新マダムの日常

連れ合いの再就職
10月から連れ合いが再就職で勤め出しました。
「託爺(じい)所が出来て良かった。。お金まで頂けるなんて。。」と友人に
言われて、世間相場はそんな所かと思うものの、4時頃から近くの
温泉行って、二人で毎日酒盛りしたり、旅行へも平日行けるし、
仕事から帰って来たら迎えてくれる人が居るというのも、何となく
うれしいもので、何だか損をした気分。  でも義母は101才で
存命です。彼の長い人生を思えば、勿論働ける内は働く事が幸せと
思います。

楽しい楽しい時というのは、山椒のように小粒でぴりりと効くから
良いので、のべつまくなくずーっと楽だったら、それに麻痺してもう
楽しくなくなる。(何と健気な)私は余命の事が少しは気になるのだ
けれど自分で又色々楽しみを見付けてホントの定年まで持たせます。

余命と書きましたが、乳ガン発病から約3年。再発の兆しは全く無い
みたいなので(3年以内の再発が多い)少しこの頃普通の人気分で
スケジュールなんかも結構以前に戻しています。でも昔は疲れやすい
自分にうんざりだったんですが、食事などきちんと取って運動も
以前よりはしているせいか、随分元気になったなと思います。

宝塚掲示板、ブログなども維持していますから、メールボックスには
色んな人からのお便りが来ます。 乳ガンをテーマの「Life」という舞台が
あるそうで次のHPをご参照下さい。

http://www.she-friends.com/life/

ともかく、乳ガンは早期発見が一番大事。こういう舞台があって、誰かの
頭にひっかかって、しこりとか言う単語が発せられたときすぐ
「乳腺外科へ」と言って貰えれば本当にうれしいです。豊かなバストを
していらっしゃる方は、しこりが分からないでしょうから(笑)、是非
検診を毎年受けて下さいませ。

ところで先ほどの舞台の話ですが、実は私は臆病で、まだまだそう言う
のを、見ることが出来ないです。 あの状態。。全身全霊を傾けて、何が
良いか、必死の羅針盤操作。。ほのかに見える遠い光。 人それぞれだと
思いますが、追体験するにはあまりに重い。 でもあの経験のおかげで
少しは毎日を色んな事を大事に思うようになりました。まだまだおバカな
オバサンで勢いでしゃべってしまうのですが、後で反省はするようになって
います。ゆっくりほどほどな余命が残っていると良いのですが。。



あっと思う事がありますね。
乳ガン発見まで後1ヶ月で3年。太ったけれど、結構無理しても、
大酒しても平気。輝く健康を誇っていたのに、この秋から冬にかけて
ついに、喉から鼻にかけての上気道炎というのでしょうか。眼もかゆく
鼻はずるずる、咳が出そうで出なくて苦しい苦しい。そしてついに声が
蚊の鳴くようになってしまい全てキャンセルして5日間家に居ました。
まぁ持病なんですが(寒冷アレルギーらしい)体調悪い時しか出ないのです。

咳は涙の代替作用と言った医者を思い出しました。確かに何だかここへ
来て、ちょっと寂しい話しばかり。まずはタカラヅカ掲示板のカキコミ
のみでの繋がりでしたが、メールのやり取りなどで今少しおつきあいを
させて頂いていた方が、2月からの闘病の甲斐もなく6月に亡くなって
おられたという知らせが入りました。実は同じ様なお仲間を一昨年に失い
いずれも私よりも若くて有能で素晴らしい方達と、どどーんと落ち込んだ
のです。同じ掲示板から2年間に二人は多すぎる。呪われた掲示板なら
閉鎖が適当とすぐに思いました。 でもまぁゲンが悪いと思われたら、
皆さん自分で書き込み控えられるでしょうし、私自身は怖いものないし、
そして、もしかして、天国で二人が楽しみに読んで下さっているかもと
思い直し、何気なく、何もなかったように続けています。

もう一つは息子2の独立です。27才ですから、遅すぎる位なんですが
私の病気も原因で色々遅れていたところ、ついに独身寮へ行くそうです。
これが結構子離れしてないのか、おめでたい事なのに何か寂しい。
2人目なので子供時代、全く手が掛からず、手を掛けずの人だったのに、
どんな縁なのかここまで一緒だったとは。 土日酔っぱらったら、必ず
食器洗いをしてくれた人が居なくなる。。
めったに入らない部屋から出たゴミ袋の中は衣類で一杯。
胴回りが大きくなった自分の普段着にどうかと漁ってみたら、カナダみやげの
UBCのトレーナーはほとんど着た様子無し。大学のロゴって意外と
ダメなんだ。可笑しい。福岡からのいるかのTシャツは滅茶苦茶着てるのに。
捨てる本の山にも感慨あり。童話やら塾のものやら。

ずっと色々世話になったりしたりの歴史を思い返すと、うっと来るものが
ありました。 でも、27年間もですから十分。もう本当に十分と思い
直し、段々平静になっていきました。

そんなこんなの憂さ晴らしは「ちぇんじ・えあー」そう気分転換に旅行が
一番。      堂ヶ島温泉に一泊旅行してきました。
連れ合いはお勤めなのでドライブはダメ。女友達と踊り子号、地元バス
を乗り継いで行きましたが、家から5時間くらいで着きますね。

露天風呂付きのお部屋だったので、ザブンザブンと何度も入り、
季節的にものぼせずに良かったです。ただ大体館内をすごく歩き、帰る
頃やっと慣れるはずの大浴場と一般露天風呂が同じフロア。しかも、待合い
隔ててすぐにあったのには、何だかがっかり。でも胸が切られ与三郎
している私のこと。プライベートの露天はうれしいです。

真ん前は大海原と三四郎島。立地条件の良い旅館で嫌という
程、海を眺めマイナス空気イオンを浴びリラックス出来ました。
翌日は河津へ出てバガテル庭園へ。薔薇は秋薔薇でも、強風で
揺れてダメでしたが、パンが美味しかったです。ブティックも
揃っているし、又ゆっくり春に来たいかなと思いました。

旅行から帰ったら湯気が良かったのか喉もまぁまぁ。息子の事も
1人で自分の事は自分でする期間を確実に持つことは息子の為に
絶対良い事と心から思えました。  いよいよ引っ越し荷物と行くとき
「Congratulations!」と言って差し出した左手をしっかり握りました。

私も奥手で28才の夏に両親から離れました。もっともそれまでに
海外に何年も行ってましたから、さばさば、何も思わず出ていったもの
です。 両親の気持ちなど忖度しなかったのですが、その事に思い当たって
あっと声を上げそうになりました。 



夕陽に泣く
咳は涙の代替作用。。息子が出ていったストレスで
仕方ないんだと思って我慢していたのですが、いや、
やっぱり異常だと気がつき始めました。10月末から
何だかずーっと続くちりめん咳。まともに高熱の風邪や、お腹の風邪
も、懐いてやって来て社会生活滅茶苦茶。体力落ちていると
やられ放題になるんですね。 ノン・アルコール・デーがずっと続きこれも
又ストレス。

私に健康な日はもう来ないのかと暗澹と、とぼとぼ歩いて
いましたら、真っ赤というかオレンジに燃える夕陽を見ました。何か
自分のいじけた気分に泣けて思わず足を止めて、丹沢の山々に沈む
大きな円いオレンジの煌めき。。を少し眺めていました。綺麗でした。辺りの家々も真っ赤に染まっているんです。不思議な感覚。もう、何か
自分も生命力を注入されるみたいに、暖かさを感じて染まりました。

何して居るんだかと思って、以前ちょっと言われた「耳鼻咽喉科」の
門をその足で叩いたら、やっぱりビンゴ。鼻中隔が曲がっていて
(生まれつき)鼻が詰まりやすく、湿気を取り入れにくく、又
この雨が少ない気候、暖房もあって、喉がすっかり乾燥してしまって
過敏になっていると言うことでした。その方の治療を始めたら、あら不思議
良かったんです、咳が止まりました。

咳くらい、まぁ気になれば気になるけれど、どうってことないので、
忙しいままにしていたら、こんな馬鹿な事に。大きな事には必死に
立ち向かうかも知れないけれど、小さな事はどうでも良いという
横着さは本当に直りません。悪い性格です。

順調に回復。23日に換気扇の掃除、障子の張り替え、年賀状宛名書き
終了。
少しほっとしました。今年は早めに年末旅行に出発します。行き先は
アンコール・ワット。 俗化が進み、遺跡そのものも脆いという事で
早く行きたいと思っていたのですが、いざとなるとおっくうでした。

でも免疫力アップの為には前へ前へ・・と思うモチヴェーションの高さと
シンクロすれば、すっと計画出来ました。ホルモン剤を飲まなくなって
副作用が無くなる2,3年後というのも有りかもしれませんが、何が起こるか
分からないのが乳ガン患者(いばってます)、時差も2時間と言うし何とか
なるでしょう。楽しみです。

さて、日本評論社刊「マンモグラフィってなに?」美奈川由紀 著(元看護師、ジャーナリスト)
というご本の紹介をさせて下さいませ。 例によって知人の紹介で読んだのですが
しっかりと早期発見の重要性や、検査機械の詳細の紹介についての記述がしてあり、
患者も比較的前向きな人を選んで紹介してあります。2006年3月一版の本なので
数字も新しいです。マンモグラフィーの検査率が日本では2.1パーセントというのは
低いですね。欧米は70〜80パーセントは行くそうです。日本は罹患率が23人に1人、
米国8人に1人、英国5人に1人ですから。こういう数字もこの本から拾いました。





東南アジア旅行(1日目)
2ヶ月くらい続いたちりめん咳やら、お腹の風邪やら、高熱の風邪やら。
冬になってどうも意気が上がらない。社会生活かなりダメだったけれど
(仕事を替わって貰って)、翻訳原稿は無事提出たので少しほっ。一応
症状も軽くなり、何となく気楽に成田空港にやって参りました。

今回は東南アジアの言葉の通じない国とあって、食事もガイドも付いている
団体旅行です。(ホテルはデラックス、個人ハイヤー、個人ガイド。。贅沢
だけれどこのコースしか空いてなかったらしい)荷物は夏服なので二人で
スーツケース一つ。
連れ合いと又弥次喜多旅行になりそうです。 私だけ一応傷害保険に
入っておきました。

まずはバンコックへ。5時間くらいのフライトですが、まぁ成田からなかなか
飛び立てない。管制塔の許可が下りないと延々と一時間待ち。乗り継ぎ
便があるので、ちょっと嫌な予感ですが、まぁそんな事は考えていると
楽しくもないので飛び立った後は機内映画を楽しむことに。「フラガール」が
良かったです。音楽とかダンスが好きな私にはぴったりの映画。松雪泰子
元SKDダンサーのやさぐれぶりも良かったし、豊川悦司炭坑兄ちゃん
男っぽく、その妹蒼井優ちゃんのお腹の揺らし具合の綺麗
な事。(吹き替えなのかどうか最後まで分からなかった) 松雪さんは、
銭湯へ怒鳴り込んで男湯で胸ぐら掴む場面最高。又助演の岸部一徳
マネージャーの方言で怒鳴りまくる場面のあの可笑しい事(何であの
イントネーションが可能だったか)。

圧巻は富司純子さん。もんぺ姿の母さんなのに白百合というか、掃き
だめに鶴みたいに綺麗。「地べたをはいつくばって働くことしか知らなかった
けれど、人を喜ばせるという仕事もあるんじゃないか」とぴしっと言うあの
数十秒で全部喰っちゃったというか。。(私の感想でございます)

見ている内に何度も涙がつつー、じわっと溢れる。感動ものの映画でした。

バンコックはトランジットだけれど、ここからシエンリアップ
(SiemReap)まではバンコック・エアウェイズに乗り換え。ローカル航空
会社はどうしても目立たない所にあるし、又すごく広くて不案内な係官の
多いこと。45分切って居るところでやっとチェックインカウンターへ。
長蛇の列。整理のお姉ちゃん掴まえて、チケット見せて、特別扱いして
くれと頼み込む。何とか空いてるカウンターで先にやって貰えることに。 
乗り込んだら、鮮やかな花柄のシャツに真っ青なスカートのキャビン
アテンダントと、草色ネクタイの男性パーサー。目がくらくらっとしたけれど、
たった一時間なのにランチボックスは出るし、美味しい珈琲も。

機内でVISAの申告用紙や出入国カードを書いているとあっという間に着陸。
カンボジアのビザは日本で取得するより安いと聞いていたけれど、又長蛇の
列なら時間の無駄だなぁと冷や冷や。さっさとやり過ごして、ほぼその
フライトでは一番に並ぶ。ちゃんと写真の大きさも調べて切ってあった
ので、1人20米ドルですぐ取れました。

さてガイドさんのお出迎え。専用車は何とおんぼろバス。私たち二人だけで
乗るのに。
ちょっと笑えます。ガイドさんは現地の人じゃなく若い可愛い日本人の
女子。しっかりしていそうで期待出来ます。 カンボジアは基本的に街灯は
ないと思って下さいと説明を受けながら(空港からの道にはかなりあった
けど)、アンコールワットのある街に到着。ただクリスマスのすごい
イルミネーションがまだあるので、オレンジ色が派手派手しい感じ。

大体ここまででかなり疲労気味の私は食欲ナシ。でもカンボジア料理の
夕食が待っています。あまり辛くないごった煮カレーと、空芯菜の中華
風炒め物。春巻き。海苔のスープ。小さなバナナとライチのデザート。
量的にはあまりありませんがアンコールビールという現地のビールが美味し
かったのはうれしい。初秋くらいの気候か。

ホテルはフレンチ系のSofitel アンコールワット。赤い煉瓦の屋根、広い
池(ラグーンと言う)、椰子が揺れ、3階建ての植民地風建物。館内には
眠いような音楽が流れ、肌黒い人達の前で手を合わせるお辞儀に迎え
られます。 辺りは真っ暗だし、何も分からず、豪華で別荘に迎えられた
みたいと、テラスの付いた2階のお部屋で旅装を解きました。



東南アジア旅行(2日目ーその1)
今日はまずアンコール・トムから。アンコールワットに来たのに何故先に
見せないと気があせりますが、写真を撮るのに逆光になるからとあちらは
午後行くのが常識だそうです。なるほど。
アンコール・トムというのはただ「大きい街」という意味。その中のバイヨン
寺院とその向こう側にあった宮殿の象のテラス、ライ(病気の)王のテラス
がまぁ見どころです。
砂岩でかなり色変わりしている観音像ですが、ジャングルを背にすると
大きさもありますしかなりの迫力です。「天空の城ラピュタ」のモデルと
なりましたとの説明もありました。


ライ王のテラスからは、物見櫓みたいな石の塔が幾つか見え、そこに綱を
渡して、その上を人が渡ってお祝いをしたと言います。そこは閲兵式も
行われたとかで、11世紀のクメール王国の栄華が偲ばれますが(本当に
広大な空間)、想像力の乏しい私の事、「結構朝から疲れたな」とか馬鹿な
事を考えていたのです。

三島由紀夫の戯曲に「ライ王のテラス」があったはず。これは読まなくちゃ。

非常に不規則な石の階段、砂地。。歩きにくい靴では来るべからずです。
昼食はタイ式カレーの店。飲み物に西瓜ジュースを頼む。氷は?と
聞かれたので一応危ないと辞退。美味しかったですがやっぱり生ぬるいの
はダメですね。一旦ホテルへ帰って休憩。ここでタイ式マッサージ
を30分受けました。 真っ白の絹のワイドパンツと赤い薄物の上着に
着替えて、敷物の上で待っているとしずしずと浅黒いカンボジアの若い
女性が登場。小柄で美しいです。現地の木琴のような音楽が流れ、水が
さらさら枕元を流れます。

その後の時間は至福の時でした。独特のリズムで、ゆっくりゆっくり揉み、
体重をかけて押さえ、伸ばす。足を膝に乗せ、足の裏も丁寧にマッサージ。
動きはしとやかで情緒があり、それでいてすごく力強い。美味しいジャス
ミン茶までついて微笑と合掌で送り出されて最高の気分でした。ここまでは。

2時過ぎからいよいよアンコール・ワットへ。ここはスールヤヴェルマン
2世というクメール王の墳墓であり、ヒンドウ教の寺院でもあるそうな。
まず満々と水を湛えた環濠が目につきます。無限の大洋を象徴するとか。
橋は欄干なんかありません。敷地内に入ってしまうと、西側を向いている
ので、確かに綺麗に写真が撮れます。聖池に写る五基の塔の眺め、
ジャングルの中から浮かび上がるその雄大さは確かにあっと言うものが
あります。しばらく、うれしそうに写真を撮りました。まだまだ最高の気分
でした。




東南アジア旅行(2日目ーその2)
アンコール・ワットの特徴はまず柱、壁、天井と言わず、全部目に見える所
に精緻な浮き彫りが施されている事でしょうか。ガイドさんの丁寧な説明で、
戦争の様子なのか、ヒンドゥ教の神話なのか分かります。唐草模様を始め、
アラベスク模様、花や葉やあらゆる文様が隙間をぎっしり埋めていてすごい
です。寺院が人々に取って楽園となるように創られたというか、王の権威を
表すだけでなく、王自身の天上土への憧れの昇華を計った所とも思えます。

最初にもし僧侶(オレンジの布を巻いて剃髪している人)に出会っても、
絶対に女性は触れないでくれと厳しく言われました。その人の修行が全て
無に帰するそうです。この前永平寺でも言われたけど、特に女性とは強調
されかったけど、多分同じだったんでしょうね。

構造的には第一回廊、第二回廊、第三回廊が四角く中央祠堂を取り囲み、
中奥へ行くほど重要な建物となります。
第三回廊へはかなり急な階段を登らないと行き着けません。勾配は45度
らしいのですが、まるで壁のように見えます。アンコール・ワットへ行った
経験のある人達からかなり大変と聞いています。又階段の幅も23cmの
靴が乗らないほど狭い。日本では「私登らないで待ってるね」とこのように
賢い口をきいていたのですが、実際目の前にしてみると何だか登りたく
なる。本当、高いところ好き人間。

足をかけて登り始めると、あれよあれよでさっさと登れてしまいました。
でも、ここで「行きはよいよい帰りは怖い」が実に真実であることを
発見するのですが、もう遅い。 帰りは一応手すり(単なる鉄のロープ)
のある所から降りようとするのですが、これが又4,50分待つ。そして
私の番になったとき、思わず心の中で悲鳴。真っ逆さまに落ちろと言うの?
って感じです。連れ合いが先降りようかと言うのですが、もし私が上から
落ちたら巻き添えにしてしまうと悲劇的な事を考え私が行くと言いました。
ここで裸足になる。。後ろ向けで降りる等の知恵があったらと思うの
ですが、いや、後の祭りとはこのこと。
ともかく慎重に一歩、一歩降りました。後ろからうるさいほど
「ゆっくり、あせるな、次とは離れているから大丈夫」声が掛かります。

何とか降りたことは降りたのですが、へっぴり腰。ロープに縋りすぎ。
そして踏み幅狭い階段に頑丈なスニーカーを両足揃えつつ降りたもの
ですから(笑わないで。。一体どうしてこう不器用なのか)、使わない筋肉を
使いそこから右足が完全に吊っちゃったというか、お豆腐を踏んでいる
ような頼りなさ。しばらくして歩き出せたのですが、階段がつらい。そこから
夕陽のアンコールワットがあったのですが、私はホテルに帰って浴槽に
「登別の湯」を入れてゆっくり足を暖める事に専念。ただし、全く痛みは
ないので、あぁんやっちゃった。。みたいな笑い話風でした。筋肉が
バリバリに凝っていて動かないと言うか。

夜の食事はホテルだったのでほっ。ライトアップされた舞台で
アブサラ踊りを見ながらのバーベキューです。手の反らせ方、首を
くっくっと曲げる、片足を高く後ろへ蹴り上げての静止ポーズがすごく
綺麗です。金の被り物を付けた人形的な踊り子のものより、男女が大きな
貝殻をうち鳴らしつつ踊る民族ダンスみたいなのが牧歌的ですごく
良かったです。 容貌は沖縄の人のような濃いめのアジア人。でも
肌の色はインドの人と言ってよろしいかと。小柄でとても日本人的には
親しみを覚えるカンボジアの人達です。消毒だとビールもしっかり飲み
明日は早いぞと10時頃から寝てしまいました。



東南アジア旅行(3日目)
普通の筋肉痛だったら一晩寝たら治るよね。。と思いながら朝起きましたが
とんでもない。相変わらず右足引きずらずには歩けない。階段は人の
助けが要ります。傘を借りて杖代わりにして歩くことにしました。(杖の
付き方は骨折経験でばっちり。弱い足と一緒に出すのです)5時起床で
アンコールワットの日の出を見に行きました。聖池に椅子を借りて
(コーヒー付きで100円)じっくり待ちます。暁の寺院。朝焼けから
日の出まで1時間くらい、池に写る逆さ寺院と、暴力的とも言える
ギラギラした南国の太陽のお出ましを楽しみました。

(朝焼けのアンコールワットーそろそろ日の出も近い)


しかし至福の時って難しいもので回りは人が一杯。隣では
台湾からのハイテンションのオジサンが国際交流に余念無く一瞬たりとも
口を閉じない。そんなものです、人生は。これ、1人で見たいなと思いました。

(いよいよ日の出)


 ホテルへ帰ってパッキングして全て積み込み、観光へ又向かいます。今日は
かのアンドレ・マルロー(元仏文化相)があんまり美しいので夜忍び込み
持って帰っちゃって掴まったというヴァンテアイ・スレイのアバダー(女神像)が
目的です。

さて、そこまでの一時間。「田舎のバスはおんぼろバスよ、凸凹道を
ガタゴト走る。それでもお客さん、我慢をしている、それは私が
美人だか〜ら」と懐かしい歌を口ずさむ。

古い歌。50年くらい前かしら。車窓に広がる景色はしかしなかなかぼやっと綺麗だなと眺めている
ようなものじゃなかったです。内乱で疲弊しきっている。。のか。学校は2部制。
制服有り。確かに白いシャツに紺色のスカート・ズボン姿。午前の部が
終わって、わんさか小学生が出てくる所を見ましたが、その内の80
パーセントは白とはとても言い難い(雑巾色、敢えて言うなら)色のシャツです。
小学校へ行ける子はまだ恵まれている方とか。事情が許すようになれば
行けば良いので学齢は関係ないらしい。ボロ切れ纏った子が
こっちを見ている。たった1人何もないところで。高床式のニッパハウス。
井戸、戦争映画で見たままの東南アジア、時がここだけは止まって
いるのでしょうか。

目的地へ着く。これも寺院ですが、赤い砂岩で作ってあるので印象が
違います。女神像は幾つもあり、どれが目的のものかは秘密だそうです。
でもガイドさんが「これだろうという噂です」と指し示してくれたのは
私も一番美しいと思いました。でもどうやって切り取ったのか謎です。

どこへ行っても参道は長く、おみやげ物の売り子がばぁっと近づいて
来ます。「オバサン、カワイイネ。3個3ドル、3個3ドル」そう言って
ミサンガみたいなのを売りつける子は、次第に「4個3ドル」になり
「5個3ドル」に。振り切って歩けない私はゆっくりゆっくり一緒に
歩く。5才位の裸足の子。たまたま50ドル札しか持ってないし、
連れ合い達は、もうはるか先。
「お金ないのよ」と謝りながら歩く。あんなに情けない思いしたの初めて。

そこから「タプロム寺院」へ。ここは廃墟になった寺院の上を南国の
たくましい木々が枝を伸ばし、根を張っている所。切り払うと全て
崩壊してしまうのでそのままになっています。

昼食はそうそうカンボジア風の鍋料理とざるそば。ざるそばは乾麺を
茹でているだけだそうですが、パック旅行のこういう気遣いはあまり
好きじゃないです。又日本人ガイドは少しがっかりかも。すごい優秀
な人で万全でしたが、まぁ気分的にエキゾチックじゃないと
言うだけで。ただカンボジア遺跡は全て現地人のガイドが一緒じゃ
ないとダメなので、もう1人ガイドが付いており(総勢4人で行動)
カンボジア語など習って楽しかったです。日本の歌で知っているの
ある?って聞いたらケータイにセイブしてある「FirstLove」
を聞かせてくれました。なるほど。あれは良い歌です。
カンボジアで何か食べてちょっと違うなと思って「チガウ・ナー」と
言ったらとっても美味しいだそうですよ。

いよいよカンボジアともお別れ。空港で「リーハイ」って言わなければ
と思っていたのに、いざとなると出ないもので普通に。ベトナム航空
で、ハノイへ行きます。大体アメニティは揃っていると思ったので
化粧水の持ち合わせなく、ここでやっと買えました。(町中へ1人で出る事は
出来なかった)2時間もあったのに、最後の20分くらい、隣り
合わせで座ったアメリカ人一家と話がはずみ、ペイジングをかけられ
てしまいました。北京の総領事館に勤めているそうで、あの
バイクタクシーで8日間もカンボジア観光したとか。3人娘、
相当うんざりって顔してました。汗だらだらのあの日中の暑さ、きっと
気候にやられたのでしょう。

ハノイ着は約一時間後。今度はベトナム人の男性ガイド。日本語上手い
です。外国語大学の日本語学科だとか。サイゴン(今のホーチミン市)
は南国で暑いらしいですが、ハノイは冬。聞いてないよ状態。ともかく
コート類は日本の車に置いて来たのでスーツ姿でぶるぶる。

DAE・WOOホテルという韓国系の五つ星ホテルに落ち着きました。
良くガイドブック見直したら昼間は15度。最低気温5度。いや、
恐れ入りました。とんでもないミス。ここでたくましい連れ合い、
早速町へ出てダウンジャケット調達してくれました。社会主義国のもの
なのに、ナイキっぽいマークが付いているのはご愛敬。



東南アジア旅行(4日目)
毎朝、今朝こそ足が治っているようにと思うのですが、全然そう言う
訳には行かない。ゆっくり朝ご飯食べて(ヴァイキングでしたが、
キムチ、中華風おかゆ、日本風冷や奴、ヴェトナム麺あり、その上
カマンベール最高)、少し時間があったのでビジネス・センターで
日本のヤフーに接続し、掲示板に書き込みなどしました。

今日の観光はまずホーチミン廟へ。午前中しか開館していないので
かなり混雑。40分位行列作って寒空の中待ちました。前はロシアの人達
だったのですが、さすがに声かけづらい。内部はアンヴァリッド
のナポレオンのお墓に似ていると思ったのですが、違うのは柩がガラス製
で中身が透けて見えること。そして其処には何とまるで眠っているような
生前と変わらぬホー祖父さん(ベトナムの人は親しみをこめてこう呼ぶ)が
横たわっていたのです。37年以上そのままとは。この技術は旧ソ連の
援助を受けたとか。それにしてもすごい良いお顔です。抜き身の銃剣を
捧げた4人の兵士が直立不動で守っています。

思わずお辞儀をちゃんとしてきました。欧米に対抗出来たアジアの偉人の
風格の演出ばっちりだと思います。 ガイドの説明の熱もすごかったです。
英仏伊露中国語が堪能。79才で、独立記念日9月5日と同じ日に
亡くなった事自体すごくないかと。胡志明というのが中国語名だそうです。

さて、ハノイ市は何と言っても大都会です。バイクがすごく多い。


まだマイカーは手が届かず、皆バイクで帰省もし恋もし(二人乗り)通勤もし・・だそうです。

葬式の車に何回か出会ったのですが、親戚は全員白い鉢巻きをしています。
風習とは言え、ちょっとびっくり。又結婚式は派手みたいです。くすぶった
感じの街並みの中に真っ白なウェディング・ドレスやど派手な換え衣装が
並ぶウィンドウが目立ちます。貸衣装屋さんと聞きました。舗道へ張り出す
ように布のテントを張って(日本の町内会のお祭りみたい)披露宴をして
いました。

さてアスファルト道路を歩いていると、やはりちょっと不安になってきます。
いえ、足の事。少し午後の観光を休んで医者に行くことにしました。暮の
30日だってちゃんと外国人向けのメディカルセンターみたいな所は
やっています。ここで威力を発揮するのが旅行保険。キャッシュレスで
OKでした。でもOKでないのが私の錆び付いた頭と語学力。

先生は多分英語を母国語としない外国人。ガイドは英語を話しません。
「幅の狭い急階段を足を揃えて変な姿勢で降りた為、足が吊った
感じで豆腐の上を歩いているようだった。筋肉がバリバリに痛んでます」
と言うのは英語でどう言ったら良かったか(笑) mustle pain
だけは分かって貰ったみたいだけれど、どうも良く分からないと言う
ご託宣。ともかく色々動かして見て、「腰の骨に何か問題が出て
いるかも知れないから、状態が良くならなければ帰国して整形外科
へ行くように。痛み止めの注射だけしてあげる」と。seriousか
と聞いたら「全然、大丈夫」「観光は続けても良いか、ホテルへ帰った
方が良いか?」と聞いたら「大人しくホテルへ帰って休みなさい」と。

まぁ日常会話は通じたので、午後の観光キャンセルしてホテルへ
帰りました。ガイドはちゃんと一筆書いて下さいと困った様な感じ。
私にとっては良い休養になりました。持参した沢木耕太郎の「無名」
を糊の効いたシーツの上で寝転がってゆっくり読みました。
連れ合いはマッサージとデパート巡り。

昼は又日本食だったのですが、夜はちょっとしゃれたベトナム料理の店、
「Lac Viet」。いや、これがすごく良かったです。たにしの身をすりつぶして貝に
詰め揚げたのとか、ベトナム料理の定番、チャーカー(緑の野菜、ベトナム麺、
しいたけ、肉等のお鍋)、ブンチャ(豚の揚げたのとかのごった煮)に又ご飯が
美味しい。焦げてないのに香ばしいのです。白ワインをボトルで頼んで
(赤ワインが実は良かった。。ベトナム料理の知識が無さ過ぎ)ゆっくり
満足しました。ディルというんですか、香菜が良く効いています。ベトナム
コーヒーもコンデンス・ミルクを入れて飲むんですが、なかなか濃くて美味しい。

たまにはゆっくりお酒をとホテルの最上階のバーに行きましたら、何と結婚式
の二次会で貸切。ベトナムも貧富の差が激しそうですね。



東南アジア旅行(5日目)
今日は荷物をまとめて車に乗せハロン湾巡りをした後、深夜便で
成田へ向かいます。ハロン湾へは国道を2時間半くらい走って行き
ます。私は運転をしないので平気でしたが、連れ合いが固まって
気分が悪くなるくらい、ものすごい乱暴運転。正面衝突の危機、
10数回あったそうです。中央分離帯なし。どんな機会でも追い越し
機会は逃さないのが、全てのドライバーの常識。日本人は駐在しても
車の運転は無理でしょうか。 

ハノイの街を出たところで、バゲット(フランスパン)を売っています。
里帰りの人達が美味しいのでお土産に買って帰るそうです。結構朝の内
でないと、埃まみれになりそう(笑)
私たちも日本へ持って帰ろうと相談しました。水田地帯を通ると、ガイド
が、ベトナム人は勤勉で3期作ですと説明。ただ、北は冬の間は野菜で
3毛作になるとか。カンボジアのガイドが2期作だけれど、2回目は
短く刈り取って後は牛のえさにして放置と言っていたのが印象的。

個人ガイドの良さは色んな事、聞きたいことを聞ける事ですね。行き当たり
ばったりの私のような旅行者は、ハノイの人口300万、ベトナム人口
8000万、ケータイ普及率18パーセント等の数字は調べて来てない
ので、有り難い。。バイクの値段18万くらい。これは、もう年収以上の
ものだそうです。女性もたくましく4人乗りとかしてます。(子供3人)

途中でトイレ休憩はショッピング・センター。「ベトナムの子供達への募金箱」
がしっかり置いてある事をチェック。蛙や蛇を漬けたお酒。。。うーん、パス。
後は陶器とシルク、竹細工ですね。そうそうアオザイはホテル関係、売り子、
レストラン関係の人達が着ていて本当に素敵。ワイドパンツの上にチャイナ
ドレスのウェストから横にスリット入ったものを重ねているのですが、
素肌がちらりと見えるのが何ともチャーミング(ウェストの所)皆さん、
色白ですが(私たちと同じ位)、ほっそりしていますね。アオザイ着ると
細く見えそう。一回着てみて買いたかったのですが、着ていくところも
ないしで止めました。歌舞伎座へ宝塚へ着ていけば良かったか。但し、
道行く人は普通の格好です。農村へ行くとあの▲の竹細工の帽子も散見
しました。

ハロン湾は龍の舞い降りた場所として有名。翡翠色の海の色と、奇岩が
ユニーク。松島の翠海版というか。専用のクルーザーで何組かの日本人
旅行者と一周しました。観光名所としては、スケールの大きさはなかなか
のものと思います。


全く波の無い湾で、お食事をゆっくり取りました。今度は海鮮と
いうことで白ワインをボトルで取って、茹でた小海老や、伊勢エビの
蒸したの、甘いソースを絡めた魚、空芯菜、すり身だんごを揚げたの
等、美味しかったです。ハロン湾はお食事は勿論海上泊してのイカ釣りも
楽しいそうです。

さてメインのティエンクン洞(秋芳洞みたいな所)巡りで下船する
のですが、狭い急な石段があるということでパス。船に1人、残る
事に。しかしあの20分くらいは本当に楽しかったです。デッキチェア
に寝そべって空を見てボー。そしたら、その内に港に停泊する同じ
ようなクルーザーの場所取りが始まって。。ぎっしり詰まっているのに、
少しずつ海路を空けて、急いで居る船を前に出し。。そのやり取りが
気の荒い船子達のかけ声でガンガン続く。ユーモラスできびきびしていて
見ていてとても楽しかった。あっちに乗り移ったりこっちの船をちょっと
押したり。。活躍中の子の若さというか、、、良いですね(笑)


すっかり楽しくなってしまって目を見張って見ていました。その内、
ツアーの人達もご帰還。又湾を一周して、真っ暗な中を(農村に行くと
本当に街灯がない)殺人レースを繰り広げながらドライブしてハノイへ。

深夜便の前に夕食です。プレス・クラブというベトナム風仏料理
のお店でした。我々は一室に集められましたが、一般客は大晦日のパーティ
らしい。帰りにフランスパンを買おうと、包装を待っている間、それこそ
盛装の外人達が続々とタクシーで集まって来るのをファッション・ショー
でも見るように眺めていました。明日からはお休みなので大晦日値段と
言って3ドルで10個のプチ・パンをこちらは買っていた訳で。。でも
帰ってベトナム・コーヒーと共に本当におせち要らずの美味しさでしたよ。

ハノイの空港では大晦日の歌合戦をテレビでやっていました。割合演歌調
の歌で、ヴィジュアル関係なく実力派って感じの大御所が朗々と。 これも
日本の一昔前かな。。と思わないでもないです。今年の初日の出は飛行機の
中から拝みました。 帰りは風の関係か、4時間半くらいで帰って来ました。
近くの異国。。でも正直日本へ帰って来て、今回は少しほっとするというか、
清潔で治安が良くて、私たちは恵まれているなと単純に思いました。でも
あの灼熱の太陽の下の冒険(?)、少しは些事を忘れ、のんびり、のびのび出来て
本当に良かったかも。 足も数日使わなかったら、何事もなく元通りになりました。



「捨てると言うこと」
我が家は築30年位の木造住宅。あちこちに綻びが見え始め、
移転か、建て替えか。。と長年の懸案でした。古い家独特の
住み慣れた、普段着の気安さは貴重で、なかなか踏み出せないで
居たのですが、此処へ来て、連れ合いに建築士の友人が出来、
とんとん拍子に建て替えと決まりました。

新しい家の仕様はさておき、主婦的にはこの古い家を畳むと
言う大作業があります。「捨てる!技術」等という本を真剣に
読んだりします。3年着ない、使わないものは全部捨てて良いとか。
一番捨てやすいのは洋服。(どうせサイズが合わないのが多いから)

又、私にとって貴重なアルバムや手紙、写真類は、結局、あまりにも
個人的で、私が死ねばもう用はない。普遍的価値はない。うーん、
そうですけれどね。何かこだわる。でも日常的にあまり過去を振り返らない
タイプだし、捨てる時期かもです。20才くらいから残していた手紙を
先日整理したら、顔も名前も分からない人が沢山。

確かに京都の親の家を処分しに行った時、(両親は年老いていて、
2軒あった家の行き来が出来なくなった)押入の中がほとんどゴミだった
のに(タオルは何百枚、内祝いの品とかね)あきれた覚えがあります。 
今私が決心しないと、多分このままでしょうから、息子達にバレちゃいます。
コーヒーカップのセットって6つありますね、そう言えば。  この頃は
品物を選ぶカタログになったので良さそうな物ですが、結局写真で選ぶ
ものは、使わないのが多い。中には大事に大事にしているものもありますが。
お返しって、カンボジアの子供達にでも募金する選択があったら良いのにと
にわか事情通は思うのです。未使用品はオークションで売れって本には
アドヴァイスあるけどうーん、手間暇考えたら捨てる方が良いかも。

さて、ここで大いに頭を悩ませるのが、本とビデオ・DVDの処遇です。
抗ガン剤で家にこもった時、何よりも慰めになったのが、これらの
コレクションでした。「サザエさん」「北の国から」には、もう足を向けて
寝られないほどお世話になりました(笑)ちょっと弱った頭にどれほど
優しく明るい希望を持たせてくれたか。骨折した時はミステリーの蔵書に
熱中。宝塚のビデオは華やかだし楽しい。雑誌もここ10年分くらい、
時々寝る前に見ては楽しんでいます。 又、買えば良いと言うけれど、
何が自分に良いのかすらも分からないのが重(?)病人です。あれを
買って来てと言えれば、もう半分治っていると思われ。。茫然と図書の前に
彷徨い出て、手に取ったら救われた。。そんな感じでしたね。

その本に「捨てるということは卒業する」と考えてやれとありました。
なかなかぐっと心に来ます。色んな意味で今は節目なんで、ここで全部
整理して、自然と親しむ事だけに転向するとか良いかも知れません。
海外から持ち帰ったジグソー・パズルも山とあります。5000ピースなんて
いつかやろうと置いてあるけど(未開封)私にその根気はもう残っていない。
幸い友人が引き取ってくれそうです。

香港から持ち帰った中華の景徳鎮の食器セットも、老夫婦には無用のもの。
あぁー何だか寂しい話になってきた。過去の遺物をごてごて飾り立てるって
精神が死んでいる証拠だと思うけど、そう言う風にしていると気楽なのも
分かって来ました。さて、ほどほどに上手く整理する。。やり遂げられるかな。



HAPPY KANREKI to me !!
嫌だよ、嫌だよ、嫌だよ。数日前から頭の中はこんな言葉で
一杯。とうとう年貢の納め時というか、還暦を迎えました。
その前後でどう変わる訳もないですが、いよいよお婆さんの仲間
入りしなくてはと思うのですね。今年の芥川賞の「ひとり日和」が
71才の老女と21才の若い娘が一緒に暮らす話しなんですが、
たった10才しか違わないのに、とても隔絶した世界に見えて
不安です。きっと編み物も、レース編みもあのお婆さんにとっては
目くるめくと行かないまでも、とても楽しい事なんでしょうね。
そして男友達も居たりして幸せそう。でも、それにしてもあんまりにも
行動半径が狭くて自己完結しているのにびっくり。10年間で
あぁいう風に収束していくのかなぁ。少し世間との繋がりのキープは
意識した方が良さそうとか思います。

でも先行きはあんまり考えない方が良いでしょう。病気が
あるので、余計に半年先、一年先まで充実していれば良いような
気がします。その積み重ねが残りの人生なんだとそう言う考え方
しか今は出来ません。そしてそれってすごく楽な生き方。ボケ
かけた私にはぴったり。

しかし60才って何かすごい大台に乗った感じしますね。
あぁ。。もうダメ。落ち込んでいる母親に息子達(含連れ合い)から
花束が届きました。そして白金台の仏料理屋の誕生会も開いて
くれました。プラチナ通りの日曜日のゆるい人通りの無さが
パリの街みたいで窓際に座って良い感じでした。ボルドーの
赤ワインが二本も空いて、そしてデザートに「還暦おめでとう」
とデコレーションがあって、酔っぱらって何もかもどうでも
良いような気がしたのでした。
写真は花束

写真はデザート(横にいちごのMille Feuillesが付く)



引っ越し騒ぎ
病気以来の積極策(単にやりたいことは思い残す事なくやる、やれたら
達成感と楽しさで又免疫力アップ)もエスカレートの一途。ついに今年は
家の建て替え、そして一生に一度は乗りたかった地中海クルーズを
目標にすることにしました。

お正月、アンコールワットから帰って取りかかり、新居の設計は
済みましたが、仕様など何も決まってないまま、仮住まいに居を移し、
家の取り壊しに掛かったのです。(大丈夫だろうか、私達)

家を畳み、引っ越し、又戻る。。面倒この上ないですが、チャレンジ自体が
楽しいし、今やらなければ、何時やれるの?と思います。
でも、気が付いた時には、シーズンで大手は全部満杯。引っ越し屋が
決まったのが5日前、段ボール貰って全部自分で箱造りせざるを得なく
なり。。2階建ては疲れる。。。ふぅ。

ただ香港で買って来た英国製の陶器などもあるので、
食器類について困って居たところ、一日だけプロに
頼めました。他のものを片づけながら見るとは
なしに見ていると、本当に手際よいし、良く考えて
ある。同じお皿などは、間にクッションだけ
入れて大きく包み込む。緩衝剤は予め色んな大きさに
ちゃんと切っておく。そして惜しまず使う。

そんな感じで、あれよあれよという間に築30年の家から脱出。
そう遠くない公団のマンションに荷物と一緒に移り住みました。
(礼金など必要なし<ラッキー!)
段ボールがリビングの半分に五段ほど積み重なっているのを
無視しつつ、新婚生活みたいな(食器など必要なもの
しか荷ほどきしてない)シンプルな生活が始まりました。

マンションって機密性があり暖かいですね・・・って
いきなり、のんびりムード。そして”もの”が圧倒的
に少なくなると言うことは滅茶苦茶素晴らしいと実感。
泣く泣く捨てた本棚や本類、沢山の洋服、洋服ダンス、
レコードも机もサイドボードも食器棚も古いもの全部と
さようならです。「還暦」にふさわしいお祭りかも知れません。
そして今心に誓う事は、決してこれ以上家具を増やさないこと。。
洋服でも何でも、一つ買う時には一つ捨てる事。

お湯ばり機能(ガス)があるお風呂が今ちょっとうれしい。
「対流」「対流」と思いながら湯をかき回す手間なんて
今は要らないのですね。新しくつけた温水便座も今は脱臭機能
がすごくて、朝の順番気にしなくて良いのは助かります。

でも、年寄りには、襖やアルミサッシの戸の持ち手がすごく
浅いのが悲しい。機密性が在りすぎて換気が気になる。
一軒家の風が家中を吹き抜ける爽やかさが無い。布団も干して
良いのやら、悪いのやら。。そして何でも便利ということは、それだけ
貴重なエネルギーを費やしているということ。もう充分働いたから
「楽して良いよ」と誰か言ってくれないと、どうも貧乏性で悪いような気が
して仕方ないです。

生活様式が変わるということは、新鮮で気持ちがとても若やぎますが、
さて3ヶ月後、又あの大騒ぎを繰り返して、落ち着いて初めて本当の
感想が出るでしょう。



地中海クルーズ(東京ーミラノージュネバ)
4月28日、13時20分のJL417便に乗るためのグループ集合は
11時20分。誠にごもっともなご託宣。 ゴールデンウィークの頭です。
どれだけ混んだっておかしくない。沿線のたまプラーザから空港バスに
乗ることにし、タクシーを頼む。道が混んだらと老婆心むくむく。7時半には
家を出ました。

ところが、渋滞ゼロ。9時半には空港到着。 これで4時間どうやってつぶす
のか、もう何だか唖然。取りあえず「足裏マッサージ」など行ってみると、
飛行機出発頃まで予約で満杯です。その内、連れ合いが別行動がベターとすっと
消える。怪しい(後で理由が分かってびっくり)。しょうがないのでYahoo
のカフェで無料ネットを楽しみました。パスポートさえ見せればOKです。

その後も連休の混雑など全く関係なし。11時半頃、韓国へ出発する息子1と
ちょっとしゃべる。ヨーロッパ便はまさかと思っていたら正真正銘の満杯。
しかも窓側の席だったのでつらかったです。若い頃には考えられない悩み・・。
トイレどうする?水を飲まないと血が淀む感じするし。。ひたすら通路側の女性
にぺこぺこ。寝てらっしゃる間は我慢我慢。

飛行機で寝ないのが私にあった時差解消法なので、まずは映画を見る。
「ロッキー、ザ・ファイナル」「ラブソングが出来るまで」二つとも
エンタメ性高く面白い。ロッキーの方は度々何とか英語に切り替えて
聞く。。と言うのもシルベスター・スターローンのだみ声、滑舌の悪さ
が個性なので何か聞かないと勿体ない感じ。テーマが流れると目が爛々と
してくる。昂揚度すごい。「心は歳をとらないって教えて」なんて台詞が
あると、ふむふむ出発にふさわしい映画とか勝手に1人合点(笑)
ヒュー・グラントの元人気歌手ものは全く肩の凝らないコメディ。
腰の振り具合(突き出し具合)が見物でした。ドリュー・バリモアも
可愛いくて胸美人というのかしら。

次は麻雀、ソリテア。疲れを知らずにあれこれやっている内に食事2回、
完食してワインとビール開け、そろそろぐったりと言うところでミラノ着。

マルペンサ空港。午後7時過ぎ。時差7時間ですから、日本ではもう
夜中の2時。でもこの辺りは日没が8時過ぎるのでまだまだ明るいです。
中央駅の近くのホテルに一泊。落ち着いて眠りに着けたのが、丁度朝起きて
から24時間後。。さすがに眠くてバタン・キューです。 ジプシーや
外国人が集う駅前広場は決して近づくなという添乗員のお達しがあり、
そう言えば何か得体の知れない楽器の音が深夜まで聞こえたような気が
します。(ミラノのテルミナーレ・チェントラーレ=中央駅を横から
さすがに駅周辺の時計は正確そう)


朝はホテルのバイキング。頼んだカプチーノがふんわりほろ苦甘く最高。
やっぱりイタリアは良いわと単純。オレンジを丸ごと入れると搾ってくれる
機械があったので、自分で作って飲みました。濃厚で美味しい。昨日の不気味
な喧噪が嘘みたいに綺麗に掃き清められた広場を通って駅へ。埃を被った列車が
ほとんど。合図のベルなんて勿論なし。高い天井。。何本もの線が平行に並ぶ
独特のヨーロッパの発着場です。
 さてすぐにバスで150km先のジュネバ港に向けて出発。添乗員的には
2時間弱ということでしたが実際には渋滞して3時間以上。そして「今ここで
コートダジュールへ行く車と分かれますので、嘘みたいにスムーズになります」
と言うアナウンスで何か始めて、ヨーロッパの日常というか、そう言うものに
郷愁を感じると共に、もう二度と自分のものにはならないと言うことに寂しさを
覚えたのです。

こうして観光客で来るのさえ、最後になるかも知れない。。日曜日毎に海へ向けて
車を走らせた青春の思い出よ、甦れ!と懐かしむと共に、もうゴールも見えた今、
何時か又住みたいと思っていたのは夢だったなとほろ苦い気分にもなるのでした。

昼食はジェノベーゼ・ソースのスパゲッティ。ジェノバ風というのは、結局バジル
風味のホワイト・ソース仕立てのスパゲッティ。よく冷えた白ワインが美味しかった
です。勿論、イタリアではスパゲッティは前菜。しっかりお魚が付いてました。

食後、いよいよ乗船。飛行機のチェックイン並み(いや、写真も撮るので
それ以上)の仰々しさ。そして渡されたのは1枚のクレディット・カード。
船室の鍵にも、船内のお財布にも、身分証明書にもなるもので、
絶対に無くさないで。。ということでした。カードのバー・コードで
PCに私達の写真が1人1人出て乗下船時チェックしていました。

良い気候ですから、2500人満員。客室乗務員は900人と聞いて
いましたが、この船はイタリア人とインドネシア人の乗務員の船で、結局
食堂も25才のImade君が担当。 良く訓練されていますが、陽気な
イタリア男に傅かれたい等思っていたのは当てはずれ。。(笑)

晴天で、海が青く、丘の緑も綺麗で、ホントに船出には最高。皆が手を
振ってくれるのでうれしくて振り返しました。

(写真は遠ざかり行くジュネバの港)



地中海クルーズ(ジュネバ〜ナポリ〜カプリ)
客室にはTVが勿論あって、BBCのニュースや、仏放送、イタリア本国の
チャンネルも写ります。それによると今日のナポリ地方は風と雨が強いと
言うことになっていたので、「青の洞窟」がどうかとあまりドキドキしません
でした。雨女だよーって変に割り切り。今回は6人のツアーなんですが、
その内2人は、3回目でまだダメらしいです。11時頃ナポリに入港した時は
曇り空で雨はぽつぽつという感じ。船は全く揺れないのですが、慣れないし、
やっぱり2時半頃には変に起きてしまいあまり寝てません。その割りには食欲
があって、昼のカフェテリアでは、ミートボールやら、ペンネやら、野菜も
山盛り一杯取りました。この時ほどホルモン剤の副作用で満腹感が訪れない
事に感謝したことはありません。平気で食べる私に連れ合いはいささかげんなり
って感じ。
(ナポリ港で、我々の船MSCMUSICA号)


あまりに突風が吹くとホーバークラフトが欠航すると脅かされたの
ですが、何とかカプリ島までの船は出ることになり乗船。今日の現地ガイド
さんは、パトリシアさんという日本語の達者ないかにもお気楽な太った女性。
「パトちゃんと呼んで下さい」から始まって独特のユーモアとオヤジギャグの
連発でもう笑ってばっかり。カプリ島は白壁の建物とレモンの木が茂る島で
細い小路を登るのですが、どうやってすれ違うのかと思うくらい運転が大変そう
です。(大型バスは通行できない) 「皆さん、運転手さんと代わりたい方
いらっしゃいませんか。運転手さんは喜んで代わりますよ。 でも私は降り
ますけどね」なんて明るくしゃべってました。ローマのティベリウス帝も、
気に入って移り住んでしまったというこの島。海が青ければどんなに綺麗かと
思います。100平米の別荘が5000万円くらいで買えるそうですので、
お金の余っている方は是非どうぞ。レモンチェロという強いレモンのお酒と
レモン・チョコレートが有名。お酒はどうも私は苦手な味だった
ので、お土産にチョコレートを求めました。一杯大きなホテルがあって、
この島に滞在することも可能。ブーゲンビリアみたいな南国の花も咲いていて
何とも情緒溢れる島でした。あぁー良いお天気の日に来たかったです。
Azurra Grottaは午前中の方が光線の加減は綺麗で、この世
のものとも思えない美しい幻想的な青い海が見られる洞窟だそうですが、
潮の関係で入り口に近づけず。。残念。



帰りは結構雨も降ってきて、海も荒れ、ナポリまでの小一時間が揺れました。
ムジカ号に帰って来てほっとした感じ。やっぱりすごいです。7時頃には
出航したのですが、特に揺れずに悠々堂々と岸壁を離れて行きました。ちょっと
胸につかえるものがあるかもと早くも寿司屋に行って見ました。カリフォルニア
ロールや、色んなお寿司2人前、味噌汁、天麩羅がついて42ユーロ。(1ユーロ
は170円)これが安いのか高いのか分かりませんが、ともかくシャリが
もちもち感のあるお米で本当に残念。。って感じ。でもネタ自体はすごい新鮮で
お刺身としてはまぁ美味しかったです。 ここへは後一回お昼に鳥そばを
食べに来ましたが、後はムジカのお食事で結構ということになりました。
ツアーの人達も6人揃わないと楽しくないとか言って下さったりしたので。。
ただ、結構外人さんたちのsushiブームってあるんですね。私達が座って
いると、にこにこ会釈して皆入って来て、器用にお箸使ってます。でもまぁ
オーダーの順番(天麩羅、おそば、味噌汁、お刺身、お寿司)や量がちょっとねぇ。
シャンペンや、白ワインでがんがん食べてるのを見ると、何か逃げ出したかったです。



地中海クルーズ(シチリア島パレルモ)
昨日の雨天が嘘の様に3日目は晴れ上がりました。今日はシチリア島の首都
パレルモに接岸します。入港が7時半だったので、朝のカフェテリアは結構、
混雑。でも私達は老人性と時差のせいで早起きが得意中の得意。メイクも
ばっちりで一番にスタンバイしてバイキングをしっかりお腹に。シシリー島と
思っていたし、パレルモは宝塚で花組「落陽のパレルモ」を見るまで、名前を
知らなかった位のヨーロッパのまぁいわば僻地。でも、ギリシャ、ローマ、
アラブ、ノルマン民族と色んな支配者がここを蹂躙してそれぞれの文化を
花咲かせたそうで建物は多彩。その明るい日差しと人々の人なつっこい笑顔も
良かったです。

マフィア誕生の背景は、過去の歴史の中で、ドイツ支配への抵抗の思いですと
ガイドさんは説明していました。まず丘の上のモンレアーレの黄金のモザイクを
見に行きました。教会の内部が金ぴかで、全て細かいモザイクで宗教画が描かれて
まばゆいです。絵じゃないので、フラッシュ焚き放題でした。ここで少し自由時間
があったので広場でのんびりしていたら、パレルモの音楽隊の吹奏楽演奏があった
のですが、これが申し合わせた様に、黒服に黒いサングラス。連れ合いなど、
「どうみてもマフィア」と憎まれ口を叩いてました。


アラブのモスクを思わせる赤いドームが5つ見える「サン・ジョバンニ・デッリ・
エレミティ教会」に行った時のこと。棕櫚の木が生い茂り、変わったサボテンが
見えました。これが「団扇サボテン」で、「インドの無花果(イチジク)」と
言われますと説明されました。

その瞬間、電気がピリリ。ヴェルサイュの菜園の訳をしていた時だったか
「インドの無花果」は何度も出てきました。まさかこれが。。(何と良い勉強になることか・・冷や汗)
サボテンの上の方に黒い実がなっていて、これを食べるそうですが、何とも
甘い訳でも食感が良い訳でもなく。。でも人々は夏になると皆食べるそうです。
(平たいサボテンが見えますか)


昼は港に近い大通りのレストランで、アンチョビのパスタと「メカジキのグリル」
を食べました。いやぁーー、このメカジキのグリルは美味しかったです。
素材そのものの美味しさなんですが、油が乗っているのにあっさりしている。。
大きなわらじみたいなのをぺろりと平らげました。


皆は船に戻ったのですが、
連れ合いとしばらくその辺をうろつきますと別行動。出航5時半なので、5時
には帰れとうるさく言われました。待ってはくれないそうです(当たり前)

ところがメイデーなのかお休みのお店が多くダメ。アンチョビとか、唐辛子とか
食料品店を見て楽しみました。船に帰ったらお天気が良くなったので、何か
浮き立つ感じ。夜はチーズ・コロッケ、サラダ、オッソ・ブッコ、アイスクリームと
ワインを飲み本日一日でカロリー過多。

夜、ショーを見に行ったら「BIZARRE」というフレンチ系の何でもあり
ショー。やっぱり見物はフレンチ・カンカンで、Tバック(!)+ガーターベルト
(色っぽい赤とか黄色とかのフリル)+黒い靴下をガンガン見せてもう
ホントに大人の男性がわぁわぁ盛り上がる楽しさ。音楽は「天国と地獄」で、
宝塚でも良く見ますが、テクニックは同じだけどきわどさと迫力で楽しさ倍増。
最後にベコーの「そして今は」を男女でデュエットで歌い上げてヤンヤの喝采。
ダンサーはせいぜい12、3人なんですが、疲れを知らないようですね。

9時半と11時半の2回制でショーは一時間。それが終わるとミッドナイト
ビュフェとか言って又食事が出ます。彼らはともかく元気そう。



地中海クルーズ(チュニジアのカルタゴ)
今日も入港が7時で朝が早い。出港が1時なので、折角始めてのアフリカ
大陸なのに、すごく滞在が短いです。預けていたパスポートも戻って来て
いよいよチュニジアのチュニスへ上陸。学校で教えるのはフランス語が
第二国語(第一はアラビア語)だそうで、運転手さんもガイドさんも上手
でした。ただ現地の日本機関の職員のバイト的なガイドさんで、唯一、
ほとんど説明無し。何か旅慣れたツアー仲間シラーっとしていました。
チュニジアこそ、我々の知識が一番乏しいのであれこれしゃべって
欲しいのですが(質問すればよいのでしょうが、誰もガッツなし)
お上手な日本語なのに口が固かったです(笑) 唯一浴場跡に行った
時、構造をしっかり説明してくれたので、はるか昔に思いを馳せて
雄大な気持ちになりました。 曰く残っている柱は浴場の建物の一部で
床の下で(現在階段の下の穴蔵が発掘されている)奴隷達が火を必死で
焚いていたそうです。 「カルタゴの丘」って言いますよね。あぁここが
そうなんだと海を眺めていました。



青い絵の具が目立つお皿なんか、とても綺麗な意匠のものを土産品で
売っていて結構リーズナブルだったのですが、こんな所から買って荷物
一杯になると却下され、今思えば残念。スペインなどは物価高、そして
妙に現代調がもてはやされていて、バルセロナは特に焼き物の街じゃないし
何も買えなかったのですから。


チュニスの街は地中海風の白壁だけれどまぁベトナムの街と似ていたかも
知れません。 大統領の別荘には絶対にカメラを向けないでくれとかという
妙に必死さの漂うリクエストもありました。他に巡った能天気風気楽なラテンの街
の中では、ちょっとした異彩を放ってました。

この夜、始めてのフォーマル・ナイトでした。まず船長主催のカクテル・パーティ
があり、シャンパンから飲み放題。でも、私はウェストに非常に不安のある
黒のロングドレスに、4年ぶりのハイヒール姿なので、万が一酔ってしまったら
大変。勿論船は全然揺れないのですが、やっぱりふかふかの絨毯は危険。じっと
堪えてジュースなどを飲んでました。たまたま隣に可愛い女の子が、綺麗なリボンで
お洒落しているので、写真を撮った事からご家族と話しました。ウィーンからだ
とか。何と1才半だと聞いてびっくり。エミリーちゃんでした。船長は勿論穏和そうな
推定年齢42,3才のイタリア男。1組ずつ写真を撮ってその時に少し話して握手。
まぁ1分として、何組とやれるのか。2500人全員じゃないことだけは確かです。
ありとあらゆる機会にこうして撮る写真は翌日フォト・ギャラリーで売り出されます。
一枚15ユーロの本格的なB5サイズの写真。夫婦の写真なんて結婚式以来です
から、喜んで買い求めました。

お腹が膨れないように、シュリンプ・カクテル、ビスク・ドマール、アーティショー
のソースがけのヴォー。そーっと食べました。連れ合いは正装を脱ぐのが惜しい
のか、カジノへ行くとのたまう。 ともかく成田で私と離れて煙草を24本
吸い続け、それから禁煙中。イライラが募ってもと快く送り出しました。



地中海クルーズ(マジョルカ島)
今日のマジョルカ島への入港は午後2時。と言う訳でのんびり出来ます。気温は
20度ですから、ちょっと泳ぐのには寒いですが、良い気候です。連れ合いは
ジャグジーやサウナを試してました。私はランニング・マシーンに挑戦。1キロ
を目標に黙々と走りました。隣は若い女の子でガンガン飛ばしてましたが、
足をもつらせても何だし、時速約半分くらいで走ります。でも玉の汗で、
シャワーして、バルコニーへ出て海を眺めて冷たいものを飲んでいると
海がキラキラ。。。本当にのんびり、至福の時でした。

 どうやら身体も慣れて来て、後から思えばこの日の観光が一番楽しかった
ような気がします。マジョルカ島というのも、私は一度来たかったのです。
娘時代にここから来ていたマルガというお嬢さんにとても世話になったというか
救われました。パリに留学していたとき、元々、結構暗い偽悪的な所のある性格が
お決まりの言葉の壁や何やかやでどんづまり。誰とも話したくなくなって
いた所、寮の隣室の彼女がすごく明るくて、私の悪いところもズバズバ指摘し、もっと
前に出ろとけしかけ、散歩やコンサートなんかに毎日連れ出してくれました。
帰る時にはイタリア人の自分の友人まで紹介していってくれ、私は本来
お調子者だったのか、海外では本当に臆さなくなくなりました。その事が
日本でも少しずつ殻を破って行く事につながったような気がするのです。(懐古)

あぁいう開けっ広げの懐の深い女性を産み出す土地を是非見てみたかった
というのがありました。おあつらえ向きに陽光ギラギラ。真っ青な空が開け
ていました。船が近づいて行くに連れてひときわ目立っていた岡の上の赤茶けた
ベルベル城にまず入場です。


14世紀に出来た円いお城で、円い物見櫓が特徴。
マジョルカ王国の3代の王様が住んでいたとか。元々は結核に罹ったスペイン王
の療養の為の離宮だったみたいです。今日のガイドさんは当たり。独特のちょっと
したシニカルというかペダンティックな喋りが好調。本当にツアーはガイドさん
次第。40才位の日本人男性です。

黒ずんで所々白いのは、結核の人のシーツを燃やした為煤がひどく、けずり
落とした跡と説明。又窓際の出っ張りは、本を読むための座席と。窓が大きい
と攻められた時に困りますから、割合小さく、そうか、どの時代にも本好きは
居たのだと納得。

ベルベルはBellverですから、仏語だとBelle vue・・つまり美しい景色という意味。
なるほど、パルマの港と海の広がりと、松林の緑は本当に明るく晴れやかな美しさ
です。

次にスペイン第三のカテドラル(ちなみに1位セビリア、2位トレド)を訪問。
いまだに建設中だとか。ガウディが作ったという天蓋飾りは、まぁ一目で分かる
異様さ(と言ってしまって良いのか)です。未完成の理由は@完成すると沈むと
いう言い伝え、A技術的な問題、B農業国の為、労働奉仕の波があったと説明され
ました。アーチ型の梁と、天を付くような尖塔、典型的なゴシック建築のカテドラル
で、宝物館などついていて、植民地の雄として鳴らした頃のなごりか、派手派手しい
財宝が並んでいました。(卵大のエメラルドとかサファイア)


さて、そこから少し内陸へドライブしてヴァルデモッサへ。ここには本日のハイライト、
ショパンとジョルジュ・サンドが愛の逃避行をしたカルトウーハ修道院があります。
男爵夫人でありながら、夫が擁護する芸術家と恋に落ちた男装の麗人の作家サンド、
そのポートレートは34才とは言え、本当美しい人だと感心。ショパンはここで「雨だれ」を
作ったとされますが残念ながら健康に優れず(結核の療養の為に来ていた)、34才
(年表で見るとそれくらい)の女ざかりのジョルジュ・サンドは懸命に看護したと言います。
島の人達には受け入れられず、買い物ひとつにも苦労したとガイドさんが
説明してくれました。(ちっとも懐深くない<苦笑)礼拝堂とかは本当にスペイン式の
華美なものですが、修道院の部屋自体は地味そのもの。一室が売店になっていて
「マジョルカ島の冬」9ユーロ也が平積みされています。ここで買うことに意味があると
思って、財布を捜したら100ユーロしかない。。お釣りはありませんと断られ、
カードで買うにもこういう時はどんどん進む団体行動は難しい。
たまたま最後尾についていたので、日本からのガイドさんに「幾らでも日本で売って
ます」と言われてあきらめる。(日本じゃ仏語のペーパーブック廉価版は手に入りそうも
ない事が帰国後判明)

何故そんなに急がされたかはすぐ判明。一室でショパンのミニ・コンサートが開かれ
たのです。特に案内にはなく、突然だったのでびっくり。聴衆は30人弱。黒服の比較的
若いピアニストがすっと礼をして座り、そうですね、5,6曲。
あのカルメン・キャバレロがカバーして流行った「愛情物語」の「To love again」が
すごく心に沁みました。後はやはり「雨だれ」。クラシック音痴の
私ですが、でも旅の埃が流されるようで、すごく静かで心休まるひとときでした。
(ヴァルデモッサ修道院の内部とコンサートの様子)





その後、今日は外で夕食。そろそろ船のフルコースにも飽きて来た所だったので、
本当にうれしかったです。波止場が見えるお店で、シャンパンが振る舞われ、
もう今日は何と良い日だろうとにこにこ。

イベリコ豚の生ハム(パルマの生ハムは有名)、えびの蒸したのや、ムール貝、あんこう
のクリーム煮、チョコレートケーキ、エスプレッソ。船の食事はイタリア風ですから
ここの、スペイン風の素朴な食事は格別美味しかったです。



地中海クルーズ(バルセロナ)
今日の入港予定時刻は午前9時、いよいよ又ヨーロッパ本土に戻ってきてバルセロナ
です。陽光はますます勢いを増し、日の出は6時46分だったのですが、朝食の
キャファテリアから見たそれは、本当に明るく派手なものでした。太り目の女性は
もうショートパンツにタンクトップ姿。スペインの人達はここで降りるのでしょうか。
随分早いお出ましで早朝から混みました。

我々も10時頃には市内にやって来てまずあの「サグラダ・ファミリア」見学。これが
もうすごい人、人、人。エレベーターは1時間待ちで断念。人に押されて巡回路を
歩く感じでした。 しかし、私が40年前に来た時にはまだ正面の門と塔だけで、
平面だったのに、もう内部も出来、外側の門も出来、ちゃんと建っていたのに驚き
ました。当時後200年かかると説明されたものでした。私には怪奇なものとしか
見えず、少ない滞在時間中ここが何故選ばれるのか分からなく、案内人を恨みたい程
だったのですが、今こうしてみると確かに昔のカテドラルに匹敵するものを現代に
建てるならこうなるのかと言う気合い(表現力不足ですみません)を感じました。



宗教が権力と結びつくことを恐れて、全てお布施(入場料=8ユーロ)で建築が
進んでいるとか。8ユーロは約1300円です。年間入場者数は250万人と
説明がありました。そして、一応2014年には完成の目途が立っていると
聖家族教会が発表しているとか。ただ、ガイドさんはスペイン人の気質
からして、相当遅れるだろうと説明。完成の暁には是非見に来たいですが、
明日のことは分かりません。


その後同じくガウディのグエル公園に回ってベンチや遊歩道など見学。 大人がぞろぞろ
来るよりは、子供達専用に開放すればよいのにとちょっと思いました。
お昼はタパス(スペインの小皿料理)を堪能し、市場も見学。娘時代に来た時は
ピカソ美術館(ピカソはバルセロナに10年位居ました)で長時間いたことを
覚えていたので、行きたいと思ったのですが、もう観光は終わりらしい。
単独行動を取るかどうか迷ったのですが、今日は2回目のフォーマルナイト。
疲れもピークのようで、一眠りを選んで船へ帰りました。

船の図書室には、一応日本人向けにも50册くらい本があり、ミステリー、流行作家もの
と揃っています。シャワーをして、そう言うのをバルコニーでうつらうつらしながら
読んでいると本当に眠くなってしまい、午睡。起きたらもう後25分というきわどさ。
こう言う時のウィッグ頼みでちゃちゃっとつけて澄まして行きました。
相変わらずヒールはこわごわです。でも連れ合いに腕を組んでもらって
頼り切って歩けるので助かります。

今晩はフルコースのディナーの後、給仕達による「Opera d’Araska」の
行進があって火を付けたアイスクリームを掲げて歌って練り歩きました。記念写真を
撮ったりしてわぁわぁ盛り上がります。無邪気になってしまうのが船の魔力ですから
各テーブル相当うるさかったです。

夜のショーは「Celtic Spirit」と題してケルト・ダンスとかをフィーチャーした
もの。そして最後に「We are the world」の大合唱がありました。各国語の挨拶が
あり、その度に一角、一角が盛り上がるという具合。イタリア語、スペイン語、
英語、フランス語、ドイツ語で「本日は有り難うございました。この歌を
皆さんで歌って楽しみましょう」と。その内、後ろの扉から、各国の旗を持った
人達が通路を通って舞台へ。日の丸も勿論登場。1列目8人、2列目の上手
あたりでしたから、まぁ2500人分の50名としてはその辺の扱いかな。
3列あったので舞台が狭く見えました。

連れ合いは相変わらずカジノへ。ドイツ人の太ったオバチャンとペアで
ルーレット頑張っているとツアーのお仲間から知らされましたが、私は
貴重な睡眠時間。つっかい棒がなくなったのでそうっと歩いて部屋へ戻って
バタンキューでした。



地中海クルーズ(マルセイュ、アヴィニョン、アルル)
今日はクルーズ最後の一日です。明日は起きたらもうジェノバへ帰っていて
下船します。7時半にはもうマルセイユの港に入って行きました。天気晴朗です。
もっともマルセイユは年間295日が晴れだそうです。

まずは車を飛ばしてプロヴァンス観光に出かけます。バスでガイドさんが
「アヴィニョン橋の上で」のおさらい。フランス語で教えて下さるんですが
すごくドスの効いた低音。美味しかったというフランス語「C'etait tres bon」とか
一々レピートを要求され、誰1人唱和しない。デユランス川に来た時は
「河は呼んでいる(懐かしい)」の歌で、又レピート要求。少し居心地悪く、
乗りの良すぎるガイドさんも考え物。でもとても明るく向日葵のような女性でした。 

まずはアヴィニョンの法王庁に行きます。ここでガイドさんが、「Chateau
neuf du Pape(法王の新城)」という名酒(ワイン)で有名ですとバスの中で
説明 。私はこういう話はしっかり耳に入る方。
法王の寝室の壁や床がすごく綺麗なモチーフのタイル貼りになっていて、
色合いが良い感じに古びていて素敵でした。
菱形で、オレンジやフレンチ・ブルー、バラ色、白、金などが使われて百合等の
花や唐草がデザインされています。売店では、そのマグカップやピルケース
などが売られていてすぐ飛びつきました。ワインも色んな値段がありました
が、中級で45ユーロのものを記念にと買い、すっかり鞄を重くしました。

ガイドさんの説明快調で、ゴシック様式と呼ばれるのは、アーチ型の梁がゴート族の
帽子の形に似ていたからと分かりました。又ローヌ川の丘の斜面を買って葡萄を栽培
したヨハネス22世というワイン好きの法王が居て城まで作ったのでこの銘柄の名前が
付いたとか。

外へ行くといよいよアヴィニョン橋とご対面。アーチ型の橋が途中で切れています。
ローヌ川はしずしずと流れ、まったりとゆっくりと時も流れている感じ。記念写真を
撮る10分しか居られない私はこういう時、何となくそそくさとしてしまう。ずっと居る事
が叶わないのは残念という気持ちを思い切らせる為でしょうか。


次にアルルへ行ってまずゴッホの絵で有名な跳ね橋へ。岸にはゴッホの絵の看板が
あり、お花が咲いていてのどかな田園です。サービスとかで「アルルの女」の音楽が
バスに流れます。仏語学生の頃、仏語でアルルの女が発音超ムズカシーイとされて
いたのを思い出し、ガイドさんにこっそりお願いしましたが、流ちょうな素敵な発音
の「L'Arlesienne」 でした。 

アルルでは丁度大通りで市場が開催されていて、まぁフランスパンやチーズ、色んな
野菜(ズッキーニ、アーティチョーク、チコリ)をカゴ一杯買いたくなる。。でも物価は結構
高いと思いました。アルルにはローマ時代の遺跡が幾つかあって見学。でも一番
印象に残ったのは「黄色い壁のカフェ」です。今でも営業していて大繁盛。ゴッホの
絵の看板がありましたが、もう本当にそのままに残っています。「雨上がり」と
いう題でしたか、宝塚の轟悠が描いた絵のインスピレーションの源は
此処でしょう。個展で見かけた絵を懐かしく思い出しました。



昼下がりのひととき、本当に観光客用じゃなさそうな「マノンの庭」というレストランで食事。
オーベルジン(茄子)のゼリーとか美味しかったです。カトリーヌ・ドヌーヴみたいな美人発見。
私くらいの年齢でミニスカで高々と足を組み、綺麗な指先で紫煙をくゆらし、
前に座った冴えない風の男に鼻先で答えている感じが「あぁーもう絵になる」と
連れ合いに綺麗ねーサインを出したんですが、別に何とも思わないようで、、
(どうせ若いのが良いのだ)。

午後は、マルセイユへ戻る高速道路をひた走り。シートベルトをしてない運転者を
見付ける為竹馬に乗るとかいう取締官も見かけず無事市内へ。今度は丘の上にある
「ノートルダム聖堂」を見学。ともかく風の強いのに閉口。55キロの私が完全に
飛ばされそう。ミストラル(北から南への風)の小型が吹いていたようです。本物が
吹く時は通路に綱が張り巡らされ、それを掴みながら歩くのだそうです。妙なこけ方
をすると骨折という頭がありますから、壁を支えにゆっくりゆっくり歩きました。

さて、船へ戻ったら食事、荷造りと大変忙しい事になる。今日中にトランクは部屋の
前に出すようにと。いよいよ一週間の滞在を切り上げて岡に上る日が来てしまった。
給仕をしてくれたインドネシア人のImade君は26才と判明。チップは一週間で
1人42ユーロ支払う事(枕銭他全てをまとめて支払い)に決まっているので特別に
何もしませんでしたが、何か最後はにこにこと楽しく有り難うと言い合って別れました。

最後のショーを覗き見たら「Time to say Good-bye」で締めていて、超満員。何か
ピエロも、お●まも、スターもぐちゃぐちゃで肩を組んで大盛り上がり。帰りに
ルーレット台を見に行ったら連れ合いがちょっとしたチップの山を前にご満悦。
「これ持って帰りましょ」とうっかり言ったばっかりに、その後ツキが落ちた
らしく、長い間あまり機嫌が良くなかったです。



地中海クルーズ(ジュネバーミラノ)
昨晩は真夜中まで荷造りして、ドア前に無事トランク二個と大きなバッグを
2つ出しました。次これらを見るのはミラノのホテルのお部屋という訳で、
やはり団体旅行は便利です。

今朝の大仕事は精算。 最初に渡されたクレディット・カード兼お部屋の
鍵兼身分証明書のカードでお買い物や食事していたので、一週間となると
まぁ大変なもの。でもやはりカプチーノとかでも400円くらいだし、ワインは
ボトルで4000円くらい。(フルコースディナー始め、一般的なコーヒーや
紅茶、ジュースは無料です)庶民的な船で助かりました。朝8時までに
精算しろと言うので(勿論自分のカードで払う訳でサインするだけですが)、
まぁ無事に済むまで(一応チェックは必要)少し頭を使いました。しっかり
チップ1人42ユーロは引かれていました。パスポートを返して貰って下船、
入国、バスに乗り込む。。これも2500人が一時に退去するのに、
どれほどの混雑かと思った割りには本当に整然とデッキ毎に時間を決め、
荷物のタッグの色順に全く待たずに奇蹟のようにスムーズに行きました。

さすがに、バスの中では、ちょっと眠かったです。でもコクリコの赤い花が
絨毯みたいに咲いている場所があったりして見とれました。英語でポピー、
日本語でひなげし、中国語で虞美人草・・・ですね。ミラノに着いたのは
昼前。5ツ星のホテル、WestinPalace泊です。素晴らしく重そうなドレープ
のカーテンに黄金に光るタッセル。ロココな家具、クリスタルのシャンデリア。
枕も3つずつ。。高いベッドにふかふかの絨毯。 まぁこれも団体値段
だから泊まれる訳で。。うれしかったです。あんまり老人になってからだと、
あのベッドから落ちると危ない。。(笑)

せっかくなのでお昼はご一緒にということで、ガイドさんが選んだドゥオモの近くの
店に行って、スパゲッティとピザとサラダとワインの昼食。ともかく空が晴れ渡って
いて、もう何もかも最高でした。声高にはしゃぎまくっていたと思います。スカラ座の
見学に行って(オペラは誰も知らない現代ものだったのでさすがにパス。でも7月は
「椿姫」と看板にありました)、内部や使われた衣装展などを見ました。天井桟敷から
の見学だったのですが、真っ赤なビロード張りの客席やロージュの雰囲気はさすが。
一度ここで夜オペラ鑑賞が出来たらどんなに幸せかしら。ただ慌ただしい
観光旅行中はあまりその雰囲気はないです。眠りそう。。それくらいもう
体力の限り遊んでいる感じでした。

紳士物の買い物をすると言う連れ合いとも、皆とも別れ、1人行動。
ドゥオモの中へ入って行きました。おりしも日曜日の夕べのミサが始まって
おり、この世のものと思えない幽玄という言葉で良いのじゃないかという
雰囲気。信者以外正面の座席には座れません。

高い天井、広いなんてものじゃない巨大な空間に、祈りや歌声が流れて
いました。左脇の座席に座ったら、ろうそくを売っていて皆祭壇に差して
います。ろうそくの火がゆらゆら揺れ、真っ暗な中で賛美歌とお祈りを
聞いていると、もうすーっと血が下がるというか、静かな静かな気持ち
になれ、しばらくじっとしていました。
自分が乳ガンになった事、家族や友人や皆のおかげで立ち直れたこと、
今はこんなに元気で居られる事、でも何もお返しが出来てないこと。。
ひたすら懺悔に近い気持ちでじっといました。その内この恥多い私が
敬虔な気持ちになれたのを幸い、魂を弔いたい人達の為、私もろうそくを
買って一本、一本差して行きました。 両親の為、若くして亡くなられた知人
友人の為、魂の安らぎをどうぞ得て下さいと祈りながら。全部で
何と2時間位居ました。キリスト教のあぁ言った建造物はやはり人間に
影響を与えるものだなぁと圧倒される思いでした。 


それから、リナ・シャンテというデパートやフェラーリの直轄店やらで時間を
使い、夜の食事のお店「チャールストン」で皆に再会。ここはわざわざ名前を
出す程結構美味しかったです。イカエビなどのフリット、ミラノ風カツレツ、ピザ、
スパゲッティ、サラダ、ワインも全て大満足でした。帰りは明日の為に
「モンテ・ナポレオーネ通り」やらを通って歩いて帰りました。方向感覚は
ばっちり。ミラノブランド買い戦線の幕が切って落とされる。。って感じの
緊張感が皆に漂います。 でも私は金喰いの新築の家も待っているし、
教会に献金でもしようかなって言う乗りの悪さでした。



新居で考えた
建て替え引っ越しが先週済みました。
暑い盛りのカンカン照りは困る。でも雨が降るのはもっと困る。
雨女と言われ十分その認識のある私のこと、ひやひやもの
でしたが、段ボールが軒から消えるまで、梅雨の晴れ間が続き
無事でした。

良かったことのもう一つは、世の中色んな事が便利になり、
各段住みやすく日常生活が楽になったこと。30年前の家、
電化製品もTVやPCを除いて時代遅れでしたから、画期的に
幸せになれたような気がします。

そんなもの今頃?と言われそうですが、食洗機・・・便利ですね。
酔っ払って食器洗いしたくない・・・と思ったら放り込んでしまえば
ピカピカにしてくれる。翌朝まで見なくて済む。魚焼き機も
両面一度に焼ける。焼きナスなんて丸ごと焼いて8分で完成。
美味しい。アルカリ整流器で水が各段美味しくてコーヒー紅茶美味しい。
ガス台も火力が全然違うのでお湯も早く沸くし機能的。

そして新しい家には匂いがあります。和室などプーンと畳の匂い。
あとは木の匂いです。ドアを開けたてすると何か匂って幸せ。

いろいろあります。もっと早く出来なかったか。というか良く出来たな
というのが本当かもしれません。後ろを見たら燃え盛る橋が落ちて
行くような気がします。あとは地道にほっこり暮らして行くだけ。

コーヒーカップ抱え、翻訳の文章をPCで見ながら、白いカーテンが
揺れるのを感じる毎日です。やっぱり良かった。積極的に生きる喜び
というのがこれかも知れません。



夢が消えた
夢って、あの希望とか目標とかの夢じゃなく、実際に眠っている時に見る夢です。それを
この頃全然見られなくなったんです。あぁー正夢だったんだなと思えるような現実的な夢や
SF小説顔負けのスリルとサスペンスに富むすっごく怖い夢、死んだ人たちに一杯会える
夢。どこかを飛ぶ夢(俯瞰する映像がはっきり朝残っている)。精神生活の豊かさの象徴
みたいに勝手に思って(随分な思い上がり)、結構楽しみだったんですが、どうしたのか。
バタンキュー。疲れて深く深く寝ているのでしょうか。

猛暑の毎日。クーラー嫌い。 開けっ放しにする度胸はありません。暑くて寝苦しい
はず。なのになんであんなに眠れるのか。まずは畳ベッド。い草さまさま・・・涼しい
です。そして友人に勧められて買ってしまった布団いらずのマットレス、○○ス・○ール。  
何でこんなに伏字かというと、こう言うのはすごく個人的だと思うので責任もってお勧め
出来ないものがあるからです。でも、私には合いました。 もともと上田温泉へ行った
時に旅館で経験していたのです。 ちゃんと備え付けの案内ちらしもあって、眠りが
爽快だったのでその時はへぇっと思ったのですが、何せ温泉の効能もあろうかと深くは
考えていませんでした。そしたらこの効果です。

いよいよ健康お宅おばさんになって来ました。もとい、おばあさんです。でも、あの
極彩色の夢の数々。。またいつか見たいなと思わないくはないです。でも見た夢を
端から忘れるボケ年齢も近そうだしなぁ。。



中秋の名月
9月の初め役所勤めで独立している息子1から手紙が来ました。
仕事を辞めたこと、韓国女性と結婚すること、そして来年3月
に父親になると書いてありました。

さすがに心配でその夜は眠れません。敵さんは中国旅行中とある
ので、呼びつけて詳しく聞くことも出来ず、ただ悶悶。何でこんなに
色々起こるのだろうと天を仰ぐ心地。もう落ち着けたので、このまま
のんびり静かに余生を送るのかと思っていたら、これが早とちり。
まだまだひと山、ふた山ありそうです。

 30歳の息子に意見をする立場にないのは重々承知。せめて新しい
家族と気持が通じればと祈る気持ちでいるうちにどんどん時が経ち、
昨日はご対面の日でした。韓国語のCDを聞いて、「アンニョン ハセヨ」
とか「カムサハムニダ」とかは頭にいれましたが、「トー、マンナプシダ
(またお会いしましょう)」「チャールゥ、プタカムニダ(よろしくお願いします)」
となると、なかなか覚えられない。ともかく文字から入れないのはつらい。
まぁお相手は日本語上手というので、60歳の手習いはほどほどにして
さて当日のお献立。 連れ合いが焼肉が良いという。そんなこちらのキムチ
は美味しくないし、サンチェだって、「焼肉のタレ」ってどこのメーカー
でも甘い。でも考えてみれば向こうの土俵を用意するのも、親愛の気持ち
と考えて貰えるかもしれない。少なくとも、丸投げって感じで、垣根を
作らない、構えない気安さがあるかもと考え直し用意しました。カルビ、
タン、レバー、鶏、海老、イカ。鯛のカルパッチョみたいなのも用意。

32歳、建築会社の経理をしている女性らしい。大卒。どんな人かなと
楽しみでした。 息子の電話では、お腹が大きいのでおしゃれをして
来れなくてごめんなさいと言っていると。 そんなそんな、私もジーンズ
姿です。ジーンズのつなぎに真白な長袖Tシャツ。真っ白なスニーカー。
ピアスのペンダントなイアリングがちょっとおしゃれ。 

少し小さい声だったけれど、日本語は上手でした。何より、発言する時
ぽっと顔を赤らめるし、すぐ息子に助けを求めるようにする。大きな
中秋の名月のお菓子をお土産に持ってきてくれたので、「重かったでしょう
有難うございます」と言ったら、すごく気持ちが響く表情で分ってくれて
うれしいらしいと分かる。連れ合いがあれこれ突っ込んでいたけれど、一生懸命
答えてくれて、うちの息子1の事を「真面目で温かい人だと思います」
「今はゼロからのスタートだけれど、私たちを一生守ってくれると
信じて付いて行きます」としっかり言い、私たち言葉も出ずにボーっと
してしまい、息子が「有難う」と言って終わり。完全に向こうの
ペース。

さて、焼肉は向こうでは豚バラの三枚肉らしく、タンとかレバーは
食べないらしい。そして肉も何時間も前から漬け込むらしいです。
大失敗とおろおろする私が結構雰囲気和らげるのに役立ったかも。
(すごい開き直り方。。でも何か許されていると思える温かさが
ありました)

カルビ、海鮮ものや、じゃがいも、アスパラとかは結構食べてくれました。
息子2も来てとても楽しかったです。サンチェに生のにんにくスライス
と、辛い味噌、キムチを乗せて巻いて食べるのを教えて貰い、私も
そうして、じゃんじゃん食べました。

11月には韓国で結婚式をすること、私たちは福岡―プサン、フェリーで
行こうと盛り上がり、先行きの不安なんか誰も言いだせずそしてお開きに。
見送った後、寝てしまいましたが、翌朝、あの白い台所もリビングも、
焼肉の匂いで一杯。残り香というには強烈でした。免疫力アップには最高の
カプサイシンとかをうまく使っている国と出来たご縁。大事にしていけたら
と思います。



アンニョンハシムニカ
クルクルパーって昔言葉があったのですが、あれって本当ですね。
突然何を言い出すやらですが、頭の中を韓国語がクルクル回って、本当に
パーになっちゃったみたいな日が2,3日続いたのです。ノイローゼ
の一歩手前だったかもしれません。ペプケスミダ モルゲッソヨ、
ハンビョン チュセヨ 全く脈路もなく断片が色々に出てきます。よく使う
旅の表現をCDで流しつつ、ハングル文字の習得の本を学びつつ、韓国語
速習本と文法の本を学びました。3週間くらいが経って、ようやく概観が
掴めつつあるというか、いや、難しいです。語学ばかりは慣れるが一番。

簡単な面は、語順が一緒だとか、ある程度発音が似ている言葉があるとか
中国語が透けていて、また想像がつくとかあります。 でも表記文字の
漢字の便利さがすごく身に浸みます。あのハングルの洪水には、本当嫌気が
さすほどです。そして、丁寧さの程度みたいなもので語尾が全部違って
くるのはアジアらしいといえますが、4段階位あるのには参った。ヘヨ、
ハセヨ、ハムニダ、ハシムニダ。格好良くいろいろ使い分けたいです。
(そんなもん、一生無理)
お母さん一つでも、何通りも呼び方があります。

でも、考えてみれば一ヶ月半くらいで、どれ位出来るかは常識で分かって
貰えるでしょうから、文法めちゃくちゃ、ご愛敬ご愛敬で押し通せば良い訳で
もう間違っていても良い。少々失礼でも良い。頭に浮かんだ形でしゃべる。
でもそれにしても、語幹が音の変化するのも困る。まだまだお豆腐の山に足
を突っ込んで歩いているような頼りなさです。でもちょうど今は折り返し点。
ここから先は少しは楽でしょう。だいぶんハングルにも慣れて来ました。

昨日息子1が来て、ハングル・バージョンで書けるようにしてくれたので、嫁に
ちょっと書いてみたら、返事にも韓国語が一行ありました。ただし、私は
アンニョンハセヨと書いたのに、アンニョンハシムニカとより丁寧で返って
来ました。でもうれしい。響くものがあると、すごくやる気が出てきました。

「服や本などを整理していると自分の跡をこの家から消してしまうようで寂しい」
ともあります。 すごくよく分かります。私は何でも持って来られたけれど、捨て
なければならない物もあるでしょう。気の毒だなぁと思います。本当によくして
あげなければね。 釜山の写真が来ました。綺麗な所のようです。 



パカパカ イウナ アルヨ
茨木のり子の「ハングルへの道」という本を読みました。
刹那的な要求に迫られて始めた勉強で、特に韓国という国に対する
興味がある訳ではなかったので、こういう時期にもう少しじっくり取り
組んだ方が良いと思える本を読めたのは良かったです。

大陸から半島を伝って、日本へ文化が渡来した歴史に思いを馳せる
事は大事でしょう。又お国柄というか、気質とかにも理解があった方が良い
かもです。日本は島国なので、ほかの国の人とあまり深く交わる機会が
ないけれど、例えばヨーロッパに何年か住んだ経験だけでも、彼らは
ちょっと違う人たちだと分かりました。 まぁ日本は一言で言って、
こせこせ&ちまちましているなと言うのが私の印象です。(<暴言
あくまで私のです) マイナス部分があっても気配りが心地よい
のは確かですが、根回し上手が実力者を絶対に凌ぐ。。は活力が
殺がれるようで、残念に思いました。まぁそれもこれも今は
変わりつつあるでしょうが。

これだけ、往来が激しくなり、便利になって、もう民族性の違い
なんて無きに等しいのじゃないでしょうか。まぁこの辺り興味あり
まくりです。 

この本にも書いてありましたが、勉強するという意味のコンブーを
辞書で引くと「工夫」という漢字が出てきます。強いて勉めるのと、工夫
するのと偉い違いですね。 何だか韓国の人たちって良いじゃないか
と思いました。 

「パカ パカ イウヒト パカアルヨ」

まだ少女の頃、こう言う心ないというか、忘れたいようなからかい言葉
を耳にした事がありますが、こうして韓国語をやってみると、なるほど
なんですね。 要するに最初に濁音が来ない。「バカ」と発音出来ない
のです。バナナはパナナです。 そしてイッタという存在詞があって
確かに「〜ある」は動詞につけて色々な表現に使う。茨木さんの本でも
五十五銭と発音させて区別したとあります。そんな事気づきもしなかった
から、お嫁さんは天才なんでしょうか。

そういえばフランス人はハヒフヘホが言えません。ヒサコさんは
イザコさんだったのを覚えています。 で、日本人はアール(R)の
発音がめちゃくちゃで、どのヨーロッパ人にも(英語、仏語、
スペイン語)不評でしたしね。。習慣は恐ろしいです。言語の
特徴は固有のものですし。

言葉はあくまで手段です。言葉が出来れば色んな所をバスとか
鉄道で回って、アルカイックスマイルの美しい仏像なんて見て
回れるかも知れません。本当に韓国の事何も知らないので
又一つ引き出しが増えたとうれしいです。



栗とナツメ
もう、結婚式まで一週間です。何と時の経つのが早い事か。
本当に本当に何でこんなに早いのですか。責任者出てこい(笑)

この2ヶ月の韓国語お勉強三昧。あれは何だったのか。毎日
毎日、覚えて覚えて覚えての繰り返し。教科書はいつの間にか
2冊くらい、終わりました。間接話法もやったような気がする。
でも、実際韓国ドラマ聞いても、分かるのは切れ端だけです。
そして、自分で何か言おうかと思うと「あーうー」の赤ちゃんです。

ホルモン療法恐るべし。肝心のインプットをアウトプットに
変える鍵を完全に落としてしまったような気がします。昔だったら
これでゴーサイン出したら、馬力で出て行けたのに。でも、その
事は最初から分かっていたので、気持ちの上の保護ネットはしっかり
張ってありました。インプットをするに当たり色んな刺激があって、
すごく体調が良くなり、目がランランと輝いて楽しい2ヶ月だった
だけで満足。 それにまだ駄目と決まった訳ではないですし。。

何よりも、韓国語自体がすごく魅力的と分かって、今後続けようと
思います。 特に歌になると、滑らかで、この上なく音楽的。
シャンソンも綺麗で、そのために仏語をやったような気がするの
ですが、リエゾンやら、韻をふむところ、中間母音ウーとか
いう音が似ていてすごく綺麗。子音も多発しますから、ごつごつ
した感じがないです。

韓国語のワープロも結構打てるようになりました。文通相手が
居るので、何だか気合いが入ったものです。私が韓国語で書く
ので、嫁も韓国語で書いてくれ、何としたことか、文章が
すごく魅力的に思えるんです。 嫋々としたというか、情感
纏綿として、陰影に富む。 本当の作家の文章が読んでみたく
なりました。 具体的に言うと、ミョンとかマンとかソとか言う
助詞を使いまくって長い文にし、動詞の語尾には、色んな助詞が又
つきまくって「してしまうと思ったりするのです」みたいな感じです。

ただ長ったらしいと言えばそうなのですが、短い言葉さえ交わさない
人間関係より、良いように思います。

さて、結婚式(幣帛)では、両親が多産を祈ってチマチョゴリの布
に栗とナツメを投げるらしいです。 そしてろうそくに灯をつける
のは、母親らしい。何を意味するのか(キャンドルサービスじゃない
ですよ)。 いろいろ何だか最後はへとへとに疲れそうです。 
結婚式の後もお兄さんが観光ドライブに連れて行って下さると
スケジュール表が来ています。 さて、美しい釜山の風景と参列者の
チマチョゴリ姿を見るのはもうすぐ。 楽しんで来ましょう。



釜山嫁取り旅行1日目
あれよあれよで2ヶ月が経ち、初めて嫁を見てから結婚式までアッという
間のことでした。 釜山までたったの2時間半。時差が無い外国です。
空港の待合室に居た時は日本語しか聞かなかったように思うのに、釜山に
着いた途端、移動バスの中が韓国語の洪水になったのにはびっくり。こんな
沢山の韓国人に囲まれていたとは。外観では分からないです。

空港へは嫁の姉夫妻と嫁が迎えに来てくれ、新婚さんはタクシーでホテルへ。
私達(夫婦と弟)はその初対面の人の車でホテルへ。これは聞いていたので
「空港へ迎えに来て下さって待って頂いてカムサハムニダ」と言いました。
一瞬の間(これがくせ者、ともかくイントネーションやら発音やらに一杯
問題があると思われ、でもようやく自国語であれらしいと分かるのに
かかる時間)があり「おーっ」と、すごいリアクション。にこにこと
明るい笑顔が出てぺらぺらと返され、こちら絶句。良く分からないの、
やっぱり。紅葉している山が綺麗ですねと言ったら、海も見て下さいと
言われ、そうキラキラ海も光っていて、青い。工場とか見られず、何で
食っている街なのか、ともかく高いビルもあるのですが、漁港か観光地なんで
しょうか(次の日に行った海雲台などリヴィエラみたいだった)。

しかし、すごく車が多くて大渋滞。「今日はトヨイル(土曜日)なので
車が多いのですか」と聞いたら「ハングマル ハシネヨ」と言われ
韓国語しゃべれるねと言われたんだと理解し、カムサハムニダ。

まぁ初日だったので、まだ頭が少し回り、韓国語もそんな調子でした。
さて荷物置いて結婚式の打ち合わせへ。 ここでお辞儀し、ここで立ち
止まり、ここでお辞儀しと色々大変。伝統式では、棗や栗を投げ、お酒
をどんどん一つの杯で飲んで行くらしい。早口でべらべらしゃべられ
(勿論韓国語)、私が分かったのはアンジュー(座る)と、インサッヘヨ
(挨拶する)かしら。中年の女性の係の人が全部仕切るのは日本も一緒
でしょうか。

30分ほど休んで5時にロビー集合で今度は一番上のお兄さん登場。42歳。
イケメンかな。。この人は英語OKのはずが、話は違う方向に全部行く。
そのうち連れ合いも悩みだし、私たちも黙ってしまう。ともかく、ウニだと
言われ黄色い液体なのでスープかと思ったらそれがホット・ハニーだったと
笑えぬ話もあり、いや、いよいよ大変。しかも又大渋滞。今日はあちらの家族
全員集合のはず。結局30分待たせてトンネビョルチャン(東菜別荘)に到着。
http://www.pusannavi.com/food/restaurant.php?id=1291

何と日本風な屋敷でびっくり。出迎えた母上はチマチョゴリの盛装。翡翠色に
焦げ茶のリボン。焦げ茶や白の手の込んだ刺繍がふわっと広がったスカートに
見られ、それは美しいものでした。第一、襟元に白の半襟が大きく覗き、綺麗
でした。こちらも一応スーツ姿で助かりましたが、いや日本で出迎える時は
私も着物姿でなくてはね。大変。

日本から持参したおみやげを渡し、「どうか心配なさらないで下さい。家族全部
でお嬢さんが幸せに暮らせるよう、出来ることは致しますから」など可愛い
便せんにタイプアップした手紙も添えました。これを書くためにハングルを
覚えたのですが、ハンドバッグの中でちょっと皺になったそれを、皆で
読んでくれ、あぁーーっと席はなごんだと思います。 勿論嫁にさっき、
最終チェック頼んだものですから、中身は大丈夫。

何だかほっとして、出てくるお酒(百歳酒)を飲み、もうたががすでに
はずれてしまいました。 それからは「マッシッソヨ」(美味しい)を連発。
後で聞いたら、お母様の前では、せめてマッシスミダとかにするべきだった
と思われ。もう後の祭り。でもすごかったですよ。前菜が5品くらい。白身魚の
お刺身(これがすごく美味しい)、エイの煮付け、チヂミ、牛のしゃぶしゃぶ
鍋。こぶし大の牛カルビの煮付け。牛の酢のもの、キムチチゲと松の実と栗
の竹筒に入ったおこわ。 その時には、たらこやあらゆる10品くらいの
付け合わせが出てくる。キムチの大盛りも出ました。赤くないです。ほんのり
黄色いキムチでした。    そしてワイン色のざくろ茶。これがさっぱり
して美味しい。特に辛い物の後なのでさわやかで甘いのが何とも美味しい。
ぐっと飲んだら、お兄さんが自分の分をすぐにくれました。 
よく見ると、向こうの家族はそっと顔をそむけて飲んだり食べたりして
いるんです。それが目上の人と食事する時の習慣とか。
がさつな私のピッチをあげて飲み、食べるの。。なんて思われていたのか。
言い訳をすると金属製の細い箸が不器用な私には特に使いにくかったしね。
でも、皆、本当ににこにこにこにこ。明るくて人が良さそうで親切そう。

嫁が通訳しますから、話は日本での結婚式の話にもなり、いろいろ決めて
向こうも安心な様子。何だか夢の国に来たような錯覚も少しありました。
私も安心しつつ、明日良い天気になれと祈って眠りにつきました。



釜山嫁取り旅行2日目(1)

いよいよ結婚式当日です。午後2時開始予定。
空は青くて、空気が澄んでいるので何だか寒さが身に堪えます。
昨日の渋滞でおそれをなし、なるべく早めにお迎えを頼みました。
息子1は早々と出かけました。朝食はしっかり食べたのですが、
何だか昼食と言って食欲も湧かず、隣接するロッテデパートへ行って
食品街をうろうろ。キンパって言う「海苔巻き」に真っ黄色のたくあんが
付いたのを買い自室で食べる事にしました。一本を目の前で切って、
機械で密封して「ハイ」って渡されました。デパートの袋無しです。
デューティフリーショップはさすがに化粧品など美麗な袋に入って
来ましたし、贈答品と分かるものにはくれましたが、ちょっとショック
でした。 まぁ300円くらいのものに袋は付かないというのは分かりますが
(笑)

韓国は既に環境を考え、かなり省エネとかも頑張っているようですね。
ロッテホテルでは、室内の廊下部分(ドアから部屋へ)は人が近づくと
点灯する仕掛けでした。トイレの水とかもセイブしてました。 

又ヒールを履かなくてはいけないので、どきどき。普段履き慣れない上、
ヴァージンロードを向こうのお母さんと行進することになっているので
どきどき。式場へ着くと、何だかわいわいがやがや大変な事になってました。
控え室は誰でも入れるので、皆勝手に入って記念撮影しています。嫁は?
と探したら、まるで別人。 恐るべし、韓国メイキャップ術と思ってしまう。
失礼な。私も同様な事言われたのを思い出しました。 やはり晴れの日の
心の充実が顔に出るんですね。

チマチョゴリ姿の親戚の夫人で美しい人が居る。一番上のお兄さんの
お嫁さんとか。
オレンジと白の配色が良いですね。私はシルバーのツーピース・ドレス
なんですが、シルバーのかなり気に入りのコサージュを付けていた所、
赤い薔薇の生花のコサージュを両親の印に付けろと言われて大あわて。 
向こうはリボンに綺麗に挟んでいるし、男性はポケットにさせるけれど、
私はどうすればよいの?

想定していなかったらしく、あり合わせの安全ピンを持ってきてぞんざいに
付けてくれる。すぐはずれ、その美しい義姉が一生懸命付けてくれる。
皆心配そうに集まって来たのですが、タイムアウト。呼ばれてスタンバイ。 
手をつないでと言われたらしく、向こうのお母さんにむんずと
手を掴まれ、私片手では直せないし、ただ祈るのみ。(ほんとに特権的な
時間ってそういう風に流れないのが私の場合なんです。。トホホ)

祭壇へ上がってろうそくに点火するのが私の役目だったのですが、転んだりは
しなかったものの、哀れシルバーのコサージュの方が途中でぽとりと落ち、
赤い薔薇は天地が逆になった姿に。 もうやけくそ。その後、ありがたーい
お話があったのですが、動転していたせいか、サランヘヨ(愛しなさい)
とツーサラミ(二人)、後2,3言しか耳に入らず、あんなに一言、一言
押さえるように言ってもらったのに分からないなんて。。。本当に悲観。

そのうち、司会者が新郎にはいろいろやって貰おうと言い、土下座したり
「マンセー」って3唱したり、どこまでと思ったのですが、まぁそれくらい
で終わり、記念撮影して終わりました。ワッハハーと皆大声で笑い、厳粛
な感じはなかったですね。カリカリぐちゅぐちゅ思っていたのは私だけ
かも知れません。

今度は新郎新婦伝統衣装に着替えて伝統式です。山盛りの棗と栗(どうやら
韓国では多産を祈る象徴らしい)、お酒、干菓子などが塗りのテーブルに並んで
いて、私達はカップルにすごい深いお辞儀を受け、お酒を飲み、干菓子を食べ、
そして、栗や棗を新婦が前に垂らしている白い刺繍した布に投げるというのが
段取り。右側に新郎、左側に新婦の親戚がずらーっと座ります。 この衣装は
見てなかったので、その派手派手しさにびっくり。金襴緞子風です。特に新郎の
衣装が真っ赤で妙な(すみません)冠を被り、これ、クォンサンウーとか、
ヒョンビンとかが着ても、たぶん着こなすの難しいと思われ。。タッキーとか、
染五郎ならOKでしょうが。まぁ昔は優男だったんですね、きっと韓国男性も。
今は兵役のせいか、皆さん男っぽい感じの人が多いような(何も知らない
くせに、すみません)



釜山嫁取り旅行2日目(2)
さて、韓国伝統式も終わったところで、これから日本側夫婦二人は観光にご案内
と言うことになりました。 新婚夫婦は友人達との2次会、親戚との3次会が
待っているとかで別行動。所謂披露宴というのはなし。無職の我が息子に気を
遣ったのか、あちらの家庭事情(複雑)か、元々韓国はこんな結婚式なのか、
詳しい事は息子にも分からない。 

でも言葉の問題もあるので、私はほっとして、持参した厚手のセーター、
オーバーを着込みました。相当寒くて大変。案内は一番上のお兄さんで、
背広姿。 連れ合いも11月って事でコートなくて、一枚セーターを
下に着込んだだけ。いざ出発。 車は韓国国産車のヒュンデ。こちらは
ヒュンデ(現代という意味)の「H」マークばかりの印象。

レインボーブリッジ(広安大橋)みたいなのを渡って、ビル群を抜け、海雲台へ。
白砂、青い海、白い建物。まるでコートダジュールみたいです。ただ惜しい事に
日本と同じで結構けばけばしい建物もあって、ハングルが書かれていますから
間違う人は居ないでしょう。 チェジュ島(済州島)は、もっと綺麗で今や
新婚旅行のメッカと聞きました。屋台でホット・ハニーを買ってくれて、私は
「ウニ。ウニ」と言われたので「ウニ」のスープかと間違えたのでしたが、
美味しかったです。連れ合いは凍り付いていて、二人とも、車に居て下さいと
言って私一人、あちこちで写真撮りました。

APECの会議場とか、案内は丁寧でした。 何より、ちゃんと欧米みたいに
車のドアをぐるりと回って開けてくれますね。日本でやる人は少ないでしょう。
絶対に笑顔を絶やさないし、言葉が分からなくなって怪しくても、あっははと
笑ってしまうし、それが嫌みな豪快さじゃなくて、静かに笑って収めるという
感じ。 今日は焼肉店に連れて行って貰いました。 プルコギ、カルビを注文
して、まずはユッケが出てきました。 生肉なんてと思っていたのですが、
リンゴ・梨の千本切りと混ぜ合わせてあって、本当にあっさりして幾らでも
食べられる感じです。キムチやサンチェは頼まなくても山盛り付いて来ます。

お兄さんは公務員なので、運転の最中に飲めないはず。私たちには又百歳酒を
取ってくれました。連れ合いが気を利かせて、最初の一杯だけと強引に飲ませ
た所、本当に美味しそうに飲んで何だか純な表情に見とれました。踊りのポーズ
みたいに、杯を隠して飲むのも慣れましたが目上の人に対する形式らしいです。
罰則は大変厳しく、職を失いたくないのでとその後は絶対飲まなかったですね。

唐辛子とか、エリンギとか、野菜を焼いたのも美味しく、お腹一杯になった所で
追加はどうしますかの相談。同じくらい頼みますか?と聞かれて動転。いえいえ
もうお腹一杯と言ったら、びっくりして一瞬の間。 向こうの人は食欲本当に
旺盛なんですね。 体格が良いのも納得。     でも少なくともこれは絶対
食べていってくれと冷麺が登場。それが本当の細い細い麺で、味がさっぱりして
いて、脂ぎった口の中が一瞬にして爽やかになる。 果物で醸し出したような
酸っぱさがまろやかで深い。

もう、何も入りませんと言った癖に、夫婦二人とも完食しました。デザートは
メロンです。南国の果物が美味しいのは意外な気がしました。東京より2,3度
寒く感じるし、緯度は上なんですよね。 支払いは絶対にさせて貰えず、
「イルボネソ ネガ サルッケヨ」「カムサハムニダ」(日本では私が〜有り難う)
と言って終わりました。

明日は空港まで送りますと言うのを、二人して必死で断りました。
月曜日で仕事もあるでしょうし、ホテルの前からのタクシーなら安全だと思うと
英語、韓国語、すべての知識を投入。何とか納得して貰えましたが、実はこれが
結構大失敗。 その夜、あれだけのものを出すには、温泉旅館でも連れていくしか
ないねと相談。懐石料理など、オードーブルはいつまで続くのですかと言われそう。

写真は広安大橋と焼き肉の様子(炭火)です




釜山嫁取り旅行(3日目)

(ホテルの窓からの景色)

昨晩は良く寝られました。帰った途端、韓国語の辞書やら、カンニングペーパー
やら、全部トランクに仕舞い込み、「あぁーーーもうワタシャ韓国語やらんでえぇーー」
と叫び(どこのお国言葉か)、試験が終わった学生みたいにのびのびとした気持ち
で、寝ました。 お迎えの車なんて来たら又大変だもの、断って良かったとか、
連れ合いにぐちぐち訴え、ぐっすり。 

おかげで朝は早起き。少しホテルの外を散歩して美味しい物を見つけようと、
7時半頃からうろうろ。大体見当を付けていた辺りに「あわびのおかゆ・・
7時開店」という店があるはず。 凍えている連れ合いには気の毒でしたが、
美味しい物にありつきたい一心は夫婦共通。入って見ると、畳敷きで、客は皆無。
日本語が上手い厚化粧のオバサンが出てきて、注文を聞く。

はずしたかなと思いつつ、私はあわびのおかゆ、連れ合いはサムゲタン
を頼む。いきなり又つけあわせの5点盛り(これはキムチやら、じゃこの煮たの
やら、ナムルみたいなのや。。いろいろ)が運ばれ、そのうち、日本人の客ばかり
どんどん入って来ました。 ストーブが赤々と燃え、暖まって来る内に、
大きなどんぶり一杯のおかゆと手鍋に入ったサムゲタンが来ました。 
ボールを貰って分け合いましたが、もうほとんど会話もなくがつがつ食べました。
美味しいの一言。キムチの辛さがぴったり。朝から本当に贅沢なと思える食事で
合計2000円位だったと思います。ロッテホテルの裏通り。是非皆さんお試しを。

空港集合まで、時間があるのでロッテ百貨店で買い物。キムチや塩辛やら買いつつ
本当に美味しい所へ買いに行きたかったなと思いました。親戚が出来たのだから、きっと
今度は良く聞いて、現地の人が買うような所で買いたいものです。
ホテルの前からタクシーを拾ったら、ちゃんとベルボーイがタクシーナンバーの券を
呉れました。さすが一流ホテル、何の心配もないねと言いつつ、道も比較的空いていて、
20分前くらいにちゃんと着いたのです。良かったと悠々とカートに荷物を乗せて
カウンターに行ったら、既に長蛇の列。しかも、我が嫁は嫁入り荷物14個と共に
かなり消耗した顔。息子は心配そうな顔。そして、一族郎党。。いや、それは大げさ
だけれど、母親、兄姉、、ちゃんとお見送りに来ている。 ぎゃーー、韓国語どこ?
私なんて言うのだっけ?状態の所に、「どうしたの?40分も遅れて」と逆上する一言が。

2時間前に集合が常識の国際線だけれど、1時間半前で大丈夫と内部情報が
あったので、そうしたつもりが、連絡の際に聞き違いがあり、又、荷物が
多いし、大事を取って2時間半前にあちらは来たらしい。見送りお願いして
いたら、ケータイで連絡取り合って何でもなかったかも知れない。まずいまずい。
チェーソンハムニダ、ミアナムニダ全部知っているはずが、この肝心な時に
何だか出てこない。えぇ?ともう息子1,2の伝言の齟齬にいらいら。

でも、あちらは、私達の顔を見た途端、もうニコニコ始めて、全然遅れた事
などありましたか?状態。 そして、そのまますぐに金カードの特別チェックイン
なので、そちらに回り、荷物の計量とかに時間を取り、そのままデパーチャーの所に。
嫁が家族と言葉を交わしあい、私も母上に何とかもごもご「日本でお待ちしている」
旨言い、返された言葉が相変わらず良く分からず、どんどんほかの搭乗者に
押される感じで、入ってしまったのです。 

2時間半で又あっという間に帰って来たのですが、我が中型車は嫁の荷物で一杯。
座席も全部つぶして、荷物ばかりにして、新婚夫婦と息子2は別行動です。
月曜日の夕方。我が日本の渋滞もさすがのもので、成田から北池袋まで長くて
待たしてはいけないと思うだけで疲れました。

でも、身重の嫁は元気で飄々としています。涙一つ流すわけでもなく、疲れも見せず
情緒強安定な人で安心です。皆で夕食を簡単に食べたのですが、最後に取ったデザート
のプリンが、生クリームや、果物が一杯付いた豪華版だったので、本当にうれしそうに
にっこり。そして、親が支払いしたら、息子を突っついて良いのかと真剣に
尋ねる表情。「ご馳走になってすみません」とちゃんと言う。私達は本当に二人
の事が心配でなりませんが、ずっと付いて居る訳にも行かず、心を残して
帰りました。 学生夫婦みたいな飾り気のない32才と30才の国際結婚。
どうなるのでしょうか。 幸い、息子1は再就職先を決められたようです。
まずは安心。



新しい家族との正月
この所、北海道、上海、アンコールワット、温泉とほとんど家に居た事がない
新年休暇ですが、家族主義をもってなる韓国から来た嫁が身重だというのに、放って
どこかへ行けるはずもありません。 それに去年は羽が生えたようにお金が出て
行くは、出ていくは。 地中海クルーズや家の建て替えなど大型消費が続き、
家に居るしかないというのが本当かも知れません。新しい家なので、入居時復帰
を合い言葉に色々掃除しまくり、大変健康的な冬休みで良かったと思います。
紅白歌合戦とやらも、(営業妨害になったら申し訳ありませんが)、すぐに飽きて
しまい、かといって見たい番組もなく、肉体疲労と日本酒で大晦日は
10時には白河夜船の人でした。 のんびり熱いお風呂に窓開けて入って
本当に気持ちよく寝ました。
これも20年来となる新記録では。 と言うわけで大変爽やかな元旦の朝を
迎えられました。

今年のおせち料理は世間一般のものに加え、ナムルも用意し、キムチも高価と
思えるものを用意し、一応気を遣いました。あちらからは、2品ほど作って行く
からと知らせがあり、楽しみにします。 八角型のおめでたい時の入れ物を
結婚式の時に頂いて帰って来たので、それに盛りつけます。重箱も一杯にして、
さて煮物とか、紅白なますとか、口に合うのかどうか分かりません。あの
真っ赤な酢蛸とかはどうなんでしょうか。嫁とは何回か会っていて、ともかく
控えめで可愛くて、ポケッとして全然動じないのが素晴らしい。私もすっかり
ファンになっている位なので、今回は一泊してくれるのが楽しみです。

お正月だというのにマタニティのヴァラエティはあまり無いらしく、釜山に
行った時のお洋服。でもチャプチェ(雑菜)とカルビチム(骨付きカルビを
甘辛く煮付けたもの)はなかなか美味しかったです。 どちらも結構にんにく
と、唐辛子は効いているのですが、全然とがった味ではなく、家庭料理らしく
飽きない味。飲めない彼女は伝統茶のざくろ茶を飲み、私達はビールで乾杯。
我が家のおせち料理は口にあったのか、一人残って食べる程、良く食べる
嫁で安心しました。(二人分ですものね)

午後からは息子1,2が持ってきたDVD鑑賞会になりました。嫁も結構
好きらしく、皆思い思いの格好でわぁわぁ突っ込みを入れながら見る。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」と「デイジー」。船長が出てくると盛り上がり
それ以外のシーンはそれほどでも。。で終わり、韓国映画が始まる。なぜか
所はオランダの一都市。グランプラスで似顔絵を描く女性と、彼女に
一目ぼれした殺し屋と、インターポールの刑事の三角関係。皆韓国の俳優
が演じ、韓国語を話す訳ですが、背景はヨーロッパの都市。特にオランダは
1年半ほど居たベルギーの隣国なので何回行ったか分からない所。最初
すごく違和感ありまくり。。でも慣れると結構はまりました。 

デイジーを人知れず配達する殺し屋。捜査上偶然隠れ蓑として、絵を描いて
貰っている振りをしただけなのに、段々惹かれて行き、デイジーの送り主に
間違えられてもそうと言えない刑事。運命は皮肉で殺し屋に刑事を殺すように
依頼が来てしまう。
まぁネタばれは避けますが、なかなか面白かったです。殺し屋は彼女の
喜びの源である刑事を殺したくないと思い、刑事もその事を知り交わす会話。
狭い車中のその1シーンが最高でした。

翌朝は良く晴れて富士山が我が家からもよく見えました。102才にて永眠した
連れ合いの母親のお墓まいりに連れて行ってご報告。新しい家族を紹介しました。

ふと気づいたら、お墓から富士山が真っ正面に臨めるのです。今まであそこに
富士山が見えるなんて知らなかったので、へぇってびっくりしました。ベイブリッジ
は弘安大橋に似ているでしょうと言うつもりで「港の見える丘公園」へ行ったら、
何と海はどこにあるのですか状態。久しぶりに見たら、風景の20パーセントも
ないですよ、海の青い色は。本当にがっくり来ました。釜山からお嫁入りしたら
北池袋なんかの殺風景な所は可哀想。でも横浜にも海は無いのか。。何たる事。
二人の子供は3月に生まれる予定なんですが、名前は「海(かい)」くんに
なるらしいです。そうね、手元の「海」で満足してねと思いつつ、嫁の望郷の
思いとかも、しっかり受け止めなければと思わないでもないです。



孫の名前はパダ(海)
トタン屋根の猫よろしく、何だか落ち着きません。
韓国嫁の出産予定日は3週間も先のはずなのに、少し産道が開いているとか
出血があったとか、言う知らせが来ると何とも落ち着かない。私も実家の
助けは借りず、勿論連れ合いの実家からも誰も来ず、一人で荷物を作って
一人でちゃんと産院まで歩いて行ったのですから、大体の所は分かって
いるのです。 初産は陣痛だと認識してから、時間がかかると思うのです。
十分に間に合う時間にかけつけ、タクシーを呼んであげられたりする
距離にいるので、心配はないと繰り返しているのですが、そこは韓国嫁
の事、遠慮があり、ちゃんと電話くれるかどうか。 かといって詰めて
一緒にいるのは絶対に気詰まりだろうと又こちらの遠慮があります。

私は当時30歳。世界を股にかけて(実際は飛んだマイレッジが単に
多かったというだけ)、面白おかしい5年の後、あの出産を機に、完全に
奈落の底に転げ落ちたというか、いやいや、代わりに得た我が子の笑顔と
すべすべ、くにゃんとした手触りはもう何物にも代え難くて、自分で喜んで
穴の底に腰を落ち着けたのが正解。

4年もの恋愛を実らせたキャリアウーマン、外国に一人でやって来て、
あれだけ日本語も話せる32歳の嫁のこと、私の助けなど借りずに出産
くらい自分でやってのけそうなんですが、それはまぁ老婆心で、最悪を考えて
待機中です。産院は車で10分くらいの所にあるそうです。住所番地を言って
タクシーを呼ぶ。これは出来るはず。でも、頃を見計らって出てみたら、渋滞か
なんかしていてなかなか来ない。。寒空に。。とんでもないです。やっぱりそこに
Xマンが要りますよね。 あー。ノイローゼかも知れない。

今日、ピンク地のTシャツに銀のハートをあしらった、派手目のものを
家で来て貰おうと頼んで来ました。知人が手書きするので、可愛いのです。
出産後は何だか気鬱になったりするかも知れないから、パアっと発散型
の乗りで行かなくちゃ。
そうそう赤ちゃんの産着(退院の時に着るのね)は用意しているかしら。
釜山といっても、今はインターネットのチャットが出来るし、PCに
取り付けたカメラで顔も確認出来るし、あちらとの連絡は緊密な様子。

又息子から電話があって、引っ越しをするので手伝いを頼むという事です。
まぁ、出産がいつなのかに係わらずそれは進めなければいけないし、贅沢な
引っ越しは考えてないようなので(一回職を変わってから、やっと経済観念
が出てきたらしい)、家族で助け合わなければ。。去年2回もやって又かと
思いながら、頼ってくれればうれしいのが母親。よしっと行く日を決める。

無事に生まれれば海(かい)ちゃんになるらしい。韓国語はパダか。
パダヤァと呼ぶんでしょうか。




もっとも長い一日
韓国嫁が38週前に出産の兆しありと言うことで、何かあったら困ると
平日は家で待機体制を取っていました。1週間、家にずっといるのは
元気な身には苦痛で、夜は歌劇に出かけますとか言ってバトンタッチもあり。
折から一人暮らし用の部屋の更新月で、新しい少し大きい部屋に
移る事になっています。 新しい仕事も正式採用になりやっと又軌道に
乗れて良かったねと思って迎えた引っ越しの日。

じゃーんと早朝から電話あり。嫁が急に産気づき朝の3時に入院したと
言うのです。
これは病院へも人が行かなくてはいけないし、もう色々と人手が
要るということで、連れ合いも急遽休みを取り向かいました。

夜中嫁に付いて居たので息子はかなりよれよれ。
行ってみたら、昨晩やる予定だったのか、まだまだ日常用品とか
散乱状態。段ボールのふたはすべて開いていてはみ出している。
唇を噛みしめましたね。ホントにどうするの?ともかく引っ越し屋が
来るまで2時間、やるしかない状態。業者に電話して段ボール追加。

ともかく去年、百個以上の段ボールを2回こなした身には
考えてみればそれほど深刻な問題でもないかも。
ただ、この記憶力減退気味の私が、どこに何を入れたか
覚えていられるかどうかが心配。段ボールには詳しく書き直し。
慌てたのか段ボールの天地が結構反対になっていて業者に
指摘されて恥かきました。

昼になったので城東のお弁当屋さんのお世話になりました。
熱いみそ汁がついて600円。
うーん、結構この辺から離れられない息子の気持ちも
分かるかも。安くて美味しかったです。

引っ越し先は産院も近く、様子を見に行くと分娩室には
入っていましたが、まだまだとか。
必要なものを聞いて帰って、それを探すのに結局荷ほどきを
全部することになり、一応の生活形態は整えました。
ゴミ袋沢山作って、段ボールは全部ひもで括りまとめて
ベランダに出すと結構こざっぱりと綺麗。 電気屋も来て
TVが写るようになると、我が家よりもかなり良い物と判明。
ともかくオーディオ類、PC類は充実して居るなぁと感心。
韓国TVが写るらしいです。

真っ暗になった中、夜は駅前の息子懇意の中華料理屋。
大連に行った時にはマダムの弟さんにすっかりお世話に
なったとか。時価という空芯菜が美味しかったです。
酢豚、鶏とカシューナッツ、海鮮おこげ、餃子、胡麻団子。
熱い瓶だしの紹興酒が美味しかった。

もう、何でも美味しかったと思います。連れ合いは車だから
飲めず、息子も寝てないので回りすぎたら困ると飲まず。 
でも私だけは何だかこのひどい疲れは酔って深く寝て
取りたいの一心で飲みました(って言い訳)。 
明日は引っ越し翌日、息子が休みを取る予定なので、
私自身は仕事を入れています。

ともかく寝なきゃ。帰りの車中も一人でぐうぐう寝てしまいました。

今日中に生まれると良いね、明日では4年に一回の誕生日に
なると言っていたのですが、朝3時のメール。結局は
閏年べービー誕生になってしまいました。 



海と嫁と婆と


生後5日の孫が我が家にやって来ました。(上の写真は19日目)
髪の毛も黒々した、しっかりした赤ん坊ですが、何と言っても30年振り
ですから、ちょっと緊張気味で抱きました。見事に首が据わってない、
どっしり重いです。柔らかくて、暖かくて、手も足もおもちゃのように
小さく可愛く、眼が澄んでいます。

仕草がどうも人間とは思えないです。アライグマのように顔をこする、
ラッコみたいに浮かぶ、おむつを代えて欲しい時の自転車こぐみたいな足の
動きも可愛い。羊水の中にずっと漬かって居たのに、この世に出てきた
ばかりで本当に「ザ・適応」が命題なんだなと分かります。自分の子供の
時はそんな観察する余裕がなかったなと懐かしい気持ちもあります。

さて孫と嫁を預かる訳ですが、出来ちゃった婚、しかも韓国の嫁なので
私たちには歴史というものがあまりにも無いです。お互いに息子を通じて
どうしても切れない仲になったと言うだけ。息子は週末以外、都内の自分の
マンションから通うと言う。最初はおっかなびっくりでした。そういう
しつけをされているのか、こうして下さいという要求を一切しない嫁です。
3択くらい考えて選ばせるか、何かないかと常に聞かないといけない。
ただただ受動的な生活態度です。ホントにどうなるかと思う事もあり
ました。うっかりしているとミニスカートで入院一日目を過ごす嫁です。
(出産後もお腹が大きい為、合うパジャマがなかった。買って下さいと
言わない) 家に来てからも電灯のリモコンの使い方が分からなくて
暗い中で日記を書いたり(私達は2階に居るのに)、大事なシャワーを浴び
させるのも、うっかり忘れそうになって慌てた事もあります。眠いので寝ます
とは自分から言わないし、出されたものは何でも美味しいと食べ、残したら
いけないと思っているのか食べ方も綺麗です。

いじらしいけれど、逆にこちらも何だかプレッシャーを感じてしまいます。
良くしてあげたいと思うあまり、もうどうしたら良いか分からないみたいな。
そのうち、海が重いこともあって、肩やら腰やら、鉛のようになってきて、
口もきけない程疲れを感じるようになりました。調整不能な仕事や、息子の為
週末は家を空けようなどと考えた試合が続いたせいもあります。 そうですね、
ちょうど半ば頃、そんなこんなで疲労困憊。今日は寝ますと7時頃から寝てしまい
翌日の8時までゆっくり寝ました。考えてみれば、朝5時頃に何度も起きてミルクの
手伝いもしたし、睡眠不足もあったのだなと思い当たるほど、すっきり疲れも取れて
元気倍増。お昼に二人で韓国ドラマのDVD「ラストダンスは私に」を見ました。
出ている俳優さんのエピソードも詳しいので色々教えて貰う。会長役は、「プラハの
恋人」の主役のお父さん。。うん似ている。主役のチソンは兵役に行っている間に
恋人女優に去られた。。何と勿体ない事。たわいない話ですが、すごく楽しそう
なので、良かったと思います。

息子以外の話し相手がいないこの状況からの脱却は結構切実かも。  所謂今時の
若い人には珍しそうな「引っ込み思案」で日本語が今ひとつぽんぽんとは話せない
子ですが、たぶん良い子だと思うので誰かとご縁が有ると良いなと思います。

しかし、それにしても今の若いお母さん方は幸せですね。私の頃はまだ布おむつで
雨が二日続いたら、アイロンかけたり大変でした。ミ●トンという便利な漬けておく
だけでほ乳瓶を消毒出来る薬もあるし、お尻拭きとかも画期的に柔らかくて衛生的なのが
出来ています。ミルクの成分ににおい消しでも入っているのか、全く臭いもしない
健康的なうんち。何だか私に言わせればままごとみたいにすべてこぎれいです。

圧巻はお風呂。ちょうど流し台に入り、真ん中に突起(足をはさませる)と、枕部分
があって可愛い。 腰も痛めないし最高です。建て替えておいて良かったのは
床暖房なので空気が綺麗な事。そしてドアもソフト・スライディングなので、バンという
音がしない事。まるで海の為に建て替えたみたいと話しています。



一ヶ月が経ちました


(写真は帰る日の海です)

月日の経つのは早いです。今回ほどそれを感じたことはない。
最初の内、試合したり、仕事をしたりしながら、朝(5時半)のミルクを引き受け
三食の準備もしていたので、何だか倒れそうになりました。(出産がずれた為とは
言え、あまりに無謀)後半は家にずっと居てゆっくり出来ました。
何もしないでおばあさん業だけやれる人をうらやましいと思ったほど、
おだやかで心楽しい日々だったです。もっとも翻訳の仕事はあったし、戻れる
仕事場もあったし、つかの間の休みだったから楽しかったのかもしれません。

生後一ヶ月以内の赤ちゃんってほとんど寝ています。ぎゃーって泣いたら
寝過ぎてお腹がめちゃくちゃすいているか、一杯うんちをしたかどちらか。
後は、飲ました後結構ぐずぐず言うこともありました。まだ5キロ位ですから
抱ける重さで、良い匂いで柔らかくて、伝わる暖かさに何だか安心出来る
何だかいいもんです。 真人間になる最後のチャンスが孫を抱いた時なの
でしょうね。この孫に恥ずかしい事は出来ないと言うのはあるかも知れません。
前の病気でかなり矯正された私の性格がこれじゃ神様仏様になっちゃうよ
なんてね・・・揺らしながら思ったものです。(厚かましい)

嫁は血液型A型、私はAB型。 彼女には最初必死な感じでベビーベッドの
横を離れませんみたいな覚悟がありました。 その代わり、その他の事は一切
する気を見せないので、仕事帰りで急ぐ時はテーブルの上にお茶碗を並べたり
して貰いました。その内に、洗い物(食洗機にかけないもの)は全部して
くれるようになり、最後の週など、あちらの身体も元に戻り、何となく余裕があって
楽しかったです。丁寧に丁寧に、私の倍ほど時間かけ、綺麗に整頓されたキッチン、
なかなかうれしいものでした。帰ったらお帰りなさいと言われ、息子との出会いから
今までやスターのこぼれ話などたわいもない話をする相手が居るというのもいいもの
です。

大人しい人ですが、しっかりしています。それはミルクの量の事。新生児なのに、
一日の量を決めて、それ以上飲ませないと頑張るんです。細かく授乳時間、量を
ノートに記録して、お腹すいているよサインを出して泣きわめかれても、あやして
なだめて時間が来るまであげないのです。まぁごついべービーですから大丈夫そう
ですが、最初はびっくりしました。責任の無い私など、可哀想で見ていられないのですが、
これが祖母型猫可愛がりの典型かなとぐっと控えました。最後はまぁ泣くのも腹筋を
鍛えていいかもと連れ合いと言い合ってましたが、かなりひそひそと二人で良く愚痴って
ました。

日本語と料理を教えてねと何度も息子から言われたのですが、本当になかなか時間が
なくて、ちゃんと出来なかったのが残念。それでもハンバーグ、ポテトサラダ、唐揚げ
フライや天ぷらなど後半になってポピュラーなものは教えました。ハンバーグとかは
家庭で作るものではないと言うことで本当に何も知らないようです。(もっとも家事を
やったことなかった新婚の私も全然何も出来なかったと何度も言って力づけました)

日本語は電話の応対想定問答集を手書きで渡しました。丸覚えを勧めたら、
ちゃんと覚えて電話に出るようになってくれたので良かったです。電話は機械を
通すので微妙に聞き取りにくく、私も外国語で苦労した覚えがあるので
苦手意識がよく分かります。

1ヶ月はあっという間に過ぎ、最後の日、トッポッキとチヂミを作って貰いました。
とても大変そうでしたが、出来上がったものは、優しい味で私は何だか涙が出そうに
うれしかったです。トッポッキはパック餅を少し水につけてレンジで柔らかくし、細長く
切って、かまぼこ、ネギと一緒に炒め、ケチャップ、コチュカル、水、砂糖で
味付けしたものです。




又大引っ越しで家まで送って行きました。
すごくほっとしたが正直な感想。一週間後、友人の結婚式へ二人で出席すると
いうのでベビーシッターに夫婦で行きました。お買い物を山ほどして冷蔵庫に詰め、
気を遣いまくりで疲れましたが、海を見るだけで何だか癒され、満足して帰って
来ました。本人はひひひと言うような笑いを浮かべる芸を覚えたものの、目は
まだ見えてないようで、相変わらず一杯うんちしてギャーと泣き、お腹空いたと
真っ赤になって泣き、手のかかる存在なのでした。






ちまき大使
風薫る五月というのに、特に天気は良くない連休。息子達がやって来ました。
嫁もすっきり痩せて何だか綺麗になりました。「子供を一人産んだ頃が一番
女性が綺麗なんだ」とどこかで聞いた事があります。(ホルモンの関係?)


嫁が5月2日、息子1が5月3日が誕生日だというので、合同誕生会です。息子2に
都内でケーキを買って来て貰い、私は海の世話をいそいそ。久しぶりに会うと、
何か肌が真っ白で人間らしくなり、時々、うんとかおーとか言うようにもなり、
何よりも笑うのが何とも言えず可笑しい。 ただ口元でにこーっとするだけでなく、
目尻下げ全体に「余は満足」スマイルがあります。かと思ったら、
緊張感一杯の表情も可笑しい。 5日にちまきを持たしたら、何だか凝り固まり、
面白い表情をしました。「ちまき大使」のつもりかな。


ミルクはもう180CCを5時間置きに飲み、6.2キロあるらしい。ずっしりとしますし、
ふとんに段差があれば頭の重さでうつ伏せからコロンと自分で仰向けになって、ひひ
と笑ってます。2ヶ月の赤ちゃんだけど、危うさはあんまりなく、のんびりと其処に存在
して、癒し光線の発信地みたいです。

私は薬さえのめば一発で治るはずの変な喉のしわがれ及び咳があり、最低の体調。
連休でかかりつけの医者は休みなので、ひたすら休養。でも海のおかげで、あせりもせず
のんびりしました。赤ちゃんの存在はなかなか良いものだなぁと思います。初節句といって
鯉のぼりを上げるでもなく、その分貯金。 人生って乙なもんだなとおもいます。
こんな、ほのぼのしたうれしさも用意してくれているんですね。




ささやかに幸せ
北海道の知人から毛ガニが届きました。ゆでたもので、すぐに食べられます。
毛ガニには苦い思い出があります。昔香港に駐在して間もない頃、連れ合いが
北海道出張で、毛ガニを苦労して持って帰って来ました。翌日から又他の
アジアの都市に出張。その頃、3歳と5歳の男の子二人はあまり興味なし。
大鍋で茹でてそのまま支店長宅へでも届ける才覚があれば、良かったのですが、
ともかく自分で食べました。食べたけれど持てあまし気味だったのを覚えています。

でもすごく美味しかった事も。

カニを食べるのって結構孤独な作業で、格好良く綺麗に食べ、なおかつ人と適当
にしゃべるのは、私には至難の業。一人で誰にも見られず原始の人となって、
思いっきり行儀悪く決して残すことなく食べたいと思う欲望を、あの時のように
満足出来そうでなんか小躍りしてしまいました。 一口食べて甘い。。味噌も
フォワグラみたいに美味しい。あぁもう幸せ。

ちょっとした事で幸せになれるのはこの年になったからですね。若い頃は、これ以上
特別な夜は来ないだろうと思う夜もちょっとした瑕疵で、死ぬほど嫌になったり、
何だか勿体ない事ばかりして来たような気がします。本当に一緒に居た人達に悪いこと
をしました。その頃の人達とはもう逢えません。チョーヨンピルの「友達(チングー)」
という歌を聴くとしみじみ思います。「私も年老いた。。」から色んな事が悔やまれる。
先が短く、体力無いのを小さな幸せを感じて生きる事で補えば、まだまだ少し行ける
でしょうか。
孫が釜山での親戚お披露目を終えてやって来ました。おデブで相変わらずですが、
笑うし、何かじっと人を観察しているように見えて、何だか飽きません。
釜山では久しぶりの孫なので、珍しがられて良かったようです。何より、8歳
前後の従兄姉達におもちゃのように可愛がられたようです。一人の従兄姉は
月曜日に空港見送り出来ないと言って学校で泣いてしまって、先生から電話がかかって
きたとか。仲の良い家族のようで(一緒にピクニックに行ったりした写真を沢山見たので)
、急に居なくなったおばさんが赤ちゃん連れて帰って来たので、何かロマンチック
なんでしょうか。 情の濃さなのかも知れません。 あ、韓国ドラマの見過ぎ
かも知れませんね。

離陸時に成田でも釜山でもきばって用足し(大きい方)をした話で笑い転げ
たり、韓国語の洪水には泣いて撃退したとか、聞けば聞くほど可笑しい。
お母さんに宛てた私の手書き(ここ重要)の手紙が功を奏したのか、今度
はお母さんも一緒にと言ってくれたらしい。楽しみです。済州島のメゾネット
でも借りたいです。 でもこれからの季節は暑いから、秋ですね。嫁がKBSの
番組の試聴の仕方を教えてくれたのでカヨームテー(歌謡舞台です)なる
番組の演歌聴いたりしています。韓国の歌手は歌巧―――いです。これも
ささやかな幸せ。字幕が出るので何とか意味を辞書ひきひき理解したり
です。





腱鞘炎&ガングリオン
しっかし、あまり大きくなりすぎるのも問題。5ヶ月で9キロを超した海くん。
先日2週続けて週末に来た後には、大きな爪痕が。。。
まずは、連れ合いが前日のゴルフで腰をひねった所へ海を
抱きすぎて、ついに大変な腰痛になってしまい、アタタ、イタタの繰り返し。
病院、整体とか、嫌いな人なのでもう静観しかありません。でも、そういう
具合であるなら、私は、はりきらざるを得ませんから、「あ、それ私が
持つから」「私がやるから」とか、一週間頑張りました。土曜日、
夫婦二人で折角温泉行って、あちらはそれ以来治ったというのに、その夜、
節句働きみたいに大車輪で翻訳やったのが祟ったのか、日曜日、朝起きて
みたら右手、右腕、ぴりぴり痛い。おまけに手首にぷっくりデキモノみたいに
脹れが見える。何これ?

その日は試合の約束があったので、薬局で湿布とサポーターみたいなのを
買って、ともかく出かける。カードを出すのもぴりりとする。痛いです。もう泣き
そう。カードをバラバラ取り落としたら大変なペナルティになるだろうから、
ともかく、痛い手で必死でホールド。何とかやり過ごして帰って来たものの、
お鍋で夜ご飯ごまかし。包丁が握れない。

マウスも微妙に振ると痛い。字は完全に左手で書いたように乱れるし、
力無し。悪い事に月曜日の午前中はどうしてもPC入力が少しある。
そっとそっと入力して3時間ずっと泣きそう。 午後3時の医者に行くと、
「これはガングリオン、そして腱鞘炎。首の頸椎が椎間板ヘルニア気味」
えぇーーー?と思う暇もなく、ガングリオン取りますって。関節液が飛び
出ているので、ほっておくとゴムみたいに弾力持って抜けなくなるとか。

そう言う意味ですぐ来たのは大正解と変な所を褒められる。注射針で、
あっという間に透明な脂肪の塊みたいなのを抽出。
痛いかどうかも分からない間でした。首の牽引、マッサージ、電気マッサージ
をやり、毎日来て下さいと言われ、「どれくらいで治りますか?」と聞いたら、
早くて炎症が治まるのが1週間だとか。 その後、しばらくは気を付けないと
再発とか。要するに自分の筋力以上のものを持ったり、ホルモンバランス
悪かったり、酷使したりがいけないと言われ。。はい、全部あてはまります。

しかし、ノリノリだと、一日3000字なんてざらな私なのに、何故今まで腱鞘炎と
無縁だったのかしら。重いものは持たないように気を付けていたのに、
孫の存在がボディブローのように効いて来たのか。ともかく、姿勢を15分おきに
変える事、無理しない事。肝に銘じて行かなくちゃ。 パソコンも触れない
2日間、小説など読んでゴロ寝。あぁーー骨折以来のこの心地。痛い思いを
したけれど少しずつ楽になると、こういう風にのんびり出来てうれしいとか思って
しまう。 還暦過ぎてノリノリはいけない事だけはちゃんと覚えておかなくては。





行きはよいよい、帰りは。。(1)
夏休みも終盤。土日に伊豆へ旅行に行きました。
週刊誌の人気温泉ランキングなぞ見て行って見ようと言う事になり
息子達夫婦と6ヶ月の孫を連れて踊り子号で、出かけました。
天気は悪いと予報にありましたが、どうせ、上げ膳据え膳で食事が出来、
孫と一緒に居られるだけで幸せと、気楽に出かけました。

人気の源、黒根岩風呂は、混浴。夜の7時から9時は女性専用と
聞きましたが、真っ暗では仕方ない。勇を決して(?)4時頃
行きました。
「アメリカを見ながら入る野天風呂」と落書き(?)がある風呂。
波打ち際にある訳ですから確かに景色は雄大です。女性専用更衣室
があり、バスタオルを巻いて入るので恥ずかしくないですが、
男性は巻いてくれてないので(フェイスタオル着用)、目は
一心に海に向かうしかないです(笑) 家族とか友人と、がははと
笑いながらでも入らないとちょっと間がもたないが感想。
でも還暦を迎えてこの感想は少し情けないかも。
http://www.hokkawa-onsen.com/kurone/kurone.html

旅館の目の前なので、天気が良ければ何度も来たかも。
結構涼しく、いつまでも入って居られそう。湯上がり生ビールの
サービスもあり、なかなか良い旅館です。夜の食事も部屋出し
ではなかったのですが、天麩羅食べ放題で目の前で揚げてくれる
のが良かったです。若い人なんかはお勧めかもです。私は
地酒の冷酒が美味しかったし、海(孫の名前)もその体躯を
生かして、ベビーチェアに挟まり座りし、何でもスプーンで
少しずつ美味しそうに食べるのを見て笑ってばかりいました。

持参した甚平を着た海の写真ばかり撮って、帰ってみたら
本当の海の写真はゼロ。全くの孫馬鹿。 


翌日は大雨。濡れないようにと気を遣いながら十分間に合って
帰りの「踊り子号」に乗り込みました。熱川駅の職員は全員
アロハシャツ姿。とても駅員さんに見えません。でも元炭坑町の
観光地に来たみたいで夏の間は良いかもと余裕の感想。
あんな事が起こるとは露知らず。。。



行きはよいよい、帰りは。。。(2)
さて、昼ご飯時の出発なので、駅弁は必須アイテム。伊豆名物、
あじ寿司に決定。来る時は缶ビールも買いましたが、帰りは何だか
気が進まない。これをカンが良いというのかどうか。雨がどんどん
ひどくなって行くようです。 そしていきなり「南伊東駅で止まります」と
アナウンス。伊東・熱海間運転見合わせ。点検する間、待ってくれと
言うばかり。私は車掌に内緒で(?)聞きました。「これまでの経験では
明日になることも?」と。 はっきりした事は言わないのですが、
顔色からして私の判断はイエスかな?でした。

その内に4時間毎のミルクの時間が近づきます。車掌が言うには
普通は止まらない駅なので、ドアは開けられないし、車内販売は
伊東から始まるとか。仕方ないので手でずっとミネラルウォーター
を暖め続けて、何とかミルクを溶かし孫のお腹の丈夫な事を願って
飲ませる。その内、伊東まで行きますと車内アナウンスがあって進む。
大きな駅に着いてともかくほっとしました。熱いお湯も確保出来るし
スーパーやコンビニにも自由に行ける。しかし大降りで夕食を買いだし
に行ったら膝まで皆ずぶ濡れ。私は座りっぱなしで、ともかく
エコノミー症候群にならない様、散歩が仕事。しかし伊東駅は大変な
様子。予約もなく電車の中にも入れない人達で溢れかえり、若い
カップルはバスタオルを敷いて既に自分たちの世界に。家族は
トランプしたりです。でも不思議に静かなのです。自然の災害は
しょうがないですものね。

海もいやに静かです。 旅館で貰ったまんじゅうの餡を少しずつ
あげると上機嫌。くっくっと笑ってます。しかし車内滞在時間は
既に7時間以上。時々忘れた頃の「まことに申し訳ない」だの、
「運転再開の見込みはたっていません」だのの静かなアナウンスも
何回聞いた事か。 車内で夜を過ごすとして、皆が寝ている所で
海が泣き出して、疲れている皆さんを起こしでもしたら。。まずい。

タクシーには長い列。おまけに道路も通行止めのアナウンス。
歩き回って様子を見ながら、これは東京の息子2に伊東駅最寄りの
旅館をインターネット予約させるしかないかなとか考えている時
「旅館も取った、車も確保」の朗報が。これほど連れ合いが頼もしく
見えた事はありません。構内に入って来たホテルの迎えの車に
片っ端から聞いたらしいです。一室空いていて運が良かったです。

ロビーに超一流ホテル並の大きな生花が飾ってある、かなり良い
旅館でほっ。手足を伸ばして寝られるだけでも本当にうれしいです。
露天風呂の屋根の部分の下から、土砂降りの雨を眺め、あぁ
湯が冷めるなぁとかぼんやり。先ほどの駅の景色は何だったのか
何かとても幸せな気分になりました。世の中、苦労有っての楽ですね。

仕事人間の息子1は昨晩の踊り子号に乗る為早く出発。結局
東京駅で21時間40分遅れて申し訳ありませんでしたのアナウンス
があったとか。 私達は12時チェックアウトなのでゆっくり。
朝の大浴場で海が頭を持ってあげると、スローに脚をバタバタ
して、ぽかりと浮くのを眺めてあまりの可愛さにうっとり。孫馬鹿。

昼過ぎに駅へ行ってみたら、全て伊東線、座席指定の車は
キャンセルとか。ともかく熱海駅まで各駅停車すし詰めで20分。
まぁ通勤電車よりは混んでいない。
海も大人しいし、他にも赤ちゃんが居ました。ともかく10キロも
ある海をおぶいひもで前抱きにしてずっと立っていて平気な嫁の体力には
感謝。熱海からは普通列車のグリーン車自由席に潜り込め、やっとの事で
東京が見えて来ました。 家に帰り着いたのは5時過ぎ。嫁も孫も
一緒で、パパの帰りを待つ間、私は豚鍋の支度に忙しい。家族一緒なら
何とかなるものねは良かったけど、でも疲れました。



ルイ・ラトウール ブルゴーニュワイン
うちの息子達も結婚一周年を迎え、孫の海もまずはすくすく育ち(育ち過ぎ)、
おめでたい事と、皆でワインを開けて祝いました。2005年もののブルゴーニュ、
ルイ・ラトウールです。美味しい。お天気がきっと良かったのですね。

それはともかく、韓国嫁と転職男、どうなるかと思ったのですが、何とか一年を
無事に過ごせた様で何より。
私も、もうすぐ乳ガン発見以来5年です。孫の顔が見られ、こうして大きくなるのを
「可愛いね」と言って見届けられて良かったです。
私にとって赤ちゃんは3人目ですが、でもこの赤ちゃんは手間がかかってない分、
何だか悪いですが、じっくり観察も出来るし、微かな事も見逃しはしません。
ミルクしか飲んでなかった赤ちゃんが、離乳食を食べる。スプーンを近づけた
だけで「あーん」と口をあけて、しっかり食べる。食欲は旺盛そのもの。健康的で
見る者を幸せにする。
ちょっと見たことないものだと、しばらく考え、そっと食べて美味しいと
分かると、「あーん」。すごく分かりやすい。何でも食べる。にんじんも白菜も
何でも。歯は丈夫そうな真っ白なのが6本しっかり見える。

大きなぬいぐるみの豚(韓国製)と向かい合わせて、時々ぬいぐるみを動かしてやると、
きゃっきゃと喜ぶ。すごい興奮ぶりにこちらが驚く。早く友達が出来ると良いね。
眠いとめちゃくちゃ甘えん坊である。 他の人としゃべっただけで泣く。トイレに
行くと泣く。泣き声がめちゃくちゃ甘く私には聞こえる。恋人にすねられたら、
こんな感じかなと男の人の身になった気分。異常でしょうか。

3日間彼らが居て帰った後は、2,3日疲れが取れません。食事の支度もあるけれど
やっぱり気疲れでしょうね。昔の人達は大家族で、どうやって生活していたのやら。
一人になって仏語の辞書を引いたり、音楽を聴くとほっとします。そうそう、私には
すごくうれしい物が手に入りました。ヨーロッパ調のライティング・ディスクです。
お宅族の私には必需品。この中にノートパソコンも辞書も何もかも入っています。万歳!
これでもう欲しい物は何もありません。



韓国家族が来日(1)
東京駅発14時56分「こだま」。これに乗るべくホームに上がったのが46分頃。

12時53分成田着の釜山の家族を空港へ迎えに行って連れてくるはずの
息子達にメールで新幹線口から一番奥になることや、7号車で待つなど教える。
でもその頃には実は成田エクスプレスを降りたばかりで皆をまとめて走っている
時だったとか。 自然な動線でここに来るはずと当たりを付けた
エスカレーターを彼らが登って来たのは発車30秒前。乗れ乗れと皆乗せて
落ち着いた時にはまず第1番のほっ。

彼らのすごい荷物をまとめて車に乗せ、近くの駐車場に預けた連れ合いが
もうホームに来ていたのに、まさかこれには間に合うまいと目を離した隙だった
ようで、一人遅れる事になりました。 それにしても荷物を分け、クール宅急便で
キムチは送り、予約した弁当を配りこの時間に来たとは。。上々の滑り出しです。

子供達は一生懸命チケットの裏表を見て自分がどの席なのか探しているよう
ですが、ここは自由席という韓国語は分からないから「そこに座って」とだけ。
素直に座りましたから分かった様子。韓国からのお客様は嫁の兄家族、姉家族と
母親の総勢9人。多人数なので、ばらけた時の意思疎通係がどうしても必要と
1年半をかけて韓国語を少しやったのですが、さて、いよいよこちらもエンジン
スタートです。
 
それにしても晴れ上がって素敵な蒼空。海も青く良かった良かったと思う間もなく
熱海駅到着。すぐにタクシーに分乗。私は子供達3人を受け持つ。一応運転手
に聞いて所要時間を通訳。14歳、12歳、10歳の従兄弟同士なんですが、
めったな事言えないとでも思ったのか終始沈黙。結局最後までお行儀良さは
最高の子供達でした。海辺のホテルなので見晴らしがすごく良くてこれには
大満足、一応すぐ部屋に入りました。真っ青な空と海に満足。浴場が地下で
屋上の露天が温泉でなかったのはショックだったのですが、まだまだ気分
良く大広間での食事に臨みました。

暗雲漂ったのはお料理を見て仰天した時。団体料金のメニューチェックを
すっかり忘れていました。あわびも伊勢エビもなく、カニ。天麩羅あり(例に
よって冷めている)。豚鍋。
向こう付けと、お刺身。茶碗蒸し。小さな椀もの。黒いお膳に綺麗に乗って
いてそれだけ。
温泉旅館の料理の豪華さから、大食家の韓国の人達の満足の為とはるばる
ここまでやって来たのに。気にしている暇もなくまずは連れ合いの挨拶。
翻訳した(韓国語の先生に直して貰ったので正しいけれど、発音に苦労)
韓国語で通訳。 乾杯。一歳の孫を膝に乗せて食べさせるのも私の仕事。
ともかく空気を良く読む赤ちゃんでぐずりは絶対しないのが特徴。ぱくぱく
平常心でよく食べてくれます。

そこへ回って来たのが、どこから出て来たのか「百歳酒(ペクセルジュ)」。
釜山へ行った時に美味しい美味しいと私が言った記憶のあるハーブ酒。
日本で売っている瓶詰めじゃなくて陶器みたいな容器に入った一見上等
そうなもの。それがまぁ美味しかった事。現金なものですべて忘れ、ワン
ショットOKという勢いです。 冷たいビール、熱燗のお酒、そして百歳酒。
まぁお酒のおつまみとしてはこれ位で良いかと出された料理も完食。

その勢いで「熱海の海岸散歩しよう」と提案。15人ぞろぞろ出かけました。
おりしも満月の夜。海上の月は心なしか都会で見るより鮮やかで大きく
まだ上がったばかり。やっぱり熱海に月はよく似合うのですね。
子供達と息子2はじゃんけん(カイバイボー)で歩数を決めて遊んでいるし、
連れ合いは孫の手を引いて歩かせているし、韓国30歳台後半夫婦は
とても仲良くツーショット決めまくり。私はお母さん(67歳)とぶらぶら歩き
です。「友達が出来ないので心配なんですよ」「何の心配がいりますか?
こんな良いお母さんがいるんですもの」そのような会話も少ししました。
最後まで他の人の聞き取りには苦労したのですが、お母さんの韓国語は
何故か分かり、それはその逆も真だったのです。 不思議ですね。

暖かくて幾らでも歩け、振り返ると熱海の街の夜景も綺麗で素敵でした。
コンビニでアイスを買って子供達に食べて貰い、又帰り道をぶらぶら。
カラオケ行こうと提案したのですが、さすがに海岸沿いには見あたらず
後悔の種にならずに良かったです(笑)



韓国家族が来日(2)
昨晩は良く歩き、夜の温泉もゆっくり味わい、9時には眠りこけたせいか、朝は
5時過ぎには目覚め、海上の朝焼けから日の出をじっくり見ました。もやの中
しずしずとゼリーのような紅い球体が上がって行き、いきなり青空の中光線を
放つぎらぎら太陽に変わった瞬間はおーっと思わずにいられません。
又素晴らしい天気になりそうで単純にうれしい気持ちも起こります。熱海駅発
10時31分の「こだま」は結構混んでいて分かれて座りました。東京駅で
私と連れ合いは預けておいた車に乗り(後部座席もすごい荷物で占領されて
いるので二人しか乗れません)、他は地下鉄、タクシーで小石川の料亭へ。

あちらの子供達、婦人連は正装にお着替えです。チマ(スカート)は中に
白い木綿のズボンを隠していて、服地の張り具合ですごく広がっている
ものなのですね。刺繍が至る所に施されていて真紅と言っても橙系の
鮮やかな色合いです。私はジーンズ姿からそれこそクルーズ以来のスカート
に。久しぶりのストッキングがなかなか履けません。太ったのと汗のせい
なのでしょうが伸びてくれない。もうあせりまくり。その内すごい孫の泣き声が。

昨日は興奮してなかなか寝なかったとか、これからが本番なのに大変。誰も
見る人居ないので私が駆けつけます。大好きな蜜柑を食べさせ、着替え
させる。白いスポーツシャツ、白い薄手のべスト、赤と緑のタータン
チェックの半ズボン。全て義姉が用意してくれたブランドもので、真っ赤な
泣き顔には全然そぐいません。
その内、グィー、ギーと気張りだしぷーんと独特の匂い。そこへ「そろ
そろ始まる」のコール。目をつぶりましたね。息子におむつの換えを
貰って、皆の手前笑顔を保ちつつ座布団に用意のビニールの袋を敷き、
そっと寝かせて誰も居なくなった控え室で交換。すぐに機嫌がぱっと
良くなり、にこにこ。本当に危機一髪(大げさ)位の感じでした。

広間にはもう皆揃っていて、韓国側の目も覚めるようなチマチョゴリの
色(淡色の上着と赤いスカート)と日本庭園の若葉の緑の対照が綺麗です。
嫁も私が着るよう勧めた真っ赤な民族衣装が似合って綺麗で良かったです。
帰化には3年もかかるとは言えこの姿が後何回見られるか。良くまぶたに
留めなければ。いつもご飯は食べさせて上げられるのだから、なるべく
あちらのお母さんに任せた方が良いと息子2からアドバイスが来たので、
孫はあちらにお任せ。面倒がらずに小さく小さく切って、ゆっくり慎重に
食べさせる様子は、やはり血は争えない。嫁にそっくりと確認。いつの間
にか又「百歳酒」が出てきて、喉も渇くのでビールは何杯飲んだか、
とっくりも何本開けたか。。記憶にありません。ほぼ腰が抜けた状態で
ただただ皆を見ていました。 単に飲み過ぎです。日本式にお酒を注いで
回る宴会ですから、こんなうれしいお酒今飲まずに何時飲めるのか。。
開き直って全部受けていました。あれほど後悔することになるとは知らずに。

両家の挨拶に日韓親善、経済不況が出てきた事は覚えています。息子がこの
暖かいご恩にいつか報いたいと挨拶した事も。お料理は昨日の名誉挽回
大丈夫な程、倍以上出て、豪華な鯛、刺身も良く冷やしてあり、赤飯も
美味しく、全て手が込んだ会席料理で良かったです。 韓国側に日本酒を
勧めたら、甘いので要らないとお断り。貸切状態だったので、子供達は店主の
お孫さんと仲良くなり、日本庭園を走り回り、井戸の水を汲み、良いお天気
の中、それはそれで楽しそうでした。孫も最後まで機嫌良く、写真にも
沢山収まり、そうして行く内にあっという間の3時間が過ぎました。

夜は20人乗りのバスをチャーターして、東京タワー、レインボーブリッジ、
お台場などの夜の観光へ。私達夫婦はクール宅急便で送ったキムチ25キロを
受け取りに家へ。一緒に行きましょうと散々言われたのですが、水入らずが
良いだろうし、予定通り帰りました。その際、私達にお土産としてAynsley
のオーチャード・ゴールドのコーヒーカップ&ソーサー2客とケーキ皿を
頂いてしまいました。昨晩は熱海の宿泊代も現金で頂いてしまったし、もう
気遣いが熱くて真っ青です。
(写真は冒頭義兄の挨拶中)





韓国家族が来日(3)
昨日は韓国式冷麺を、届いたばかりのキムチで食べて別に何ともなかった
のですが、今朝はともかく頭が重い。でも最後のお仕事、空港への見送りが
待っています。幸い都心も渋滞無く抜け、早く着いたので喫茶店で時間を
つぶす。20年ぶりのフルーツヨーグルトパフェなどを食べてにんまり。
朝しっかり食べて来たのによせば良かったのです。でもハイな心理状態
自分でもどうすることも出来ません。

ところが、韓国家族を乗せて空港までの車の中、完全に
車酔いしてしまい、本当に七転八倒。勿論粗相をする訳に行き
ませんから、頭の中のあちこちをつねりまくる思い。しっかりしなさい
と気合いばかり入れていました。そういう時に手渡されたのが韓国
からの人気最新ドラマのOST。勿論パッケージはオール韓国語。
俯いて読もうとすると、うっとくる。お姉さんと、ドラマの話題で盛り上がろう
とするのですが、気ばかりあせるだけでもうダメ。目をつぶって
寝たふりを。 幸い渋滞もなく無事空港へ到着。嫁達はまだ
到着まで40分かかりそうだったので、取りあえず連れ合いが全て
荷物見ているのでお買い物どうぞと言って私は薬局へ直行。
酔い止めを飲んでトイレで休む。

しかしそれにしても荷物の減少にびっくり。聞いてみれば孫の自転車
まで持って来て貰ったみたいです。食事か買い物かどちらかの時間しか
なかったので買い物にかけますと、意外にあっさりとお別れ。
皆さん、深いお辞儀をしてゲートをくぐって行かれました。

私はもう食事も何も要らないとすぐに帰宅。その後、何だかしばらく
身体の調子が戻らなかったです。馬鹿飲み禁止。無茶食べ禁止。
心に深く誓った韓国親戚訪日でした。 もっと自由にさせて上げた
方が良かったのかも知れません。電子辞書など持参の子供達でしたから
言葉が通じなければ工夫して色々又その苦労を通じて得られる親近感も
あったかも知れません。よそ行き、能率優先の我々,何と思われたか。
まぁ国民性の違いと許して頂ければと思います。 ともかく、たおやか
と言うのか、のんびり大人しい親戚の人達という印象ですが、さて、
相互理解にはまだまだ時が必要なのでしょう。



五月のパリ旅行(1)
朝5時には起きて身支度。45分出発。成田に置いておく息子の車で
空港まで。道が空いていて、7時30分の集合には早すぎる到着と
なりました。9時台の大韓航空でまずソウルへ。乗り継いでパリへ
向かいます。瓢箪から駒式に決まったこの旅行。手配した時には
これ位しか空いてなかったと聞きますが、でもわざわざ乗り継ぐ
とはと安値買いの危惧で一杯でした。

でも意外に身体も楽で、しかも大変楽しかったです。 勿論韓国文化
大好きな私の特性もありますが、オーディオシステムも食事も非常に
快適でした。 まず聞ける曲が非常に多く、オペラやクラシックから童謡
まで幅広い。童謡だけで50曲はあります。韓国語のキャンディキャンディ
には参りました。 しかも好きな曲はマイ・アルバムに整理しておいて
それだけ聞く事が出来ます。勿論主に聞いたのは歌謡曲とヒット曲。
あの熱い切ない歌声に胸をかきむしられ、歌唱力に感心しきりで
時間はどんどん過ぎました。

日本映画は「X氏の献身」という微妙な選択。韓国映画も含め英語字幕
が付いています。 又器具の説明やタイトルは日本語で見られます。
食事はビビンバ、わかめスープ、デザート、コーヒー、お酒類(種類は
ビールと赤白ワイン位)と簡単ですが、これが美味しくて運動量のない
機内ではぴったり。勿論洋食も選べます。 

スチュワーデスの制服は綺麗な淡い緑がかったブルーです。
同じ色の硬い素材のリボンを片結び蝶にして、アップした髪にまるで
かんざしのように付けているのが、アジアの女性ですって言う主張
を感じさせる。エキゾチックと言うか。一応会話は韓国語を選びました
が(ご迷惑ものですが客ですものお許しを)日本語も上手です。
しとやかさは昔の日本人みたいなので(語弊あり?)とても気持ち
良いと感じました。

パリ到着、残念ながら曇り空。ホテル到着は夜7時頃ですがまだ昼間みたい
です。この辺までは旅行社の係員が一応面倒見てくれて普段と変わりません。
でも、後は何かあったらデスクにお電話下さいとこれで終わり(心細い)。

9時頃から、地下鉄8号線の終着駅バラールに近いこのホテル周辺をぶらぶら。
古い建物もない、味も素っ気もない市電が通る街です。ただ地下鉄の駅が近い
事は便利で良かったと後で分かります。簡単に食べようと、スパゲティ、ピザ、
ワイン小瓶で30ユーロ。主人が目の前でピザを焼くのを見られたのが、
楽しかったです。やる気のあまりなさそうな主人が手の平サイズの円い
お団子をくるくる平らにしていく手際の良さ。店の中にある釜に突っ込んで
割合すぐです。 「今日の定食はこれですから」なんて女主人が見せに来る
ので、「いや、日本から着いたばかりで時差もあるし、食欲ないんです」とか
言い訳する。でもヨーロッパではピザやスパゲティは前菜なので、妙に気を
遣うのも仕方ない所。朝起きてからほぼ24時間、あんまり寝てないので
ぐっすり寝られそうです。ホテルに帰ってお風呂に入ろうとしたらバスタブ
の栓が壊れていて湯が溜まらない。ガーン。入浴剤一杯持ってきたのに。
眠いのでシャワーにして寝てしまいました。



五月のパリ旅行(2)
ビジネスホテルみたいなこのホテル(Median Paris)、朝はバイキング方式。
コーヒーメーカーのコーヒーです。でもバゲットはやっぱりパリのパン。
あぁ美味しいと幸せ。自家製のヨーグルトと、りんごのピュレが出ていて
これも美味しい。ソーセージ、ベーコン焼いてあるだけですが美味しい。
もう、すっかり満足。日本人も連休中のせいか、10人くらい見かけます。

取りあえず真ん前のメトロに乗ってコンコルド広場へ。パリの地下鉄は
距離関係なく同一料金。カルネ10枚で11.40ユーロ。安いです。
ちなみに一枚だと1.60ユーロ。自動販売機があり、カードで
簡単に買えます。ただ、レシート要りますか?と聞いてくるのでここが
仏語が分からないと迷うかもですね。よく見たら英語を選ぶ事も出来る
みたいです。ところが寒い。チュイルリー公園の泉水の側の椅子に
腰を下ろすも寒くて震えそう。
仕方ないのでリボリ通りから、ヴァンドーム広場抜けてオペラ座まで、お店
を探して歩く。土産物屋ではトレーナーを売っているけれど、今更「I love
Paris」のロゴも恥ずかしい。結局ブティックのバーゲンで69ユーロという
格安の黒い短いトレンチコートを見つけ購入。女主人が上手くて、Sで大丈夫
じゃないの?なんて言うから笑ってしまいます。着込むと何だか落ち着け
ました。
勿論日中は息子とは別行動ですから、気楽にぶらぶら。パリの街の中に居る
だけで幸せ。パレ・ロワイヤルのコメディ・フランセーズの切符を見に
行きましたが、出し物が「ドン・ジュアン」であまり食指が動きません。
コンコルド広場へ戻ってチーズとハムのクレープと水を買って先ほどの
椅子に腰掛ける。もう2時です。日も差して来たので気持ちいいです。
まだ、頭の芯がふらふらするみたいで、歩きすぎた気もするのでホテルに
帰る事にしました。8号線に乗ると終着駅がバラールですから、20分
位。
部屋に帰り、まずフロント呼び出してお風呂の栓について訴えました。
直そうと来ましたがダメで、結局部屋を換えてくれました。ところがこの
ホテル、ベルボーイなんて居ないし、日中はフロントのおじさんが居るだけ。
荷物作り直して、少しずつ運ぶのは大変でした。でもおかげで熱いお湯に
入浴剤(草津の湯とか、いろいろ持ってきました)を入れてゆっくり入ると
もう疲れなんて取れてしまう。ちょっと持ってきた本を読んで休憩。

フロントに頼んでおいたので、無事息子も新しい部屋に到着。一緒に
近くのお店へ夕食を食べに行きました。
もう食欲は立派にあるので、私はムール貝、彼はエスカルゴを前菜に選び
子羊のロースト、サラダと頼んだのですが、多すぎるのでサラダは要らない
と年取ったギャルソンがアドバイスしてくれました。確かに、ムール貝は
バケツのような容器と山盛りのフライドポテトと一緒に出てくるし、
子羊のローストにはサラダや人参のマリネまで山盛り。さすがに食べ残し
ました。残念。赤ワインの小瓶を取って2人で66ユーロ。1ユーロは
132円で換えて来ましたから、9000円近くですか。まぁエスカルゴ
はすごく美味しかったので良しとしますが、チップを10パーセントは
置きますから、結構高いですね。言ったら悪いですが場末の店でこれだと
後が怖いです。
(写真は日中2度も座って見たチュイルリー公園の泉水の椅子からの眺めです。
遠くにルーヴル宮。この近くの下宿に住んでいたので若い頃良く来た所です。
絶対パリに行ったら此処へ来ます)



五月のパリ旅行(3)
さて、いよいよ3日目の今日からモン・サンミシェルへの小旅行が始まり
ます。ホテルは1週間ほど前に家からインターネットで申し込みました。
ハイタイド(干満の差が激しい)の時期なので混んでいて、結構一杯。
結局僧院のお膝元の古い小さなホテルです。料金は一泊分カードで
前払い。再確認のメールも仏語でして丁寧な返事も貰っています。

まずモンパルナスまで地下鉄で行って、TGVのチケットをレンヌ(Rennes)
まで買う。窓口で1等か2等かと聞かれて2等でも座れるのかと馬鹿な質問。
後で調べたら、全席指定でドア外通路席まで全部決まっており、空き次第
移れるとか。パリ−レンヌ9時5分発、1人片道71.5ユーロ(ピーク時)。
2時間の乗車時間です。 無事買えたので構内へ。こちらは改札がない
ので拍子抜けします。 何番線発着か全然分からず、聞くと発車20分前に
出る標示板が全てだとか。  皆発表されるとぞろぞろと動きます。
車内は真ん中通路の4列なのでやっぱり新幹線に比べ随分余裕ある感じ。
座席も紫と赤のジャガードみたいな感じでおしゃれです。座席に座りほっ。
座席ずらして幾らでも寝られそうですが、車窓の田園風景が綺麗で目が離せ
ませんでした。何と言っても一切広告塔や看板、送電線が見られない草原と
森ばかり。家は線路沿いには全然建ってないです。青々とした緑、若い緑、
深い緑。嫌と言うくらい広い大地です。豊かさを羨ましく思いながら、もう目の
保養とばかりずっと見ていました。

レンヌでの乗り継ぎは18分くらいと調べてあったので、大急ぎ。チケット
売り場に駆け込んだら、バスの中で売るとか。回りを見渡すと日本人の方
ざっと10名くらい。後は仏国内の観光客です。
バスはぎりぎりに来て60歳以上割引など申し出てちゃんと20パーセント
引いて貰いました。
 バスの中は後ろに座った日本人中年女性ののべつ幕無い高笑い混じりの
大声会話に結構悩まされました。日本では平気ですが、何となく他の
乗客に悪いかなと居心地悪かったです。
さて、古いブルターニュの黒い屋根の独特な街を幾つか抜けて、海岸到着。
おりしも引き潮で海ははるか彼方。近くの島までも歩いて行けそうです。

早速、昼食。ここへ来たからにはオムレツを食べなくてはと注文。泡立てた
卵がオムレツの中から流れ出るような大きなふんわりしたオムレツを楽しみ
ました。その前に注文した海のスープが最高。オマールの濃厚な味に舌鼓。
息子がアップルパイを食べ、赤のグラスワインを2人で取って30ユーロ。
やっぱりノルマンディまで来ると少し物価は安いようです。レストランは
ホテル(Mouton Blanc)付属ですが、参道沿いで結構流行っています。

それではお部屋へ案内をと頼むと、別館なのでとプリントアウトした
地図(曲がる場所の写真の入った丁寧なもの)をくれる。フロントの若い女性
は小柄で非常に素朴でガールスカウトみたいな友愛的で素敵な人。別館探して
ぎしぎしと木製の階段を上って部屋にはいると清潔そのものの小さな部屋。
シャワーのみ。でも何しろ2人で90ユーロの所。古い曲がりくねった鍵が
玄関の鍵も兼ねるようで、僧院に泊まりに来たような錯覚で何だか楽しく
なりました。

一応どんどん僧院の尖塔まで登る事にしました。拝観料8.5ユーロ。
私は20歳くらいの時にスイス人の友人とやはり電車で来た事があります。
その時は2月で、ガイドさんのブルターニュ訛りに参ってしまった覚えが
ありますが、寒くて寒くて人っ子一人居ず、厳しい修行の場所だったのだな
と実感しました。 今回は観光客も多過ぎて、ただただ付いて歩くだけ。
息は切れるし(ともかく階段を150段くらい上がったと思います)、
たまりません。それに頭の構造を疑いたくなりますが、デジャヴユー感覚
が起こる度に「あの日に帰りたい」と思ってしまうのに悩まされます。

下りてきて、砂で靴を湿らせながら、島の回りを一周しました。良いお天気。
沢山写真を撮って満足。小さな土産物屋を一軒一軒冷やかして歩く。ここは
実はブルターニュとノルマンディの境なので、カルヴァドスとか、ゲランの塩
とか、勿論有名なサブレも沢山売っています。パリでも買えるでしょうが、
何となく色々買い込みました。 夜は山盛りの海の幸(牡蠣が美味しかった)と
伊勢エビのカルヴァドス焼きを楽しみ、りんご酒(シードル)を一杯飲み、白ワイン
の瓶を空け、クレーム・ブリュレ(プリンです)を食べ、大散財と思ったら76
ユーロ。これは納得です。

沢山歩いたし、乗り物で疲れたのか、バタンキューで寝てしまいました。
(写真は説明の要らないモンサンミシェルの勇姿、すっかり干上がっている)





五月のパリ旅行(4)
翌朝は早起き。6時頃潮が満ちているのを見に散歩。昨日歩いた所は勿論全て
海。ひたひたと波が僧院の足下に迫っています。嘘みたいとお馬鹿な感想しか
ありません。高台から見渡すと寒かったのですが、白波が立つのさえ見えます。
自然の不思議に声も無かったです。前回クラウディアと来た時は逆に朝に
なると海が干上がっていてびっくりだったので、これで両方見られた事になり
ます。 朝食は付いていないので、そこらでパン(バゲットとクロワッサン)と
コーヒーとジャムやバターだけの朝食。オレンジジュースが美味しかったです。

にわか雨が降ってきました。空は青いのですがかなり大粒。傘など持って
いません。でも、からっとした気候なので気にせず、歩いていると、8時頃には
もう、大分砂地が見えています。確かに潮の満ち引きのスピードは速いと思い
ます。観光案内には、馬が駆けてくるように満ちて、昔は随分犠牲者が出たと
書いてあります。今は堤防の上の道をバスが通いますが、2012年には、
歩行者専用橋だけで陸地と繋がる、完全な島になる予定で大工事中とあります。
又観光客増えそうですね。昼食はMouton Blancのレストランで2回食べたので、
別のホテルレストランへ。まぁ混んでいること、混んでいること。折角、
海辺へ来たので又ムール貝を食べる。やっぱり身がふっくら、しかも
あっさりと甘くて白ワインの香りが又柔らかい。あぁ美味しいなぁと
この為に来たとさえ思います。

帰りは又バスに乗ってRennesへ。チケットを買ってTGVに。4時5分発
だったのですが、これが何と57.50ユーロ。ラッシュ時に比べると14
ユーロ違いますね。1800円も差をつけたら、我が新幹線も昼間ガラガラを
解消出来るのではと感心。フランスは改札口がないと書きましたが、検札は
勿論ありました。改札機があって、自分でチケットにどの駅から乗ったか
印字して乗る訳です。たまたますぐ後ろに乗った客が無賃乗車だったみたいで
その捕り物(?)を目撃しました。全て声だけだったのですが、車掌が傑作。
サービス声(非常に親愛的)を最後まで崩さず、「お客様、切符をお願いします」
から始まって、段々無賃乗車と分かって、「じゃぁ、身分証明書出して。ここへ
サインして」とぞんざいになり、「ボンソワール、ムシュ」と終わるまで、
感心するぐらい事務的でしかも良い感じ。ラテンの国民性というか。愛の告白を
聞いているような(内容は実に正反対なのに)役者のような良い声を持つ人
でした。

モンパルナスには6時20分着。明日又もう一つの大旅行を抱えているので、
ホテル近くの中華レストランで焼きそばとビールで終わり。2人で26ユーロ。
又熱い風呂。バタンキュ−。息子はというとサルサを踊りに出かけたようです。

(写真は昨晩の夕日と影)(やっと捉えた尖塔の上の聖(サン)ミシェル像、キラキラと目立つ)




五月のパリ旅行(5−1)
今日は、郊外電車(RER)に乗ってその後一時間に一本しかないバスに
乗り換えのお出かけです。タクシーで行ける距離ですが、それをしないのが
今回の旅の良いところ。ガール・ド・リヨン10時5分発に乗りたいのですが、
途中地下鉄が故障で来ず、慌てて他の路線で遠回り。
着いたのが3分前。チケット買ってゼロ分前に行ったのですが、何とその電車も
キャンセル。でもその2分後の電車も同じMelunに行くというので乗りました。
ところがこれが、本来25分くらいで着くのに、ぐるりと回る環状線みたいな
電車で、1時間以上掛かりました。当然、乗り継ぎのバスは行った後。結局待って
次ぎの11時45分のバスに。このバス停は分かりにくいです。Melunの駅を背に
して左奥の薬局の前から出ています。指示版もなく尋ねないと分からない所。
今日の目的地はVaux le Vicomte城。さすがにバスに日本の観光客はゼロでした。
(連休が終わったので皆様お帰りなのかも)

RERが非常に車内汚く、ガラガラでちょっと怖いお兄さんが一人だけ乗っていて、
用心棒の存在が心強かったです。電車で少し寝て、いよいよ城へ向かうバスの中では
かなり興奮気味。城間近には、何と丈の高いポプラ並木が一直線にずっと続き、本当に
見事。乗ってからは20分。古い城門前に到着です。時刻表で帰りの時間を確かめ
て、いざと意気込んで乗り込みましたが、先ほどから怪しかった空模様が持って
呉れず、大粒の雨。幸い折りたたみ傘がバッグにありましたが、息子は傘無し。
取りあえず時間も時間なので雨宿りがてら付属の食堂で食事を。カフェテリア
方式というか、選んだお皿の計算を最後にするものです。外見は古いお城の付属
の館だし、インテリアも中世、ウェイトレス民族衣装なのに、中身は新しい。混んで
いて相席になった年配のご夫婦と取り留めない話を。日本は経済どうですか? 
ええやはり悪いけれどそれほどは。。いつかは行きたいです。。是非、京都は
良いですよ。そんな感じです。

スパゲティと鮭のムニエル、エピナール(ほうれん草)の炒めたもののプレート
を取ったのですが、本当に美味しかったです。オレンジジュース、パン、バター
で一人14ユーロ。さて、入城料金1人16ユーロ。2112円。高いかなと思った
のですが、後でリーズナブルと分かります。
私がどうしてもと一緒に来て貰った感じなのでここは息子の分も払います。
小雨が降っているので、取りあえず息子は城内を見て、私は庭を歩くことにし、城の
南側に回った途端、眼の前に広がる庭園に、もう感激。惚れたぁって所です。
思って居た通り素晴らしい様子に生きていて良かったと何故か思ったりしました。



五月のパリ旅行(5−2)
シンメトリカルな庭園ですが、非常に凝った仕掛けがあり、わくわくします。
天気が良いともっと泉水への反映とかも綺麗なのに残念。ぱっと見てトピアリーと
いう三角錐や球形に刈り込まれた置物のようなツゲの木の緑、回りの森林の
深い緑と芝生の若草色の対比が綺麗です。

少し歩くと刺繍庭園(若緑の木と煉瓦色の砂で作ったアラベスク模様)の辺りで
わっと驟雨がやって来ました。パリを出る頃は晴天だったので傘を持っている
人が居ないのか、あっという間に無人に。強い雨の跳ね返しで濡れるのも構わず
ずんずん歩きました。あれが王冠の泉水、これが菜園への道。この庭園に関しては
何度も文献を訳したので、門前の小僧状態(習わぬ経を読む。。ちょっと違うか)
ですが、しかし、百聞は一見にしかず、何の知識が要りましょう。この広い広い
芸術的な庭園に私が今一人。 フーケもある日こうだったかも知れないなど思い
ながら(笑)何か吸い込まれる様に歩を進めました。

中央の砂利道を行くと、だんだん正面の洞窟の状態が見えてきます。両側の川の
彫像(ローマのテーブル川と地元のアンカーユ川)はまだ健在ですが、真ん中の像は
原爆で溶けたみたいな状態、残念。鏡池でお約束の振り向き技。綺麗に城が
映っています。あんなに遠くのものがどうして此処に映るのか。。高低差を生かして
計算されているのですが、晴れていて真っ青な水面だともっとすごいでしょうね。
鏡池の所に洞窟があるように城からは見えますが、それはイリュージョン。実は
すごく離れていて、その間を低く運河が流れています。鏡池から階段を下りて、
運河脇へ。ヴェルサイユのような十字運河ではなく、緑の水面の川が静かに流れて
います。でも突然現れるので、えっと驚きがありますね。ここまで30分弱
かかっています。後ろの5,6bの壁には水鉢や仮面が並んでいて滝が流れて
いるはずなのですが、止まっているのが残念。
洞窟やヘラクレスの像の所まで行くのに、運河に橋は架かってないので、周囲を
ぐるりと一周する必要有り。一時間後に一応集合の約束なのでともかくもう戻る
ことにしました。

雨は止みません。息子と会えたので、屋根のあるクラブ・カー(ゴルフ場のカート風)
を借りる事にしました。保証金、免許証必要。日本のものでOKにしてくれた
のは、まぁ暇だったからでしょうね。よく見ると車用の道がサイドに付いて
いて、確かに楽。運河を一周して、洞窟の両側の馬蹄形のランプウェイまで行け
ます。素晴らしい噴水の大池を見て、ヘラクレスの像まで登りました。この庭園は
一旦下って又上がる地形を生かしているので、そこからは城が良く見えます。
本当に変化に富んだ素晴らしい意匠で、この庭園がそのままに残って居ることに
感動しました。帰りは超スピードで飛ばしまくってやっと間にあう始末。いやいや
広いです。カートで急いでも45分かかりました。

さて、これからは城内の見学です。ルイ14世の財務長官ニコラス・フーケの
一生のハイライトが蝋人形で示されていました。役者の声で実際にルイ14世が挨拶
する場面や、三銃士が捕らえに来て失脚する場面を劇にしています。人形が置かれて
いるのは、当時のまま保存されている実際の部屋ですし、精巧なので生身の人間が
しゃべっているのかと思い、何だか眼が合うと気色悪いものがありました。
そしてあのルイ14世に、あまりにも立派な城と豪奢な宴会だったので不正を
疑わせてしまった1661年8月17日の大園遊会の様子も、部屋の中のスクリーンに
写ります。ダンスシーンです。台詞も一字一句分かる訳ではないのですが、何だか
雰囲気に飲まれて頭がボーっとなりそうです。

気が付いたら、6時間もたっていて、帰りのバスの時間です。この近くにフーケが
ゴブラン織りの村を作ったとかで、ショップのゴブラン織りのクッションでも欲しいかなと
思ったのですが、選ぶ時間もなく帰りました。こんな所で交通手段が無くなったら
大変。帰りは直通の電車にちゃんと乗り、それでも帰ったのは8時頃。又、中華の
お店でタンメンとビールだけで済ませました。本当に疲れたぁと言う所ですが(すごく
歩いた)、心地よい興奮状態。熱いお風呂が気持ち良かったです。
(写真のお城は近そうですが、ゆっくり写真撮りながらとしても30分も歩く距離。池に写るお城が見えますか)



 



五月のパリ旅行(6)
3日連続のプチ旅行の後、今日は少しゆっくりします。
前回シュールなものには、疲れている時はつらいと思って敬遠した
ポンピドーセンターのモダンアート美術館へ行きました。古い街並みの中に
そそり立つポップな建物にはやっぱり違和感しか感じません。

ルーヴル美術館の前のピラミッドには大分慣れましたが、パリの街には
独特の縛りがあるような気がします。この古い街並がどうなるのか。こういう
建物ばかりになる日が来るのでしょうか。それは分かりませんが、
いつも、私はパリに住めた、何度か見に来られた、その幸せ、取りあえず
このパリの時代に生きられた幸運を感じずにはいられません。 

さて今日のお目当ては「Apres moi、le sommeil(私のあと、眠りが)」と
いう絵なんです。学生時代に当時16区のプレジダン・ウィルソン通りにあった
モダンアート美術館で見ました。1977年にポンピドーセンターに移転した
らしいので、ここで見るのは始めてです。たまたまカンディンスキー展をやって
いたので美術館前には長蛇の列。ほぼ同じ長さの2列ある内の1つを選び並んで
いたのですが、入る直前になってそこが障害者や関係者その他の入り口だと
分かりました。私のような人は一杯居て、観光客が「親切じゃないですね」と訛り
一杯の仏語で係員に抗議していましたが、「Ce n'est pas mon affare」と
肩をすくめて終わり。あぁ久しぶりに聞きました。ナットマイビジネスですね。
並び直して30分。まぁパリでは気長になるので、回りの風景を見渡していました。

絵の事は分からない私(ついでに風流も解さない方)ですが、あの絵だけは、
疲れた時、落ち込んだ時、見ては慰められ、静かに息を整えられたものです。
題名だけは覚えていたので、帰った当時少し探したのですが、卒論やら何やらで
きっと忙しかったのでしょう、画家の名前も忘れました。

会場をずっと探して歩くのですが、お目当ての絵は見つかりません。ピカソも
シャガールも見たい絵は全部あったのですが。。2時間くらい居て、仕方なく
係員の人に聞いたら、インターネットルームに係員が居るからと親切。
カタログ検索は自由なんですが、画家名で分類されていました。係員のおじさん
に「青と黒と白の絵で、タイトルは間違いなくこれ」と訥々説明。PCには
すぐに出てきたようですが、うーんと考えています。
「画家はマックス・エルンストです」あぁそうでした。「当美術館にありますが、
この画家には他に有名な絵が揃っていて、とりあえずしばらくは展示の予定が
ありません」「でも、これですね」と小さい画面を見せてくれました。そう、
そこには紛れもなく私の探している絵が。うれしかったのですが、落胆して
有り難うございましたと部屋を出ました。絵と対峙したかったなぁ。
帰り、もしかしてと絵はがきコーナーを探したら、何とたった一枚、あったの
です。その絵が。本当にうれしくて、他に色々買う事も忘れ、飛び出ました。

もう、これで忘れる事はないし、気長にHPを見ていて「エルンスト展」なんて
やったら又来れば良いんだ。。歩きながら何となく気分良くカフェで一休みして
絵はがきを眺めました。

さて夜は息子と正式なディナーを一度食べようと約束しています。場所は
Cafe de la Paix。オペラ座の近く、前回来たとき雰囲気抜群で又来たいと
思っていました。コース料理を取って、さてワインですが、白白赤赤の
4つのグラスワインが55ユーロで料理と合うようにセレクトしてある
そうです。オバサンはここで考えて(恥ずかしい)、2人でシェアしたら
どうかと思ったのです。幸い担当のギャルソンは融通の利きそうな、どう見ても
イタリア系の中年男性。すぐに万事飲み込みとばかりOK。まずはオードブルと
白ワインが来たのですが、大振りのすごく綺麗なグラスに1.5センチくらい
入っています。そしてまぁ美味しい事。息子もこんな美味しいワイン始めて
なんて言う。そのままギャルソンに伝えてシェアなんか止め。すると又1.5cm
がやって来て、後、全部3cmが3回。美味しかったですね。2000年や
2002年ものも混じっていたので、本当にソムリエが選んでくれたのでしょう。

出来ることなら、menuをもう一度見せて貰ってワインの名前を書いて帰りた
い位です。次ぎにリゾットとホタテ貝のソテが出て、鯛のグリルが出て、肉が出て
この辺でもうお腹一杯。次ぎにチーズの盛り合わせ。美味しい赤ワインも
まだ残っているし、一人ずつ大皿に5種類、大きく切ったチーズが盛ってある
のを見てうれし涙にくれても良いはずの私なのに・・・。この大食い
ホルモン剤の副作用で満腹感の無いはずの私が、全部は食べきれなかった
のです。次のデザートも残しました。そう言えば春から薬を飲んでなかったので
いつの間にか普通になっていたのでしょうか。カプチーノで締めてお勘定は
286ユーロ。それにチップも一割は置きましたから、大散財。
でも、やっぱりマダム、マダムとかしずかれ、とびっきりの笑顔のギャルソン、
芸術品一杯の店内、ピンピンはじくと音のしそうなグラス類、金ぴかのお皿。
何よりもお料理とワインの味、雰囲気。全然惜しくありません。本当に(笑)



五月のパリ旅行(7)
空は今にも泣き出しそうな薄墨色。
今日は普通の観光とお土産を買う日に当てています。
昨日は「五月のパリ」を歌いたい位良いお天気だったのですが、深夜はすごい雨。
食後、モンマルトルへ行って、サクレ・カールからパリの夜景を見て、ラパン・アジール
でシャンソンを聴く予定だったのに、食べ過ぎと睡魔と天気の悪さというトリプル
パンチで私はベッドを選びました。息子はそのまま出発。若さが欲しいです。

地下鉄にも慣れて、危ない目にも遭わず、ホテルから歩いて一分の所にある
便利さを喜んでいたのですが、最終日に落とし穴にズコーンと填りました。
チケットが使用済みかどうかの判別が、単に紫色の印字(すぐにはげるし、
機械の調子で隅っこ過ぎて押してないように見える事も)だけなので
分かりにくく、気を付けないといけないと前から思っていたのですが、
思い出にしようと取っていたので、間違えて使用済みを使ってしまったのです。
(ちなみにパリ地下鉄は降車時に一切、改札を行いません。均一料金です)

それでも、今までは最初のハンドルが回らず、なんて言う事なかったのですが
今回は最初のハンドルが回って自分の身を進めたのに、次ぎの自動で
開くはずのドアが押しても引いてもビクともしなくなったのです。つまり私は
ねずみ取りみたいにドアとハンドルの間に挟まってしまって動けなくなってしまい
ました。勿論無人の改札口。係員呼ぶボタンないかと回り見渡すも無し。

やがて向こう側から出て来た素敵なパリジャンが力任せに開けようと
してくれたり、自分のパスネットを貸してもう一度押したりしてくれた
のですが、動かない。「お役に立たなくて悪いけど、あちらの改札口
から改めて通れば」とアドバイス。「どうして此処を抜けるの?」
「身をかがめればハンドルの下を通れる」と身振り手振り。気が動転して
しまってそれに気付かないなんて、なんて馬鹿。見れば格好良い人。
こちらは「メルシ、ムシュー」と声も上ずり何とも恥ずかしい。しかし
出勤途中らしいのに、親切な人も居たもんです。貴族の出かしら(笑)

オルセー美術館は月曜日なので休み。自分が元居た寮の前を何するでも
なく通り、Cars-Rougesを捕まえて乗りました。二階建ての赤い観光客用のバス
ですが、今回の旅行社から乗り放題のチケットを貰っています。大雨なので
非常に便利。オペラ座、凱旋門、グランパレ、トロカデロ(エッフェル塔)、
シャン・ド・マルス、ルーヴル、ノートルダムと回って居て、無料の各国語の
イヤフォンガイド付き。旅の疲れもそろそろ出てきているので座り込んで
じっと乗っていました。音楽が「クルミ割り人形」とかショパンとか良いし、
ともかくプログラムも楽しく、知らなかった事も多々あり、疲れ休めに
丁度良かったです。

さて、最後にショッピングが残っています。ガルリー・ラファイエットの
食料品館は有名。趣味のある香水とか口紅より、チーズやコーヒー、ハム
ワイン等を選ぶ方が楽しいので、あちこちうろうろ。フォワグラは自分が
料理したことないので、特に難しい。チョコレート売り場も本当に広い。ポップ
な真四角の感じが今は流行ですがお土産にはどうかなとパス。メゾン・ド・ショコラ
等も空港にあるだろうからパス。マキシムやロートレックの絵のチョコなど選ぶ。

かなりの荷物を持って、タクシーを探すけれど、雨のせいかちょっと見あたらず。
タクシー乗り場よりも先にオペラ座の地下鉄乗り場に着いてしまう。
どうせ乗り換え無しなのでそのまま地下鉄で帰りました。良かったのは、
オペラ座の空港行きのバス乗り場が確認出来たこと。 タクシーで行くか
どうか迷っていたのですが最後まで、住んでいる人らしく頑張る事にしました。

頑張ると言っても息子の怪力頼りです。トランクは20キロ。他に大きなバッグが
10キロ。でもまぁ若い男性なら持てるでしょう。 ただただ私はオペラ座駅の階段の
多い通路をはらはら、はらはらしながら付いて歩く事になるでしょうが
その時決めました。 息子は自分が持つので絶対バスで行きたいと言って
いるし、この停留所が目に入るのもまぁそう言う事かなと。

パリのスケジュールはもう終わり。 2日後の深夜。3日後との日付変更線を越える
あたりに、家に帰り着いているはずです。夕食を軽く、ホテル前のカフェ
で取りながら、経由地ソウル(今度のトランジットは長いです)で何をしようかと
考えていました。
(写真はまだ雨が降っていない頃、グランパレから、アレキサンドル3世橋と
ナポレオンの棺が眠るアンヴァリッドを臨んで撮ったもの)




日本語検定試験
日本語検定試験を受けるので試験勉強をしている嫁の手助けをしようと孫を
何回か預かりました。いよいよ前々日、孫を迎えに行くと、嫁も一緒に来ようと
します。「一人の方が良く勉強出来ない?」と言うと何だか泣きそうに。何も
言わないのですが、雰囲気がおかしいので、すぐに「一緒の方がかえって
安心かも知れないからどうぞ」と車に乗り込みました。危ない危ない。
こちらは好意で老骨鞭打っているのに、寂しいのかも知れません。

息子に聞いたら、前回孫と泊まった日は帰ると部屋中がすごく綺麗に
掃除してあったとか。早く言ってくれれば、私も何か感じることが出来た
のに。嫁姑問題がないと喜んでいたけれど、実は崖っぷちの道を歩いているのだと
実感。本当に気を付けなければ。私なら小さい子を忘れて思いっきり
集中したいと思うのですが、異国で分身のような我が子と離されるのは
耐え難いのかも。いや、考えが足りないと反省。「気に染まない事があれば
言ってね」と頼みましたが、さてこちらがもっと気遣ってあげなくては。
難しいです。

パリ旅行を終えて2ヶ月。自然の懐に抱かれたいという思いが全然起こらない
のは、やっぱり思う存分充電出来たからでしょうか。なかなか安上がりです。
しかし、思えば失敗もありました。大きいのは、洗髪剤を忘れた事。
私の髪質は絶対にあちらのものは合いません。水のせいか、本当にしゃんと
洗えません。リンスもトリートメントもダメ。前回は忘れなかったのに、
今回はうっかりしました。美容院はもう一流中の一流へ行かないと何をされるか
分からない感じだし、一々シャンプーの人の顔を覚え、カットの人の顔を覚え、
帰るときにチップを渡して練り歩くのが苦手なので(格好良く、すっとやる
のは大変。金持ちマダムの芸術)、避けましたが意気が上がらなかったです。

後はブリッジを何故しなかったのかと言う事くらいでしょうか。
日常から離れたいのは確かですが、今度は少し遊んでみようと思います。
エルンストの絵のポスターをネットで注文しましたが、結局ソールドアウトで
手に入らず。絵はがきの写真を載せます。実際にはもう少し濃い青と黒。
背丈ほどある大きな絵です。(すみません、下部五角形の▽部分が写真で欠けました)



2人目が出来るそうです
秋が近く、もうホルモン剤をやめて半年です。何だか身体は大変元気で
病気1つせず、忙しくしています。仕事の他ブリッジして、宝塚と
韓国語とそれだけでも忙しいのに、鳴沢了シリーズとかベッキー
さんシリーズとか(分かる人は分かる)、筋を追って大変楽しい本が
多いし、歌舞伎は行くし色々楽しい事が多いです。でも一番の楽しみは
温泉。息子達に奢って貰ってこの夏に水上温泉に行ったのですが、本当に
楽しくて。孫をつぶさない様に寝たことも良い思い出。(高校生みたいな
書き方) さて、この前、嫁が妊娠7週間というニュースを持って
来ました。ふーん、役に立ったかなぁ(露骨)。

さて、今度は女の子かなと言う密かな楽しみに加え、ともかく私は
節句働きが好き。苦労が目の前に見えると妙に張り切り、生き甲斐を
感じる方。里が遠い嫁の為に一杯することありそう。シルバーウィーク
に悪阻中と聞けば、又孫と一緒に寝ました。 手は頭の方へ放り出し
足は開いてスースーと寝息を立てているかと思えば、その内グーグーと
いびきも。最初の内、怖いのでなるべく頭を低くして、段差を付けて
寝ていましたが、その内もう起きない事が分かったので、本当の
添い寝を。安らかで罪のない存在が側にあるので寝息を合わせて
居る内にすぐ寝てしまいました。

息子が海外出張というので、池袋のネット上評判のお店へ連れて行きました。
間口も狭く、えっという貧相さ(すみません)だったのですが、さすがに
良いコメントが付くだけあって、ふわっとしたちぢみの美味しかった事。
お好み焼きというよりもんじゃ焼きみたいなちぢみでした。ねぎは丸ごと
の長さで入っているし。小皿が一杯出るのが韓国料理屋の常ですが、これも
1つ1つすごく美味しくて。次の日、試験があったので、滅茶苦茶は飲む
事が出来なかったのが残念。孫は唐辛子で真っ赤になったの以外はビビンバ
も、海鮮鍋も何でも食べます。一番驚いたのは、隣に3人女性同士で食事
していたグループの一人に、屋上遊園地で貰ったカードをすたすた歩いて
行って、さっと渡した事。それも一番の美人に。ずっと可愛いねとか言って
貰っていたのは確かですが。これには、皆驚きました。あまりママ、ママと
執着しないのは2人目生まれる時にはとても良いことかも。





私の夢
誰にでも夢があると思うのですが、私にも幾つかあって、その一つに
フランス語の翻訳でどんな形でも良いから、私の名前が活字に
なればというのがありました。「女子学生亡国論」が華やかなりし頃
学生生活を送った身には頭のどこかに税金の無駄遣い
で終わってはならないと言う強迫観念がありました。

この5年間、17世紀フランス庭園に関する文献を訳して来て
これを参考にした研究をまとめた本が去年の秋、上梓されました。
「フランス式庭園の魅力とル・ノートルの世界」杉尾伸太郎著
ビオシティ社 です。
3800円もするのですが、写真も多く、ルイ14世が自ら書いた
「ヴェルサイュ庭園鑑賞法」を元に詳細な見所(みどころ)解説が
なされ、造園家であるル・ノートルが手がけた他の庭園、私の
大好きなヴォールヴィコント城庭園を始めとし、シャンティ、チュイルリー
フォンテンブロー、その他の庭園が解説されている楽しい本で、
名前をあとがきに書いて頂けただけで満足なのに2冊も頂戴した
ので、家宝にしなければと思っています。

これで、もう後は何人出来るか分からないけれど孫にフランス語を教えて
お役目ご免にさせて頂こう。何せ年のせいでキャパが限られていて
新しい語学を覚えたら、前のものはトコロテン式に押され出てしまう
ものらしい(言い訳です)ので、韓国語がどんどん入って来る今
もう維持は難しいでしょう。寂しい。やっぱり恩返しは難しそう。
しかし、先日学校の同窓会に出てきたのですが、皆さん主に
アフリカを中心にフランス語を駆使して大変な大活躍をした人
ばかりで安心しました。有り難い事で、まぁクラス全体では
貸し借りなしに成っていそうです。(何という理屈)

ハングルの壁は厚く、なかなか突破出来そうにないと思ったの
ですが、さすがに2年もやっていると、少しずつ慣れて来て
やっとやる気が出てきました。一日に5分やったら疲れて
しばらくやる気なくなる状態から、一時間は平気になり
別に疲れもありません。仏語を忘れる寂しさよりも、韓国語を
覚える興奮ですごく楽しいと言えます。
ただ、覚える力がすごく落ちていてがっかりします。絶対5年間
やったホルモン剤が悪さ(?)をしたに違い有りません。でも聞く力
ちょっとした子音の違いの聞き分けとかは、まぁやっぱり語学屋なので
(急に胸を張る)忘れていないので、例えば韓国語では、平音、濃音
激音の違いや、開いたオ、閉じたオ、混ざったオ(中間母音)など
色々複雑なので嫌気を誘うのですが、少しは分かって来ました。

ボゴシプタが「会いたい」ミッチルマンクム「気が狂うほど」。
チュグルテカジ「死ぬまで」。この辺は良く出る決まり文句。
歌詞が分かるのが一番うれしいです。あのハイトーン、感情移入
しまくりの歌の意味が分かるのが一番うれしい。何だか大げさかも
知れませんが、人間の声にあれほどの艶と熱があるのかと
感心する韓国歌謡。ドラマで出てくると必ず録音して、電車の
行き帰りに聞いています。
でも今は「エデンの東」の「セオリ カミョン」(歳月が過ぎれ
ば)が良いですね。ソン・スンホンのちょっと照れながら歌う
感じは我が国の石原裕次郎的な味があります。歌手の正統派
バラードにない味です。

韓国語の魅力の1つは、フランス語と同じで、隔てのない言い方が
パンマルというカテゴリーでちゃんとあって(フランス語の
Tutoyer ですね)、親しみがちゃんと表せる事ですね。言葉で
抱擁できると言うか。ドラマを見ていると、ある時点から雪解け
みたいに、するりと言葉が変わって、ぐっと近くなって行くように
感じます。良いですね。 全くもう使う宛てもないのにと思われ
ますか?いえいえ。韓国は家族愛も相当強いですから、男女だけ
でなく、大丈夫、使えます。次の夢は韓国語を駆使した自力の
韓国旅行です。叶うかなぁ。



湯布院へ行って来ました
春麗の候、気温が上がったり下がったり、本当に身体がおかしく
なりそうで、桜が長持ちするのは良いのですが困ったことです。
そんな中、九州は湯布院へ湯治に行ってきました。

羽田発11時頃の便で大分へ。春休みの土曜日。羽田はセキュリティ
チェックに長蛇の列。余裕もって羽田に着いていたのに、ぎりぎりの
搭乗となりました。1時間半のフライトはかなり揺れて大変。
でも、機長とキャビンアテンダントの挨拶がそれはそれは節度の
ある美声で感心しました。斜陽の美か。お体に気をつけて、楽しい
滞在をとか又ジャルに乗って下さいと言っているだけなのに、まるで
優しい孫にハグされているような、うっかり涙でも出そうな、感謝
と別れを惜しむ気持ちの表現のこんな上手いアナウンスは初めてです。
気取ったり、明るかったりは山ほど聞きましたが、本当に気持ちよくて
いきなり盛り上がりました。

空港でレンタカーして、大分空港道路から大分自動車道を一路湯布院へ。
1時間少しで着きます。高速は桜が片側ですが植えられていて、淡い
ピンクが15分位続きます。しかし、九州は車が少ない。ずっと
気楽でした。(ともかく、前に車が見えたら追い越さないと気が済まない
人がドライバーなので)

湯布院の街は結構狭い道が多いので、宿に着くまで大変。何万円単位の
事故寸前(こすり)になりながらやっと到着。
2階建ての宿で古いけれど設備は整っているという好みのタイプ。「山灯館」
という金鱗湖近くの宿です。少し散歩をすると、清里に似ているかなと思う
若向けのお店が多い。ガラス細工、とんぼ玉とかのお店や、あらゆるクラフト
類のお店がずらり。鄙びた温泉地かと思って来たのですが、有名所だけあって
人が多くて表通りは儲かってますオーラ満点のにぎわいでキラキラした所です。

ただし、由布岳のたたずまいと桜の咲き具合には癒されました。のんびり
していて。百聞は一見にしかず。写真をご覧下さい。ですので山を眺めて
ぼっとしていました。


さて、早々に宿へ帰って浴衣姿に。
お湯は弱アルカリ泉で、肩こり、神経痛に良いと書いてある。確かに
火山帯の中の活発な温泉という感じで、漬かった途端何とも言えない
捉えられ感がある。それでいて無臭だし、柔らかいのです。あぁ・・
良い気持ち。ふと目を上げると由布岳がちら見えします。時間のせいでも、
一人でこの空間を占有できるのはちょっと贅沢。お風呂は幾つもあるので
違う風呂へ。今度は目を上げると椿が一杯咲いている。こちらは少し
ぬるく、ただただ少しずつ自然にエネルギーを貰う感じ。あぁー極楽。

風邪薬やら、酔い止め薬やら色々持って来たほど忙しくて体力ガタ落ち
の毎日だったのに、何とも気持ちよく夕食が食べられそう。長いテーブル
型の炬燵に紺がすり(久留米絣よね)の布団が掛かっていて、楽しい。

生ビール2杯も飲んで冷酒もコップに2杯。料理は1品、二品と、
順番に持ってきてくれるので、熱いものは熱く食べられます。素晴らしい
サービスです。先付けも前菜もお刺身も豪華。でも粟餅の餡かけ
を初めて食べましたが、懐かしいのに上品で印象に残ったのはこれ。
特上豊後牛の石焼きがやっぱり美味しい。舌がとろける石焼きの後は
お箸を変えてくれました。タイミング良くアワビ等の酢の物が出て
桜鯛の真子や菜の花の蓋物が続く。木の芽の味噌がさっぱりしています。
稲庭うどん、ご飯、赤だし、デザート。完食でした。

又温泉に入って9時には寝てしまったそうで、「良く寝るな」と連れ合いに
一言言われました。おばあさんは仕方ないですね。



湯布院へ行って来ました(2)
仲居さんのピンポーンまで眠りこけ、ぐっと爽快。朝風呂の後、お粥と
ご飯が順番に出て来るなかなか起き立ての胃には優しい朝食でした。
香り高いコーヒーも良いタイミングで運ばれてしゃっきりしました。

晴れ上がって観光地は呼んでいるって感じ。まずはあの有名な九重夢の
大吊り橋へ。しかし、あの大空間に吊り橋を考えたそのアイデアはすごい。
(しかし、そのままにしておいて欲しかったような気もする<矛盾)
国や県の補助を受けず20億円を返し終えた。。うーんすごいです。でも
まぁ、一番高い所(173m)にある吊り橋と言われれば500円位払って
渡りますよね。 しかし、一旦渡り始めると、微妙な揺れで酔いそう。
歩いても歩いてもやっと中央(何しろ全長400m近い)。2つの滝が見え
ますし、滝音もしますが、肝心の渓谷の緑が、季節なのか冴えないので
単調。5分の3位で戻りました。

阿蘇山の方に回ります。しかしそれにしても、草千里も全体に茶色っぽい
感じ。やまなみハイウェイも、阿蘇ハイウェイも、回りは何だかススキ色。
季節なのか山紫水明は昔の話なのか。火口は、白い噴煙の端の方から、少し
エメラルドグリーンが覗く。風は向こうへ吹いているので匂いもせず。
しかし、高校でここへ来たときは、何だかもっと猛々しい雄大な景色だった
ように思いますが、普通の日常的な観光地ですね。大人になって年取って
色んな物見て、何も感動出来なくなるのはつまらないです。

それから日田の街を見に行きました。江戸幕府の天領地だった街。高山みたいに
京都みたいに、古い町屋が並んで残っています。お醤油屋さんで白だしとか
買ってみました。少し歩き回って帰途につきます。火山地帯のせいでしょうか。
気候のせいなのか、北の方が緑が深いのかなぁとずっと思いながらのドライブ
でした。

二日目の夜は露天風呂に入っていると、ぽとりと目の前に赤い椿が落ちました。
綺麗なので、お品書きと一緒に記念撮影。関鰺(セキアジ)の姿造りはまぁ
大分名物ですね。豊後牛のしゃぶしゃぶ(柔らかい焼き肉みたいな厚さの牛の
しゃぶしゃぶ>ほっぺた落ちる)、アワビの磯焼き、伊勢エビの炊き
合わせ、一品ずつ出てくるとうれしいものです。2室か3室掛け持ちでサーブ
していると言う話でしたがベテランさんで余裕しゃくしゃく。料理旅館という
感じでした。ゆっくり大河ドラマを見て、その後やっぱり、ほとんど記憶に
ないです。



新孫達がやって来た


これ以外の選択肢はあったのか無かったのか。
韓国嫁の2人目出産の産後を我が家で面倒見る事になって一週間。

嫁と赤ちゃんと2歳2ヶ月の海(かい=長男)との3週間が始まりました。
今回、少し母乳が出るようで、奮闘中の嫁には、赤ちゃんの事以外
何も出来ない様子。ふらふらで暇があったら寝ています。

夜遅い夫の食事は要らないし、自分もあまり家に居ないし、
ぐーたらやっていた我が身には180度違う毎日がやって来ました。

しかし、食事を作ったり、大量の洗濯、掃除はまぁ昔取った杵柄で
何とかなるのです。問題は海です。ぴょこぴょこ歩き、言葉はまだ
2,3音のものしか言えない。暇があれば「くっく」と言って
外へ出たがる。パソコンは鉛筆で突っつく。あらゆるスィッチは
小刻みに押したがる。(ガス台やビデオデッキも例外なく)
頭が重いので、初日にあがりまちから転落して玄関先のタイルで
顔全体に擦り傷、たんこぶ。昼寝から起きると機嫌の悪さがすごくて、
腕をピシャピシャ叩いて怒る。トイレにまたがると、ウォシュレット
のパネルを押して遊ぶ。

うーん。悪ガキというには、まだまだ幼い光線ピカピカで、それだけに
始末が悪い。所謂何の罪もない訳で、自分の子供なら、怒鳴って
お尻ペンペンで修羅場繰り広げ、スピーディに解決なんですが、
これが祖母となると、アプローチが自然に違って来るから不思議。

じっくり、見て、切りの良いところで他に注意をそらし、止めさせる
努力をする訳です。しかし、これは倍以上疲れる技。でも、自分の子育て
の時はあのあどけなさ、罪の無さを感じ取れなかったなとほろ苦い
反省もこめて、何となく瞬間湯沸かし器は作動出来なくて、ゆっくり
ぼーっとしています。

横になると、海は私の手をしっかり握りしめ口元に持っていく。
ある時は両手までクロスにがっちり押さえ込んで寝息を立てる孫。
何だか不思議。でも悪くはないです。



元気に彼女とも上手く行っています
私には息子2名居るはずなのですが、この所、長男の所に
いろいろ、いろいろ事件(?)が起こるので、息子は一人かと
思っていました(そんな馬鹿な)。 次男はある日、独身寮へ
移って以来、一度BMWを買ったからと横浜へドライブへ連れて
行ってくれたのが大事件。家族の行事には目立たず出席し、甥や姪には
誕生日祝い、お年玉をかかさない一見、優しい叔父さん。

先日、私の誕生日にメールが一通。「最近顔を出してませんが元気ですか」
に始まって、「元気に彼女とも上手く行ってます」とある。確か聞いた
話では、かなり高嶺の花で難しいとか言っていたのに。大丈夫かしら。
もう31歳のいい年。 密かに心配していた彼にもやっと春が来たのかしら。
何よりのプレゼントです。今度本当に誕生日祝いに来てくれた時には、
いろいろ聞き出さなければ。。オバサンはかなり盛り上がっております。

やっぱり息子とは言え、親がまだ社会に出ている間に結婚してくれるのは
親孝行です。なるべく若い内に孫を抱かせて欲しい、ついでに言うと。
長男の2人の孫で分かったのですが、やっぱり少しでも若いと身体を張れる。
そして身体を張らないと赤ちゃんを所謂アプリヴォワゼ(「星の王子様」に
出てくる良い意味の飼い慣らす)するのは難しい。 二番目の孫よりもその
2年前に生まれた最初の孫の方が何も言わなくても分かり合える気がします。

次男の所の孫は又、それはそれで新しい気持ちで抱いてみたいと思いますが
かなりへっぴり腰で抱くことになりそうなので、どうでしょうか。でも家族が増えて
行く事は本当になんだかうれしいです。しみじみしみじみうれしいです。色んな
事を想像したりしていますが、まずはどんな人なのかお会いしなくてはね。
前から「どんな人でもOK」というのは我が家の方針なので、最後の最後にしか
我々は会えないでしょう。まずは長男夫婦が会うのかな。
 



ソウル3泊2日旅行
夜の12時にホテルに着き、朝の5時過ぎにホテルを出る。。使えるのは
真ん中の2日だけでしたが、ソウルへ行ってきました。韓国ドラマでは
良く外国等へ行ってしまう恋人を追いかけて空港へ行く展開を見ますが
実際はかなり仁川は市内から遠いですね。羽田以上成田未満?1時間。
あんなに長い間、あせあせで車飛ばして、皆事故にならないものだと
改めて感心しました。それにしても市内に入ってびっくり。粗末な街並び
をどこに隠したのか、大変綺麗な街らしい。何しろ深夜なので良く分からない
けれど、マッポからカンナムそして中心区へ回って来たようです。

朝起きたら抜群の天気。ナムサンのNソウルタワーへ行く。ミョンドンのホテル
前からタクシーでケーブルカー乗り場まで。初乗り240円は安いです。模範
タクシーなんてそうは流していないから、普通のタクシーに乗りましたが、
言葉さえ通じたら、夫婦連れなので全然不安ないです。


ナムサンの頂上では、見張りの兵士達と昔の衣装に着替えて写真が撮れる。
見ているとかなり美人でも、現代のヘアスタイルと化粧では、あのケバケバしい彩りの
衣装には負けてしまいますね。ケーブルカーはすごく大きくて5分置き位に出ているのかな。
「私の名前はキムサムスン」「花より男子」等思い出しました。展望台からはハンガン
やカンナムが見えて、河岸の公園へ行きたいなと。これは「プラハの恋人」を思い出して
言っている。すぐにタクシーで回る事に。時間も時間なので土曜日なのに混んでいて
立体交差でぐるぐる回って大ドライブ。河岸でしばらく休む。広々とした川。ひっきり
なしにサイクリングやランニングするカップルが通る。広場で小さい子達がサッカーの
練習。見学の大人の方が多いのは、日本と同じかしら。アックジョンへ回りたい
けれど場所が分からないので聞いたら「歩くのはちょっときつい。バスで3停留所分」
らしい。タクシーに又乗る。ロデオ通りと指定したらちゃんと連れて行ってくれました。

代官山プラス自由が丘みたいな所。「天国の階段」で有名な「パスクッチ」に連れ合い
待たせて私はショッピングへ。カットが素敵な麻の黒のジャケット。さすがに3万5000円。
うーん。痩せる努力が少し要るので思いとどまりましたが、Lサイズなら格好良くて
体格に合うのがありそうと分かりうれしい。店員が親切かつ非常に腰が低い。
気持ち良いです。 昼食はミョンドン餃子の「カルクッス」と決めていたので又タクシー
で帰りました。20分くらい乗ったままですが、1万数千ウォン(1200円)で安いなと
思います。カルは包丁、クッスはうどんですから、手打ちうどんの上に餃子が乗っている
食べ物です。しかし有名店だけあって1時半頃は長蛇の列。2軒ミョンドンにあるのですが
両方とも、あまりにすごくてあきらめました。その辺のお店に入って「テンジャンチゲ」と
「ヘムルパジョン(海鮮チヂミ)」を食べる。おかずも一緒に出てきますから、2食分くらい
ありましたが、美味しくて完食。チヂミは、ぱりっとしていて中はもちもち。食感が良く
油の味を美味しいと感じる事は珍しいけど、美味しい。 味噌チゲの方は、昔田舎で
食べていた懐かしい味。おふくろの味。田んぼ、モーと言う牛の声が聞こえそう。
感激しました。

食事をしたら、連れ合いはマッサージへ。私はコスメショッピング。ミョンドンは新京極
(京都です)の様な狭い通りと心斎橋のようなちょっと広い通りが碁盤の目になっている
所。歩いても歩いてもお店、お店。何を買ってもおまけおまけが付いてくる。屋台も
一杯出てます。先ほど苦しい程食べたので味見出来なかったのは残念。若くて
ぴちぴちお肌の俳優さん達が看板のお店が多いです。イ・スンギ、キム・ヒョンジュン。
尋常じゃない大きさのパネル、数の多さもすごいですね。ちょっと辟易。
パリ・バゲットというパン屋のチェーン店が噴水広場にあるのですが、何故かバゲット
は売ってない。パリとバゲットの間にはエッフェル塔の絵があり、あまりにもベタな感じ。
これがソウル中に展開していて目に付く。。ちょっと減点。

夜は「ボクチョン(福清)」へヤンニョムカルビを食べに行く。私はサムギョプサル(豚の
3枚肉の分厚いの)も食べたい。ちゃんとエゴマの葉が付いてきてうれしい。
「トージュセヨ(もっと)」連発で、メッチュ(ビール)、サンチュ、にんにく、何度も貰い飲んで
食べてあぁ幸福。
でもお腹に余裕があるので「ユク フェ(肉の刺身ですね、文字通り、勿論ユッケと発音)」
も食べたい。順番が違うと連れ合いに馬鹿にされ、まぁお子様ランチのケチャップライス
くらい大盛りで来たのにはあせりましたが、美味しかったぁ。松の実と梨と油のバランス。
もう最高。「これペ(梨)ですよね」と店員さんに言ってから、韓国嫁の事まで話し
韓国語褒めて貰い最高に気分良し。ムルネンミョン(冷麺)まで食べて2人で6000円
くらい。外国客用値段だなと思いながら日本で食べられない味ですから、悔いはありません。



ソウル3泊2日(2)
昨晩はホテルの熱い大きいお風呂に入り、疲れが取れました。
ふっはーと起きあがり、すぐ鮑粥(チョンボクジュ)や野菜粥など
食べに行きました。9時からは市内観光バスに乗り込む。

知らない街へ来て時間が無い時は、このバスに乗るのが良いです。
全体が掴める。歴史が分かる。英語は小学校一年から必須で一生懸命
やって全然駄目だったけれど、日本語はすぐ喋れるようになったと
愛嬌振りまくガイドさんで楽しかったです。

それにしてもソウルの中心街はクァンファムン広場から、チョンゲジョン
キョンボックンとその回りのビル、ロッテ百貨店にかけて広々としていて
ヨーロッパの街を思わせる。「アイリス」でバスに核爆弾が仕掛けられた
場所です。道路幅が広いので歩きやすそう。
漢字は本当に見られないです。ハングルで○○化学、○○建設、○○銀行
とビルに書かれています。何だか漢字は古めかしいけれどハングルは記号
みたいで斬新なビルに結構合っている気がします。
 漢字追放の流れがあり、なるべく隣国の自分たちもカタカナの呼び名を
覚えた方が良さそうと、半世紀前中学校で「これからは、京城、釜山、平壌と
言う名前は忘れて、ソウル、プサン、ピョンヤンのカタカナ名だけ覚えて下さい」
と厳命してくれた地理の先生の事を思い出します。有り難い先生でした。

キョンボックンの瓦の屋根はなだらかな曲線。日本の屋根は直線、中国の屋根
は切り立っているのが特徴だとか。ほう、そう言えばそう。オンドルはオン=温
トル(石)の事か。王の象徴は龍だそうで、だから「龍の涙」か。一々ドラマに
帰るのがご愛敬。チョンワデ(大統領官邸)の裏の山の禿げているのは龍の眼
二つだそうで、龍に守られている風水的に最高の場所だそうです。衛兵の交代式
とか、チョンワデの警護兵とか、体格の良い若い子が一杯真面目に仕事して
いましたが、結構軍隊からも来ているらしい。普通は大学2年目に休学して入隊する。
軍隊へ行ってないと逆に就職の時まずいとか。芸能人は人気が出て稼いでしまう
まで行かないのでどうしても遅くなるとか。ペヨンジュンは目が悪いので行かなくて
良いとか。世間話の多いガイドさんでした。 博物館も行ってお昼に解散。
今日こそと「ミョンドン餃子」へ。食べられました。「美男ですね」でコミナムが
シヌに勧められて食べていた有名なカルクス。でも薄味でさほど美味しいものでも
なかったです。連れ合いがビビンミョンを食べて、こちらが辛く、丁度半分ずつ
で良かった位。

チョンゲジョンへお散歩に出かけました。爽やかな五月晴れ、風も吹いて気持ち
良い。「プラハの恋人」で大統領の娘が刑事に手を引いて貰って川を渡る夜の
シーンで有名。しかし本当にちゃちな所で、半歩しかないのに、手を引いて貰った
のですよ。許せないと一人で渡って思いながら、あぁそれが恋ねと納得。
滝があり、後は両側が散歩コースになっていて、皆ぞろぞろ歩いている。家族
連れも居ますが、70%、カップルだと思って良いです。 その内ジャグラーが
出て芸を披露。子供をいじってあっという間に大人気を博してます。 私は橋の
上から見ていたのですが、拍手一杯して結構長い間見ていました。楽しかった。

ロッテ百貨店、DUTYFREEでお買い物。何故か嫁のお土産ばかり。スルファスの
基礎化粧品が私には必須アイテム。ジャケットも買いました。女優が着そうな
素敵な(斬新)ワンピースなんかは8万円くらい。結構着られるのですが、さすがに
東北大地震の後、あまりの贅沢はいけないですよね。「アンニョンハシムニカ 
オソオシプシオ(こんにちは、いらっしゃいませ)」とずっと小鳥のようにさえずる
売り子嬢は疲れ知らずで徹底的につきあいが良く色々探してくれます。商魂逞しい
と言えばそれまでですが、やっぱり熱いなと。

夜は又焼き肉を食べ、ビールでお腹一杯になるのでマッコリを飲み幸福感一杯。
CDを探しに行って、アイリスの「イッチマラヨ(忘れないで)」を歌うペク・ジヨンの
ベスト盤を買いました。屋台では、日本語字幕のドラマを3万ウォン位で売ってますが
ちょっと手を出しかねる。(3000円は安すぎない?) 可愛い下着屋さんで「大きい
サイズありますか」と聞いたら、すぐにサイズ計ってくれて、いろいろ出してくれる。
生地が手触り良くて、なかなか安い。結構知られざる名店かも。それにしてもあれだけ
お店があって競争激しくて生き残るの大変でしょうね。

プサンの親戚からは、毎日色々届き、冷蔵庫に預かって貰う。意を決して電話で
お礼を言おうとしたら幸か不幸か番号を間違えていて「違います」と。「チャルモ
コッショスミダ(間違いました)チェソンハムニダ」と平謝り。こちらから
持って行ったお茶や羊羹なども宅急便で送りました。荷物に書いてある番号に
掛けて喋っていたら、どうやら叔母さんで菓子屋さんの人らしい。お姉さんとばかり
思っていたので、そこで韓国語ストップ。まだまだです。



次男結婚
我が家に新しい嫁が来ました。
父君は我が国の元大使。両家顔合わせで一度だけお会いしたけれど
実感もないまま、入籍、新婚生活が始まってもう3週間。結婚式は
今秋、パリのシャトー・デスクリモンで執り行う予定です。

勿論、大人同士(二人とも30歳前後)が結婚するのに親が出る
幕なんてない。最後はあれよあれよの展開で、引っ越しの日に
さすがに見に行ったら、前日から嫁の方はもう入っていて、結構
綺麗に片づいている。社宅というので若夫婦のつましい生活と
思って、スパゲッティの手製ソースやら持っていったのですが、特注
の食卓は8月に届くとか、すごくしゃれた椅子とか見せられ、余裕ね
とうれしいやら、心配することまるでないのも少し寂しい。

我が家では家族皆で誕生会をする伝統(?)ありですが、さて
暑い盛りに、大人6人、孫2人が新婚夫婦2人の為に集まりました。
二人の誕生日は10日以内に入っているので合同です。ちなみに長男
夫婦などは一日違いの仲の良さ。ちらし寿司、鯛の釜めし風をメーンに、
チャプチェ、焼き鳥、刺身、近所の畑で取れたばかりの枝豆と足りない
かなと思いつつ準備しました。ケーキは長男の手作りです。

そうそう、教育ママを自認する私は(「良い点取るぞテスト」
等を作成、積極的に教えました)、太宰治の小説で女の人が泣いたら
甘い物を食べさせると良いと書いてあったのに何だかピーンと来て
子供達に(多分中学生頃)、ケーキ作りまで「女性に将来もてる為」
と称して教え込んだのです。「彼女を泣かせたら、だまってケーキ
を作ると良い」など馬鹿な事を言って。本当に親は選べないとは
良く言ったもので、今考えるとかなり変わった親だと子供達は
判断出来る年ではなかったのが申し訳ない。でも長男、次男ともに
ケーキは焼けるようになり、今でも忙しくても作ってくれます。

そのケーキを8個に切った事(4人家族が8人家族になった)、
そして、嫁が一人増えたら、後かたづけがすごく早かった事。その
二つが印象的でした。小柄なんだけれども、能率良くさっさと
動く新嫁で感心。皆お腹一杯食べ、すごく飲み(私は冷酒をぐいぐい)
でもケーキは別腹でちゃんと食べ、あっという間の4時間でした。

次男が「ミョウガのおみそ汁が美味しい」と嫁の自慢をしていたと
後で聞き、何だか心配すること本当に無いのかもと思いました。
いや、基本的に不足一杯の息子ですので、本当に有り難いの一言。
長男も次男もこれで伴侶が決まったと言うこと。しみじみと有り難い
と思います。





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