加藤徹「貝と羊の中国人」を讀んで(3)

 

 第六章以下 地政学から見た中国ほか
 

 話が独り合点のまま先に進んで、お客さま方の興味をそぎ、反省しています。中国はあまり広すぎて、地図を見ながらでないと山東省(省都済南)と言っても山西省(省都太原)と言はれても、どの辺りか見当がつかない。王朝名を聞かされても、年表を見ながらでないとあまり歴史が古く、栄枯盛衰が激しいので年代も直ぐには分からない。正直のところ、私はこの稿を書くのに地図と年表と首っ引きで呻吟している。古いと言えば、中学で何年か前に習った儒教の元祖、論語を遺した孔子(BC551〜479)がなんと紀元前500年、今から2500年前の人だというのだから驚きです。論語というのは孔子の弟子や孫弟子達が孔子の言行を記録したものですが、紀元前500年では紙などないから、字は墨で木簡か竹簡に書いた。先日東京の江戸東京博物館で「始皇帝と彩色兵馬俑展」というのを見に出掛けて、はじめて竹簡なるものを見た。幅2、3センチ、高さ2、30センチばかりの竹篦を糸で繋ぎ合わせて、太巻きの寿司を巻く簀の子のようなものだった。紙がないのだからそれは仕方ないとして、驚いたのは字を書くのが職業の文官の俑のいでたちで。右腰に竹簡を削る小刀と、その小刀を研ぐ砥石をぶら下げていた。当時の書記の必需品です。秦の始皇帝(BC259〜210)の地下宮殿の記述は司馬遷(BC145〜87)の「史記」に見られるが、紙が中国で発明されたのは2世紀のことだから、現在の紙に書き写された書物に直して130巻の「史記」というのは、膨大な量の竹篦の束に書かれていたことになる。古代の漢民族の文化的偉業にはただただ感嘆するばかりです。

 黄河流域の夏、殷、周の古代王朝から、やがて紀元前600年からの春秋時代、400年からの戦国時代を経て、やっと当時の中国を統一したのが秦の始皇帝(BC259〜210)である。黄河文明の中心だった殷が紀元前11世紀に周に亡ぼされ「貝の文化」と「羊の文化」が融合したことで黄河文化はさらに強固となり、四方に拡大し周辺民族を漢民族に同化していった。黄河文化の拡大は、紀元前三世紀半の、秦の始皇帝の全国統一で一応完結した。

 全国統一と言うが、当時の中国は黄河の中、下流の流域であって、現在の中国の華北の一部にすぎない。この地域は中原とも呼ばれ、周王のいたこの地域は権力の象徴とみられたことから、天下を取るために争うことを「中原に鹿を逐う」という成語が生まれている。中原(ちゅうげん)の意味は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のことで、周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる平原地域をいうようにもなった。 その後、南方へと発展していった漢民族にとって中原は民族の発祥の地とされてきた。だから紀元三世紀半ばの三国志の「蜀」(今の四川省)や「呉」(今の江蘇省、上海あたり)のような田舎の地方は「中国」には含まれていない。

 そう考えて来ると、この中原を外敵から守るために築いた万里の長城と、中原を流れる暴れ龍と呼ばれ、その治水に成功したものが天下を取ると言はれた黄河とが、昔から中国の地政を支配して来たことが分かる。秦の始皇帝はそれまで断続的に築かれていた北方騎馬民族の侵入を防ぐ万里の長城を時間と金をかけて繋ぎ合わせた。 現存の長城は北京に都を定めていた蒙古の元を北方に追いやった明が、その後半期に蒙古の再侵入を防ぐため17世紀に築造されたもので、東は渤海湾岸の山海関(さんかいかん)から、中国本土の 北辺を西に向 い、南流する黄河を越え、陝西省の北端を南西に抜けて再び黄河を渡り、いわゆるシルクロードの北側を北西に走って嘉峪関(かよくかん)に至る。この間、全長2700kmである。

 今回の私の中国旅行は山東省(省都済南)、寧夏回族自治区(首都銀川)、内モンゴル自治区(首都エチナ)であったが、済南市内でも、銀川市内でも、これが黄河だと言う川が流れていた。そして地図を見ると最後には山東省の渤海に流れ込んでいる。私の旅はは期せずして、黄河の流域を遡っていたのだった。私が済南で眺めたのが黄河の本流か支流か知るよしもないが、見た目には大河という印象はなく、ただ徒歩でも渉れるのではないかと思えるほど浅い川に見えた。黄土を削って流れる天井川で、すぐ溢れる。途中黄土高原を経由するから大量の土と砂を運んで来て、これが黄色くなる原因で、その土砂の堆積で川底が高くなり済南の市内より10メーターぐらい高いから直ぐ洪水になる。そのため堤防には大量の水害防止用の石が積んであった。また銀川から内モンゴルのエチナ、さらにゴビ砂漠の黒水城に向う途中で、これは北方騎馬民族の侵入を防ぐ積もりで築いた昔の万里の長城の跡だと言う風化した土塁を幾つか見かけた。
 黄河と万里の長城に話が戻って来たところで、「貝と羊の中国人」の地政学上のさわりを紹介して行きたい。

 

 万里の長城というくびき

 中国と言う國は昔から国防には苦心して来た。北の乾燥地帯からは騎馬民族が、海からは倭冦が、そして近代以降は西洋列強が北と海から攻めて来た。中国は海陸両方を守らねばならなかったから、日本などとくらべるとその不利が中国の近代化を遅れた一因となった。

 蒙古族の元をやっと追い出した明は今度は北方の満州族の脅威に備えねばならなかった。そこで明は17世紀に新たに今も世界遺産として残る立派な長城を築いた。これは専守防衛の設備で、いくら金を掛けても中国の領土が寸土も増えるわけではない。長城を守る兵隊の維持費も莫大で、それにいくら金を使っても生まれるのは兵隊の糞ばかりである。火薬や羅針盤を発明したのは中国人だが、それを改良して世界を制覇したのは「万里の長城のくびき」をもたなかった欧米人である。

 中国には「百年河清を俟つ」という諺がある。何時まで待っても実現する見込みのないことの喩えをいう。黄河が千年に一度澄むと言うのは迷信だが、この「万里の長城」というくびきが過去千年の間に三度だけ「くびき」でなくなったことがあった。一度目は十三世紀の元のフビライの時代、二度目は十七世紀の清の康煕帝の時代、三度目がロシアの共産主義体制が崩壊した二十一世紀の現代である。蒙古族の元も、満州族の清も、漢民族が國の財力を傾けて築いたこの長城を易々と乗り越えて侵入し、中国全土を制圧した。防ごうと思った外敵が主人公になったのだから長城は意味を失ったのだ。結果論だが長城が外敵の脅威から國を守ったことは一度もない。歴史上、長城は専守防衛の役にもたたず、ただ國の境を画しただけの壁にしかすぎなかった。しかも皮肉なことには北方民族の征服王朝時代の中国の版図は現在の中国よりも遥かに広大となった。黄禍といはれた元には及ばないまでも、最後の清の時代には台湾を直轄領とし、ロシアの勢力下で独立した独り横綱の朝青龍の故郷モンゴル共和国も、ウラジオストックの沿海州も中国領であった。その仮想敵国のソビエトロシアが崩壊し、いま海に顔を向け始めた中国の尖閣諸島や沖の島をめぐる強硬な主張、中国原潜の領海侵犯などの根底にあるのは、三度目の正直「海へ」という中国人の千年の悲願である。それが再び内陸へ引き戻されるかどうか、今後を占うカギは中露の関係と新彊ウルグイ自治区やチベット自治区などの内陸部の自立の動きであろう。チベット自治区でその動きを抑え込んだ功績で、胡錦濤が国家主席になっているのは偶然ではない。
 

 首都は国土の片隅にある
 

 万里の長城を越えて来た北方騎馬民族が征服した中国の首都を北京に置いたのは十三世紀の元からのことである。北京は万里の長城、すなはち伝統的な漢民族の北辺の境界線に隣接している。日本で言えば、北京の位置は青森か札幌である。もっとも首都の位置と言うのは國の版図の拡大によって変わって来るから、黄河の流域の長安(西安)、洛陽は当時の中原の地域にあり、それから見ると北京は同じ華北でも国土の隅といえる。世界史では不思議な経験則があって首都が辺境にある国家は強くて長もちするが、首都が国土の中央にある國は戦争に弱く短命である。北京を首都とした王朝は、フビライの建てた元、永楽帝以降の明、順治帝以降の清などいずれも強力だった。中国史では南北の中央に近い南京に首都を置いた王朝や政権は短命に終るというジンクスがある。古くは三国志の呉の孫権も、近くは清の残滓を嫌って南京に首都を置いた二十世紀の中華民国、蒋介石政権も、蒋介石が重慶に逃げたあとの傀儡の王兆銘政権も短命で亡んだ。今日の中華人民共和国は歴史の教訓にかんがみ首都を南京でなく北京に置いた。

 ところがこの北京が中国にとっては鬼門でありアキレス腱なのである。地図を見れば分かるが北京から南は上海あたりまで、なにも障害物のない平原地帯である。漢民族は今も昔もこの平原に集中して暮らしている。いったん北京一帯を敵に奪われたら最後、中国の心臓部は敵の蹂躙に任せるほかない。古い歴史をひもどくまでもなく、1912年に南京を首都として成立した中華民国は1937年日本が画策したと言われる廬溝橋事件が勃発すると、満を持して攻め込んだ日本軍に忽ち占領され、その後10年間日本軍の占領下に置かれた。この開戦からわずか半年の間に、中国東部の主要都市はすべて陥落し、蒋介石は奥地の重慶に逃げた。

 この時代 の北京を舞台にした老舎の長編小説「四世同堂」は北京の西域区護國寺付近の「小羊圏」に住む老人一家の四世同堂の生活が戦争によって無惨に打ち砕かれていく過程を描いている。この小説は重慶で書き始められ、アメリカで脱稿しているが北京の四季の美しさをこまやかに描写している。北京を愛したこの作家は、文化大革命のさなか、こよなく愛した北京で、心ない「造反有理」を叫ぶ紅衛兵に吊るし上げられ、 死体で発見されている。

 1949年毛沢東は首都北京の天安門のうえで、中華人民共和国の成立を宣言したが、その翌年の1950年朝鮮戦争で北朝鮮軍を追って中朝国境に迫ったアメリカを中心とする国連軍にたいし、戦火に近い北京に本拠を構えた中国人民志願兵は国連軍を南に押し戻すことができた。以来五十数年、今日でも北京は依然として中国国防の要である。

 現代中国人の領土意識
 

 昔の中國人の世界観によれば全世界は「中国」に住む天子の領土とみなし、そして全人類はみなこの天子に服従する臣民と看做した。しかし世界は広く文明の度合いは中央の中国が一番高く、田舎はやや低く、「夷狄」の住む辺境は更に低い。そうした辺境の民には現地の首長に適当な官位を与えて間接統治した。「夷狄」のなかには中華の徳を慕って自発的に「中国」に朝貢してくる感心な種族もいれば、そうでない「化外の民」もいた。辺境の首長が中国の皇帝に朝貢して官位をもらい、現地を治める御墨付きの文書を発行してもらうことを「冊封さくほう」と言った。冊封を受けた國を冊封国と呼び、現代風にいえば自治領ないし属国である。日本では明の建文帝に朝貢して「日本国王」の冊封を受けた足利義満を唯一の例外として、西暦607年の遣随使の小野妹子が持参した「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」の国書を渡し対等の意思表示をしている。匈奴やモンゴルは軍事力が弱まると中国に臣従の礼を余儀なくされ、朝鮮やベトナムはずっと中国から属国扱いされその屈辱に甘んじなければならなかった。東南アジアの国々は、自分達は今も昔も中国の属国ではないと思っている。このような感覚のズレが、東南アジアで時たま起る華人排斥運動の一部となっている。かって冊封国だった朝鮮半島やベトナムには根強い反中感情がある。これらの地域では昔は漢字を使っていたが今は殆ど漢字を使わない。漢字は中国人の文字だから使うのをやめようというナショナリズムである。漢字やそれから派生した仮名を今でも使っているのは冊封の屈辱を味あわなかった日本だけである。

 この冊封体制が破綻したのは1840年のアヘン戦争以降である。しかし二十一世紀の今日でも、中国人の心底にはかっての冊封体制の記憶が残っていて、現代中国人の領土意識も、未だに清朝時代の版図が心情的な規準になっている。当時の広大な勢力範囲は直轄地、藩部、冊封国の三つに分けられる。直轄地は今日の中国の「省」にあたる部分で、漢民族が住むところ。藩部は今日の「自治区」で少数民族の住む人口希薄な地域。冊封国というのは朝鮮、琉球、ベトナム、タイ、ビルマであり、中国人の感覚では冊封国も中国の縄張りという意識がある。しかし19世紀における東南アジア全域に吹き荒れたヨーロッパ列強の植民地攻勢の前には宗主国たる清はなす術なく傍観するばかりか、自国の領土も侵食の危機にさらされ、何千年もかけて築き上げた中国の威令は、地に落ちた。

 翻って日本人の領土意識はと言えば、第二次戦争で朝鮮や台湾を失っても仕方ないと諦めるが、大正期や昭和初期を飛ばして、明治を規準として北方領土や沖縄は日本固有の領土として頑張ってきた。アメリカは返してくれたがロシアは一度取ったら返さない国だから苦心している。だから現在ロシア領になっている沿海州の領有権についての中国人の心情は今日でも割り切れないものがある。彼等の規準は中華民国を飛ばして清朝が規準だから台湾やチベット、新彊、モンゴル、などを中国固有の領土として疑わないのだ。従ってそれらの地域と国境を接している國との間に、若し何処か内陸の國境問題、中露、中印、中朝が緊迫するような気配が起きて、「万里の長城のくびき」が復活するようなことになれば、日中関係は靖国問題など飛び散ってしまうほど劇的に変化する。日中関係は常に中国とその周辺国との関係の中で見て行く必要があるようだ。
 

 終わりに

 「貝と羊」ホンネとタテマエに始まった中国人論はこの辺で終わりにしたい。日本と中国(支那)との関係、日本人と中国人との相互の意識には、昔は遣唐使に見られるように一方的な文化の流れの「直流」があっただけで、相互間の「交流」は一度もなかった。日本人は昔から、杜甫も白楽天も、「三国志」も「水滸伝」も讀んで良く知っていたが、紫式部や松尾芭蕉を愛読する中国人というのは聞いたことがない。

 ところが1895年の日清戦争以降、日中両国の流れの向きは劇的に逆転した。魯迅、蒋介石、周恩来はじめ、日本へ亡命した孫文など近代中国建設で活躍した人材の多くは日本へ留学し、日本語が話せた。一方、近代日本のリーダーで中国に留学したと言う人物は一人も居ない。つまり流れが逆になっただけで「直流」という状況は依然として続いた。ちなみに現在の「中華人民共和国、政府」という中国の名称の中で純粋に中国語なのは「中華」だけであって「人民」も「共和国」も「政府」も江戸末期から明治にかけて福沢諭吉などの日本人が漢字を使って造語した和製漢語が本家の中国に一方的に逆輸入されたものである。

 昔は遠く離れていた文化圏だった西洋諸国は互いに敵同士で戦争した敵対体験と、同盟軍や連合軍として戦った共闘体験をもっている。これは英米独仏の歴史を見れば直ぐ分かる。今の日本が国是となっている親米というのも、タテマエの袖の下から損得と打算のホンネが透けて見える。ひるがえって日中を見ると、日本人と中国人は互いに敵として戦った経験ばかりで共闘体験は皆無である。7世紀の白村江(はくすきのえ)」でも13世紀の元冦、16世紀の秀吉の朝鮮出兵、19世紀の日清戦争、極め付きが15年続いた20世紀の支那事変でこの根は深い。
 ところで外国人の中国人に対する批判は國の施政の総てが共産党に支配されているという一点を除き、その欠点は日本人と共通しているらしい。曰く、ものの考え方が主観的すぎる。論理より感情的に走る。うぬぼれが強いくせに劣等感や嫉妬心が強い。大局的な視野がなく厄介なことは先送りにする。どの組織も縦割りで融通がきかない。ホンネとタテマエが矛盾しても問題を解決せず、両者を使い分けることで済まそうとする。言質を取られることを怖れてなかなかホンネを語らない。白人にコンプレクスをもつくせに、欧米流の契約精神がなく、あたかも自国の特殊性が免罪符になると思い込んでいる。欠点ばかりでなく義理、人情、信義、孝行、敬老など日本人が日本的と考えている倫理観も中国人に似ているという。それは当たり前で、江戸時代徳川幕府が儒教を官学とし、民間でも論語、十八史略、唐詩選など漢文の学習がブームとなっていた。実は階級を問わず日本人が日本人らしくなったのは江戸時代に漢文の素養を身につけたせいだという。
 ただ人間同士の関係に加えて、国民同士としての日中関係となるとナショナリズムという要素が加わるので相違点が目立つようになる。そこで忘れてならないことは、日本は一応「先進国」の一員であるが、中国はまだそうではないということである。日本社会と中国社会の違いは民族性の違いばかりでなく国民国家としての成熟度の差によるところが大きい。先日中国は沢山のアフリカ諸国の指導者を集めて会議を開き、中国は「発展途上国」なのだと発言し発展途上国グループの盟主たることを宣言した。支援の倍増を約束して上機嫌な胡錦濤さんは古代中国の冊封国に囲まれた皇帝のように幸せそうに見えた。なにしろ中国の外貨準備高はこの10月で日本を抜き一兆ドル(118兆円)となり、5年足らずで5倍になったのだ。

 しかし今日の中華人民共和国は未だ真の意味での近代国家とは言えない。党組織や軍などの「国家内国家」が多い。都市部と農村部との経済格差は大きい、それを中国共産党の支配という分母で辛うじて一国として繋がっている。国連の分担金もあまり払っていないのに、第二次大戦の戦勝国として常任理事国に名を連ねている。人民の愛国心は強いが機会を捉えて出國する者が多く、密航する者もいる。軍が隠然たる発言力をもち、共産党や政府はひそかに軍人のクーデターを怖れている。言論の自由はあるが言論後の自由はない。

 中国は未だに国政選挙制度がない。共産党政権だから当たり前のことだが国家主席も首相も人民の選挙ではなく党内の権力闘争によって決まる。

 いっぽう中国人民もしたたかである。1989年の天安門事件を最後に表立って民主化運動をやめている。心の中で現体制に不満を持つ者も今日の中国社会がかろうじて空中分解しないのは共産党の抑えが利いているからだと考える冷めた一面がある。中国の民衆も馬鹿ではないからテレビや新聞が党や政府にコントロールされていることは知っている。ただそれを口にしないだけのことである。

 党も人民を信用していない信用していればとっくに国政総選挙を実施しているはずである。中国社会では上も下もホンネとタテマエを極端に使い分ける。日本人は中国人の言動の裏にある事情を察する繊細さをもち、中国の民主主義が未成熟で言論後の自由が全く無いことを常に思い遣るべきである。

 この中国人論に私なりの結論を加える力はまだない。今回の中国旅行で私が出来れば知りたいと思っていたことが二つあった。一つは小泉首相の靖国参拝に対する一般の中国社会の反応であり、二つ目は世界を震撼させた文化大革命にたいする中国人の想いである。これらは先に9月1日付けの伝言板にて御報告申したが、ここで結論にかえて繰り返へしたいと思う。
 「8月15日に出発した中国旅行でしたが、27日夜、無事に帰国いたしました。砂ぼこりで太陽が赤く見えるゴビの砂漠の西夏 の遺跡を訪ねて、往復1400キロ、車にゆられたのと、秦の始皇帝をはじめ漢の武帝や唐の玄宗皇帝が封禅の儀式を行うために登ったと言う泰山に息も絶え絶えに殆ど四つ這いで登ったのは、75歳の今回が限界と自覚した旅でした。

 出発の8月15日 の朝、成田空港で心配どうり小泉君が今度こそはとこの日参拝を決行してくれたと聞きました。その日の夕方、宿泊した寧夏回族自治区の首府の銀川のホテルで見た夕刊には、靖国の記事は無く「東京大停電。百万戸模黒(真っ暗闇)」の記事が出ていただけでしたが、翌日には一面トップで「最后的表演。小泉公然挑戦国際正義(最後のパーフォマンス、小泉公然と国際正義に挑戦す)」という見出しで8月15日7時41分小泉首相が燕尾服を着用して第6回目の靖国参拝を決行したと報じていました。しかし此所銀川をはじめ、その後旅したエチナ、済南、曲阜、泰安、淮坊、青島の各都市で も全く反応は見られないままでした。新聞記事のようにイタチの最後っ屁と考えたのでしょうか。この13日間の旅行でこの一面の報道にもかかわらず、示威運動はおろか、何一つとして不愉快な出来事には逢わずじまいで旅を終えた。

 しかし日本に対する関心というか怨念はホテルのテレビでは誇張でなく毎日何処かのチャンネルで抗日戦争当時の、悪役日本の物語が放映されていました。今の日本の子供は戦前の日本兵がどんな服装をして戦争していたか知りませんが、中国の子供はこう毎日見せられれば、日本軍の兵隊、下士 官、将校、将官の知識は豊富に違い有りません。そうした番組のあとで日本のアニメの「一休さん」などが放映されるのですから塩と砂糖を一緒に舐めたような気になります。毎日見ているうちに毎度出演する悪役の日本兵も中国人の俳優さんなのだからいい加減にしたらどうかと思いたくなります。

 次に文化大革命だが、旅の後半、孔子の故郷、曲阜で孔子の墓を詣でたとき、ガイドの青年が孔子と言う人は身の丈1メートル90近い偉丈夫だったが、文化大革命の時墓を暴いたが中は空だったと言った。数々の文化遺跡を訪ねるたびに、例外なく文革で破壊され、その後修復したという説明を聞いて来たが、孔子の墓まで暴いたと聞いて、我慢出来ずガイドに聞いた。「文革を支持した7億の人達は、自分達は良い事をしたと思っているのか、それとも悪い事をしたと思っているのか」孔子の子孫かと思われるほどの大男のガイド曰く「孔子の墓を暴いた人は孔子がどんな人でどんな教えを 残した人か知らなかったと思います。皆貧乏だから学問が無く、論語など読んだ事も無いから、孔子は金持ちや地主や役人の味方の旧思想の持ち主だと決めたのでしょう。中国には文革のような農民一揆が何回も起きて、その度に権力が移行した。権力闘争 流れの現象で、その場の雰囲気、気持ちで動いたので、良い事をしたとも悪い事をしたとも思っていない。世の中の流れに手を貸したと考えているのでしょう」ガイドは30代そこそこの青年で、紅衛兵は今60前後だから本当の事は分からない。しかしそうでもなければ、文革の指導者の毛さんが天安門に飾られている訳はないだろう。

 文革についてはこの本の著者も最後に語っている。1966年の或る日、杭州で「牛鬼蛇神」(反動の化け物)のレッテルを貼られた京劇の俳優達が集められた。ゴミ運搬車に載せられた名優蓋叫天を先頭に町の中を引きずり回された。群集は彼等を取り囲み、殴り、石を投げ、罵詈雑言を浴びせた。京劇俳優の宋宝羅が述べるところによると、このとき群集の中から見知らぬ二人の人間があらわれ、宋宝羅の両脇に立ち彼の腕をつかんだ。この二人は傍目には宋宝羅を荒々しく引きずり回すように振舞った。しかし宋宝羅にはわかった。この見知らぬ二人は、彼に迫害を加えるふりをしつつ、暗に彼を暴力から守り、昏倒寸前の彼を支えてくれたのだった。その二人の勇気ある善意に宋宝羅は涙した。

 一見狂気にしか見えなかった文革の裏にも実はこのような人情の機微が無数にあった。こうした機微は外国人には分かりにくい。外国人は中国人のタテマエの方ばかりに目が行くからである。反日デモにも機微はあった。この著者は中国人の機微を理解するためには「冷たい目」と「暖かい心」が必要だと結論している。
              

            完 
 

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