西夏の話
  

                    

 
 銀川から額濟納旗(エチナ)

 早朝、けたたましい起床ラッパの音で目が覚めた。ラッパは枕元の窓越しに聞こえてくる。聞きなれない節回しの音色だが、明らかに人の安眠を妨げるのが目的の絶叫に近い不協和音である。時計を見ると6時半だった。
 私は昨日、このホテルに到着し、部屋割りの際に中国旅行社のガイドから厳重に申し渡された注意事項を思い出した。このホテルの裏は塀一つ隔てて人民解放軍の国境警備師団の兵舎である。ここ内モンゴル自治区最大のオアシス都市の額済納旗(エチナ)というのはモンゴル共和国との国境の町で、近郊にはこの國のミサイルや人工衛星の発射基地があり、この地域は紀元前の漢の時代から21世紀の今日まで中国の北辺の守りの最前線である。つい最近も、観光客を装った韓国人が、このホテルから兵舎周辺の写真を撮り、すぐ近くの国境線を越えて、モンゴル共和国に脱出しようとして公安に逮捕されている。したがって不用意に写真など撮ると「帰れなくなりますよ」ということになるという。この地域は昔の日本で言へば要塞地帯で、観光のためとは言え、事前に各人のパスポートの写しを公安に提出し立ち入り許可を取った上での観光だと念を押された。許可が下りるようになったのも極く最近のことだという。
 8月15日の朝10時30分に成田を飛び立って、山東省の青島で中国の国内航空に乗り継ぎ、山西省の省都大原経由で、寧夏回族自治区の首都で西夏王朝の古都銀川に着いたのはその日の19時10分だった。途中の待ち時間をいれて9時間が経っていたが、成田から9時間も飛べばノンストップで大平洋を越え、オーストラリアのシドニーまでゆける時間だ。銀川では丸一日をさいて近郊の王陵をはじめ賀蘭山など史跡を見物したのち、銀川をを立って直線距離で800キロの辺境にある、西夏王国の北辺の出城で、今は廃虚の城塞都市カラホト(黒水城)に向った。しかし最終目的地のカラホトは600年前の明の時代に放棄されて以来、人も住んでいない砂の上の廃虚だから、40キロ手前の、ここ内モンゴル自治区のオアシスの町エチナの解放軍兵舎の隣で一夜を明かすことになったのだった。銀川からエチナに至る800キロ近くのゴビの砂漠を12時間トヨタのマイクロバスにゆられて来たが、800キロといえば直線でも東京ー広島間である。その間、鉄道も空路も無い、何処かに軍の専用飛行場は有るらしいが、民間人は使えないから、ただの人民共は地の果てまで800キロを砂嵐の吹きすさぶのを覚悟で砂漠を越えて行かなければならない。

 枕元のカーテンの隙間から恐る恐る隣の兵舎を覗く。緑の軍服を着た若い兵士達が走って来て列を作っている。中国には徴兵制度がないから、兵隊は皆志願兵の筈である。13億の人民を抱えた國が徴兵制度など採用したら、失業者は居なくなるが、國は兵隊の食い扶持で破産する。ゴビの砂漠越えのあいだ、のべつまくなしに喋り続けていた50がらみのガイドの登(とう)さんが自分も昔若い頃は人民軍の兵士だったが月給が200元で苦しかったと言った。何時の頃の200元かは知らないが、今の元は1元15円だから月給3000円である。どう考えても暮らせるわけがない。当時極貧の中国では、最低の衣食住保証と小遣い銭支給の貧民救済策だったのだろう。
 私はそれを聞いて、日本で黒水城を守護していた西夏人の西夏文字で書かれたという転属願いの解読文を思い出した。「黒水は貧しく、銭や穀物、財物がくるのがもともと少ないのを私がなんとかやりくりしているのです。どうか温情をもって私の黒水城での任を解き老母の近くの役所に転属させて下さい」ともかく何処の國でも兵隊や百姓はみな昔から貧乏だったのだ。
 この登さんというガイドはこの旅行社では上級幹部だという触れ込みだけあって人の気をそらさない。一生のうちで12時間もバスに揺られて砂漠越えした経験はこれが最初で最後だと思うが、それが堪え難いほど苦痛だったという記憶があまりないのは。このガイドのお喋りのおかげだったのかも知れない。
 銀川からエチナ迄の800キロ近く12時間の走行中、見えるものはただ砂ばかりだった。時々バスを止めて砂丘で小便をし、その辺の石ころを拾ってみたり、バスの中で女性達持参の駄菓子を食べたりしながら進む。出発した銀川のある黄土高原の海抜が1100メートルだったから、ゴビの砂漠の海抜は更に高いと見えて、気圧の関係か駄菓子を入れた銀紙の袋が空気枕のようにパンパンに膨れていた。窓の外は砂ばかりだから「皆様御覧のとうりでございます」というほか説明の仕様がない風景だが、プロのガイドだから色々と話を考える。沿道の所々にはうっすらと緑の草が生えている場所もある。けれどもこの辺は砂漠化防止の国策のため山羊、羊などの家畜の放牧は固く禁じられているという。では牧畜農家はどうするのだ。國の方針で町に移住させられ、特別安い庭付きの家が提供されます。人間はいいが羊はどうなるのだ。庭の草では生きていけないだろう。草を買ったら金がかかるだろう。すみませんが、その先のことは私の管轄外のことでお答えしかねます。あれ見ろ、あっちでラクダが草を喰っているぞ。ああ、あのラクダですか、あれは野生ですから仕方がない。それにラクダが食べているのは「ラクダ草」という草です。ゴビのラクダは双瘤ラクダでサハラ沙漠の一瘤ラクダより小ぶりで寒さには強いとされている。野生ということはないだろう。ラクダの足の掌のステーキは高価で最高の珍味だというのに、誰が捕まえて食べても良いというのは信じられない。だいいち「ラクダ草」なんて聞いたことがない。すみません、その辺の草の事になると私の専門外で、なんとも申しかねます
 このガイドの登さんが道中しきりに強調したことが二つあった。一つは商売上のタテマエの口上で、長年この辺りのガイドをやっているが、今回の砂漠越えのように好天候に恵まれたツアーは小生の長いガイド体験で初めてであり、さすが皆さんの普段の心掛けが良く、滅多にない幸運であること。正直、私はこの砂漠越えに備えて、砂嵐対策として指示された防塵マスクと風防メガネを東急ハンズのオートバイ用品売り場で調達して来た。しかしそれを着用する機会はなく、帰途、銀川のホテルのゴミ箱に使わないまま捨ててきた。日本でも春先になると中国の黄河流域の黄土高原の微粒子の黄塵が空を覆うことがあるが、この辺がその黄塵万丈の源らしい。砂嵐には遭遇しなかったが、、そうかと言って、辺り一面カラリと晴れわたっているわけでもなく、見上げる太陽はその辺に浮遊している砂まじりの大気のせいか、輝きを失い、ぼんやりと赤味を帯びていた。
 二つ目はこの西夏の遺跡の文物が殆どロシア人の探検家に持っていかれてしまったことに対する憤りであった。
 そもそも銀川というのは今から800年前の1038年から1227年の約200年のあいだに突如として興り、一朝にして流砂の中に跡形も無く消え失せた西夏王朝の古都(興慶府)である。この國を興したのは李元昊(りげんこう)という皇帝で、12代200年続いたこの王朝を亡ぼしたのは元(1271〜1368)のジンギス汗である。この元軍が日本に攻めてきたのは1274年の文永の役と81年の弘安の役だから時代的にはそんなに昔の話ではない。源義経や北条時宗の鎌倉時代である。
 当時西夏を構成したおもな民族はチベット系のタングート族という人々で熱心な仏教徒であった。古く殷、周の時代、この種族は黄河がもたらした肥沃な土地と軍馬を養う豊かな草原により強大化していった。今の銀川は寧夏回族自治区の首都で、住民の多くがイスラム教徒の回族である。空港では白い布のお椀のような帽子をかぶった、ほりの深い顔つきの長身の男達がウロウロしていた。その後この地域は元、明、清、の版図となり、ここの住民は西夏王朝の子孫ではない。西夏の民タングート族と称する人々は今はこの地域にも、中国の何処にも存在していない。
 12代の皇帝の中で話題の中心になるのは祖父、父、のあとを継ぎ、建国初代皇帝を称した李元昊である。民族的にチベット族の人間が漢族の李姓を名乗っているのはその先祖が唐代末に叛乱制定の功で、「李」という唐の皇帝と同姓を賜わったからである。彼は文武に秀で、政治制度も唐宋のものを応用しタングート族ばかりでなく漢族も官僚に取り立て、西夏文字の制定にも深くかかわった。中国の歴史書「宋史」の「夏国伝」にも「雄毅にして大略多し」と謳われ、井上靖の小説「敦煌」でも獰猛な野心家である反面、漢文化の素養ある知識人として描かれている。彼は自分を大夏皇帝と称し宋の支配圏から離脱した。彼が名乗った「夏」と言うのは古代中国の伝説の王朝である。その後継を気取ったわけだが、中華の正統をもって任ずる漢族の宋としては面白くないから、蛮族風情が僭越だというので西域の夏だと断じ、西夏と呼んだのが、歴史上「西夏」として定着してしまっている。
 ところがこの英傑は在位10年46歳の若さで死んでいる。息子である皇太子の恨みを買い、決闘して受けた傷がもとで死んでいる。傑出した良く出来た人物でも何か欠点はある。彼の場合それは過度の好色だったようだ。これは登さんの話だが、李さんは皇太子の息子の嫁に横恋慕をした。息子の嫁をひと目見た途端、その匂い立つような色香に膝が震えて立っていられなくなったのだという。そこで李さんは一計を案じ、敵が攻めて来たと偽って、息子を国境に派遣した。真にうけた息子が兵を引連れて勇躍出陣するが、行ってみると何処にも敵影は見当たらない。さては騙されたかと引き返すと最愛の妃は、父親に寝取られていた。この種の虫は一度ではおさまりがつかないから、度重なるうちに、やがて露見する。これでは穏やかにおさまる訳がない。女仇の親父と一騎討ちの決闘となるのは自然の成り行きだった。李元煌の死後、親殺しの皇太子は後を継ぐことなく処刑され、その弟が2代目の皇帝になったという話である。

 古都銀川には当然西夏の王陵が点在しているがその数は二つ不足して九つしかない。10代と11代の王陵は見当たらないのだ。それはこの時代に始まった元の攻撃を防ぐのに精一杯で墓など建てている暇が無かったからである。登さんの話では、元は中央アジア遠征の応援の兵力の派兵に応じなかったという口実で西夏を攻めた。今までの中原の勢力、事勿れ主義の宋や金と違って元は勇猛果敢で好戦的だった。甘く見くびった相手が悪かった。ジンギス汗はこの戦闘で膝に矢傷を受け、それがもとで1226年西夏との戦闘で陣没している。死の間際、憎き西夏は必ず亡ぼせと遺言したというから、元の攻撃は情けも容赦もなかった。そしてジンギスカンが没したと同じ年、西夏も滅びた。銀川を占領した元軍は総勢10万人の兵士で100日かけて王陵をはじめ形あるものをことごとく徹底的に破壊し尽くした。現在銀川周辺の仏塔をはじめとする文化遺跡はすべて後世に再建されたものである。
 王陵の中で最も大きいのが三号陵で、長い参道の奥にあるが、なにしろ燃えるものは全部燃やし、形のあるものは木っ端微塵に打ち砕いて、なんの記録もないのだから、これが建国者の李元昊の陵墓だと擬しているだけで、確たる証拠があるわけではない。破壊される前は当然祭祀のための建造物はあったはずで、仏教の大本山のような景観で、王陵は奈良の大仏のように建造物の中にあったと言われている。破壊された王陵は、むき出しの巨大な蟻塚のような土饅頭の無惨な姿をさらしているが、元軍の兵士達によって剥ぎ取られ打砕かれた鮮やかな緑色の瑠璃瓦が800年たった1980年代まで周囲に散乱していたそうだが、最近になって観光客が増えるにつれて、記念にと持ち去られ、今では全く見当たらなくなっている。言い伝えによると、李元昊の遺体は頭を黄河に向けて地下26メートルに埋められていて、墓が元軍に暴かれた時、200年も経っているのに埋葬時そのままの生きているような姿だったので、怖れをなしたモンゴル兵は地下の穴のなかで、何日もかけて遺体を焼いたといわれる。かくして西夏の王宮の文物や王陵の副葬品はことごとく焼かれ破壊され、略奪、盗掘などですべて散逸し西夏の古都銀川にはめぼしいものは何一つ残っていない。併設されている博物館にも、李元煌が全軍を指揮している勇姿が、銭湯の壁画然と飾られているが、他に目を引くような物は見当たらない。200年という王朝の寿命は中国の歴史ではとりわけ短いとう訳ではないが、最後の皇帝は捕えられて斬られ皇統は絶え、その民は四散した。西夏滅亡後、現在の中国南西部には、家系を辿ると西夏の末裔らしい人もいるらしいが、完全に「漢化」してしまい西夏語や文字も伝わっていない。民族の故郷が沙漠の砂に埋もれてしまったように、民族自体も漢化の砂に埋もれてしまって、民族としてのアイデンテイテイは既に喪失してしまっている。こうして國も人も跡形も無く消滅したという例は中国の歴史上でもあまり聞かない。

 

 黒水城(カラホト)

 ところが消滅したと思われた西夏の膨大の量の文物、仏画をはじめとする仏教芸術、それとともに奇妙な文字で書かれた大量の文献がとんでもない所に現存しているのだ。何処かと言うと美術品はロシアのサンクトペトロベルグのエルミタージュ美術館に、文献資料はロシア科学アカデミー東方学研究所に収蔵されている。

 カラホト(黒水城)はエチナから40キロの所にある。エチナはオアシスの町でカラホトに向う沿道や市街地で見かける道路の並木は背の高い胡楊であった。胡楊というのはポプラの一種で、川岸とかオアシスといった地下水脈のある場所に生える乾燥地独特の植物である。ハート形の小さい葉をひらひらさせているが、葉の裏は銀色をしている。車窓からこの木に白い花が咲いているのを見て、ガイドの登さんにあの花は何だと聞いたら、あれは花ではない、葉っぱが風で裏返って白い花のように見えるだけだといった。そしてこの胡楊は樹齢1000年まで生き、1000年して立ち枯れても、もうあと1000年は「孵化」しないで枯れたまま立っていると言った。馬鹿なことを言うなよ、枯れ木が「孵化」する訳がないだろうと言ったら、黒水城の近くの砂漠の中に1000年たって炭化しかけた「怪樹林」という胡楊の枯れ木林があるから、嘘だと思うなら案内すると言う。どうも話が噛み合わないと思って良く聞くと彼が言いたいのは「孵化ふか」でなくて「風化ふうか」だとわかって大笑いとなった。外国語の発音は難しい。
 西夏はその末期、元に攻め込まれで危機をむかえ、都の銀川から800キロも離れた辺境の城塞都市カラホトに宝物類を運び込んだ。登さんの話では、カラホトではこれらの重要な文物を、木炭を大量に投入した大きな井戸に隠し、秘密が漏れないように、運び込んだ人夫はみんな殺し、埋めた場所を隠すために、埋めたあとの地面の上を何日も馬を走らせたと言う。宝のことを聞き付けてモンゴル軍は怒濤のようにカラホトに押し寄せた。当時のカラホトは西夏の北辺を守る城塞都市で238メートル四方の城壁に囲まれていた。ここを守っていた守備隊長の黒将軍は水路を絶たれ、井戸を掘ったが水は1滴も出ず、最後には二人の妻と娘を殺しておいて、城外に討って出た。ここに西夏の最後の守備隊は全滅した。カラホトは西夏滅亡後、元の出城として拡張されたが、その元が明の攻撃をうけて城郭が破壊された1372年以来、このゴーストタウンの遺跡には六百年あまりのあいだ、砂と風が走り抜ける以外は何も起らない静止した空白の時間が流れた。
 
 車を降りると黒水城の回りには粗末な冊が巡らされていて入り口には管理人の粗末なパオが立っている。此処に踏み込むと一切の生活臭が排除された無機の異空間が眼前に拡がる。最近では1980年に中国独自の発掘が行なはれたが、この地域の発掘は全体の10パーセントほどで、まだ埋蔵されているはずの財宝を狙って、盗掘者が絶えないから監視しているのだと言う。登さんの話では、盗掘者の白骨死体が発見されることがあるが、いずれも昔の骨でなく、新しい人骨だから、昔の人は何か毒ガスとか毒蛇とか盗掘防止の仕掛けをしておいたに違い無いと言う。それにもかかわらず、いまから100年前の1908年、ロシアからモンゴルを経由して四川省を目指していた探検隊がこの内モンゴルの遺跡に立ち寄って、3000点にのぼる文物、仏教芸術品、奇妙な文字で記された文献を発掘し、それを全部ロシアの首都サンクト、ペテルブルグに送った。この探検隊を率いたのはロシアの軍人コズロフ大佐だった。登さんが口をきわめて悔しがるのはこの100年前のコズロフ大佐による発掘と根こそぎ国外に持出した行為である。登さんの悔しがる気持ちは分からないでもないが100年前と言えば中国はまだ清朝末期の時代で、この年1908年には権勢を振るった西大后が没し、ラストエンペラーの宣統帝溥儀が即位している。当時の中国は1840年のアヘン戦争以降、坂道を転がり落ちるように国威は失墜し、南京条約で香港を取られ、北京条約で英仏に北京を占領され、和平を仲介したロシアには沿海州を割譲させられ、日清戦争ではボロ負けして台湾を取られた上に多額の賠償金も取られ、ドイツには膠州湾を、ロシアには旅順、大連を、フランスには広州湾を、イギリスには威海衛、九龍を租借という名目で毟り取られても文句ひとつ言へないボロボロの状態で、とても列強の探検隊の行動に口を出せる状況ではなかったにちがいない。
 西夏滅亡とカラホト陥落の登さんの話を聞きながら私は、昔讀んだ井上靖の「敦煌」という小説を思い出していた。この物語は、元のジンギスカンの軍隊が西夏を亡ぼしたように、その200年前に西夏の李元煌の軍隊が宋の辺境守備隊、節度使の曹氏の守護する「敦煌」を攻め落として、長くこの地に拠っていた漢人の勢力を駆逐し、河西全域を手中にして西夏の版図を決定した話である。因果応報というか、歴史は繰り返すというか、そのとき敦煌でも膨大な量の教典や宝物をラクダに積んで運び出し、三界寺の千佛洞に塗り込めて隠している。その後600年間、西安を起点とした河西回廊沿いに伸びるシルクロードの主要ルートから外れていたために打ち捨てられて砂に埋もれたカラホトとは違って、敦煌はその後数百年のあいだも、シルクロードの要衝の地として、その所属と名称をめまぐるしく変へながらも栄えて来た。
 辺境故に忘れ去られたカラホトの事は知らなくても「敦煌」の名前を知らない人はいない。三蔵法師やマルコポーロも通った天下の王道シルクロードの要衝「敦煌」の変遷と千佛洞に塗り込められたまま9世紀のあいだ誰にも知られなかった経典類の話が世間の大方の関心が集まるのは仕方のないなりゆきである。宋のとき西夏に属した沙州の敦煌は、元で州名復活し、明で沙州衛となり、清の時代になって敦煌県となり、むかし漢、随の時代の西方文化東伝の門戸として栄華を誇った名称が復活した。カラホトにロシアのコズロフ大佐がやってきた1908年の1年前の1907年にオーレル、スタイン率いるイギリスの探検隊がこの敦煌にやってきた。1900年敦煌莫高窟第16窟に住み着いた字も読めない王さんという乞食道士が偶然叩いて崩れ落ちた壁の向こうの四畳半ほどの空間で、ぎっしりと詰まった教典を発見し、王さんは吃驚して役所に届けたが取り合って貰えなかった。その噂をききつけて飛んで来たスタインは王さんを言いくるめて、王さんにしては見たこともない大金、スタインにすればほんのハシタ金で一万巻の教典を買い取って運び出し、ロンドンの大英博物館に送った。その四畳半は第17窟と命名され「蔵経窟」「宝庫」などと呼ばれることになり、スタインはその功績で「Sir」の称号を受けている。その翌年今度はフランスのポール、ペリオの探検隊が、そのあと日本の大谷探検隊(1912)が来て王さんから教典を買い取っている。その後やっと気ずいた清の政府は軍隊を派遣し、王さんから教典をひとつ残らず取り上げて北京に持ち帰ったが後の祭りだった。そのあと来たアメリカのウオーナー探検隊(1924)などは何も残っていないので、乱暴にも壁画を薬品を使って剥ぎ取って持って行ったという。今その壁画はハーバード大学にある。
 ガイドの登さんの憤慨にもかかわらず、井上靖の「敦煌」の解説で河上徹太郎はこれらの探検隊が発掘した文化遺産を探検隊が故国に持ち帰った行為について「あの清朝末期の混乱期にこれだけの学術的宝庫が系統的に発掘されたことは彼等の功績であって、これを流民の盗掘と同一視する一部の見解には賛同しかねる」と言っている。簡単にはどちらにもに軍配を上げられる事ではない。登さんの肩をもてば、ギリシャのパルテノン神殿から古代ギリシャの彫刻類をごっそり持ち帰り、エジプトの王家の谷から何体ものミイラを担ぎ出して行った大英博物館は空になる。
 そこで「一部の見解」と片ずけられた登さんのために私は考えた。登さん、仕方ないじゃないですか。西安で発掘された紀元前200年の秦の始皇帝の兵馬俑はそっくり無事じゃないですか。1949年の毛沢東さんの建国のお蔭で、あなた方にも近代国家の意識が生まれ、昔みたいにイギリスもフランスもロシアも日本も勝手に手出しが出来なくなった。ところがその毛さんにそそのかされた紅衛兵という跳ねかえり者が、元軍が西夏を完膚なきまでに破壊し尽くし首都の銀川には昔の西夏の遺跡が何一つ残っていないように、中国全土の文化遺産を片端から破壊して廻った時期がある。それなのに兵馬俑が無事だったのは何故だか分かりますか。それはね、兵馬俑の発見が文革末期の1974年だったからですよ。清朝末期だったら、間違い無くロンドンの大英博物館行きだったでしょうね。いくら嘆いてもカラホトの「勝三世明王曼陀羅図」などの西夏の文物は、ロシアのエルミタージュからは決して返っては来ない。沿海州や外モンゴルが中国領に返って来ないのと同じように、それはもう済んでしまった歴史上の出来事だからです。歴史と言うものは何時もうら悲しい時の流れのようです。
 翌日私達はエチナを立って再びゴビの沙漠800キロを横断し銀川に向けて帰路についた。時計は8時を廻っていた。出発するバスの中で誰かが「今朝は起床ラッパが聞こえなかったね」と言った。「そう言えば今日は土曜日だよ」土曜日は人民解放軍も寝坊してもよいのだと勝手に納得した声だった。「此処は一度来れば良い所だね」と誰かが思わず本音を漏らしたが、合槌は聞こえてこなかった。少し風が出て来たようで、紙屑が路を転がって行くのを見るとアメリカ西部劇のゴーストタウンの風景だ。この地域では毎年20〜30メーターの速度で砂漠化が進んでいるという。この沙漠地帯に起る砂嵐で舞い上った黄砂はそのまま気流に乗って日本海を越え春になると日本列島に降って来る。日本の春の空が黄塵で黄色く見え、砂で口の中が何となくジャリジャリする度に、今度からは内モンゴルの黒水城(カラホト)や額済納旗(エチナ)、それと中国人ガイドを含めた旅の仲間達を思い出すだろうなと私は思った。
            

          12月11日06

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