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2000年の直木賞は、なかにし礼さんの「長崎ぶらぶら節」でした。歌詞は本の活字で読めても「長崎ぶらぶら節」の節まわしは聴けないが翌年には「長崎ぶらぶら節」は映画化されて、吉永小百合さん演ずる丸山芸者「愛八」の三味線で、懐かしい独特の節回しを四十数年ぶりに聴く事が出来た。
東京でも古い人間を相手に三味線弾きや日本舞踊の踊手を抱えた料理屋が方々に残っているが、座敷に置いてある小さな民謡歌集にもこの歌は載っていないし、リクエストして見ても、この曲はそうした三味線弾きのレパートリーにはなかった。
懐かしいと言った訳は、私の長い勤人生活が長崎で始まり、最初に「芸者」と言う女の人から教えてもらったのがこの「長崎ぶらぶら節」だったからだ。映画の効用で今や東京でも三味線弾きのレパートリーにも入れてもらったかどうか、賞味期限をとうに越えた定年老人には確かめる機会も未だない。どう言ういきさつで、どんな芸者からこの歌を習ったのか、この芸者の検番が丸山でなくて「花扇会」だと言っていたのだけは覚えているが、それだけで、あとは何もかも不確かな昔の話になってしまっている。その「ぶらぶら節」に次のような歌詞がある。
沖の台場は伊王島四郎ケ島 嘉永七年きのえの寅の年
入り来る異船は 四郎ケ島見物がてらに
すっぽんぽん オロシャがぶうらぶら
大筒小筒を ぶらりぶらりと
鳴らしたもんだいちゅう いうたもんだいちゅう
この二つの歌詞から嘉永七年という年に長崎にロシアの船が入港し、これに備えて沖合いの伊王島と四郎ケ島に砲台が作られていたことが判る。嘉永七年というのは1854年で、この年アメリカのペリー提督が黒船と騒がれた蒸気船七隻の艦隊を率いて東京湾に再び現れ、幕府に「日米和親条約」を押し付け、下田と函館のニ港を開港させている。徳川三百年間続いた鎖国がこの時破れた年である。
この年やって来たのはアメリカだけではない。プチャーチン提督率いる四隻のロシア艦隊が長崎港に入港し長崎奉行所で幕府と折衝したが、こちらの方は不調に終わっている。歌では異国船の大小の火器がすっぽんぽんと火を吹いた事になっているが、双方で撃ち合いになったという歴史的事実は無く、歌はれている通りロシアの水兵達が当時の要塞をぶらりぶらりと見物して廻ったという呑気な状況が実態らしい。
実は砲台が作られたという伊王島という離島が、何を隠そう私の職場だった島で、私がこの離島に赴任した昭和三十年、1955年、つまり嘉永七年から百年たった後、その島には砲台は跡形もなく、ただの痩せた畑地にそれと知らせる立て札が立っているだけだった。それでも砲台跡の高台から長崎港を望むと港は正に眼前にあり、大砲を据えるなら此処しかないと頷かせた。伊王島と言う島は、長崎湾に蓋をするように長崎港の沖合い10キロの海上に南北に浮かんでいる全長4キロの島で、長崎港を外海の波浪から守る自然の防波堤の役目を今でも果たしている。四郎ケ島というのは長崎湾を形成している岬の突端の港外6キロ地点にある小島で、長崎湾に侵入して来る異国船を真横から至近距離で狙える位置にある。しかしアメリカの黒船に備えた東京湾の品川のお台場同様、ここ長崎湾の砲台も、作っただけで、その後も実戦の記録はない。それから12年後の慶応2年1866年には、幕府が今度は英、仏、米、蘭の列強と結んだ江戸条約に従って全国八ケ所に灯台が設けられたが、その一つがなんとこの島にある。この伊王島灯台は砲台とは違って、港に入って来る異国船の安全を目的としているから、砲台の反対側の外海に向って島の端の高台に建てられた。日本には当時近代的灯台を建設する技術なぞなかったからブラントンという英国人技師の設計で灯台守りの住居とともに造られた。それから80年後の昭和二十年1945年8月9日、アメリカの飛行機が飛んで来て原子爆弾を投下していった際に、その爆風でドームの部分を残して塔が歪んでしまったので戦後建て直した。爆心地から小山一つ越えた長崎市の中心部が殆ど無傷なのに、海上はるか十数キロの石造りの灯台が壊れたというのだから不思議な気がする。何時になっても人間が考える事はあまり変わらないと見えて、第二次大戦中にはこの島に長崎防衛のため灯台のある高台に高射砲陣地が作られ、陸軍の一個中隊が兵舎を構えて駐屯していたが、原爆投下のB29には何の支障にもなっていなかったようだ。
島のたたずまいを地形的に正確に言うと、この島は伊王島と沖の島の二つの島から出来ていてこの二つの島は30メーターばかりの栄橋というなんの変哲もないコンクリートの橋で繋がっているが干潮時には地続きになる。ぶらぶら節の砲台やイギリス人が建てた灯台の他には、この島についてはこの辺の離島の例に漏れず、隠れキリシタンの島であった事と、円通寺という寺の境内に僧俊寛の墓碑と、それに並んで昭和10年51歳の北原白秋が何故かこの島にやってきて歌を読んだ記念の歌碑が立っているということが、物好きな僅かな人のあいだで知られている。縁起によればこの寺の起こりは宝暦五年1755に遡るらしい。船着き場周辺と島を繋いでいる橋の辺り一帯の住民は仏教徒だが、二つの島に別れた村落の住民はキリシタンでそれぞれに立派な教会がある。白秋の歌碑と俊寛の墓碑は船着き場の桟橋からすぐの高台にある。歌碑にある白秋の歌は「いにしえの流され人もかくありてすえいきどおり海をにらみき」というのだが、「平家物語」や「源平盛衰記」でも、僧俊寛が平氏転覆の陰謀が発覚して共謀者の二人とともに流されたのは、薩摩の鬼界ガ島、今の鹿児島県、奄美大島の喜界島で、流されて流刑三年ののち37歳で彼一人島に残されて死んだ事になっている。それがどうしてこの伊王島に墓碑があり、そうと信じた白秋ほどの歌人がわざわざやってきて歌碑を残したのか。桟橋は外海の波浪を避けるため島の内側、つまり長崎の方を向いているから、同じ側の歌碑のある高台に立って内海を睨んで見ても、いにしえの大悲劇の実感は全く湧いてこない。というのも右側には幅400メーターばかりの大中瀬戸という瀬戸の対岸には香焼島という島が迫っているが、その島の向こうは何時の頃からか対岸の長崎湾を構成する野毋半島と簡単に橋で繋いで地続きになっている。従ってこの瀬戸を渡って島伝いにその気になれば逃亡は充分可能と思われるからだ。歌心の粉飾がなければ絶海の孤島とは程遠い舞台の書き割りである。
一方教会はと言えば、南の沖の島の馬込部落には昭和6年に立った聖ミカエル天守堂というコンクリートのゴシック式教会が丘の上に佇立して、航行する船舶からも白亜の尖塔が目をひくが、最初に8坪の仮の聖堂が立ったのは明治4年1871年だというから、何事かあったはずだと気になるところだ。というのは長崎の大浦天守堂で250年ぶりに「信徒発見」となったのが慶応元年の1865年で、これで信徒が続々と名乗り出て来たが、その後の慶応4年4月、浦上の信徒3400人が捕らえられ、一村総流配となり拷問、虐待で613人が殉教するという「四番崩れ」が起きている。この弾圧は明治政府にも引き継がれ、やがて欧米の非難に抗し切れず政府がキリスト教解禁に踏み切ったのは明治6年1873年で、厳しい弾圧はそれまで続いた。馬込部落の仮聖堂が立ったのはその弾圧騒ぎの真只中のことになる訳だから唯事では済まなかったはずだが、この島にはそれらしい話しも記録も残っていないらしい。
北の島の伊王島の大明寺部落には可愛らしい聖パウロ教会という巡回教会が島の頂きに立っている。それまで有った古い教会は明治12年に立ったもので、外観は民家風で中に入ると天井はヨーロッパ風の蝙蝠天井という珍しい建築物で、国宝の大浦天守堂に次ぐ現存する日本最古のゴシック式木造建築といううので、今では愛知県犬山市の明治村に引き取られて復元されているという。今になってみれば貴重な客寄せの観光資源だったものを、信徒がどうして手放してしまったのか、聞いて見てもその辺の事情はいまひとつはっきりしない。
円通寺の檀家が約450人、聖ミカエルの信徒が650人、聖パウロの信徒が300人で全人口1400人の過疎の島伊王島町の歴史に人口が最盛期7300人に膨れ上がる出来事がもち上がったのは地の底からだった。伊王島から更に沖合い5キロに高島という島がある。この島は昔から石炭が出るので知られていた。五平太という漁師が島で焚き火をしたらそこいらの石ころに火がついたというので宝永7年1710年から手掘りの採炭が始まっていたが、幕末これに目をつけたトーマス、グラバーという英国商人が肥前藩と合弁で採掘に参加、明治2年蒸気機関で竪坑を掘削し炭丈8尺の炭層を掘り当てた。やがてグラバー商会破産とともに経営権は岩崎弥太郎率いる三菱財閥に移り、昭和61年1986年閉山するまで日本最古、最大の炭鉱として栄えた。ちなみに、「長崎ぶらぶら節」の芸者「愛八」はこの高島の納屋制という監獄部屋からから島抜けしてきた鉱夫の捨て子という設定になっている。そこでこの高島炭田に属する隣りの伊王島もほうっては置かれずに、明治時代に外国人や日本の三井系の会社が砂岩で出来たこの島のあちこちを試錐機で突つき廻して見たが全部はずれで、この島は炭気の全く無い駄目島と判定され大正時代は放っておかれで無事だったが、昭和になって諦めの悪い会社が最後に打った6本の試錐のうち3本が、従来の定説を覆して着炭し、開坑したのが昭和16年。炭鉱の操業開始とともにやがて島の外観は一変していった。 沖の島の長崎港側に石炭積み込みの岸壁が作られ、鉄骨の積込機の背後には石炭の貯炭ヤードに恐竜のようなスタッカーで石炭の山が積み上げられて幾つもの黒い山を築き、海底に蟻の巣のように掘られた延長十数キロに及ぶ坑道を支える木枠の松丸太が貯木場に延々と積まれ、海から見ると聖ミカエル天守堂は上半分の尖塔しか見えなくなった。その上の丘の中腹には無骨なトタン張りの洗炭場や、病院、変電所、事務所等が立ち並び、高圧送電線の鉄塔が山腹に何本もそそり立ち、昔の隠れキリシタンの島の面影は全く消えてしまった。私は昭和30年からその事務所の経理課の新入社員として働いていたのだが、東京丸の内の会社に就職した積もりが、隠れキリシタンの島に俊寛僧都のように流されて来たのは、入社決定後に私の就職した会社が会社案内にはなかったこの島の会社を合併したからである。最盛期には島の人口が7300人に達したが、人口増加の初期には島の住民の給水は「亀丸」という水運搬船では賄ってきたが、ついに賄い切れなくなって対岸の野母半島の土井の首と言う所から海底水道で水を引く大工事も行なった。この「亀丸」という船は矩形の水槽にエンジンと操舵室を載せただけの鉄製の箱で、水を注入すると見る見る甲板迄水中に沈み、「何か起きたら何時でも沈んでやるぞという亀のような姿で水面すれすれを移動するが、少し波が立つと運休となる。海底水道が完成して島の住民はヨード色の海水風呂から解放された。坑内から石炭と一緒に掘り出される膨大な量のボタで海は次々に埋め立てられ、その上には従業員やその家族の為の鉄筋のアパートが何棟も立ち並び、やがて広い野球場やテニスコートも出来て、会社名と島名を冠した本格的ノンプロ実業団野球のチームまで結成された。しかし石炭全盛期の昭和30年代が過ぎると石炭産業は決して再び春を迎える事のない40年代の冬の時代に突入した。30年代のエネルギー供給量の比率は石炭50%に対し石油19%だったものが40年度には28%対56%と完全に逆転した。そうなるともう転落の勢いは止まらない。炭鉱でも自分で掘った石炭で石炭ストーブを焚いている所なぞ一ケ所も無かった。みな便利な石油ストーブを焚いていた。石炭は扱いが不便な上に値段も高い、時代遅れのエネルギーに転落した。これは伊王島だけに起こった現象ではなく、全国的なエネルギー革命の渦であった。高島、伊王島をはじめ長崎県の西彼杵(にしそのき)半島沿いの長崎から50キロ以内の離島、端島、大島、崎戸島、松島、池島では海底から石炭を掘り出していたが平成13年までに残らず閉山した。いずこも悲惨なガス爆発、水没、炭じん爆発などの事故と熾烈な労働争議の歴史を閉じた。伊王島は1965年昭和60年ガス爆発で30人の死者を出し、1972年昭和47年、30年の短い炭坑の歴史を閉じた。最後まで残ったのは遠藤周作の「沈黙」の舞台となった外海(そとめ)町の沖合いにある池島炭坑だったが、これも昨年2001年閉山となり、日本で残ったのは北海道の大平洋炭坑ただ一つと報道されたが、これも今年の1月末を以って閉山となり、日本における炭坑の歴史はここに終焉した。
私の会社には30年以上勤続すると報賞として夫婦で旅行する費用を一定額補助してくれる制度が有る。私は自分の金を出してまで行く所ではないような気がしていたので、話しばかりで連れて行ったことのない長崎と伊王島への旅行に利用する事にした。炭坑が閉山した後、平成元年1988年、閉山から12年後に沖の島に第三セクターが「ルネサンス長崎、伊王島」というリゾートホテルを建てたという話を聞いたので宿泊で困る事は無いと知り、会社の総務課から割引券を貰って出かけた。伊王島に行き着くまでの途中、有田の陶器市で結婚記念と称してデイナーセットを買わせられたり、長崎のホテル泊まりの史跡見物で補助金の大半は消えていた。金を払ってから何年目の結婚記念かと確かめると、妻は今年で36年目だと言った。長崎港の大波止からエメラルド、クイーン号という高速艇に乗る。二階の特別室は妻と私の二人きりだが、階あ下の席もがらがらである。こんな船は昔はなかった。島まで20分足らずというが、昔は「ぶらぶら節」にある四郎ケ島の手前の神の島など二ケ所に寄港して荷の積みおろしをしたから小一時間かかったものだ。早すぎて沿岸の「山手」の眺めを妻に説明する暇も無い。あっという間に船の右手の伊王島側に白壁にオレンジ色の瓦屋根を載せたスペイン風の二階建ての聚落が近ずいてくる。左の沖の島の中央には聖ミカエル教会の白亜のゴシックの尖塔が海辺の光りに映えてひときわ聳え立って見える。この泰西名画のような伊王島の風景は私にとっては初めて見るものだった。スペインのヴィラの辺にはたしか黒ずんだ炭坑夫の炭住やアパートなどがあったはずだ。教会の前面の石炭積出し港の鉄骨類は綺麗に取り払われ、積んであった石炭や坑木の山は消えている。港の岸壁にはここをマリーナにしてヨットやクルージングの拠点にする計画があると聞いたが、メーカー提供の小型のヨットの実物が宣伝用の見本として台の上に飾られているのが見える。目を上げて沖の島の山腹を見ると有ったはずの炭坑の諸設備は忽然と消えている。廃墟では観光に不都合というので誰かの負担で撤去したのだろううが、閉山から12年の歳月は其処をただの緑の台地に変えている。目をつぶれば簡単に昔の炭坑のたたずまいが浮かんで来る私にとって、眼前にひろがる景色は白昼夢のような驚きだった。
スペイン風ホテルの部屋は、一部屋のなかにトイレが二ケ所、ダブルベッドが二つあり、その気になれば妻とふざけて隠れんぼが出来そうな部屋だが残念ながらその歳はとうに過ぎている。夕食に食堂に下りてシェフのリコメンデーシヨンでグラスワインとスペイン風のパエリアを頼む。客は我々の外にふた組みしか居ない。昼間は12面ある室内テニス場は若い人達で大いに賑わっていたはずだと思って聞くと、最後の船便に遅れまいとして皆逃げるように帰ってしまうのだと言う。船便が無くなったあとの島に残ったのでは島流しである。島の中で時間を潰す事になるがホテルを一歩外に出ると暗闇の中で波の音がするだけで外には何ひとつ無い。灯りにたかる夏の夜の虫のような若者達にとっては、何もする事のない夏の夜の島は閉塞感が募るばかりだろう。もうあまり話す事もなくなっている老夫婦にとってさえ時間はもて余し気味で、ふと食堂のガラス張りの壁の外を見ると子犬のような少動物がジッとこちらを見ている。聞くと子狸だという。この島には炭坑閉鎖後狸が繁殖して戸外のカフェテリアには下に落ちた客の食い残しのポテトチップなどに狸が大挙して押し掛け、残してゆくたぬきの糞を掃除するのが大変だとこぼしている。炭坑華やかなりし頃、野生の狸が出没するなどと言う話は聞いた事がない。しかし私が寝泊まりしていた独身寮の前の広場には動物園のよううな檻があって、その中に何匹かの狸が飼われていたのは覚えている。誰が飼育するのか雑食の狸に真っ赤な目をした生の鰯などの小魚が投げ入れられていて生臭いにおいがしていた。どういうわけか狸の餌を狙って島のカラスが何処からか檻の中に潜り込んでいるのをみて檻を蹴飛ばして脅した記憶が有る。もう何十年も前の話だが、私には確信があった。狸の寿命は知らないが今跳梁跋扈しているこの動物はあの檻から解放された狸の子孫に違いない。妻はどうでもいいと言うような気のないあい槌をうってくれた。
更にその数年後になる今回、この稿のために長崎ルネサンス、伊王島のホームページにアクセスしたところ、次のような情報が返って来た。「平成元年創業の長崎ルネサンスは客足が伸びず、その外観から「ホテル、エスパーニャ」と改名して客寄せに努めたが、これ以上の事業の継続は困難と判断し今般長崎地方裁判所に特別精算を申し出た。負債額は約百億円。本年一月以降営業は停止する。現在数社と売却交渉中」このリゾート事業も13年で終焉を迎える公算が大ということになる。
将来この島はどうなるのか。灯台と教会の原風景の昔に戻るほかないだろう。アクセスついでにリンクした記事に私は笑ってしまった。泊まりに来た長崎の大学の先生の「人間の数より狸の数の方が多い小さな島」という無責任な発言に対し町の助役が憤然として「狸は百匹しかいない」とキッパリ反論したという。私はふと「長崎ぶらぶら節」の伊王島編に作詞家のなかにし礼さんの向こうを張って自家製の一節を勝手に追加した。
伊王島の名所は 灯台、耶蘇御堂(やそみどう)
島じゅうの狸の父子が
キンタマぶうらぶら
ぶらりぶらりと
いうたもんだいちゅう
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