飲みある記(下)

  

 横浜西口

 酔えばあさましく 酔わねばさびしく(山頭火)

 肝臓の数値さかなにもう一杯(川柳)

 私がこの田無から次に引越したのは横浜であった。会社も東京近郊に社宅を借り上げるより、近県の安い土地に自前のアパートを建てて社員を収容した方が安上がりだと気がついたらしい。私が引越したのは横浜駅から更に相模(さがみ)鉄道に乗り継いで鶴ヶ峰という駅から徒歩30分の斜面に建てられた4階建3棟の鉄筋コンクリートのアパート群であった。駅から徒歩30分、おまけに傾斜地とくれば、その地価は大分割安だったはずで、会社の狙いに合致したようだ。この新築アパートの階段を登りながら「これなら棺桶も廻るな」と言った人がいたそうで「誰を棺桶に入れるのだろう」というので話題になった。それは階段の幅も各階向い合せの扉の前の共有部分も広々と余裕があり、何事にもケチな会社の真意を計りかねるおおらかな造りだった。話題の人の出身地の九州では、死人が出て出棺する時、佛さんがまた家に戻って来ないように棺桶をぐるぐる廻して方向感覚を狂わせる習慣があるそうで、幸い棺桶は出なかったが、ピアノなど持ち込むのにも充分な広さだった。入社してから15年近くは経っている社員が殆どだったから、飲んでばかりいないで、勤倹貯蓄を旨として真面目に暮らしていれば、ピアノでも車でも月賦でなら買へるはずの世帯層であった。貧富の感覚というのは近所トナリとの比較に於ける相対的な実感である。そして貰う金が殆ど変わらない多くの所帯の中で、貧富の差を実感させられるのは誰のせいかということになってくる。酔っぱらい亭主にとっては不都合な蜂の巣だった。
 アパートの屋上は金網で囲った平らな広場で子供の遊び場になっていた。その屋上から見渡すと、緩やかな谷あいの斜面から見渡す景色は、竹林と雑木林の極めて牧歌的な風景で、この土地自体がその斜面の竹林や雑木林を削って造成した敷地だったから、入居したての頃は、夜になるとカブト虫が飛んで来てガラス戸にぶつかってきたり、朝早く良く冷えた1階 のコンクリートの床に蛇が気持ち良さそうにとぐろを巻いて涼んでいたりした。
 黄塵万丈の田無から、相模(すもう)鉄道の「鶴ヶ峰」に引越してきたわけだが、丸の内の会社から横浜までは東京駅始発の湘南電車で通うことになった。浅はかなもので、湘南電車に乗ると背もたれのある向い合せの席の配置のせいか、何となく旅行気分になる。そこで東京駅のキオスクでワンカップ大関など買い込んで、4、5人で乗り込み、便所の向いの洗面所のボックスに陣取ってガヤガヤと立ったまま飲みはじめる。発車前から飲みはじめるのだから次の停車駅の新橋に着く頃には、ワンカップは空になっている。それだけで済む訳がないのだから、そこで有志が飛び下りて、扉が閉まり酒のコップを抱えたまま取り残される危険を覚悟で酒を買いに走る。幸い乗り遅れた犠牲者がいたという話しは聞いていない。
 そういう日は横浜で降りても、そのまま相模鉄道の改札口を通過することは困難だった。また越すに越されぬ大井川が出来てしまった。それが横浜西口であった。なぜ其処が越せなかったのか。そこにバス停があったかららしい。西口始発のバスが相模鉄道と並行して保土ヶ谷方面に向けて国道16号線を走り、社宅の近所で停車する。それを利用すれば徒歩5分で帰り着く。しかしバスは電車のように頻繁には出ないからバス待ちの時間を潰す必要がある。そこで西口で時間調整をすることになる。どこで調整するかといえば西口の掘り割りに面した飲屋街の「お加代」という焼き鳥屋であった。私は古い記憶を辿ってみるが、バスで帰宅したという記憶はあまりない。誰かがくたびれたバスで帰ろうと言い始めるのを合図に、時間調整するうちに元気になって電車に乗って徒歩30分を千鳥足で帰ったのだと考えられる。2階は座敷き、1階はウナギの寝床のようなカウンターで突き当たりが木戸で、一見(いちげん)客が知らないで木戸を開けて踏み出すと下を流れる掘り割りに転落する仕掛けになっていた。そこは小便をするための設備で、川に向かって放尿する。
 かくして竹林跡の傾斜地に突如として働き蜂の蜂の大きな巣が出来たのだが、まっしぐらに巣に帰ることをbee lineの如くというが、蜂にも色々あって専ら西口で道草を喰う群れが自然に出来上がった。田無のMさん、烏森のTさんといった獰猛な雀蜂は幸か不幸かこの群れには入っていなかった。転勤したか違うアパートに配られたのだろう。のれんを潜って戸を開けると、夏などまだ明るいうちから幾つかの同じ会社のグループがとぐろを巻いている。まだ明るいので暗くなるまで家に帰るのを待っているのだという雰囲気で、何が嬉しいのか皆上機嫌である。
 同じ量の酒を飲んでも酔う程度は人によって違う。ほろ酔い、酩酊、泥酔、昏睡と分かれる。酒が強い弱いというのは肝臓がアルコールを分解する能力、つまり体質次第だと言うが、それは当たらない。もし同じだけ酒をのんで片方は酩酊しているのに片方はシラフだったらシラフの人間は酒が強いのではなくて、ただの不経済な男にすぎない。私には偉そうに言う資格はないが酒のみの品格、酒品というのは意志の強弱だろうか。
「あんた00さんみたいに、もう頂けませんと言って、杯を伏せるようなことは出来ないの」と亡妻から始終言われていたが、そういう男はストッパー(制御機)付きで酒を飲んでいるので、何のために人と酒を飲んでいるのか、折角の場の盛り上がりに水を差すようなものである。飲んでいるうちに付いていたはずのストッパーを何処かに落としてしまうのは毎度のことで、それをシマッタと思はないから、いよいよ座は盛り上がるのである。
「酔わず醒めず、というのが酒品のサイたる物でしょうな」と言って、陸軍大尉で召集を受け、秋田から熊本までの車中、秋田の出身地の有志から差入れられた銘酒の一升瓶5本、つまり5升の酒をちびちび飲み続け「酔はず醒めず」の状態で全部空にしたという元社長の話を拝聴し、帰りには運転手と二人で両方から肩を抱え大男の社長を引きずって社長宅まで送り届けたこともある。
 この蜂の巣にはタイル張りの小さいながら造り付けの立派な風呂桶がついていた。やっと世間並みの水準に達したと思ったが、最近になって意外なことを聞いた。同じ昔の蜂仲間のEさんの話によれば、この蜂の巣には電話という物が無かったと言うのである。電話をかけるためには斜面の坂下に1軒あるなんでも屋の雑貨屋の桃色公衆電話が唯一の外部との連絡の手段だったと言うのだ。人の記憶など全く当てにならない。Eさんは奥さんが臨月が迫っいて、いつ生まれるか、その時に産院やタクシー会社に連絡する電話がないというのが心配だったと言っていたから確かな話である。そう言えば思い当たることがあった。ある夜、アパートの1階あたりでガラス戸が割れる大きな物音がした。何事かと降りてみると、ガラス戸を割った同期入社の技術屋のSさんが手を血だらけにして立っていた。事情を聞くと彼はその夜、1年ぶりに鉄鉱山の技術援助で派遣されていたインドの山奥からやっと日本に帰り着いたのだそうだ。会社を通じて帰国の日時は家族にも連絡がとれているものと思って帰ってみると家は留守であったので頭に血がのぼった。会社の手落ちで家族は奥さんの実家に帰っていた。電話さえあれば本人がインドからでも空港からでも事前に家族に連絡出来たはずであった。翌朝私の家で朝食の味噌汁を飲んでいたが、大きな涙の塊まりがつかえてなかなか喉を通らない風情だったのを覚えている。そういえば私が違う社宅から西アフリカに一年長期出張していた間も家族と電話で話をした記憶はない。筆無精だから家族とはその結果一年間音信不通となったが、面倒臭かったからか、それともその社宅にも電話が無かったからか幸いにして記憶がない。
 さらに古い記憶を辿れば蜂の巣への引っ越しが終了して入居した当日も、会社の帰路、私は烏森あたりで飲んでいたらしく、新居に向かわず、田無の古巣の空家に戻ったのだそうだ。引っ越しは女房任せだったらしい。夜更けに新居にやっと辿り着き「あんたって猫みたいな人ね」と家内から呆れられたのを覚えている。常識的には電話の1本もかければと考えるところだが、そうしなかったのは電話が無かったからなのだと、何十年もあとになってその妻が死んでしまってから言い訳をを考えて、いまさら納得している。屋上で走り回っていた子供が今や母親になって、そのまた子供が高校に上がろうかという昔の頃の話である。今でも電話が付いていないのかどうか確かめようとして気がついた。時間の経過は技術の進歩をもたらし、余計な心配はいまや必需品となった「携帯電話」で解消しているのだ。

 

 豪州 ニュウサウスウエルス州 シドニー界隈

 遠近(おちこち)の灯りそめたるビールかな(久保田万太郎)

 The sun has passed yardarm. Let's have a Beer
 (陽は傾いた さあビールを飲もう)

 
 その國の文化文明と言うのはその國の歴史から滲み出た物で、外から迷い込んだ人間などにはなかなか馴染めないのは当然である。大上段に文化文明などと振りかぶったが、私が言いたかったのは実は酔っぱらいの飲酒文化である。この豪州と言う國には日本での赤提灯、おでん燗酒という時代劇の頃から何百年も続いた飲屋の文化はない。だいいち建国から日が浅いから歴史的建造物と言えば流刑囚の監獄である。横浜の蜂の巣の住人だった私が突然南半球の豪州転勤を命じられたのは1970年、昭和45年であった。横浜西口の掘り割りから、いきなり見も知らない地球の裏側の乾いた砂漠に放り出されたのだ。一緒に転勤を命じられたのは私と地質技師2名の3人だったが、当時豪州には拠点はなく、私がたった一回商売で豪州に行ったことがあるだけで、新たに事務所を開設して商売や探査活動をしろというのだから、随分と乱暴な話であった。しかし私達が開いた支店は今でも唯一残っている海外支店として今年でもう35年になるというのだから、もって瞑すべきかもしれない。
 異文化のお蔭で、毎日明るいうちに家に帰って来て、家族と食事をするという生活になんとなく違和感を覚えて半年間ぐらい落ち着かなかったのは、亭主ばかりだとは思わない。細君も何時も飲んだくれて真っ暗になって現れる亭主が、明るいうちにシラフで帰ってくるのを、どう扱うか最初は挨拶に困ったに違いない。
 よくしたもので、半年も経つ頃から異文化のなかで現地人も交えた飲んべー仲間ができた。飲んべー(pisspot)が自然に群がるのは万国共通の嗅覚が働くかららしい。ただオーストラリアには烏森のような100軒を越す飲屋街は存在しない。それというのもアルコール飲料を提供する店の権利は、日本のようにおかみさんの申請による免許ではなく、最初から適当に散らばった場所の、その土地に所属しているのだと言う。これは旧宗主国のイギリスと同じ伝統的な決まりらしい。従って日本の飲屋街のように両隣が飲屋ということはなく、それぞれ街角ごとにバラバラにパブ(public bar)と称する飲屋が何故かホテルと言う看板を掲げて営業している。一般のレストランも場所によって何処ででも酒を提供出来ないから、そう言う店は入り口に「BYO」(bring your own、持ち込み可)という看板を出している。客は最寄りの酒屋(bottle shop)でビールや葡萄酒を買って来て持ち込んで飲むが、日本のように燗つけ料のたぐいは徴収しない。
 文化の違いをまざまざと感ずるのは街角毎に営業しているパブでの酒の飲み方である。日本には酒は涙か溜め息か、心の憂さの捨てどころという歌もあるが、ここでは酒は単なる息抜きに過ぎないようで、飲む肴の話題に職場とか会社とか人生などは全く出て来ない。一番よく出てくるのが世の女房族の悪口とその女房に悪態つかれる酔っぱらい亭主と直ぐバッテリーが上がる車の話である。この國では流刑地だった植民地時代の女日照りの後遺症で国際的にも「かかあ天下」(hen pecked husband)の國として有名である。
 
 警官が車を止めて運転していた男に制限時速60マイルのところで70マイル出していた、と告げた。
「ぼくは60マイルしか出し てないぞ!」男は抗議した。
わたしのレーダーによると、そうではありませんよ」と、警官。
「ぼくはちゃんと走ってた」と、男はどなり返した。
「いいえ、スピード違反していました。」と、警官。
そこへ、男の妻が窓の方へ身を乗り出して言った。
「お巡りさん、この人に今何を言っても無駄です よ。」
「おい!お前余計なことを喋りやがって! いい加減にしないと車からたたき出すぞ! このブタ女!」と亭主。
あまりの剣幕に警官は面くらって、妻に聞いた。
「貴女のご主人はいつもこんなに乱暴な言葉遣いをするのですか?」
すると妻は困惑した顔で答えた。
「とんでもない! 普段はとても優しい夫なんです。こんな暴言を吐くのは今みたいにお酒を飲み過ぎたときだけなんです!」
 時速70マイルというのは1マイル1、6キロだから110キロである。クリスマスが近くなると小遣い稼ぎのネズミ捕りが頻繁になる。この種のジョークを肴にして飲み続けるのだから、深刻になって泣いたりわめいたりしようがなく、この國に生息する笑いカワセミのように、人の話を聞いてただひたすら大声でケタケタと笑うだけである。大袈裟のようだが私は東洋と西洋の酒文化の違いをこのパブでつくずくと実感し、ある意味で感嘆した。
 パブでは立ったままグループごとに輪になって冗談を飛ばしながらビールを飲む。肴などいっさい取らない。素ビールである。しかしパブでの飲み方には厳然としたルールが存在する。数人でパブで飲むとする。中の一人がまずカウンターでグループの人数分のビールを注文して金を払う。つまり最初のひとまわりはその男のおごり(shout)だというわけだ。全員のグラスが空になると次の男がカウンターで「one more round」(もうひとまわり)といってまた金を払って人数分のグラスを注文する。俺のおごりだ(its my shout)などといちいち断らなくてもルールでそうなっている。ルール違反は以後の仲間はずれを招く。最後の男のshoutが終わると、それでお開きになるか次のroundに入る。税金を飲んでいるような日本のビールと違ってビールが安いこともあるが、次のroundともなればビールの鯨飲となる。このパブでは日本のようにまずビールで助走して、次は好みに応じて強い酒にするという飲み方はしない。徹頭徹尾ビール一本槍である。「whysky beer no fear, beer whysky very risky」(強いウイスキーのあとのビールは構わないが、ビールの後の強いウイスキーは危険だ)という韻を踏んだ諺も学習した。ビールは他のアルコール飲料にくらべて安全だと言う説がある。それはアルコール含有量が5%程度ということよりも、忽ち膀胱が満タンとなってそうは飲めないからという素人考えから出た説で、何回でもトイレに立って空にすれば済む事だからその説は成り立たない。ビールが実は危険なのは、トイレで排泄する度に体から酒の毒が抜けて行くような錯覚を抱くからである。早いとこ責任のshoutを済ませて、後のshoutを受ける権利放棄を宣言しておかないと、ビールでひどい二日酔いになる。
 二日酔い(hang over)の対処法の語彙もここで学んだ。日本で言う「迎い酒」だがこの國ではこれを「hair of the dog」犬の毛というらしい。つまり前の日に咬まれた犬の毛ということで、二日酔いの原因となったアルコールを翌日少しだけ飲めば良いということのようだ。
 何処に居ても酒を飲む理由にはことかかない。私が5年の豪州滞在中に生きた英語を学ぶと称してせっせとパブ通いしたが、英語の方はすっかり剥げ落ちてしまったが、ビールがぶ飲みの習慣だけは今でもしっかりと身に付いている。「君が居なくなったらオーストラリアのビール産業はお先真っ暗だな」といって笑いながら送ってくれたのは、このパブ仲間達であった。

 
 

 丸の内界隈

 足音を 忍ばせ行けば台所に わが酒壜は 立ちて待ちおる (若山牧水)

 うさばらし入った店に上司居り(川柳)

 私共の年代の社員にとって松の木丸太の基礎の上に立っていたと言う大正時代に建った旧丸の内ビルデイングが無くなったと聞いたとき、遂に私達の時代のページがめ繰られて、新しい時代が始まったのだという感慨にうたれた。私の会社は東京駅の丸の内南口を出てすぐ広い地下道に入り、地下道を抜けて階段を登り丸ビルの1階中央に出て、丸ビルの宮城側の出口を出るとお堀に面した郵船ビルで、その5階が本社だったから、毎日必ず丸ビルの中を通って通勤していた事になる。目をつぶれば今でも丸ビル1階の古色蒼然たる通路の両側に並んでいた、家族や古い店員で商いをしていると言った風情の陶器店、靴店、洋品店、文具店、ハンコ屋、出口の角の東京パンなどが目に浮かぶ。これらの個人商店が新しい丸ビルには帰れず消えてしまったのも時代の流れであろう。我々の町の商店街から個人経営の八百屋、魚屋、酒屋が5年前の大店法改正以来どんどん廃業し割安の商品を提供出来る大資本のスーパーが伸長して行くように時代は消費者優先を標榜して小売商受難の時代を迎えている。丸ビルと郵船ビルの間が丸の内仲通りであるが、通りに面した両側は銀行や保険会社、大企業の本社のビルが並び、昔は1丁ロンドンと言われたそうだが、面白くも可笑しくもない通りであった。それが、今や飲食店などが進出してイルミネーションの飾り付けをして休日も賑わっていると言う。
 我々の時代、この界隈は東京駅の反対側の八重洲口界隈と違って酒を飲む場所と言えば、丸ビルの地下の食堂ぐらいだった。丸ビルは大正時代の古い建物だからやけに天井が高く、高い天井から皎々と蛍光灯が壁のタイルに反射して雨天体操場のような古びた広い食堂の古いテーブルや椅子を寒々と貧乏臭く照らし出していた。店の名前は覚えていない。けれども其処に居た従業員の親切なオバサンの顔は今でも覚えている。それは50がらみの、わけ知り顔のだだのオバサンであった。彼女は我々が勘定する段になると請求書を何枚かに分けて持ってきた。つまり税金の対象にならない小額の請求書に分割して、払いを少しでも安くしようと言う配慮らしかった。懐具合を見透かされていたのだが、そこに至るまでには相当通ったのだろう。45年の勤続のうち35年が本社勤務で丸の内通いをしたのだから、この大正時代の食堂に通った回数も期間も一番だったかもしれない。したがって私の「飲みある記」のなかでも恥ずかしい思い出を残したのもこの丸の内の雨天体操場だったようだ。
 遠い昔のことだから、私に珍しく酒を飲ましてくれた人が、数ある先輩上司の中の誰だったかははっきり覚えていない。誰でも良い。飲ましてくれると聞けば、ちぎれんばかりに尾を振ってついて行く。その日にどんな予定があろうと千載一遇の飲める機会を最優先とするのは当然である。自分の都合など言い立てれば「あ そう」で二度とお声はかからないと覚悟しなければならない。普段は蔭でさんざん悪態ついている相手であっても、酒を飲ませてくれる人は良い人である。人の懐でこの際飲みだめしようという卑しい魂胆だから、遠慮なく人事不省になるまで飲んだに違いない。それもその日のスポンサーに心にもないベンチャラを言いながら飲む酒だから悪酔いは避けられない。どうやって帰ったか分からないような翌日は、重度の二日酔いである。二日酔いと言うのは、生理的にいえばアルコールが分解されてできるアセトアルデヒドによって自律神経が冒かされ、頭痛、吐き気、動悸などの不快な症状が起きる状態だが、それを解消するのに万国共通の「迎え酒」という手段がある。二日酔いのとき「迎え酒」をすると、一時的に大脳が麻痺されて不快な症状を感じなくなるだけで、一時しのぎのごまかしで、アルコール依存症への入り口だと言う説がある。しかし私はその説には組みしない。イワシの頭も信心からという諺もある。私にとって二日酔いと言う症状は、昨日飲んだアルコールが完全燃焼しきれずに、焼けぼっ杭が紫色の煙りを出してくすぶっている状態だと想像している。そこえ新しいアルコールをさっと撒いてやると、くすぶっていた焼けぼっ杭がボッと音をたてて引火して再び燃え上がり、完全燃焼すると理解する事にしている。異論は自由である。私は翌朝おそらく自説に従って缶ビールを飲んで出掛けたに違いない。酒に酔って会社に遅刻したり休んだりしよううものなら、これまた酒飲みの風上にも置けない奴というレッテルを貼られて二度と声は掛からないと覚悟しなければならなかったのだ。
 宮城 のお堀に面した昔の郵船ビルというのは老舗の船会社の風格ある建物で、廊下は堅い立派な大理石だったが、そんな朝はまるでオガクズの上を歩いているみたいな気分である。やっと着到はしたもののまるで仕事にならない。思案に余って、目の前にある東京駅の向こう側の00製鉄へ行くと称して向こう側には行かず東京駅の地下の大衆サウナに潜り込んだ。そこでアルコ ールたっぷりの金色の汗を絞って水をかぶり、板のスノコの上で身体を乾かそうとしたが、安い大衆サウナのスノコは釘の頭が出ていて、それが良く焼けているので熱くて寝られない。仕方なく待ち合い室の色刷りのスポーツ新聞を掻っ払ってきてスノコに敷き、仰向けに転がっていると良い案配に干し上がり、何喰わぬセイセイした顔で会社に戻った。
 今でも私は信念として、人に隠れて悪い事をし も必ずバチが当たると信じている。その晩家に帰って風呂に入ろうとして裸になった私の背中を見て女房が絶叫した。「何よその背中」と言はれて鏡に写してみるとなんと極彩色のスポーツ新聞の大見出しが背中一面、倶梨伽羅紋紋の刺青よろしく染め上がっていた。濡れた背中を色刷りの新聞紙上で強制 乾燥させた結果である。それが田無か横浜だったかも、女房に何と言い訳したかは覚えていない。ただきのうのことのようにはっきり覚えているのは「真面目に働いていると思っているのに一体何処で何をしてるのよ」という女房の涙声と「ああ、貧乏はつらいなあ」という私の暗澹たる想いであった。
 今年最後のSS会は12月14日、赤穂浪士討ち入りの日に銀座7丁目の終着駅「よし田」で開かれる。私の恥多きpisspotの「飲みある記」の人生もどうやら先が見えて来たようだ。我々よりひと回り若い「団塊の世代」が今や定年を迎えている。さらに若い「団塊ジュニヤー」といわれる世代では、酒離れが起きて飲屋街がさびれ始めているという。この世代ではバブル崩壊の過程で年功序列の縦割り社会にもヒビが入り、今じっと我慢すれば将来きっといいことがあるという当てもない。今の若者が昔の我々のようにむちゃ飲みをして酔っ払いにならないのは、かげで上司の悪口を言って憂さをはらすような姿が、彼等の美学からはダサイものに見えるからだという説もある。私はこうした若い世代に批判もないし、悲観もしていない。まあしっかり好きなようにやって呉れと言うだけだ。一方老人の世代には老人なりの生き方もある。妻に先立たれた大伴旅人の歌だが「生けるもの ついには死ぬる ものにしあれば 今あるほどは 楽しくあらな」万葉集 

  12月5日05

   
    

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