鑑真和上と遣唐使

  鑑真和上 

  

 俳聖といはれる松尾芭蕉は「奥の細道」をはじめとする五つの紀行文をのこしているが、元禄元年(1688年)芭蕉45歳のときの紀行文に「笈の小文」というのがある。その中でその年の4月8日、春たけなはの奈良で、唐招提寺に参詣した芭蕉が「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹き入りて、つひに御目盲させたまふ尊像を拝して」と前置きして

若葉して御目の雫ぬぐはばや。(わかばして おんめのしずく ぬぐわばや)

という句を残している。芭蕉の前置きにある唐(618〜907年)の高僧鑑真和上の来朝は754年のことで、奈良の大仏開眼供養の2年後のことだから奈良仏教の最盛期の今から1250年前の事である。芭蕉がこの像の前に立って句を詠んだのは鑑真さんが来朝してから1000年以上たった江戸時代であるが、江戸時代には戒律を伝えるために12年間の艱難辛苦のすえに来日した渡来僧としての鑑真の存在はほとんど忘れられていたらしい。というのは鑑真の伝記の「唐大和上東征伝」の「東征」という言葉の本来の意味が中国語ではただ「東に行く」ということなのに、それを「東(日本)を征服する」と誤解されて発禁処分になったため、庶民には本来の仏教の事蹟が伝わらなくなっていたためだという。鑑真は医学にも精通していて本草学を究めており、匂いで日本の薬物の真贋を嗅ぎ分けることができ、日本の漢方薬の元祖と伝えられていたから、江戸時代に街なかで漢方薬を買うと、その包み紙には鑑真さんの絵が印刷されていたというから、江戸時代の庶民には鑑真さんは仁丹の看板のような知られ方をしていたようだ。薬のほかには、聖武天皇が「ウマイ」と誉めた味噌と豆腐も鑑真さん日本にもって来たらしい。芭蕉の句の前置きを見れば分かるように知識人の芭蕉は戒律伝承の事蹟をふまえて、鑑真さんと相対しているが奈良に数ある名刹の中でなぜ唐招提寺だったのだろう。これはなぜ鑑真さんが命の危険をおかし盲目になってまで日本に渡って来たのかという疑問と同じで諸説がある。後世、日本の学者の中の有力な説として「実は鑑真はスパイだった」などというのもある。それほど鑑真の渡日の動機は謎に包まれている。謎というのはその行動が普通の人間の理解の限度を遥かに越えているからである。一方芭蕉も伊賀の出身だというので、諸国諸藩を巡り歩くのは「実は芭蕉は幕府の隠密だった」という説も聞こえてくる。ということは1000年をへだててスパイと隠密が相対したということになる。 
 
 鑑真さんが戒律を伝えるために日本に来た動機についての通説としては天平5年(733年)第9次遣唐使船で入唐した二人の留学僧 栄叡と普照に仏法宣布の願いを懇請された鑑真が、衆僧の前で、「誰かわが講席に列(つらな)った弟子の中に日本に伝法に行く者はないか」と問うたが衆僧黙然として、唯一人こたえる者がいない。そこで鑑真は「誰も行かぬのなら私が行く」と言って戒律の大徳の日本行きが決ったとある。これが天平14年(742年)鑑真55歳の時のこと。そのご私的な出國禁止令下での密出国のため弟子による密告、役人の妨害などで3度。航海中の遭難のため2度。計5度の渡航失敗の挙げ句63歳で失明した。そして67歳を迎えた天平勝宝4年(753年)藤原清河を大使とする第19次遣唐使の帰路に密かに便乗して遣唐使船の中にかくまわれた鑑真と直弟子17名ほか合計21名は、薩摩の国、阿多郡秋妻屋の浦(現在の坊津秋目)に到着し、日本上陸の第一歩を印した。発意してから、実に11年目のことである。天平勝宝6年(754)の2月に奈良の都に到着し、天平宝字2年(758)71歳のとき、大和上の尊号を賜り、聖武天皇・光明皇后を始め、多くの僧が大仏殿前で授戒を受け、翌年、律学の根本道場として唐招提寺が創建された。日本中の僧侶が集まって戒律の修学がなされ、日本仏 教の面目が一新されたといわれる。天平宝字7年(763)の5月6日、 結跏趺坐(けっかふざ)のまま鑑真大和上入寂。行年76歳だった。というのが鑑真さんの事蹟である。なぜそんなにしてまで来日にこだわったのか。留学僧の招請も含め諸説紛々として納得できる決め手がない。だから私は「鑑真さんという人は、一度言い出したら最後、意地でもひかない、頑固者だったに違いない」と思うことにした。誰か行く者はいないかと言った時は誰一人行かず、俺が行くと言った途端21人も付いてくるというのは一体どういうことだ。そんなことならお前達だけで行けとは今更言えなかったろう。この稿を書くに当って私は2月に上野の東京国立博物館で開催された唐招提寺展で長年待望の鑑真和上の実像と始めて対面した。悟りすました聖の顔ではない。顔は古武士、体つきは沖仲仕である。やっぱりそうだたかと思った途端、なぜか込み上げるようなものがあってその場に立ちつくした。

 
  
遣唐使

  

 鑑真和上を語ろうとして調べるうちに遣唐使という死と祖国喪失の危険と隣り合わせの2500年前の人間集団の存在にゆき会えたのははまことに幸運であった。
 遣唐使の航海が如何に危険なものだったか。遣唐使船の派遣は18回計画されたが3回の中止があり実際には630年から838年までの208年間で実際に派遣されたのは15回、派遣の間隔は平均14年、最長では34年というのもあるから遣唐使船だけを頼りにして帰国を考えていると一便乗り遅れると一生に日本には帰れない。帰る帰れないというのは生きている人間のことであって、この間遣唐使船の数は40余隻その中で12隻が難破して海の藻くずとなっている。遭難船は出航した船の3分の1で、3人に一人は死んでいる。当時遣唐使船は「四船」と呼ばれていたが正に「死の船」だったのだ。何故こんなに難破するのか。遣唐使船以外にも唐との交易は当然あって船の行き来はあった。弘法大師空海は入唐の二年後、國使高階真人の船に便乗して無事帰国、最澄にいたっては別便で翌年に早々と帰国している。彼等が入唐した第16次の次の17次遣唐使船は32年後のことだったから、そんなものを待っていたのては死ぬまで日本には帰れない。そしてこの17次遣唐使が最期の遣唐使となった。56年後の894年に計画された18次の遣唐使船の大使に任命された菅原道真が唐の国勢の衰微と道中の危険を理由に遣唐使の中止を上奏しこれがいれられたからである。遣唐使は894(白紙)と覚えた記憶がある。後世の研究によると遣唐使船が難破し易いのは、国威を誇示しようとして、見栄をはって造船技術以上の大型船を建造したことと、航海術の拙劣だったのが原因で、このため難破は船が真ん中からまっ二つに折れて舳先と船艫が別々に漂着したという記録が数多く見られる。
 
 遣唐使について全部を語るわけにはゆかないから、鑑真和上を乗せて日本に帰りついた第10次遣唐使についてだけその顛末を調べてみた。
 この4艘からなる船団は天平勝宝4年(752年)難波を出航した。大使は藤原清河、副使は大伴古麻呂と吉備真備以下乗り組み員総勢230人が4隻の船に分乗していた。帰路の船団には鑑真一行と36年ぶりに故国に唐側の使節として一時帰国する阿部仲麻呂が加わっていた。

 藤原清河(ふじわらのきよかわ)

 この人はついに日本には帰れず、唐の高官としてその生涯を閉じることになった。光明皇后の甥の清河は藤原氏から出た最初の遣唐大使であった。清河の一行が唐の長安に入ったのは751年玄宗皇帝の時である。滞在中の長安で清河は玄宗皇帝に鑑真の来日を請うたが、断られている。しかし帰路清河は楊州に立ち寄り密かに鑑真一行を連れ出した。これが鑑真来日の動機のうちの遣唐使の招請説の根拠である。彼は鑑真一行を自分の第1船に乗せた。ところが同乗者の中に36年ぶりに日本に帰る阿部仲麻呂がいた。かれの立場は唐側の使節であったから、恩顧のある皇帝の意に逆らって鑑真の密出国をほう助するのは如何なものかと清河を説得し、翻意した清河は鑑真一行とその荷物の総てを船から浜に下ろしてしまった。これが遣唐使招請説を否定する論拠である。この時の鑑真の嘆きは東征伝のなかで胸痛む話として語られている。鑑真を下ろした清河の船はそのバチか沖縄に辿り着いてから漂流し安南に流され、ついに日本には帰ってこなかった。その後漂着者の中に清河の名があり、生存が確認されたので、清河を迎えるために7年後の759年に第11次遣唐使が一隻で迎えに行ったが、玄宗に気に入られていた清河の帰国は皇帝の許しが出ず、迎えの船はむなしく帰還している。清河の中国名は河清であった。帰国の機会をうしなった清河は天子の文庫長、秘書監という高官に上りつめて生涯を終えている。ところで、止むなく唐に留まっている間に彼は唐の女との間に一女を儲けている。ベトナムから生還してのち唐朝に客卿として仕えた清河に対し玄宗皇帝はその「中華敬慕」の志を愛でて、名家の唐女を嫁がせたものと思われる。50前後でもうけた子なので喜びのあまり喜娘(きじょう)と名ずけた。混血の美しい娘だったと思いたい。父清河が没した時、彼女は20才前後になっていたろう。彼女が宝亀9年(778)に第14次遣唐使船の帰国に便乗して父の國に旅立った。この船団も嵐にあい、第1船の大使と唐の使節以下は溺死している。喜娘はやっとのことで天草に漂着した。日本に辿り着いた喜娘の動静は不明である。しかし唐招提寺の直ぐ北側にあった清河の屋敷を済恩院という寺にして、その一部の建物を唐招提寺に寄進したのはこの女性だとされている。

 大伴古麻呂(おおとものこまろ)

「これは日本の恥だ」と言って、荷物ごと船から下ろされて嘆いている鑑真を独断で自分の船に乗船させ日本に密出国させたのは、ひとえにこの大伴古麻呂のおかげである。彼は二回目の入唐で最初は733年の第9次の遣唐使派遣の時である。この時彼は「大乗教」を日本に持ち帰っている。武道家であるこの気骨漢は藤原氏に対抗して大伴氏の中央での復権を目指したが、陸奥に左遷され、赴任途中の美濃国で謀反を起こし不破関の閉鎖を図るが失敗。逮捕されて拷問を受け757年鑑真を連れ帰った僅か3年後にはその悲運の生涯を閉じている。

 吉備真備(きびのまきび)

 吉備真備の最初の入唐は25歳で、717年の第8次遣唐使の時で爾来17年間留学し42歳で帰国、今回752年の第10次遣唐使では60歳で晴れて副大使として乗り込んで来た。彼は83歳で死ぬまで日本では学者として尊敬を集めたばかりでなく、最終的には大納言、正二位、右大臣となり83歳で波瀾に満ちた生涯を閉じている。
 時代は下って鎌倉時代の有名な説話集「宇治拾遺物語」に「今は昔」で始まる説話第14巻「魚養の事」(うおかいのこと)にこの吉備大臣が出てくる。真備が唐にいる間に唐の女との間に男子をもうけたのだという。25歳から42歳の男盛りだから、勉強しながらでも子供ぐらい幾らでも作れただろう。しかし子供が物心つくころ父親は唐に母子を残して故国に帰還した。当時唐では国際結婚は大目に見られたが、その妻子を伴って帰国することは禁じられていた。母親は遣唐使やその他の船便が着くたび、帰ってしまった男からなにか便りはないかと尋ねるがいつかな便りがない。ピンカートンとマダムバタフライである。中国の女は気が強いから、ついに腹をたてた母親はその子供の首に「遣唐使なにがしの子」という名札をつけて海に流した。すると大きな魚が現れて子供を背中に乗せて日本の海岸まで泳いで行き、偶然通りかかった父親と巡り会う。この稚児は海中の大魚に助けられた事にちなんで「魚養」(うおかい)と名ずけられ、子供を無事ひろった事を母親にも伝えてやったから女も大いに喜んだというお話である。
 そのあとを受けるのが「続日本紀」である。「続日本紀」にはこの「魚養」が実在の人物として登場してくる。忍海原連魚養(おしぬみのはらのむらじうおかい)という人物がそれである。如何にも大海原を魚の背に乗って渡ってきたという人に相応しい名前である。記録によればこの人は788年漢方を統括する典薬頭に就任している。同時に他の混血児同様に学問の素養があり、能書家であり、彼の書いた遍額が多数残っている。というのだから、数奇な運命に翻弄された混血児の「喜娘」といい「魚養」といい、伝聞、説話と史書とのこのへだたりは、後世の我々にとってはまことに楽しい空想に満ちた空間であると言へる。

 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
 
 「天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも」という歌は36年の在唐の後、玄宗皇帝の許しを得てやっと第10次遣唐使の唐側の使節として一時帰国を許された仲麻呂が帰国の船出に際して詠った歌とされている。彼が19歳で入唐したのは吉備真備と同じ717年の第8次遣唐使の時でこの第10次遣唐使の帰国が763年だから36年間ものあいだ唐に暮らしていたことになる。あまた数ある留学生の中でも、正式に大学で学問をおさめ、官吏登用試験の科挙に合格して唐に仕えて一生を終えたのはこの人一人である。しかし彼はついに三笠の山に出る月を見る事はできなかった。唐の高級官僚の彼が鑑真の密出国を黙視できず、清河を説得して鑑真を下ろしたことは彼にとっても鑑真さんにとっても結果的には運命の大きな賭けであった。というのは仲麻呂の乗った清河の第1船は難破してベトナム北部に打ち上げられている。もし鑑真がそのまま清河の船に乗っていたら鑑真の6回目の渡日の企ても失敗に終わり終止符をうった可能性は大いにあった。他方、べトマムに漂着した仲麻呂と清河が密國者の鑑真一党と一緒だったことが判明したら、お気に入りのこの二人に対しても玄宗皇帝は国是の手前、只ですます訳にはいかなかったろう。
 人の運命を左右する糸は、ひどく縺れていて、一筋縄というわけにはいかないらしい。

 

 遣唐使が日本の文化に与えた影響は世の中で言われている以上に日本の文化にとって絶大なものがあると私は信ずる。養老元年(717年)の第8次の遣唐使船で入唐、長安で18年も留学して学者として名を馳せた吉備真備は帰国後、漢字の楷書体の旁で音声を表記する「片仮名」をつくっている。その後804年の第16次遣唐使で天台宗の開祖最澄とともに入唐し、幸い2年後の國使の便で帰国した弘法大師空海は漢字の草書を用いて音声を表記する「ひら仮名」をつくっている。いま平仮名と片仮名がなかったら、日本語の表記は全部表意文字の漢字で、古事記の原文を讀むようなことだとしたら、この二人の唐留学生あがりの学者と僧がその後の日本文化に与えた恩恵ははかり知れない。私にはこの二人の天才にして、唐における言葉の壁の厚さが仮名文字創造の動機だったと想像する。日本人のような島国の民族にとって外国語は目からしか入ってこない。口が利けないのだから、耳もつんぼである。そんな日本人に当時の文化の最先端の漢字文明を目から吸収出来るための仮名文字の果たした役割は極めて大きい。最澄の先祖は渡来人であるが、最澄自身は「漢音」(中国語)に習熟しておらず、中国語のできる弟子を通訳として同伴している。従って当時の日本人は、知識人でも会話は余り得意ではなかったようだ。今の日本とあまり変わらない。何故か。それは日本が今もって、奈良時代と同じ島国のままだからである。

              3月16日05

 

 

 


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