狸 風 呂

   三方を蔵王連峰に囲まれた花房山の中腹にある青根温泉の不忘閣に泊まった。ここは昔伊達藩62万石の保養所で青根御殿と呼ばれていて、藩主の伊達政宗も湯治に通った由緒ある宿だという。湯舟は450年前、大きな石を切り出して石工が2年がかりで組み上げたというプールのような堅牢豪華な浴槽である。昔は殿様、奥方様、お局様、みんな一緒に入ったのかどうか。それが今や不粋な板壁で真二つに仕切られてしまっている。
 人里離れた雪の中の温泉宿で、時折木の枝からドサッと雪が落ちる気配がするだけの深閑としている夜更けに思い立って一風呂浴びようと思い立ったと思って下さい。斜面の山肌に沿った長い檜の木造りの渡り廊下を下り、突き当たりの木戸を開けると湯殿の脱衣場である。ガラス越しにもうもうと湯気に煙る内部ではどうやら先客が一名浴槽で湯を使う水音がしている。こんな夜更けに物好きなと思いながら着物を脱ぎかけて気がついた。先客が脱いだはずの着物がない。嫌な予感がして丹念に見回すがどこにも見当たらない。では今湯につかっているのは何者か。この寒空に裸で来て着物も脱がずにドブンと湯に入れるのは狸か狐かとしか考えようが無いではないか。ガラス戸を開けてこわごわ湯舟を覗くと湯煙りの中に確かに人の形をしたものが湯の中から手ぬぐいを載せた頭を出している。湯舟の端の方からおそるおそる「今晩わ」と声をかけてみると「今晩わ」と何者かが愛想の良い人間の年寄りの声をして答える。声の調子からして取って喰おうなどという敵意は感じ取れないので少しばかり安堵する。私は其の正体は狸に相違ないと確信した。狸の方が騙しそこなったり化けそこなってドジなところが狐より愛嬌があって安心だと思いたかったのだと思う。心配は他にあった。風呂につかりながら考えたことは狸と一緒に風呂に入ったと言っても周りの人間は絶対に信じてくれないだろうということだ。私には同じような出来事で苦い経験をしていた。
 その出来事というのは私にとっては今回同様、信ずるとか信じないとかいう段階の話ではなかった。信ずるというのは頭の脳味噌の仕事だが私はこの目で見てしまったのだ。私ばかりではない私の妻も見ている。夫婦間のアリバイの証明は法的に無効だという向きもあるだろうが、たまたまその日訪ねて来てその場に居合わせた妻の友人もその目で確かに見たと証言している。私の家は斜面に建っていてその町の商店街の見当の方角に風呂屋の煙突が一本立っているのが望まれる。その煙突を杭にして船を繋ぎ止めたような格好で強烈なオレンジ色の巨大な算盤玉のような飛行物体が空中に浮かんで停止していたのだ。
「あれは確かにUFOだ」
「間違いない」後日のためを意識し居合わせた3人で確認し合った。希有の体験を共有出来た幸運で三人は興奮状態だった。
UFOは杭に繋がれたボートのように煙突から離れずに暫く止まっていたが、やがて頃合だという風に凄まじいオレンジ色の光芒を残して消え去った。
「UFOって本当にあるのね」暫く経って夢から醒めたように妻が言った。
 私はその話を会社で触れ回ったた事を後悔している。只でさえ普段からお喋り男というレッテルの上に「ほら吹き」の汚名までが加わった。
 ここでまた「狸と一緒に風呂に入った」話しなぞしようものなら何を言われるか分からない。しかし誰が何と言おうと、この真冬の寒空に何処からともなく裸で現れて、風呂につかっている者の正体は狐狸もののけの類いとしか考えようがないではないか。生憎、UFOの時のように証人は居合わせない。風呂に首まで漬かって、極楽気分でいる積もりが、実は狸に化かされて雪の中に首だけ出して埋まっていて、気がついたら凍死していたなんて事ではないのか。私は決心して人を呼びに行く事にした。この時間でも玄関の帳場には誰かがいるはずだ。
 帳場には大きな石油ストーブがガンガン燃えていて玄関番らしいじいさんが火の番をしていた。
「風呂に入ったら、誰か居るんだけどなあ」まさか狸とも言えず私は言った。
「さっき鍛冶屋のじいさんが入って行きましたが、それでしょう」
「だって着物が脱いでないよ」
「この湯はお泊まりのお客さんだけでなく、入浴料さえ払えば誰でも入れるんです。宿泊客とは反対側に入り口と脱衣所があって外からでも入れるんですよ」
 廊下を渡って部屋に戻りながら私は声を立てて笑った。

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