Rambler

第六話 昏瞑

 

 

第六話 昏瞑



2000.9.24



伊吹マヤは一人夜の街を歩いていた。

 

まだ深夜とも言えない時間帯。早晩という訳でもないが、夜闇の中を流れていく時は更けつつある。

 

人の姿がその全てを消すにはまだ早いのかもしれないが、彼女の周囲には最早それを認める事も見出す事もできなくなっていた。

 

街の中心地、繁華街と呼ばれる方では未だそのものを形成する人の姿、その流れがあるのだろうが、今彼女がその身を置いている場所においては経過していった時と等量に消え去ったものになっている。

 

彼女の存在があるるところ、天と地が創り出した陰りの中、彼女自身を包む遥闇の向こうから僅かに送られてくる細光のもとで一人歩を進めていく。

 

全ての者に平等にもたらされ、ただ一つの例外もなく、許す事も許される事もなく飲み込み覆う、人の心に原始的な恐怖を喚起し、それと同時に安らぎと平穏をもたらすもの、それが始まった時から決して違う事なくただの一度も狂う事なくもたらされる数少ない普遍の真理、あまねく全てのものに一時の眠りと休息を与えるもの。

 

それは永劫とも思われる無明と声なき静寂をもってその帳を降ろす。

 

人がそれに感じるもの、恐怖や不安、安息や平穏といったものとは別にそれはただやってきて過ぎ去っていく。人の存在など、何を感じ何を思うかなどという事とは関係ないかのように。

 

少女は言った、人は闇を恐れ、火を使い、闇を削って生きてきたと。

 

しかし、そのものに、人が夜と呼ぶ暗闇の訪れその事自体に正邪の区別などない。そこにもたらされる事に何の意味もないかのように、そこにある事、ただその事実だけがあるかのように。

 

それのもたらすもの、暗闇と寂寥。それは生あるものとないものとの別なく全てをその懐に抱き包み込む。

 

他に誰もいない無命の造物の立ち並ぶ中、ただ一つ彼女の靴がたてる規則的な乾いた音だけが響いていた。

 

タイトスカートに対になっているジャケット、アイボリーホワイトのスーツが他に何もない暗闇の中で映えるようにその存在を主張している。

 

均整のとれたプロポーション、その肢体。大人の成熟さを香わせるものであるが、どこか幼さを残しているそのラインは、彼女自身に残されている童顔さともあいまって今をもってまだ成人前後の印象を周囲に与えずにはいない。

 

ショートにカットされ清潔に飾り気なくまとめられた艶やかな黒髪、彼女自身大人びた立ち居振舞いをする事がないので彼女の見た目がそのまま実年齢とみなされる事はそう珍しい事ではなかった。

 

そのように見られる事に対して彼女自身どう思っているのか、その心中は他者からは推し量る事はできないが、少なくともその事を気にしている風には今も普段のありようからも感じられない。まるでそういった事への自覚がないかのように。

 

ただ、その容姿とは別に彼女自身の内面、物事に対する考え方としては、ある意味きれい事ともいえる程に潔癖なものを持っていた。

 

その事に関してはそれがいいのか悪いのかは分からないが、そんな彼女の中では少なくとも自分はそうありたいと思っていたし、それを変えるつもりも今のところはないうよであった。自分で自分はそうありたいと願っていたし、ある種のこだわりのようなものを持ってもいるようでもあった。

 

それを指して青いと言われるなら彼女は甘んじて受けるつもりでいた、彼女自身の信条としてはそんな汚い大人になるくらいなら物分かりの悪い子供のままでいたかった。

 

だから、なのかもしれない。彼女自身が、いい悪いは別にして若いというか幼く見えるというのは。

 

その心の持ちようは、あるいはそれは天授のものかもしれないが、彼女自身の容姿にも現れているのかもしれない。

 

そんな大人の可憐さと幼子の愛らしさをあわせ持つ彼女ではあったが、今のその表情は暗く沈んだ冴えないものになっていた。

 

華やかな美しさをひらめかせる事はないが、それを目にする者に柔らかくも暖かなものを感じさせる淑やかな明るさはその顔から消え失せていた。

 

彼女自身、それと意識しているのか顔は上げられ視線はしっかりと前に向けられているが、そこに常日頃彼女が周囲に示している溌剌としたものはなく陰鬱さがその全身を包みどことなく気だるげな感じがしていないでもない。

 

若さ、あるいは子供らしさをその身で体現し、心もそれと指向しているのならその内から発するものも元気さ、あるいは無垢な活力といったものの筈なのだが、今の彼女からそれらしきものは感じられなかった。

 

ただ、それは何かを思い悩むとか何かを憂いているとかいうようなものではなく単純に身体的、精神的な疲労がかさんでいて彼女自身に本来あるもべきものが失われている、そんな雰囲気であった。

 

控えめでシンプルなデザインのハンドバッグを携えている手もどことなくただ吊り下げられているような感じで、その足取りは未だしっかりとしてはいるものの、どことなく重いものを放り投げているような感じでもある。

 

実際、彼女は今かなりの疲労を感じていた。

 

いかに自分の仕事に生真面目さと自分なりに感じるものを持っているにしても二週間も三週間も泊り込み、その中で幾度も夜通しをしていたのでは精力も活力も枯渇するというものであった。

 

彼女自身、そんな自分にもう若くはないのかな、若くはいられないのかな、と思い微かな焦慮と失望のようなものを感じないでもなかったが、自身の内にあるやる気というか、自分の中に持っているものが自分自身にまだある事を確かに感じて、疲れの中にも明日からの展望のようなものを新たに思い描いていもいた。

 

実際、今の彼女の時間は仕事を中心に回っている。その大部分というかほとんど全てがそれに費やされ彼女自身の時間というものはほとんど取れずにいた。

 

今も久しぶりに自分の住家への帰路にあるというのに仕事の事ばかりを考えている。明日以降の事を考えても浮かんでくるのは仕事の事ばかり、そんな自分に気がついて、仕方のない事とはいえ彼女自身そんな自分に微かな落胆のようなものを感じていた。

 

自分から望んで携わり、それに対してやり甲斐を感じる事も自分の全てをかける意義も見出してはいたが、全てを犠牲にしてしまう事には彼女自身疑問というか、否定的な考えを持っていた。

 

少なくともそれが自分だけの事ならまだなんとか自分自身の内で折り合いをつける事もできるのだが、自分がそうする事によって周囲、特に身近にいる人にその波紋が及ぶのは何としても許容も容認もできる事ではなかった。

 

今の自分の状態に自分個人という条件の元ならば彼女自身、嫌なものを感じる事はない。今のこの疲労でさえも自分のやっている事に対する現れの一つと思って嫌気がさすどころか妙に感じ入るところでさえもあったかもしれない。

 

しかし、今の彼女はそうではなかった。自分が何か一つの事に没頭してしまえばそれによって削られるものが出てきてしまうようになっていた。彼女の元には自分自身のかけるもの、したいと思うものがただ一つだけではなくなっていた。

 

彼女自身、そのどちらをとるのかと問われればその場で硬直するしかない程にその二つのものが大切になっていた。

 

他にも彼女が生きていく上で色々な物事が彼女自身にはあるのだろうが、一番大切なものはその二つになっていた。

 

しかし、今はその一方、仕事にこそそれを思う彼女の配分は大きく傾けられている。彼女自身の想いではなく、時間という自身を拘束するものにおいて。

 

彼女自身の意図においてそれは望むものではなかった。

 

確かに仕事はやらなければならないし彼女自身したいともやりたいと思ってはいたが、今の状態は行きすぎのような気がしていた。何となく許せないものを感じてもいた。

 

自身の思いとは裏腹に現実として結局のところ一方のために他方を犠牲にしている事に嫌悪のようなものを感じないでもなかった。その潔癖ともいえる心の持ちようが彼女自身の無力さとその為しようを認められなかったのかもしれない。

 

自分の心の中にある、もしかしたら双方の内でもより大切なもの、一番大切なものの事を想うと彼女は忸怩たるものを感じずにはいられなかった。

 

マヤは思う、もっと傍にいてやりたい、傍にいたい、もっと多くの時間をかけて共に過ごしたい、と。

 

今日は入学式だった筈、行ってくれただけでも嬉しい事だというのに自分は一体何をしていたのだろう。一緒に行ってやる事、その晴れ姿を見てやる事もできなかったなんて、と。

 

いかに資料の作成が大詰めを迎えているからといって、その事がまた想いの内にいる存在そのものを周囲という即物的なものから守る事になるとはいえ、それを理由に自分のした事のいい訳になる筈がない。マヤはそう思わずには、自分の不甲斐なさを情けなく思わずにはいられなかった。

 

かつての監督記録を目にして憤慨していた自分がまた同じ事を繰り返そうとしている。仕事という錦の御旗を振りかざして自分のみならず周囲にいる人、自分の傍にいる人を犠牲の備にしようとしている。そんな事は彼女自身、認める事も許す事も断じてできはしない事であった。

 

だから、とも思う。

 

だから、せめて今夜はお祝いをしてあげよう、と。

 

あなたが今日この日に新たなる門出を迎えた事がどんなに素晴らしい事なのかと祝福してあげようと。

 

それはもしかしたら取るに足りない事なのかもしれないけれども、あなたの人生の中に刻まれる大切な記念すべき事なのだと、今日その時にあなたは新たな一歩を踏み出したのだと心からの想いと言葉を伝えよう、伝えたいと思っていた。

 

だから、今日マヤはどんなスケジュールも進捗も関係なく時間を空けた、奪い取ったと言った方が正しいかもしれない。

 

どんな理屈も事由も海溝の奥底に向かって蹴飛ばし捨てた。本来なら一日のところを定時に妥協して結局今まで残っていたのだから詫びは入れられても後ろめたいものなど何もありはしない。今までの事も含めて許容の範囲の外であった、マヤはそう断じて微かに動くものさえもありはしなかった。

 

今の時間にまでなってしまった事、それについては今更どうこう言うつもりはなかった。

 

今はもう既に彼女の頭の中は自分が今向かっている、帰ろうとしている先に待っているであろう大切なものの事で一杯になっていた。

 

もうすぐ、もうすぐ終わる。それはそう遠くない少し先の事。マヤはその時の事を思わずにはいられなかった。

 

そうしたらこれまでの分を取り戻すでもないけれども、自分の全てをかけて傍にいてやろう、傍にいよう。その時の事を思う時、そう願わずにはいられなかった、誓わずにもいられなかった。

 

マヤの顔はそんな遠くない未来の展望に嬉しさと希望を湛えて、その足が今自分の目指している所に近づくごとにいつものたおやかさ、暖かさを取り戻していっていた。

 

せめて、あなたが一人で歩けるようになるまで、今の自分とこれからの自分を取り戻す、その手にするまで私は私の全てをかけてあなたのお手伝いをしてあげる。

 

いいえ、そうではなくて、私がそうしたいと、あなたのお手伝いをさせて欲しいと願っている、私が自分の意思で。今と未来はあなたのために、あなたのためにこそあるのだから…。

 

マヤは何の気負いもなくてらいもなく心からそう思っていた、自然に心から溢れ涌き出るようにしてそう祈り願っていた。

 

何故それがマヤ自身の大切なものになり、今その心で思ったような事を描くようになったのかは他の誰かに分かるような事ではなかった。

 

それはマヤ自身がそれを抱き、そう思うようになったのだからその発祥となったのはマヤ自身以外に分かる筈もなかった。

 

今、マヤはただそう思いそうしたいと自身が欲していた。

 

エゴを押し付ける事はできないが、それが許されている限りそうしていたいと願っていた。

 

どのような結果になるにせよ、それが終わりを告げるその時まで、自分自身の精一杯でそうしようと、そうしたいと望んでいた。

 

きっと、いつかそうなる時がくる、マヤは希望を捨てずにいた。

 

あの子がその輝きを取り戻す時が、それが例え本当のものではなかったにせよ、かつてはそうある事ができていたのだから、全てが本当に自分のものになった今、それができない筈がない、マヤはそう信じてもいた。

 

不安がないと言えば嘘になるのだろうが、マヤは自分の中で決めていた。何があろうとも絶対にやり通して見せると、自分からは決して引きはしないと。

 

それが自分と自分のいた組織がした事に対する償いなどではなく、自分自身として、伊吹マヤとしてしたい事なのだと、そう欲している事なのだと、少なくともマヤ自身はそう思っていた。

 

いつかその輝きと笑顔を見る事ができたのなら、もうそれ以上何も言う事などありはしなかった。その思い以外にマヤの中には何もなかった。

 

その時がきたのなら、その時に自分が傍に居続ける事ができたのなら、もしかしたら寂しさを感じてしまうかもしれない。でも、それでも嬉しさはそれを覆い尽くして余りあるだろう、マヤは未だ影すらも覗う事のできないその時の事を思ってそんな妙な感慨にふけってもいた。

 

そんな自分に気がついて、周囲に誰もいない事をいい事に小さく舌をだして自分で自分の頭を小突く。

 

いくらなんでも獲らぬ狸の皮算用が過ぎるというものだし、そうと願う事はいいにしてもまだ見ぬ先の事に過大な期待を寄せるのは危険というものであった。

 

今はただ自分の想いを確実に伝える事、それだけを思う事にしようと心の中で決める。

 

自分の意図するところ、希望している事とは別に今日はそうしたいと願ったからこそ今こうして帰ろうとしているのだから。

 

将来のために今を見失ってはいけない、そう思って彼女は意識を今とこれから自分自身のやろうとしている事に集中する事にした。とりあえず、どうやってあやまろうかな、などと考えてみたりもする。

 

知らず自分の思い、考えにふけりながら歩いていたら思いの他距離を稼いでいたようでマヤはもう間もなく自分の住んでいるいるマンションに辿り着く事を見なれた周囲の風景から見て取った。

 

自分の考えに陥りやすい所は変わらないな、などと他人事のように自分の事を思ってそれでも足を進めていく。

 

本当に管理責任者としても同居人としても失格ね、と思わないでもないが、そんなものは今は不必要とばかりに一瞬の後には切って捨てた。

 

そんな後ろめたさのようなものを持っていたのでは心からお祝いをする事はできないと思ったから、申し訳ないからするのではなく今の自分として、傍にいる自分自身としてお祝いをしたいからそうした。余の事の全ては頭の中から駆逐した、そうなってしまっていた。

 

時折見せてくれる微かな笑み、それを目にできる事をマヤは期待していた。

 

それがきっかけとなって、いつか心の赴くままに、いつでも現してくれるようになる事を、いつかそれが満面のものになる事をマヤは願っていた。

 

許してくれたら、分かってくれたら、そして、喜んでくれたらいいな。

 

そう思いながらマヤは視界に入ってきた自分の部屋のあるマンションに近づいていく。

 

そのマンションの周囲を巡る外壁の途切れ、門の近くまで来たところでマヤは足を止めて何かを確かめるようにして顔をあげた。

 

視線はそのマンションの階層を構成する十五層の内の十層のあたりに向けられていた、そこにはマヤと同居人が住んでいる部屋がある筈なのであったが…。

 

「…変ね、アスカ、まだ帰っていないのかしら」

 

マヤは訝しげな表情をした。その目にした自分の部屋がある筈の所には未だ明かりが灯されないまま周囲と同じ暗がりしか映し出していなかった。

 

「…ヒカリちゃんと寄り道でもしているのかしら、それならいいんだけど」

 

今言った事が事実ならそれはそれで良い事のようにマヤには思えた。およそ今まで年頃の女の子らしい事をしようともしなかったし、興味も示さなかった自身の意を傾けている少女がそうした事をするというのは喜ばしい事のように思えていた。

 

自分は少なくとも力量的に護衛としては不適任だから護衛は見えないところで別についている。しかし、その護衛からは彼女がそうした行動をとっているという報告をマヤは受けてはいなかった。知る限りでは自宅、自室にいる筈なのだが…。

 

「…また何か報告漏れしているわね」

 

マヤは全身が滾るような憤慨を感じながら確認のために携帯に手を伸ばしかけた。

 

しかし、それはハンドバックの口を開けて手をかけたところで止められた。何かに気がついたようにして動きを止めて嫌なものがその表情に浮かんでいる。

 

その心中には下手に本部に連絡をつけて呼び戻されでもしたらたまったものではないとう思いがあった。

 

応じるつもりなど微塵もなかったが、煩わしい思いをさせられるのはごめんだった。折角の記念日だと自分自身は思っているというのに、他の余事など心の片隅にも乗せていたくないというのに。

 

マヤはハンドバッグから手を抜くと一つため息をついて心と表情を落ちつかせる。

 

今のこの状況は仕方のない事だし、どういういきさつがあったのかも知っておきたかったけれどもそれは今これから自分で確かめればいい事。

 

そうとも思い直して面を上げた。護衛の怠慢をただ許してやるつもりなど毛頭ありはしなかったが。

 

自分にどうゆう責任があるのか分かっているのかしら、こってりとお灸をすえてやると心の中で固く誓って、二度とこんな怠慢を働かない事を誓わせてやるとも心の底に刻み付けて今はこの件に関しては先程ど同様にきっぱりと切って捨てた。今はどんなに些細な事でも他のものが心の中にあるのは絶対に我慢ならないようであった。

 

全く、と呟いてそれが最後とでもいうようにして同居人の少女が待っているであろうそこへと向かおうとする。

 

そうしようとした時に、一歩を踏み出した時にその視線が何気なく周囲を覗うようにして右から左へと巡らされた。もしかしたら目に付くところにいる筈もない叱責されるべき護衛の姿を探していたのかもしれない。

 

ふと、左手の暗がりの中に人影があるような気がした。

 

意識する事なくマヤはそちらの方に向き直っていた。全身に緊張が漲り表情は真剣な厳しいものになる。

 

今の時間で住宅地の中において人影など珍しいものではないが、何となく不自然なものをマヤは感じていた。その人影は彼女が注視し始めてからも全く動いていない。

 

外壁にもたれかかって力なく俯き動かずに、マヤの目からは動けずにいるように見えた。街灯のつくり出した光陰の僅かに向こうにいて目が慣れるまでその顔を確かめる事はできない。

 

何をしてくるという素振りも気配もなかったが、普通の立ち居振舞いではなかった。ただの酔っ払いと思わないでもなかったが、それにしては様子がおかしい。

 

まるで全ての力を使いきったようにしてただ佇んでいる、そんな感じであった。まるで今にも朽ち倒れてしまいそうな印象をマヤはその姿から受けていた。

 

何故か不安は感じなかった。どうしてかは分からないが、その翳りの中にある姿を知っているような気がしていた。

 

知人にいただろうかと思い頭を巡らせかけたところでその人影が揺らぐ。

 

背にある壁からずり落ちるようにして、その身体は力なく崩れていく。

 

「ちょ、ちょっと」

 

知らず、マヤは駆け出していた。

 

その時その心の中は同居人の事で一杯の筈であったが、何を思う事もなく、疑念を差し挟む余地もなく、体が動いてしまっていた。

 

倒れている人が近くにいて見て見ぬふりをする程にマヤは自分自身の事を冷たくはないと思っていたが、その時は何を思う事もなく体は動いていた。まるで反射かなにかであるかのように。

 

それは今目の前で崩れ落ちて行くものが自分の心に抱いている大切なもの、その大切なもの自体が大切だと思っているものだと心のどこかで認識しているせいかもしれなかった。

 

マヤはそれを受けとめる事はできなかったが、地に伏したその姿の傍へと行き跪いて抱き起こそうとする。

 

「大丈夫ですか!?。しっかり、しっかりしてください!」

 

自身の腕で抱え起こしたその人影は学校の制服を着ていた。

 

背丈は倒れているから良くは分からないが、少なくともマヤ自身とは頭一つ分以上は違うだろう。しかし、思ったよりもその身体は軽くマヤは自身の懐に抱くのにそんなに苦労はしなかった。

 

その少年と自分の接点である掌や腕からは汗の乾いたベタついた感触がもたらされてきていたが、今のマヤにはそんな事に気がつく余裕はなかった。

 

異常とも思える程に湿りきった白と黒の着衣の事にも意識が向けられる事はなかった。その視線は自身の腕の中にある、仰向けに向きあげられた、今はその瞳を閉じている顔に注がれていた。

 

どことなく線の細そうな、ある種中性的でもある幼さを残した、優しげな、頼りなげな面立ち。

 

今は汗で汚れているが、まるで女の子のような柔らかで綺麗な短くも流れるような黒髪。

 

どこかそこにあるようなないような、消え入ってしまうようなその存在感、雰囲気。

 

マヤの瞳はその少年に、今自分の腕の中で力なく傾げられているその横顔に向けられていた。

 

何かが形をなすように、郷愁に胸が締め付けられるような感覚を覚えながら、今その瞳に映っているものと記憶の中にある姿とが重なる。

 

その瞬間、マヤの瞳が一瞬、見開かれた。

 

「シンジ君!!」

 

マヤのその驚声にシンジの睫が微かに震えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…シンジ?…」

 

望み得なかった再会、叶う筈もなかった出会い。

 

どれだけ願っても想い焦がれても決して許される事のなかった逢瀬。

 

それが今、少女にもたらされていた。

 

自身の想いとは裏腹に引き離され、傍にいる事もできはしなかった少年が、その存在が今こんな身近にいた。

 

自分が想い、いつも心の中にいた少年…。

 

その少年が今、自分の傍に、自分がこうしてすぐ傍にいた、いる事ができていた。

 

今こうしてまた出会う事ができた、その願いが、想いが叶えられていた。

 

その時、少女からは全てが失われていた、少年の事しかなくなっていた。

 

一言、その名を口にしてから少女は動けなくなっていた。

 

自分の元にもたらされたものが信じられないように、望んでいながらある筈のない事が自身にもたらされた事に意の外をつかれたように。

 

その瞳は、だだ大きく揺れていた。

 

ある筈のない事が、今自分の目の前で起こっている事が現実であるように、夢でもなんでもない本当の事であるように願うかのように、祈るかのように。

 

「…マ…ナ…?」

 

シンジの口からその名が漏らされた。

 

それは違う事なく、今その場にいる少女のものであった。

 

シンジのその言葉にマナと呼ばれた少女の肩が、ビクッと震える。

 

何かを噛み締めるように、確かめるようにして少しの間その場で動けずただ佇んでいたが、やがてゆっくりとその縛りから開放されて、身体から力が抜けていく。

 

表情も、今のこの現実に対しての驚きと不信が消えてゆき、その心をそのまま露にしたような、とても言葉では形容できないような嬉しさと喜び、他に類するものとてない天にも昇るような、本当に心からそうだと感じている幸せがとって変わっていった。

 

溢れそうになる想いをこらえるかのように、それが雫となってこぼれ落ちてしまわないように心持ちそのつぶらな瞳を細めて、その姿を確かめるように、自身の想いの内にある、今自分の瞳に映っている、すぐ傍にいるその少年の事を愛しむように、離さないかのように自分自身の想いの全てを込めて見つめていた。

 

他に何もない、今この時にこうしていられる、それが全てであるかのように、それこそが望みの全てであるかのように、ただそうしていた。

 

「…シン…ジ…」

 

今一度、その名が紡がれた。

 

それは先程とは違った、自身の疑念を発したものではなく呼びかけるような、心から求めているものを、その想いをそのまま言葉にして現した、そんな純粋に少女自身そのものから発せられたものであった。

 

その呼びかけを耳にして、今度はシンジの身体が大きく震えた。

 

まるでそれが自身の心に穿たれたように、それが今のシンジ自身に大きな穴を開けさせたように、望むと望まざるとに関わらずそれが自身の中に入りこんでしまうかのように、染み入ってしまうかのように。

 

かつての想いが甦ってしまうかのような、今の自分とかつての自分がすげかわってしまうような、そんな恐ろしくも甘美な感覚をシンジ自身感じずにはいられなかった。

 

シンジの身体は硬直したまま、その表情も瞳が大きく見開かれたまま驚愕のそれから変わる事はなかった。

 

ただ何も考えられないまま、消え落ちてゆきそうになる今の自分と抱いている想いに必死になって取り縋っている事しかできなかった。今の自分の存在を保っている事だけがその全てになっていた。

 

甘い誘惑、陶酔の囁き。

 

今目の前にいるその存在、かつて想いを通わせ合った、それを果たす事なくその存在を消してしまったと思っていたその少女、すぐ傍にいる女の子。

 

かつての自分は受け入れられた、それならば今の自分がかつての自分と変わらなければ今再び受け入れられるのではないか、そうでなくても今の自分もかつての自分も含めてこの少女は受け入れてくれるのではないのか。

 

そうしてしまいたい、今の自分の何もかもかなぐり捨てて全てをこの欲求、欲望に捧げてしまいたい。

 

シンジ自身、意識の平衡の中ではそうと意してはいないのに、心が思いが勝手にそうなりそうになってしまっていた。

 

自分で判断もできないまま自身の事をそうしようとしていた。そうさせたいと、そうありたいとなりそうになってしまっていた。

 

しかし、それと同時にそのまま身を委ねようとするのを、そうなってしまおうとするのを止めようとしている自分もいた。

 

それもまた何故なのかはシンジ自身には分かっていなかった。そして何よりも、そんな事に思いを遣る暇などありはしなかった。その全ては今の自分とその想いを支えるので精一杯になっていた。

 

かつての自分になりそうになるのを、今の想いがかつての想いになりかわってしまいそうになるのを防ぐので全てだった、それに耐えるより他に何もありはしなかった。

 

いいも悪いもなくただ今の自分と抱いている想いを見つめ握り締めている事しかできなかった。まるでその事自体が自分の存在目的であるかのように、それだけが今の自分の全てであるかのように理屈も理由もなくただそうしていた。

 

碇シンジという存在そのものが、ただそうしていた。

 

マナの瞳にそんなシンジがどう映ったかは分からないが、しかし、マナは嬉しそうに少し悪戯っぽい笑みを浮かべると両手を後ろに回し、ゆっくりと、でも確かにシンジに近づいてきた。

 

シンジにとってのそれは侵食とかそういうものではなく、そうである事が当たり前のような、柔らかくも安楽なものでシンジ自身を染め上げていった。何を思う必要も感じる必要もない、それが当たり前であるかのようにそうなっていった。

 

その中でシンジのその表情も瞳もゆっくりとだったが、いつものそれに戻っていく。

 

穏やかな、優しげな、でも少し頼りなげな、いつもともかつてとも変わらぬそれへと戻っていっていた。

 

マナがその距離を縮めてくるごとにシンジの表情は落ちつきを取り戻していった。その存在が近くにあるようになるごとにそうなりつつあった。

 

マナは手を伸ばせば触れられるくらいのところで足を止める。

 

今はもう見上げなければ合わせる事のできなくなったその瞳に自身の瞳を合わせようと心持ち顔を上にあげる。

 

今一度、自身の瞳にその姿を映すように、自身の姿がその瞳に映るようにそこにあって互いに互いを見つめるようにひと時待った。

 

「…相変わらずみたいね、シンジ」

 

そう言ってマナは小首を傾げて今の自分の全てを現したような、こぼれるかのような満面の笑みを浮かべた。

 

瞳を瞑って、一瞬たりとてその姿が自身に映らなくなるのは嫌だったが、そうしないともう溢れるものを抑える事ができなかったからそうしていた。

 

なんの気取りも偽るものもなくその胸の内を晒している、開ききっている。その想いの全ての発露がそこにはあった。

 

柔らかく、暖かく、静かに、嬉しそうにその心が、想いがシンジに向けられてくる。

 

そんなマナにシンジは少し困ったような顔をした。

 

マナから向けられてくるもの、かけられた言葉にどう応えていいのか分からないような、そんな感じであった。

 

そして、今ひとたびマナがその瞳を開いた時に、そこに映し出されてきたのはそんなシンジの姿…。

 

かつて変わらぬ優しい暖かな、自分を見つめてくる綺麗なその瞳…。

 

刹那、マナはシンジの胸に飛び込んでいた。

 

自身の瞳に映ったシンジに、マナの想いは弾けた。

 

まるで引き込まれるように、その身を寄せていた。

 

自身にその全てで飛び込んできたマナを、シンジは揺らぐ事もなく自身もまた全てでそれを受け止めた。

 

その事に、シンジが自分を受けとめてくれた事にマナは深い安らぎとこの上ない嬉しさとを改めて感じていた。

 

シンジはシンジのまま、逞しくなってくれていた事がマナには本当に、他には何もない程に嬉しかった。

 

その想いがまた、マナの心を溢れさせる。小さく身体を震わせてしがみつくようにして制服のYシャツに顔をうずめる。

 

そんなマナにシンジの全身には、しかし、力が込められていた。

 

双掌は固く握り締められ蒼白に血の気を失いつつあった。

 

「…シンジ…無事だった…良かった…本当に良かった…」

 

その言葉の最後はこみ上げてくるものに遮られて途切れていった。

 

シンジは瞳を固く瞑り唇を噛み締める。

 

その胸の内にいるマナから嗚咽が漏れ聞こえてきた。

 

「泣いてなんかいないんだから!」

 

しゃくりあげながらマナは声をあげる。

 

「決めたんだから、約束したんだから。もしかしてもう一度会えたら、巡り合えたら、もう二度と泣かないって、ずっと笑顔でいるって、笑っているんだって約束したんだから、自分で自分に誓ったんだから、決めたんだから、だから泣いてなんかいないんだから!」

 

マナは今の自分を否定するかのように、でもどうする事もできないかのようにして、途切れないように大きな声で、必死になってそれを送り出していた。

 

「笑顔の私でシンジといたいから、だから、だか、ら、泣いて、なん、か、いな…いん…だか…らぁ…」

 

それだけをシンジに伝えると後はもうマナは何も言わなくなった、言えなくなった。

 

ただ静かに、シンジの胸に顔を埋めていた、その存在の全てを預けていた。

 

嗚咽をこらえて、しゃくりあげるのを必死になって抑えて、溢れてしまうものが全て溢れきってしまうその時まで。

 

笑顔でいられない代わりに泣いてもいないかのようにするため。

 

シンジの胸の中で、小さく体を震わせながら、ただ静かにそうしていた。

 

シンジにはどうする事もできなかった。

 

自分に飛び込んできたマナの事を自身の体で受けとめはしたが、そこから先はどうする事も何をする事もできはしなかった。

 

腕を回してやる事も包んでやる事も、見つめる事も。

 

心を、想いを、受けとめる事も、向ける事も通わせ合う事もできはしなかった。

 

自分は今、あの時自分がされた事と同じ事をこの少女にしようとしている。

 

シンジの心はそんな思いに捕らわれていた、胸の内はその思いで一杯になっていた。

 

自分が想い、願っているその対象から拒絶される事、それはかつて自分が受けた仕打ち、それ以上はない痛みと苦しみ、辛さをもたらすもの。

 

あの時に自分がされた事、耐える事も偲ぶ事もできずにあんな事を自分にしでかさせてしまった事。

 

それを今、自分がやろうとしている。どんなにか嫌な事か、どんなにかやってはならない事なのか自身の存在に刻み付けられている筈なのに、その筈なのにそれをしようとしている。

 

あの辛くて苦しくて耐えられない痛みをもたらそうとしている、味あわせようとしている。

 

仮にも、かつて想いを通わせ合い、今ももしかしたら想いに中にいるかもしれない、自分に想いを寄せている、全てを預けきっている、今自分の懐にいる少女にそんな事をしようとしている。

 

シンジの心はズタズタに引き裂かれて悲鳴を上げていた。

 

やってはならない事、それをやろうとしている自分、その事実にシンジは自分で自分を傷つけ責め苛み切り刻んでいた。

 

バラバラに砕け散らばる自身の心、シンジは自分がどうにかなってしまうのではないのか、狂い違ってしまうのではないのかという、どうする事もできない自己の喪失感を覚えずにはいられなかった。

 

しかし、そんな中でもシンジは自分の中で小さく体を丸めて、自身の全部で守っているものがある事を感じずにはいなかった、認識していた。

 

正に執着、それしかなかった。

 

どんな理由も理屈もなくただそうしていた。それが、それだけが、自身の存在の証するものそのものであるかのように。

 

存在する本能、正にその象徴であるかのごとくそうしていた、それを守っていた、そこにあり続けさせていた。

 

どこにもいかないように、なくならないように、何があってもそれだけは決して失わないように、自身の中でただそうしていた。

 

シンジは一度だけ、自分の胸の内にある鳶色の髪に目をやると、再び目を閉じて天を振り仰ぎ大きく一つ息をついた。

 

ちょうどその時、マナの体の震えも収まっていた。ようやく落ちついた自分と大きく動いた自身を預けているその胸にマナは涙に潤んだその瞳を上げる。

 

シンジは少しの間そのまま顔を空に向けていたが、何か意を決したかのように静かに瞳を開けると視線を降ろしてマナの事を見やった。

 

その表情には静かで穏やかな、でも隠しきれない翳りと憂いを帯びた微笑みが浮かんでいた。

 

そんなシンジにマナは今再び胸が音をたてて締め付けられるような感じがした。

 

改めて自分の想いを噛み締め思い知らされていた。

 

自分は今目の前にいる、自身の全てを預けている少年の事がどうする事もできない程…。

 

かつて自分と少年の間には無邪気な子供のような間柄があった。少なくともその想いは本当のものであったし、それがどうという事もないけれども自分達は同じ所にいた、そんな感じもしていた。

 

しかし、二年の時を経て自分は少年に置いていかれてしまった、そんな気がマナはしていた。

 

それは寂しい事でもあったが、それ以上にもっとずっと嬉しい事でもあった。

 

優しくもどこか覚束なさのあった少年がこんな表情をするようになったのは何かがあってそれを受けとめる事のできる強さをもてるようになったのではないのかと、マナにはそう思えてならなかった。

 

そんな儚くても逞しい、悲しくても強い、自分の心に感じずにはいられない少年…。

 

だから、もしも、それに押しつぶされそうになった時は、シンジ自身を今のシンジにしつつも責め苛まずにはいない、苦しめずにはいないそれに耐えられなくなりそうになった時には自分が支えてやろうと、傍にいて自分が支えたいとマナは思っていた。

 

そう思わずにはいられなかった、心からそう願っていた。

 

あの頃とは違った自分達のありよう、その思いのカタチ。

 

それでもマナはいいと思っていた。その想いの源にあるものが決して変わるものではない、心が感じ求めているものなのだから。

 

マナは自身の想いを新たにして嬉しそうに、幸せそうにシンジを、その瞳を見つめる。

 

新しい想いの始まり、あの時の先にあるもの、その事がマナには例えようもない程、どうする事もできない程に嬉しくて幸せで仕方がなかった。

 

今この少年の傍にいられる事、そんな自分、それが嬉しかった、誇らしくさえもあった。

 

その全てを表情と視線に載せて、マナはシンジを見つめていた。そこに自分達以外の何物も存在しないようにしていた。

 

そんなマナにシンジの心も瞳も揺れていた。

 

これから自分がしようとしている事、それは既に決めた事ではあったが、それでもシンジは耐えきれない程の大きな痛みを胸に感じていた。

 

傷つけられ痛みを感じるものなどもう何もない筈だった。まだ何かがあるというのならいっそ全てを微塵に刻んでなにもかも無くしてくれた方がよほど良かった。

 

しかし、結局のところ自分というものがある以上全てを無くすなどという事はできる筈もなかった。だからこそシンジ自身は今そこにあり続けているのだから。全てを無くしたいのなら自分自身そのものを壊して失わせてしまうより他にはないのだから。

 

それを思った時、シンジの胸には今の事とは別の、大きすぎる痛みに撃たれ襲われた。

 

今自分が考えた事は今の自分の想いの中にいる少女にそうとあっては欲しくない、そうとは望んでいないそのものだったからだ。

 

今、この時をもって思い知らされていた。どうして少女があの時そうなってしまったのかを。

 

今の自分の事となどは比べものにもならない事かもしれない。でも、その起源は同じもののような気がしていた。

 

どれだけ大きく重く深いかの違いはあるかもしれなかったが、その発するところは似ているものではないのかと、そう思えていた。

 

だから、だったのか。シンジの心は大きな驚きと衝撃に見舞われていたが、それと同時にどうする事もできない焦燥と不安が沸き上がりもしてきていた。

 

だからこそ、しなければならない。少なくとも、今は、今この時だけはそうしなければならない。

 

何ができるかどうかなんて分からない。でも、もしかしたら何かを伝える事ができるかもしれない、自分には感じ、思う事ができたのだから。

 

それはシンジの中に芽生えた新たな考え、思いでもあった。それはシンジに目の前を遮る自分自身の中の何かに一歩を踏み出させるものでもあった。

 

シンジはそれまでの何かを儚むような微笑を消して真剣な、何かを決意したかのような真摯な表情になる。

 

そして、それまで固められていた手を解いてゆっくりとその掌をマナの小さな華奢な肩に置いて、静かに自身の元からその身体を引き離した。

 

マナはシンジのそんな突然の変化に戸惑ったような表情を浮かべていた。自分の許から温もりが失われた事に寂しさと寒さを感じてもいた。

 

「…霧島さん…」

 

その呼び方に驚いたようにマナが顔を上げるとそこには先程と変わらぬ微笑をたたえたシンジの表情があった。

 

「…シンジ?…」

「…ごめん…僕…これからどうしても外せない用事があるんだ…せっかくこうして会えたのに…でも…だから…」

 

そう言うとシンジは口を閉ざしかけるが、それでも最後にもう一度、今のシンジの精一杯だろうか、ごめんとだけ告げて後はもう何も言えなくなった。

 

マナの訝しげな問いかけにシンジは自身の思いを告げる事で答えた。それはシンジ自身の覚悟と決意を表すものであったろうか、それともただのエゴ、自分勝手さを現すだけのものであったのであろうか。

 

しかし、その本質がどのようなものであれシンジはそれを口にしていた。自身の思う事により他人を拒絶し拒否する事を。

 

シンジの心はどうする事もできない程の痛みに苛まれていた、押し潰され四散してしまうのではないのかとさえ感じられていた。

 

しかし、それにシンジは耐えていた。それが自分のした事なのだと、これこそが自分のしでかした、自分ではない他者に痛み、辛さ、苦しさを与えてしまった事の報いなのだと。

 

でも、どうする事もできなかった、今のシンジにはこうするより他にはなかった。

 

自分の中にある思い、願い、それを守り通す事、それ以外には何をしようも、どうする事もできはしなかった。

 

それしかできなかった。他の何かをどうにかする事も気にかける事も、それができる器量も度量も今のシンジにありはしなかった。所詮、碇シンジとはそんな程度の存在でしかなかいとシンジ自身思わずにはいられなかった。

 

でも、とも思う。

 

だから、だからこそこれだけは、こうまでして抱き続けたものなのだから守らなければ、やり通さなければと。

 

傍にいる人達の事を踏みつけにして、自分の想いを向けているその存在の意思までも無碍にしてやろうとしている事、それができないのなら、やり通す事ができないのなら本当に自分は存在そのものが害悪な、どうにもならない救いようのない、要らないどころではないあってはならないものになってしまう。

 

なべて責任の全ては自分にある、やろうとしている事もやり通したところて何にもならない愚にもつかない事になるかもしれない、それでもやらずにはいられない。

 

その結果、他人を傷つけ、自分が傷つけられ、嫌な苦しい思いをするのなら、それだけしかないのなら、その時こそ逃げるなりどうするなりすればいい。

 

シンジは思った、今はただ、この胸の内にある焦慮と不安を何とかしたいと、自分の中にあるそれこそが自分にとっての嫌な事であると。

 

それがどこからくるものなのか、なにからもたらされるものなのかは今のシンジには判然とさせる事はできなかったが、それだけは確かな事だった。

 

何とかしたい、何かをしたい、今のシンジにはそれしかなかった。

 

それは全てのものを上回っていた。今、こうしている時にもたらされている痛みにも苦しみにも耐えられる程にそれはシンジにとっての譲れない大事な事でもあった。

 

その想いは、その存在は、なにものにも決して絶対に譲れないシンジ自身の存在そのものにもなっていた。

 

その想いをもって、自分自身の本当の心をもって、瞳を小刻みに揺らしながらもシンジはマナを見つめ続ける。

 

それは図らずも、今のシンジの本当の姿の現れでもあった。

 

そんなシンジにマナは寂しさと辛さを感じながらも、瞳と心を奪われている自分もいる事に気がついていた。

 

シンジの瞳と表情と言葉の中にある決意、それはとても悲壮なようでいてとても儚いもののようにもマナには思えていた。

 

しかし、その源にあるものが、それこそが今のシンジを支えている、シンジを強くしているそのもののようにも感じられていた。

 

その決意、それは並々ならないもの、それは自分との間の時にでさえなかったもの。

 

今のシンジなら泣きながらでも叫びながらでもそれをやり通すだろうと、決して諦めたり投げ出したり逃げたりしないだろうと、マナには何故か自分の感じたそれが間違いのないもののように思えていた。

 

そしてそれは柔らかさしかなかった少年の中に一つの形をつくりだしているような気もしていた。ちょうどあの時に自分に示してくれた、自分に向けてくれたひたむきさと同じように。

 

そして今、それは静かに、でも決して動かぬものとしてシンジ自身の内にあるようになっていた。あの時のように自分が仕向けたのではなく、シンジが自分の意思としてそうあるようにしていた。

 

自分がかつてシンジにそうさせた事、動機や理由はともかくそうあった事、それ自体にマナは特段後ろめたい事も思うような事もなかった。いきさつはどうあれその時の想いは間違いなく本当のものだったのだから。

 

ただ、今のシンジの決意、その想いの中に自分はいない。その心の中にいるのは、シンジ自身の全てともなっているのは自分ではない別のただ一人の人…。

 

その中にいるのが自分なら…。

 

そうマナは思わずにはいられなかった。

 

そんな風にただひたむきに、ひたすらに一人の事をだけを想い想われるのならどんなにかいい事だろう。ましてそれが今自分の想いの中にいるシンジならもう何もいう事はない、これ以上のものは何もない、そうもマナは思わずにも感じずにもいられなかった。

 

シンジの見せるどこまでも不器用なひたむきさ、何事も真剣に受け止めてしまう果てのない程の純粋さ、自分のした事に自身を傷つけずにはいない繊細さ、そのどれもがマナにはかけがえの無い大切なもののように思えてならなかった。

 

そして、今のシンジの傷つきながらも決してそれを手放そうとしない強さ、自分に向けられた翳りのある微笑み、それが示していた傷心、その中にでさえもある譲れないもの。

 

それはマナの心を、その想いを引きつけるだけでなく奪い去り虜にしていた。

 

あの時と変わらぬ少年、変わらぬまま成長した少年。

 

かつての仲間達との友愛の情とは全く別の、自身の中でも特別な感情の中にただ一人だけ、この少年が、シンジがそこにいた。

 

だから、なのだろうか。マナはシンジの表情とその言葉とからその内に秘められているものを感じていた。自分の想いを向けているその対象だからこそ、それを感じとらずにはいられなかった。

 

自分が想いを向けている人、その想いの中にいる人、それが誰なのかは分からなかったが、いや、何となく感じとってはいたが、その存在に羨ましさを感じずにはいられなかった。

 

自分が嫉妬などというものを感じるなど思いもしていなかったが、マナ自身、どうする事もできなかった。心が、想いが、それを感じずにはいられなかった。

 

でも、シンジの想いは大切にしたい。

 

そうともマナの心も想いも感じていた。それはシンジにとって本当に大切な譲れないもの、自分の想いを模るものの内の一つでもあるもの。

 

マナはシンジにそれを大切なままにしていて欲しかった、持ち続けていて欲しかった。

 

そこに自分がいなくても、シンジを、シンジ自身を大切にしたかった。それが、それこそがマナの想いそのものなのだから。

 

だから今は、とマナは思う。

 

今はシンジの想いを、願いを叶えさせてあげたいと、シンジがそうしたい、そうありたいと思い願っている事ならさせてあげたかった、やらせてあげたかった。

 

そんなシンジを想わずにはいられなかったから、眩しくも大切にも思わずにはいられなかったから。

 

今はまだ新しい出会いを果たしたばかり、自分達の今とこれからは始まったばかり、だから焦る必要などどこにもない。

 

悲劇のヒロインなど自分には似合わないしそんな事は一度きりで結構だった。今はシンジの心に自分がいないとしても、いつかそこにいるのが自分であるようになればそれで良かった。そうと想い続ける事が大切な事のようにマナには思えていた。

 

そう思えるから、マナはシンジの瞳を見つめたまま、優しくも柔らかな、でも少し寂しいような微笑みを浮かべる。

 

そして、小さく頷いた。

 

自身の両の肩にかけられた、シンジの温もりを感じながら、それを想いながら視線をそらさず小さく、それでも自分の想いと願いの全てを伝えるようにしてそうしていた。

 

そうした後に、マナは少し覗うようにして、どうしても俯きそうになる自分に少し目線を上に向けてシンジの事を見つめる。

 

「いいのよ、気にしないで。私も今は何を言っていいのか分からないから、今はいいの、ちょうどよかったかな」

 

そう言ってマナは輝くような笑顔をその表情に浮かべた。

 

それはもしかしたらシンジの事を思い遣っての事かもしれなかったが、その中には何の翳りもてらいもない心からのものであった。

 

その笑顔はシンジの心を揺さぶり新たな痛みを感じさせずにはいないものであったが、それでもシンジは自分を曲げようとはしなかった。事ここに至っては何かを言う事はマナの心とその笑顔をそれこそ踏みにじる事にしかならないと思えていた。

 

だから、ただ何も言えずにせめて表情を変えずに、でも瞳の色を深く濃くしてマナの事を見つめる事以外には何もできなかった。謝罪の言葉でさえもマナの心と想いを侮辱するものにしか思えなかった。

 

何と言っていいのか分からないシンジ。そんなシンジにマナはそれを感じてかどうかは分からないが、その掌中からごく自然に、さりげなく一歩さがってすりぬけると少し体と小首を傾げてふざけるような、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「多分、ね。今晩あたりかな、言いたい事、聞きたい事が一杯、たくさん浮かんでくるのは。もしかしたら眠れないかもね、頭の中一杯になっちゃって」

 

ふふっ、と少し肩を竦めて本当に気にしていないよ、とでもいうようにその心をシンジに向けてきた。

 

そんなマナにシンジは、どうしていいのか分からないようにさまよわせていた両手を降ろし、何も言えずにただ見つめている事しかできなかった。

 

「でもね、シンジとは同じ学校みたいだし、今日の埋め合わせは明日ちゃんとしてもらうから。約束よ」

「…う、うん」

 

シンジはどもりながらそう答える事しかできなかった。マナの想いが、その心が嬉しくもあり、また痛くも辛くもあった。

 

「じゃ、今日はこれで帰ります。明日、私霧島マナはシンジ君のために午前六時に起きてこの制服を着て参ります」

 

マナはいずまいを正して敬礼をしながらそう言うと、なんてね、と小さく舌をだして戯れるような笑みを浮かべる。

 

それに応えるようにシンジは今の自分にできる精一杯の事、マナと同じ微笑を浮かべて小さく頷いた。その心中がどのようなものであるのかを感じさせないとするかのように。

 

そんなシンジに気がついていたであろうが、マナはそんな事はおくびにもださず、じゃ、また明日ね、と告げるとスカートの裾を翻して元来た道をそのまま戻っていった。

 

自分の行こうとしているところ、それと道を同じにしないマナの心遣いが、その想いがシンジにも分かっていた、痛いくらいに感じられ伝わってきていた。

 

マナの去った後、暫くシンジの視線はそこに向けられていた。動く事もできずにただそこに視線を注いでいた。

 

拳が固く握り締められ、視線が俯き下をむく。何かに耐えるように体は強張り小刻みに震える。

 

心は滲み溢れていた、マナの想いに、自分の想いに。

 

その溢れるものをこらえるように、今の自分に我慢できないように、歯がきつく食いしばられ、軋むような音が漏れ聞こえてきた。

 

そこでただ一人、影を映し灼き付けていた。

 

蝉の声がそこにいる少年を囲い奏で立てる。

 

乾いた空気がその中に身を置くものの何もかもを奪っていく。

 

容赦無く照りつけてくる熱い陽射しは、ただ、そこに佇んでいるものの全てを焼き焦がし続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「(ちょっと格好つけすぎちゃったかな)」

 

シンジと分かれた後、マナは一人歩きながら心の中でそんな事を呟いていた。

 

僅かに俯き、自分の体の前で両手を揃えて鞄を持っている。

 

その足取りもいつものそれとは違った少しゆったりとしたものになっていた。今の心の内を現しているのか、シンジとまた鉢合わせにならない事を気遣ってのものかという感じになっていた。

 

「(でも、やっぱりそれがあの時に私が思った事だから、シンジの事を大切にしたいと思ったから、今はそれでいいと思った事だから)」

 

マナは自分の中で自分自身に今一度確かめてみるが、戻ってきた感触はやはり先程と変わらない自身の想いと願った事であった。

 

微かな寂しさと痛みとを胸に感じないではなかったが、それでもやはりその事は本当に自身がそうと望んでした事であり、今の自分もまたその時に自分のした事を認めそれが自身の選んだ、最上の、とはいかないかもしれないが、よりよい選択であったと思えていたし確信してもいた。

 

シンジが今のシンジであり続ける事、今のシンジを大切にしたいと思う事、それが、それこそが今とその時のマナが本当に望んでいた事であった。

 

だから今、僅かに感じているのは後悔などではないという事がマナには分かっていた。

 

自分のした事に対して自分自身納得もしているし、そうしたいと心から願ってもいた。今感じているのはそうしなければならなかった、そうせざるを得なかった自分とシンジの間にある状況に対する残念さであった。

 

自分の事、自分のした事に思いを馳せ、それが分かった時にマナは気持ちを切り替えた。

 

面を上げて、ついさっきシンジと会えた事、再び出会う事ができた事が嬉しいかのような微笑を浮かべる。

 

「(やめやめ、うじうじ考えるなんて私らしくないもの。あの時の思い出と今とこれから、大切なのはそれだけなんだから)」

 

マナの足取りは今思った事そのままにこの先へと、明日へと向かおうとするかのようにして軽い、弾むようなものになっていた。

 

「(した事はした事。私は後悔もしていないし、それで良かったと思っている。シンジが今のシンジでいてくれる事を嬉しく思っている)」

 

マナの瞳は遠くを見つめるようになり自身の内を満たす想いに微かな潤みを帯びていた。

 

「(あの時のままに変わった今のシンジ。そのシンジとまた巡り会えたこと、傍にいられる事、私は本当に嬉しいし、こんなに幸せを感じている)」

 

マナの表情は昇華されたものになっていた。それは至上の、その存在そのものの輝きを放つ、それを目にするものに眩さと魅了せずにはいない美しさとを感じさせずにはいないものであった。

 

「(今シンジの心に私がいないのは仕方のない事。傍にいられなかったから、一緒にいられなかったから。でも、今またこうして再会する事ができた、目に見えない何かが引き合わせてくれた、神様がいるのなら本当に感謝したい、ありがとうって。これはチャンスなんだから、一人の人を想い続けていた私に誰かがくれたご褒美、プレゼントなんだから。必ずものにしてみせる、絶対に振り向かせてやるんだから)」

 

マナは自身にもたらされた事とその想いを改めて確かめて、思いしめて心の中でガッツポーズをとっていた。

 

「(私のこの想いを必ず伝えてみせる、叶えてみせる。だってどうする事もできないんだもの、こんなにもシンジの事を想っているんだから。私の中はシンジの事で一杯、それ以外にはないんだから。積極的、素直な心が私のモットー。私の想いそのままで、私自身でシンジの許へ、シンジに感じて欲しい。シンジの傍にいてシンジを感じる事、シンジに私を感じてもらう事、それが私の望み、私の全て。覚悟してね、シンジ、あなたを私の虜にしてやるんだから、想いを通わせ合ってみせるんだから)」

 

そう思ってマナすは何かを想うようにして胸元に手をやる。

 

「(…だって、もう私の心はシンジの虜になっちゃったんだから、奪われちゃったんだから。もう、私の心も想いも全部シンジのものになっちゃったんだから…)」

 

瞳を潤ませ揺らせながら、その面には嬉しそうな切なそうな、何かを想うような微かな憂いを帯びた表情が浮かんでいた。

 

それは正に恋する乙女のもの。二年の月日の流れは少女を一人の女性へと変えさせつつあり、満面の明るさの中に憂いと翳りを帯びたその姿は周囲にまでその胸の内に感じているものを伝えずにはいない、感じさせずにはいないようなものにまでなっていた。

 

そんなマナとすれ違う人達は、あるいはその幸せさに共感したのか目を細め、あるいはその切なさに感じ入ったのか視線を捕らわれ、またあるいはその眩い姿に瞳を奪われ、少なくとも皆一様に振り向かずにはいられなかった。中には一人で百面相をしている少女に奇異の視線を向けてくるものもいたが。

 

そんなマナであったが、今は少し周囲の事が見えなくなってしまっていた。そんなマナであったから、という方が正しいかもしれないが。

 

マナをしてそこまでさせる程にシンジの存在、その今一度の出会いは余りにも鮮烈であり衝撃的でもあった。マナにとってその存在、今日あった出来事は心の奥底に灼き付いて決して消えないものになっていた。

 

マナは一瞬、瞳を閉じて自身の内にあるものを噛み締めるようにすると少し俯き加減になっていた顔と一緒に瞼を上げた。

 

その表情には他に比するものとてない、全き嬉しさと幸せさ、明日からの事を楽しみにしている本当に純粋な明るさだけがあった。

 

今とこれからの自分、その輝く心を象徴するそのものがそこにはあった。

 

また明日シンジに会える、そう心の中で呟いて、それが本当に楽しみなように、幸せであるかのように笑みを浮かべてマナは前へと、先へと向かっていく。

 

振りかえるべきなにものもないかのように、それが自分なのだと、その時その時を精一杯生きるのが自分のありようなのだというかのように、その歩みを進めていっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「(僕は結局何も変わっていないじゃないか!)」

 

シンジは走っていた。

 

「(マナにあんな思いをさせて、傷つけて、苦しめて、悲しませて。僕なんかいらないんだ、いちゃいけないんだ!)」

 

どうする事もできずに体を動かしていた、まるで衝動に突き動かされるようにしてそうしていた。

 

「(僕と出会ってしまったから、傍にいたからそうなってしまったんだ!。僕はずるくて卑怯で臆病で自分勝手でわがままで自分の事しか考えていない最低な人間なんだ、あんな事しかできないんだ、ああするしかできないんだ、僕なんかいちゃいけないんだ!!)」

 

心が悲鳴をあげながら、叫び散らしながらシンジは足を繰り返し繰り返し動かし続けていた。それ以外には考えられないように、そうする以外にはないように。

 

「(さっきだってそうだった。僕は逃げたんだ。心を覆って目を背けて、マナが近づいてくるのを傍にくるのを、心が感じる事を無視しようとしていたんだ、感じないようにしていたんだ!!)」

 

シンジはさっきの事を振りかえる。

 

マナが傍にありそうになった時の事を、その存在をごく身近に感じられるようになりつつあった時の事を。

 

シンジがその時、そこに居続ける事ができたのは、シンジがシンジのままでいられたのは、それだけであったのであろうか。

 

「(卑怯者!、臆病者!、お前なんか嫌いだ!、僕なんて嫌いだ!、大嫌いだ!!)」

 

自分の中でこれでもかというまでに自分の事を罵倒しながらシンジは走り続ける。

 

何もかも分からないまま、今自分がどうしているのか、どうあるのかも分からないままに。このままそれを続けていればどうなってしまうのかも分からないままに。

 

「(自分のいいように自分をもっていこうとして、楽なようにしようとして、他人を犠牲にして踏みつけにして、少しでも嫌な事があったらそれから逃げて逃げて逃げて逃げて、何なんだよ僕は、僕は一体何だっていうんだよ!!)」

 

詰りそうな息苦しさの中、シンジはこみ上げてくるものを抑えきれずにいた。

 

それは胸のあたりでつかえ、わだかまり、シンジ自身を絶息させるかのように締め付け鷲掴みにしていた。シンジはその中でどうする事もできずにただひたすら自分自身を追いたてていた。

 

「(何だったんだ今の僕は、今までの僕は、僕のしてきた事は!。何にもなっていないじゃないか、何にも変わっていないじゃないか!。あの時の僕と今の僕と何が違うっていうんだ、今の僕なんてあの時の僕そのままじゃないか!!)」

 

シンジは思いを馳せていた。これまでの自分、今の自分、今までに自分のしてきた事、自分がそうありたいと、そうなりたいと願い目指してきた事。

 

その全ては無駄な事のように思えていた、今現実に何も変われていないように思えていた、何も自分にはもたらされていないような、あの時と何ら変わらぬ自分でしかないように思えていた。

 

そう思い目指してきた事も、その想いも意思そのものも、それを抱いた心そのものでさえも、無駄な事のように思えていた、何にもならない事のように思えていた、無かった事のようにしか思えなかった。

 

自身の存在、してきた事、二年の年月そのものが無駄な事のように思えていた、あってないような事にしか思えなかった。

 

自己の存在、その歩みでさえも、シンジは否定しようとしていた。

 

「(マナにあんな事をして、あんな酷い事をして!。想いを受け取る事も向ける事もしないで、心を感じる事も開く事もしないで、受けとめる事も抱きとめてあげる事もできないで、しようともしないで!!)」

 

シンジの心は張り裂けそうになっていた、綻び自分自身そのものが漏れ出し流れ失われていくような感じがしていた。

 

こんな自分なんて消え去ってしまえばいい、粉微塵に砕けて霧散してしまえばいい、シンジはどうする事もできない衝動の中、それに身を任せそうになっていた、全てを委ねそうになってしまっていた。

 

「(消えてしまえ、無くなってしまえ、壊れてしまえ、こんな僕なんかいらないんだ、いちゃいけないんだ、僕なんかが、僕なんかがいたから、存在し続けていたからいけなかったんだ、いちゃいけなかったんだ、生き続けていたって仕方がなかったんだ、生き続けていたらいけなかったんだ!!)」

 

シンジは駆け抜けていく、一陣の風のごとく。

 

そこに居続けないもののように、流れていくもののように、過ぎ去っていくもののように。

 

シンジはその存在の全てをかけて、そこにいたくないかのように、少しでもそこから離れたいかのように、一瞬たりとてそこに居続けていたくないかのように走り続けていく。

 

「(僕がいけなかったんだ、僕が悪かったんだ。自分で認めるのが怖くて、臆病で、僕は自分で自分がいらないと、必要のない存在だと認めてしまうのが怖かったんだ、できなかったんだ。どうする事もできない、どうにもならないって事を認めるのが嫌だったんだ、目を背けていたんだ、逃げ出していたんだ、どうにもならないのに、どうしようもないのに、あの時にもう終わっていたのに。最低だ、腐っているんだ、僕なんか生きていたらいけなかったんだ、居続けていたらいけなかったんだ!!)」

 

人の営み、射込まれてくる照らし。

 

林立する建造物の中、あまねく全てに等しくもたらされる陽光は鮮明に確実にそこにある存在を映しだし、その影をつくりだしている。

 

その中をシンジは駆け去っていく。

 

ただ一人、その存在を朧に、虚ろに、幻のように揺らめかせながら。

 

「(僕が、僕がいたから、僕と会ってしまったから、出会ってしまったからあんな事になってしまったんだ!。僕がいなければ、僕と出会わなければ、あんな事にならなかったんだ!)」

 

シンジの心は行きつくところに行きつこうとしていた。

 

「(アスカも、僕と出会いさえしなければ、!!)」

 

それを想った瞬間、シンジの胸は巨大過ぎる痛み、激痛に打たれた、撃ち抜かれた。

 

その衝撃にシンジは胸を抑え、動きを止める。

 

僅かによろめき、膝がわななき弛緩して俯く。

 

顔に苦悶の表情を浮かべ、耐えるように堪えるように自身を小さくして身体を震わせる。

 

それはこれまでかつてシンジ自身が味わった事のない程のもの、本当に砕けてしまいそうな、微塵になってしまうような、そう思わずにはいられない程のものをシンジの存在そのものにもたらしていた。

 

精神的にも身体的にもそれは感じられもたらされていた、何かを吐き出し、そのまま倒れてしまいそうになってしまっていた。

 

意識が掠れ、自身を保つ事でさえもできなくなりそうになる。

 

そんな比類するものなど何もない、ありはしない痛みと苦しみ、シンジは意識が遠のきかけるのを感じていた。

 

自身の全てを砕くかのような痛み、しかし、それがもたらしたものは、そのシンジを襲ったものがもたらしたものはそれだけではなかった。

 

シンジはそれを感じていた、そられと共にもたらされた、それらと等量かそれ以上に大きく深く自分の心を満たして溢れさせてしまうもの。

 

それは甘く暖かく柔らかく穏やかなもの、時として激しく波打ち自身をそれに駆りたてずにはいられないもの。

 

その時、シンジは戸惑っていた。混乱しそうにも恐慌をきたしそうにさえもなっていた。

 

自身を突然襲ったもの、それがもたらしたもの、これまでに自分が全く感じた事のない理解できないもの。

 

痛みも苦しさもこれまでに味わってきた、これ以上はないというくらいに。ではこれは一体なんなのか、今自分の中にあるもの、これは一体なんなのだろうか。

 

シンジは思わずにはいられない。

 

今自分が感じている痛みや苦しさでさえもこれまでとは異質なもののように感じられてならなかった。

 

まして今自分の中にある、自身の全てを埋め尽くしてしまうような、自身の全てを満たしてしまうようなこれは一体なんなのだろうと。

 

未知の感覚、そのものに対する戸惑い怯えを感じずにはいられない中、それを望んでいる、受け入れようとしている、受け入れてしまっている、自分自身をそのものにしようとしている、してしまっている自身を感じずにもいられなかった。

 

自分自身がそうなってしまっているのをシンジは感じずにはいられなかった。

 

それは余りにも心地よくて甘く切ない感じ、そんな自身にシンジは嫌疑をかけずにはいられなかったが、もう既にしてそうなってしまっている自分を再確認させられただけで、その事実にただ呆然とするより他にはどうしようもなかった。

 

何故そんな事になってしまったのか、否応もなくそうなってしまった、なってしまっている自身の事、今現実にそうなってしまっているのなら、せめてその想いの元にあるのが何であるのかをシンジは求めようと、感じようとしていた。

 

それが何故なのか、どうしてそうなったのか、自身の心を見つめ感じて確かめようとするシンジ。

 

しかし、それはそうしようとした時にすぐに分かった、分かってしまった。

 

それは余りにも当然で単純な事だったからだ。シンジが自分を責め苛んでいたその理由、それをした事の大本にあるもの、それがためにこそシンジは自分自身、許されない事だと、認められない事だと、厳に戒め自身に刻み付けていたそのものを破り、侵してしまったのたがら、やってしまったのだから。

 

全てをかなぐり捨てて、自分の信じるものを破ってまで、自身を壊してまで、自身のありようを変容させてまでした事。

 

自身の想い、その一点のみにおいてした事。それ以外の全てを、自身の周囲の人を、想いを寄せてきている人までを拒絶して拒否してしようとした事、そうまでしてした事、譲れない想い、大切なもの、自分自身そのもの。

 

その想い、その中にいる存在、想いそのもの、自身の全て、心が想わずにも願わずにもいられない大切な大切な胸の中に抱いているヒト。

 

それを想う時、シンジの心も表情もこれまでからは信じられないような静けさと穏やかさを取り戻していた。

 

「…アスカ…」

 

それはシンジにとっての鍵言葉。

 

その名を口にするだけで、心にするだけで鼓動は高鳴り胸は締め付けられるように苦しくなる。

 

だから、だった。だからあの時、ついさっき、その胸が、心が衝撃に見舞われたのは、襲われたのは。

 

その名を、その存在を心に思ったから、描いたから、それはシンジにもたらされた。

 

シンジ自身がそうと望んでいたから、そうしたい、そうありたいと思い願っていたから。

 

それはシンジが自分で自分にした事だから、他の誰に与えられたのではなく、自分で自分に与えもたらしたもの、シンジ自身、そうとは意識しないでした事、してしまっていた事。

 

今なら分かる、その事が。この想いを、自分自身を感じる事のできる今なら。シンジは自分自身にもたらされたものが、その理由が、その源泉が何であるのかが分かっていた。それは自分自身でもどうする事もできない、自身の心、存在そのものが求めているものだという事が。

 

だから、今、シンジはそれを口にする、それを形にして自分自身を確かめるためにも。

 

「…怖くないっていったら嘘になる…僕は怖い…拒絶されるのが…拒否されるのが…否定されるのが…たまらなく怖い…耐えられない程に怖い…嫌で嫌でたまらないんだ…」

 

シンジは胸に手を当てたまま、瞑目して僅かに上を振り仰ぎながら、それでも姿勢を正して、屹立して、何かを思うように、自分自身を計るように、自分自身に諮るようにしてその場で自分自身に対する呟きを漏らす。

 

「…でも…それでも…それ以上に…僕は…今は…今だけは…」

 

シンジはそこで一度言葉を区切らせて、自身の全てを込めるようにして、余計なものなど全て自身の内の沈めるように、奥底へと追いやるようにして一つ息を呑む。

 

そして、紡がれたものは、本当のシンジ自身そのもの。

 

「…アスカ…僕は…君の事が…」

 

それは他の誰でもないシンジ自身のもの。他の誰のためのものでもない、シンジ自身とその心の中にいる、それが向けられた少女のためだけのものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジは再び駆け出した。

 

結局、この少年は何かに駆られてでしか自分自身、動けないのかもしれない。

 

それはある意味滑稽ともいえるものなのかもしれないが、今の当の少年にはそんな事は関係のない事だった。どうでもいい些事にしかすぎなかった。

 

その事に思いをやる余裕など寸分とてありはしなかった。

 

ただひたすら少年は駆けていた。それは先程と同じ行動、なしようであったが、それの持つ意味合い、少年自身を動かしているその元となっているものは全く違うものになっていた。

 

自身から逃げるように、自身のした事から遠ざかり離れるようにしていたのとは違い、今は自身の意思に従い、自身の求めるもののためにそうしていた。

 

それはもしかしたら結局のところ逃げているだけなのかもしれない。

 

自身の嫌な事から、自身の想いというものに縋って、言い訳にして自身の心と存在を逃避させようとしているのかもしれない。

 

その真実が、事実がどこにあるのか、いずれかにあるのかは分からない。シンジ自身自覚もないのかもしれないし、分かっていないのかもしれない。

 

しかし、ただ一つ言えるのは今シンジは間違いなく一つの想い、それを求める自分自身の意思を持って動いているという事。

 

その想い、その意思そのものが逃避の現れなのかもしれなかったが、何がどのようにあるにせよ、シンジはそのために動いていた、自分自身を動かしていた。

 

その胸に自身の想いを抱き、一人の少女の事をただひたすらに思いやりながら、走り続けていた。

 

「(…アスカ…無事でいて…)」

 

シンジは心の中で自身の想いそのものである少女に呼びかける。

 

「(何もなかったらそれでいいから、僕が一人で騒いでいたのならそれでいいから、僕がバカな事をしているのならそれでいいから、だから、だから)」

 

シンジは心の中で祈り願う。それ以外に今のシンジには何もなかった、それだけしかシンジの中にはありはしなかった。

 

「(…無事でいて…アスカ…それだけなんだ…僕にはもうそれ以外には何もないんだ…アスカさえ無事でいてくれたら、もう他には何もいらないから…)」

 

シンジの焦慮は深く濃くなっていく。

 

今自分がどうしているのか、どこにいるのか、どんな状態でいるのかも分からなくなっていた。

 

ただひたすら、自身の想いの中にいる少女を追い求めて、想いを捧げる事しかできなかった。

 

「(自分を壊したりしないで、もう二度とあんな事にならないで、全てを、自分を捨てたりしないで、お願いだからそんな事しないで、しちゃ駄目だ、アスカ)」

 

シンジは心の中で叫んでいた。

 

届く筈もない心の声を、叫びを、訴えを、自身の中であげていた。

 

まるでそれをアスカに感じて欲しいと、自身の心を、想いを感じとって欲しいというかのように。

 

自身の存在を、感じて欲しいと願うかのように。

 

「(バカにしてくれていい、笑わってくれてもいい、嘲けってくれても罵ってくれてもいい、殴ってくれても蹴飛ばしてくれても構わない、何をしてもどんな事をしてもいい。そんな事で、そんな程度の事で何もないでいてくれているのなら、無事なままでいてくれているのなら、アスカがアスカのままでいてくれているのなら、僕は何もいらない、何も構いはしない、僕なんかどうなってもどうされてもいい、アスカが、アスカさえ無事でいてくれるのなら、アスカがアスカのままでいてくれるのなら)」

 

それはシンジにとっての余りにも恐ろしすぎる惨事。

 

その事を思うだけでこみ上げてくるものを抑えきれず、瞳には溢れるものがたまり頬を伝いそうになる。

 

シンジは知った、思い知らされていた。

 

自分自身以外の事でこんなにも恐ろしい事があるだなんて、どうする事もできない恐怖を感じる事があるだなんて。

 

一つのヒトの事を想うのがこんなにも苦しい事だなんて、こんなにも辛い事だなんて。

 

でも、止める事はできない、止めようとも思わない。

 

そんな事は考えもしないし、心の端に載せる事も載る事もない。

 

今はただひたすらに自分の想いに、その中にいる少女に全てを。

 

自身の全てをかけて、自身の想いも存在も全てをかけてただそのためだけに。

 

シンジの心も想いも存在も、その全ては自身とアスカのためだけになっていた。

 

それ以外のものなど何一つとしてないようになっていた。そんなものなど、ある筈もある訳もないようになっていた。

 

 

 

 

 

 

<第六話 了>

 

 

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