間が。

 

今とこれからの自分を自由にできる時間を手にする事が、取り戻す事ができたのだから。

 

それが叶うかどうかは分からない、アスカを見つける事ができるのかどうか分からない、それでもそうする事が無駄であるとは思えない。

 

探す事が、そうしようとする事自体がシンジには大切な事のように思えていた。

 

そうする事が自分が嫌うかつての自分と、あれからの今の自分、何かをしよう何かをしたいと思い願っている今の自分との違いを示すものだと、それを証明するものだと思えてならなかった。

 

それをしなかったら自分は自分の嫌なままの自分でしかない、そうとしか考えられなかった。

 

そんなに大げさなものでもないのかもしれない、ただ少し気分を害したから帰っただけ、それだけなのかもしれない。こんな事に付き合うだけの意義も価値も見出せなかったのかもしれない。

 

しかし、あの時のあの様子、校舎裏で再会した時の事、そして去っていく後ろ姿、それにシンジは言いようの知れない不安を感じずにはいられなかった。

 

それは直接目にした事はなかったが、あの時の事、アスカがいなくなった時の事をその心にに思い起こさせずにはいない。

 

このまま手をこまねいてあの時と同じに何もしないでいれば違う事なくあの時と同じ結果が導かれるのではないのか、シンジはそんな奇妙な未来感のようなものを、今のこの状況に既視感のようなものを感じていた。

 

アスカがいない事への不安、それはシンジの中でゆっくりと、しかし、確実にその占める割合を増やしていく。自分の心に開いた穴が広がっていくのをシンジ自身感じずにはいられない。

 

それは喪失感と言われるものであったが、シンジにもそれは分かっていた。

 

あの時、二年前に分かれた時、自分がアスカの前から去った時、いなくなった時にも感じなかったものが、今シンジの心の中に大きく口を開けていっている。

 

それはシンジの心の全てを呑みこんでしまうかのように果てない虚ろを感じさせるもの。

 

それが確定した時、あの時とアスカが同じ事になった時、シンジは自分が、自身の存在そのものが消滅してしまうのを確信せずにはいられなかった、それはシンジにとっての間違いのない事実。

 

何故そう思うのか、感じるのか、その思いの出ずるところそのものに思いを馳せる事はなかった。

 

今感じている事実だけでその心の内は満たされていた、それだけで一杯になっていたから。

 

今すぐ駆け出したい、突き動かされるような衝動に駆られながらもシンジはそこから動く事はできなかった。

 

なんとすればこんな式の事などシンジ自身どうでも良かった、今自分の感じている事に比べれば取るに足りない些事以外の何ものでもなかった。

 

シンジをその場に止めていたものは、動けなくさせていたのはアスカに対して関わってはならないというその事実。

 

アスカの為しようによってシンジにそうと信じさせていた、思いこませていた真実であった。

 

その事がシンジをためらわせる。仮にそうしだとして、自分の感じているものが現実のものだったとして、もしも自分の望み叶ってアスカを見つけられたとして、会う事ができたとして、そうした時にそれは自分と相手にとって最悪なものしかもたらさないのではないのだろうかと。

 

再び拒絶されるのではないのかと、自分のした事を否定されるのではないのかと、思わずにはいられない。

 

そうなる事をシンジは恐れた、そうなるかもしれない事がシンジには恐ろしくて仕方がなかった。

 

自分の想い求めた対象そのものにそうされるのはこの上もない恐怖、絶望、拒絶せずにはいられない事であった。

 

また同じ事を思っている、繰り返そうとしている。シンジはそう思わないでもなかったが、どうする事もできずにいた。

 

自分の気持ち、思いははっきりしている。しかし、アスカが何を思い何を望んでいるのかが分からない、その事がシンジをして躊躇させ、ためらわせていた。

 

アスカ自身にも分かっていない事をシンジが分かる筈もなかった。

 

あの時のアスカの態度はシンジを拒絶している以外のなにものでもない。

 

しかし、最初に見せたアスカの姿はそれとは別のものであった。全く正反対といってもいい。

 

それはアスカの一定しない心、動揺と困惑振りを示すものであったが、それは確かにシンジにも伝わっていた。

 

シンジも今、その時のアスカの伝えてきたものを受けて自分で自分の心を計りきれないでいた。図らずも今二人の心は一緒になっていた、重なり合っていた。

 

しかし、その奥底にある肝心な、最も大切なものは全く伝わってはいなかった。

 

当人同士それを自覚していないから、いや、もしかしたら気づいているのかもしれないが、意識しているしていないに関わらず受け入れる事も相対する事もしていないのだから、そうなるのが当然であった。なるべくしてそうなっている、それだけの事であった。

 

どっちがいいとか悪いとか、望むんでいるか望んでいないか、そんな事は関係なくそうなっていた。

 

互いに今の自分自身を望んでいない事は確かであったが、何を望んでいるのか、それが分からないでいた。どうしたいのかが、互いの中にはなかった。

 

シンジの方はまだ今何をしたいというのがあったが、それがどんな理由であるにせよしないのであれば何もないのと変わる事はない。

 

それを押し止めているのはその想いを向けている対象の為しようのせいかもしれなかったが、押しなべてその責はそれをしないというその一点のみにおいて当人に帰されるべきもの。

 

想いはそれに基づいた何かを実際にしてこそ形になるものであり、願うだけでも想うだけでもそれは何もないのと同じでしかない。

 

それはシンジ自身、かつて自分のしてきた事によって骨の髄まで叩きこまれている筈なのであるが、その時に引き裂かれた傷は未だに癒えてはいなかった。

 

大きく口を開いたまま、ただ自身がその痛みを感じないようにする術を心得た、その程度のものでしかなかった。

 

その傷の大きさに呆然とするしかなかったかつてと今が違うのはその傷があるのを、その大きさ、深さを認識して他の誰も手の付けようのないそれにどうにかして自分で治療を加えようとしている事だろうか。

 

下手に触れればそれはより無惨な事になるが、何もしないという事はできなかった。

 

少なくとも自然に癒えるのを待つ事はしなかった。それをするのはその傷のある自分の一部を切り落とさなければならなかったからだ。

 

あの時の事を、かつての自分の事を、今の自分から切り捨てる事はできなかった。

 

アスカの事を、自分の中から消し去る事はできなかった…。

 

それは自己の存在の喪失と同義である事と今もってシンジは思い知らされている。

 

彼女がいる筈のところにいないだけで自身の一部が失われたようなのである。彼女の存在を自分の中から消すなど、無くすなどシンジにとっては論外中の論外、思考の端に乗せる価値もない、慮外以外の何ものでもなかった。

 

実際にはそれが怖いだけの事かもしれなかったが、ともかくシンジにそれはできなかったし、しようと思う事さえもない。

 

今のシンジの思考と想いは全く矛盾したものであったが、それが自分を苦しめている事には気がついていなかった。

 

かつてあった事、自分のした事が巨大な厚い壁となってその事に思いを至らすのを阻んでいた。

 

それを乗り越える事も打ち壊す事も今のシンジにはできない。

 

シンジの全身にもまた幾重にも巡らされた縛鎖がかけられていた。今いる自分の場所からただその壁を見上げる事しかできなかった。

 

その縛をかけたのは壁を造った時の自分自身であるというのに、その事に気がつけば少なくとも自分を縛り付けているものを解く事はできるというのに…。

 

それをしたいと望む自分とそれをしてはならない、しないようにさせようとしている自分。

 

シンジはその狭間でいかようにしてもどちらの自分を選ぶ事もできないでいた。

 

自分の新たなる始まりとなる式の事も全く意識する事はなかった。

 

ただ、とりとめもない、迷いの時間が過ぎていくだけであった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がついた時にはもうシンジは教室にいた。

 

式はシンジが無駄に過ごした時間そのままに何時の間にか幕を引いていた。

 

ざわめく周囲、見知った顔、初めての顔。

 

その中からシンジに声をかけてくるものはいなかったが、その事に対してシンジはありがたいとも寂しいとも思わなかった。

 

その事に思いを巡らせる事自体がなかった。その時のシンジの心は自分の事で一杯だった。

 

ただ、ヒカリだけは声をかけてきた。アスカを追いはしたものの、その足運びにとてもではないが追いつく事もついていく事もできずにいた。体育館側に向かって行ったところで姿を見失っていた。

 

あの時の様子から到底式に参加している筈もないとヒカリには思えたが、一縷の望みを託して会場に入りはしたものの、やはりアスカの姿はそこにはなかった。

 

あの一連の出来事のあった時からアスカは携帯電話を持たなくなっていた。

 

部屋の電話にかけてみたが何十回コール音がなっても出る気配がない。

 

ヒカリとしては途方に暮れるしかなかった。アスカの事は心配でたまらないのだが、その行き先には思い当たるものもなかった。

 

あてもなく探しまわっても無駄なだけ、この辺りヒカリは冷静で現実的であった。

 

だからなのかもしれない、シンジに声をかけてきたのは。

 

ヒカリはシンジの傍に歩み寄り呼びかけると共に謝罪の言葉を口にした。

 

 

さっきはごめんなさい。

 

 

数少ない旧来の知己の声にシンジも意識を現実の元に戻す。

 

自分の内に全てを受けとめるという思いの現れか、今の自分の心中の事など微塵も表には出さず、穏やかな、でも少し翳りのある微笑みを浮かべてヒカリに相対した。

 

 

そんな事ないよ、僕の方が悪いんだから。

 

 

その言葉に申し訳なさ以外のものは何もない。

 

 

気を悪くしたらごめんなさい、アスカの行きそうなところ知らないかしら。

 

 

そのヒカリの問いにシンジはただ首を振るしかなかった。思い当たるところがないではなかったが、そこは今のアスカにとっては最も行きたくない場所の一つとしか思えなかった。

 

そこは自分にとっては大切な思い出の場所であり、自分が自分の望む自分になれるまで訪れる事を自身に戒めているところだが、自分の事を嫌っている、憎悪しているアスカにとっては忌まわしい場所でしかないだろうと思えていた。そこに足を向ける事は今とこれからとを問わず、あり得ない事だとしかシンジには思えなかった。

 

 

そう…。

 

 

そのシンジの応えにヒカリは小さく呟き俯く。

 

シンジとしてはアスカに何かをしようとしている、それができる、許されているヒカリに何か手助けになるような事をしたいと思いはしたが、こればかりはどうする事もできなかった。

 

彼女が行きたくない、行かないであろうと思われる所なら幾つかあげられない訳ではなかったが、今求められているのはその反対の場所なのである。

 

アスカの嫌っているのが自分だと分かるとして、そこから行きたくないもの、自分とアスカが関わっている所、行かないであろう場所は分かっても行きそうな場所が分からない。その事が、その事実がシンジにとっては辛かった。

 

シンジはまた思考の淵にはまりそうになったが、ヒカリの声がそれを止めた。

 

 

もし、アスカの事みかけたら連絡頂戴ね、これ、携帯の番号。

 

 

そう言ってシンジに携帯のディスプレイを示す。

 

シンジも自分の携帯を取り出して番号を記憶させる。

 

 

うん、もし見かけたら連絡するよ。

 

 

そう答えてヒカリに目を戻す。

 

その時シンジの目にしたヒカリの表情は心配と不安に彩られていた。

 

 

…………。

 

 

シンジは思わず見詰めてしまう、こんなふうに一心に、何のためらいもなく誰かの事を気にかけ、思い遣る事ができるなんて羨ましいと。

 

自分もそうありたいと、アスカの事をただ想うだけの自分でありたいと、そう願っているだけの自分が確かにシンジの中にはいた。

 

 

…………。

 

 

…じゃ。

 

 

ヒカリもまた少しの間シンジを見つめ、小さく告げると自分の席に戻っていった。

 

そんな二人におかしな視線が幾つか向けられてきていたが当人同士はそんな事には全く気づいていなかった。

 

それぞれの心にお互いの事はなく、その心の中には一人の少女しかいなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジは一人校庭からの道を歩く。

 

正門とは反対の方に向かうこの道には通る人がそもそも余り多くないのだが、入学式とオリエンテーションしかなかったその日、シンジは少し時間を遅らせて出てきてもいたので周囲にシンジ以外の人影は見当たらない。

 

正門側と違ってややさびれた、寂しい感じのする裏側の方はある程度までしか人の手が入っておらず、周囲を木や下草で囲まれた不整地の上、シンジは思考を自分に埋没させながら歩を進めていた。

 

やや俯き、その顔には何の表情も浮かべず、ただ黙々と機械的に足を動かしている。

 

中に資料を詰め込まれたショルダーバッグが肩にのしかかっていたが、そんな事はまるでシンジ自身気になる事はなく、その事に意識を向ける事もなく、上半身はしっかりとしたまま下半身の動きについていく。

 

その頭上の遥か彼方には来た時と同じ真っ青な空が広がっており、中天にその姿を惜しげもなく晒している太陽が熱く鋭い、痛い程の陽射しを投げかけてきていた。

 

それは、およそ春のものというには似つかわしくない、夏の日差しというのが相応しいような明るく強いものであり、周囲の風景、緑を鮮やかに、鮮明に照らし出している。

 

その降り注がれてくるもの受けて滲み出した汗がYシャツを湿らせてシンジの背中にうすい模様を作り出している。

 

そこから僅かに覗き見える背中は少年が確かに大人への階を昇りつつある事を示しているようでもあった。

 

かつてより少しは広く逞しくなった背中。それは少しでも少年が変わった事の証になるのであろうか。

 

そこに何かを負う事、預かる事ができるようになったのであろうか…。

 

「(…どうすればいい…僕は…どうすれば…)」

 

シンジは自分の中で問い掛けていた。

 

それが自分に向けてのものなのか、そこにいない誰かに向けてのものなのかはシンジ自身にも分かっていない。

 

自分の心の中の声を聞き、その問いに答えてくれる都合のいい、便利な存在を求めての事だったのかもしれない。心の奥底でそんなものを願い求めていたのかもしれない。

 

それは未だにシンジが逃げる事に執着している事を示すものでもあったが、それにシンジが気がついている筈もなかった。それは深層心理の、その奥底深くで働いているものであった。

 

人は誰でもそうした逃げの心理というものを多かれ少なかれ抱いているものだし、それを完全に消し去る事のできるものなどいはしない。人としての存在である以上それは必ずあるものであり、それをなくすという事は自身の生存本能にもとる事になる。逃げるべき時に逃げないのであれば生きていく事などできはしない。

 

しかし、今のシンジにとってはそれが間違いなく足かせとなっていた。

 

強すぎる逃避への回帰がシンジに自分の事を、為すべき事を決めようとするのを妨げていた。

 

少なくとも今のシンジは、それが何から発せられているものかは分からないが、何かをしようという意思を持てるようになっていた。

 

自分の意思でそれをしよう、したいと思い願う事ができるようになっていた。

 

しかし、それを止めよう、止めさせようとしているシンジ自身も確かに存在していた。せめぎあう二つの自分の間でシンジの迷い、苦悩はいつ果てるとも知れずに続いている。

 

そんな事がいつまでも許される筈はないという事もシンジ自身、分かっているというのに。

 

もしも、今のアスカが自分の前から姿を消したあの時と同じ状態であるというのなら時を隔てるごとに彼女は…。

 

シンジは迷いの中にも激しい焦りと苛立ちを覚えていた。

 

自分に何ができるかなどと言う事は思えもしないが、それとは関係なく、何かをしたい、何かができればと思わずにも願わずにもいられなかった。

 

焦燥と不安がシンジをかきたてる、全てを投げ出して駆け出してしまいたい自分がいる。

 

しかし、それを止める自分もいる。

 

そんな事をしてはならない、許されない、アスカの事に何かをするなどやってはならない、拒否され拒絶される、自分のした事、存在そのものが否定される、そんな事になって自分は耐えられるのか?、そんな事になるくらいなら何もしない方がいい。

 

そう叫んでいる自分も確かにいた。シンジは自分の中でその声を聞かずにはいられなかった。

 

自分のしてきた事を考えるとそうなる事の方が自然なようにシンジには思えた。

 

自分の事を受け入れてくれる事など、そこまでいかなくても認めてくれる事でさえも、会ってくれる事でさえもありえない事のようにしかシンジには感じられなかった、そうとしか思えなかった。

 

では諦められるのか、何もしないでいられるのか、あの時と同じように。

 

シンジの心は無限の回廊を巡り迷っていた。

 

どれだけ進もうとも動こうとも同じ所に戻ってしまう転輪の中をただひたすらさまよっていた。

 

「(…どうしたらいいんだ…分からない…結局…僕はあの時と何一つ変わっていないのか…変われていないのか…あれだけ嫌な思いをしたっていうのに…)」

 

そう思う事自体が少しは変わった事の現れなのかもしれないが、そこまでであった。

 

そこから先に踏み出す事が大切であり、そうでなければ何の意味のない事であったが、今のシンジにはまだそれができてはいなかった。

 

だから、抜け出す事ができないでいた。

 

いつまでも続く思考の連環にはまり込み、籠の中に飼われている小動物のようにただそれを回しているにしか過ぎなかった。いくら動こうともそこから一歩も別のところに行けずにいた。

 

「(…僕は…変わりたいと思っている…あの時の事は…本当に嫌な事だった…あんな事になってしまった自分が…あんな事をしてしまった自分が…本当に嫌で嫌でたまらなかった…自分自身から逃げ出したかった…でもそんな事はできる筈がない…いくら僕がわがままでも自分勝手でも…それだけはできない事なんだ…それをするためには自分の存在を消すしかない…それもできない…臆病だから…怖いから…だから変わりたいと思った…あの時の僕は…僕自身は…耐えられないくらいに…本当に耐えられなかった程に…あんな事をしでかしてしまった程に…自分自身の事が嫌でしかなかったから…そんな僕自身から逃げるためにはそうするしかないと…変わるしかないと思ったから…)」

 

その動機が果たして今とこれからの彼自身にどのように作用するのか、していくのか、正しい事なのか拙い事なのか、それは誰にも分からない事であったが、そうだと志す事自体が悪い事である筈はなかった。

 

かつてあの頃、嫌だという事しか表に出さず、それ以外に何もなかった彼にしてはどうすればいいのか考えるようになっただけでも少しは先に進めたといえるのかもしれない。自己中心的である事に変わりはないが。

 

「(…でも結局…僕のそんなちっぽけな望みでさえも叶わないのかもしれない…あの大きすぎる事に比べれば…あの出来事に比べれば…僕の思っている事なんて簡単に押し潰されてしまうのかもしれない…それを目指す事でさえもできないのかもしれない…僕にとってあの事は…大きすぎる…重すぎる…振り切る事もできない…僕自身のした事だから…)」

 

シンジは気がついていない、シンジを捕らえているのはその事ではなくシンジ自身であるという事を。

 

シンジ自身がそれにこだわり、陥らせ、自分で自分を動けなくしているという事に気がついていなかった。

 

しかし、まだまだ子供とも言えるような年齢の少年にそれを求めるというのは酷というものであったろうか。

 

そして、それ以上にその身に降りかかった事、自分の知らないところで自分に仕組まれた事は巨大で重すぎるものであった。

 

今のシンジのように捕らわれ放されないのがむしろ当然と思えるような、それは過酷で残酷なものであった。

 

「(…駄目だな…僕は…こんな事を思う事自体が駄目な事の証明なのかもしれない…)」

 

そう思いかけてシンジはそんな自分に気がついて、胸に大きな痛みを覚えて立ち止まると自分を叱責するようにして自身の頭を小突く。

 

「(…駄目だ駄目だ…こんな事を考えているようじゃまたあの頃に逆戻りだ…あの頃の嫌な自分に…そんな自分が本当に嫌だっていうのは分かっている筈なのに…)」

 

シンジは面を上げると頭を振って二、三度深呼吸をした。

 

少なくとも今は自分がどうするのか、どうすればいいのかに考えを集中するように意識する。

 

アスカの事を思えばとにかく時間がない筈であった。自分自身の根本的な問題はともかく、今はたとえそれが嘘偽りであったとしても、自分が本当に納得したものでなくても何かをしなければならない筈。

 

今の自分は何かを持っている筈、それはシンジ自身のなにものにも譲れない自負であり、存在のよりどころでもあった。

 

それがために自分は自分というものを持つ事ができた筈だし、自分の意思というものを押し通す事がまがりなりにもできるようになった筈。

 

そのためにも日向の申し出も断ったし、アスカとの事も決める事ができた筈であった。

 

だから自分には決められる筈、自分というものがあるのなら、自分というものを持つ事ができているのなら。

 

自分が自分で大切だと思っているものにかけても、それが自分にとっての虚構ではない事を証明するためにも、自分が自分でする事を決めなければならいと思い、そう願ってもいた。

 

全ては自分の中にあるちっぽけな、でも何よりも大切な何かのため、それだけが今のシンジを支えるよりどころに他ならなかった。

 

「(…とにかく探そう…探して…会ってみよう…何もないなら…それはそれでいいし…その時にもし…本当に拒絶されたのなら…その時にこそ…僕は僕の事を決めればいい…僕の考えの一つが正しかったという事が分かるのだから…それはそれでいいじゃないか…仕方ないじゃないか…)」

 

その事を思うとシンジの心は暗く深く沈まざるを得ない。

 

いいじゃないか、仕方ないじゃないかと思いつつ実際にそうなった時には耐えられるかどうか分からなかった。圧倒的に耐えられないような気がしていた。

 

それが自分のした事に対する結果なら、そうともシンジは思う。

 

しかし、自分から何かをした結果がそれであるというのならシンジにとっては辛すぎる事であった。

 

結局自分はやる事なす事全てがこういう事になるのかと思わずにはいられなかった。

 

それでも今は動こう、何かをしよう。そう自分に言い聞かせて面を再び上げる。

 

はなはだ頼りないものであったが、そこにはその胸中にあるものを表しているように小さな、でも間違いのない確かな決意のようなものが現れていた。

 

吹けば飛ぶようなものでしかなかったが、それは確かにそこにあった。今のシンジ自身を現しているかのように。

 

再びシンジは歩を進め始める、何かに向けて歩み始めた。

 

そこには意気込みとかそういったものは感じられなかったが、ごく自然な、シンジ自身がそうありたいと、そうする事を望んでいると感じさせるものがあった。

 

何もなければそれでいい、その事だけにシンジは意識を集中しようとする。

 

自分と再び会った事がその原因となっているのかどうかは分からなかったが、少なくとも自分の周りにいる数少ない関わりのある人がどうにかなってしまうというのはもう沢山だった。

 

手をこまねいて放っておいて何もしないでいるよりはマシな筈、シンジはそう思い込む事にした。

 

ちらつくかつての事、今日あった校舎裏での事を意識しないように、思い起こさないようにしながら歩を進めようとしていた。

 

自分の意思で、アスカへと向かおうとしていた。

 

不安や恐れと等量にある想いを心の中で微かに意識しながら、アスカに会おうと、会いたいと求めていた。心がそう願っていた。

 

そんな思いに捕らわれながら歩を進めるシンジ、胸の中はこれからの事、これから起こるであろう、かもしれない事で一杯になっていた。

 

その心は、自身と一人の少女の事で一杯になっていた…。

 

ふと、手前にある曲がり角から一人の人影が姿を現す。

 

自分の思い、考えに耽りながら歩いている内にシンジは学校の敷地から出て街の中へと入っていたようだ。その姿を認めるまでシンジ自身、自分がどこにいるか失念してしまっていた。

 

何とはなしにそちらの方に目をやる。

 

自分と同じ学校の女子用の制服を着ている事に気がついた。

 

人通りの少ない街角の小路、ブロックの壁に区切られて道は前方と右手とに分かれている。

 

T字型の交差点、そこでシンジはその少女と出会った。

 

周囲に他の人影はなく、そこにはシンジと姿を現したその少女の二人きり…。

 

シンジは道なりに歩いていたからその姿にすぐ気がついたが、角から現れたその少女はシンジと同じ方に向かおうとしていたのか、元きた道から右に向きを変えたのですぐにはシンジには気がついていないようであった。

 

シンジにはその後ろ姿が見えるだけであったが、一瞬垣間見たその横顔は忘れる事などできはしないものであった。

 

少しくせのある短めの鳶色の髪、そしてそれと同じ瞳の色…。

 

細くしなやかなその体、柔らかくも優しい雰囲気…。

 

それはあの時と何も変わっていないが、背が少し伸びていて愛らしさから美しさへと、女の子らしさを残しつつも大人への変遷を間違いなくその身に見せつつあった。

 

「…君は…」

 

シンジは思わず口に出してしまっていた。

 

それはシンジ自身以外の誰かに聞こえるようなものではなかったが、前を行く少女はそれに気がついてか、何かを感じてか足を止めてシンジの方を伺うように僅かに視線を向けてきた。

 

シンジは何も言えない、自分に向けれられたその瞳に心の中の疑惑は確信に変わる。

 

シンジを見つめる少女の動きは一瞬止まった。

 

そして、何かを確かめるように、導かれるようにゆっくりと体を巡らせる。

 

向かい合う少年と少女。

 

かつてと重なり合ったその姿に、互いの瞳が大きく見開かれた。

 

 

 

 

 

 

<第五話 了>

 

 

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